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疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイ11:28)
室園教会 牧師 活動 女性 青年 中高生 子ども

説教

崔大凡牧師  2020年4月からは室園教会の礼拝で語られた、崔大凡牧師の説教の要旨です。
 どうぞ礼拝で、本物の説教をお聴きください。


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7月12日(日) 安井宣生先生の司式により, 牧師就任式が行われました。 崔大凡牧師は室園教会牧師として, 共に更に歩んで行きましょうと結ばれました。 期待のこもった暖かい拍手で会を開きました。
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説教(2021年)

これを食べる者は死なない

2021・8・8 (日)  聖霊降臨後第11主日 礼拝説教要旨
 列王記上19:4〜8, エフェソ4:2〜5:2, ヨハネ6:35, 6:41〜51
今日の第一の日課に出て来る人物は、ユダヤ人にとって代表的な預言者・先祖、エリヤ
 ○エリヤは、ユダヤの先祖たち(北イスラエル)が神に背き、自分たちの信仰を失い、彷徨う時代・・・偶像と異国の神々へと背くのが蔓延な時代、真のイスラエルの神を示した英雄的な預言者。
 ○エリヤについて代表的なストーリーは、干ばつの中で雨を降らせる対決。850人のバアル預言者たちがどんな祭儀と祈りを行ってもバアル神の力で雨を降らすことはできなかった 対 イスラエルの神の預言者エリヤはたった一人で祭壇に犠牲をささげて神に願い、干ばつを終わらせ、勝利したストーリー。
 ○今日の第一の日課は、すぐその後の記録で、こうして真のイスラエルの神の栄光を表したエリヤが、当時の王アハブとその妻イゼベルに命を狙われ、逃げていた場面の記録。
 ○エリヤは力が尽き、絶望していたみたい。自分の口から神に向かって「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」と、全てを諦めるかのような姿になっています。たった一人で偶像崇拝の預言者たちを倒して勝利したエリヤでも、当時の権力者の執拗な脅迫と追跡に力尽きてしまった…「自分はもうここまでだ」と絶望する人間の姿となっていた。
 ○しかし、ここがエリヤの終わりの場面ではない。彼は逃亡先の木の下で眠っていた時、神の使いによって食べ物と水を与えられという話しでした。エリヤ自身はもう諦めていたけど、神はまだエリヤの命を終わらせようとはしなかった。
(これをどう表現しようか)神にとって、神の人エリヤは、まだやることがあった。まだ働きと使命が残されていたから、エリヤはもう一度生かされた。
(今日のメッセージを正しく受け取るために、旧約の日課から触れている)
 ○ここでエリヤは不思議な形で、パン菓子と水を与えられたのだから、エリヤを救ったのはパン?   それともそれを与えた天使? もしそう答えるのだったらこの記録を理解したとは言えない…   パンと水という食べ物も、それをエリヤに渡す使いも、神様がくださったこと。
  命を引きとどめるために与えられたのがパンと水だから、それを与えるためにエリヤの前に現れたのが神の使いだったから、預言者エリヤを救った主体が物と使い人ではない。パンと天使が神様に代わることは出来ない。あくまでも神の道具、神の使い、恵みの現われなのだ。
  (この事柄が理解できれば、今日の御言葉も理解できると私なりに思い…)
私が息子を食べさせて育てるという時… 大して料理もしないのに何で食べさせているというのだとは言わない。
また、一度?数回?食べさせたから、食べさせて育てると言っている訳でもない。 私がお金を出しているからという限定的な意味でもない。
私という存在が息子とつながっていて、私は彼の父だから。一々与える物を数えなくても、やってあげることがどういうことかなのではなく、私が彼のために生きて存在し、彼と一緒に生きるから、彼を食べさせ、育てる人と言えること。(皆さんにとっても共通する事柄)
そのような関係が、信仰によっては神様と結ばれ、神様によって生かされる時、神様は自分を生かす存在となっているはず。
それは私たちが親を通してよって恩を受け、育てられると同じように、良いことが数回あったからとか、何か利益が与えられるとか、学べる教訓があるという限定されるものではない…  「エリヤの命はパンそのものだったのではない」ように、神様によって生きるというのも、それぞれの手段、出来事、与えられるものと時が神様なのではない。それらは神様によって与えられるもの。
そして、それらは道具であり、無くなるもの、変わるもの。しかし神様はまた私(たち)のために変わらず与えてくださり、一緒にいてくださる方。

とても初歩的で当たり前のことを言っている説明に聞こえているかも知れない。
 でも、知らず知らずに、与えてくださる方、与えられる源のような存在より、私たちは「その時」、「その物」、実は無くなったり変わったりする何かに心を奪われ、むしろそれだけを求める人になってしまう…それらが全部だと思って生きる人になってしまう…その姿を私たちはこの世界のたくさんの人々から、もしくは私たちの中から見る…。

 文字自体に頑なに捕らわれてしまったら、今日の福音書でイエスの言われる「わたしは命のパン」である言葉が私たちに何の意味もないものになってしまいます。人が何でパンなのか?神様はパンなのか?
 言葉として、象徴と言えば象徴、たとえと言えばたとえではあります。つまり、イエスは私たちの命のために、私たちが生きるために送られ、与えられた方である。しかも神様によって与えられ、送られた方であり。
 だからと言って、単純で浅い比喩としての「パン」にたとえられているだけではなく、イエスを信じることによって与えられ、力づけられ、恵まれるあらゆることを吟味する時、「イエスは命のパン」である言葉が私たちの命に属するあらゆる感覚から深く味わわれるものとなるでしょう。だから今日の礼拝で私たちが交読した詩編も「味わい、見よ、主の恵み深さを」と歌っています。
 実は私たちの文化と生活も理解しているはず。「血となり肉となる」という寛容的な表現…これはそれぞれの栄養から体に血液などが供給されるだけに限定される表現? 知識、精神、感情や心、経験などが人の一部であること、そのことによって人が高められたり、強められたりすることのために使われる場合がもっと多いのでは?

 神様によって生かされるという意味で、イエスは神様によって与えられた「命のパン」であることを、信じる方はますます豊かに、言葉の象徴である認識を越えてあらゆる面から、まさに「味わい」、「噛み締め」、自分の一部というか自分との一体したものとして受け止められる感覚、それが信仰でありましょう。
○主イエスの言葉とその言葉の中に込められている神の愛と知恵が・・・
○主イエスの十字架の前にいる私たちの罪深さ、しかしそのためにこの世では十字架の苦しみと呪いを背負われた深い赦しが、そのために奉げられ、裂かれたイエスの肉が・・・
○主イエスの復活と約束が伝える希望と信念が・・・
 これらが私たちの中に入り、自分と一体となり、その恩恵と深い喜びに生かされる時、私たちは「命のパン」である主イエスを食べ、深く味わうと言えることと思います。

  これはくだらない比喩、表現の方式ではありません。地上で飢えたら食べなければならない、渇いたら飲まなければならない私たちのために、むしろ原初的な求めほどまず求めなければならない私たちのために与えられた主イエスからの命と魂の糧です。そして主イエスが共にいれば、私たちが生きるにおいて、一時的で肉的な必要は別として、私たちの霊がもう飢えと渇きを覚えないという充満と潤さを約束です。それを全身全霊で受け止めて認め、感謝し喜ぶ関係、繰り返し自分を顧み、自分と共にしてくださる神を思い起こす関係、それが信仰です。肉の命に限らない復活と永遠の命におけるパン・糧です。
簡単な説明のようで高い次元の解き明かしであり、目に見えず実存しないようで最も深く臨在する神の働き、神秘的な糧です。今日の福音書でイエスから語られ、示しされるものはこれです。

今日の福音書には(ついでに)ユダヤ人たちは信じない様子が描かれています。信じないところか、憤慨していたみたいです。
なぜ?自分たちの想い描く姿とは違うから?人としてイエスの血筋がヨセフという、祭司でも貴族でもない出身だから?それも一部合っている理由の一つかもしれません。もっと深く言うならば、彼らは神を求めていたのではなく、自分たちが築いてきた自分たちの世界をより求めていたからです。自分たちが築いた世界、それは神と関連しているようで、民族として歴史と伝統、厳格な知識と決まりのようで、実はそこに神は臨在しない。
神よりも、そこに神はいない自分たちのものをもっと愛したから、神によって遣わされた方は憎み、自分たちがもっと愛するもののためにその方を殺す。伝統と厳格、神聖というイメージに包まれていたような彼らの本質は、嫉妬であり、憎しみ、肉的なもの、自己中心的な名誉や欲望、形式づくめ…神に反するものだらけです。

結びとして、この箇所に関するある信仰の先人の言葉を参考にしながら、福音の良い理解のために共有します。
「主イエスの言葉は霊的に聞かなければなりません。肉的に聞けば何の利益と良さも感じないでしょう。『イエスはどうやって天から降って来たのか』、『この人はヨセフの息子ではないか』、『どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか』と尋ねる彼らはイエスを肉的に見て理解しようとしていることです。主イエスの言葉は霊的に神秘的に知らなければなりません。『命のパン』とはどういう意味か、『ご自分の肉を食べさせる』ことは一体どういうことなのか理解できなかった人々がもちろんいたことでしょう。しかし理解できなかったからと言って彼を憎んで殺し、捨てててはいけなかったことです。理解するにふさわしい時を待って、尋ねるべきです。」

信仰(信じること)は、その結ばれている絆の中で与えられるものです。
神様を正しく求め、神様によって生かされる良さを正しく知る私たちでありますように。
そう求める人々に神様は、この世のどんな存在も与えることが出来ない神秘と不思議さをもって、私たちを満たしてくださると信じます。

 

主は我らの救い

2021年7月18日(日 聖霊降臨後第8主日 礼拝説教要旨
エレミア23:1〜6(詩23) , エフェソ2:11〜22, マルコ6:30〜34, 6:53〜56
さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。
ここで弟子たちの報告は何の報告?
・マルコによる福音書の中で、少し前の箇所。主イエスが弟子たちを二人ずつ組みにして人たちのところに派遣した働きに対する報告(前のページマルコ6章7節以下)。
・イエスは弟子たちを派遣するに当たって、汚れた霊に対する権能を授けたが、それ以外には何も持たないように命じられた(パンも袋もお金も余分な着物も)。 ⇒私たちも神様と教会の働きを前に、物や道具、何か必要なものより先に、神様のみ心と力をもって働くことがもっと優先される。それこそ神様の働き。
弟子たちはきっと、素晴らしい報告をしたでしょう。主イエスの命令に従ってこそ、自分たちの能力ではなく主イエスの権能によって働き、その癒しの力が自分たちを通して人々に流れていくことを体験して「残らず」報告したかったと思います。
その弟子たちにイエスは 「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」 と彼らに休息を許された。 ⇒ 人には休息が必要だから。 しかし! ・イスラエル全土ですでに有名になったイエスとイエスの群れへの注目
・いつからか常に多くの人々に囲まれて食事をする暇もなかった上に、群衆は彼らがどこにどう動くか見ていた。そして追いかける… ・「多くの人々は彼らが出かけていくのを見て、それと気づき」、彼らが着く場所に先についている。舟に乗っても、岸に着く頃はすでに群衆がそこに待ち構えていた。
芸能人を追いかけるのとはちょっと性格が違うと思う・・・なぜ? イエスの噂を聞いて助けていただくために。病気や痛みをいやしていただくために。自分たちでどうしようもない苦しみをイエスに何とかしていただくために。彼らは苦しかったのです。 彼らの苦しさがイエスを追いかけ、求める原因です。 これじゃ、休息にはならない…困ったところです。休まれないのはかわいそうなことでもあります。
しかしイエスにとっては? イエスは逆に、御自分を必死に求める人々を可哀そうに見ていました。 自分たちの休息を邪魔する人々と見ているのではなくて、彼らを見て憐れんでいたのです。
「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」 自分の生活と休息が妨げられるなら、普通の人間(私たち)ならいけないことです。そしてそれを越え て働こうとするのは無謀なことでもあります。それは肉なる人の限界と言えば限界、自然な姿です。
しかしイエスは、神の独り子、神によって世に遣わされたイエスは何のために世にこれらたでしょう か。世の人々を救うために、悪しき支配と苦しみから人々を助け、真の神のみ旨を知らせるために来られました。世の人々を愛するために来られたのです。 愛するために来られたイエスの目に、御自分を熱心に、必死に求める姿は、憐みにしかありません。 ここで「深く憐れまれた」という表現の原意(ギリシア語でスプランクニゾマイ)は、「はらわたに痛みが伝わるような」こと。相手の痛みを自分の痛みにするような有様。 ⇒ イエスの働きの動機も、私たちへのいやし、助け、救いの理由も、神の憐み 私たちは運が良かったから、自分の善行が理由で、そういう運命だから そういう理由で救われ、祝福されるのではなく、憐れまれるから、私たちを憐れんでくださる方がおられるから助けられ、育て用いられ、救われるのです。
一見、今日の福音書の箇所は、特定の人物の物語でもなく、イエスの教えらしい言葉もないような… しかし世の苦しむ人々に対してイエスがどのような心と眼差しで見ておられるかが明確に表現された箇所。 ご自身が憐れむ人々のためには、ご自身も追われ、敵対者たちに狙われながら、惜しまず与え、働くイエス。 ⇒これが真の羊飼いの姿。 そして今日の旧約の預言の実現・成就。 「彼の代にユダヤ救われ/イスラエルは安らかに住む。 彼の名は『主は我らの救い』と呼ばれる。」 ?ヘブライ語の名でヨシュア、ギリシア語でイエスの名 イスラエルを憐れむから救い主 真の指導者とは、自分に属し、従う人々を思い、その痛みを知る存在。 福音書が描く当時の権力者たちとは違う。また色んな時代の(自分のための)権力者たちとは違う 律法に詳しく、「規則と戒律づくめ」ばかりを求め、支配し抑圧するのが真の指導者ではない。 真の指導者は指導され、従わせられる人を知ってくださる存在。その痛みを知ってくださる方。 イエスはこうして、苦しむ人々の必死でたゆまない求めを、同じく必死にたゆまず受け止めてくださっ た。これが全イスラエルを感動させたのであります。痛みを共にすることこそが伝わり、命と命を繋ぐのです。このイエスのたゆまない憐れみと受け止め、彼らにご自身を与えるのは、十字架の死に至るまで…。 ある意味、こういう姿でイエスを求めた人々の信仰が完全であった?そうではないかもしれない。 あくまでも、自分たちの苦しみと病のために求めたと言えます。それはまだ「愛」、「信仰」とは少し違うものかもしれません。それでもイエスは彼らを、彼らの求めを受け止めました。そして憐れみ、愛されました。この姿が、人となれらイエスを通して知らされる神の心です。弱くて脆く、まだ自分だけしか思わない私たちでも、神は愛されるという知らせ。それらを通して知らされた神の愛は、私たちの思いを越えて、私たちのためにこの世ではご自分をささげ、罪の呪いの象徴、十字架の死さえ私たちの代わりに受けられる愛、それがイエスの憐みです。 変な比較かもしれません。あなたが憧れ、愛する人、尊敬するのは誰?その人は、あなたが求めるならいつでも会える?いつもあなたに答えてくれる?いつもあなたと一緒にいてくれる? あなたが誰を思い浮かべるかは誰か分かりませんが、ややシビアなことを言えば、それがどの人であれ、あなたがいつでも会え、いつでも答えられる存在ではないかも知れません。なぜならその方は「人」だからです。「人」であることは、自分の生活と事情があり、疲れたら休まなければならない、そしてあなたがもし必死でも同じくらいあなたを思うかどうかは分からない…。 しかし神様の愛はそれらのものとは違います。この世でたゆまず、求める人々のために全てを与えられましたイエスを通して、これが神の愛であることが示されました。その愛を示された神様を求めてください。それは目に見えない存在だと、本当にあるかどうか分からないものだと片づけないで信じてください。信じて求めるなら感じます。私を憐れんでくださる方がおられることが。 (それは人じゃない?イエスはかつて人として、あなたの代わりにも一度死んだのです。) 私たちを超える存在が「私」のために、「私」を憐れんでいることを信じてください。その信仰は、私と同じレベルの存在、肉なる人を愛し求めるより、もっと大きな助け、もっと深い教え、貴い命の道を与えます。与えられ、満たされたと思って、いつの間にか変質し、限界があり、消えてしまう愛ではなく、今の私たちには辿り着かない、永遠の命と愛、それに向う道と力が与えられます。 私たちを超える存在に求めることで、私たち、人が作り出す良い業を超える恵みが与えられます。それはあなたに応えるでしょう。
祈ります。
神様。 求めなさい。そうすれば、与えられる。 探しなさい。そうすれば、見つかる。 門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 こう教えてくださったのはあなたのみ子、イエス・キリストでした。 あなたがこの世に遣わし、「主は我らの救い」と名付けられた方です。 神様。この世で痛み苦しみ、罪に悩む私たちを憐れんでください。 そしてあなたを求め、あなたはそれに応えてくださることを信じられるように、私たちを教えてください。この教会、群れに加わるあなたの羊を養ってください。 あなたの御子イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

やがて全てはキリストのもとに

2021・7・11 (日)  聖霊降臨後第7主日 礼拝説教要旨
 アモス書7:7〜15, エフェソ1:3〜14, マルコ6:14〜29
今日の福音書は、あまり福音とは言えないような印象の部分?
イエスの働きや教えもなく、当時の周辺人物、洗礼者ヨハネがヘロデ王によって殺される経緯
この世の権力者の酷い姿  ?  信仰と正義の人  が対比される記録
イエスの死が暗示される箇所 <伏線>

当時の王・・・ヘロデ(アンティパス)
父ヘロデの息子で、イエスが処刑される時の王
このヘロデには弱点があった。ローマの力でユダヤの王と任命されているが、非常に血統を重んじるユダヤ人の目線からして、彼が異邦人の地であるエドム出身であること、彼の政治的な立場に弱点、野望を妨げる事実。この問題を打破するために、良い家(王家)と結ばれ正当性を整える…それが、自分の弟であったフィリポの妻を奪った理由。フィリポと別れさせ自分の妻にする。(フィリポは生きていた)

⇒権力を手に入れるために手段と方法を選ばない姿。しかしそれは自分に罠であり毒でもある。
へロディアもまた自分の政治的な欲望のためにヘロデの妻になることを選んだ。
このように結ばれた二人を妨げる者はいなさそうだった。
しかし彼らの不正を告発し、叱る者が荒れ野から、その声が彼らを苦しめる。
「正義の声は悪人を苦しめる」

短い記録でありながらヘロデの複雑な内面、弱さが垣間見れる記録
ヘロデは洗礼者ヨハネを牢に入れていながら恐れていた! 同時にヨハネに従う民衆も恐れていた。
ヘロデは武力ではヨハネを制していたが精神的にはむしろ抑圧されていた。ヨハネの言葉に圧倒されていた・・・「(ヨハネ)の教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」
ヨハネの正しさを認め、自分の邪悪さに気づいた?良心が責められた?
ある意味、ヘロデがヨハネの言葉を喜んで聞いていたことはチャンスだったかも知れない。悔い改めるチャンス。しかしヘロデは聞くまでは聞いたけど、その言葉に従うことまではできなかった。
それからヨハネが死ぬ。しかしヨハネが死んでも正義に対する恐れから、自分が邪悪であるゆえに捕らわれる恐れから解放されることはなかった姿見えます・・・不思議な業と権威ある教えでユダヤ全土を動かしていたイエスの噂を聞いて「ヨハネが、生き返った」と思う。
反面教師的な教訓・・・自分の悪を力で、何かの手段と道具で正義を打ち消しても、自分の敵を処理しても、それは一瞬消えたようで消えていない。甦る。
私たちが自分の罪と悪を隠したり覆ったりしてはいけない理由。 悔い改める。

  洗礼者ヨハネを殺すに至る経緯はもっと残酷でみっともない。
へロディアもチャンスを狙っていただろう、そして自分の娘を使う。
ヘロデの誕生日の祝い。国の高官や将校、有力者たちのパーティー。そこで少女の踊り。その踊りに心を奪われる権力者たち。そこでもっとも心を奪われたのはヘロデ。
権力は握っていながら本当は弱いものからの軽い言葉「欲しいものがあれば何でも言いなさい」、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」この誓いが彼にとって罠となった!もっとも自分の威厳を見せつけたい有力者たちを前にして、軽率な誓いは守られなければならないから守られるに至る。時を狙っていたへロディアはこうして自分の夫であり政治的パートナーがヨハネを殺す決断をさせる話。
少女は踊り、快楽なのか魅惑なのかそれらは人の心を奪い、誓わせる。それは実行される。それで殺される正しい人。正しい人を殺したことで密かに喜ぶ人。しかしそれは決して喜びではない。そうやって満たした満足、権力もいずれ他の人に渡されるか、裁かれる。
残酷で酷い物語。聖書が語る神の国とは相反するこの世の国の姿。ある意味このように語りかけているかのように私は思う。こんなに邪悪で残酷な世界の中でこの世の富と権力を求めるのか?もしかしてこれらを手に入れるためには邪悪にならなければならないかも。そうしてでも求めるのか?と問われるのでは…

イエスの前の最後の預言者とされるヨハネも、そしてイエスも、外見としては地上の権力と暗闘の犠牲に・・・しかしそれはただ惨めな死だけではない。正義のために命をささげたという偉業。そして神の国に移る歩み。
また悪人たちに対しては恐れをもたらした正義の威力は、正しい人が死ぬことで終わらなかった。当時は権力者たちの勝利に見えたけど、全然そうではなかった。むしろ歴史の中でいつまでも語り伝えられる敗北だった。
イエスの言葉もある。「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」
私たちは何を恐れる?・・・悪人?自分の敵?それとも神。 ヨハネとイエスは彼らをまったく恐れなかったから彼らの手による死の道も突き進む。死んでもそれは屈服でもなく、敗北でもなんでもないから。神による勝利を信じる。

死は終わりではない。むしろその人の信仰と精神がもっとも表れる時でもあって、地上の歩みの結び。最大の証し。
今日、召天され、この世ではもう姿を見ることが出来ない方々を家族とする皆さんへ。これらの方々がこの世にいなくなったからといって、これらの方々がこの世にいる自分にとってもう終わりなのかと。むしろその時は分かっていなかった恵み、感謝さえ甦ることがある。
人は死んでもその存在は終わりじゃない。神様を信じる人にとってはなおさら。
今日の邪悪な物語を読んだ皆さん(このようなストーリーはここだけじゃないだろうと思ったかも知れない皆さん)、そして死によって大切な方々と別れているように見える皆さん。どちらが私たちにとって本当に良いものでしょうか。地上での富?権力?名誉?実はそんな大げさなことでもなく、今の自分の立場くらい?正当な力でこれらを手に入れることは恵みでしょう。しかしこれらを手に入れるためにはどうしても罪だったり卑劣な悪さだったりするものが必要なら、それでもこれらに固執すべきでしょうか。
どちらが私たちに本当の意味で良いものでしょうか。一時与えられて消えるこの世の満足?それとも神様が約束した天国、正義、大切な人々に認められる奉仕と愛。どちらが残り続くものでしょうか。

今日の第二の日課。教会に向けられる言葉。
「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。」
キリストは現れ、十字架で死に、この世で死を恐れる人々に復活を示した。これは秘められた計画。なぜ秘められた?神様が秘めておこうとして秘められたのではなく、示されても聞かれても信じないので秘められたものに見える。(むしろ神様は現してくださったのです。)
「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」
その時こそ、消えるべきものは消え、生きるべきものは生かされる。これを信じる者は、神が御計画と約束の相続者である宣言。(聖書の別の表現)「朽ちるもののために生きるのではなく朽ちないもののために生きる」私たちになりましょう。そして大いなるものを受け止めるはずの相続者らしく生きましょう。
私たちの命を繋げ、支えてくださった方々を感謝しましょう。これらの方々の人生は私たちのための恵みであった。消えないことのための奉仕であった。やがて全てのものがキリストにまとめられる時、天国でありがたい方々との再会を待ち望みましょう。


生きて成長する木のように

2021年6月13日(日)聖霊降臨後第3主日 礼拝説教要旨
エゼキエル17:22〜24 コリント二5: 6〜17 マルコ4:26〜34
たとえを用いて教えられるイエス…。たとえは主イエスが最も用いられた教え方であって、それを記録している福音書において、たとえは最も独特な文学的特徴と言えます。イエスは繰り返し、このように教えられました。「神の国は次のようなもの」だと。この地上で目に見えない「神の国」を目に見える何かにたとえて理解させ、悟らせる方法です。

 ここで確かめたいと思います。たとえることは、比喩で会って比較ではありません。数学公式に当てはめて計算することでもありません。なにか、概念的な解説に聞こえる話かもしれませんが、これ、結構大事な確認ではないかと私は思います。比喩であって比較ではないので、神の国は、自ら成長する種の「ような」ものであって、種(もしくは種の性質)そのものではなく、種の一種類な訳でもありません。

「良い土地に落ちた種は30倍、60倍、あるものは100倍に実る」とたとえられるとき、それは「そのように」神の国は拡大し、広がるということであって、本当に計算して信者が30倍増えるとか、教会が60個建てられるとか、面積が100倍広くなることではありません。そのまま当てはめる話ではないということです。

 このように言ってみれば、「それはそうでしょう」と納得できることと思いますが、私たちの間には時々聖書を「頑なに」読んでしまう傾向もあるかも知れません。たとえだから分かりやすいなると思い、しかしこの世の考え方、自分の考え方にそのまま当てはめて、御言葉を間違って理解したり、その意味を自分流で変えてしまったり、数学の公式であるかのように答えを求めたりする…扱いをする場合もなくはないかも知れないと思い、確認した次第です。

 実は主イエスのたとえによる教えは分かりやすくなるだけには限らない。分かる人には分かりやすくなるけど、分からない人にはずっと分からないままになるための話しでもあります。これはイエス御自身が聖書の中で語っています。

その一つ、マルコの4章でこのように言われます。「彼らは見るには認めず、聞くには聞くが理解できず」。分からない人にはずっと分からないままになるための話し、それがイエスのたとえでもあるということです。

 分かって、悟るということだからと言って、頭が良かったり知識が豊富だったりすれば理解できるとは限らないことです。私たちが御言葉を信じることは、私たちの世界で知識や能力を量る尺度とまったく同じ基準で評価できるものではありません。そうではなくて、イエスを認めない人にはむしろますます分からなくなるためのものがイエスたとえであります。

 これを私なりにたとえるならば、私たち自分が心からつながる人だからこそ相手を理解する(その人の気持ちと心とを分かる)場合があるように、その人を分かるということは人間的に賢いからとか偉いからという話ではないと思います。「分かる」ということは知識と情報だけの領域じゃなくて、その存在と自分がどれくらいつながっているかによって実現する領域の話でもあります。

 弟子たちの多くは、世の基準では無学に近い人も結構いたとよく言われますが、彼らがイエスとつながることによって、最終的には主イエスの言葉の意味を誰よりも「分かった」人になっていくのです。

逆に、イエスに敵対し、信じようとしない人々にはイエスの言葉の意味が隠れたままになる。それに対し、弟子たちにはイエスご自身が、今日の福音書に書かれているように説明してくださる…。こうしてイエスとつながり信じる人々にはますます神の国が理解できるように、そしてイエスを受け入れず、信じない人々にはますます神の国が隠れたものになるために、たとえが用いられたと聖書が証ししています。

今一緒に神様を礼拝している私たちは、ますます神の国を学び(だからといって神の国について完全に分かり切ることはできないが)、信じることによって励まされるためにイエスのたとえを聞きたいと思います。そこで私たちがますます悟って信じる聞き方をするために、まず私たちがすべきこと、なるべき私たちの姿は、イエスを愛して信頼することです。それゆえにイエスの言葉を分かるようになるためです。イエスとつながる自分になるということです。それは知識的な解釈に偏るよりも、実は御言葉の真意を分かる方法です。逆に注意すべき聞き方を挙げるならば、頑なにならないこと、否定し、比較するために聞かないことです。愛と信頼のゆえに受け入れ、それによって助けられ生かされるために聞くのであって、自分の尺度によって裁き、否定するために聞かないこと。実は私たちが良くつながる人々の間でも、人の話を否定するために聞くならば、その結論は聞く前から決まっているようなこと。様々な関係から垣間見られる姿ではないでしょうか。むしろそう聞くことは、対立するため、反対するため、闘うために聞くことにほかなりません。

聖書全般におけるたとえに対して、導入の話しが長くなりましたが、今日の福音書の本文にはマルコによる福音書らしい短いたとえが二つ示されています。

一つ目のたとえ、「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりで実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」

これを人間中心的な考えで読むならば、返って分かり難くなるたとえではないかと私は思います。豊かに実がなったことは良かったけど、せっかく人が種を蒔いたのに、そして夜昼見守っていたのに、「土はひとりで実を結ばせた」と言わずに、人も頑張ったと(世の中で良く言われるように)人が頑張って実を結ばせたとなぜ言わないのか!私たちが収穫する作物すべてがそうではないか!種を蒔いて終わるのではなく、その前には土を耕したり、種を蒔いた後には水と肥しをやったり、その他あらゆる良い働きかけがあって実を見る!なぜこのたとえはそうは言わず、むしろ「土はひとりで実を結ばせた」と人の存在を排除するかのように語っているのか!こう聞こえる場合も少なくないことと私は予想します。

これは人の頑張りを教えるたとえではなく、神の国を教えるためのたとえです。私たちの世界の、たとえば道徳教科書だったら、もしくは生物の教科書でも、このように言うものかも知れません。豊かな実りが得られるためには人がどう働けばいいのかと。どんなものが与えられるべきか。日差しや栄養、色々と必要とされるものがどんなものかと語ることかもしれません。

しかし聖書、イエスの教えとは、神様について学ぶための教科書だからです。たとえられているのは、人がどうすればより良く、より多くの作物を得られるかではなく、神の国はどうやって実現するかだからです。このたとえは、信仰によって聞けば、そんなに難しい意味を伝えているものだとは思いません。種自らが成長するというこのたとえは、神の国、神の業は、あくまでも神様によって実現することを意味するからです。そこに人の世話、人の奉仕が含まれていたとしても、最終的に成長させ、実現させてくださる主体は神様であること。たとえ、人の頑張りで神の国が実現したとするならば、神の国も人の力で成り立つものになってしまうのではないでしょうか。

実はそのように(人の力によってなるものと)思う人も少なくないことと私は思います。神様を本当の意味で信じるということは、神様の前で自分の意志や思いを下ろすことができるということではないでしょうか。自分の思いを下ろして、本当に神様の御心を聞き取ること、それが本当の意味の信仰ではないでしょうか。

実は私たち、冬が過ぎて春が来、さらに夏に移るということを何回も見たからそれを知ってはいるものの、私たちの頑張りで季節を変えさせること、時間を動かすことはできない私たちであります。実は自分の命さえも自分の意志で造ったものではありません。与えられたものでありました。すべてが初めは与えられたものであって、その上に私たちの意志なり成長なりが加わって自我をもって生きるようになりましたが、その自我がすべてでもないことを神様の前で悟ること。私はそれが神様を信じることではないかと思います。主イエスの御言葉の意味を悟るための第一歩は、このようになることではないかと思います。

なぜ自分が生まれて存在するのか、なぜ私たちはこのように出会って触れ合っているのか…。私たちがどれくらいたくさんの知識と経験を加えて説明しようとしても、説明しきれないことだらけです。これが本当の私たちの存在、真実です。

イエスのたとえは私たちにこのように囁いているものと私は思います。たとえ、人が夜昼、種を見守ったとしても、(そこに細かい表現がなく)人がどんな世話を加えたとしても、その種に命が宿っていること、その命が種の中だけにとどまらず、殻を破って伸び、実を結ぶまで成長すること、そしてさらにたくさんの種を生み出すこと…。それを見て、信じて知ることはできても、なぜそうなるのかと最初から最後まで説明し切ることはできない!まさに神秘の中で私たちが生きている者だと、このたとえがこう囁いているのではないかと思います。

二つ目のたとえ、これはある意味、より隠された意味が含まれているたとえだと思います。教会生活がある程度長い方々にはなじみのあるこのたとえ。からし種はどんな種よりも小さいがどんな野菜よりも大きく成長することができるという、有り切った教訓的なメッセージとして私たちは聞いてきたものかも知れません。

実は、イエスが生きていた当時のパレスチナ地域においてからし種とは(少し衝撃的な解釈になりますが)、雑草のようなものだったらしいです。つまり栽培者が栽培しようと種を蒔いて成長させる類の草ではなくて、目に見えないほどの小さな種がどこから飛んでくるのか、どこからつい生えてくるのか、まさに雑草のように知らないうちにできてしまう…。何かを栽培しようとした人には厄介な存在としてのからし種だそうです。

イエスが天の国をこのからし種のようにたとえていることは、ある意味、この世における神の国、教会、信じる人々の存在をより現実的にたとえているものではないかと思います。そうです。この世における神の国とは、からし種のように小さいという意味だけがたとえられているのではなくて、この世で力をもっている人の目からすれば取り除きたいもの、だから繰り返し取り除かれて来たかもしれないからし種のようなもの。しかし、そのからし種は抜かれても抜かれても、再び生えてくる強い生命力をもつ草のように、この世で成長し、空の鳥が来て巣を作るほどに成長していく!これが、イエスのたとえの真意にもっと近い意味ではないかと思います。

小さかったけど大きなもの成長して驚いたという、ある意味有り切った意味だけでなく、まさにこの世における神の国はからし種の生命力のように、皆が見捨てたところで実現する神の国と信じる人々の働きを深くたとえているのではないでしょうか。

建築家の捨てた石がむしろ隅の親石となったという別の御言葉もあるように、この世の人々の基準では見捨てたところで神の国は小さながらも存在し、実現する、そして成長するという主イエスのメッセージ、私たちに正しく届いていることでしょうか。

「神の国」と言われる時に「国」とはどういうものでしょうか。国とはただ領土だけではなく、そこにその国の主権と統治権が及んでいて、それに納められるによって国と定義されるはずです。私たちにとって国とは地図で目に見える土地のことだと思いがちです。しかしたとえば、日本という国のど真ん中にアメリカという国の統治権が及ぶ大使館もあり得ます(実際あります)。そのように、この世界で神の国が実現するとは、私たちが今この世で生きながらも、神様の統治によって生かされる時、私たちは神の国の「民」と言えるものです。主の祈りで「御国が来ますように」と祈るのは実はこういう意味です。今目に見える私たちの存在はこの地上に属しているけれど、それと同時に神の導きと力、統治によって生かされる時、私たちの神の国の国民の一人です。

その一人が、この世でどんなに小さな一人だとしても、その一人が神の国の一人ならば、人が気付かないうちに成長し、人の思いを越えて神の国にますます近づき、成長していくというメッセージ。私たちはこのイエスの励ましのメッセージをたとえから聞き取り、それによって生かされる私たちになりたいと願います。主イエスにつながることによって、ますますこれを「分かる」私たちになりたいと願います。

  この礼拝に招かれ、神様を信じようと導かれる一人ひとりは、この世界で神によって蒔かれ、成長させられるからし種のような存在です。どんなに小さく始まっても、神の国に向けて成長する私たち。だから今日の第二の日課が言っているように「キリストに結ばれる人は誰でも、新しく創造された」神の国の民であると、イエスの教えが今日私たちを気付かせるのです。

この世の「自分主体」の自分ではなく、神の国の民として生れ、生かされる業が、私たちの間でますます神の国の力と業として実現されることを日々「分かる」ことができるように願いましょう。

悪い霊に取りつかれている者はどちらか。

2021年6月6日(日)聖霊降臨後第2主日 礼拝説教要旨
創3:8〜15 コリント二4:13〜5:1 マルコ3:20〜35
「だから、わたしたちは落胆しません。」今日の第二の日課コリントの信徒への手紙二に書かれている力強い言葉。この言葉を語っている「わたしたち」とはパウロとテモテです。コリントの教会の人々に書いた慰めの手紙です。この手紙を書いている彼らも、この手紙を受けて聞く人々も艱難の中にいたことが手紙の内容から読み取れます。それは私たちの世界の歴史に残されている様々な記録、初代キリスト教会への迫害の歴史でもあります。

なのにどうしてパウロとテモテ、そして彼らと繋がっている信仰の仲間たちは「落胆せずに」信仰を守り抜き、むしろ信仰によって人々を励まし、働き続けることができたでしょうか。その答えも本文の中に記されています。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(18節)

簡潔に宣言されているこの信仰の言葉の深い洞察と分かりやすさに感謝します。まことにその通りです。目に見えるものだけを見るとき、私たちに返ってくるものは衰え、疲れ、悲しみ、虚しさです。一時の力強さ、美しさ、喜び、楽しみ、愛しさ…これらは「過ぎ去る」からです。悲観的なことを語っているようですが、目に見えるものを見ての事実です。目に見える形で私たちも早かれ遅かれ、いつか消え去ります。目で見る限りの事実です。

幸い私たちの命には目に見えるものだけでなく、見えないものを感じ、求める感覚も与えられます。私たちの感情、心、信念、絆、愛…信仰を語る前に人間として一般的に認められる「見えないもの」によって私たちは生きています。ある文学者はこう言います。「人の体は単に年を取ることによって細胞や臓器の機能が衰えていく体に限らない。生涯をかけてその上に文学的な意味が刻まれ、絶えず上塗りされるからである。」

人を人とならしめるのは、人が目に見える体だけではないから人であり、また目に「見えないもの」を感じ求めるからだと言えましょう。実は目に「見えないもの」も色々ですが、その中で最も輝かしく、人の最大の限界と悲しみ、絶望を乗り換えさせるもの、それは聖書が教える信仰です。神が与えられる永遠の命と場所。これを目標とし、辿り着くべきしるしとして生きたパウロとテモテらだからこそ、この世の試練の中でも喜び、感謝し、また自分だけそうするのではなく人々を励まし、助けながら生きられたのです。間違いなく彼らが直面していた苦しみは私たちより遥かに大きかったものでしょう。しかしその中でも彼らがこのように証ししていたのは彼らを支配しているもっと大きな「見えない力」が働いていたのを信じられます。素晴らしい彼らの証し、繰り返し聞きましょう。「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」

まさに私たちが日々聞き続けても、日々励まされる名言ではないでしょうか。大切なのは、「見えないもの」に目を注ぐこと、イエス・キリストを見つめることです。それが信じる人にとって、この世を去る瞬間までの目標です。

今日は、今日の第二の日課の素晴らしい証しから触れました。これが神を信じる人々に共通する見方、生き方であって欲しいところです。しかし人間は脆く、罪深いゆえに、そして「見えないもの」であるゆえに、このように人を救い、生かすものから信仰の目を離してしまいます。ほぼ常に「見えるもの」、(見えるものがすべて悪いものとは限りませんが)その中から邪悪なものに触れ、それに捕らわれがちです。今の私たちもそうですが、昔の人々もそうです。もともと自分を罪深い、弱い者と認める私たちもそうですが、人々から信心深いと見えた人々でもそうです。今日の福音書に登場する人々の姿を見ればそうです。

今日の福音書の記録は決して難しいことを語っている場面ではないと思います。要するにイエスの働きと不思議さ、それに世間での人気と噂が加わり、本文に書かれている通り「あの男(イエス)は気が変になっている」と思われていたことです。しかも当時のユダヤ人の間でもっとも権威者である律法学者たちもそう思っていたということです。「ベルゼブル」という慣れない単語が出ていますが、断定はできない推測として「バアル・ゼブル」の変形だろうと。つまりその土地の神、豊作を願う神という存在、もちろん唯一の神の民、イスラエルにとって拝んではいけない偶像、だから悪霊としての存在です。

人々がイエスをこのように思う理由、そして当時の権威者たちさえもこのように見る理由、それはある意味イエスの働きがあまりにも素晴らしい、不思議だったからでしょう。しかしそれを「見る」人々全部がイエスを良く思う訳ではない。むしろ良くないと思うどころか、イエスを妬み、憎むことになる。今日の箇所がマルコの3章だからイエスに対するこの見方、このような思いはまだ出始めている部分ですが、福音書全体の大きなストーリーの流れは、この人々・権力者たちとイエスの対立で占められる福音書の展開になります。もちろんイエスの十字架の死も、後のイエスの群れと教会への迫害もこの思いが原因です。

なぜイエスを憎む人々はイエスをこのように思うに至ったのか。簡単に言ったら思い違い、嫉妬、妬みによる憎しみです。イエスの教えと行いが人間的な目で革新的すぎるほどまっすぐなものだったかも知れません。しかしそれで対立と論争だけでなく、陰謀で殺そうと、実際殺したのはイエスの敵対者たちです。なぜそうせざるを得なかったのか。言葉と業ではイエスに勝てないゆえ、イエスによって自分たちの大切なものを奪われると思われたからでしょう。それが名誉であれ、権力と地位であれ、自分たちの信仰であれ…イエスは彼らを奪う存在だと見ていたから、しかも人々に受け入れられるイエスへの妬みとがある意味絶妙に合わさって彼らを捕えたのです。

イエスは悪霊の力によって人々を治療し、悪霊を追い払っている…この見方は敵対者たちの思いの一つ、彼らの隠れた本心の表われです。厳密には、せめてイエスは悪霊に取りつかれているかどうかはまだ分からないところ、そう思いたい、そういうことにしたい彼らの思いの表れなのであります。

私はこの出来事を、この世の人間の間でもっともよく見る妬み、対立心の表れだと思います。この出来事の事柄が霊的な事柄であって、事柄を広げればこれと同じような対立、見方、偏見を数えきれないほど発見できる私たちの世界だと思います。ひょっとしたら私たちの日常からも容易に見られる姿ではないでしょうか。

要するにある出来事を、相手を素直に見ることができず、曲げて見る。曲げて見たものを事実かのように偽る、広げる…。邪悪な姿です。私たちは、私たちが聞いている相当のものがこれらの部類の噂ではないかと真剣に検証すべきかも知れません。もちろんそれ以前に自分から曲げて見ないように、偽りの事実の発信者にならないように警戒すべきでありましょう。

私たちが知らず知らず犯してしまう罪は仕方ない…悔い改めるしかないものとしたとしても、自分の心から出る見方と言葉によって生まれる罪には警戒すべきであります。

言うまでもなくこういう見方、思い方の原因は「自分」です。出来事をありのままに、相手をありのままに見られない理由は「自分」です。自分がそう見たいからであり、自分の思いが原因であるものを曲げて見る、その自分が原因です。そしてこれは自分の悪、罪に留まらず、もっと膨大な悪になりかねません。ある意味悪の種とも言えます。ここでイエスを「悪い霊に取りつかれた者」、「悪霊の力で悪霊を追い出している」と非難する人々、彼らこそが真実でない思い、非常に邪悪な思いに捕らわれている彼らなのです。

悪霊が他のところにいるのではありません。そんなに簡単に人の目につき、簡単に非難されるような単純な存在でもありません。自分が見たいように見て悪口を吐き出し、相手を呪い貶めたいと思う彼ら自体、その心の深い部分が悪い力に捕らわれている悪霊の虜と言えましょう。悪い力に支配されているから彼らの言葉と行い、相手に対する態度が邪悪なのです。

実はイエスがいた時代、病気になっていた人々よりも、気が変になっていて悪霊に捕らわれていたと思われていた人々よりも、深い悪の支配にいたのはイエスを拒んだ人々。単にイエスと考え方が違ったから深い悪だと言っているのではなくて、自分たちと合わないイエスを、世の様々な悪を利用して罠にかけ、貶め、人々を扇動して裁いて殺した悪行のゆえに、彼らこそが深い悪人です。目に見える彼らの立場と理屈が彼らの本質ではありません。目に見える姿を生み出している彼らの中、奥の見えない霊が、悪に捕らわれている彼らの本質です。

本当に神を信じる人ならこのようなことは出来ないことと思います。相手を貶めることが神の御心ではないことを、信じる人は知っているはずです。「殺してはならない」、「隣人の物をむさぼってはならない」…。これら、いわゆる十戒に含まれている戒めを表面的に、見える部分においてだけ守って、奥の見えない心は別の思いを抱いてのいい?!そういう軽い戒めではないはずだからです。神様は私たちの心の深いところまで見ておられる方だからです。

主イエスは、こういう邪悪な思いに捕らわれていた人々を悟らせて言われました。「悪魔が悪魔を追い出すならば、その悪魔の勢力はもう分裂状態ではないか」と。「内輪で争う家が成り立たない」ように、悪霊同士で争う悪の勢力はもう滅びる勢力ではないかと。ご自身が悪霊の力によって悪霊を追い出しているのではないことを、このように悟らせてくださいます。

そして言われます。「ある家を略奪しようとする者はまずその家の強い者を制してからその家を奪い取る」ものだと。私たちが読む形の文脈上、この部分は少し理解し難い並びにもなっていて解釈も少し別れる部分かも知れませんが、言い換えて読み取るならばこういう意味ではないでしょうか。家にたとえられる「人」もしくは「ある勢力」を支配しようとするならば、まずその存在の一番強い部分を制しようとするゆえに、悪霊から解放されようとするならばまず悪霊を追い出す必要があり、逆の場合、もし悪霊が神の人を奪い取ろうとするならその人を支配する聖霊、神の力を追い出すべきだろうと。それゆえに「聖霊を冒?する罪は他のどんな罪よりも大きい」という意味ではないでしょうか。

私たちは神様と主イエスによってこの世に与えられた神の働き、聖霊の働きを見つめて喜ぶ人であって欲しいのであって、神の働きを拒む深い過ちを犯したくはありません。地上での働きに、食事をとる暇もなかった程に励んでいたイエスは、神の働きそのものであったけれど人間の目では変人のように見られていたようです。そして所々、人々の思いからすれば、やり過ぎではないかとも見られていたようです。

しかしその姿は、自分と身内のことを当然先に思いたがる人々に対して、本当の意味で神に従うことはどんな姿なのかを正しく示すためのイエスの姿でした。「誰が(本当の)わたしの家族なのか」、「神の御心を行う人こそわたしの兄弟、姉妹、家族である」。イエスはこう示しました。

まして私たちは神の働きを喜んで受け入れ、神によって動かされる仲間を受け入れる私たちでありたいと願います。神様によって真の仲間になりたい一人ひとりであって欲しいと願います。そういう神の招きと働きを拒むという罪、さらに自分の悪のゆえにもっと大きな悪を生みだす私たちにならないことを注意すべきではないでしょうか。私たちは純粋な目で、見えない領域にて人を動かす神様の働きを喜ぶ人であって欲しいと願います。


私たちは神の子ども

2021年5月30日 三位一体/聖霊降臨後第1主日礼拝説教
イザヤ6:1〜8 ローマ8:12〜17  ヨハネ3:1〜17
 先週は聖霊降臨を記念する主日でした。イエスが約束した聖霊が弟子たちに降りて臨在したことで、地上の教会の宣教が開始した記念日です。クリスマス、イースターと共にキリスト教の三大祝日とも数えられる祝日でした。世界中に祝われるこれらキリスト教の三つの祝日ですが、クリスマスとイースターよりは小さい祝日のように感じる感覚があるでしょうか。もしそうならば、覚えられ、祝われる文化的な様子でそう感じるかも知れませんし、聖霊が降った出来事は、イエスが人としてお生まれになったことと死んで復活したことのように大きいことではないという感覚かも知れません。

 しかし聖霊が降ったことを祝う期間は、私たちの教会の暦として、実はイエスの誕生や復活よりはるかに長いです。イエスの誕生をテーマにする主日は待降節(アドベント)の4週とクリスマス、それに顕現節の一部と言えます。イエスの復活は、イースターから聖霊降臨祭までの50日に当たる復活節(6〜7週?)です。それに比べれば聖霊降臨をテーマに掲げる主日はなんと1年の半分、年中52週の内27週ほどが聖霊降臨と関わる週です。私たちはこれから「聖霊降臨後」と呼ばれ、数えられる長い期間を始めます。もちろん期間の長さが重要度そのものではありませんが、こんなに長い期間を聖霊降臨後と位置付けることには、私たちの教会にとって聖霊の働きの大切さの表れではないでしょうか。暦の話しはこれくらいにしますが、私たちの教会は聖霊の働きによってできている存在です。教会を建てたイエスの弟子たち、信じる人々を動かしたのが聖霊だからです。

 キリスト教会は伝統的に、聖霊降臨を祝う2週目を三位一体主日と命名して守ってきたようです。聖霊がこの世界に降りて臨在したことによってキリスト教会が誕生したところで、神を説明する必要があったからではないでしょうか。

 三位一体…三つにして一つという意味。人間的な論理ではぴったりに当てはまらない、まさに私たちの理解と知識を超える説明です。神様だからです。人知を超える存在であるから実は説明し尽くし、人間的な理解の中に限らせることはできませんが、この世界に示された神の姿は、父なる神、御子イエス・キリスト、そして父なる神とイエスから送られる聖霊、この三つの姿(位格)で示されたこと。そしてこの三つの位格はすべて、同じ一つの神の本質からの姿であって、父、御子、聖霊はどちらが上、どちらが下でもない同じ位格の存在であるということ。キリスト教会の信条の内容、教理そのものです。

 皆さん、教理は好きですか?変な質問ですが、教理と呼ばれてしまったら硬く感じるのは、全員ではなくても多くの方々の感想ではないかと思います。毎年回ってくる三位一体主日でもありますので、毎回同じような説明にならないことを目指して、今年は教会の歴史で三位一体論をどう論じてきたとか、教会の神学がどう言っているか、世の中にどんな説明があるか…のような語りは省いて語りたいと思います。私から、三位一体をどう受け止めるか、助言的なことを語りたいと思います。

 父、御子、聖霊。神はこの三つの姿で私たちの世界に示され、三つは同じ本質、一つである。実はとても整った説明です。整ったと言えるまでかなり論じられ、磨かれた歴史と経緯があります。これは私たちに伝わるように磨かれ、整われてきた説明だから、そのように素敵な説明として受け止めてください。矛盾するとか、違うのではないかと思わないでください。素晴らしい説明が与えられたことを感謝して、後は三つの姿の神様を感じるようにしてください。矛盾していると感じるのは人間の論理が適切な表現を見つけていないからであり、違うと感じるのはあなたがそのように思うからです。何でも自分の考えと感覚に納得できなければならないと思わないでください。とりわけ神様がそのようでなければならないと思わないでください。納得できなければ気が済まない…それはある種の傲慢ではないかと私は思います。神様に対する理解においてそうです。アウグスティヌスも同じようなことを言っていたと思います。「もし完全に把握できるならそれは神ではない」。

 自分の理解の枠の中に納まらないことで納得できないという姿勢ではなく、とうていはかり知ることができない神様が父なる神と、人としてこの世に来た神の独り子イエスと、神の霊・イエスの霊という姿に示されて、この世界と命について、罪と死からの救いについて、聖なる霊の働きと助け、導きを知ることができることを感謝し、喜ぶことができます。私たちに向けられる神の働きと恵みを信じて感じることができます。信じれば、把握できなくても感じられます。今日の本文の言葉のようです。風がどこから来てどこまで行くのか分からなくても、風を感じ、風が何を動かすのかを見ることはできます。

 「信じる」ことは、知って納得することではないと思います。把握されたから納得できたから認める、付いていくのはある意味、「信じる」、「従う」こととは違うことと思います。自分が納得したから付いて行ってあげるというかなり自己主体的な要素が入っているのではないでしょうか。従順というより同意…?

 人(自分)の考え方と知覚に合わなければならないという思いでは、神様だけでなく、実は私たちの人生に起きる様々なことも理解し切れるものではないと思います。自分の計画、想定どおりでないことはもちろん、なぜ自分にこんなことが起こる、なぜ自分が苦しみ、悲しまなければならない、なぜあの人はああなのか…。この姿に自分という主体はあるかも知れませんが、自分を超える理解はないかも知れません。場合によっては相手になる人も限られるものかも知れません。和解や赦し、希望というものも限られるものかも知れません。

 このように、自分の理解という壁にぶつかっている人物が今日福音書に登場していると言えます。ニコデモという人がそれです。彼は、もちろん私たちとはだいぶ違う背景の人ではなりますが、かなり有識で真面目な人だったと思います。律法に厳格なファリサイ派の人で、ユダヤ人の中の議員、イエスとの会話の中からも教師であったみたいです。端的に言って超エリートの一人と言えます。

 それにこの人は善良な人だったと思います。神から遣わされたと自分で思っているイエスの元に来て聞いていること、後では、イエスに敵対するファリサイ派の人々と議員たちの間でイエスを擁護しようとしたこと、十字架で息を引き取ったイエスの葬る場面に没薬などを携えて来た数少ない一人だからです。

 しかし彼は、ユダヤ人の中で神と神の掟を教え、判決する先生ではありましたが、本当の意味で神については知らなかったからイエスの元に来て訪ねています。訪ねるけれど、その会話においてイエスと噛み合わないずれが出てきます。

「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」→「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができましょうか。」

イエスは肉でない霊の命について語るのに対して、ニコデモは霊的なものを肉に限定して理解しようとしているからです。肉と言えば、この世の自然的なもの、目に見えるもの、人間的なものです。ニコデモは人間社会では優れた人であったから、律法の知識も、自分たちの民族の歴史も、先祖の言い伝えにも詳しかったでしょう。しかしこれらのものだけで、人の知識で神様を知ることはできないことを、主イエスを通して知ることができます。むしろニコデモが持っていた優れた知識は、それを含んでいてそれを生み出したはずの人間世界・社会の中で有効なものです。これらの知識と掟を知って、把握しているから神に対する信仰があるものではありません。あくまでも神についてのごく一部の、人の知識です。

それでは、何が神の国に繋がり、新たに生まれることでしょうか。水と霊によって生まれ変わり、神の国に入ることだと主イエスは言われます。肉的な私たちの認知において、ここでいう水と霊が何を指すものか難しくはあります。この場合の水と霊をあまりにも別々のものとして、物質として思わないでください。聖霊が臨んだ水のことです。体を洗い、喉を潤す水ではなく、神の前で罪を清める水です。洗礼を受けて水から上がったイエスの上に降りてきて、「あなたはわたしの愛する子」と教えてくれる霊です。神によって与えられる霊です。なぜその働きがあるか、私たちには分かりません。神様の働きは風のようだからです。神様の自由だからです。しかし神の御子、神から遣わされたイエスの言葉からして、それは愛のようです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

信仰は結局のところ、この言葉の意味を論理的に分析し、把握するのではなく、神様はこのようにしてこの世を愛しておられること、赦そうとすることを、そのままのみ心として受け止めることです。自分からの思いで神様を追求して造り出すのではなく、このように愛し、このように赦し、救われる方を神様として受け入れ、従うことです。父なる神様が私たちのためにイエスをこの世に遣わし、イエスの教えによって神様を知り、イエスの十字架によって赦され、天の御国に入られる。これらを感じさせ、悟らせ、信じさせるのは聖霊の働きである。聖霊がこれを信じるように私たちを動かす。これはこの世の肉的な存在でない神を、私たちの言語で証ししている素晴らしい説明ではないでしょうか。

私たちが肉的な命を求めたら私たちは死にます。いつか死ぬと言った方がより正確でしょうか。しかし霊によってあなたがたは生きると今日のローマの信徒への手紙が言っていました。さらに「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」、「この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです」、「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを」証ししてくださいます。

私たちが神様を父として選んで呼び求めるからではありません。このことは私たちの肉身の親との関係でも理解できるはずです。自分が親を選んだのではありません。親から産まれ、親となってくれたから親です。神様が私たちを子供とさせてくださるそうです。これを私たちへの神様の愛として聞いて受け止めることができるように動かしてくださるのは聖霊です。信仰は、神の子供となるのは、私たちの肉的な賜物ではなく、神様と私たちを繋ぐ聖霊による賜物です。私たちは聖霊によって神様の子供として生まれるのです。


主は祈られる。彼らをお守りください。

2021年5月16日 復活節第7主日/主の昇天
使1:15〜17、21〜28 ヨハネ一5:9〜13 ヨハネ17:6〜19  
 今日の主日はイースターからしばらく続いた復活節の7週目、最後の主日です。そしてもう一つの暦としては主の昇天主日です。私たちの教会が守る暦に合わせて日課も二つがありましたが、今まで主の昇天の場合が多かったのではないかと思い、今日は復活節第7主日の日課を選びました。ちなみに昇天主日としての日課はルカによる福音書の最後の部分、主が弟子たちの前で天に昇られる場面です。そして今日、復活節の最後の主日として与えられている日課は、ヨハネによる福音書の中で主の「告別説教」と言われる場面の最後の部分、主イエスの祈りの言葉です。

昇天主日の日課にしても、復活節の日課にしても共通するものは、いよいよ地上から離れる場面で地上に残される弟子たちに対する主イエスの心です。私たちは主イエスの復活によって主イエスが生きておられることを信じて礼拝する群れですが、地上で目に見える形で主イエスと共に生きる形ではないので、いよいよ地上から離れる場面でのイエスの言葉は信仰的に格別な意味をもつものと思います。今日は、ヨハネによる福音書に記されている主イエスの祈りから、この地上の私たちに対する主イエスの心を読み取り、感じたいと思います。この箇所についてアウグスティヌスは言いました。この箇所のイエスの言葉と祈りは当時の弟子たちだけでなく、主イエスを信じるようになるすべての人々に向けられているものであると。実際今日の福音書の部分の続きの本文にイエスはこう祈っておられます。「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。」

 この章のすぐ後の小見出しに、「裏切られ、逮捕される」と書かれています。今日の主イエスの祈りの言葉は、地上で一時の苦しみと共に死を迎え、天に戻られるイエスから、しばらく世に残される弟子たちと「私たちのために」祈られた祈りです。私たち一人ひとり(自分のために)主イエスがこう祈られたと聞き取る心が私たちに与えられることを願います。

 皆さんは自分のために誰かが祈る祈りを聞いたことがありますか?人に聞かされることが恥ずかしいと感じる人がいるかも知れませんが、同じ信仰をもつ人として誰かが自分のために祈っているということは大きな励ましであり喜びだと思います。祈りが上手、下手の問題ではありません。実際上手な祈りと下手な祈りがある訳でもありません。真実な祈りとそうでない祈りはあるかも知れません。誰かが自分のために祈る言葉は心に響くはずです。なぜなら祈る人が自分の信仰をもって神様に願ってくれるから、そしてもちろんその中には自分を思ってくれるその人の心もあるからです。そういう意味で自分以外の誰かのために祈る祈りは、神様と祈る人、そして祈られる人とが繋がる素晴らしい業でもあります。別の福音書にイエスはこうも言われていました。「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。…どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。  二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる。」祈りは神様と祈る人、祈られる人を繋ぐ業。まさに今日の福音書の場面で祈っておられるイエスの祈りも、父なる神とイエスの繋がりがさらに祈られる弟子たちと信じる人々に繋がらせる働きとして、私たちに届いています。

 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」とのみ言葉を今年度の主題聖句として掲げている私たちの教会は、顔を合わせて会うことが困難な人が結構いるこの時世、神様と繋がり、互いに繋がることの手段として、やはり祈りを心がけ、用いるべきだと感じます。ひょっとしたら行動の伴わず祈りのみでどんな効力があるのかと思われる方もいるかも知れませんが、真実な祈りは何か実践すべき行動を思い起こさせると思います。そして真心の祈りは私たちに出来る行動でもあります。その祈りを聞いてくださる神様が働いてくださるからです。今日の主イエスの祈りを、まさか「祈りだけだ」と思う信仰者はいないと思います。イエスだからということもあるとは思いますが、「祈りは信じる人の最大の武器」とよく言われるように、私たちは信じて礼拝する人として祈るべきです。礼拝の中で、クリスチャンとして形式的に、誰かの祈りを聞く…だけではなく、自分の真心をもって祈る。これこそ私たちが生き生きとした信仰をもって生きているかそうでないかの証しではないでしょうか。

皆さん、ぜひお祈りください。代表で祈る以外なら誰かに聞かされないので安心して、戸惑わず祈りましょう。短くても、心の中だけでも。できれば自分以外の人のために(自分以外のために祈るのを執り成しの祈りと呼びます)、さらに願うならば名前を上げ、誰のために祈っているか特定できる形でお願いします。それが、私たちが互いに、そして神様と繋がる方法だと思います。

 話を戻します。主イエスも私たちのために祈られました。その祈りの言葉の中に、この世でイエスの言葉を聞いて「信じる人々のために」とヨハネによる福音書で書かれているのではありませんか。今日の本文の続きの祈りにも「わたしに与えてくださった人々のためにお願いします」と書いているイエスの祈りがあるのではありませんか。実は礼拝のために招かれている私たちのことを一番先に祈った方は主イエスだと言えます。私たちが信じるようになったのは、礼拝するように招かれたのは、み言葉にふれるようになったのは主イエスの祈りのお陰だったと言えます。主イエス御自身がこう願ったからです。私たちはそれを「み心」と良く呼びます。ぜひイエスのみ心を自分への心として受け止めましょう。実はそれで聖書の大半は理解できると私は思います。私たちが良く分からないと感じるのは、意味と背景などが分からない場合もあるのはありますが、その大半は自分に向けられていることとして感じなく、認めないから「良く分からない」と感じることも多いからです。

 あなたのために祈る方がいる。そう信じてください。そしてその中で一番先の祈られた方は主イエスである。イエスが「私のために」祈られた。そう感じてください。ある敬虔なクリスチャンは心が定まらない時、悩む時、ヨハネによる福音書13章から17章をよく読むと言います。そして周りの人々にもそうするようにとよく勧めるそうです。いわゆるイエスの「告別説教」の部分です。ご自身の死が近づいたことを感じて弟子たちに大切なことを言い残すイエスの言葉です。実はヨハネによる福音書が21章まであることを考えると、ヨハネによる福音書は1/4ほどの分量をもってイエスが地上を離れる直前に言い残した言葉の記録に割愛しています。ヨハネによる福音書を書き記した人が、地上にいるイエスとして最後の言葉をどれほど重要視していたかを垣間見られます。

弟子たちの足を洗い、「互いに愛し合いなさい」と新しい掟を示したのも、弟子たちの裏切りと違反を予告したのも、「わたしは道」、「わたしはぶどうの木」と説いて語られたのもこの告別の説教の中に入っています。そして「わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない」と、聖霊を送る約束と、悲しみが喜びに変わる約束も、この何に含まれています。その最後の部分が今日の祈りの言葉で、その中に私たちのことが祈られていることを私たちは信じて受け止めたいと願います。  他の場面と比べて文面的にはちょっと読みにくく、整えられていないと感じる文章かも知れません。繰り返される長い表現も目立ちます。一時の悲しみの瞬間が近づく中でのイエスの切実さが込められているでしょうか。ここに書き残されているイエスの祈りとして、イエスが弟子たちと信じるようになる私たちのために祈っている内容をまとめると次のことになります。 11節、「彼らを守ってください」。なぜなら「彼らはあなたのものだから」。そして父なる神とイエスが一つであるように、「彼らも一つになるため」に。15節、「彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださる」ようにと。17節、「真理によって、彼らを聖なる者としてください」、「あなたの御言葉は真理です」。19節では「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」と願い、今日の本文を越えますが、続きのイエスの祈りの最後の部分において、「彼らも一つになる」こと、「彼らが神に愛されていることを知るようになる」こと、イエスのいるところに私たちを「共におらせる」ようにと、つまり天国におらせてくださるようにと。  今私が言ったのは、主イエスが私たちのために祈られたことを繰り返しただけです。ぜひご自分で読み、主イエスの声を聞いてください。整われた文でないと感じるかも知れませんが、だからこそ声が聞こえるような言葉かもしれません。何よりも大切なのは、「私」と「あなた」に聞かされている言葉として聞くことです。

 天におられる私たちの主イエスは、私たちがこの世の中の様々な悪から守られること、私たちが互いに一つになること、私たちが神の真理であるみ言葉に繋がること、私たちが神に選ばれ、愛されていると知ることを願っているそうです。私たちも祈りましょう。


神の愛が私たちの内にある

2021年5月2日 復活節第5主日
使8:26~40 ヨハネ一4:7〜21 ヨハネ15:1〜8
 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」。私たちが本日福音書から聞いた御言葉であり、そして今年度の私たちの教会の主題聖句でもありました。この御言葉を主題聖句とした思いは、ここに建てられているこの教会を、神様が私たちに与えてくださった、またこの地域のために設けてくださった神様の「園」だと信じ、私たちがこの教会を通してますます神様と繋がり、また私たちも互いに繋がっていることを心がけるために、「繋がる」ことを表しているこの聖句を主題聖句としたつもりでした。

 先週は、私たちが誰と繋がっているか、その繋がる存在が私たちの「生きる理由」だとお伝えしました。羊が生きる理由、生かされる理由、それは羊飼いであって、そして今日のたとえからはぶどうの枝が生かされ、実を結ぶ理由は、生きているぶどうの木に繋がっているからであります。

 私たちが生きている理由は、私たちが御言葉の中で羊飼いとして表され、ぶどうの木としても表されているイエスと繋がるからであり、繋がるからこそ知る「愛」によって育まれるからであります。それをますます深く、身近に感じ、味わえるために、私たちの教会はこの御言葉を主題聖句と取り上げました。またその象徴として、目に見えるぶどうの木も持っているのであります。

 私たちの教会の庭、ちょうどこの十字架の外側に植えられているぶどうの木のことを皆さんご存知でしょう。私はこのぶどうの木を、かつて中尾さんご夫妻が植えてくださったと聞きました。今年の1月に中尾カツエさんは天に召されました。そしてその時の状況によって、たくさんの人々と共に見送ることができずに葬式が行われましたが、この中尾さんご夫妻を通して天草からの結構貴重な品種のぶどうの木が植えられたのだと聞いています。一時はこのぶどうの木から成るぶどうでぶどう酒を作り、それを聖餐式でも用いていた話も聞きました。再びそれを目指しましょうと総会でも共有した話です。私たちの教会の信仰そのものではありませんが、身近な目標として、このぶどうの木を再び実の成るぶどうの木にしましょうという目標も与えられました。

それは、私たちがこの教会を通してますます神様と繋がる象徴、実を結ぶという象徴、またこの教会を通して出会っている人々との繋がりをますます大切にしましょうという象徴とするためです。そして天に召されましたが、私たちの教会のために良いぶどうの木を残してくださった方々の思いを大切に受け継ぐために立てられた目標であることを覚えています。

このぶどうの木から再びぶどうが成り始めました。ぶどうの実が成ることを信じて、これから成るという意味ではなく、本当に成り始めています。先週の礼拝後、除草作業をしながら裏の庭に回ったところでぶどうの実が成り始めていることを見ました。何人かの方々にはすでに伝えているものであり、Facebookでも共有しました。

しばらく実が成らなかったぶどうの木からなぜぶどうが成り始めたのか、その正確な理由は分かりません。どなたか、実はこっそり世話や手入れをしたものでしょうか。あるいは再び実の成るぶどうの木にしたいという私たちの思いが叶ったことでしょうか。ぜひそう信じたいものではあります。確かなことは、これは私たちの教会への素敵なプレゼントであり、私たちはこのことを喜び、ますます聖書の御言葉を思い起こさせるプレゼントであります。

まだとても小さな、しかし確かなぶどうの粒であります。私一人だったら見ても気づかないくらいの小ささでありました。実はいつも教会に花を植えてくださったり、草取りや消毒をしてくださったり、それに私にその作業をしかけてくださる妻のお母さんがそれを見つけた次第でした。「ほら、成り始めている。良かった!」それから私も見て確認し、ラインで役員の方々に伝え、少し騒ぎました。今の時点ではとても小さいぶどうの粒でありますが、どうすればこれが本当にぶどうと言えるものになるかと色々話し合っていました。私も以前から少しは調べていましたが、肥料をあげたり、枝の手入れをしたりする以外には何か特別な方法はなさそうです。逆に言えば、それが実るぶどうの木になる方法です。

実は、このようにぶどうの木の育て方について調べる前に、今日の聖書、福音書の中にはぶどうの木の手入れについて書かれていました。主イエスの言葉の中にありました。「わたしはぶどうの木…わたしの父は農夫である。」「実を結ばない枝はみな父が取り除かれる。しかし実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」確かに書いてありました。

その上に、少し調べた情報からこの本文の意味が私は良く分かりました。ぶどうの木は決して自動に実を結ぶ木ではなく、手入れをしなければならない木であることです。ただただそこにいて、枝が伸びるだけで実が成る訳ではないです。ぶどうの木は直立して(立って)伸びる木ではなく、いわゆるツル性の植物、周りの何かに茎を伸ばしてそれに絡んで成長する木であります。その成長から枝に、そして実が成ることに繋がる木です。だからぶどうの木のツルが何かを絡めるように、うちの教会にも置かれていますが、良く柵のようなものを作るのでした。もし周りにツルが絡めそうな物がなければぶどうの木はただ地面にツルを張るだけで、自分の力では上の方に伸びられない木だそうです。

これは、皆さんが話を聞くだけで良く想定できる内容だと思います。この性質からぶどうの木は他の何かと一緒に生きる木であることも分かりました。この十字架の後ろに植えられているぶどうの木も隣の木に絡んでいました。作られてある柵を越えて、隣の大きな木にとても強くしがみ付いていました。ある意味隣の木にとっては迷惑だったかも知れません。濟々黌に上る道沿いに植えられた木に、どれくらい上までツルが絡んでいるか、目では確認できないくらい高く、強く絡んでいて、引っ張っても離れなかったので、その枝は先日私が切りました。切った枝を引っ張っても私の力では離れないくらい長く、複雑に絡んでいたことでしょう。そのツルはまだ隣の木にたるんでいます。

ぶどうの木は周りの何かに絡んで成長する。絡むものがなければ地面を張る形で成長する。しかしただそうやってツルを張るだけで実を結ぶどうの木とはならないのがぶどうの木の性質であります。だから聖書に「手入れをなさる」と書かれていて、昔のイスラエルの人々も当然知っていたことでありましょう。これが今回、私たちの教会にあるぶどうの木を見て、ぶどうの木の習性を少し調べて気付いたものです。私は今日、福音書の解き明かしを、これをもってしようと思い、語っているつもりです。

ぶどうの木は手入れがなければ実を結ぶことができない。このことは実は私たちに大切なことを教えているのではないかと私は感じます。土の中でどれだけ豊かに水分と栄養を吸い込んで伸びたとしても、伸びるだけでは実を結ぶことにはならないことです。その栄養とエネルギが全部枝を伸ばすことだけに使わされては実はならないことです。吸い込んだ水と栄養が実を結ばせるために選択されなければなりません。そう選択というか、流れと繋がりを作るのが手入れでありましょう。無駄に伸びすぎることがないように、実を結ばせるための栄養とエネルギにすること、それが農夫の手入れです。

聖書を代表するこの有名なたとえ。そして先週の箇所のおいて、同じヨハネによる福音書の箇所から羊と羊飼いのたとえ。ぶどうの木と枝のたとえ。この二つのたとえには共通する性質があります。羊は羊飼いの世話と守りがなければ生きていけない存在であること。ぶどうはぶどうの木と枝を手入れする農夫の働きがなければ実を結ばないこと。養ってくれたり、手入れをする存在が必要であること。それが、私たちでもあることを、聖書はたとえを通して伝えてくれるのです。そして本当の意味で私たちを養い、手入れをしてくださるのは、神様でありイエス・キリストであることをヨハネによる福音書は伝えてくれるのです。

やはり私たちは確かな目的と理由をもって生きなければなりません。何か実を結ぶ生き方をしたいと思うならば、それを私たちの生きる目的としなければなりません。なぜならばぶどうの木も私たちに教えてくれるからです。どんなに長く、大きく伸びていったとしても、伸びるためにのみ栄養と力が使わされるなら、いつまでも実を結ぶことはできないからです。

ぶどうの木はぶどうという実を結ぶために植えられるものであるように、私たちも何か良き実りを神様に向かって実らせるために生きていかなければいけないこと。そのためには、ぶどうの木のエネルギが実をならせるために使わされる選択がされなければならないこと、それが実を結ぶ道なのです。そして私たちが私たちの命を通して実を結ぶような生き方と選択をしようとするならば、私たちの時間、力、命、心…これらのものを、実を結ぶために注がなければならないこと。場合によってはそのためにのみ、力を振り絞らなければならない場合もあること。ただただ生きているだけでは、私たちの命が無駄な方向に伸びたり、進んだりすることもあり得ること。むしろ実を結ぶ方向を見失い、どこまでも「ただ」伸びるだけではますます実を結ぶ道からは遠ざかること。私たちがただ自分のためだけに生きるならば実を結ぶようなことにはいつまでも到達できず、むしろ遠ざかる一方でもあり得ること。ぶどうの木が私たちに教えているのではないでしょうか。

たとえば、家族を愛するという実を結びたいならば、自分の力と時間、働きが存分に家族に行き届くように選択しなければならないことでありましょう。そういう選択と生き方をしないのに、口先だけで家族を愛すると言うだけでは、それは今日の第二の日課の言葉のように、それは「偽りの愛」でありこと、私たちは気付くことができます。家族愛を題材にしましたが、何かを成し遂げたい思い、誰かのために貢献できるようになりたい思い、その他、自分が夢だと思う様々な事柄においても同じだと思います。つまり、そのために、自分の力、働き、人生、心と思いとが、その方向に繋がり、注がれるようにしなければならないこと。そういうこともせず、自分の思い通りにならないものを他の何かのせいにする私たちではないかと振り返る必要があるかも知れません。

私たちが生きる日数、私たちが生きながら伸ばす様々な領域、私たちが生きる痕跡、それらが実を結ばずにただただ伸びていく、いろんなものに絡むだけにならないことを私たちは祈るべきだと思います。実を結ぶために私たちが生きることを祈るべきだと思います。主イエスは御言葉を通して明確に教えてくださいます。実を結ぶ枝は「ぶどうの木に繋がっている」、「生きている」枝であって、木を離れては何もできないこと。そしてこの御言葉を聞く人々にどんな実を結ぶべきか問いかけます。その答えは、聖書を読めば明確に示されているものです。

「互いに愛し合う」こと。これが真実の神を知って信じ、神に繋がってその愛を受けている人たちが結ぶべき実であること。聖書は決して遠回りでなく明確に示しています。それが、神によって植えられたぶどうの木から伸びていく枝として私たちが結ぶべき実りであること。そしてその実によって神の愛がどれほど私たちに豊かに注がれているかを確認するもできるぶどうの木のような繋がり。今日のヨハネの手紙(第二の日課)が言っているように、私たちが「互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださる」ということが逆に証しされる、真実、真理なのです。まさにぶどうの木に繋がっている枝が実を結ぶ証なのです。

私たちの目に見えるあのぶどうの木さえも、伸び方向を整え、状態が良くなったら実を結び始めるということを私たちに教えてくれるのではありませんか。ぜひそれを見て学ぶ私たちになりましょう。そして実を結ぶ私たちになりましょう。目指しましょう。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」ことを示してくださる主イエスは、私たちに必要な糧とものを届けてくださいます。そればかりか、十字架の血潮を私たちに注ぎ、届かせてくださいました。その十字架の血潮が無駄にならないように生きましょう。私たちにその血が流れるように生きれば、私たちもその赦しとその養いによって実を結ぶことができるはずです。主イエスは真実な方だからです。私たちはそのように清められ、実を結ぶまで生きるように招かれている一人ひとりです。


心の目が開く

2021年4月18日(日)復活節第3主日礼拝説教要旨
使3:12〜19  ヨハネ一3:1〜7 ルカ24:36b〜48                                
 本日の礼拝の冒頭でも知らせましたように、復活を祝う3週目の礼拝を迎えて、私たちが共にいます。今日は特に初めて来られた方々がたくさんいらっしゃると思います。大学生として教会と連なる導きによって来られた方、そして前の方に座っていらっしゃる合唱団三つのコーラスグループから、私たちの教会を会場にして活動と練習をされている方々が、今日の礼拝奉仕のために、そして礼拝後のコンサートのために来てくださいました。どのような導きときっかけにしても、私たちがしばらくここで主イエス・キリストの復活による新しい喜びと祝福に与ることが出来ることを心から願いながら、今日の聖書の言葉メッセージについて触れたいと思います。

 ちょっと関係ない話のように聞こえるかもしれませんが、私はこの教会に住んでいるので、昨日3階の屋上から夜空を見ました。何で屋上に行ったかは私の習慣とか生活の中で行われる作業があったりすることだから重要ではありません。とにかく昨日の夕方は屋上から空を見ました。向かい側の山を見つめることもちょっとした息抜きになります。昨日は月が綺麗に見えていました。小さな三日月でした。でも小さな三日月を良く見るうちに不思議なことを発見しました。とても小さく見える月だったんですけど、その月が割れているように見えたんです。その月の先が、なんか割れが入ったかのように。見れば見るほど月が重なっているかのように見えるのではありませんか。私はとても不思議に思い、まず妻にこのことを言いました。下の階でテレビに夢中であった妻に「月がちょっと割れて見える」と言いましたけど何の興味も示してもらえませんでした。あまり聞き入れもされなかったので、私は自分のスマホで月の写真を撮って見ました。そしてその画像を拡大してみましたが、いくら拡大しても写真上では月が割れているようには見えません。 でも再び自分の目で見たら変わらず、一瞬じゃなくて、月は割れているかのように見えます。ついに、テレビに夢中であった妻を申し訳ない気持ちをもって屋上に連れて行って見せました。「ほら、見て見て」と。でも妻には月が割れて見えないみたいです。妻は僕に言いました。「眼鏡かけて見たら?」確かにメガネはかけていませんでした。そして二階から眼鏡をかけて再び三階に登って再び月を見つめたら、月は割れていませんでした。

 で、私はこれは何だろうと思い(便利な世の中です)スマホで「月が二重に見える」と検索しました。したら私のような人は結構いるみたいです。月が二重に見える人々は「眼科に行って受診しなさい」と。実は私は左目と右目の視力の差があるので眼鏡で矯正しているつもりだったのに、眼鏡を外した目で月を見て「これどんなことだろうか」、「月が割れているのではないか」と一瞬思ってしまった出来事。ちょっと面白く馬鹿馬鹿しい話しでもありながら、私は一応今日の話の題材として語ったつもりです。

 世の中で私たちが一番確かなものとするものは、目で見たことでありましょう。もちろん聞いたことという体験も含まれることと思います。一番確かな証拠、それは目で見えるものであることは間違いないことだと思います。ただしよく考えると、目で見えるんものが必ずしも確かでもないということはあり得ることではないかと思います。もちろん私の目のようにボケや視力の問題によって錯覚して見る現象もあれば、同じような現象を見ていても見る人によってその解釈が別れ、真実というものも人によって随分分かれてしまうのは私たちの世界の現実であります。ただ見えるその事実だけが誰にでも同じように認められる真実であるならば私たちの世界は分裂や思い違いはないものかもしれません。しかし同じ現象、同じものを見ているにしても実は見える角度の違い、見る人の視点の違い、そして見えることによって思いと心も分かれていく…。ただただ逆説的なことを言いたいわけではありませんが、見えるものが全てでもない世界、私たちの命であります。

福音書でイエスを見た人々の証言が色々書かれています。もちろんそれも見る目によって変ったことでありましょう。ある人はイエスの復活なんか死者が蘇ることなんかないことに決まっているのではないかと簡単に片付けてしまう人々も世の中では多い中、実はイエスが復活したことを体験した人々の証言も聖書をいろいろ比較してみたらその証言が少しずつ異なったりする記録が聖書の中に書かれています。でもですね、これある意味イエスの復活はなかったということではない確かな証拠といえるものであります。なぜならば同じものを同じ一連の成り行きをたくさんの人々が見る中で、人々が受け止める姿どういうところを重点的に受け止めるのか、それは人々の目によって変わってくるからであります。同じ競技場で同じ競技を見ていても、この場面がこの競技の決定的な場面だと見るその視点はいろいろ違うでしょう。 イエスは復活して何人かの人々に現れ、コリントの信徒への手紙15章、復活の章と呼ばれ呼ばれるその記録によれば何人かの一人二人ぐらいではなく十数人ということでもなく500人以上の前で現れたという記録もあることだから、イエスの復活、イエスの墓は空っぽであった、遺体はなくなっていたという復活の証言は私たちの世界からただただなかったということとして片付けることではもはやできない出来事と証拠です。少しぐらいの不一致はあったとしても世界にこれだけたくさんの記録、証言が存在するからこそイエスの復活は「あった出来事」。少しずつ違う異なる証言、証拠といえるものであります。

皆さん、そういう中で、私たちが目に見えるものが必ずしも全部一致する真実として受け止められない私たちの姿もありながら、聖書が証言するイエスの復活の記録に対して、皆さんはどのような思いで当たることでしょう。そのことを深く考えることとしてもう一度皆さんに想像していただきたいと思います。

皆さんが愛した方々、その中にはもう死んで、今の世の中で目で見たり一緒に触ったりすることがもうできなくなっている方々が、夢でもなく私たちの現実の中で見えてきたとするならば皆さんはどういう心情になるでしょうか。愛する方々であります。世の中の自分とほぼ関係のない誰かが蘇ったということではなくて、皆さんが愛し、身近で深い絆を持っている誰かが、皆さんの今生きている目の前で現れるとしたら皆さんはその方が自分の愛する方だからただただ懐かしく思い、喜びに満たされることでしょうか。そういう方々もいるとは思いますが、私の予想するにそう簡単に、単純に喜べない私たちでもあると私は予想します。私も想像します。既に眠って死んで天に召されたと信じている私の家族の中で、私の目の前にその形が見えてきたとするならば私はどのように思うでしょう。また私の視覚の錯覚だと、私の自覚の錯覚だと思うでしょうか。あるいは確かな証拠はないけれども世の中で伝わっているように幽霊が見えたとするでしょうか。実はいくら愛する人でも私たちの目の前にありえない姿で現れるならば、私たちは多くの場合恐れるしかない私たちである。 それが私たちの姿であると思います。想像的な話をしようとするのではなくて、聖書の中の弟子たちの姿をもうちょっと深く理解しようと思いました。

イエス様に自分の人生をかけて従った弟子たちがいました。その中にはちょっと変な期待、イエス様の心通りの従いじゃなくてそれぞれ人間的な期待も含まれて、しかしとりあえず自分たちの人生を捧げて従ってきた弟子たちが、この世の中で決してあってほしくないとても惨めな死を遂げることになりました。人間として誰でもそのような死を見たくない、そのような死を受け入れたくはない、肉体的にも社会的にも辛くて恥ずかしい死を体験した弟子たちでありました。その後しばらくは絶望のどん底野中で生きていた弟子たちであります。その彼らが何人かの女性たちの証言によって、イエスの墓は空っぽであった証言を聞いてすぐ信じたかと言えばそうではありませんでした。疑い続けました。なぜ遺体が亡くなったんだろう。誰が持っていたんだろうぐらいの思いだったでしょう。そしてイエス様のことで自分たちは人々に責められるのではないかと、隠れて生活していた彼らにイエスが現れた記録が聖書のいくつかの箇所に書かれています。

その姿を見たからすぐ、弟子たちはイエスが死ぬ前から重ねて言っていた通りに復活したのかと信じたようではありませんでした。今日の聖書の中にもその代表的な姿が、そして私たちもきっとこうであろうとする姿が記されているのではありませんか。彼らはまるで亡霊を見るかのように、幽霊を見るかのように、そうならざるを得なく、死に縛られている人々の姿です。ひょっとしたら私たちの姿であります。私たち、人は、「死んで終わりではない」と心のどこかでは思いながら、人は死んだら再び会えないという死の限界と死の力の威力の中で私たちの愛する人々を見ます。そういう目を持つしかない私たちであることは認めざるを得ないことかと思います。 弟子たちもそれと同じような人間だったということを聖書の記録から、短い淡々とした記録ではありますけど、読み取ることができます。でも話しは本当にそれで終わりませんでした。今日のルカによる福音書の中では、イエスをまるで亡霊のように思っていた弟子たちの姿が反映されていました。これは、イエスの死と召天後、初めて立ち上がった教会の中では、イエスの復活はただ霊魂、魂だけが復活したことととされる、いわば部分的な復活として認められる思いに対して、「そうではない」ことを諭すために挿入された記録と解釈されるようです。もちろん私たちの感覚からすればとても受け入れ難いことからではありますが、イエスは信じられない弟子たちに向けてご自分の体をお見せになったと。十字架の上で釘付けられた傷跡、それを見せて触らせたと。「この私だ」と。幽霊じゃない。あなた達と一緒にいたわたしであり、あなたたちが見て目撃し、十字架につけられて死んだあの私であるということを知らされる場面でありました。それでも信じられなかったと思います。 だから一緒に魚をとって、かつて多くの弟子たちが漁師であったゆえに、あの時水辺のほとりで出会ったことを思い出させるかのように、魚を取って一緒に食事をしたという場面さえあって、弟子たちに自分の姿は亡霊や幽霊のような目の錯覚ではなく、体をもつご自身であることを知らせてくださったイエス様の記録であります。

もちろんだからといって、その後この世の人間と共に何歳まで生きましたという形での復活の体ではありませんが、神様から与えられたご自身がどなたであるかということを信じさせるために見せてくださったイエスキリストの体であった。それが今日のルカによる福音書の記録でありました。

そしてこの箇所の中では見落としてはいけないとても大切な文言があります。イエスはこのような姿をお見せられてから、45節あたり、「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」言われたという箇所があります。決して私が発見した聖書の分析ではなく、学ばれたもので、世の偉大な信仰の先人たちが教えてくれたものでありますが、ルカによる福音書の記録のキーワードは「心の目」らしいです。「心の目」であります。弟子たちの見る、その目が変わるのはイエスによって心の目が変われること。そのように祝福された弟子たちは信じるようになったという出来事であります。逆に言うならば、心の目がイエスによって開かれる前までではイエスを見ても亡霊のようにしか見なかった彼らであり、空っぽの墓を見ても、イエスがそんなに死ぬ前から言い伝えていたのに「わたしは三日目に復活する」という預言を信じることができなかった。そういう目に留まっていた弟子たちであるということであります。

しかしイエス様はご自身の愛する弟子たちのために、ご自身の体をお見せになって、「心の目」を開いてくださいました。ご自身の息を彼らに吹きかけてくださいました。創世記の人の創造の記録によれば、神様は土で人の体を形作り、しかしそれそれだけではまだ人としての命ではなく、その体に神の息を吹きかけられて初めて生きる人となったように、イエスご自身もこの場面でご自身の息をかけられて、「信じる目」を与えてくださった出来事。ルカによる福音書が伝えようとしたのはそういう出来事だったのであります。

44節辺りです。イエスは言われました。「私についてモーセの律法と預言書の書と詩編に書いてある事柄は必ずすべて実現する」。ここに書かれているモーセの律法、詩編、そういうものはつまり私たちが手にしている旧約聖書を指しているのであります。旧約聖書に書かれている歴史、教えを通して、この世界にユダヤ人を始めとして伝えられた神の預言は必ず実現するのだとイエス様は教えてくださいます。しかしそれだけではまだ「心の目」が開かれてない、ただ残されて与えられている書物の教えとしての文字の記録ではないかと思います。そこでイエスは彼らの「心の目」を開いて言われて、次のように読むことができると教えとして示してくださいます。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国々の人々に宣べ伝えられる」。このことを読み取ることができるようになるのは、文字としてはとても短い表現ではありますが、イエス ご自身が彼らの「心の目」を開いてくださったことによって信じるようになったのです。

旧約聖書の長い歴史と記録は実現する。どうやって実現するのか。イエスが人々の罪の代わりに十字架につけられてその犠牲によって、罪の呪いの代わりの支払いによって、そして復活によって、神の救い、天の御国の命に与り、神と繋がる者となって実現する。そう信じられるようになった弟子たちの働き、新約聖書の福音書の以降の記録なのであります。

その弟子たちの姿がこの体験以前とは、復活のイエスとの出会い以前の姿とはガラッと変わってしまったことは最近の礼拝で繰り返し伝えていた内容でありました。もはや絶望せず、逃げず、死を恐れず、復活を信じるようになったから、死を恐れられないようになりました。そしてほとんどの弟子たちが自分たちの命を殉教の形で捧げました。そうすることによってイエスの命令を本当の意味で実践するようなになった弟子たちの働き。それによって救いの約束、それを宣べ伝える教会の働きがこの地上に、私たちの世界の歴史に現れるようになりましt。私たちの教会もその証しの一つであり、これを信じる人はイエスの復活の証人であることであります。

私たちは誤解してほしくないと思います。なぜこのようなことが私たちに知らされているのか、主イエスは弟子たちを愛されたからであります。その弟子たちにつながる私たちをも愛されたからであります。そういう人々がこの世での肉体と罪の命、その命が終わるとしても、救いは訪れること。神はその救いの命を与えてくださるということを信じさせるために。そしてそれを信じるゆえにこの世で死と代表される一番の困難と試練に負けないために、それを超えて私たちに与えられた大切な命と絆を見つめ直すために、開かれた心、信じる心の目で私たちの世界と命を見つめるために。そうなるように愛してくださったからこの世界に表してくださった主イエスの復活なのであります。それを信じる人々はやがて主と共に復活の命に与ることができる希望、それはまだ実現していないものですが、それを信じるゆえ、かつての弟子たちのように、私たちも新しく生きるために愛され、招かれている私たちであります。


あの方は復活なさった

2021年4月4日(日)主の復活主日礼拝説教要旨
イザヤ書25:6〜9, コリント第一15:1〜11, マルコ16:1〜8
 礼拝の冒頭においても知らせましたし、今日この教会に来られたたくさんの方々がご存知であるように、今日は私たちの教会の最大の祝日の一つ、復活祭(イースター)です。実は、私たちの教会自体、その信仰自体が復活に基づいていることからすると、まさに私たちの教会の始まりの出来事。実はこの祝日ばかりではなく、今日の福音書に書かれていた出来事として主の復活が初めて知らされていたのがユダヤたちからすれば安息日の翌日、週の初めの日(日曜日)でありましたので、私たちはすべての主日礼拝ごとに、毎回復活を覚え、祝う信仰、それが私たちの教会の信仰であります。そういう意味で私たちは、私たちの教会にとって最も大きな祝日を今日受け入れることになりました。

「ヘピーイースター」,「イースターおめでとうございます」という形で、私たちが喜び合ううことはもちろんふさわしいことでありましょう。ただ私から若干しつこい確認をいたしますと、このように歴史上で定められた祝日だから、伝統だから、習慣だからという形で、イースターなり、クリスマスなどを祝うことが「形だけ」に止まるならば、実は、私たちはそういう形によってむしろ大切なものを見失ってしまうものではないかと、私は懸念の思いを持っている一人です。

 体は形に従います。私たちの心も習慣に従います。そういうことによって「イースターおめでとう」,「クリスマスおめでとう」という形を守ります。しかしその形の中に中身がなく殻だけになってしまうならば、実体のない殻だけの信仰にならないだろうかと。そうならないようにもう一度思い起こしたいことは、定められた記念日のために私たちが「イースターおめでとう」と言い合うだけではなくて、主イエス・キリストが私たちのためにこの世における苦しみと恥の極端の道を経て、そこから神様によって復活させられたことを私たちが心から触れ、復活の恵みに預かってからこそ、私たちは本当の意味で主の祝日を祝うものではないかと思います。大前提ではありますが、私たちはそういう意味でこの時間、真心を持って主イエスの復活を喜ぶ一人一人となることをもう一度確かめたいと願います。

 与えられた恵みの出来事、この世における過去の出来事は、イエス・キリストの復活でありました。死んだイエスが「生きておられます」と証ししている出来事です。もちろんのことは、この世を生きる人間として、今の時代を生きる私たちにとってはとても信じがたい知らせです。みなさん、復活の出来事を皆さんは素直に信じられるでしょうか。

 「聖書がこう語っているから信じています」。こうなられる方はそのまま信じて良いと思います。これがこの世界の古い、伝統的な宗教、キリスト教の信仰だからそれに従うことだと。やや乱暴な言い方をするならば「こうだから黙って信じなさい」。それに従い得る方ならばそのまま従って信じて良いのではないでしょうか。信じて決して損はないと思います。このようなことを先に言っておいたのですが、実は私が予想するに、このような形で信じられる方々は私たちの世界の中でとても少ないことと思います。なぜならば私たちはこの世で、今の時代の人間らしい感覚を備えていて、間違いなくそれらが優先された形で私たちを包んでいるからです。人が人として死んだのにどうして生きていると言えるのか、どうして復活ということがあり得るのか、多分多くの私たちにとっては受け入れられない。そういう復活を聖書は証ししているものです。これを信じるということは、無理やりの信仰なのか、 非科学的で妄想的な追求なのか、迷信的な形の信仰なのか…。  実は、私たちの中でなかなか解けられないままで、しかし私たちの心の中にある微かな希望と、聖書の証しに対する一部の従順な心によって信じられているものかも知れません。私たちは、間違いなく私たちにも訪れるであろうという死の影響(死を私たちは疑わず、まだ自分に訪れなく、周りの人々だけに表れているものでも、疑わず受け入れているであろう)の中で、しかし死の影響力からすれば、量的にも強度的にも遥かに弱い微かな形の希望として復活を認識しているのではないかと、私は予想します。

 もちろん聖書が知らせている通りの復活の信仰に固く立っておられる方はそのまま信じて、その恵みによって生きられることは何という幸いでしょう!皆さんもそうであると思いますが、私はこの復活の出来事を知った時から、無意識の中でも意識の中でも、悩みに悩んだ私であったことを覚えています。だからと言って、今疑っているのかと、信じていないのかと問われるならば、それに端的にお答えするならば、私は人間的な考えを持っていない私ではありませんが、復活を信じるように至りました。しかしこれは多少しつこく言っている通り、無理やりに信じる、信じようとするものではなくて、「復活を信じるように導かれました」、「信じるように祝福されました」と言った方がふさわしいと思います。まさに私たちの教会が繰り返し強調するものでもあるように、信じるということは私たちの力によるというものというよりは、神様が信じさせてくださる恵みであることを私も実感します。ある人が美しい例えでこのようにも言ったものでありました。「信仰は雨に似ていて上から降りてくるものである」と。  実は人間としてはとても信じ難い復活を信じて、それに希望を置くようになったということはまさに恵みであります。

 そして今を生きる私たちばかりではなくて、実は聖書を読んでみると、淡々と語られているこの古い文献の中にも、イエスの一番身近なところにいた人々さえ、イエスが生きている(復活した)ことをなかなか信じられない人々がいたこと!それがこの世を生きる人々の実態であるということを私たちは読み取ることができるのではないかと思います。

 聖書が一貫して証していることは、実は全てがイエス・キリストの復活なのであります。新約聖書全体は、まとめて言うとイエスの復活に対する証しです。その中でも、イエスの復活の出来事とその前の生涯と受難とイエスの教えとを記録した福音書をよく読んでみますと、そこでは主イエスが何度も死ぬ前から言い渡しておいたにも関わらず、主イエスが死んだ途端イエスを信じられなかった一番身近な人々の姿がそこに描かれているのでありました。なかなか信じられない私たちへの慰めとして語っているばかりではなく、これが人間の実態であるということを確認する意味で、私たちはこういう人間と変わり得ない私たちの姿を見つめること、信じるための一つの備えかもしれません。

 弟子たちはイエスが死なれる場面でどこにいましたか。中にはイエスを売ったものもいました。「あなたから離れません」と強く誓いましたが、ペトロはイエスが連れて行かれる死の前の段階からどこにいましたか。どこで何を言っていましたか。「私はあの人を知りません」と、世の権力の前でとても惨めな姿で、しかもイエスがまだ近くにいるところで弱くなってしまいました。弟子の代表者的なペトロがそうであったとするならば、他の弟子たちはどこにいましたか。多数が逃げていました。「わたしは苦しみを受けて三日目に復活する」と何度も言われていて、イエスに自分たちの人生をかけて従ってきた弟子たちとはなかなか言えない人間の姿がそこにあります。彼らは忘れてしまったのか、結局のところその時点ではイエスの復活を信じられなかったから、イエスのそばにいなかったのです。

 男性たちは捕まることを恐れて逃げたでしょうが、女性たちはイエスの死の最後までそばにいた何人かがいたようです。そして今日の福音書の出来事からすると、イエスの遺体に香油を塗るために朝早くからイエスの墓を探しに来た女性たちの姿があります。彼女たちは、見えてくる姿からすれば男性たちの弟子たちより信仰があったものでしょうか。愛情はあったのかもしれませんが、まだ信仰はなかったものだと思います。なぜならば彼女たちが探していたのは、イエスの遺体、つまり死の証拠だったからです。

 聖書には詳しくまでは書かれていなかったとしても、主イエスが十字架で息を引き取ったのは金曜日でありました。つまりユダヤ人における安息日の前日であります。ユダヤ人的な都合からも、イエスはとても残念な死に方をされました。安息日には「汚れ」と思われるものを触れないために、金曜日のうちにイエスの遺体は急いで片付けられる必要があったのでありましょう。惨めな死に方に加えて急いである墓に納められたその遺体には、ユダヤ人の習慣によってまだ香油も塗られていなく、必要な葬儀の儀礼も行われなかったかもしれません。だから何もできない安息日が過ぎてから女性たちはイエスに対する愛情をもって、その愛情のゆえに大きな悲しみをもって、墓を訪れたのでありました。多分愛する人を失った全ての人の姿がこの姿なのであります。愛する人の亡骸、しかしそこにはもはや命はないと知りながらもそれが自分の愛するその人だと見受け、その遺体をなんとか最後まで大切にしようとする人間の姿、愛する人を見失った人の姿です。見に見える遺体に対する私たちの思いです。  そういう思いに対してやや残酷な言い方でありますが、そういう遺体を前にしている私たちはやはり死に支配されています。よく考えればそこに命はもうないと知りながら、それが自分の愛する存在だと、それに縛られています。ここまでが、悲しみと絶望、死を迎える多くの人々、私たちの姿でしょう。

 その人々に、そういう悲しみの中にいる人々に、神様が与えてくださった最大の奇跡、それがこの世において今までたった一度のイエス・キリストの復活の出来事なのであります。私たちは誤解してはいけないことと思います。この出来事が今における私たちの生き方や考え方に対して、非科学的で、無理矢理に迷信的あるいは妄想的な信仰の押し付けなのかとするならば、そうではありません。死んだのに愛する人々の前に現れたのだから、それがまるで死体が急に生き返って、私たちに虚しい想像を信じさせるのか、それを押し付けられているのかという葛藤の中で、神様がせっかく与えてくださった復活の出来事を歪めて、誤解し、信じなくさせる影響力から私たちは解放されるべきではないかと思います。

 繰り返して確認することは、私たちからすれば当時を生きていたもっとイエスの身近にいた人々とさえも、信じられなかったこと。むしろこの日曜日の朝の出来事の中で女性たちは信じたというよりは「驚き震え上がっていた」のです。それぐらい、驚くべき恵みを神様はたった一度ご自分の独り子を通してこの世に示してくださった。それが復活の出来事です。

 この後の聖書の様々な記録は、信じられなかった人々がどうやって信じるようになったかと、そのことが様々な形で記されていました。ある記録によればある女性は最初はイエスだと知らなかったのにイエスが呼んでくださってからイエスだと分かったと記されています。ある記録によれば最初からイエスだと気づいた人々の姿もあります。ある体験の記録によればイエスの弟子二人が道を歩いていた時にいつのまにか主イエスが一緒だった。彼がイエスと一緒にいた時は聖書の様々な記録が、心が開かれその意味とその真実とが素直に信じられるようになった。しかしいつのまにかイエスの姿は再び見えなくなってしまった。様々な形での体験が聖書の中に記されていました。こういう体験の記録は私たちに信じられないものでしょうか。作り上げられたものなのでしょうか。私は決してそうではないことと思います。一部の不一致の記録はまさにたくさんの人々が体験したから、その体験によって人が書いたものだから一致していない部分も出てくるものと思います。彼らの心からの体験の証しは真実なものだと思います。  なぜならば、ちょっとだけの論理的な考えをするならば、ここまでイエスを信じられなかった人々、イエスから逃げ去った人々、絶望のままにイエスから離れていった弟子たちはその後の生涯がどう変わったのか!そのことによって彼らの証しと体験は真実だったものだったと私たちは信じることができるのではないでしょうか。

 キリスト教の迫害者であったパウロが復活のイエスに出会ってから、自分がしていた迫害をやめ、自分が迫害していた人たち側に入って改宗しました。それどころか彼ら以上に働いて、「イエス・キリストは生きておられる」、「わたしはそのイエスに出会った使徒です」と。人として生きている間は出会ったこともなかったパウロが、復活したイエスに出会ったので「わたしは使徒」だと自分から名乗るパウロとなったからです。人間としては、人が生き返ったということを信じるぐらい、とても受け入れ難い出来事であります。しかもそのパウロは自分の命を捧げ、もはや自分はいつ死んでもよいという姿で、ただただ復活したイエスの教えをもとに各地に教会を建てる働きをしたそのパウロの証言、私たちは信じられないものでしょうか。

 パウロばかりではありません。復活のイエスに会った体験、それを起点にして弟子たちは、「逃げ去っていた」姿から、自分たちの命を差し出す人へと変わりました。弟子の多くは殉教の死を遂げました。こういう劇的な人の変化、それは復活のイエスとの出会いによって変えられたものです。その出会いがなかったものでしょうか。彼らがただただ自分たちが建てる教会と教理のために、自分たちの命を差し出してまでしたものでしょうか。それなのに、なんでイエスが死なれる場面ではイエスから離れる惨めなことをしてしまったのでしょうか。イエスの復活がなかったとするならば、説明できない人々の姿が歴史上に残っています。その歴史のつながりから、まさに神様の恵みとしての復活の信仰のつながりから、今この場所も主イエス・キリストの復活を祝うキリストの教会となられているのです。

 私たちはこの時、イエスの復活との出会いを信じるために招かれた一人一人です。これを信じるために繰り返し恵みが与えられる私たちであります。私はこれに真摯に向き合うならば、神様が私たちを信じさせてくださると信じてこの礼拝を捧げます。なぜならば、神様は私たちに命を与えてくださった。この世界を与えてくださった。私たちが人間として最も大切にしているかけがえのない人の絆も、実は私たちが作り出したのではなく、神様によって与えられたもので、それが終わるというこの地上の絶望を前にして、神様は「これが終わりではないのよ」と私たちを諭してくださると信じるからであります。

 神秘的な体験だけではありません。主イエスを通して示された一度の、最大の奇跡で十分であります。神様はこれが、神様が与えてくださる命なのだと、神様の命だと、天の御国における本来神様が主である命だと、私たちのそれぞれの命はまさに神様によって生かされるものだと、イエス・キリストの復活を通して私たちに示してくださいます。その証し、私たちの教会につながる一人一人は信じるように招かれ、信じるように恵みをいただくことになると信じてお願い、私たちに示された主イエスの復活を共に祝いたいと思います。

 聖書のすべてがこの事を知らせるために私たちに与えられたものでありました。今日の旧約の日課の表現を借りて私たちに与えられた神様の御心を噛み締めたいと思います。神様は私たちすべての人の顔から「涙を拭い」、涙を拭うためには一度私たちに涙が流れる悲しみが確かにあるものですが、しかしそれが終わりではなくて、神様は私たちの顔と心から「涙を拭い」、この地の絶望と罪の呪いから私たちを解放してくださると約束してくださるのであります。その約束のしるしはイエス・キリストの復活です。

   お祈りいたします。恵み深い天の父なる神様、イエス・キリストは私たちのために、私たちが信じるために人としてつらい肉体的な苦しみ、人間的な苦しみと恥、それを十字架を背負う形で私たちの代わりに背負われました。そして人々の罪と悪に渡されましたが、神様に委ねられたその魂は神様によって生きるものであることを、私たちはこの教会を通して、信仰の証しを通して、御言葉を通して聞くことができました。これを私たちの魂に納め、主とともに主の復活に向けて生きる私たちとさせてください。死に近づく私たちではなく、神様の命に近づく私たちにさせてくださることを私たちはこの朝、心から喜び賛美をお捧げいたします。益々神様の豊かな恵みと信仰の中で生きる私たちでありますように。主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。



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