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疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイ11:28)
室園教会 牧師 活動 女性 青年 中高生 子ども

説教

崔大凡牧師  2020年4月からは室園教会の礼拝で語られた、崔大凡牧師の説教の要旨です。
 どうぞ礼拝で、本物の説教をお聴きください。


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7月12日(日) 安井宣生先生の司式により, 牧師就任式が行われました。 崔大凡牧師は室園教会牧師として, 共に更に歩んで行きましょうと結ばれました。 期待のこもった暖かい拍手で会を開きました。
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説教(2020年)

忍耐して待ち望むのです

2020年7月19日(日)聖霊降臨後第7主日礼拝説教要旨
イザヤ44:6〜8, ローマ8:12〜25, マタイ13:24〜30,36〜43
● 草を抜いた体験
今日、私たちに与えられたイエスのたとえは、麦と毒麦。麦の間に生えている毒麦を性急に抜いてしまうと麦まで一緒に抜くかもしれない。このたとえに、ぴったり当てはまるまではないけど、似た体験をしたことがあります。数週間前のことです。 室園教会に住み始めて、それまでの生活空間にはなかった庭が目の前にあり、以前も話しましたが植物を楽しめる生活になりました。もちろん手入れも必要です。私にとって休みとなっている月曜日に、仕事に出かける妻を見送って草取りをしました。頑張ってしました。言うならその後の数日間、筋肉痛になるくらい、何時間も頑張りました。一人で頑張ったときは、自分は仕事をして汗を流したのだという満足感と達成感に満ちていました。しかし妻が帰ってきて、庭を見回ったとき唖然となりました。とても気まずい空気が感知されました。 私は妻が帰って来る数時間前の自分の行いを思い起こさなければなりませんでした。草取りをしながら、これは雑草だろうか育てている花だろうか…あいまいなものがいくつかありました。見た目上、花もつぼみもないし、抜いてしまえ。僕は庭をきれいにするのだという脳の命令に従いました。隣の敷地との隔てを巻き上げているように伸びてきているこれ何?花はこんな伸び方しない。雑草だと思い、結構抜きました。そうやって抜かれたものの中には、妻がわざわざ植えたり、種を蒔いたりした、マリーゴールド、朝顔が入っていました。しかも早く育ってねと毎日声をかけるくらい愛情を注いでいたこと、抜いた後に聞きました。その夜の家庭の雰囲気、想像に任せます。 朝顔とか…小学校の時に学んだ気がするけど、何十年も庭の花とは縁がない生活をしてきて、壁を巻きながら伸びるのが朝顔だったとか想像もしませんでした。僕は壁のために抜きました。教会の入り口の坂の上の庭からは伸びすぎて壁にぶら下がっているように見える花がありましたが、それも伸びすぎだろうと思い、壁のために切りました。後日、あれも教会の方が植えたもので、上からぶら下って伸びるのを楽しむ植物であることが分かりました。 今は幸いにも、私の手から抜かれなかった朝顔なのか、それとも妻の悲しみを一晩体験した私が、翌日抜かれ落ちていた茎をまた土に植えて生還したのかは分かりませんが、ある程度伸びてきて、中には花を咲き始めている朝顔があります。私たちの教会の朝顔は、一瞬、ちょっとだけ切ない事情がある朝顔なのです。

● 抜かない方が良い時がある
今日のイエスのたとえは、毒麦を抜くべきなのか、置いておくべきなのかの話しです。私はただの無知で、育てていた花を抜いたところでしたが、実は抜きながら少し思ったことがあります。育てている花の近くには、なぜか比較的にそれに似ている草が伸びてきていること。たまたまなのか、そう見えるだけなのか、それともそれが植物の生態なのか…。そして簡単に気持ちよく抜かれるものもあれば、根がどこまで続いているのか、なかなか抜かれず、抜こうとしても切られてしまい根は残るものがある。もしそれを本気で全部抜き取ろうとするなら土を耕す勢いでする必要があり、そうなると近くにある他のものも抜 かれるだろうということです。 私は当時のパレスチナ地域の麦と毒麦がどんな植物なのか知る術もありませんが、聖書の参考書的な本によれば、根っこの部分から絡んでいる麦と毒麦なら、毒麦だけを引き抜くのはかなり難しいゆえに、間に毒麦があっても抜かずに収穫の時まで待っていたのは、当時の農民たちの実際の知恵の一つだそうです。そうなんですね。抜かないで待つということ、時と場合によってはそれが「知恵」であり、大切なものを守る選択でもあります。私たちは知恵と言えば何かの措置をとる、何かをするという風に思いがちかも知れません。でも場合によってはそのまま置いておく、しばらく待つ方が賢明な判断という場合もあり、そこでは「どうしよう」という心の騒ぎを治め、我慢して待つという忍耐も必要な場合があります。 今日のイエスのたとえとその説明を読めば、これが明らかに終末に対する話であることが分かります。いずれ週末の裁き、善と悪の選別があるがゆえに、しかもそれは神様の裁きであるゆえに、私たちは悪と見なされるものを性急に、無理に取り除かなくても良いというメッセージです。性急に、無理に取り除いてしまうと、そうすることによって一緒に抜かれたり、傷ついたりする良いものがあるというメッセージです。さらに、そもそも善か悪かを判断するのは神様なので、その裁きは神様に委ねるべきというメッセージも含まれているのではないでしょうか。私たちは善と悪、良いものと悪いものが複雑に絡んでいる世界と生活の中で生きています。そしていくら自分の基準で考えても、実は自分の中に善いものばかりある訳でもないこと、認めざるを得ないことと思います。自分が裁きの基準になって誰か、何かを取り除くような裁きを行うとき、私たちは実は悪くない誰かまで傷つけてしまう場合もあれば、大切なものを失う、もしくは自分自身も裁かなければならない矛盾をも十分起こり得る私たち、注意すべき私たちの姿です。

● 神の言葉に生きるか、悪魔の仕業に生きるか
せっかく与えられた主イエスのたとえ、もう少し掘り下げ、深めてみたいと思います。他のたとえもそうであるように、主イエスのたとえは当時それを聞く人々が十分理解できるくらい、身近にある姿、みんなが知っている事柄を提示しています。今回も、毒麦を神経質に引き抜かない方が良いというのも、当時の人々が知っていた知恵であるから、イエスは提示していると思われます。そのように、神様に対して、天の国に対して信仰をもつことが、このたとえによる教えの狙いです。そうなるためには、イエスのたとえをちょっと分かりやすくなった話として表面的に聞くだけでなく、私たちのあらゆる姿に置き換える必要があるかも知れません。実はそう吟味してこそ、主イエスのたとえと教えの真価、宝のような深い導きが現れます。 今日のたとえの設定は、敵である誰かが麦畑の間にこっそりと毒麦を蒔いて行ったことです。厄介です。単純に考えて、毒麦を見つけて早く取り除きたいところです。しかしよくよく考えると、すでに蒔かれて芽を出している毒麦、根っこから絡んでいる毒麦です。それを神経質に、性急に取り除くと、一部の良い麦まで一緒に抜かれる、もしくはだいぶ抜かれてしまって、収穫に対して損を負わなければなりません。実はそうやって損することこそが、敵を喜ばすことになります。敵の本当の狙いは何か、自分の毒麦を他の人の畑で育てることか?侵入させることか?もちろんそれが一時的な(表面的な)狙いではあるとは言え、本当の狙いはもっと深い部分にあります。毒麦は道具であって、狙いは麦畑を荒らすこと、駄目にすること、さらにその畑の持ち主に損を負わせることです。 今日のたとえの解説の部分で、「畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子ら、毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わり」と書いてあります。悪魔がこの世界に、私たちの生活、私たちの間に悪(もしくは悪人)を蒔いた本当の狙いは、私たちなのであります。本来の私たちを損なわせること、傷つけること、混乱させ、さらに傷を大きくすることです。神の子らとして生きて、実るはずの人を傷つけ、抜かせることです。信仰を壊し、絆を傷つけることです。そこで悪を取り除く名目で戸惑い、焦って、大切な誰かを傷つけ、大切な何かを失うことになると、誰が喜び、誰が悲しむのか…。悪の種を与えた悪魔が喜び、本当は悪人ではないのに、悪と絡まれている誰かが悲しむのです。それは畑という世界にとっても損、畑の主人、神様にとっても悲しいことでしょう。「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つまでしておきなさい。」神様のみ心をたとえている言葉です。 主イエスは、当時の人々がすでに知っている麦の栽培の術を教えているのではなく、終末に向けて生きる私たちの生き方、在り方を教えておられます。世の終わりとは私たちにとってただ遠い、途方に暮れるようななことではありません。誰もがいつか、一度、確かに訪れる終わりに向けて生きています。神様はその終わりのときに全てを裁き、天の御国に受け入れる者、贖われ赦される者、生きる者、そしてそうでない者がいることを示してくださいます。しかしそこに辿り着くまでの間に躓いてしまったら悲しいことです。しかも誰かが誰かを傷つき、神様の代わりに誰かを裁き、除いてしまうこと、実に悲しいことです。そうなってしまうことは、実は神の望むどおりに生きるのではなく、敵である悪魔の望み通りに生きることです。はっきり言って、「善」という基準を掲げて誰かを排除するあらゆる行為と選択がそうかも知れません。植物の根っこ以上に複雑に絡んでいるこの世界と私たち(人々)が、ある理由で誰かを傷つけ、誰かを排除するとき、それは表面的に掲げる基準が善であったとしても、やっている行為は敵の望み通り、悪魔の動かす通り、もしくはただ自分が全て(自分が神)として生きることの現れかもしれません。生かすためではなく、壊すための行いかも知れません。 「刈り入れまで、育つままにしておきなさい。」この一言には主イエスのみ心と、私たち自身と大切な誰かが傷つけられずに生きる知恵が込められています。現に悪い何かが存在していても、それは神様の裁き事態を防ぐものではない、それに邪魔されず、やがて終わりのときの神の裁きは来るという約束。だから裁きは神に委ね、忍耐して待てる信仰。そして一束の麦のような小さな者でも失わせたくない神様の愛を知ることです。実を結ぶまで育てたい誰かを、神様が抜き取りたくない、傷つけさせたくない誰かを、神様の愛に従って守ることです。それが神様のみ心通りに生きる選択だと今日のたとえが告げています。それに聞き従う人ならば、私たちの人生において、生活において、何かの悪に直面する瞬間において、「最後まで育つままにしておきなさい」という主イエスの声を聞くでしょう。これ、私たちが生きるにおいて、重要な選択になる場面が必ずあると思います。生かすか壊すか、抱えるか捨てるか、一つになるか分裂するかの瞬間に、ふさわしい選択ができる知恵を、一人ひとりを愛する主イエスの声から聴く私たちでありたいと願います。

神が蒔かれた種は生きる

2020年7月12日(日)聖霊降臨後第6主日・召天者記念礼拝(室園)説教要旨
イザヤ書55:10〜13、ローマ8:1〜11、マタイ福音書13:1〜9,18〜23
● あなたに平安があるように
「私たちの父なる神と、主イエスキリストから、恵みと平安とがあなたがたの上に豊かにありますように。」今日は、いつも礼拝のメッセージの前に唱える祝福の挨拶から考えてみたいと思います。「恵みと平安とが…あるように」。良い言葉です。そして本当にこの言葉通りになることを祈ります。ただこの言葉通りにならない現実も、私たちの生活や姿、この世界の様子から「いかにも容易に」見つけられることでしょう。この挨拶が意味のない挨拶だと思う訳ではありません。不信仰な思いで、疑いの思いで、この通りにならないと思う訳でもありません。「改めて」考えてみます。 豪雨によって被害が続出しています。しばらく前からウィルスによって世界は大きく変わり、今もその影響の真っただ中です。はっきり言って今の世界が平和だ、平安だと言える人はほとんどいないと思います。さらに、こういう世界の中で生きる一人一人、そこには世界や国、地域の状況ではまとめられない別の事情がたくさんあります。無事に生きているだけで平安だと思う人はほとんどいないと思います。むしろ無事に生きていると思うその場所に、実は色々与えられて生かされているその場面に、様々な葛藤や試練があり、時には身近で大切な人とも色々変化があり、おそらく平安と言える時間より、そうでない時間が長い私たちかも知れません。 「あなたに平安があるように」。それは、平安とは言えない状況が、童話のように、俗な言い方で魔法のように気持ちいい状態に変わるようにという意味ではないと思います。もちろんそうなればいいことかも知れませんが、なかなかそうはならない状況の中で空しい挨拶、空しい願いを言い続けることではないと思います。むしろどんな状況の中でも「あなたの心が平安を求める」あなたであって欲しいとの願いです。私たちを取り巻く外や環境の状態が変わるというより、それらに直面するあなたの態度と姿勢が、神様が守り導いてくださる平安に向き合うことを願う祈りです。不安や恐れ、困難な状況の中で、全てを神様に委ねられる心(勇気)をあなたが持つようにとの祈りです。 少し難しく聞こえるかも知れませんが、私なりに学ばれたものを噛み砕いて伝えています。私たちが願う本当の平安とは、自分の外の状況や状態じゃない。自分の心の態度、心の方向です。神様の導きに向けられている心なら、その心に神様が与える平安は入ります。

● 自分の心という土壌
旧約聖書が書かれたヘブライ語で、「人」は「アダム」(固有名詞でもありながら「人」の意味でもあります)。「土」(アダマ)から造られたからだと創世記1章が伝えます。この視点からすれば、人とは神の前で「土」、「土壌」です。神様の土地です。そこに何が蒔かれたか、後で出てくる芽、成長、実りによって分かります。良い種は良い木に、悪い種は悪い木に。恵みの種は恵みを、邪悪な種は邪悪な実を結びます。私たちの心と魂は、何を蒔かれ、何を受け入れる土壌なのかによって、神様の畑になるのか、自分の欲望や罪の土壌になるのか、それとも石や茨などの邪魔物(周りの影響)によって何にもならない土壌となるかに分かれます。 今日の福音書のイエスのたとえは、私たちに、神様が蒔かれる恵みの種を受け入れる土地、畑となるよ うに励ましています。これは励ましのメッセージです。神様が投げてくる種を自分の良き土壌をもって受け止めれば、最初は小さい種でも何十倍ものの実りが約束されているという祝福の約束です。実らないことへの裁きのメッセージではありません。自分が実らない土地にならないように、警戒し、見直し、悔い改めるための勧告のメッセージです。 実は自分の心という土壌がどんな状況なのかなかなか気づかない私たちでもあります。自分で自分の状態は良い土地だと錯覚し、自分には良いものが与えられないのだと勘違いしがちです。周りの状況のせいだと、世界の不平等のせいだと、困難な状況のせいだと思いがちです。まさにそういう心が、イエスがたとえている、道端と変わらない土壌、色んなものに踏まれ続け、固くなった心のゆえに種が入り込まず、ただ置かれ、鳥に食べられるように、何かに恵みを奪われる心。石だらけの土壌、深く根付けず、一時は芽生えているようで、何かがあればすぐ枯らせ、変わってしまう心。茨だらけの土壌、自分の中にある思い煩いや誘惑によって、育て上げるべきものは覆いふさいで、むしろ取り除くべきもので自分の中をいっぱいにする心です。 私たちの心の状態を、こんなに分かりやすく振り返られるこのたとえは、私たちへの救いです。分かりやすい話だ、良い話だ、聞いたことのある話だと思って、聞き流すべき話ではありません。いつの間にか硬くなったかもしれない心を掘り起こし、固い部分を砕いて耕し、石や茨のような邪魔物が入っているなら自分の心から取り除くために語られている話です。 自分はすでに良い土地だと思って何もしない、自分を変えないことが確かに楽です。今すぐにはそっちが平安かもしれません。しかしそれはすぐ枯れてしまう偽りの平安です。そしてそれは自分に対する怠けでもなります。自分の心という土壌を砕くことも、耕すことも、何が入っているか見もしない怠けです。「怠ける者は欲望があっても何も得られない」と箴言にも書いてあります。これは、私たちの社会的な、実生活的な忠告だとは思いますが、私たちの心にも当てはまる戒めかも知れません。 何も芽生えて来ないなら、何かの原因がその土壌にあるように、私たちの心に何か良いものが芽生えそうもないなら、おそらくその原因は自分の心にあります。私は不特定の人の心を指摘してこう言っているのではなくて、聖書の言葉を信じている立場から、自分を含めこの言葉を聞く人々に言い聞かせています。自分が良い種を芽生えさせる畑になることは、種を投げられる方に対して、心を開き、心を委ねられる勇気。さらに自分の心を入れ替え、悪いものは素直に認めて取り除ける勇気あっての、心という畑の耕しです。

● 心に入れば命
最後に、イエスのたとえの中の農夫、種を蒔く人は、なぜそんなに無駄になる種をも巻き散らすかについて考えたいと思います。このたとえは当時の人々が身近に見ていて、聞いて分かるような事情に基づいています。ということは、当時のユダヤ人はこのような仕方で種を蒔く農作をしていたことです。一個一個の種を良い土地に大切に蒔くのではなく、巻き散らしていたということです。理由は、彼らが生きていた土地が農作には厳しい土地だったからです。ほとんどの土地が良い土壌でなく、最初から畑ではないから、まず種をばらまいて、その後に種が土に埋もれるように耕し、成長するのを待つ。たとえ話の中にも、良い土地に落ちる確率は1/4ですが、当時の実際の種蒔きからすると実を結ぶまで成長できるのは蒔かれた種の1/10にも満たないとのことだそうです。でも、それこそ、厳しい土地と環境の中で実を結ぶための努力なのです。良い土が少ないからこそ、たくさん種を蒔くこと、種を無駄にすることではん ばく、実を結ぶための方法です。 まさしく主イエスの言葉と神様からの賜物もそのようであります。良い土が少ない土地のような私たちの心、神様の言葉とみ心を受け入れにくい私たちの心だからこそ、主イエスはたくさんみ言葉の種を蒔かれるのであります。ある言葉は私たちの心の硬い部分に当たってはじけ飛びます。ある言葉は聞き流されます。ある言葉は入ったようで、根付いたようで、枯れて消えます。でもちゃんと心に入った言葉は芽生えます。何十倍の実りをもたらすように、ちゃんと入った言葉はその人を動かし、生かします。そのために主イエスは世の人に言葉を与え続けます。それは、聖書を通して、今でも行われている種蒔き、神の働きです。この世の人々(私たち)の心という土壌が厳しくて入らない種も多いけど、一粒入って欲ししという心情で投げ続けられるみ言葉かもしれません。もし一粒でも入ったら、そこから芽生える信仰と変化は大きい!種も、み言葉も神様からの命だからです。小さくても、目に見えないものでも、豊かな命を含んでいるものからです。 本日、私たちの教会の召天者記念礼拝につき、私は私たちの家族や大切な人々も神様から与えられた命の賜物であることを、再確認したいと願います。今日の旧約聖書の言葉は、このように私たちに語りかけます。「雨も雪も、ひとたび天から降ればむなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。」 神様から出てきたものはむなしく戻らない(ならない)。とりわけ神の言葉がそうであり、今日の福音書もまさにそのことを私たちに教えています。それに、もう一つの命の賜物、私たちの家族、大切な人々もそうです。神様によって与えられ、先に神様のもとに戻られた一人ひとりも、私たちにとって空しく離れた方ではないことを、私たちは知っています。ある時は悲しく、ある時は寂しく思い、もしかしてこれからもそうかも知れません。しかしこの方々を通して、与えられた出会いを通して私たちは愛を知り、出会いを知り、絆を信じました。共に生きることを知りました。今でもそうです。種蒔く人に種が与えられ、食べる人に糧が与えられることよりも尊く、それらとは比べられないものを感じさせ、与えてくれました。その一人ひとりとの出会いも私たちに対する一つの賜物、一つの命、一つの種です。 私たちは、与えられた命の出会いと共に、主イエスの命の約束を預っています。今日の第二の日課、ローマの信徒への手紙が証しします。「キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、霊は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、・・・あなたがたをも生かしてくださるでしょう」。この言葉の種が私たちの中に入っていれば、私たちは生きます。そしてその命の恵みと喜びに再び預かるでしょう。大切な人々の出会いは、真に命の恵み、喜びです。それを受け止められる皆さんの心であることを、心から祈ります。どんなときでもそれを失われない私たちの心でありますように。そこに私たちの本当の平安があります。


神の恵みに適うのは誰か

2020年7月5日(日)聖霊降臨後第5主日 礼拝説教要旨
ゼカリア9:9〜12 ,ローマ7:15〜25a,マタイ11:16〜19、25〜30
● 人は器
私たちは人を器に例える言葉をよく聞きます。「器の大きい人、小さい人」、「器が違う」…。人が器に例えられる理由は(理由を考えなくても比喩事態で良く伝わりますが)、人は器のように自分の中に色んなものを入れる存在だからだと思います。人はその人の中に何が入っているかによってその姿が決まる。私は自分の説教の中でこのことを結構語ってきたつもりです。 それならば、私たちは良いものを受け入れる器でありたいと願います。聖書も良く人を器に例えています。一つだけ取り上げましょう。信じる人は、イエス・キリストの輝きという宝を土の器に納めている者だとコリントの信徒への手紙二4章に書かれています。この世界と人々は、その器がどんな器なのか目に見えるものだけで判断し、評価したがります。しかし器という物が装飾品ではなく、使われるための物ならば、その中に何を入れるか、何が入って、何のために用いられるかでその価値が、真価が表れます。人という存在がそうです。外見、その人を取り巻く背景、その人の資質…これらのものがその人という器なのかもしれません。でもどんなに優れた器でも何も入らない器なら用いられない器であって、普通の、安価な器でも、大切なものが入っているなら、用いられる器、価値ある器なのです。 私たちはこのように、抽象的なもの、しかし真実で深いものなどを何かに例えて分かりやすく表現したりします。そのような例え、比喩はこの世界にもよくあることですが、すでに聖書の中にも見られるもので、主イエスの多くの説教は、例えによって伝えられています。これからしばらく、教会の暦によって礼拝する私たちはイエスの例えを聞く季節を始めます。だから私たちは、比喩される形で与えられる真実と真理を、分かりやすさや楽しみをもって、理解できる喜び、自分への恵み深さとして汲み上げて、自分の中に受け入れる器であって欲しいと願います。

● 受け入れない人々
「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。」 イエスは、広場で笛を吹いたり、歌ったりしながら遊ぶ子どもたちの姿を通して、当時の時代を語っています。正確にはその時代の人々の姿を語っています。こういうことです。笛を吹いて一緒に踊ることを呼びかけられても、葬式の歌を歌って一緒に悲しむことを呼びかけても、それらに応じない。笛を吹き、歌を歌う子どもは、神の言葉を伝える預言者を例えています。時には喜びと希望のメッセージ、時には悲しみと慰めのメッセージ、しかしそのどちらにも応じないで、喜びも悲しみも一緒にしない人々の時代だとイエスは言われています。 これは深刻な現実に対する嘆きです。実は今の時代がそうかも知れません。早くから社会学者たちの間では21世紀の社会をこう予測していたらしいです。「三無の時代」。無関心、無感覚、無感情。今はコロナウィルスの影響で「三蜜」が定番の言葉になりましたが、人に関心と感覚と感情がないこと、恐ろしい現実です。私たちの社会と人間性を壊すもの、時に残酷な事件のものです。 こういう状態、社会的にも非常に良くない、危ない状態ですが、イエスは信仰的にもそうであることを指摘しています。人々は預言者を受け入れない。洗礼者預言者が悔い改めを教えるために、禁欲的に、食 べも飲みもしないでいると、食べ物見もしないから「あれは悪霊に取りつかれている」と言って、受け入れない。イエスは罪人と共にいるために(彼らを教え、悔い改めさせるために)、彼らと一緒に飲み食いすると、「あれは大食漢だ、大酒の飲みだ」、「罪人の仲間だ」と批判して受け入れない。つまりどちらも受け入れず、神の言葉を伝える人を受け入れないということは、神の言葉を受け入れないことです。 それを器に例えるならば、ふたが閉まっているのか、ひっくり返されているのか。どこかが壊れているのか、別のものに満たされていて新しいものが入る余地がないのか。理由は色々ですが、結局与えられるものを入れられない器の状態です。そして受け入れない理由というのは、だいたい自分勝手なものです。食べも飲みもしないのは食べも飲みをしないから気に入らない。食べたり飲んだりすれば食べたり飲んだりするから清くない。本質は埋もれ(隠れて)しまい、自分たちの基準で受け入れない。食べたり飲んだりすることに限らず、神の言葉に対する姿勢に限らず、私たちはこういう人の姿をよく見ているなずです。そういう人の姿を目の当たりにして、傷ついたり、悩んだり、苦しめられたりする場合もあります。 世界の様子は良く例えに含まれています。受け入れられず苦しむ人、困る人、悲しむ人、もしここにいるならば、今日のイエスの言葉のごとく、イエスのもとで安らぐことを祈ります。

● 神の恵みに適うのは誰か
こういう時代、こういう世界、現実だからイエスはこのように言われます。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢いものには隠して、幼子のような者にお示しになりました。…これは御心に適うことでした。」神の言葉、神の恵みは、この世で知恵ある者や賢い者(正確には自分でそう思っている者)には隠されてしまった!なぜなら彼らが自分の知識や基準によって受け入れないからです。食べない人は食べないから、食べる人は食べるからと言ってその人、その人を通して伝えられるものを受け入れないからです。だから、幼児のような、そのまま受け入れられる人こそが神の恵みを受け入れる人であるとのことです。それが神様のみ心に適うこと、神はそういう人にご自身を示されるということです。 今日の説教題を「神の恵みに適うのは誰か」と付けてあります。この問いの答えは、今日のイエスの言葉から答えるなら、「幼子のような者」、「そのように神を受け入れる人」であると答えられます。まるで試験のようです。ただ、この言葉のようになかなかなれずにいることが、きっと私たちの多くの現実ではないでしょうか。理由は色々でしょう。器に中身が入らないにも色々な場合があると言いました。私たちの中に、信仰が入らない、平安が入らない、喜び、希望、赦し、慰めが入らない理由も色々です。自分で心を閉じているかも知れません。何かの影響で締めてしまい、固く締めすぎたのか、開けたい、開きたいと思っても、なかなかそうなれない場合があります。世界や周りの影響なのか、もしくはどこかで受けた傷でどこかが破れているのか…。そしておそらく一番多い理由として、自分の中に色んなものがはいっているため、それが自分の思いなのか、世の思いなのか、恐れなのか疑いなのか、もしくは何かへの憎しみなのか…与えられるものが入る空間がない。物に例えてばかばかしいですが、私たちの心ってそのようだと思います。実は物質じゃないからこそ、なかなか開きません。 隣で言い続ける人の言葉でさえ、本当の意味で入らない私たちもいるくらいです。

● 「わたしのもとに来なさい」
どうすればいいでしょうか。そういうときにこそ、主イエスに尋ねるのが信仰の働きです。今日のみ言 葉を、私たちが信仰によって見る目をもてば、聞く耳をもてば、次の主イエスの言葉を受け入れられるはずです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」。 「わたしのもとに来なさい」と、音声や文字が表すこの言葉は自分に触れられてどうなるものでしょう。本当なのか?としばらくの葛藤の内に消えるものでしょうか。良く聞いてきた言葉だと認識されて、それ以上何もないままどこかに流れていくものでしょうか。そういうものなら、確かに、自分の中に入っていない言葉だと思います。生きている言葉ならば、そして自分の中に入った言葉ならば、「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」との言葉で、自分の心が動くはずです。思い込みではありません。どうすることがイエスのもとに近づくことなのか、なぜ安らぎは与えられるものなのか。理屈じゃありません。イエスに行こう、聞こうという求めがあって、それに応えられる主イエスがいるからです。私たちが親しい者から、愛する誰かから得られる安心や喜びも理屈ではなかったはずです。 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」書いてある文字を受け入れるのではありません。これを語る主イエスを迎え入れることです。その触れ合いと出会いは形に、姿に限定されませんが、言うならば、心から求め、祈ることです。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたに安らぎを得られる。」イエスと繋がって生きる、学ぶことです。そうすれば、安らぎは与えられ、感じられるものでしょう。主イエスがそうしたいと約束されているからです。あなたにとって主イエスがどのような方なのかが、表れると思います。 わたしたちは先も、そしてこれからも、賛美して求めます。「天の力にいやし得ない悲しみはこの地にない」。


繋がれ

2020年6月28日(日) 聖霊降臨後4主日 礼拝説教要旨
エレミヤ28:5〜9, ローマ6:12〜23 ,マタイ10:40〜42
● 人は何かの奴隷
私たちの世界はしばらくコロナウィルスの影響によって恐れ、騒ぎました。その影響はまだ終わっていませんが、改めて考えるとすごいことです。ウィルスは肉眼では見えないくらい小さいです。見えないどころか、何倍に拡大すれば見えるものなのか、そんなことは言われないくらい、小さいです。でもそんなに小さいものが人の体に入って、発病し、死に至らせ、世界に広まる。世界がとどめを刺そうとしなかったなら、きっとすべての世界はコロナが支配する世界になったはずです。 目に見える大きさではないのです。浸透力と影響力です。むしろ目に見えないものこそが恐ろしいです。入ってしまえば、そのものの奴隷になります。そのものが苦しめる通りに、死に至らせる通りに、ほぼ無防備で私たちの命は変えられてしまいます。 ウィルスばかりではありません。ウィルスはいくら小さくても物質として存在するものです。しかし物質でなくても人を動かすもの、死に致せるものはあります。人の中に貪欲が入れば人は貪欲ばかり追い求めるようになります。情欲が入れば情欲の奴隷になります。憎しみが入れば憎しみの奴隷、恐れが入れば恐れの支配下に置かれるのが私たち人間です。そしてもっとも怖いのが、自分が感染されたのかどうかなかなか気づかないように、私たちは自分が何に支配されているか、何によって生きる者なのかなかなか気づかないことです。それが恐ろしい現実です。死ぬまで一生気づかないかも知れないし、自分がなぜ死んでいくのかも気づかないかも知れません。 人は何かの奴隷です。地位と身分が高い人の下に属するといった分かりやすい意味の奴隷ではありません。ウィルスより気付かれない、消えにくい、しかも浸透力も影響力も強い、目に見えないものの奴隷です。それは避けられなく、否定できないことと思います。自分はそうじゃないんだと思うのは大きな勘違いに他なりません。自分にはウィルスなんか関係ないと思う人と同じです。それならば、尚更、悪いものの奴隷ではなく、良いものの奴隷、良い影響力を受け入れ、それによって生きればいい話です。 実は菌にしても悪いものばかりあるのではなく、乳酸菌みたいに有益な菌があるように、コレステロールにしても悪玉コレステロールもあれば善玉コレステロールもあるように、目に見えないもので私たちを支配し動かす様々なものの内にも、良いものと悪いものがあることに気付けばいいのです。乳酸菌にしろ、善玉コレステロールにしろ、人々から聞いたり、ある程度の興味があったりすれば、それらに気づき、その影響に赴くことができます。同じように、私たちの心、自分の魂に何が有益で何が害悪なのか、自分なりに興味をもって自分を顧みたり、ある程度人々から聞いて参考にしたりすれば、見えてくるものと思います。

● 神の働きが入る時間
雨の多い季節で今日ここにいる皆さん、もしくは、ここにいなくてもこの礼拝を共に聞いている皆さんは、この時間がしばらくみんなに良い影響に触れる時間となります。説教者が勝手にそう言っているだけだと思われても構いません。だいたいこう言われるものもんだと思って聞いて構いません。課題だから来て聞いているんだ、ある人の勧めによって義務感で来ているだ、構いません。大事なのはきっかけ はともかく、良いものに触れることです。それが本当に良いものなのかそうでもないか、自分に必要で合っているものなのか、そうでもないのか、触れて知ることです。きっかけはともかく、受け入れられ、それに活かされるにふさわしい人であれば良いものは私たちの中に入っていきます。実は説教者の話しというより、礼拝は神様の言葉と神様の導きだからです。神様の働きに向き合う時間です。もちろん目に見えません。しかし触れられ、入っていくからには何かが感じられます。何かが気付かされます。ある人はその働きによって生き返りました。ある人は自分で歩けるようになり、ある人の耳は開きました。人を扇動するような怪しいこと、あり得ないことを言っている訳でもなければ、なんか良く分からない抽象化したことを言おうとしている訳でもありません。神様の働きで生きる力は与えられ、感じられるという証ししているつもりです。かの有名なマザー・テレサは、今日の言葉と同じ内容の「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25:40)この言葉から神の声と召しを聞きとり、生涯、死んでいく人、植える人、苦しむ人に仕えました。仕えさせられたと言った方が正しいかも知れません。人の生涯、人の人生、難しく複雑そうですが、結局何を受け入れ、何に基づき、何に従うかなんです。 主イエスは言われました。「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。」今日の聖書を通して、わたしたちに言われている言葉です。文脈を整理すればこういう意味です。イエスが派遣した弟子たちを受け入れる人は(もちろん彼らの言葉や働きを受け入れる)、彼らを派遣したイエスご自身を受け入れることであり、またイエスをこの世界に派遣した神様を受け入れることだという意味です。悪い方の例えですが、ウィルスが人を通して人の中に入っていくのも事実です。神様の働きと祝福は、神様によって送られたのであって、その見えない神様の働き、祝福、命とは、神様が送った人によって、神様に従う人々によって伝わるものです。 ウィルスなら解明できる、拡大したら見える。でも神の贈り物、祝福ってなんだ?!それは物質でないゆえに見せたり、説明して納得できたりすることではないかも知れませんが、私たちが体験するあらゆる形の愛がそうであるように、人の中に入れば喜びとなり、平安となり、原動力となり、他の良いものと合わさって勇気や希望にもなり、私たちの中にある悪いものと闘って治療され、清められる力となります。解明はできませんが、その力の業は感じられます。それが神様の働きの証です。

● 繋がるということ
今日の福音書のみ言葉はいつもの週より短いゆえに、短く絞って受け入れることができると思います。神様が送った人を受け入れれば、神様を受け入れることになる。その人に冷たい水一杯でも差し出せば、神様にそうしたことになる。神様と繋がることになる。色々手の込んだ料理とか温かく沸かしたお湯でもないのです。すぐに出せる冷たい水でいいんです。多くものでもありません。一杯で十分です。それを神様が送った人に差し出せば、神様と繋がる。なぜなら送られた一人ひとりは、神様の者だからです。 私たちが誰か、何かと触れ合うにしろ、触れ合うからにはすでに色んなものが行き来します。気持ちも行き来する、目に見えない小さな物質や空気も行き来すれば、それぞれの互いの心が通い合う。そうやって私たちは色んな存在と繋がってたり、拒絶したりして生きます。悪いものが入ることを防いだり、予防したりすることは良いですが、私たちは実は受け入れるべきものも拒絶する癖があるかも知れません。 一回手を差し伸べるべきどころ、冷たく断る私たちがいるのかも知れません。恐れがそうさせるのか、勘違いなのかいちいち気付きません。一回受け入れたら理解できるものがあり、伝わるものがあるのに、拒絶したり気難しく裁いたり、憎む私たちがどこかにいると思います。一回手を差し伸べてやったら、その人が生きる、その良い業によって自分も生かされるどころ、私たちの中に入っている悪い何かの働きなのか、自分が損するという錯覚なのか、手を差し伸べられない私たちがいると思います。 良いものは受け入れてみてそれが良いものと分かるしかありません。そう信じて繋がるしかありません。赤ちゃんが自分を生かしてくれる存在を受け入れて、その関係から疑わず愛情をたっぷり受けるように、良いものに心を開いたらその良いものはすでに自分のものです。良いものの影響力と働きのもとに置かれるのです。 そうなるために神様は私たちに決して多くは求めません。冷たい水一杯のようなすぐにでも出せる小さな一部、耳を貸し聞いてもらえる小さな動作と心の動きです。それで繋がると約束してくださいます。神様が送り続ける誰か、何かに対して、それで十分繋がると約束してくださいます。しかしそうやって繋がることによって行き来する良いもの、以前は感じられなかった平安と心強さ、そして色んなものと合わさって生まれる喜びや希望、報いは実に大きなものです。それに気付けることは幸せであり、チャンスです。特別なものではなく、目の前の相手に水一杯くらいは差し出せる心の開きで、神様の祝福は入ってきます。まさに水のように浸透し、命の隅々にまで行き届きます。だいたい特別な何かを要求するのが世の誘惑や悪しき働きです。 悪い感情、疑い、否定し、本当は裁くべきでもないのに人を裁く心、妬み憎しみ…。これらの奴隷として生きるのではなく、私たちの心の扉を叩く良いものに向かって私たちの心を開く私たちとなりますように。まずそのように私たちを促し、導く神様の働きに私たちを委ねてみましょう。きっとふさわしい変化が自分の中に起こることと信じます。ごく小さなものに思われて、それが入って、その影響によって生かされる。私たちの命はそういうものであることを、心に留め、互いに受け入れ、互いに仕え合う心をもう一度整えましょう。



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