先頭ページへ

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイ11:28)
室園教会 牧師 活動 女性 青年 中高生 子ども

説教

崔大凡牧師  2020年4月からは室園教会の礼拝で語られた、崔大凡牧師の説教の要旨です。
 どうぞ礼拝で、本物の説教をお聴きください。


20712就任式(2).jpg
2020年7月12日(日) 安井宣生先生の司式により, 牧師就任式が行われました。 崔大凡牧師は室園教会牧師として, 共に更に歩んで行きましょうと結ばれました。 期待のこもった暖かい拍手で会を開きました。
2020712.jpg




説教(2024年)

多くの命のために御子は死ぬ

2024年3月17日(日)四旬節第5主日礼拝説教要旨 
 エレミヤ31:31〜34  詩119:9〜16  ヘブライ5:5〜9  ヨハネ12:20〜33
ヨハネによる福音書12章:20〜33節
さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。 フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。
はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」 そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。 今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」 イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。

四旬節(受難節)第5主日を迎えました。キリスト教会で、主日を除いて40日間とされている四旬節だから、実際の日数は四十数日(今年の場合46日)の四旬節の内、今日が四旬節の33日目(私の計算によれば)。今年の四旬節もすっかり後半です。

こうして私たちが数える日にちは過ぎていきます。私たちが定められた期間とその意味を真面目に受け止めても、受け止めなくても過ぎていきますが、私たちの礼拝と直結する問題なので改めて四旬節の意味。知っているつもり、繰り返し言われたつもりの四旬節の意味とは…。

「イエス・キリストの受難を、その苦しみを覚えること」。

「その受難、苦しみは誰のためのものだったのか」、「私たちのため」、「私たちの(救いの)命のため」

これを噛みしめ、これを覚え、これを心に刻むことが四旬節の意味だと思います。(これはキリスト教信仰において四旬節のみならずいつも信仰の核心的な部分ではありますが、四旬節においてはなおさら)

ということは、私たちの救いはキリストのみ(私たちのために十字架と死を受け入れたキリストのみ)です。受難だから、受難の後に復活があるのだから、そこまで忍耐。「忍耐しよう」、「自分で自分を律しよう」という、ある意味道徳化された勧めよりも先に、私たちはどれほど努力して、どれほど忍耐しても私たちの力と努力ではとうてい至ることができない赦しと命のために、キリストはこの世で十字架の苦しみを担われたのだと、これを受け入れて信じるのみです。

キリストが私たちの罪に代って十字架の苦しみと呪いを担われたのだから良かったね…という安易な、そんな考えではなく、キリストは私たちの代わりに、誰も罪と死の呪いを担えないそれを受けて、担われた…。これのみに神の愛、これのみに私たちが神に繋がる道がある…それに立ち帰るのが四旬節の信仰的な意味でしょう。

この信仰的な意味に、私たちの人間的な知識と知恵、役に立ちません。(十字架の意味を理解する知識と知恵なら別ですが)

私たちの人間的な品性、無意味です。(キリストに従おうとする品性なら別ですが)

むしろ私たちは自分がもっている知恵や力に頼ろうとすればするほど、私たちは、キリストが私たちのために十字架で死なれたという福音からは遠ざかることでしょう。

実にイエス・キリストの十字架は何なのかと明確に打ち出している聖書の言葉のごとく、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力」。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが…」(コリント一1:18〜)そこに救いがあるのではなく、私たちのために十字架にかかられたイエス・キリストのみに救いはある。これは十字架を教会のシンボルとして掲げるキリスト教会の信仰であり、キリストを信じる者が繰り返し立ち返るべきところ、あり方です。

そのため(立ち返る)には?十字架を私たちの心に刻むためには?

私たちの思いを捨てなければならない。たとえ自分の考えと思いがどれほど正しい、譲れないものと 思っても、神の前では捨てなければならない。繰り返しになりますが、信じる人というのは、自分の力で救いを勝ち取るのではないのだから。キリストを信じることのみに救いの命を見つめる者だから。それ以外のものは捨てること。ある意味、これこそが信仰です。(誤解のないように、御幣の内容に「神の前で」捨てる、降ろすことと言っておきましょう)。

皆さん、礼拝の恵みが与えられるために、それが自分に入って来るために、自分の思いを降ろしましょう。一旦捨てましょう。これは私の話しを聞いて受け入れてくださいとのお願いではありません。皆さんの礼拝が神様への礼拝になるための勧めです。キリスト教信仰というものは、自分が何とかして生きる知恵と力を絞り出すことではなく、自分の外から与えられる恵みを受けることです。つまりキリストから与えられる恵みを受け入れることです。受け入れるためには、与えられるものが入って来る余地がないといけません。悔い改めることは、罪を告白すること、生きる方向をもう一度神に向け直すことですが、つまりそれは自分の中を神の前でからっぽにすることとも言えるのです。

「キリストは私たちのために命を捨てられた」。そのことは信じて受け入れようとしながら、自分はキリストの前に自分を捨てきれずいるなら、それは何だかつじつまが合わないような話ではないでしょうか。

というのも、今日の福音書にまた有名な言葉が記されています。「一粒の麦は一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」結構有名な言葉であり、印象的な言葉です。これは間違いなく、イエスの死とその意味に対する隠喩です。イエスの死によって、多くの命(つまりイエスを信じて従う人々の命)が神の与える救いの命へと繋がる…そのことを「一粒の麦の種から、多くの実を結ぶ」という表現をもって示しています。ですが、実はそのことだけが語られているのではありません。続きにこうも語られています。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」

この言葉に関しては、こう翻訳されていることへの若干の思い巡らしと理解が必要だと思います。「自分を愛する」ことは大事です。この部分は翻訳されている言葉を表面的にだけ理解したら躓きます。(だからといって上手く説明する自身もないですが)どちらかと言えば良くない意味の自己愛を指しているのではないでしょうか。今日、先からの話題に繋げて言うなら、まさに神の前で自分を捨てきれずに、委ねきれずにいること。種が一度地に落ちなければ実がならないのに、落ちることを恐れて、惜しんで、そのままでいること。それが、この部分で「自分の命を愛するあまり、それを失う」ことではないかと思います。逆に、ここで「自分を憎む」と翻訳していることは、種を一度落とすことができること、イエスに従って委ね、自分を一度捨てることが出来ることを指すのだと、私は思います。

種が地に落ちること。それは私たちの人間的な、生物学的には「死ぬ」ことではないですが、ここで「死ぬ」という隠喩になっています。(これくらいの文学的な隠喩は大丈夫でしょう)だからと言って、これはちょっと間違った表現の隠喩でもありません。なぜなら、これはまさにイエスの死をたとえているからです。

一粒の麦が地に落ちる=イエスが死ぬ。地に落ちた種が殻を破り、変化する。それは命の変化です。実を結ぶに至る変化です。

このように、キリストの死は復活に変わります。これも命の変化です。この命に変化するために、キ リストは死ななければならなかった。これが十字架であり、これが神のみ旨。イエスはこの神のみ旨に従いました。その死を示しているのが地に落ちていく「一粒の麦の種」です。これは自然界において種の領域にあった命が次の命の姿に変わることにたとえた、肉の死から永遠の命へと変わる、命の始まりの宣言なのです。

今日の第二の日課のヘブライ人への手紙も、非常にユダヤ人的な言い回しで難しく聞こえますが、示していることは同じです。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」イエスの十字架の死が、その死に進まれたイエスの願いが聞き入れられたとは、御子イエスの死という贖いによって、人々の罪と死の鎖は取り除かれたことです。そのためにイエスは神のみ旨に従順であった。「そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり」ましたことです。

主イエスが永遠の救いの源である人とは、主イエスに従う人です。主イエスの道に辿って、それに従って、その命の変化に共に与る人です。主イエスも今日の福音書で直接告げられています。「わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

イエスに従うことは?イエスと共に死ぬことです。必要があれば肉の命を惜しまないことです。ここまでしたのはイエスの弟子・使徒たちでありますが、私たちもこのイエスに従って生きるように招かれた者です。生きるための招きです。いつか自然的に、医学的に死ぬのは皆そうですが、神の前でイエスと共に死ぬ…。私たちが洗礼を受ける時に、罪人である自分が死んで、生きるのは私たちの内におられるキリストと共に生きることだと良く言われるように、キリストの十字架を前にしてそれに従う恵み。それによって復活の命を、永遠の命を望める恵みが皆さんに与えられますように。それが皆さんを生かし、この不思議な神の業が与えるいやしに与る皆さんとなることを祈ります。これこそ古くから預言されていたことの実現です。

(今日の旧約日課)「来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と…。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」

神は、神が選んだ民に与えられた戒めに不従順であった人々に対して、もはや人間の文字から読み取って従う律法ではなく、胸の中に、心の中に刻まれる新しい律法、新しい道を与えるとエレミヤを通して預言しました。

胸の中に授けられる新しい律法とは、心の中に記される新しい律法とは、何でしょう。この預言が実現したのは御子イエスが私たちのために死なれた十字架です。神はこの世の人にそれを与えられ、信じる人の胸に刻むように導かれたのです。これが私たちの外側から、つまり神から与えられる愛であり、恵み、命に至る唯一の道。私たちに与えられたのは、私たちを生かすために与えられたイエスの十字架、死。これに基づいてイエスが「わたしの体、わたしの血」とされたパンとぶどう酒。そしてイエスが地上から天に上げられる代わりに与えられた聖霊です。それを与えられ、今日も聖餐にあずかり、聖霊の助けを求める皆さん、イエスに従うことを恐れず、委ねましょう。惜しまず、差し出しましょう。それ は、自分を委ねきれずに愛することによって返って失う道ではなく、与えることによって与えられる命の道。そこにもう一度立ち返る今日です。

自分の十字架を背負って従いなさい

2024年2月25日(日)主の洗礼・顕現後第1主日礼拝説教要旨 
創世記17:1〜7,15〜16 詩22:24〜32 ローマ4:13〜25 マルコ8:31〜38
マルコによる福音書8章:31〜38節
それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」

 イエス・キリストの受難を覚える四旬節、その2週目を迎えた今日の福音書の中でイエスは言われます。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」。イエスは弟子たちにこのように「教え始められた」、「しかも、そのことをはっきりとお話しになった」との記録です。

 これを聞いたペトロが、イエスをわきへ連れて行って、いさめ始めました。おそらく「そんなことがあってはなりません」だったでしょうか。それでイエスはペトロに言われます。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 強烈な言葉がペトロに言い渡されました。「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」という内容は何となく諭しの言葉として受け止められる範囲だとしても、「サタン」とまで呼ぶとは…

 イエスご自身に人生をかけて、自分の職である「網を捨てて」従ったペトロ。弟子たちの中でも頭弟子、もっとも積極的で熱心な弟子と言われるペトロに対して悪魔の名で呼びつけるとは…もちろんそれがペトロの中に入り込んだ悪魔、その唆しに対する言い方だとしても、人間的に考えて厳しい言葉のように聞こえます。

 しかもマルコによる福音書の展開は早く、急なもので、この個所のすぐ前の段落でペトロはイエスに対して「あなたはメシアです」と、あの有名な信仰告白をした途端、ペトロはこう言われたのです。

 私はこの部分を黙想してみて、このペトロの姿勢と行為から、信仰生活をしているつもりの「私」の姿、または「私たち」の姿を見ているような気がします。人間的な考えによれば、ペトロの行動はそこまで理解できないものではないと思います。だって自分が「メシア、救い主」だと信じて従う方が、「これからわたしは…排斥されて殺される」ことを言い始めたのです。おそらくこの時点で「三日の後に復活する」ことは耳に入らないと思います。復活というものがどんなことなのか思い付かないこともあると思いますが、自分の主であり師である方がこれから「死ぬ」ということを宣言していることがその時のペトロにとってショックすぎることだと思うからです。

 それを聞いたペトロがイエスをわきへ連れて行っていさめ始める…。私にとって「いさめる」という言葉は意味がぴんと来ない言葉なので意味を確認してみると「主に目上の人に対して、その過ちや悪い点を指摘し、改めるように忠告する」という意味でした。自分が従っている主に対する指摘と忠告は場合によっては生意気なものでもありますが、イエスが「排斥される」、「死ぬ」ということを言い始めた場面でペトロがこのように反応したことは、人間的には「イエスを思っている」、「忠実である」ともとれるのではないかと思います。ある意味、この時点でもっともイエスに近いのは自分、ペトロはイエスの手と足のような存在となっているつもりのようにも見られます。

 しかしそれはペトロの思いであってイエスの思いではなかったこと、この福音書のメッセージです。ペトロがどれだけイエスを思っていたのか、どれだけ熱心だったのか、しかもあの信仰告白をしたペトロ…という同情のメッセージは一切なく、このペトロの思いは人間の思いであって、イエスの思いではなかったことをマルコ福音書ははっきりと記しているのです。

 私たちはこの時点のペトロのように、「これから自分の主が死ぬ」というショックなことを言われて戸惑う私たちではなく、福音書の結論的なメッセージを知っている私たちであるため、このイエスの言葉の意味が分からないことにはならないはずです。

 主イエスは、神の子として、罪によって神と断絶され、死ぬべき人間のためにこの世に人として来られた方です。そしてその救いをもたらす方法として十字架に付けられて死ぬ、神ご自身が人の罪の呪いと罰を代わりに受けて「命」の代価をつぐない、贖う方法をとられた…その方法をとられたことが私たちにはすでに分かるからです。

まさに主イエスはそのためにこの世に来られたのです。そこに私たちの赦しが、人類への神の赦しがあります。そこに神が与える「命」がある、これがキリスト教会の信仰でありメッセージです。しかしそのことを聞き始めたペトロはそのときの自分の思いでそれを否定します。人間的に理解できる思いではありますが、もしも(そんなことはあり得ないですが)このペトロのいさめと説得によってイエスが十字架を背負わず、十字架で死なず、別の道に進まれたとしたら、私たちの教会の救いのシンボルである十字架はこの世にないはずです。十字架による赦しも、救いも、命もないはずです。

もしも、初期の弟子たち、当時の人々の思い通り、イエスが何か政治的な革命や運動を起こした人だったならば?その革命がたとえ成功して、ローマ帝国から独立して自分たちの民族の主権を取り戻したとしたら、それでイエスに弟子たちは王の側近なり、官僚なりなったとすれば?あり得ない仮定でありますが、仮にイエスの選択がそうであったとするなら、イスラエル民族の歴史と世界の歴史が変わった、それで終わりです。聖書、福音書のストーリーもなく、十字架もなく、救い主も、救いもない。キリスト教会もその信仰も、信仰による希望もなかったことです。

ここでのペトロは「イエスはメシア」と本気で思っていたかも知れませんが、少なくともこの時点ではその「メシア」(救い主)を自分たちのためのメシア、イスラエルのためのメシア、現世的な意味でのメシアと思っていたのが見とれます。もちろんこういうペトロはイエスの十字架の苦しみと死を見届け、躓きつつも、その後の復活を体験して信じ、真の救いと命に従い、伝えていく人へと変わっていくのが福音書のストーリーでもありますが、この時点のペトロはこうであったというのが福音書の記録です。そしてこの記録さえも、その後のペトロの変化も私たちのためのものです。

さて皆さん、このストーリーを知り、このストーリーをまとめて読むことができ、この救いのストーリーが知らされている私たちとして、私たちが望むことは何でしょう。私たちは何に向かって礼拝し、何を祈ることでしょう。この世の富と成功?自分と自分の身内の安楽?この世の問題の解決?自己実現?利益?これら、とても良いもの、欲しがるものだけど手に入れ難いもの…これらのどんな良きものも、私たちの命より先行してはいけないことが十字架による信仰、キリストの血によって贖われたキリスト教会の信仰なのではないでしょうか。欲しがっては駄目、望んでは駄目、助けを求めては駄目という意味ではなく、ただこれらを思うことがイエスの十字架の贖いに取って代わり、これらが私たちの信仰の目的すべてになっては、主イエスが十字架で血を流し、御自身を与えられた意味はなくなります。

主イエスははっきりと私たちに次の言葉を与えられています。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」命に代れるものはないです。富を得ても、成功を手にしても、この世の安楽と幸せを得たとしても、それが罪と死に取って代わることはないです。憎い誰かに勝ったからと言って、人々の間で一時優るように生きたからといって、自分の利己的な思いが叶ったからといって、それらが永遠に続くことはないです。というか、私たちはそれらを強く望めば望むほど、いつかそれを望んだ報い受ける可能性が高いです。私たちに必要で、良い求めのように見えて、それらが誘惑である可能性もあります。命の道から外れるような働きかけになる可能性もあります。先週の日課でもあった、イエスが荒野で悪魔から誘惑を受けられたがそれを退けたことが意味を私たちはもっと深く思い巡らさなければならないと思います。 イエスがこの世の誘惑に惑わされることなく、それを退けた結果、十字架の道があるのです。その十字架の苦しみの道があるゆえに、私たちには赦しと救い、神による永遠の命が与えられます。

私たちの誰もが、この世のどんな偉人も、死からの救いを造り出すことはできません。神によってのみ与えられるものです。神によって遣わされたイエスによってのみ与えられるもので、イエスはそのために来られてすべてを捨てて十字架を背負われたのに、その十字架に向けて、この世のもの、いつかなくなるもの、さらに私たちの心と命を惑わし、奪うものを求めるとはどういうことか…。「神のことを思わず、人間のことを思っている」ことは、あのときのペトロだけでなく、私たちの信仰の歩みにも当てはまる言葉ではないか…。

キリスト教会とその信仰に招かれている皆さん、十字架はあなたを清めます。イエスの十字架を思い、それに従おうとするとき、あなたはイエスの十字架によって清められます。私たちは弱く、完全に罪から離れられない存在でもありますが、イエスの十字架に従おうとするとき、私たちは邪悪な思いから、虚しい試みと影響から離れられて命の道に向かいます。繰り返し躓いても、また罪を犯しても、しばらく忘れてしまっても、再びイエスの十字架を思い、従い直すとき、私たちは清められます。それがイエスの十字架が現にこの世の歩みを続ける私たちに与えるものです。私たちは何よりも私たちの救いの命のために主イエスの十字架を見るのです。私たちの魂がまっすぐにその命に向かう時、私たちは命を与えられる者として生きるゆえに、私たちがこの世で自分の十字架をも背負える力が、苦しみ悲しみを乗り越える力が与えられることと信じます。

私たちは自分一人で自分の十字架と苦しみを担っているのではなく、私たちのために先に十字架を担われたイエスに従って進むのです。命に向かって、私たちは前に進まなければなりません。それがイエスの十字架を掲げて生きる信仰の歩みです。祈ります。


神様。誰が神様の選ばれた者を訴えましょう。誰が私たちを罪に定めることができましょう。主イエスが私たちのために十字架にかかり、今も神の右におられ、私たちのために執り成してくださる以上、誰がキリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。この世のどんなものをも、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から私たちを引き離すことはできないと信じる信仰に立ち、私たちが歩み進む道、神様が与える命と義しさに向かう道となるように、私たちを改め、強めてください。私たちが神様を思い、神様が与える救いの命を仰いで生きることができるようにお守りください。十字架の主イエス・キリストのみ名によって祈ります。


聖霊は告げる

2024年1月7日(日)主の洗礼・顕現後第1主日礼拝説教要旨 
 創世記1章:1〜5節(旧1P), 使徒言行録19章:1〜7節(新251P)、マルコによる福音書1章:4〜11節(新61P)
マルコによる福音書1章:4〜11節
洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
◆イエス、洗礼を受ける/そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 まず2024年の初日から発生した強い地震、それに続く津波、火災、事故によって家族と大切な人を失った方々に哀悼の意を表すと共に、今、この寒い季節に避難生活をされている方々のために祈る気持ちをもって、私たちは礼拝したいと思います。
 こうして私たちは、再びこの世を生きる中で悲しみと困難が伴うことをまた知りました。私たちは知っているはずです。今回の災難で直接な被害を受けていない私たちであったとしても、今回私たちの家族は無事で命と生活が守られている状態であったとしても、私たちもこの世の災難と悲しみからまったく決して自由な者ではないことを。あの地震や津波、または事故が私たちの生きる場を襲ったら私たちも何かを失い、苦しまざるを得ない私たちであることを。だから私たちは災難に遭った人々を憐れむ心をもち、出来るならこれから災難と悲しみの中にいる人々を助けたいと思うことです。

  この世を生きる私たちに苦難とは何でしょう。悲しみとは何でしょう。それは私たちがこの世を生きる限り「あるもの」です。ただ「あるもの」です。たとえ私たちの行いが正しいから、何か良いことをしたから、それから逃れることができるものではないです。私たちが神様を信じるからそれらに遭わないものでもないです。もしもこう考える私たちがいるなら、それはとても傲慢な思いであり、かなり間違った信仰だと思います。
 「神は守ってくださる」、「恐れるな」…聖書が、聖書を読む人々にもっとも伝えているメッセージです。ただし「神は私たちを守る方」だから、「恐れない」で生きることを命じているからと言って、私たちにこの世にある苦難や試練、悲しみ、死がないことだと信じるものなら、その信仰は必ず躓くでしょう。なぜなら苦難も、試練も、悲しみも、死も、ただあるものだからです。
これらについて何か人間的な理由を付けて評価することは虚しいことです。というか、人となられたキリストも死なれました。死ぬために人となられました。敢えて十字架の苦しみを担うためにこの世に来られたのです。その苦しみと死を受けて乗り越え、それに勝利するために人となられたのです。死への勝利は死なないことではなく、死の後に復活が、死を超える「命」があることです。キリスト者はそれを信じる者です。
だからパウロもローマの信徒への手紙(8章)でこう言っています。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。患難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。…」「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストによって示された愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
 災難に遭ったから神に守られなかったことでしょうか?何かを失ったから神に祝福されなかったことでしょうか?試練と躓きと苦しみ、悲しみがあるから、神は共にいてくれなかったことでしょうか?それなら、キリストを信じて、キリストの愛にすべてを委ねて殉教するまでキリストに従った人たちは勘違いしたことでしょうか?ないものをあるものと信じたことでしょうか?そもそも十字架で死んだキリストはキリストじゃないことでしょうか?
 そうではない。苦しみと悲しみがあってもそれらによって脅かされない、損なわれないもの。死んでも無くならないものを見つめ、信じたのです。「無」ではなく「有」です。
今日の第一の御言葉、聖書の最初のページの言葉です。「光あれ」。「こうして光があった」。「神はそれを良しとされた」。この霊的な言葉は、これを表面的に目撃して記述していない限り、目撃の記録ではなく、信仰告白です。神の創造の前に誰かがそれを見て語っているのではなく、この世の中で「神の創造」を感じて信じた記述です。時系列的な記録ではなく、神の創造と働き、その業が「ある」ことを体験して確信した「真実」です。混沌の中でも、闇の中でも、神はそこにいて「光」を与えられる方であることを感じ、信じ、それを見つめ、それがあるこの世界、神が創造し、神が共にいる世界であることの告白です。
 混沌も、闇も永遠ではない。全てではない。そこに「光」は来る。光がある限り、混沌と闇はもはや混沌と闇でなくなります。混沌のような困難、悲しみ…絶対的な闇のような死…それに打ち勝つ神の業、「光」があることを信じる…。聖書が語る歴史、救いへの歴史はまさにこの記述に集約されます。混沌と闇が最初からなかったものなのではない。この世にあって、この世を覆っていたものだけれど、そこに「光」が与えられた。国を失う中でも、命を失う中でも、現世的には全てが終わったかのような時でも、初めにこの世界を造られた神はおられ、神が良しとされた世界と命が本来の姿であることを信じた歴史の続きに、キリストが来られたのです。神の存在とその働きを信じる人に、混沌と闇は結末なのではなく、神の業が現われる前の状態なのです。
 だから「神は私たちを守られる方」、「私たちと共にいてくださる方」、「だから恐れない」。これらの真実に私たちは「アーメン」と答えられるのです。災難を前にしても、苦しみと悲しみの只中でも、死を見つめながらも、命の創造主、神は「救いの光」を与えられる。キリストを与えてくださる。本来「良しとされた」命を再び与えてくださる。これを信じて、キリストの現われと復活を見るに至った!これが、聖書が伝える救いの歴史であります。
 ユージン・ピーターソンというアメリカの牧師のとても印象的な言葉があります。「大海のすべての水も小さい船一つを沈没させることはできない。その船の中に水が入るまでは。同じように、私たちがこの世で受けるどんなことも私たちを動揺させることはできない。それが私たちの中に浸透しない限り。」
 本当の災害とは目に見える災害だけではなく、私たちの心に、魂に、命に入り込む混沌、恐れ、絶望…これらのものが私たちの中に入るとき、私たちが死と闇に支配されることです。しかし神が共におられ、キリストとの絆があることを信じる者に、死も死ではなく、闇も闇ではない。「神は私たちを守る方」、「命を与える方」を本当に信じる者とさせてくださるのです。私たちの命と魂は守られる、光に当てられるのです。イエス・キリストはそのために来られ、神のお告げの通り、人となって私たちに与えられました。

  今日は、イエスがあのときヨルダン川で洗礼を受けられたことを記念する主日でした。マタイやルカのようにイエスが人として生まれた記録を語らないマルコにとって、イエスがヨハネの所に来て洗礼を受けた場面がイエスの現われの始まりの記録です。この場面、イエスがヨハネに従う者に見える場面ですが、福音書が伝えるイエスの洗礼は、こうしてイエスがこの世界に来られたこと。むしろヨハネが伝えた悔い改めの教えと洗礼を御自身もそれを受けることによって正しいものとしてくださったこと、神に従う者の模範を示されたこと。こうしてヨハネが言う通り、彼より「優れた方が彼の後に来られ」て、本当にこの世界に「現れた」ことを伝えています。
 こうしてこの世界へ、私たちのために来られたイエスが水から上がると神の霊が降って、神の言葉が臨みました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。イエスが神の子であると伝えられるのはマルコによる福音書の中で3回。今日のイエスの洗礼の場面での天からの声。イエスの姿が山の中で変わって真っ白に輝き、モーセとエリヤが見えたあのときにもう一回。そして最後は十字架で死なれる場面で百人隊長の言葉を通して「本当に、この人は神の子だった」。この3回、イエスを神の子であることを表しています。つまりマルコはイエスの現われから死に至るまでの生涯を「神に愛される子」として伝え、その方が十字架で死んで復活し、弟子たちを派遣し、この世界に福音を広められた方としてイエスを伝えています。
 ヨハネの洗礼は悔い改めの洗礼、この世に来られる救い主を迎えるための準備。そして「その後に来られる方は聖霊によって洗礼を授ける」ことは、まさにイエスを信じる者がイエスによって神から与えられるお告げと力を受けることです。どんなときも「神に愛される子」として「神に良しとされた」人として信じて生きること、これが神の霊によって洗礼を受けた人の姿です。マルコによる福音書はその最後の章で、信じて洗礼を受ける者は救われ、次のようなしるしが伴うと告げます。「イエスの名によって悪霊を追い出し」、「新しい言葉を語る」、「手で蛇をつかみ」、「毒を飲んでも決して害を受けず」、「病人に手を置けば治る」。
 私は思います。これは「しるし」でありながら、イエスを信じて従う者へのイエスの約束です。この世のどんな害も、福音を信じる者には害ではない。むしろ悪と闇に勝ち、新しいことを伝え、人を癒す。それが聖霊の洗礼を受けた、信じる人、神に愛され、救われた人の生きる姿であります。

 神様、私たちは再びこの世の災害と困難、それによる苦しみと悲しみを知りました。しかしその中に共にある神様の憐みと御業、世の小さき一人一人と共におられるイエス・キリストを信じます。それゆえに、闇の中でも光を見つめ、世の困難の中でも神様を仰ぎ見る信仰を私たちに与えてください。それによって神様に愛され、良しとされた人として、この世の害ではなく神の霊によって生きる者へと変えてください。そして悲しみ、病む人々を癒し、慰め、この世に神の福音を言い伝える者とさせてください。この世に来てくださり、神の霊による洗礼をもたらした主イエス・キリストのみ名によって祈ります。



 これより過去の説教は、説教(アーカイブ)へ。

 毎日、聖書を読んで祈るための手引きは『聖書日課』。室園教会で冊子を注文することもできます。
 礼拝は『教会暦』にしたがって組み立てられています。毎週が違う主日です。教会の礼拝で説教を聞きましょう。


礼拝のページへ 聖書の学びのページへ 牧師宛にメール牧師にメール

日本聖書協会 聖書日課 eBible Japan(日本語聖書検索)
日本キリスト教書販売 AVACO キリスト教視聴覚センター 英語で聖書を読もう!
ゴスペルジャパン PBA 太平洋放送協会 BBN 聖書放送
日本国際ギデオン協会 キリスト教メンタルケア・センター(CMCC) いのちのことば社