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疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイ11:28)
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説教 2020年4月からは崔大凡牧師




説教(2021年)

「私たちは互いに信仰の味方」

2021年9月26日(日)聖霊降臨後第18主日礼拝説教要旨
民数記11:4〜6、10〜16、24〜29 詩19 ヤコブ5:13〜20 マルコ9:38〜50
弟子の一人、ヨハネがイエスに言いました。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」
 イエスが弟子たちと旅をしながら神の国を教え、人々をいやしていた時代、イエスの群れと同行する人でなくても、イエスの名によって悪霊を追放する働きに臨んでいた人たちがいたようです。そういう人はイエスが地上にいた時代にも、イエスの後の時代にもいたようです。そういう記録が使徒言行録の中にも(19章13節以下)一部見られます。各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にイエスの名前で人々を治療していた人たちがいたことです。
試みにそうしている人もいて、イエスを信じてそうしている人たちもいたことでしょうか。イエスの存在と働きがユダヤ中に、イエスの後の時代にも幅広く影響を与えていたことの証拠とも言えましょう。弟子の一人、ヨハネがイエスに言いました。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」弟子の一人、ヨハネがイエスに言いました。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」
 イエスが弟子たちと旅をしながら神の国を教え、人々をいやしていた時代、イエスの群れと同行する人でなくても、イエスの名によって悪霊を追放する働きに臨んでいた人たちがいたようです。そういう人はイエスが地上にいた時代にも、イエスの後の時代にもいたようです。そういう記録が使徒言行録の中にも(19章13節以下)一部見られます。各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にイエスの名前で人々を治療していた人たちがいたことです。
試みにそうしている人もいて、イエスを信じてそうしている人たちもいたことでしょうか。イエスの存在と働きがユダヤ中に、イエスの後の時代にも幅広く影響を与えていたことの証拠とも言えましょう。
イエスを目撃したことがあったり、話しを聞いたりことがある人、もしくはイエスと直接会ったことがなくても噂や伝えられる話しでイエスを知った人…当時でもイエスの存在を知った形は色々だったことでしょう。その中の一部の人たちは、イエスやイエスの弟子と一緒でなくても、自分の祈祷や働きにおいてイエスの名を使っていたことです。自分の宗教信念がイエスに従う形だったのか、イエスの名前で祈ったら効果があるかも知れないという試み程度だったのかは、神様とその人自身以外には確かめられないことです。
 ともかくそういう人を見たヨハネがイエスに告げたところでした。そして自分たちに従わないからやめさせようとしたという報告でした。皆さんはここまでの内容についてどう思われるでしょうか。人に向かってイエスの名前で祈ったり、悪霊を追放したりするほどの働きをするなら、自分たちに従うべきだ。ヨハネの考えはこうだったでしょう。そうでないならイエスの名を使うべきでないということです。
 もちろん人それぞれの考えは分かれることと思いますが、このヨハネの考えと態度はおそらく人間的に妥当なものと思われる方が多いのではないかと思います。イエスと一緒でもないのに、イエスから直接学んだり、認められたりした形でもないのに自分の師のお名前を勝手に使っていることは間違いだと思う考え…。人間的に、特に今の時代の私たちの観点からすれば、ヨハネの判断が正しく聞こえるはずだと思います。この時代と比べれば、今ははるかに色んな観念が(よく言えば)整ってきた時代、著作物や作品、思想や主張さえも、勝手に自分のものにしてはいけない規律が整ってきた現代だからです。
 それに、ヨハネとしては、我々こそがイエスの群れ、イエスと直接結ばれている者だというプライドのような思いが、断定はできませんがあったのかも知れません。もしそうだとしても、その思いは妥当でしょう。このヨハネは、ヨハネという名前の人物が聖書の中にも複数人いて同一人物かどうか確定するまでは出来ませんが、イエスの弟子のヨハネだとすれば、福音書著者のヨハネであり、ある記録によればイエスの愛弟子であり、イエスの十字架の死の場面でも傍にいたそのヨハネです。
 まだまだ福音書のストーリーは途中ではありますが、このヨハネを前にして、イエスと一緒に移動している者でもない人がイエスの名によって人々を治療していた姿、人間的な考え(特に今の時代の考え)によれば、その人を止めさせて確認すべきだ、正すべきだ、やめさせるべきだというのがむしろ正論だとも思われるかも知れません。
 ここまでは、おそらく多くの場合こう思われるのではないかという、人間的な思いと立場です。
 これに対してイエスはヨハネに言われました。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」今日の福音書の主なメッセージです。
 さすが寛容的なイエス…?私は今日のイエスの言葉も、今の私たちに特に必要な言葉だと思います。最近の日課、マルコによる福音書は利己的で冷たい私たちに迫るような、心に刺さってくるような言葉が多いと私は感じているところですが、今日の言葉もまさにそうだと思います。
 主イエスは私たちを悟らせてくださいます。「わたしたちに逆らわない者は味方だ」。「敵じゃないのだ」。「否定しなくてよいのだ」、むしろ「否定してはいけないのだ」と、悟らせてくださるのだと私は読みます。
 このイエスの言葉も大切な教訓だと感じる背景には、私たちの今の世界はいかにも、はっきりと自分の身内でなければ「敵」だ、もしくはそれに近い存在だ、どんな者か分からないと怪しい目で見るような心情が支配していると感じるからです。この話しを聞いてくださっている皆さんを批判しているのではなく、こういう姿勢が支配している世界だと感じているという話しです。
 一つの例として学校の教室を見てみましょう。いつの間にか、はっきりとグループが分かれます。学校が、先生が指示しなくても、そういう指示よりも強い、暗黙で、見えない境界線が引かれます。もちろんそれぞれ親しいグループに分かれていくのは自然の成り行きで、今さら否定的に思わなくてよいとも思います。私たちも多分そうやって学校を通ってきたと思いますし、学校の外、学校に通う後の時代でもそのような人との付き合いをしているのだと思います。
 しかしこれだけは否定できない現実だと思います。こういう世界、そういう教室なら、自分たちのグループじゃない人を敢えて「隣人」や「仲間」だと思い難い状況になっている、もしくはなりやすいのではないかと。むしろ自分たちのグループじゃない人を誤解しやすい状況に陥ることもあれば、必要以上に敵対される状況もあり得ること。またグループとグループの間に落ちこぼれ、どちらにも属さず、どちらからも受け入れられない人たちもいること。結局のところ、「自分たち」じゃなければ「関係ない人」もしくは「敵」になりやすい世界に私たちは置かれているかも知れないことです。少なくとも、私たちは、私たちが思う以上に自分の味方なのかそうでないかを区別したがる世界に生きているのではないかいう振り返りです。
「隣人を自分のように愛しなさい」。私の感想がズレたものでないならば、私たちが礼拝する神様の教えの中で、もっとも大きなものの一つであるこの命題を、ただの理想論として、私たちに与えられたもっとも大きな掟だと唱えながら、守らず実行せず、この中には入らない遠い世界として神の国を求めるものではないでしょうか。私たちが思うに、そうなってきている今日の私たちへのみ言葉、イエスの教えです。
 「逆らわないのなら(私たちの)味方」。私たちの様々な場面での相手を、このように考え、受け止めることは、私たちからして決して無理な命令でもないことではないでしょうか。この生き方、私は精神的にもきっと有益だろうと思うくらいです。イエスは弟子たちに、先週の日課において教えられたばかりでした。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える人になりなさい。」「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
 このようにすべての人に仕えるべき弟子たちに、そして私たちに、イエスは一人の弟子の姿をきっかけに教えてくださいます。「逆らわない者は味方なのだ」。自分たち以外、外の人に対して否定せず開かれた心を持ちなさい!寛容の心をもって接しなさい!これは、この世の中で、実は限りなく小さなグループにそれぞれ属して生きているとも言える私たちに必要な考えではないでしょうか。
 自分のグループ、その文化や習慣、信念に属していない人でも、それで自分の敵ではないことです。でもいつの間にか敵対視がちな私たちかも知れません。イエスに従ったヨハネも、自分たちに従わないので、イエスの名を口にすることをやめさせようとした。自分たちに従わない人を「味方」だとは思えない、ごく人間的な姿勢です。それに対してイエスは悟らせてくださいます。
ご自分の弟子だという理由で、「水一杯」くらいの好感を示してくれる人は、そうしたことによって神様の「良い報い」に与る人だと。神様から「良い報い」に与る人に対して、私たちが神様を信じると言いながら神様に変わって裁きを行ってはいけないことでしょう。まだ「水一杯」をくれたことのない人でも、いざという時にそうしてくれる可能性がある人たちに対して、勝手に決めつけてはいけないことでしょう。自分の基準があるからということで勝手に相手を裁き、拒否するのは、今日の御言葉からして罪なのです。相手に対しても自分に対しても躓きなのです。それも非常に大きな方の罪と躓きであると主イエスは示されます。  今日の福音書の後半の御言葉を、あたかも主イエスは私たちに間違ったら体を切り捨てろと命じているのだと聞かないようにすべきです。しかしイエスがここまで強く示しておられることを私たちは心に止めるべきです。切り捨てるべきは私たちの目に見える肢体ではなく、相手と自分を躓かせる欲望、頑なさです。それらは確かに天の御国に役立たないものです。役立たないところか、天国への道を途絶えさせるものであり、自分自身をも蝕むものです。相手を自分で裁き、自分で決めつける目、そのように働く手と足ではなく、相手を受け入れるために用いる私たちの体として用いるべきという意味です。どれだけ優れた人を自分の師としても、どれだけ善良なグループの中に身を置いたとしても、相手を敵とし、躓かせる人は天国には行けないことを、神の独り子イエスは語っておられ、このように書き記されています。
 今日の旧約の日課にも、このイエスの教えに繋がる事例が書かれています。モーセの従者、ヌンの子ヨシュア。やがてモーセの後継者となり、イスラエルの民を念願の地、カナンに導く人物です。この人もやがて信仰の先祖、偉人に値する人物です。ただ今日の場面で小さな妬みの心が起こされました。それをモーセから叱られる場面でした。
 自分が尊敬し、従うモーセ以外の人たちにも神の霊が降り、預言者のようになることに対して恐れを抱いたのでしょうか。真の指導者モーセ以外の者たちに力が与えられることを妬んだでしょうか。モーセに対する忠誠心が強いのは間違いありませんが、他の人たちが浮上することはモーセに良くないと思ったでしょうか。神の霊を分け与えようとするモーセに、「わが主モーセよ、やめさせてください」。しかし真の信仰者モーセは言います。「わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ」。
 私たちは、神様を信じ従う思いを、自分もしくは自分たちを正当化し、優越化するための道具にする間違いに注意すべきです。それこそ切り捨てるべき罪なのです。切り捨てるべきは、自分から見て間違っているように見え、無知に見える相手ではなく、そのように相手を見てしまう私たちの心です。
 神様が何をどう用いるか私たちには分かりません。キリストと体として一緒でなくても、イエスの名を共有する人たちを通して、「イエス」の名がより広められることをキリストは許されました。実は私たちもそういう経緯の影響でイエス・キリストを知ったかもしれません。
今の私たちの教会を囲む外の人々、または自分の身内でない人々もそうかも知れません。同じ信仰、同じグループに属さない人でも、諸々の人間的な感覚で自分とは合わないと思ってしまう一人ひとりでも、自分自身が敵対しない限り「味方」である人々が私たちの世界には一杯いるのではないでしょうか。自分の目がすべてではなく、自分の人間的な思いが神様の思いではないことを私たちは認めましょう。大切なのは、だからこそ私たちは神様を信じ従い、仕えるべきであることです。神様は自分と違う人々をも用いられることを知ることです。その人たちも私たちは仕えるべき仲間であり隣人として神様が与えられた人なのです。
振り返りましょう。私たちは初めから神様にふさわしく、善良で、非の打ちどころのない人だから神様に招かれていると思えますか?私たちは初めから世の善良な人、慈悲深い人の仲間でしたか?自分が知らない人々の思いと働きによって仲間とされ、隣人とされ、助け合うに値する人となったのではありませんか。私たちは救い主を、自分の能力で見出し、近づきましたか?私たちが恵みとして受けたものを、裁きと思い込みに変えて人に返すのは私たちの重い罪なのです。
 今日の第二の日課に私たちがすべきことが書かれています。「罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。」「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。」
 私たちの集い自体、共同体自体は、この世界と社会の中でまだまだ小さいのは確かかもしれません。だからと言って私たちに敵対するばかりの世界ではありません。私たちが仕え、祈るべき相手がいます。その人々は私たちの「味方」であり、私たちの隣人のために祈ることを通して、私たちは神様の力を見、証しすることもできます。私たちは、神様の信じる心と祈る心については「正しい人」であることを願いましょう。私たち自体が正しい人とは言えなくても、神様を信じる心と祈りは正しくありましょうという意味です。祈ります。

 イエスが弟子たちと旅をしながら神の国を教え、人々をいやしていた時代、イエスの群れと同行する人でなくても、イエスの名によって悪霊を追放する働きに臨んでいた人たちがいたようです。そういう人はイエスが地上にいた時代にも、イエスの後の時代にもいたようです。そういう記録が使徒言行録の中にも(19章13節以下)一部見られます。各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にイエスの名前で人々を治療していた人たちがいたことです。
試みにそうしている人もいて、イエスを信じてそうしている人たちもいたことでしょうか。イエスの存在と働きがユダヤ中に、イエスの後の時代にも幅広く影響を与えていたことの証拠とも言えましょう。
イエスを目撃したことがあったり、話しを聞いたりことがある人、もしくはイエスと直接会ったことがなくても噂や伝えられる話しでイエスを知った人…当時でもイエスの存在を知った形は色々だったことでしょう。その中の一部の人たちは、イエスやイエスの弟子と一緒でなくても、自分の祈祷や働きにおいてイエスの名を使っていたことです。自分の宗教信念がイエスに従う形だったのか、イエスの名前で祈ったら効果があるかも知れないという試み程度だったのかは、神様とその人自身以外には確かめられないことです。
 ともかくそういう人を見たヨハネがイエスに告げたところでした。そして自分たちに従わないからやめさせようとしたという報告でした。皆さんはここまでの内容についてどう思われるでしょうか。人に向かってイエスの名前で祈ったり、悪霊を追放したりするほどの働きをするなら、自分たちに従うべきだ。ヨハネの考えはこうだったでしょう。そうでないならイエスの名を使うべきでないということです。
 もちろん人それぞれの考えは分かれることと思いますが、このヨハネの考えと態度はおそらく人間的に妥当なものと思われる方が多いのではないかと思います。イエスと一緒でもないのに、イエスから直接学んだり、認められたりした形でもないのに自分の師のお名前を勝手に使っていることは間違いだと思う考え…。人間的に、特に今の時代の私たちの観点からすれば、ヨハネの判断が正しく聞こえるはずだと思います。この時代と比べれば、今ははるかに色んな観念が(よく言えば)整ってきた時代、著作物や作品、思想や主張さえも、勝手に自分のものにしてはいけない規律が整ってきた現代だからです。
 それに、ヨハネとしては、我々こそがイエスの群れ、イエスと直接結ばれている者だというプライドのような思いが、断定はできませんがあったのかも知れません。もしそうだとしても、その思いは妥当でしょう。このヨハネは、ヨハネという名前の人物が聖書の中にも複数人いて同一人物かどうか確定するまでは出来ませんが、イエスの弟子のヨハネだとすれば、福音書著者のヨハネであり、ある記録によればイエスの愛弟子であり、イエスの十字架の死の場面でも傍にいたそのヨハネです。
 まだまだ福音書のストーリーは途中ではありますが、このヨハネを前にして、イエスと一緒に移動している者でもない人がイエスの名によって人々を治療していた姿、人間的な考え(特に今の時代の考え)によれば、その人を止めさせて確認すべきだ、正すべきだ、やめさせるべきだというのがむしろ正論だとも思われるかも知れません。
 ここまでは、おそらく多くの場合こう思われるのではないかという、人間的な思いと立場です。
 これに対してイエスはヨハネに言われました。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」今日の福音書の主なメッセージです。
 さすが寛容的なイエス…?私は今日のイエスの言葉も、今の私たちに特に必要な言葉だと思います。最近の日課、マルコによる福音書は利己的で冷たい私たちに迫るような、心に刺さってくるような言葉が多いと私は感じているところですが、今日の言葉もまさにそうだと思います。
 主イエスは私たちを悟らせてくださいます。「わたしたちに逆らわない者は味方だ」。「敵じゃないのだ」。「否定しなくてよいのだ」、むしろ「否定してはいけないのだ」と、悟らせてくださるのだと私は読みます。
 このイエスの言葉も大切な教訓だと感じる背景には、私たちの今の世界はいかにも、はっきりと自分の身内でなければ「敵」だ、もしくはそれに近い存在だ、どんな者か分からないと怪しい目で見るような心情が支配していると感じるからです。この話しを聞いてくださっている皆さんを批判しているのではなく、こういう姿勢が支配している世界だと感じているという話しです。  一つの例として学校の教室を見てみましょう。いつの間にか、はっきりとグループが分かれます。学校が、先生が指示しなくても、そういう指示よりも強い、暗黙で、見えない境界線が引かれます。もちろんそれぞれ親しいグループに分かれていくのは自然の成り行きで、今さら否定的に思わなくてよいとも思います。私たちも多分そうやって学校を通ってきたと思いますし、学校の外、学校に通う後の時代でもそのような人との付き合いをしているのだと思います。
 しかしこれだけは否定できない現実だと思います。こういう世界、そういう教室なら、自分たちのグループじゃない人を敢えて「隣人」や「仲間」だと思い難い状況になっている、もしくはなりやすいのではないかと。むしろ自分たちのグループじゃない人を誤解しやすい状況に陥ることもあれば、必要以上に敵対される状況もあり得ること。またグループとグループの間に落ちこぼれ、どちらにも属さず、どちらからも受け入れられない人たちもいること。結局のところ、「自分たち」じゃなければ「関係ない人」もしくは「敵」になりやすい世界に私たちは置かれているかも知れないことです。少なくとも、私たちは、私たちが思う以上に自分の味方なのかそうでないかを区別したがる世界に生きているのではないかいう振り返りです。
「隣人を自分のように愛しなさい」。私の感想がズレたものでないならば、私たちが礼拝する神様の教えの中で、もっとも大きなものの一つであるこの命題を、ただの理想論として、私たちに与えられたもっとも大きな掟だと唱えながら、守らず実行せず、この中には入らない遠い世界として神の国を求めるものではないでしょうか。私たちが思うに、そうなってきている今日の私たちへのみ言葉、イエスの教えです。
 「逆らわないのなら(私たちの)味方」。私たちの様々な場面での相手を、このように考え、受け止めることは、私たちからして決して無理な命令でもないことではないでしょうか。この生き方、私は精神的にもきっと有益だろうと思うくらいです。イエスは弟子たちに、先週の日課において教えられたばかりでした。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える人になりなさい。」「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
 このようにすべての人に仕えるべき弟子たちに、そして私たちに、イエスは一人の弟子の姿をきっかけに教えてくださいます。「逆らわない者は味方なのだ」。自分たち以外、外の人に対して否定せず開かれた心を持ちなさい!寛容の心をもって接しなさい!これは、この世の中で、実は限りなく小さなグループにそれぞれ属して生きているとも言える私たちに必要な考えではないでしょうか。
 自分のグループ、その文化や習慣、信念に属していない人でも、それで自分の敵ではないことです。でもいつの間にか敵対視がちな私たちかも知れません。イエスに従ったヨハネも、自分たちに従わないので、イエスの名を口にすることをやめさせようとした。自分たちに従わない人を「味方」だとは思えない、ごく人間的な姿勢です。それに対してイエスは悟らせてくださいます。
ご自分の弟子だという理由で、「水一杯」くらいの好感を示してくれる人は、そうしたことによって神様の「良い報い」に与る人だと。神様から「良い報い」に与る人に対して、私たちが神様を信じると言いながら神様に変わって裁きを行ってはいけないことでしょう。まだ「水一杯」をくれたことのない人でも、いざという時にそうしてくれる可能性がある人たちに対して、勝手に決めつけてはいけないことでしょう。自分の基準があるからということで勝手に相手を裁き、拒否するのは、今日の御言葉からして罪なのです。相手に対しても自分に対しても躓きなのです。それも非常に大きな方の罪と躓きであると主イエスは示されます。
 今日の福音書の後半の御言葉を、あたかも主イエスは私たちに間違ったら体を切り捨てろと命じているのだと聞かないようにすべきです。しかしイエスがここまで強く示しておられることを私たちは心に止めるべきです。切り捨てるべきは私たちの目に見える肢体ではなく、相手と自分を躓かせる欲望、頑なさです。それらは確かに天の御国に役立たないものです。役立たないところか、天国への道を途絶えさせるものであり、自分自身をも蝕むものです。相手を自分で裁き、自分で決めつける目、そのように働く手と足ではなく、相手を受け入れるために用いる私たちの体として用いるべきという意味です。どれだけ優れた人を自分の師としても、どれだけ善良なグループの中に身を置いたとしても、相手を敵とし、躓かせる人は天国には行けないことを、神の独り子イエスは語っておられ、このように書き記されています。
 今日の旧約の日課にも、このイエスの教えに繋がる事例が書かれています。モーセの従者、ヌンの子ヨシュア。やがてモーセの後継者となり、イスラエルの民を念願の地、カナンに導く人物です。この人もやがて信仰の先祖、偉人に値する人物です。ただ今日の場面で小さな妬みの心が起こされました。それをモーセから叱られる場面でした。
 自分が尊敬し、従うモーセ以外の人たちにも神の霊が降り、預言者のようになることに対して恐れを抱いたのでしょうか。真の指導者モーセ以外の者たちに力が与えられることを妬んだでしょうか。モーセに対する忠誠心が強いのは間違いありませんが、他の人たちが浮上することはモーセに良くないと思ったでしょうか。神の霊を分け与えようとするモーセに、「わが主モーセよ、やめさせてください」。しかし真の信仰者モーセは言います。「わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ」。
 私たちは、神様を信じ従う思いを、自分もしくは自分たちを正当化し、優越化するための道具にする間違いに注意すべきです。それこそ切り捨てるべき罪なのです。切り捨てるべきは、自分から見て間違っているように見え、無知に見える相手ではなく、そのように相手を見てしまう私たちの心です。
 神様が何をどう用いるか私たちには分かりません。キリストと体として一緒でなくても、イエスの名を共有する人たちを通して、「イエス」の名がより広められることをキリストは許されました。実は私たちもそういう経緯の影響でイエス・キリストを知ったかもしれません。
今の私たちの教会を囲む外の人々、または自分の身内でない人々もそうかも知れません。同じ信仰、同じグループに属さない人でも、諸々の人間的な感覚で自分とは合わないと思ってしまう一人ひとりでも、自分自身が敵対しない限り「味方」である人々が私たちの世界には一杯いるのではないでしょうか。自分の目がすべてではなく、自分の人間的な思いが神様の思いではないことを私たちは認めましょう。大切なのは、だからこそ私たちは神様を信じ従い、仕えるべきであることです。神様は自分と違う人々をも用いられることを知ることです。その人たちも私たちは仕えるべき仲間であり隣人として神様が与えられた人なのです。
振り返りましょう。私たちは初めから神様にふさわしく、善良で、非の打ちどころのない人だから神様に招かれていると思えますか?私たちは初めから世の善良な人、慈悲深い人の仲間でしたか?自分が知らない人々の思いと働きによって仲間とされ、隣人とされ、助け合うに値する人となったのではありませんか。私たちは救い主を、自分の能力で見出し、近づきましたか?私たちが恵みとして受けたものを、裁きと思い込みに変えて人に返すのは私たちの重い罪なのです。
 今日の第二の日課に私たちがすべきことが書かれています。「罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。」「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。」
 私たちの集い自体、共同体自体は、この世界と社会の中でまだまだ小さいのは確かかもしれません。だからと言って私たちに敵対するばかりの世界ではありません。私たちが仕え、祈るべき相手がいます。その人々は私たちの「味方」であり、私たちの隣人のために祈ることを通して、私たちは神様の力を見、証しすることもできます。私たちは、神様の信じる心と祈る心については「正しい人」であることを願いましょう。私たち自体が正しい人とは言えなくても、神様を信じる心と祈りは正しくありましょうという意味です。祈ります。

イエスを目撃したことがあったり、話しを聞いたりことがある人、もしくはイエスと直接会ったことがなくても噂や伝えられる話しでイエスを知った人…当時でもイエスの存在を知った形は色々だったことでしょう。その中の一部の人たちは、イエスやイエスの弟子と一緒でなくても、自分の祈祷や働きにおいてイエスの名を使っていたことです。自分の宗教信念がイエスに従う形だったのか、イエスの名前で祈ったら効果があるかも知れないという試み程度だったのかは、神様とその人自身以外には確かめられないことです。
 ともかくそういう人を見たヨハネがイエスに告げたところでした。そして自分たちに従わないからやめさせようとしたという報告でした。皆さんはここまでの内容についてどう思われるでしょうか。人に向かってイエスの名前で祈ったり、悪霊を追放したりするほどの働きをするなら、自分たちに従うべきだ。ヨハネの考えはこうだったでしょう。そうでないならイエスの名を使うべきでないということです。
 もちろん人それぞれの考えは分かれることと思いますが、このヨハネの考えと態度はおそらく人間的に妥当なものと思われる方が多いのではないかと思います。イエスと一緒でもないのに、イエスから直接学んだり、認められたりした形でもないのに自分の師のお名前を勝手に使っていることは間違いだと思う考え…。人間的に、特に今の時代の私たちの観点からすれば、ヨハネの判断が正しく聞こえるはずだと思います。この時代と比べれば、今ははるかに色んな観念が(よく言えば)整ってきた時代、著作物や作品、思想や主張さえも、勝手に自分のものにしてはいけない規律が整ってきた現代だからです。
 それに、ヨハネとしては、我々こそがイエスの群れ、イエスと直接結ばれている者だというプライドのような思いが、断定はできませんがあったのかも知れません。もしそうだとしても、その思いは妥当でしょう。このヨハネは、ヨハネという名前の人物が聖書の中にも複数人いて同一人物かどうか確定するまでは出来ませんが、イエスの弟子のヨハネだとすれば、福音書著者のヨハネであり、ある記録によればイエスの愛弟子であり、イエスの十字架の死の場面でも傍にいたそのヨハネです。
 まだまだ福音書のストーリーは途中ではありますが、このヨハネを前にして、イエスと一緒に移動している者でもない人がイエスの名によって人々を治療していた姿、人間的な考え(特に今の時代の考え)によれば、その人を止めさせて確認すべきだ、正すべきだ、やめさせるべきだというのがむしろ正論だとも思われるかも知れません。
 ここまでは、おそらく多くの場合こう思われるのではないかという、人間的な思いと立場です。
 これに対してイエスはヨハネに言われました。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」今日の福音書の主なメッセージです。  さすが寛容的なイエス…?私は今日のイエスの言葉も、今の私たちに特に必要な言葉だと思います。最近の日課、マルコによる福音書は利己的で冷たい私たちに迫るような、心に刺さってくるような言葉が多いと私は感じているところですが、今日の言葉もまさにそうだと思います。
 主イエスは私たちを悟らせてくださいます。「わたしたちに逆らわない者は味方だ」。「敵じゃないのだ」。「否定しなくてよいのだ」、むしろ「否定してはいけないのだ」と、悟らせてくださるのだと私は読みます。
 このイエスの言葉も大切な教訓だと感じる背景には、私たちの今の世界はいかにも、はっきりと自分の身内でなければ「敵」だ、もしくはそれに近い存在だ、どんな者か分からないと怪しい目で見るような心情が支配していると感じるからです。この話しを聞いてくださっている皆さんを批判しているのではなく、こういう姿勢が支配している世界だと感じているという話しです。
 一つの例として学校の教室を見てみましょう。いつの間にか、はっきりとグループが分かれます。学校が、先生が指示しなくても、そういう指示よりも強い、暗黙で、見えない境界線が引かれます。もちろんそれぞれ親しいグループに分かれていくのは自然の成り行きで、今さら否定的に思わなくてよいとも思います。私たちも多分そうやって学校を通ってきたと思いますし、学校の外、学校に通う後の時代でもそのような人との付き合いをしているのだと思います。
 しかしこれだけは否定できない現実だと思います。こういう世界、そういう教室なら、自分たちのグループじゃない人を敢えて「隣人」や「仲間」だと思い難い状況になっている、もしくはなりやすいのではないかと。むしろ自分たちのグループじゃない人を誤解しやすい状況に陥ることもあれば、必要以上に敵対される状況もあり得ること。またグループとグループの間に落ちこぼれ、どちらにも属さず、どちらからも受け入れられない人たちもいること。結局のところ、「自分たち」じゃなければ「関係ない人」もしくは「敵」になりやすい世界に私たちは置かれているかも知れないことです。少なくとも、私たちは、私たちが思う以上に自分の味方なのかそうでないかを区別したがる世界に生きているのではないかいう振り返りです。
「隣人を自分のように愛しなさい」。私の感想がズレたものでないならば、私たちが礼拝する神様の教えの中で、もっとも大きなものの一つであるこの命題を、ただの理想論として、私たちに与えられたもっとも大きな掟だと唱えながら、守らず実行せず、この中には入らない遠い世界として神の国を求めるものではないでしょうか。私たちが思うに、そうなってきている今日の私たちへのみ言葉、イエスの教えです。
 「逆らわないのなら(私たちの)味方」。私たちの様々な場面での相手を、このように考え、受け止めることは、私たちからして決して無理な命令でもないことではないでしょうか。この生き方、私は精神的にもきっと有益だろうと思うくらいです。イエスは弟子たちに、先週の日課において教えられたばかりでした。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える人になりなさい。」「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
 このようにすべての人に仕えるべき弟子たちに、そして私たちに、イエスは一人の弟子の姿をきっかけに教えてくださいます。「逆らわない者は味方なのだ」。自分たち以外、外の人に対して否定せず開かれた心を持ちなさい!寛容の心をもって接しなさい!これは、この世の中で、実は限りなく小さなグループにそれぞれ属して生きているとも言える私たちに必要な考えではないでしょうか。
 自分のグループ、その文化や習慣、信念に属していない人でも、それで自分の敵ではないことです。でもいつの間にか敵対視がちな私たちかも知れません。イエスに従ったヨハネも、自分たちに従わないので、イエスの名を口にすることをやめさせようとした。自分たちに従わない人を「味方」だとは思えない、ごく人間的な姿勢です。それに対してイエスは悟らせてくださいます。
ご自分の弟子だという理由で、「水一杯」くらいの好感を示してくれる人は、そうしたことによって神様の「良い報い」に与る人だと。神様から「良い報い」に与る人に対して、私たちが神様を信じると言いながら神様に変わって裁きを行ってはいけないことでしょう。まだ「水一杯」をくれたことのない人でも、いざという時にそうしてくれる可能性がある人たちに対して、勝手に決めつけてはいけないことでしょう。自分の基準があるからということで勝手に相手を裁き、拒否するのは、今日の御言葉からして罪なのです。相手に対しても自分に対しても躓きなのです。それも非常に大きな方の罪と躓きであると主イエスは示されます。
 今日の福音書の後半の御言葉を、あたかも主イエスは私たちに間違ったら体を切り捨てろと命じているのだと聞かないようにすべきです。しかしイエスがここまで強く示しておられることを私たちは心に止めるべきです。切り捨てるべきは私たちの目に見える肢体ではなく、相手と自分を躓かせる欲望、頑なさです。それらは確かに天の御国に役立たないものです。役立たないところか、天国への道を途絶えさせるものであり、自分自身をも蝕むものです。相手を自分で裁き、自分で決めつける目、そのように働く手と足ではなく、相手を受け入れるために用いる私たちの体として用いるべきという意味です。どれだけ優れた人を自分の師としても、どれだけ善良なグループの中に身を置いたとしても、相手を敵とし、躓かせる人は天国には行けないことを、神の独り子イエスは語っておられ、このように書き記されています。
 今日の旧約の日課にも、このイエスの教えに繋がる事例が書かれています。モーセの従者、ヌンの子ヨシュア。やがてモーセの後継者となり、イスラエルの民を念願の地、カナンに導く人物です。この人もやがて信仰の先祖、偉人に値する人物です。ただ今日の場面で小さな妬みの心が起こされました。それをモーセから叱られる場面でした。
 自分が尊敬し、従うモーセ以外の人たちにも神の霊が降り、預言者のようになることに対して恐れを抱いたのでしょうか。真の指導者モーセ以外の者たちに力が与えられることを妬んだでしょうか。モーセに対する忠誠心が強いのは間違いありませんが、他の人たちが浮上することはモーセに良くないと思ったでしょうか。神の霊を分け与えようとするモーセに、「わが主モーセよ、やめさせてください」。しかし真の信仰者モーセは言います。「わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ」。  私たちは、神様を信じ従う思いを、自分もしくは自分たちを正当化し、優越化するための道具にする間違いに注意すべきです。それこそ切り捨てるべき罪なのです。切り捨てるべきは、自分から見て間違っているように見え、無知に見える相手ではなく、そのように相手を見てしまう私たちの心です。
 神様が何をどう用いるか私たちには分かりません。キリストと体として一緒でなくても、イエスの名を共有する人たちを通して、「イエス」の名がより広められることをキリストは許されました。実は私たちもそういう経緯の影響でイエス・キリストを知ったかもしれません。 今の私たちの教会を囲む外の人々、または自分の身内でない人々もそうかも知れません。同じ信仰、同じグループに属さない人でも、諸々の人間的な感覚で自分とは合わないと思ってしまう一人ひとりでも、自分自身が敵対しない限り「味方」である人々が私たちの世界には一杯いるのではないでしょうか。自分の目がすべてではなく、自分の人間的な思いが神様の思いではないことを私たちは認めましょう。大切なのは、だからこそ私たちは神様を信じ従い、仕えるべきであることです。神様は自分と違う人々をも用いられることを知ることです。その人たちも私たちは仕えるべき仲間であり隣人として神様が与えられた人なのです。
振り返りましょう。私たちは初めから神様にふさわしく、善良で、非の打ちどころのない人だから神様に招かれていると思えますか?私たちは初めから世の善良な人、慈悲深い人の仲間でしたか?自分が知らない人々の思いと働きによって仲間とされ、隣人とされ、助け合うに値する人となったのではありませんか。私たちは救い主を、自分の能力で見出し、近づきましたか?私たちが恵みとして受けたものを、裁きと思い込みに変えて人に返すのは私たちの重い罪なのです。
 今日の第二の日課に私たちがすべきことが書かれています。「罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。」「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。」
 私たちの集い自体、共同体自体は、この世界と社会の中でまだまだ小さいのは確かかもしれません。だからと言って私たちに敵対するばかりの世界ではありません。私たちが仕え、祈るべき相手がいます。その人々は私たちの「味方」であり、私たちの隣人のために祈ることを通して、私たちは神様の力を見、証しすることもできます。私たちは、神様の信じる心と祈る心については「正しい人」であることを願いましょう。私たち自体が正しい人とは言えなくても、神様を信じる心と祈りは正しくありましょうという意味です。祈ります。


「争うより大事なもの」

2021年9月19日(日)聖霊降臨後第17主日・敬長礼拝説教要旨
エレミヤ11:18〜20 詩54 ヤコブ3:13〜4:3、7〜8a マルコ9:30〜37
いよいよ主イエスが弟子たちに、この後のご自身の死について話されました。ちなみにマルコによる福音書の中では、先週の箇所に続き、2度目の予告になります。
 これに対する弟子たちの反応、思いはどういうものだったでしょうか?
 これに関しては、私たちが容易に想像できる範囲だと思います。自分が信じて従う師がご自身の死を予告されたら私たちはどういう気持ちになるでしょうか。2度目に、十字架の死の予告を受けた弟子たち、マルコによる福音書によれば、「弟子たちはこの言葉が分からなかった」、「怖くて尋ねられなかった」と記述されています。
 ここで「分からなかった」というのは、イエスの話しの表面的な意味さえも分からなかったとかではないでしょう。彼らはこの話しを聞いていて、それがどういうことなのかをある程度知ったから「怖く」なっていました。ここで弟子たちが「分からなかった」というのは、イエスが予告されたことが一体どんなことなのか見当もつかないという分からさではありません。言うならば、「本当にそのようになるのか」という不吉な思い、「なぜそうならなければならないのか」という疑問、もしそのように自分の師が死ぬならその死の意味は何なのか…。こう言った意味の分からなさではないでしょうか。そして何よりもそのような結果は、当時の弟子たちの望みとは相反するものであったから、むしろそのようになって欲しくなかったから「分からず」、「怖い」と思っていた弟子たちだと思います。
 神様を信じる人にとって、神様を信じるのは信じるけど神様のみ心が分からない場合があります。本当は分からないというより、自分の期待とは違うと言った方が近いかも知れません。
 こういう思いは私たちが生きる時間と姿の中にかなりあるものではないかと思います。もちろん現れ方はそれぞれですが、ここで弟子たちがイエスの死の予告を受けて「分からなかった」ことのような戸惑い、期待外れを、私たちは神様を信じている、一応従って生きていると言いながらも感じるものです。
 結論から言えば大丈夫です。何が大丈夫かと言えば、そんな私たちであっても大丈夫という意味です。私たちはいずれ、自分が望んでも望まなくても、神様がさせてくださる通りになる者だからです。逆に、あたかも自分が神様のみ心を完全に知っているように思うこと、自分の思い=神様の思いのように認識しているならば、それが正しくて立派なことでしょうか。むしろそれは傲慢もしくは勘違い、怪しいことではないでしょうか。
 私たちは神様の前で「分からない」者で結構だと思います。私たちが神ではないので「分からない」はずです。しかし「分かっていない」私たちが、信仰によって従い続けることによって「分かっていく」者になることが信仰の歩みです。
 弟子たちはなぜ怖かったでしょうか。言うまでもなく、イエスが予告するような死がどれほど素晴らしいものか、どれほど大きな恵みをすべての人にもたらすのかを「分からなかった」から、殺されるという死の印象があまりにも強く、その後に語られている「復活」を信じられなかったから怖くなったのではないでしょうか。
 その弟子たちも、いずれ「復活」を知り、信じる人になることが聖書の証しです。後に、彼らはイエスの死と復活の恵みをどれだけ良く(詳しく、正確に)分かるようになったのか、そのために自分たちの地上での命をささげてもよいくらいになったみたいです。命をささげてもよいというより、ぜひささげたい(!)という思いで宣教し、多分すべての弟子がそのようになった痕跡が私たちの歴史に残されています。
 私たちは、神様の思いが分からないながらも、従っていくことによって少しずつ分かっていく、いつかは「はっきり知ることになる」(コリント一13:12)希望に生きる者であり、いずれは神様が私たちにとって最も良い道を与えてくださることを信じるように招かれている者です。
 これは世の中に存在する「盲信」のようなものではありません。盲信は、盲目に信じることですが、真の信仰はもっとも価値あることを気付いて知ることだからです。この世の利己的な幸せよりも、永遠で、義に適う命がもっと価値あるものであり、その命に繋がらなければならないことを知ることです。そういう意味で、私たちの教会の信仰が求める知恵とは、人間的なこの世的な知識ではなく、今日の第二の日課が言うように「上から出た知恵」、つまり神様から与えられる知恵です。
 私たちは神様から、天の国から与えられる知恵によって自分を見直し、気付かされ、力づけられるために教会に招かれています。違いますか?もしも私たちが神様を信じる(信じたい)と言いながら、自分の利己的な幸せ、自分が今置かれた世界での成功だけを望むならば、はっきり言ってその分野の本を読んだり、そのための観察や研究に励んだりした方がより有益であるはずです。神様を自分の利己的な思いに限定して理解するという間違いに陥らないようにという意味です。それこそ偶像です。
 私たちにとって神の国は、自分の思い描く世界ではなく、神様に救われて、死と悲しみから解放される世界と命です。神様の世界であり、神様から与えられる命です。ならば、当然ながら神様に従うべきところ、信じるべきところ、ついに自分(たち)の思い通りこそが正義だと思いがち、それが多くの場合の人間の姿でもあります。誤った自分の思いに囚われず、神様のみ心を知っていくこと、「上から」与えられる真理に従うことが、神様を信じることだという意味です。そのために、誤った思いは必要なら壊され、直されていくことが、この世で神様を信じて生きる人の道でしょう。
 今日、弟子たちに与えられたイエスの御言葉はそのために与えられた御言葉です。

 イエスがこの世での御自身の死と復活について再び話されたとき、弟子たちはまだその真意が分からず、怖く思っていた一方、彼らが自分たちで何を議論していたのか…。自分たちの中で誰が偉いかという議論だったようです。聖書のストーリーと御言葉に対するイメージをもっている私たちからすればこの時の弟子たちの姿がいかにも愚かで自己中心的に見えるかと思います。確かに、まだこの時はイエスの思いとは違う弟子たちの姿ではありますが、私は弟子たちのことをあまり見下しすぎないで見つめることをお勧めします。ここで弟子たちが考えていたこと、互いに比較なのか競争なのか言い合っていたことを、多くの場合、私たちも私たちの生活の場でしているつもりだと思うからです。
 イエスの御言葉に照らされ、この頃の誤りが報告されているような弟子たちですが、それでも彼らは自分たちの生業を捨ててイエスに従ってきている人たちです。そして結論的に観点がずれていたのは確かですが、自分たちの師イエスへの情熱があります。当時イエスの群れは大勢の人々の反響を呼んでいたとは言え、まだ世の中ではただ旅中であった自分たちの群れを過小評価していない彼らでもあるからです。この時の彼らを擁護するつもりではありませんが、自分たちの師イエスとその群れに対する信念と期待、プライドがあるからこそ、今後のことを見据え、自分たちの序列を決めようとすることではありませんか。
 ただそのような信念、期待、プライドと言ったものは、主イエスのみ心よりは、この世と自分たちの思いによるものであったゆえ、これから砕かれ、ある程度の時間をかけて直されることになります。これも彼らが真理に導かれる過程であり、この過程を通して捨てるべき思いだったのです。
 今日は、私たちの教会の礼拝において年に一度の敬長礼拝であり、それに合わせてメッセージを引き出すものではありますが、私たちがこの世を生きる中であるべき姿に近づくには、多くの場合時間が必要で、その時間の中で身をもって与えられる気付き、砕かれて深まる思い、忍耐をもって整われる過程が伴うことと思います。私たちに与えられる時間と体験をそのために用い、そしてそのように生きて来られた方々を尊重して見つめる心、私たちが「互いに愛し合う」ために必要なものでしょう。
 イエスの弟子たちも、このような「世の人間」から、「神の使徒」となる過程と変換期があったのです。初めから善人なんかいません。みんな、人である以上、「成っていく」者です。自分のために生きるならますます自分に、家族や組織のために生きるならますますその群れの大人に、そして神様に導かれるならますます神の人になっていくものでしょう。
 そのように変わっていく道の途上で、主イエスから与えられた今日の御言葉はこれです。
「いちばん上に先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」  教訓的で印象深い言葉です。ただこの言葉もどのように聞くかによって、導かれる先が変わっていくことでしょう。皆さんはこの言葉がどのように聞こえますか?
道徳的な教訓?自分よりも相手を思い、仕える姿勢、美徳。人間として素敵なものです。
処世術的な知恵?どうしても自分とこの世のご利益に結び付けて考えても、この言葉は奥が深いと思います。
聞き方は人それぞれで、それぞれの良い意味を決して否定はしません。ただ、神様を信じ、その御国を求める人ならば、主イエスの御言葉をわざわざ他のジャンルと領域に置き換えて聞くより、私たちが「神様の人」、「主イエスの人」となるために聞くべきであることを忘れないで欲しいです。
 神様が、神様の人に求めることは、他の人より偉く、強くなることには限りません。そもそも誰が偉い、誰が上という概念自体が人間の思いです。神様はそれよりも、神様に愛されている者らしく、人を愛し、人のために生きる者であることを望まれます。これは真実です。自分以外の人も神様の人であり、愛されるべき人だからです。この神様のみ心のために働き、赦し、仕える人こそがもっと神様の人らしい、「先に」気付かされ導かれた人ではないでしょうか。
 神様を信じる(信じたい)あなたが進むべき道は、どうすれば人に評価されるか、どちらが自分の得になるかではありません。神様は私に何を望んでいるかによって進む道です。神様があなたにどのような姿で生きて欲しいか、それを見出すまである程度の時間は必要かもしれませんし、それに辿るまで試行錯誤もあるかもしれません。ただ、それがどのような姿と役割だとしても、共通するはずの真実が今日のイエスの御言葉の中に示されています。「人のために後になり」、「人に仕える」者。そのように「人を受け入れることができる」者。このような人こそが神様の中ではもっと大きな人です。そして結局のところ、このみ心に正しく従って生きる人はこの世と人々の間でも非の打ちどころのない人でありましょう。
 私たちは、私たちのために与えられたイエスの御言葉を、素敵な言葉だと一度聞いて聞き流す者にならないようにしましょう。むしろ必要な時思い起こしましょう。人と対立する時、人に勝ちたい時、威張りたい時、人を憎み、恨みたい時、人と比較し相手より良くなりたい時、優位になりたい時、認められたい時に私たちの主イエス・キリストの御言葉を思い出せるように祈りましょう。
「いちばん上に先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」「わたしをお遣わしになった方(神様)を受け入れるのである。」
 この世、人間の序列では限りなく弱い、低い存在の象徴の子供。そのような一人を自分が仕える一人として受け入れる時、私たちは神様を受け入れ、従う私たちになるのです。
 覚えましょう。私たちは人々の間で大きな人、「先の人」になるより、神様の中で大きな人、「先の人」になることを。神様にとって大きな人は、人を受け入れ、人に仕えることができる人であることを。主イエスは神の独り子でありながら、神様のみ旨に沿って人々のためにすべてを与え、十字架の死に至るまでご自身を低くされたことを。心に刻みましょう。
 最後に、信仰の先人の美しい解き明かしが見つかりましたので一緒に味わいたいと思います。アウグスティヌスの説教です。
「木を見てください。高く伸びるために、まず低い場所を探し、先を伸ばすために根を深く下ろします。へりくだることから始まらず高く上ることが出来ましょうか。あなたは愛することもせず、崇高なものを理解しようとしますか?根を下ろすこともなく空の風を求めますか?それは没落であって、成長ではありません。」
 今日の第二日課の終わりの言葉のように私たちが心から神様に一歩近づく時、神様も私たちに近づいてくださいます。私たちに人間的な欲望と知恵でない、上から与えられる悟りと知恵、導きが与えられるように。お祈りいたします。


2021年9月12日(日)聖霊降臨後第16主日 礼拝説教
イザヤ50:4〜9a 詩116 ヤコブ3:1〜12 マルコ8:27〜38
私の息子が昨日怪我をしました。顔(目の横)を2〜3針ほどを縫う怪我でした。
 説教者として礼拝で個人的なことを語りすぎないことを心がけていますが、説教を考える途中の出来事だったので、今日のメッセージの話題となり、一応今日の御言葉につなげて考える目的ではあります。
 日常的な観点からすれば、男の子で、いつかはこういうことが十分起こり得ることを多くの人は知っていて、実際体験しているものでしょう。幸い、週末の午後でありながら早めに治療できたこと、感謝しています。もっと悲惨なことに至らなかったことも感謝しています。息子を知っている方々が心配してくれて、慰め、励ましてくれるのも本当にありがたいものです。
昨日の出来事はこれくらいの結果になりました。これから、今日の説教の話題として考えてみたいと思います。私の息子はなぜ目の横を縫うくらいの治療を受けなければならなかったのか。それ以前にまず自分が痛い目に遭って、周りの人々も心配する傷が生じてしまったのか。私に走り寄る途中に躓いたからです。躓いて倒れるところ、家具の角っこにぶつかったからです。一瞬の躓きが体の倒れに、何かとの衝突に繋がります。もちろんその倒れ方、衝突の具合によって、怪我、痛み、被害などがついてきます。
 この図式、2歳の子供の場合だけでなく、すべての人々に当てはまる図式だと思います。そして物理的、身体的な躓きだけでなく、精神的、社会的、他人との関係性における躓きの場合も同じような図式になることと思います。こういうと、何か哲学的、抽象的なことを語っているように聞こえるかも知れませんが、簡単に言えば、躓きは何かの傷、損傷をもたらすということですね。そして躓きの種類によっては、その躓きの連動によっては、軽い損傷に済むとは限らない、重い損傷、もしくは大切なものを失うような結果につながる可能性もあること。この世を生きるすべての人に潜む可能性だと思います。
 人は、躓く可能性のある存在であり、その躓きによって痛み、苦しむ存在です。繰り返し言いますが、体の場合以外の領域においても、躓きからもたらされる色んな結果を負うのが、私たちです。
 一応このことを語るために、昨日怪我した息子を話題にしましたが、今日の聖書に、おそらく人が最も陥ってしまう躓きが提示されていることと思います。今日の第二の日課、ヤコブの手紙が語る「舌」の躓き、つまり言葉の躓きがそれです。
 最近第二の日課として読んでいるヤコブの手紙は、この世を生きる人々の姿から鋭い指摘を与えると感じるのは私だけでしょうか。先週は相手によって態度が変わってしまう人の姿が提示されていました。今日はこう語っています。「舌は火です」。「どんなに小さな火でも大きな森を燃やしてしまう」場合があると言っています。私たちの口から出る言葉が、場合によっては他人への「火」にも、自分への「火」にもなること、それでまさに何かを燃やすように、人との関係を、誰かの心を傷つけ、その害は自分にもたらされること。私がこのように解いて語らなくても、「舌は火です」という短い言葉の意味は皆さんに十分伝わるものと思います。
 このヤコブの手紙は断言しているんですね。人間の舌は「不義の世界」だと、「舌を制御できる人は一人もいない」と、「舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています」と断言しています。この断言は、人の口から出る言葉の悪い影響をこのように語っているとも言えますが、私はこの言葉にとても共感します。聖人や天使でない限り、悪を吐き出す口を私たちはもっています。毒となる何かを言うのに私たちの舌を使ってしまいます。この現実、聞いて、悟って嬉しくなる現実ではなさそうですが、真実だと思います。割と最近聞いた福音書の中で聞いた主イエスの言葉もこの真実をこのように言われました。「人の中から出て来るものが、人を汚すのである」、「人の口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」。
 これに真面目に向き合うならば、きっと誰にとっても厳しい真実でありましょう。しかも「人は舌を制御できない」と断言しているなら、私たち人は一体どうすればいいのかと思われる、都合の悪い真実です。私たち人を、罪人だと告発するような言葉です。しかし私たちを罪人と知らしめるだけが、ヤコブの手紙のメッセージではありません。じゃどこかで悪を語り、誰かへの毒を吐き出すに決まっていると断言されている私たち人はどうすればいいのか。「父である主を賛美しなさい」。私たちの舌を、神を賛美するために用いなさい!これが今日のヤコブの手紙が伝えるメッセージです。
神様を信じる私は思います。これだけが、自分を躓かせ、火をもたらし、自分の舌が吐き出す言葉の結果、報いを受けざるを得ない私たちが、舌の呪いから解放される唯一の道だと信じます。ヤコブの手紙が言うように、私たち人間の口から賛美と呪い両方が出て来るのは、現における事実ではあります。だからこそ、私たちの舌、言葉を神様に委ね、ささげるようにしなさい、これがこの聖書のメッセージではないでしょうか。結局それが、私たちの舌が火のような悪から救われる道、私たちの命全体が火のような悪に燃えないように守る道だということです。

  この真実を、私たちは福音書のペトロの姿から伺えます。ペトロは言うまでもなくイエスの一番弟子。しかし第一の弟子だからと言ってイエスに従うばかりだったのか…そうではありません。ペトロの欠点は福音書の中で容易に見つかるものであり、後半ではイエスを否認してしまう姿、説教で良く語られるネタです。岩という意味で主イエスから与えられたペトロという名ですが、欠点を取り上げるならペトロの弱い姿を聖書からいくつも見つけることができます。
しかし、だからと言ってペトロはイエスの第一の弟子とは言えないのか、イエスに愛される弟子ではないのか…。そんなことはありません。いずれペトロは主イエスの岩として、天国の鍵を授けられた弟子として用いられるようになります。弱さを抱えても、過ちを起こしても、過ちどころか後に裏切りに近いことを犯してしまっても、ペトロは主イエスのペトロです。今日の福音書の中に、なぜペトロは主イエスのペトロなのかが示されているものと思います。
イエスはお尋ねになりました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」この質問を受ける弟子たちは複数人なので「あなたがた」と書いてありますが、これはもちろん一人ひとりに問いかけられる尋ねです。ペトロは答えました。「あなたはメシアです。」つまり自分の主、救い主であると答えました。
主イエスは、このペトロの告白を侮られません。探せば弱さと欠点をまとうペトロ、この告白通りではないんじゃないかと思われる姿がところどころ見えてしまうペトロ、まさに人間ペトロでありますが、だからと言ってこのペトロの告白をさげすますことはない。受け止めてくださる主イエスです。言うならば、このすぐ後の場面でイエスのみ心に反することを言ってしまい、「引き下がれ」と言われてしまうペトロでもありますが、「あなたは私のメシア」と告白するペトロを決して見捨てない主イエスであります。
あまりにも淡々と伝えるマルコによる福音書ですが、他の福音書によるこの出来事の記事では、ペトロの告白に対してイエスはこう言われます。「あなたは幸いだ」、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」。つまりあなたは神様によってこれを知り、こう答えたのだと。この場面でのペトロの思いと口は、神様のもの、聖霊によって支配され、用いられたものなのです。
この後、また罪と弱さに囚われてしまうペトロでも、主イエスはこう答えたペトロを侮られないこと。特に難しく解釈しなくても、主イエスとペトロの姿から読み取ることができる福音です。イエスをこう告白することができたペトロは、その告白の通り、イエスのペトロ、メシアのペトロです。そしてそれを証しする言葉がペトロの舌から語られました。一瞬と言えば一瞬の告白であり、賛美です。しかしイエスは、この後ペトロがまた変わってしまい、躓いてしまうからと言ってこのペトロの賛美と告白を忘れない方であります。
神様に捉えられ、聖霊に支配されていた時のペトロが輝きます。逆に人間の思いに囚われていた時のペトロ、たとえ人間の考えとしては妥当だと思われるものでも、人間の思いに支配されていたペトロはイエスに背き、叱られます。「サタン」だとも言われます。結局人間の思いだけでは神のみ心に従うのではなく、むしろ反することになるからです。
次はこの箇所に対するアンブロシウスという信仰の先人の解き明かしです。「一つのことには、一つの意志のみがある。…しかし人間の意志は神の意志とは違う。人間の意志は死を怖がるゆえに自分で自分の命を救おうとする。しかし神の意志は、キリストの死を望み、キリストが苦しみを受けることを望んでいる。だからペトロがイエスの死と苦しみを拒み、いさめるとき、イエスは言われた。『引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。』」

今日の福音書の後半、キリスト教福音につながる核心的なメッセージが語られています。しかし同時に気難しく、暗いイメージで伝わる言葉はないでしょうか。これらの言葉を何度聞いても、この言葉にしがみつく暗い印象を拭えない私がいることを告白します。どうしても人間的に、この世に生きている自分中心で聞くからです。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」この言葉は人間的に聞いて暗い言葉に聞こえることに決まっていると思います。
つまり「従いなさい」という意味です。難しい言葉をぼんやりとまとめて、適当に「従いなさい」ではなく、結局のところ、この世に縛られず、自分の欲、人間的な思いに従うのではなく、「わたしを信じて従いなさい」ということです。そうすれば「命を得る」という約束です。しかし救われる命、朽ちない命は自分の思いでは、自分の欲では得られないということです。だから「わたしに従いなさい」と命じておられるのです。
 私たちの弱さ、私たちの罪と汚れを見て、この命令には従えないと自分で決める前にペトロを思い出しましょう。ペトロの短い告白と、それを受けて、永遠にご自身のペトロとされた主イエスを思い起こしましょう。私たちも自分の罪と弱さばかり見つめず、神様の導きと働きによって「わたしの神」と賛美し、告白することができるのではありませんか。
私たちの口、舌が、悪と毒のため躓きを起こすのではなく、神様のために用いられるとき、それは弱い私たちも主イエスの者である証拠なのです。そしてそれは主イエスに従う大きな一歩でもあります。神様はあなたの罪と至らなさよりも、あなたの告白を喜び、受け止められる方であることを信じます。


2021年9月5日(日)聖霊降臨後第15主日礼拝説教要旨
イザヤ35:4〜7a 詩編146:1〜10 ヤコブ2:1〜17 マルコ7:24〜37
私たちが礼拝に用いており、キリスト教の聖典と呼ばれる聖書は、66巻、それぞれの違う書物の合わせであること、聖書を読んできた方々は知っていることです。時代も、著者も、実は最初の段階で読者とされる対象もそれぞれ違う書物が一つに合わせられたのが聖書だから、聖書をまとまった一冊の本として認識したとしても、その内容と表現の仕方(文体)は多岐にわたります。
 まさに多岐にわたる聖書のそれぞれの記録を今の私たちが読むとき、その記録の内容が分かりやすく伝わる記録もあれば、そうでなく、「これは何の意味なのか」とよく分からない、難しいと感じる部分があることは事実です。
 その中で、今日の礼拝でも第一から第三と数える福音書の日課、それに詩編の言葉も合わせて、四つの種類の記録を私たちは読みました。今日の日課を読み進める中で、私が思うに、読み進める中で一番すうっと入って来る内容(自然に内容が入って来る内容)だと思う記述から注目してみたいと思います。私がそう思う記録は、今日の第二日課、ヤコブの手紙の中に書かれている次の記述です。
 「あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。」教会に送られたはずの手紙で教会を背景としているこの記述の下りは、お金持ちなのか偉い人なのかとりあえず立派に見える人に対して教会の人がどのような態度を示すのか、それに対して見るからに貧しい人にはどのようにふるまうのかと、一応仮定する形の文章ではありながら、この二つの反応を見ながら書いているかのように分かりやすく伝わる記述ではないでしょうか。
 先程、聖書の内容は多岐にわたると言いながら、さらに言えば、この文章と私たちの間には2000年程の時代の差があり、それに加えて言語と文化の差もある中で、お金持ちと貧しい人に対する態度の違いを語っているこの下りは、なぜか今の私たちにも良くわかる内容であること。何のことを言っているのか一つも難しくない、良く分かる事情この話しの背後には、2000年が過ぎても変わらない、地域と文化が違っても共通する人間の姿があると言えましょう。
 私にとっては心に刺さって来る内容だと思い、取り上げている次第です。これをですね…他人がこうしているのだと、つまり偉そうで富んでいる人に対しては「こちらにお座りください」と丁寧にふるまいながら、そうでない人は無視するか、雑にふるまう人の姿を自分が見るならば、「あの人は何という人だ」と、「人に対して態度が変わるのではないか」と指摘しそうで、場合によっては怒りを抱くかもしれませんが、自分はどうだろうということを私たちは振り返っているでしょうか。
 もちろんこのように極端な形で人に対する態度が変わるとは思わないかも知れません。しかも私たちは、以前の時代と比べれば「人を差別してはいけない」という社会的な、人権的なモラルが確立されていると言えましょう(過去よりは)。しかし外に現れない、自分の中のどこかに隠れたところで、人に対する私たちの思いや感情が、人の地位や立場によって変わらないものなのか。その人に対する他人の評判や評価に左右されないものなのか、もしくは自分の性格や好みによってある人に対する不当な思いや態度は示さないものなのかと考えれば、話しは変わってくるものではないかと予想します。
 皆さんに対して、「あなたは人を差別しているでしょう」、「思い違いをしているでしょう」と言っているつもりではありません。それを指摘することが、こんな話題を出している目的なのではありません。どこかで私たちはこんな姿になりがちだという前提で話していることではありますが、だからこの手紙が伝えようとするメッセージに真摯に向かい合う促しが目的と言えば目的です。つまり私たちは「主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔ててはなりません」と伝える今日の聖書の言葉を、あいまいな形で自分には該当しないものだと勘違いして聞き流すのではなく、自分に伝わるメッセージとして聞くべきではなかろうかという問いかけです。良い思いばかりでなく色んな思いを抱く、罪ある私たちなので、完璧に「人を分け隔たない」ことは出来ない私たちかも知れませんが、そうであるなら「悔い改めましょう」という話しです。
 続くヤコブの手紙の内容はある意味、罪に対して無感覚である人に対する辛辣なメッセージではないかとも思います。「隣人を自分のように愛しなさい(!)」私たちが礼拝と聖書の中で、キリスト教の思想を代表するような言葉としてもっとも良く聞いている言葉ですが、私たちはこれを守っているのかと問いただされているようにも聞こえます。どこかで、何かのことで、私たちの中に誰かを分け隔てる自分がいるならば、私たちは接する人を隣人として愛するところか、「罪を犯す」ことになると指摘されています。どれくらいたくさん、「仕えましょう。主と隣人に。」と唱えても、人を分け隔てるならばそれは口先だけ、言うだけの信仰であって、行いがない、実践が伴わない死んだ信仰であることを、今日の第二の日課は伝えています。それを、私たちへの言葉として受け止めましょうという思いです。
 「人を分け隔たない」。多少、告発しているかのような話しをしましたが、これは、聖書が私たちに求められる指針でありながら、それ以前に私たちが(も)赦されるための前提ではないかと思います。神様がもし、私たちを分け隔てるならば、誰がより良いことを行ってきて、誰が悪いことをしてきたのか、誰が神様の前で良い思いと姿勢をもっていて、誰がそうでないかと。誰が神様に属する人で、誰が属さない人なのかと分け隔てて、裁かれるならば、私たちは非の打ちどころなく、それに耐ええる自分でいられるでしょうか。それは神様にしか分からないものかも知れませんが、神様の本当のみ旨を知らせるために来られた主イエス・キリストは、人々を分け隔てなかったことが福音書のメッセージです。
 イエス・キリストは、人々の基準と思いで、誰が罪人で誰が救われるにふさわしい人なのかを分け隔てることなく、むしろその時代の人々の思いとしては罪人と思われ、そうされていた人々を招かれた方でした。それを証しするのが福音書の記録であり、今日の福音書日課の内容です。
 ここで一つの難点が現れます。今日の福音書を聞いた方ならはこういう疑問を思い浮かぶことでしょう。イエスは人を隔てることがなかったのか…。なのに、今日の箇所でギリシア人であり、シリア・フェニキアの生れの女性、つまりユダヤ人たちが異邦人と見ていた女性に対して、今日の福音書に書かれている発言をされたのかと。
 その発言とは、自分の娘から悪霊を追い出すように願ってきたこの女性に対して言われたこの言葉です。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」同じ出来事を記録したと思われるもう一つの福音書、マタイによる福音書ではもっとはっきり、 「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と書かれており、つまり「私はイスラエルの人を救うために来たのであって、あなたのために来たのではない」、そう聞こえる言葉を言われたと福音書は報告しているのです。
 確かに理解に苦しむ言葉かも知れません。この部分だけとって考えればそうです。でも、私たちがあらゆる存在を見つめるときもそうですが、聖書から正しいメッセージを聞き取るためにも、あまりにも「その部分だけ」とって、切り離して考えるべきではありません。その部分の意味を見つめながらも、全体の中で、繋がる流れの中で聞き取るべきです。
イエスがこう言われたから、その女性を助けなかったでしょうか。この部分の言葉通りに、当時の観点でイスラエルの家に属すると言えないこの女性を最後まで退けたのでしょうか。そうではない結末を私たちは読んでいます。そしてそもそも、イエスはなぜことの地域に行かれたのでしょうか。今日の福音書の出来事の地理的場面である「ティルス」、続く箇所の「シドンの地方」とは、当時では異邦人の町だそうです。そこまで詳しい場所の説明ではないながらも、すでに「ギリシア人」、「シリア・フェニキア」と、当時のユダヤたちが生活していた地域ではない場所にイエスは行かれたことです。なぜ行かれたでしょうか。もちろん宣教するために、人々の病をいやし、奇跡を行うためです。イエスは本当に「(自分の)子供たち」つまりユダヤ人のためにしか遣わされておらず、その人たちだけを助け、教える思いであったなら、「ティルス」、「シドンの地方」の異邦人の町には行かなかったはずでしょう。
 じゃ、イエスはなぜ、助けを願ってきた、しかも必死に願ってきた女性に冷たい言葉を放たれたでしょうか。冷たいところか、聞き方によっては、軽蔑的な発言にも聞こえる言葉を話したでしょうか。私たちがいくら、残された言葉一つ一つの意味を追求しても、神様の完全な意図、救い主の思いを完全に捕まえることは無理かも知れませんが、この後のイエスの奇跡は少なくてもこの発言のままではないイエスを示します。
これは、この女性に対する「試し」だったでしょうか、それとも当時のユダヤ人たちがこの女性のような人種に対してもっていた思いと姿勢を一度反映して現したことでしょうか、ともかくこの女性の願いは一瞬の冷たさに屈せず、むしろこのイエスの言葉によってより強まり、信仰が現れる「装置」と「過程」となりました。
 この女性の信仰、そしてこの信仰による言葉は見事でした。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」実はこれも、この女性の心を知らず言葉だけ切り取って聞くならば、上手い言い返し、ウィットに聞こえちゃうかも知れません。しかし私はそうは思いません。これは彼女の機知ではなく彼女の心であり姿です。娘を悪霊から救わせたいという必死さ、一瞬否定に見える状況に動揺しない信仰、そして自分が信じる方に対して自分は低い者である告白です。
 その信仰に対してイエスは彼女の願いを叶えてくださいました。それはもう決まっていたもの、準備されていたものかのように、「よろしい、家に帰りなさい」と、彼女の願いが叶われたことを確認できる場面へと送ってくださいました。
 それから次の場所でも、耳が聞こえず、舌の回らない異邦人を、ご自身の体を当てていやしてくださいました。ここで、どんな意味の動きなのか不思議に見える動作、まるで呪文のように聞こえる言葉が書き記されているのがマルコによる福音書の特徴でもあります。通訳者であって、異邦人信者を対象にイエスの記録を書き記したマルコらしく、異邦人目線から見えて、聞こえる描写を記録したことかも知れません。異邦人には不思議な言葉に聞こえたかも知れない「エッファタ」、当時イエスとユダヤ人が話していた言葉で「開け」という命令であって、イエスはご自身の体を当て、ご自身の息をかけて抑圧されていた者を解放される者とさせてくださいました。
 こうして、主イエスの前では、いやされるにふさわしい特定の人種のみがあるのではなく、救われるにふさわしい状態があるものではないことが判明されました。どんな人でも、イエスの前ではただ憐れまれる人であること、イエスが与え食べさせる恵みに与ることが判明されました。だから私たちも、誰がふさわしいのかそうでないか、誰が救われるのかそうでないかと勝手に判断し、人を分け隔ててはいけません。人間の思いや優越感、自分の限られた気持ちをイエスの思いだと勘違いしてはいけません。私たちも、聖書に出て来るこれらの人物たちのように人種としては異邦人であり、神の前では罪人です。そして自分にはどうしようもなく、神様に頼むしかない願いを抱える者です。
 だから人を分け隔てる思いをつい、どこかで抱くかもしれない私たちは、へりくだりましょう。自分もただ助かる一人であり、根が続けるべき一人であることをわきまえましょう。今日の福音書の女性は、私たちにとって信仰の先人であり模範です。主イエスは信じ続ける人の願いと信仰を、叶わない願いではなく、死んだ信仰ではなく、叶われる信仰、生きた信仰とさせてくださいます。だからすぐ自分の思いと願いどおりにならない、すぐ変わらないと言って挫けないように、諦めないようにしましょう。そんなときはむしろ、私たちの中から「生きた信仰」を見出すべきです。
 信じ続け、願い続ける対象として、主イエスを知っている私たちは、詩編が賛美しているように幸いな者、これからますます神様が与えられる幸いを見て聞く者です。


2021年8月29日(日)聖霊降臨後第14主日礼拝説教要旨
申命記4:1〜2、6〜9 詩編15:1〜5 ヤコブ1:17〜27 マルコ7:1〜8、14〜15、21〜23
今日の福音書の記録の中に、イエスとファリサイ派の、数人の律法学者たちがいます。当時のユダヤ人社会の中で最もたくさんのユダヤ人に影響を及ぼしていたファリサイ派という宗派、そしてユダヤ人にとって絶対的なもの、律法を研究し、指導する律法学者…彼らがイエスと一緒にいて、イエスに注目していることには何かの理由があります。聖書の流れを読んでいる人にとって、このめぐり逢いは良い意味の交流や触れ合いではないことが分かります。
彼らが当時イエスを良く思っていなかったからです。今日の箇所の中で、彼らがイエスとイエスの群れに注目しているのは、何かの言いがかりは見つからないかという牽制がその理由です。それは当時の彼らの立場上、木から関係によって決まっていた状況、相手への見方です。このことが決して今日の福音書からの主なメッセージではありませんが、ここから見えてくる「人の姿」があるものと思います。
人が他人を見て、聞いて、触れて感じるものの多くは、その人を思う自分の姿勢ですでに決まっている場合があります。私たちは人と接するとき、その人に対する心と態度といったもの(先入観)が自分の中のどこかに存在し、その人から聞いて、見るものから自分の気持ちを確認するような接し方、少なくないと思います。福音書の記述からして、イエスから聞いて注目する人々の中には、イエスから学び気付かせられるためではなく、試すため、攻撃するため、対立するためにイエスに近づいた人々がいたこと、福音書の数々の場面から見える姿です。
今日の場面で登場しているファリサイ派の人々と律法学者たちがそうです。そして彼らはイエスの弟子たちの中に手を洗わないで食事をする人を見つけました。その姿が見つかりましたので、いよいよ、自分たちの中にあるもの―狙っていたもの―を外に現します。
「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのか」。
食事を前にして「手を洗う」こと、このことが今日の福音書の論争のきっかけです。

 当時のユダヤ人の観点とは少し違う観点にはなりますが、今の私たちにとっても「手を洗う」ことは重要な生活姿勢となりました。ウイルスを除去するため、もちろんコロナ以前からも衛生的な意味で黴菌が体内に入らないために重要な生活習慣です。
当時のユダヤ人たちが食事を前にして「手を洗う」ことに、衛生的な意味がまったくなかった訳ではないかも知れませんが、彼らが「手を洗う」ことを大切にしていた理由は衛生的な目的が第一ではなく、彼らの信仰的な習慣、つまり祭儀的な意味において重要な意味をもちます。宗教的なアイデンティティーがとても強いユダヤ民族にとって食事は、神様から与えられたものを食する聖なる時間―このことは神様を前にして私たちにも共通する信仰的な意味ですが―、だからその前に身を清めるという祭儀的な行為である訳です。
ここで指摘しているファリサイ派の人々をはじめとする当時の多くのユダヤ人の慣習については、今日の福音書の本文にも書かれていました。彼らは「昔の人の言い伝え」を固く守って、食事を前にして念入りに手を洗い、外から帰ってきてからも身を清め、食事や生活の道具も清めてから扱う…。これらの習慣は、厳密には律法の中に最初から書かれていて指定されていたというよりは律法に基づいて構築されてきた習慣、まさに「言い伝え」であるようです。出エジプト記30章と40章あたりには、祭儀を司る祭司たちに命じられた清めの規定が書かれています。それが後々祭司以外の一般的なユダヤ人の生活の中にも広められたことが予想できます。
 もう一つの厳密な確認というか、当時の背景に追いつく努力をするならば、実はすべてのユダヤ人がこの清めの習慣に従っていたものでもないという注解を読んだことがあります。ファリサイ派に属するユダヤ人が多数であったから多数のユダヤ人の習慣であったでしょう。しかしファリサイ派の習慣=ユダヤ人全体までではないということ。ファリサイ派以外にも他の宗派は存在していたことであり、だからイエスの弟子の中の何人かは食事の前に手を洗わない人もいたという解釈です。うっかりして手を洗うのを忘れちゃったとか、食事に急いで清めの時間を飛ばしちゃったという理由ではなく、もともと何人かの弟子たちはその習慣を自分たちの習慣にしていなかったということです。
 ちなみに「ファリサイ」という言葉自体、ヘブライ語で「分離した者」という意味で、それが彼らの源流を表すようです。律法を守る人と守らない人の分離、つまり異邦人や律法を守らない人と自分たちとは違うと分離することが彼らの重んじる思想のパターンではないかと思います。自分たちと異邦人、神の民とそうでない民族、清いものと汚れたもの…。このことを聞けば、民族と人を見るにおいても、食べ物や道具を見るにおいても、彼らが「清める」と言って色んな存在を「分離」していた行いが、彼らの多くの姿を占めるものであったこと、伝わると思います。

 ともかく、そこにいたファリサイ派の人々が、自分たちと多くのユダヤ人たちが従っていた習慣に基づいて、イエスと弟子たちへの告発、指摘を示してきました。私は個人的に、食事の前に、外から帰って来たとき身を清める習慣、大切な道具を清めること自体は良いものだと思います。それぞれの生活の場面で神様を覚えることになるからです。これは勝手な予想ではあるけど、そのような習慣は信仰的な、祭儀的な意味での行いと習慣でありながら、それに付随して衛生的にも健康的にも良い影響をもたらしたかも知れないと、今から2000年以上の前の時代において素敵な習慣だったと思います。
 問題は、自分たちが自分たちの言い伝え守っているから、それを守っていない人は「清くない」、「汚れた」という姿勢ではないかと思います。色々複雑で昔の背景かもしれませんが、この告発を受けてイエスが語られる今日の言葉は、本当の意味での人の悪と汚れはどこから出てくるのかを示してくれます。それが人によっては互いに一致しない認識、異なる習慣もある食事の規定と習慣を通して表されました。
「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである。」今日はマルコによる福音書の言葉が日課ですが、同じメッセージをマタイによる福音書バージョンでは「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」と書かれている言葉です。
 言い換えれば、本当の「汚れ」とはどこから出てきて入るのか。ちなみに敢えてしなくてよい確認ですが、ここでいう「汚れ」は衛生・健康的に悪影響を及ぼすよごれやウイルスではなく、宗教的な意味での「罪」のことです。肉におけるウイルスではなく、霊におけるウイルスと言ってよいでしょうか。
罪はどこにあるものでしょうか。何が罪なのでしょうか。人を罪に陥れる悪はどこから出て来るものでしょうか。口に入れる食べ物なのか?食べ物を口に運ぶ手のよごれなのか?それとも食べる人自身の身なりと姿勢を整えることの怠けや足りなさでしょうか?
それらではなく、人の中にあるもの、あらゆる悪い思いが人を汚すのだとイエスは言っておられます。私は個人的にこういうスタイルのイエスの言葉が好きです。厳しいけれどはっきりしていて、メッセージが明確に伝わるからです。自分がそのメッセージ通りになれるのかはまたその後のことであって、一見聞いて喜ぶような言葉ではありません。むしろ啓発的で、こうしたはっきり伝わるメッセージから、私たちはもやもやしたあいまいさではなく、本質の正体もしくは何が本当に正しいのかを気付くことができるからです。
「あなた弟子たちはなぜ手を洗わないのか」は、こう質問する人の言い表されていない気持ちを加えて言い換えるなら「なぜあなたの弟子たちは食事の前に、神の前に自分を清めないのか」という指摘であり、さらにイエスに対して「なぜあなたは弟子たちに、自分を清めることを教えないのか」であって、言葉に表されていない、すでに決まっている彼らの答えとして「あなたは正しい教師ではない」という攻撃なのです。
その攻撃を受けてイエスは彼らにイザヤという昔の預言者の言葉を引用して言われました。
「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから(つかり神から)遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。」それがあなたたちだという意味です。あなたたちは「口先」という外面に現れる部分では神様を敬っているように見えて、見えない心ではそうでない偽善者であるという意味であり、神様の命じられたことよりも、いつの間にか人間の教えを重んじているという意味です。
そして人々に教えられました。食べ物が人を汚すのでもなく、洗っていない手のよごれが人を汚すのでもなく、「人の中から出るものが、人を汚す」のだと。
皆さん、これはどこかに悪い思いを抱いて生きる私たちには、実に厳しい言葉です。本当の罪とは、いつの間にか神から離れて形で自分たちが構築した人間の規範や習慣を守る・守らない、属す・属さないことではないのです。むしろ「なぜあなたの弟子たちは手を洗わないのか」と告発する悪意、憎しみ、見下し、傲慢、隔て…言葉で表すならこうしたもの。これらが本当の意味での「汚れ」であり、「罪」であることです。神様の前で私たちが罪とされるのは、人が作った決まりの違反なのではなく、神様が命じて望んでおられることを守らない、そのように生きないこと。そこから外れて、離れて生きることだからです。
どちらが本当により悪なのかは真面目に考えるならば見えてくるものでもあります。どっちが本当に悪いことでしょう。手を洗うという習慣に属していないことでしょうか。それともその習慣に属していない人を真剣に憎み、軽蔑する方でしょうか。罪は、私たちの中にあり、私たちの中から出て来る悪い何かが人を、自分自身を汚すものであります。
そのことを知って、自分の罪を悔い改めることこそ、私たちに相応しい清めではないでしょうか。今日の礼拝の中で与えられている日課の中の数々の言葉が私たちに、偽りの清めではなく本当の清めについて示してくれます。「どのような人が…聖なる山に住むことができるか」。先程交読した詩編から、それは「正しいことを行う人」、「心に真実の言葉があり、舌に中傷をもたない人」、「友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人」であると。
また今日の第二の日課からも、すべて「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から」、神様から与えられるのであって、「人の怒りは神の義を実現しない」こと。「自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味」であること。だから「自分を欺いて、(御言葉を)聞くだけで終わらず」、「御言葉を行う人になる」こと。自分が正しいと思わず、誰かを助けることで「世の汚れに染まらないように自分を守る」。これこそ「清く汚れのない信心」です。

主イエスは奇跡をもって五千人以上の人々を食べさせました。しかしその記事に、人々がわざわざ山の上で手を洗ってとは書かれていないです。つまりイエスは手を洗わなかった人々にも、与え、満たしてくださいました。
さらに主イエスはご自身についてこう言われました。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。そして実際そのように人々を区別することなく、招き、迎えてくださいました。罪人たちのために十字架の死に至るまでそうなさいました。
私たちも主イエスに招かれ、赦される一人ひとりとして、主イエスに倣い、私たちの中にある悪を捨て、神様が与えられる賜物をもって清い生き方に近づくことをもう一度望みましょう。
この四旬節第四主日は、伝統的に「レターレ(歓喜の主日)」と呼ばれます。四旬節のちょうど半分を過ぎた頃、まだまだ寒さは襲ってくるけれども、その中で近づいて来る春、ご復活の兆しを感じ取り、待ちのぞむときです。そして今日このとき、聖書は、生まれつき目が見えなかったけれども、イエス様と出会って新しい光を見た、ひとりの人のできごとが記されています。

この人は初め、目が見えない状態で道の端に座り、おそらく物乞いをしています。イエス様の時代、目が見えないことは神様への背きによるものだ、とみなされていました。イエス様に一番近かったはずの弟子たちでさえ、そのような考え方に囚われています。しかし、イエス様はそれに真っ向から反対されました。「この人の目が見えないのは罪の結果などではない。むしろ神の輝きがこの人に現れるためなのだ」。

社会の中で低い扱いを受けていたこの人は、イエス様との出会いによって、自身が光となります。この人は、彼が本当にかつて目が見えなかった人かどうかを論じる人々の間で「わたしがそうなのです、わたしがかつてあの目が見えなかった盲人です」と証言します。当時の社会の中においては周縁に置かれていたこの人が、イエス様によって遣わされ(=シロアム)、過去もひっくるめて主に用いられ、神さまの働きを証言していくのです。とはいえ、社会の偏見というのは根深いものです。それは、この人の目が開かれた後であっても、周囲の人々がなかなか彼の言葉を信じようとしない、特にエリート層の人々の「お前は全く罪の中に生まれたくせに、われわれに意見しようというのか」と、彼の言葉を聞こうとしない姿にも表れています。そしてその行きつく先は、イエス様の十字架でした。イエス様の光は、そのようなわたしたちの持つ弱さをも浮き彫りにします。しかし、それと同時に私たちは、私たちの愚かさの果てに神様が備えてくださった、十字架からの復活も見るのです。「恐れを信仰に変えたまいし わが主のみ恵みげに尊し」。 追いやられているもの、砕かれているものに目を留め、招き、引き上げて下さる方。その方の恵みに信頼し、四旬節の残りの期間を歩みたいのです。


2021年8月22日(日)聖霊降臨後第13主日礼拝説教要旨 ヨシュア記24:1〜2a、14〜18 エフェソ6:10〜20 ヨハネ6:56〜69
イエスは世の人々のために与えられた「命のパン」である。
 この夏、私たちはこのテーマの日課を繰り返し聞いてきました。教会の暦に合わせて決まった聖書を読んで礼拝をする私たちの教会の日課が、数えれば4回も「命のパン」としてのイエスを示し、割愛することは、それほどこの内容が教会にとって大切であることです。
 自分の感覚で聞きたいことを聞く…。私たちが多くの場面で無意識に求めることだと思います。自分にピッタリ合うと感じるような話、自分の好み、引き付けるような内容…。暦に合わせて聖書を聞くシステムだとこれら個人の好みとはちょっと違う(程遠いかも知れない)の読み聞きかも知れません。
イエスもご自身をパンという食べ物でたとえたように、私たちの礼拝も食事にたとえてみるならば、年間決まった日課とスケジュールで礼拝するということは、「今日は何食べようか」、「今日は何々が食べたいからこれにしよう」というスタイルの食事ではありません。今日はこれ、来週はこれ、再来週はこれと、決まった物を食することに似ています。
 それは一見、自分の好みと気持ちに合う面白さよりは、それらとは関係なく決まったように進められるという、固い感じの繰り返しのようかも知れません。でも、もちろんその良さもあるはずです。皆さん、想像して欲しいと思います。毎日、自分が食べたいものばかり食べるなら、それが本当に良いことでしょうか。栄養の偏りは生じないでしょうか(場合によっては悪影響?)。長期的にそれが自分の体と人生に良いとは限らないことにならないでしょうか。後で何が食べたいか分からなくなることが起こったりはしないでしょうか。
食事だけでなく、私たちも生活もそうかも知れません。年中、自分がしたいことだけをして生きて、それは本当に良い生涯となるでしょうか。ある意味、それは私たちの夢かもしれませんが、もしそう生きて怠けや堕落に陥らないでしょうか。勉強したい時だけ、練習したい時だけすることが、本当に上達や成長というものをもたらすでしょうか。
今日、ここにいる中高生の皆さんはおそらく、そろそろ夏休みが終わる時期を迎えていることと思います。私もその学校結構通っていましたから分かります。正直、私も夏休みが終わって学校が始まることに心のどこかで残念さを抱えていた一人かも知れません(教員としても)。
私が務めていた時、夏休みが終わって学校に来たある生徒はこう言っていました。「先生、一生夏休みでいいですよ!」。当時の高校生がつぶやいたこの言葉について真面目に考えることもどうかとは思いますが、もしも一生夏休みなら、夏休みの喜びはもうありません。それより皆さんの次の姿もありません。成長も、変化も、新しい出会いと場所もありません。ある意味残酷な未来があるものかも知れません。
何を言いたいかというと、自分が食べたいものだけ、自分がしたいことだけをするのは、私たちの夢のような憧れかも知れませんが(おそらくそのようにはならないものの)、もしそれが実現してもそれが本当に価値ある、幸せな人生かどうかは分かりません。むしろそうならない可能性が高いです。高額の宝くじに当選した人は皆幸せに生きるかと思えば、もちろん幸せに生きる人もいそうですが、結構な割合で破産したり、躓いたり、お金がなかった時よりも不幸になるケースを結構聞きます。
今日のメッセージの前置きの話しですが、人は自分が望むことばかりして幸せとは限らない。なぜなら自分が望むことが良いものとは限らないからです。利己心だったり、安逸な安楽や欲望だったりかも知れないからです。そういうのを求めがちで陥りがちな私たちだからです。それよりも、本当の意味で幸せになる道は、幸せがある方に導かれることです。本当の幸せが何か気づいていないかも知れない自分が、幸せを与える方に招かれ、導かれること。それが本当の幸せであること。前置きの話しと言いながら、今日の聖書日課を先に読んだ私から伝えたい思いです。

 さて、暦によって決まった聖書箇所から、「イエスは命のパン」である内容を私たちの礼拝では繰り返し聞いています。イエスは私たちの命を満たし、生かしてくださるからパンと象徴されたものであり、実際のパンをもってたくさんの人々を食べさせる奇跡も見せてくださいました。そのことによって、ご自身を信じ、ご自身によって生きるように、そのために食べさせ、教えてくださいました。
 これはきっとイエスを信じる人にとって、主イエスを救いとする教会にとってかけがえのない尊いメッセージであります。しばらく行われていませんが、私たちの礼拝の中の聖餐式、共に同じパンを食べることとも深い繋がりがあります。「これはわたしの肉である」、「血である」と示されたパンとぶどう酒を食することによって、主イエスが私たちのために十字架につけられて苦しまれたことを覚え、イエスと共に生きる私たちであることを繰り返し思い起こす、主イエスとの一体の中で生きる。今日の聖書の中、イエスご自身が言われるように、イエスの内にその人がいて、その人の内にイエスがいることとなります。それが「命のパン」であるイエスを食べるという、イエスとの繋がりと絆です。  しかし、今日の福音書の箇所で、そのメッセージを聞いてきた弟子たちがつぶやいました。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」こうつぶやいた人々は、イエスは命のパンであるというイエスの話が理解できなかったのか、それとも話の理解は出来ていたけどイエスが神からの遣わされたことを信じられなかったのか、あるいはそれまでに聞いて学び、そのように期待していた姿とイエスの姿が違ったためか、こうつぶやいて、結果的にそこまでイエスに従ってきた道から離れることになります。
 奇跡を体験し、食べさせられ人々でもこうなります。結果論的な話ですが、彼らの中にあったのはイエスに対する信頼と従順ではなく、自分の思いと望みだったからです。彼らの基準は結局救いと命を与えるイエスではなく、結局のところ自分自身、それが全てだったからです。そして彼ら自分自身という存在が決して正しい訳ではなく、むしろ罪と間違いに赴き、そういうものを求めていた自分であったのに、自分の思いと違ったからイエスを拒否する話です。
 自分が誰かのために与えようとしたのに、受け入れられず拒まれることを想像したら、この離脱のもどかしさが分かります。誰かを思って助け、与えようとしてきて、これからもっと肝心なもの、良いものを与えようとしているのに、自分の期待とは違うからと受け入れない人がいたら私たちはその人に対してどんな気持ちになるでしょうか。その人を説得できないものなら離れるままにさせるしかないように、イエスもそうしていますが、結局のところ彼らは本当の意味で自分と繋がっていた人ではなく、単にしばらく自分を利用して本人の利益を得ようとしていた人にすぎないことかも知れません。人間的にこんなことをされたら腹が立つかも知れません。
 イエスはご存知であったのです。ご自身を囲む大勢の人々の中で、真実をもって真理を追究し、従ってきている人々はなかなかいなかったことを。だから行かせるしかなかったのです。彼らが求めていたのは真理でも、イエスでも、本当は神様でもなく、ただ自分の思いだけだったからです。
 しかし、聖書全体からすれば決して完全ではなく、それとは程遠い、十二人の弟子たちが残りました。その代表、ペトロが言います。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」こう告白するペトロも後々、イエスを否認してしまうときを迎えるという、まだ表れていない弱さを潜んだままではありますが、こう信じてイエスと繋がったまま残りました。従うことになりました。だから彼の未来があります。後の劇的な変化があります。逆転があり、不完全な理解と信仰、いつ躓くか知らない弱いままでない、イエスの岩、真のイエスのペトロへと変わっていく時を迎えるのです。
 自分が真理を知らないなら、真理をもっている方に従って真理を学び、得るべきです。自分が本当に価値あるものを知らないなら、価値あるものを与える方に従ってそれを知るべきです。自分が弱いなら、本当に自分を助けるのは誰かを知り、その力に頼るべきです。それが真理を知らず、何を求めるべきか知らず迷いがちで弱い私たちが進むべき道です。イエスはそのためにこの世に来られました。そして罪人のために、罪の呪いと報いを十字架で受け、そこから勝利しました。そう信じて受け入れる者にとって、イエスの十字架の死はその人の代りの死です。私たちより正しくて強い方が私たちのために悪と罪と闘われました。そのために死に、復活されました。
 このことを知らせるのがイエスの言葉であり、これを信じさせる導きが霊(聖霊)の働きです。招きです。その招きを受け入れ、従う人は、命の霊を受けた者です。イエスの魂を食べた者です。自分の命の中にもっとも確かな魂を受け入れ、それによって生き、神と共に生きる者です。
 良く分からない話だと思わず、自分のために与えられた神様の愛として受け止める皆さんであることを願います。願いますが、強制することはできません。主イエスさえもしなかった強制だからです。自分のために与えられ、示された愛だと受け止めれば、その愛がますます分かります。ある意味、知って信じるというより、信じて受けてからこそその愛が分かります。実は私たちが人同士で共有する愛もそうです。愛を受けた者こそがその愛に応える人へと変わります。愛を受けてそれを知る者となるからです。
 それは自分が食べたいものだけを食べ、それがしたいものだけを行って生きるより、幸せなことです。与えられるまま受ける方がそうである(幸せである)という話です。私たちの命は元より与えられたものであり、その命をもっとも満たすものは何か、何が真理で幸せなのかをまだ知らない可能性が高いです。私もまだ知らないです。ただ主イエスによって示された愛の中に自分が受け止められることを信じ、それに従いたいと願います。振り返れば、従うというより従えさせられる私であることを繰り返し感じます。
 最後に、自分の命が大切である分、自分の命を動かす心と魂とがどこに置かれているのか考えてみてください。自分が欲しいようですぐ変わってしまい、消えてしまう儚い欲望の中に置かれているのか、自分を騙し、本当は害を与える誰かの利己的な働き、誘惑や汚れの中に置かれているのではないか…。それとも真に自分を愛する方の中に置かれているのか…。
離れてしまったと感じたら悔い改め、繰り返し立ち返るのが信じる人の姿です。実のところ、自分の魂が置かれている状態は、自分の魂が食べる食物であり、自分の魂から出る力と行いの原因、自分の命からあらゆるものを引き出す源なのです。
 卑しいもの、不健康なもののためではなく、美しいもの、私たちの命と魂を健康にするもののために、良いものを食べ、良い場所に私たちの魂を置く皆さんでありますように。「命を与えるのは霊である」。神の与える命とは、もともと与えてくださったが罪にまみれた命を、御子イエスによって赦し、清めてくださった復活の命。それを日々教えてくださり、導いてくださる「霊」だからです。


これを食べる者は死なない

2021・8・8 (日)  聖霊降臨後第11主日 礼拝説教要旨
 列王記上19:4〜8, エフェソ4:2〜5:2, ヨハネ6:35, 6:41〜51
今日の第一の日課に出て来る人物は、ユダヤ人にとって代表的な預言者・先祖、エリヤ
 ○エリヤは、ユダヤの先祖たち(北イスラエル)が神に背き、自分たちの信仰を失い、彷徨う時代・・・偶像と異国の神々へと背くのが蔓延な時代、真のイスラエルの神を示した英雄的な預言者。
 ○エリヤについて代表的なストーリーは、干ばつの中で雨を降らせる対決。850人のバアル預言者たちがどんな祭儀と祈りを行ってもバアル神の力で雨を降らすことはできなかった 対 イスラエルの神の預言者エリヤはたった一人で祭壇に犠牲をささげて神に願い、干ばつを終わらせ、勝利したストーリー。
 ○今日の第一の日課は、すぐその後の記録で、こうして真のイスラエルの神の栄光を表したエリヤが、当時の王アハブとその妻イゼベルに命を狙われ、逃げていた場面の記録。
 ○エリヤは力が尽き、絶望していたみたい。自分の口から神に向かって「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」と、全てを諦めるかのような姿になっています。たった一人で偶像崇拝の預言者たちを倒して勝利したエリヤでも、当時の権力者の執拗な脅迫と追跡に力尽きてしまった…「自分はもうここまでだ」と絶望する人間の姿となっていた。
 ○しかし、ここがエリヤの終わりの場面ではない。彼は逃亡先の木の下で眠っていた時、神の使いによって食べ物と水を与えられという話しでした。エリヤ自身はもう諦めていたけど、神はまだエリヤの命を終わらせようとはしなかった。
(これをどう表現しようか)神にとって、神の人エリヤは、まだやることがあった。まだ働きと使命が残されていたから、エリヤはもう一度生かされた。
(今日のメッセージを正しく受け取るために、旧約の日課から触れている)
 ○ここでエリヤは不思議な形で、パン菓子と水を与えられたのだから、エリヤを救ったのはパン?   それともそれを与えた天使? もしそう答えるのだったらこの記録を理解したとは言えない…   パンと水という食べ物も、それをエリヤに渡す使いも、神様がくださったこと。
  命を引きとどめるために与えられたのがパンと水だから、それを与えるためにエリヤの前に現れたのが神の使いだったから、預言者エリヤを救った主体が物と使い人ではない。パンと天使が神様に代わることは出来ない。あくまでも神の道具、神の使い、恵みの現われなのだ。
  (この事柄が理解できれば、今日の御言葉も理解できると私なりに思い…)
私が息子を食べさせて育てるという時… 大して料理もしないのに何で食べさせているというのだとは言わない。
また、一度?数回?食べさせたから、食べさせて育てると言っている訳でもない。 私がお金を出しているからという限定的な意味でもない。
私という存在が息子とつながっていて、私は彼の父だから。一々与える物を数えなくても、やってあげることがどういうことかなのではなく、私が彼のために生きて存在し、彼と一緒に生きるから、彼を食べさせ、育てる人と言えること。(皆さんにとっても共通する事柄)
そのような関係が、信仰によっては神様と結ばれ、神様によって生かされる時、神様は自分を生かす存在となっているはず。
それは私たちが親を通してよって恩を受け、育てられると同じように、良いことが数回あったからとか、何か利益が与えられるとか、学べる教訓があるという限定されるものではない…  「エリヤの命はパンそのものだったのではない」ように、神様によって生きるというのも、それぞれの手段、出来事、与えられるものと時が神様なのではない。それらは神様によって与えられるもの。
そして、それらは道具であり、無くなるもの、変わるもの。しかし神様はまた私(たち)のために変わらず与えてくださり、一緒にいてくださる方。

とても初歩的で当たり前のことを言っている説明に聞こえているかも知れない。
 でも、知らず知らずに、与えてくださる方、与えられる源のような存在より、私たちは「その時」、「その物」、実は無くなったり変わったりする何かに心を奪われ、むしろそれだけを求める人になってしまう…それらが全部だと思って生きる人になってしまう…その姿を私たちはこの世界のたくさんの人々から、もしくは私たちの中から見る…。

 文字自体に頑なに捕らわれてしまったら、今日の福音書でイエスの言われる「わたしは命のパン」である言葉が私たちに何の意味もないものになってしまいます。人が何でパンなのか?神様はパンなのか?
 言葉として、象徴と言えば象徴、たとえと言えばたとえではあります。つまり、イエスは私たちの命のために、私たちが生きるために送られ、与えられた方である。しかも神様によって与えられ、送られた方であり。
 だからと言って、単純で浅い比喩としての「パン」にたとえられているだけではなく、イエスを信じることによって与えられ、力づけられ、恵まれるあらゆることを吟味する時、「イエスは命のパン」である言葉が私たちの命に属するあらゆる感覚から深く味わわれるものとなるでしょう。だから今日の礼拝で私たちが交読した詩編も「味わい、見よ、主の恵み深さを」と歌っています。
 実は私たちの文化と生活も理解しているはず。「血となり肉となる」という寛容的な表現…これはそれぞれの栄養から体に血液などが供給されるだけに限定される表現? 知識、精神、感情や心、経験などが人の一部であること、そのことによって人が高められたり、強められたりすることのために使われる場合がもっと多いのでは?

 神様によって生かされるという意味で、イエスは神様によって与えられた「命のパン」であることを、信じる方はますます豊かに、言葉の象徴である認識を越えてあらゆる面から、まさに「味わい」、「噛み締め」、自分の一部というか自分との一体したものとして受け止められる感覚、それが信仰でありましょう。
○主イエスの言葉とその言葉の中に込められている神の愛と知恵が・・・
○主イエスの十字架の前にいる私たちの罪深さ、しかしそのためにこの世では十字架の苦しみと呪いを背負われた深い赦しが、そのために奉げられ、裂かれたイエスの肉が・・・
○主イエスの復活と約束が伝える希望と信念が・・・
 これらが私たちの中に入り、自分と一体となり、その恩恵と深い喜びに生かされる時、私たちは「命のパン」である主イエスを食べ、深く味わうと言えることと思います。

  これはくだらない比喩、表現の方式ではありません。地上で飢えたら食べなければならない、渇いたら飲まなければならない私たちのために、むしろ原初的な求めほどまず求めなければならない私たちのために与えられた主イエスからの命と魂の糧です。そして主イエスが共にいれば、私たちが生きるにおいて、一時的で肉的な必要は別として、私たちの霊がもう飢えと渇きを覚えないという充満と潤さを約束です。それを全身全霊で受け止めて認め、感謝し喜ぶ関係、繰り返し自分を顧み、自分と共にしてくださる神を思い起こす関係、それが信仰です。肉の命に限らない復活と永遠の命におけるパン・糧です。
簡単な説明のようで高い次元の解き明かしであり、目に見えず実存しないようで最も深く臨在する神の働き、神秘的な糧です。今日の福音書でイエスから語られ、示しされるものはこれです。

今日の福音書には(ついでに)ユダヤ人たちは信じない様子が描かれています。信じないところか、憤慨していたみたいです。
なぜ?自分たちの想い描く姿とは違うから?人としてイエスの血筋がヨセフという、祭司でも貴族でもない出身だから?それも一部合っている理由の一つかもしれません。もっと深く言うならば、彼らは神を求めていたのではなく、自分たちが築いてきた自分たちの世界をより求めていたからです。自分たちが築いた世界、それは神と関連しているようで、民族として歴史と伝統、厳格な知識と決まりのようで、実はそこに神は臨在しない。
神よりも、そこに神はいない自分たちのものをもっと愛したから、神によって遣わされた方は憎み、自分たちがもっと愛するもののためにその方を殺す。伝統と厳格、神聖というイメージに包まれていたような彼らの本質は、嫉妬であり、憎しみ、肉的なもの、自己中心的な名誉や欲望、形式づくめ…神に反するものだらけです。

結びとして、この箇所に関するある信仰の先人の言葉を参考にしながら、福音の良い理解のために共有します。
「主イエスの言葉は霊的に聞かなければなりません。肉的に聞けば何の利益と良さも感じないでしょう。『イエスはどうやって天から降って来たのか』、『この人はヨセフの息子ではないか』、『どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか』と尋ねる彼らはイエスを肉的に見て理解しようとしていることです。主イエスの言葉は霊的に神秘的に知らなければなりません。『命のパン』とはどういう意味か、『ご自分の肉を食べさせる』ことは一体どういうことなのか理解できなかった人々がもちろんいたことでしょう。しかし理解できなかったからと言って彼を憎んで殺し、捨てててはいけなかったことです。理解するにふさわしい時を待って、尋ねるべきです。」

信仰(信じること)は、その結ばれている絆の中で与えられるものです。
神様を正しく求め、神様によって生かされる良さを正しく知る私たちでありますように。
そう求める人々に神様は、この世のどんな存在も与えることが出来ない神秘と不思議さをもって、私たちを満たしてくださると信じます。


 

主は我らの救い

2021年7月18日(日 聖霊降臨後第8主日 礼拝説教要旨
エレミア23:1〜6(詩23) , エフェソ2:11〜22, マルコ6:30〜34, 6:53〜56
さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。
ここで弟子たちの報告は何の報告?
・マルコによる福音書の中で、少し前の箇所。主イエスが弟子たちを二人ずつ組みにして人たちのところに派遣した働きに対する報告(前のページマルコ6章7節以下)。
・イエスは弟子たちを派遣するに当たって、汚れた霊に対する権能を授けたが、それ以外には何も持たないように命じられた(パンも袋もお金も余分な着物も)。 ⇒私たちも神様と教会の働きを前に、物や道具、何か必要なものより先に、神様のみ心と力をもって働くことがもっと優先される。それこそ神様の働き。
弟子たちはきっと、素晴らしい報告をしたでしょう。主イエスの命令に従ってこそ、自分たちの能力ではなく主イエスの権能によって働き、その癒しの力が自分たちを通して人々に流れていくことを体験して「残らず」報告したかったと思います。
その弟子たちにイエスは 「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」 と彼らに休息を許された。 ⇒ 人には休息が必要だから。 しかし! ・イスラエル全土ですでに有名になったイエスとイエスの群れへの注目
・いつからか常に多くの人々に囲まれて食事をする暇もなかった上に、群衆は彼らがどこにどう動くか見ていた。そして追いかける… ・「多くの人々は彼らが出かけていくのを見て、それと気づき」、彼らが着く場所に先についている。舟に乗っても、岸に着く頃はすでに群衆がそこに待ち構えていた。
芸能人を追いかけるのとはちょっと性格が違うと思う・・・なぜ? イエスの噂を聞いて助けていただくために。病気や痛みをいやしていただくために。自分たちでどうしようもない苦しみをイエスに何とかしていただくために。彼らは苦しかったのです。 彼らの苦しさがイエスを追いかけ、求める原因です。 これじゃ、休息にはならない…困ったところです。休まれないのはかわいそうなことでもあります。
しかしイエスにとっては? イエスは逆に、御自分を必死に求める人々を可哀そうに見ていました。 自分たちの休息を邪魔する人々と見ているのではなくて、彼らを見て憐れんでいたのです。
「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」 自分の生活と休息が妨げられるなら、普通の人間(私たち)ならいけないことです。そしてそれを越え て働こうとするのは無謀なことでもあります。それは肉なる人の限界と言えば限界、自然な姿です。
しかしイエスは、神の独り子、神によって世に遣わされたイエスは何のために世にこれらたでしょう か。世の人々を救うために、悪しき支配と苦しみから人々を助け、真の神のみ旨を知らせるために来られました。世の人々を愛するために来られたのです。 愛するために来られたイエスの目に、御自分を熱心に、必死に求める姿は、憐みにしかありません。 ここで「深く憐れまれた」という表現の原意(ギリシア語でスプランクニゾマイ)は、「はらわたに痛みが伝わるような」こと。相手の痛みを自分の痛みにするような有様。 ⇒ イエスの働きの動機も、私たちへのいやし、助け、救いの理由も、神の憐み 私たちは運が良かったから、自分の善行が理由で、そういう運命だから そういう理由で救われ、祝福されるのではなく、憐れまれるから、私たちを憐れんでくださる方がおられるから助けられ、育て用いられ、救われるのです。
一見、今日の福音書の箇所は、特定の人物の物語でもなく、イエスの教えらしい言葉もないような… しかし世の苦しむ人々に対してイエスがどのような心と眼差しで見ておられるかが明確に表現された箇所。 ご自身が憐れむ人々のためには、ご自身も追われ、敵対者たちに狙われながら、惜しまず与え、働くイエス。 ⇒これが真の羊飼いの姿。 そして今日の旧約の預言の実現・成就。 「彼の代にユダヤ救われ/イスラエルは安らかに住む。 彼の名は『主は我らの救い』と呼ばれる。」 ?ヘブライ語の名でヨシュア、ギリシア語でイエスの名 イスラエルを憐れむから救い主 真の指導者とは、自分に属し、従う人々を思い、その痛みを知る存在。 福音書が描く当時の権力者たちとは違う。また色んな時代の(自分のための)権力者たちとは違う 律法に詳しく、「規則と戒律づくめ」ばかりを求め、支配し抑圧するのが真の指導者ではない。 真の指導者は指導され、従わせられる人を知ってくださる存在。その痛みを知ってくださる方。 イエスはこうして、苦しむ人々の必死でたゆまない求めを、同じく必死にたゆまず受け止めてくださっ た。これが全イスラエルを感動させたのであります。痛みを共にすることこそが伝わり、命と命を繋ぐのです。このイエスのたゆまない憐れみと受け止め、彼らにご自身を与えるのは、十字架の死に至るまで…。 ある意味、こういう姿でイエスを求めた人々の信仰が完全であった?そうではないかもしれない。 あくまでも、自分たちの苦しみと病のために求めたと言えます。それはまだ「愛」、「信仰」とは少し違うものかもしれません。それでもイエスは彼らを、彼らの求めを受け止めました。そして憐れみ、愛されました。この姿が、人となれらイエスを通して知らされる神の心です。弱くて脆く、まだ自分だけしか思わない私たちでも、神は愛されるという知らせ。それらを通して知らされた神の愛は、私たちの思いを越えて、私たちのためにこの世ではご自分をささげ、罪の呪いの象徴、十字架の死さえ私たちの代わりに受けられる愛、それがイエスの憐みです。 変な比較かもしれません。あなたが憧れ、愛する人、尊敬するのは誰?その人は、あなたが求めるならいつでも会える?いつもあなたに答えてくれる?いつもあなたと一緒にいてくれる? あなたが誰を思い浮かべるかは誰か分かりませんが、ややシビアなことを言えば、それがどの人であれ、あなたがいつでも会え、いつでも答えられる存在ではないかも知れません。なぜならその方は「人」だからです。「人」であることは、自分の生活と事情があり、疲れたら休まなければならない、そしてあなたがもし必死でも同じくらいあなたを思うかどうかは分からない…。 しかし神様の愛はそれらのものとは違います。この世でたゆまず、求める人々のために全てを与えられましたイエスを通して、これが神の愛であることが示されました。その愛を示された神様を求めてください。それは目に見えない存在だと、本当にあるかどうか分からないものだと片づけないで信じてください。信じて求めるなら感じます。私を憐れんでくださる方がおられることが。 (それは人じゃない?イエスはかつて人として、あなたの代わりにも一度死んだのです。) 私たちを超える存在が「私」のために、「私」を憐れんでいることを信じてください。その信仰は、私と同じレベルの存在、肉なる人を愛し求めるより、もっと大きな助け、もっと深い教え、貴い命の道を与えます。与えられ、満たされたと思って、いつの間にか変質し、限界があり、消えてしまう愛ではなく、今の私たちには辿り着かない、永遠の命と愛、それに向う道と力が与えられます。 私たちを超える存在に求めることで、私たち、人が作り出す良い業を超える恵みが与えられます。それはあなたに応えるでしょう。
祈ります。
神様。
求めなさい。そうすれば、与えられる。
探しなさい。そうすれば、見つかる。
門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
こう教えてくださったのはあなたのみ子、イエス・キリストでした。
あなたがこの世に遣わし、「主は我らの救い」と名付けられた方です。
神様。この世で痛み苦しみ、罪に悩む私たちを憐れんでください。
そしてあなたを求め、あなたはそれに応えてくださることを信じられるように、私たちを教えてください。この教会、群れに加わるあなたの羊を養ってください。
あなたの御子イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


やがて全てはキリストのもとに

2021・7・11 (日)  聖霊降臨後第7主日 礼拝説教要旨
 アモス書7:7〜15, エフェソ1:3〜14, マルコ6:14〜29
今日の福音書は、あまり福音とは言えないような印象の部分?
イエスの働きや教えもなく、当時の周辺人物、洗礼者ヨハネがヘロデ王によって殺される経緯
この世の権力者の酷い姿  ?  信仰と正義の人  が対比される記録
イエスの死が暗示される箇所 <伏線>

当時の王・・・ヘロデ(アンティパス)
父ヘロデの息子で、イエスが処刑される時の王
このヘロデには弱点があった。ローマの力でユダヤの王と任命されているが、非常に血統を重んじるユダヤ人の目線からして、彼が異邦人の地であるエドム出身であること、彼の政治的な立場に弱点、野望を妨げる事実。この問題を打破するために、良い家(王家)と結ばれ正当性を整える…それが、自分の弟であったフィリポの妻を奪った理由。フィリポと別れさせ自分の妻にする。(フィリポは生きていた)

⇒権力を手に入れるために手段と方法を選ばない姿。しかしそれは自分に罠であり毒でもある。
へロディアもまた自分の政治的な欲望のためにヘロデの妻になることを選んだ。
このように結ばれた二人を妨げる者はいなさそうだった。
しかし彼らの不正を告発し、叱る者が荒れ野から、その声が彼らを苦しめる。
「正義の声は悪人を苦しめる」

短い記録でありながらヘロデの複雑な内面、弱さが垣間見れる記録
ヘロデは洗礼者ヨハネを牢に入れていながら恐れていた! 同時にヨハネに従う民衆も恐れていた。
ヘロデは武力ではヨハネを制していたが精神的にはむしろ抑圧されていた。ヨハネの言葉に圧倒されていた・・・「(ヨハネ)の教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」
ヨハネの正しさを認め、自分の邪悪さに気づいた?良心が責められた?
ある意味、ヘロデがヨハネの言葉を喜んで聞いていたことはチャンスだったかも知れない。悔い改めるチャンス。しかしヘロデは聞くまでは聞いたけど、その言葉に従うことまではできなかった。
それからヨハネが死ぬ。しかしヨハネが死んでも正義に対する恐れから、自分が邪悪であるゆえに捕らわれる恐れから解放されることはなかった姿見えます・・・不思議な業と権威ある教えでユダヤ全土を動かしていたイエスの噂を聞いて「ヨハネが、生き返った」と思う。
反面教師的な教訓・・・自分の悪を力で、何かの手段と道具で正義を打ち消しても、自分の敵を処理しても、それは一瞬消えたようで消えていない。甦る。
私たちが自分の罪と悪を隠したり覆ったりしてはいけない理由。 悔い改める。

  洗礼者ヨハネを殺すに至る経緯はもっと残酷でみっともない。
へロディアもチャンスを狙っていただろう、そして自分の娘を使う。
ヘロデの誕生日の祝い。国の高官や将校、有力者たちのパーティー。そこで少女の踊り。その踊りに心を奪われる権力者たち。そこでもっとも心を奪われたのはヘロデ。
権力は握っていながら本当は弱いものからの軽い言葉「欲しいものがあれば何でも言いなさい」、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」この誓いが彼にとって罠となった!もっとも自分の威厳を見せつけたい有力者たちを前にして、軽率な誓いは守られなければならないから守られるに至る。時を狙っていたへロディアはこうして自分の夫であり政治的パートナーがヨハネを殺す決断をさせる話。
少女は踊り、快楽なのか魅惑なのかそれらは人の心を奪い、誓わせる。それは実行される。それで殺される正しい人。正しい人を殺したことで密かに喜ぶ人。しかしそれは決して喜びではない。そうやって満たした満足、権力もいずれ他の人に渡されるか、裁かれる。
残酷で酷い物語。聖書が語る神の国とは相反するこの世の国の姿。ある意味このように語りかけているかのように私は思う。こんなに邪悪で残酷な世界の中でこの世の富と権力を求めるのか?もしかしてこれらを手に入れるためには邪悪にならなければならないかも。そうしてでも求めるのか?と問われるのでは…

イエスの前の最後の預言者とされるヨハネも、そしてイエスも、外見としては地上の権力と暗闘の犠牲に・・・しかしそれはただ惨めな死だけではない。正義のために命をささげたという偉業。そして神の国に移る歩み。
また悪人たちに対しては恐れをもたらした正義の威力は、正しい人が死ぬことで終わらなかった。当時は権力者たちの勝利に見えたけど、全然そうではなかった。むしろ歴史の中でいつまでも語り伝えられる敗北だった。
イエスの言葉もある。「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」
私たちは何を恐れる?・・・悪人?自分の敵?それとも神。 ヨハネとイエスは彼らをまったく恐れなかったから彼らの手による死の道も突き進む。死んでもそれは屈服でもなく、敗北でもなんでもないから。神による勝利を信じる。

死は終わりではない。むしろその人の信仰と精神がもっとも表れる時でもあって、地上の歩みの結び。最大の証し。
今日、召天され、この世ではもう姿を見ることが出来ない方々を家族とする皆さんへ。これらの方々がこの世にいなくなったからといって、これらの方々がこの世にいる自分にとってもう終わりなのかと。むしろその時は分かっていなかった恵み、感謝さえ甦ることがある。
人は死んでもその存在は終わりじゃない。神様を信じる人にとってはなおさら。
今日の邪悪な物語を読んだ皆さん(このようなストーリーはここだけじゃないだろうと思ったかも知れない皆さん)、そして死によって大切な方々と別れているように見える皆さん。どちらが私たちにとって本当に良いものでしょうか。地上での富?権力?名誉?実はそんな大げさなことでもなく、今の自分の立場くらい?正当な力でこれらを手に入れることは恵みでしょう。しかしこれらを手に入れるためにはどうしても罪だったり卑劣な悪さだったりするものが必要なら、それでもこれらに固執すべきでしょうか。
どちらが私たちに本当の意味で良いものでしょうか。一時与えられて消えるこの世の満足?それとも神様が約束した天国、正義、大切な人々に認められる奉仕と愛。どちらが残り続くものでしょうか。

今日の第二の日課。教会に向けられる言葉。
「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。」
キリストは現れ、十字架で死に、この世で死を恐れる人々に復活を示した。これは秘められた計画。なぜ秘められた?神様が秘めておこうとして秘められたのではなく、示されても聞かれても信じないので秘められたものに見える。(むしろ神様は現してくださったのです。)
「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」
その時こそ、消えるべきものは消え、生きるべきものは生かされる。これを信じる者は、神が御計画と約束の相続者である宣言。(聖書の別の表現)「朽ちるもののために生きるのではなく朽ちないもののために生きる」私たちになりましょう。そして大いなるものを受け止めるはずの相続者らしく生きましょう。
私たちの命を繋げ、支えてくださった方々を感謝しましょう。これらの方々の人生は私たちのための恵みであった。消えないことのための奉仕であった。やがて全てのものがキリストにまとめられる時、天国でありがたい方々との再会を待ち望みましょう。


生きて成長する木のように

2021年6月13日(日)聖霊降臨後第3主日 礼拝説教要旨
エゼキエル17:22〜24 コリント二5: 6〜17 マルコ4:26〜34
たとえを用いて教えられるイエス…。たとえは主イエスが最も用いられた教え方であって、それを記録している福音書において、たとえは最も独特な文学的特徴と言えます。イエスは繰り返し、このように教えられました。「神の国は次のようなもの」だと。この地上で目に見えない「神の国」を目に見える何かにたとえて理解させ、悟らせる方法です。

 ここで確かめたいと思います。たとえることは、比喩で会って比較ではありません。数学公式に当てはめて計算することでもありません。なにか、概念的な解説に聞こえる話かもしれませんが、これ、結構大事な確認ではないかと私は思います。比喩であって比較ではないので、神の国は、自ら成長する種の「ような」ものであって、種(もしくは種の性質)そのものではなく、種の一種類な訳でもありません。

「良い土地に落ちた種は30倍、60倍、あるものは100倍に実る」とたとえられるとき、それは「そのように」神の国は拡大し、広がるということであって、本当に計算して信者が30倍増えるとか、教会が60個建てられるとか、面積が100倍広くなることではありません。そのまま当てはめる話ではないということです。

 このように言ってみれば、「それはそうでしょう」と納得できることと思いますが、私たちの間には時々聖書を「頑なに」読んでしまう傾向もあるかも知れません。たとえだから分かりやすいなると思い、しかしこの世の考え方、自分の考え方にそのまま当てはめて、御言葉を間違って理解したり、その意味を自分流で変えてしまったり、数学の公式であるかのように答えを求めたりする…扱いをする場合もなくはないかも知れないと思い、確認した次第です。

 実は主イエスのたとえによる教えは分かりやすくなるだけには限らない。分かる人には分かりやすくなるけど、分からない人にはずっと分からないままになるための話しでもあります。これはイエス御自身が聖書の中で語っています。

その一つ、マルコの4章でこのように言われます。「彼らは見るには認めず、聞くには聞くが理解できず」。分からない人にはずっと分からないままになるための話し、それがイエスのたとえでもあるということです。

 分かって、悟るということだからと言って、頭が良かったり知識が豊富だったりすれば理解できるとは限らないことです。私たちが御言葉を信じることは、私たちの世界で知識や能力を量る尺度とまったく同じ基準で評価できるものではありません。そうではなくて、イエスを認めない人にはむしろますます分からなくなるためのものがイエスたとえであります。

 これを私なりにたとえるならば、私たち自分が心からつながる人だからこそ相手を理解する(その人の気持ちと心とを分かる)場合があるように、その人を分かるということは人間的に賢いからとか偉いからという話ではないと思います。「分かる」ということは知識と情報だけの領域じゃなくて、その存在と自分がどれくらいつながっているかによって実現する領域の話でもあります。

 弟子たちの多くは、世の基準では無学に近い人も結構いたとよく言われますが、彼らがイエスとつながることによって、最終的には主イエスの言葉の意味を誰よりも「分かった」人になっていくのです。

逆に、イエスに敵対し、信じようとしない人々にはイエスの言葉の意味が隠れたままになる。それに対し、弟子たちにはイエスご自身が、今日の福音書に書かれているように説明してくださる…。こうしてイエスとつながり信じる人々にはますます神の国が理解できるように、そしてイエスを受け入れず、信じない人々にはますます神の国が隠れたものになるために、たとえが用いられたと聖書が証ししています。

今一緒に神様を礼拝している私たちは、ますます神の国を学び(だからといって神の国について完全に分かり切ることはできないが)、信じることによって励まされるためにイエスのたとえを聞きたいと思います。そこで私たちがますます悟って信じる聞き方をするために、まず私たちがすべきこと、なるべき私たちの姿は、イエスを愛して信頼することです。それゆえにイエスの言葉を分かるようになるためです。イエスとつながる自分になるということです。それは知識的な解釈に偏るよりも、実は御言葉の真意を分かる方法です。逆に注意すべき聞き方を挙げるならば、頑なにならないこと、否定し、比較するために聞かないことです。愛と信頼のゆえに受け入れ、それによって助けられ生かされるために聞くのであって、自分の尺度によって裁き、否定するために聞かないこと。実は私たちが良くつながる人々の間でも、人の話を否定するために聞くならば、その結論は聞く前から決まっているようなこと。様々な関係から垣間見られる姿ではないでしょうか。むしろそう聞くことは、対立するため、反対するため、闘うために聞くことにほかなりません。

聖書全般におけるたとえに対して、導入の話しが長くなりましたが、今日の福音書の本文にはマルコによる福音書らしい短いたとえが二つ示されています。

一つ目のたとえ、「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりで実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」

これを人間中心的な考えで読むならば、返って分かり難くなるたとえではないかと私は思います。豊かに実がなったことは良かったけど、せっかく人が種を蒔いたのに、そして夜昼見守っていたのに、「土はひとりで実を結ばせた」と言わずに、人も頑張ったと(世の中で良く言われるように)人が頑張って実を結ばせたとなぜ言わないのか!私たちが収穫する作物すべてがそうではないか!種を蒔いて終わるのではなく、その前には土を耕したり、種を蒔いた後には水と肥しをやったり、その他あらゆる良い働きかけがあって実を見る!なぜこのたとえはそうは言わず、むしろ「土はひとりで実を結ばせた」と人の存在を排除するかのように語っているのか!こう聞こえる場合も少なくないことと私は予想します。

これは人の頑張りを教えるたとえではなく、神の国を教えるためのたとえです。私たちの世界の、たとえば道徳教科書だったら、もしくは生物の教科書でも、このように言うものかも知れません。豊かな実りが得られるためには人がどう働けばいいのかと。どんなものが与えられるべきか。日差しや栄養、色々と必要とされるものがどんなものかと語ることかもしれません。

しかし聖書、イエスの教えとは、神様について学ぶための教科書だからです。たとえられているのは、人がどうすればより良く、より多くの作物を得られるかではなく、神の国はどうやって実現するかだからです。このたとえは、信仰によって聞けば、そんなに難しい意味を伝えているものだとは思いません。種自らが成長するというこのたとえは、神の国、神の業は、あくまでも神様によって実現することを意味するからです。そこに人の世話、人の奉仕が含まれていたとしても、最終的に成長させ、実現させてくださる主体は神様であること。たとえ、人の頑張りで神の国が実現したとするならば、神の国も人の力で成り立つものになってしまうのではないでしょうか。

実はそのように(人の力によってなるものと)思う人も少なくないことと私は思います。神様を本当の意味で信じるということは、神様の前で自分の意志や思いを下ろすことができるということではないでしょうか。自分の思いを下ろして、本当に神様の御心を聞き取ること、それが本当の意味の信仰ではないでしょうか。

実は私たち、冬が過ぎて春が来、さらに夏に移るということを何回も見たからそれを知ってはいるものの、私たちの頑張りで季節を変えさせること、時間を動かすことはできない私たちであります。実は自分の命さえも自分の意志で造ったものではありません。与えられたものでありました。すべてが初めは与えられたものであって、その上に私たちの意志なり成長なりが加わって自我をもって生きるようになりましたが、その自我がすべてでもないことを神様の前で悟ること。私はそれが神様を信じることではないかと思います。主イエスの御言葉の意味を悟るための第一歩は、このようになることではないかと思います。

なぜ自分が生まれて存在するのか、なぜ私たちはこのように出会って触れ合っているのか…。私たちがどれくらいたくさんの知識と経験を加えて説明しようとしても、説明しきれないことだらけです。これが本当の私たちの存在、真実です。

イエスのたとえは私たちにこのように囁いているものと私は思います。たとえ、人が夜昼、種を見守ったとしても、(そこに細かい表現がなく)人がどんな世話を加えたとしても、その種に命が宿っていること、その命が種の中だけにとどまらず、殻を破って伸び、実を結ぶまで成長すること、そしてさらにたくさんの種を生み出すこと…。それを見て、信じて知ることはできても、なぜそうなるのかと最初から最後まで説明し切ることはできない!まさに神秘の中で私たちが生きている者だと、このたとえがこう囁いているのではないかと思います。

二つ目のたとえ、これはある意味、より隠された意味が含まれているたとえだと思います。教会生活がある程度長い方々にはなじみのあるこのたとえ。からし種はどんな種よりも小さいがどんな野菜よりも大きく成長することができるという、有り切った教訓的なメッセージとして私たちは聞いてきたものかも知れません。

実は、イエスが生きていた当時のパレスチナ地域においてからし種とは(少し衝撃的な解釈になりますが)、雑草のようなものだったらしいです。つまり栽培者が栽培しようと種を蒔いて成長させる類の草ではなくて、目に見えないほどの小さな種がどこから飛んでくるのか、どこからつい生えてくるのか、まさに雑草のように知らないうちにできてしまう…。何かを栽培しようとした人には厄介な存在としてのからし種だそうです。

イエスが天の国をこのからし種のようにたとえていることは、ある意味、この世における神の国、教会、信じる人々の存在をより現実的にたとえているものではないかと思います。そうです。この世における神の国とは、からし種のように小さいという意味だけがたとえられているのではなくて、この世で力をもっている人の目からすれば取り除きたいもの、だから繰り返し取り除かれて来たかもしれないからし種のようなもの。しかし、そのからし種は抜かれても抜かれても、再び生えてくる強い生命力をもつ草のように、この世で成長し、空の鳥が来て巣を作るほどに成長していく!これが、イエスのたとえの真意にもっと近い意味ではないかと思います。

小さかったけど大きなもの成長して驚いたという、ある意味有り切った意味だけでなく、まさにこの世における神の国はからし種の生命力のように、皆が見捨てたところで実現する神の国と信じる人々の働きを深くたとえているのではないでしょうか。

建築家の捨てた石がむしろ隅の親石となったという別の御言葉もあるように、この世の人々の基準では見捨てたところで神の国は小さながらも存在し、実現する、そして成長するという主イエスのメッセージ、私たちに正しく届いていることでしょうか。

「神の国」と言われる時に「国」とはどういうものでしょうか。国とはただ領土だけではなく、そこにその国の主権と統治権が及んでいて、それに納められるによって国と定義されるはずです。私たちにとって国とは地図で目に見える土地のことだと思いがちです。しかしたとえば、日本という国のど真ん中にアメリカという国の統治権が及ぶ大使館もあり得ます(実際あります)。そのように、この世界で神の国が実現するとは、私たちが今この世で生きながらも、神様の統治によって生かされる時、私たちは神の国の「民」と言えるものです。主の祈りで「御国が来ますように」と祈るのは実はこういう意味です。今目に見える私たちの存在はこの地上に属しているけれど、それと同時に神の導きと力、統治によって生かされる時、私たちの神の国の国民の一人です。

その一人が、この世でどんなに小さな一人だとしても、その一人が神の国の一人ならば、人が気付かないうちに成長し、人の思いを越えて神の国にますます近づき、成長していくというメッセージ。私たちはこのイエスの励ましのメッセージをたとえから聞き取り、それによって生かされる私たちになりたいと願います。主イエスにつながることによって、ますますこれを「分かる」私たちになりたいと願います。

  この礼拝に招かれ、神様を信じようと導かれる一人ひとりは、この世界で神によって蒔かれ、成長させられるからし種のような存在です。どんなに小さく始まっても、神の国に向けて成長する私たち。だから今日の第二の日課が言っているように「キリストに結ばれる人は誰でも、新しく創造された」神の国の民であると、イエスの教えが今日私たちを気付かせるのです。

この世の「自分主体」の自分ではなく、神の国の民として生れ、生かされる業が、私たちの間でますます神の国の力と業として実現されることを日々「分かる」ことができるように願いましょう。

悪い霊に取りつかれている者はどちらか。

2021年6月6日(日)聖霊降臨後第2主日 礼拝説教要旨
創3:8〜15 コリント二4:13〜5:1 マルコ3:20〜35
「だから、わたしたちは落胆しません。」今日の第二の日課コリントの信徒への手紙二に書かれている力強い言葉。この言葉を語っている「わたしたち」とはパウロとテモテです。コリントの教会の人々に書いた慰めの手紙です。この手紙を書いている彼らも、この手紙を受けて聞く人々も艱難の中にいたことが手紙の内容から読み取れます。それは私たちの世界の歴史に残されている様々な記録、初代キリスト教会への迫害の歴史でもあります。

なのにどうしてパウロとテモテ、そして彼らと繋がっている信仰の仲間たちは「落胆せずに」信仰を守り抜き、むしろ信仰によって人々を励まし、働き続けることができたでしょうか。その答えも本文の中に記されています。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(18節)

簡潔に宣言されているこの信仰の言葉の深い洞察と分かりやすさに感謝します。まことにその通りです。目に見えるものだけを見るとき、私たちに返ってくるものは衰え、疲れ、悲しみ、虚しさです。一時の力強さ、美しさ、喜び、楽しみ、愛しさ…これらは「過ぎ去る」からです。悲観的なことを語っているようですが、目に見えるものを見ての事実です。目に見える形で私たちも早かれ遅かれ、いつか消え去ります。目で見る限りの事実です。

幸い私たちの命には目に見えるものだけでなく、見えないものを感じ、求める感覚も与えられます。私たちの感情、心、信念、絆、愛…信仰を語る前に人間として一般的に認められる「見えないもの」によって私たちは生きています。ある文学者はこう言います。「人の体は単に年を取ることによって細胞や臓器の機能が衰えていく体に限らない。生涯をかけてその上に文学的な意味が刻まれ、絶えず上塗りされるからである。」

人を人とならしめるのは、人が目に見える体だけではないから人であり、また目に「見えないもの」を感じ求めるからだと言えましょう。実は目に「見えないもの」も色々ですが、その中で最も輝かしく、人の最大の限界と悲しみ、絶望を乗り換えさせるもの、それは聖書が教える信仰です。神が与えられる永遠の命と場所。これを目標とし、辿り着くべきしるしとして生きたパウロとテモテらだからこそ、この世の試練の中でも喜び、感謝し、また自分だけそうするのではなく人々を励まし、助けながら生きられたのです。間違いなく彼らが直面していた苦しみは私たちより遥かに大きかったものでしょう。しかしその中でも彼らがこのように証ししていたのは彼らを支配しているもっと大きな「見えない力」が働いていたのを信じられます。素晴らしい彼らの証し、繰り返し聞きましょう。「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」

まさに私たちが日々聞き続けても、日々励まされる名言ではないでしょうか。大切なのは、「見えないもの」に目を注ぐこと、イエス・キリストを見つめることです。それが信じる人にとって、この世を去る瞬間までの目標です。

今日は、今日の第二の日課の素晴らしい証しから触れました。これが神を信じる人々に共通する見方、生き方であって欲しいところです。しかし人間は脆く、罪深いゆえに、そして「見えないもの」であるゆえに、このように人を救い、生かすものから信仰の目を離してしまいます。ほぼ常に「見えるもの」、(見えるものがすべて悪いものとは限りませんが)その中から邪悪なものに触れ、それに捕らわれがちです。今の私たちもそうですが、昔の人々もそうです。もともと自分を罪深い、弱い者と認める私たちもそうですが、人々から信心深いと見えた人々でもそうです。今日の福音書に登場する人々の姿を見ればそうです。

今日の福音書の記録は決して難しいことを語っている場面ではないと思います。要するにイエスの働きと不思議さ、それに世間での人気と噂が加わり、本文に書かれている通り「あの男(イエス)は気が変になっている」と思われていたことです。しかも当時のユダヤ人の間でもっとも権威者である律法学者たちもそう思っていたということです。「ベルゼブル」という慣れない単語が出ていますが、断定はできない推測として「バアル・ゼブル」の変形だろうと。つまりその土地の神、豊作を願う神という存在、もちろん唯一の神の民、イスラエルにとって拝んではいけない偶像、だから悪霊としての存在です。

人々がイエスをこのように思う理由、そして当時の権威者たちさえもこのように見る理由、それはある意味イエスの働きがあまりにも素晴らしい、不思議だったからでしょう。しかしそれを「見る」人々全部がイエスを良く思う訳ではない。むしろ良くないと思うどころか、イエスを妬み、憎むことになる。今日の箇所がマルコの3章だからイエスに対するこの見方、このような思いはまだ出始めている部分ですが、福音書全体の大きなストーリーの流れは、この人々・権力者たちとイエスの対立で占められる福音書の展開になります。もちろんイエスの十字架の死も、後のイエスの群れと教会への迫害もこの思いが原因です。

なぜイエスを憎む人々はイエスをこのように思うに至ったのか。簡単に言ったら思い違い、嫉妬、妬みによる憎しみです。イエスの教えと行いが人間的な目で革新的すぎるほどまっすぐなものだったかも知れません。しかしそれで対立と論争だけでなく、陰謀で殺そうと、実際殺したのはイエスの敵対者たちです。なぜそうせざるを得なかったのか。言葉と業ではイエスに勝てないゆえ、イエスによって自分たちの大切なものを奪われると思われたからでしょう。それが名誉であれ、権力と地位であれ、自分たちの信仰であれ…イエスは彼らを奪う存在だと見ていたから、しかも人々に受け入れられるイエスへの妬みとがある意味絶妙に合わさって彼らを捕えたのです。

イエスは悪霊の力によって人々を治療し、悪霊を追い払っている…この見方は敵対者たちの思いの一つ、彼らの隠れた本心の表われです。厳密には、せめてイエスは悪霊に取りつかれているかどうかはまだ分からないところ、そう思いたい、そういうことにしたい彼らの思いの表れなのであります。

私はこの出来事を、この世の人間の間でもっともよく見る妬み、対立心の表れだと思います。この出来事の事柄が霊的な事柄であって、事柄を広げればこれと同じような対立、見方、偏見を数えきれないほど発見できる私たちの世界だと思います。ひょっとしたら私たちの日常からも容易に見られる姿ではないでしょうか。

要するにある出来事を、相手を素直に見ることができず、曲げて見る。曲げて見たものを事実かのように偽る、広げる…。邪悪な姿です。私たちは、私たちが聞いている相当のものがこれらの部類の噂ではないかと真剣に検証すべきかも知れません。もちろんそれ以前に自分から曲げて見ないように、偽りの事実の発信者にならないように警戒すべきでありましょう。

私たちが知らず知らず犯してしまう罪は仕方ない…悔い改めるしかないものとしたとしても、自分の心から出る見方と言葉によって生まれる罪には警戒すべきであります。

言うまでもなくこういう見方、思い方の原因は「自分」です。出来事をありのままに、相手をありのままに見られない理由は「自分」です。自分がそう見たいからであり、自分の思いが原因であるものを曲げて見る、その自分が原因です。そしてこれは自分の悪、罪に留まらず、もっと膨大な悪になりかねません。ある意味悪の種とも言えます。ここでイエスを「悪い霊に取りつかれた者」、「悪霊の力で悪霊を追い出している」と非難する人々、彼らこそが真実でない思い、非常に邪悪な思いに捕らわれている彼らなのです。

悪霊が他のところにいるのではありません。そんなに簡単に人の目につき、簡単に非難されるような単純な存在でもありません。自分が見たいように見て悪口を吐き出し、相手を呪い貶めたいと思う彼ら自体、その心の深い部分が悪い力に捕らわれている悪霊の虜と言えましょう。悪い力に支配されているから彼らの言葉と行い、相手に対する態度が邪悪なのです。

実はイエスがいた時代、病気になっていた人々よりも、気が変になっていて悪霊に捕らわれていたと思われていた人々よりも、深い悪の支配にいたのはイエスを拒んだ人々。単にイエスと考え方が違ったから深い悪だと言っているのではなくて、自分たちと合わないイエスを、世の様々な悪を利用して罠にかけ、貶め、人々を扇動して裁いて殺した悪行のゆえに、彼らこそが深い悪人です。目に見える彼らの立場と理屈が彼らの本質ではありません。目に見える姿を生み出している彼らの中、奥の見えない霊が、悪に捕らわれている彼らの本質です。

本当に神を信じる人ならこのようなことは出来ないことと思います。相手を貶めることが神の御心ではないことを、信じる人は知っているはずです。「殺してはならない」、「隣人の物をむさぼってはならない」…。これら、いわゆる十戒に含まれている戒めを表面的に、見える部分においてだけ守って、奥の見えない心は別の思いを抱いてのいい?!そういう軽い戒めではないはずだからです。神様は私たちの心の深いところまで見ておられる方だからです。

主イエスは、こういう邪悪な思いに捕らわれていた人々を悟らせて言われました。「悪魔が悪魔を追い出すならば、その悪魔の勢力はもう分裂状態ではないか」と。「内輪で争う家が成り立たない」ように、悪霊同士で争う悪の勢力はもう滅びる勢力ではないかと。ご自身が悪霊の力によって悪霊を追い出しているのではないことを、このように悟らせてくださいます。

そして言われます。「ある家を略奪しようとする者はまずその家の強い者を制してからその家を奪い取る」ものだと。私たちが読む形の文脈上、この部分は少し理解し難い並びにもなっていて解釈も少し別れる部分かも知れませんが、言い換えて読み取るならばこういう意味ではないでしょうか。家にたとえられる「人」もしくは「ある勢力」を支配しようとするならば、まずその存在の一番強い部分を制しようとするゆえに、悪霊から解放されようとするならばまず悪霊を追い出す必要があり、逆の場合、もし悪霊が神の人を奪い取ろうとするならその人を支配する聖霊、神の力を追い出すべきだろうと。それゆえに「聖霊を冒?する罪は他のどんな罪よりも大きい」という意味ではないでしょうか。

私たちは神様と主イエスによってこの世に与えられた神の働き、聖霊の働きを見つめて喜ぶ人であって欲しいのであって、神の働きを拒む深い過ちを犯したくはありません。地上での働きに、食事をとる暇もなかった程に励んでいたイエスは、神の働きそのものであったけれど人間の目では変人のように見られていたようです。そして所々、人々の思いからすれば、やり過ぎではないかとも見られていたようです。

しかしその姿は、自分と身内のことを当然先に思いたがる人々に対して、本当の意味で神に従うことはどんな姿なのかを正しく示すためのイエスの姿でした。「誰が(本当の)わたしの家族なのか」、「神の御心を行う人こそわたしの兄弟、姉妹、家族である」。イエスはこう示しました。

まして私たちは神の働きを喜んで受け入れ、神によって動かされる仲間を受け入れる私たちでありたいと願います。神様によって真の仲間になりたい一人ひとりであって欲しいと願います。そういう神の招きと働きを拒むという罪、さらに自分の悪のゆえにもっと大きな悪を生みだす私たちにならないことを注意すべきではないでしょうか。私たちは純粋な目で、見えない領域にて人を動かす神様の働きを喜ぶ人であって欲しいと願います。


私たちは神の子ども

2021年5月30日 三位一体/聖霊降臨後第1主日礼拝説教
イザヤ6:1〜8 ローマ8:12〜17  ヨハネ3:1〜17
 先週は聖霊降臨を記念する主日でした。イエスが約束した聖霊が弟子たちに降りて臨在したことで、地上の教会の宣教が開始した記念日です。クリスマス、イースターと共にキリスト教の三大祝日とも数えられる祝日でした。世界中に祝われるこれらキリスト教の三つの祝日ですが、クリスマスとイースターよりは小さい祝日のように感じる感覚があるでしょうか。もしそうならば、覚えられ、祝われる文化的な様子でそう感じるかも知れませんし、聖霊が降った出来事は、イエスが人としてお生まれになったことと死んで復活したことのように大きいことではないという感覚かも知れません。

 しかし聖霊が降ったことを祝う期間は、私たちの教会の暦として、実はイエスの誕生や復活よりはるかに長いです。イエスの誕生をテーマにする主日は待降節(アドベント)の4週とクリスマス、それに顕現節の一部と言えます。イエスの復活は、イースターから聖霊降臨祭までの50日に当たる復活節(6〜7週?)です。それに比べれば聖霊降臨をテーマに掲げる主日はなんと1年の半分、年中52週の内27週ほどが聖霊降臨と関わる週です。私たちはこれから「聖霊降臨後」と呼ばれ、数えられる長い期間を始めます。もちろん期間の長さが重要度そのものではありませんが、こんなに長い期間を聖霊降臨後と位置付けることには、私たちの教会にとって聖霊の働きの大切さの表れではないでしょうか。暦の話しはこれくらいにしますが、私たちの教会は聖霊の働きによってできている存在です。教会を建てたイエスの弟子たち、信じる人々を動かしたのが聖霊だからです。

 キリスト教会は伝統的に、聖霊降臨を祝う2週目を三位一体主日と命名して守ってきたようです。聖霊がこの世界に降りて臨在したことによってキリスト教会が誕生したところで、神を説明する必要があったからではないでしょうか。

 三位一体…三つにして一つという意味。人間的な論理ではぴったりに当てはまらない、まさに私たちの理解と知識を超える説明です。神様だからです。人知を超える存在であるから実は説明し尽くし、人間的な理解の中に限らせることはできませんが、この世界に示された神の姿は、父なる神、御子イエス・キリスト、そして父なる神とイエスから送られる聖霊、この三つの姿(位格)で示されたこと。そしてこの三つの位格はすべて、同じ一つの神の本質からの姿であって、父、御子、聖霊はどちらが上、どちらが下でもない同じ位格の存在であるということ。キリスト教会の信条の内容、教理そのものです。

 皆さん、教理は好きですか?変な質問ですが、教理と呼ばれてしまったら硬く感じるのは、全員ではなくても多くの方々の感想ではないかと思います。毎年回ってくる三位一体主日でもありますので、毎回同じような説明にならないことを目指して、今年は教会の歴史で三位一体論をどう論じてきたとか、教会の神学がどう言っているか、世の中にどんな説明があるか…のような語りは省いて語りたいと思います。私から、三位一体をどう受け止めるか、助言的なことを語りたいと思います。

 父、御子、聖霊。神はこの三つの姿で私たちの世界に示され、三つは同じ本質、一つである。実はとても整った説明です。整ったと言えるまでかなり論じられ、磨かれた歴史と経緯があります。これは私たちに伝わるように磨かれ、整われてきた説明だから、そのように素敵な説明として受け止めてください。矛盾するとか、違うのではないかと思わないでください。素晴らしい説明が与えられたことを感謝して、後は三つの姿の神様を感じるようにしてください。矛盾していると感じるのは人間の論理が適切な表現を見つけていないからであり、違うと感じるのはあなたがそのように思うからです。何でも自分の考えと感覚に納得できなければならないと思わないでください。とりわけ神様がそのようでなければならないと思わないでください。納得できなければ気が済まない…それはある種の傲慢ではないかと私は思います。神様に対する理解においてそうです。アウグスティヌスも同じようなことを言っていたと思います。「もし完全に把握できるならそれは神ではない」。

 自分の理解の枠の中に納まらないことで納得できないという姿勢ではなく、とうていはかり知ることができない神様が父なる神と、人としてこの世に来た神の独り子イエスと、神の霊・イエスの霊という姿に示されて、この世界と命について、罪と死からの救いについて、聖なる霊の働きと助け、導きを知ることができることを感謝し、喜ぶことができます。私たちに向けられる神の働きと恵みを信じて感じることができます。信じれば、把握できなくても感じられます。今日の本文の言葉のようです。風がどこから来てどこまで行くのか分からなくても、風を感じ、風が何を動かすのかを見ることはできます。

 「信じる」ことは、知って納得することではないと思います。把握されたから納得できたから認める、付いていくのはある意味、「信じる」、「従う」こととは違うことと思います。自分が納得したから付いて行ってあげるというかなり自己主体的な要素が入っているのではないでしょうか。従順というより同意…?

 人(自分)の考え方と知覚に合わなければならないという思いでは、神様だけでなく、実は私たちの人生に起きる様々なことも理解し切れるものではないと思います。自分の計画、想定どおりでないことはもちろん、なぜ自分にこんなことが起こる、なぜ自分が苦しみ、悲しまなければならない、なぜあの人はああなのか…。この姿に自分という主体はあるかも知れませんが、自分を超える理解はないかも知れません。場合によっては相手になる人も限られるものかも知れません。和解や赦し、希望というものも限られるものかも知れません。

 このように、自分の理解という壁にぶつかっている人物が今日福音書に登場していると言えます。ニコデモという人がそれです。彼は、もちろん私たちとはだいぶ違う背景の人ではなりますが、かなり有識で真面目な人だったと思います。律法に厳格なファリサイ派の人で、ユダヤ人の中の議員、イエスとの会話の中からも教師であったみたいです。端的に言って超エリートの一人と言えます。

 それにこの人は善良な人だったと思います。神から遣わされたと自分で思っているイエスの元に来て聞いていること、後では、イエスに敵対するファリサイ派の人々と議員たちの間でイエスを擁護しようとしたこと、十字架で息を引き取ったイエスの葬る場面に没薬などを携えて来た数少ない一人だからです。

 しかし彼は、ユダヤ人の中で神と神の掟を教え、判決する先生ではありましたが、本当の意味で神については知らなかったからイエスの元に来て訪ねています。訪ねるけれど、その会話においてイエスと噛み合わないずれが出てきます。

「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」→「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができましょうか。」

イエスは肉でない霊の命について語るのに対して、ニコデモは霊的なものを肉に限定して理解しようとしているからです。肉と言えば、この世の自然的なもの、目に見えるもの、人間的なものです。ニコデモは人間社会では優れた人であったから、律法の知識も、自分たちの民族の歴史も、先祖の言い伝えにも詳しかったでしょう。しかしこれらのものだけで、人の知識で神様を知ることはできないことを、主イエスを通して知ることができます。むしろニコデモが持っていた優れた知識は、それを含んでいてそれを生み出したはずの人間世界・社会の中で有効なものです。これらの知識と掟を知って、把握しているから神に対する信仰があるものではありません。あくまでも神についてのごく一部の、人の知識です。

それでは、何が神の国に繋がり、新たに生まれることでしょうか。水と霊によって生まれ変わり、神の国に入ることだと主イエスは言われます。肉的な私たちの認知において、ここでいう水と霊が何を指すものか難しくはあります。この場合の水と霊をあまりにも別々のものとして、物質として思わないでください。聖霊が臨んだ水のことです。体を洗い、喉を潤す水ではなく、神の前で罪を清める水です。洗礼を受けて水から上がったイエスの上に降りてきて、「あなたはわたしの愛する子」と教えてくれる霊です。神によって与えられる霊です。なぜその働きがあるか、私たちには分かりません。神様の働きは風のようだからです。神様の自由だからです。しかし神の御子、神から遣わされたイエスの言葉からして、それは愛のようです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

信仰は結局のところ、この言葉の意味を論理的に分析し、把握するのではなく、神様はこのようにしてこの世を愛しておられること、赦そうとすることを、そのままのみ心として受け止めることです。自分からの思いで神様を追求して造り出すのではなく、このように愛し、このように赦し、救われる方を神様として受け入れ、従うことです。父なる神様が私たちのためにイエスをこの世に遣わし、イエスの教えによって神様を知り、イエスの十字架によって赦され、天の御国に入られる。これらを感じさせ、悟らせ、信じさせるのは聖霊の働きである。聖霊がこれを信じるように私たちを動かす。これはこの世の肉的な存在でない神を、私たちの言語で証ししている素晴らしい説明ではないでしょうか。

私たちが肉的な命を求めたら私たちは死にます。いつか死ぬと言った方がより正確でしょうか。しかし霊によってあなたがたは生きると今日のローマの信徒への手紙が言っていました。さらに「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」、「この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです」、「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを」証ししてくださいます。

私たちが神様を父として選んで呼び求めるからではありません。このことは私たちの肉身の親との関係でも理解できるはずです。自分が親を選んだのではありません。親から産まれ、親となってくれたから親です。神様が私たちを子供とさせてくださるそうです。これを私たちへの神様の愛として聞いて受け止めることができるように動かしてくださるのは聖霊です。信仰は、神の子供となるのは、私たちの肉的な賜物ではなく、神様と私たちを繋ぐ聖霊による賜物です。私たちは聖霊によって神様の子供として生まれるのです。


主は祈られる。彼らをお守りください。

2021年5月16日 復活節第7主日/主の昇天
使1:15〜17、21〜28 ヨハネ一5:9〜13 ヨハネ17:6〜19  
 今日の主日はイースターからしばらく続いた復活節の7週目、最後の主日です。そしてもう一つの暦としては主の昇天主日です。私たちの教会が守る暦に合わせて日課も二つがありましたが、今まで主の昇天の場合が多かったのではないかと思い、今日は復活節第7主日の日課を選びました。ちなみに昇天主日としての日課はルカによる福音書の最後の部分、主が弟子たちの前で天に昇られる場面です。そして今日、復活節の最後の主日として与えられている日課は、ヨハネによる福音書の中で主の「告別説教」と言われる場面の最後の部分、主イエスの祈りの言葉です。

昇天主日の日課にしても、復活節の日課にしても共通するものは、いよいよ地上から離れる場面で地上に残される弟子たちに対する主イエスの心です。私たちは主イエスの復活によって主イエスが生きておられることを信じて礼拝する群れですが、地上で目に見える形で主イエスと共に生きる形ではないので、いよいよ地上から離れる場面でのイエスの言葉は信仰的に格別な意味をもつものと思います。今日は、ヨハネによる福音書に記されている主イエスの祈りから、この地上の私たちに対する主イエスの心を読み取り、感じたいと思います。この箇所についてアウグスティヌスは言いました。この箇所のイエスの言葉と祈りは当時の弟子たちだけでなく、主イエスを信じるようになるすべての人々に向けられているものであると。実際今日の福音書の部分の続きの本文にイエスはこう祈っておられます。「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。」

 この章のすぐ後の小見出しに、「裏切られ、逮捕される」と書かれています。今日の主イエスの祈りの言葉は、地上で一時の苦しみと共に死を迎え、天に戻られるイエスから、しばらく世に残される弟子たちと「私たちのために」祈られた祈りです。私たち一人ひとり(自分のために)主イエスがこう祈られたと聞き取る心が私たちに与えられることを願います。

 皆さんは自分のために誰かが祈る祈りを聞いたことがありますか?人に聞かされることが恥ずかしいと感じる人がいるかも知れませんが、同じ信仰をもつ人として誰かが自分のために祈っているということは大きな励ましであり喜びだと思います。祈りが上手、下手の問題ではありません。実際上手な祈りと下手な祈りがある訳でもありません。真実な祈りとそうでない祈りはあるかも知れません。誰かが自分のために祈る言葉は心に響くはずです。なぜなら祈る人が自分の信仰をもって神様に願ってくれるから、そしてもちろんその中には自分を思ってくれるその人の心もあるからです。そういう意味で自分以外の誰かのために祈る祈りは、神様と祈る人、そして祈られる人とが繋がる素晴らしい業でもあります。別の福音書にイエスはこうも言われていました。「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。…どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。  二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる。」祈りは神様と祈る人、祈られる人を繋ぐ業。まさに今日の福音書の場面で祈っておられるイエスの祈りも、父なる神とイエスの繋がりがさらに祈られる弟子たちと信じる人々に繋がらせる働きとして、私たちに届いています。

 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」とのみ言葉を今年度の主題聖句として掲げている私たちの教会は、顔を合わせて会うことが困難な人が結構いるこの時世、神様と繋がり、互いに繋がることの手段として、やはり祈りを心がけ、用いるべきだと感じます。ひょっとしたら行動の伴わず祈りのみでどんな効力があるのかと思われる方もいるかも知れませんが、真実な祈りは何か実践すべき行動を思い起こさせると思います。そして真心の祈りは私たちに出来る行動でもあります。その祈りを聞いてくださる神様が働いてくださるからです。今日の主イエスの祈りを、まさか「祈りだけだ」と思う信仰者はいないと思います。イエスだからということもあるとは思いますが、「祈りは信じる人の最大の武器」とよく言われるように、私たちは信じて礼拝する人として祈るべきです。礼拝の中で、クリスチャンとして形式的に、誰かの祈りを聞く…だけではなく、自分の真心をもって祈る。これこそ私たちが生き生きとした信仰をもって生きているかそうでないかの証しではないでしょうか。

皆さん、ぜひお祈りください。代表で祈る以外なら誰かに聞かされないので安心して、戸惑わず祈りましょう。短くても、心の中だけでも。できれば自分以外の人のために(自分以外のために祈るのを執り成しの祈りと呼びます)、さらに願うならば名前を上げ、誰のために祈っているか特定できる形でお願いします。それが、私たちが互いに、そして神様と繋がる方法だと思います。

 話を戻します。主イエスも私たちのために祈られました。その祈りの言葉の中に、この世でイエスの言葉を聞いて「信じる人々のために」とヨハネによる福音書で書かれているのではありませんか。今日の本文の続きの祈りにも「わたしに与えてくださった人々のためにお願いします」と書いているイエスの祈りがあるのではありませんか。実は礼拝のために招かれている私たちのことを一番先に祈った方は主イエスだと言えます。私たちが信じるようになったのは、礼拝するように招かれたのは、み言葉にふれるようになったのは主イエスの祈りのお陰だったと言えます。主イエス御自身がこう願ったからです。私たちはそれを「み心」と良く呼びます。ぜひイエスのみ心を自分への心として受け止めましょう。実はそれで聖書の大半は理解できると私は思います。私たちが良く分からないと感じるのは、意味と背景などが分からない場合もあるのはありますが、その大半は自分に向けられていることとして感じなく、認めないから「良く分からない」と感じることも多いからです。

 あなたのために祈る方がいる。そう信じてください。そしてその中で一番先の祈られた方は主イエスである。イエスが「私のために」祈られた。そう感じてください。ある敬虔なクリスチャンは心が定まらない時、悩む時、ヨハネによる福音書13章から17章をよく読むと言います。そして周りの人々にもそうするようにとよく勧めるそうです。いわゆるイエスの「告別説教」の部分です。ご自身の死が近づいたことを感じて弟子たちに大切なことを言い残すイエスの言葉です。実はヨハネによる福音書が21章まであることを考えると、ヨハネによる福音書は1/4ほどの分量をもってイエスが地上を離れる直前に言い残した言葉の記録に割愛しています。ヨハネによる福音書を書き記した人が、地上にいるイエスとして最後の言葉をどれほど重要視していたかを垣間見られます。

弟子たちの足を洗い、「互いに愛し合いなさい」と新しい掟を示したのも、弟子たちの裏切りと違反を予告したのも、「わたしは道」、「わたしはぶどうの木」と説いて語られたのもこの告別の説教の中に入っています。そして「わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない」と、聖霊を送る約束と、悲しみが喜びに変わる約束も、この何に含まれています。その最後の部分が今日の祈りの言葉で、その中に私たちのことが祈られていることを私たちは信じて受け止めたいと願います。  他の場面と比べて文面的にはちょっと読みにくく、整えられていないと感じる文章かも知れません。繰り返される長い表現も目立ちます。一時の悲しみの瞬間が近づく中でのイエスの切実さが込められているでしょうか。ここに書き残されているイエスの祈りとして、イエスが弟子たちと信じるようになる私たちのために祈っている内容をまとめると次のことになります。 11節、「彼らを守ってください」。なぜなら「彼らはあなたのものだから」。そして父なる神とイエスが一つであるように、「彼らも一つになるため」に。15節、「彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださる」ようにと。17節、「真理によって、彼らを聖なる者としてください」、「あなたの御言葉は真理です」。19節では「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」と願い、今日の本文を越えますが、続きのイエスの祈りの最後の部分において、「彼らも一つになる」こと、「彼らが神に愛されていることを知るようになる」こと、イエスのいるところに私たちを「共におらせる」ようにと、つまり天国におらせてくださるようにと。  今私が言ったのは、主イエスが私たちのために祈られたことを繰り返しただけです。ぜひご自分で読み、主イエスの声を聞いてください。整われた文でないと感じるかも知れませんが、だからこそ声が聞こえるような言葉かもしれません。何よりも大切なのは、「私」と「あなた」に聞かされている言葉として聞くことです。

 天におられる私たちの主イエスは、私たちがこの世の中の様々な悪から守られること、私たちが互いに一つになること、私たちが神の真理であるみ言葉に繋がること、私たちが神に選ばれ、愛されていると知ることを願っているそうです。私たちも祈りましょう。


神の愛が私たちの内にある

2021年5月2日 復活節第5主日
使8:26~40 ヨハネ一4:7〜21 ヨハネ15:1〜8
 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」。私たちが本日福音書から聞いた御言葉であり、そして今年度の私たちの教会の主題聖句でもありました。この御言葉を主題聖句とした思いは、ここに建てられているこの教会を、神様が私たちに与えてくださった、またこの地域のために設けてくださった神様の「園」だと信じ、私たちがこの教会を通してますます神様と繋がり、また私たちも互いに繋がっていることを心がけるために、「繋がる」ことを表しているこの聖句を主題聖句としたつもりでした。

 先週は、私たちが誰と繋がっているか、その繋がる存在が私たちの「生きる理由」だとお伝えしました。羊が生きる理由、生かされる理由、それは羊飼いであって、そして今日のたとえからはぶどうの枝が生かされ、実を結ぶ理由は、生きているぶどうの木に繋がっているからであります。

 私たちが生きている理由は、私たちが御言葉の中で羊飼いとして表され、ぶどうの木としても表されているイエスと繋がるからであり、繋がるからこそ知る「愛」によって育まれるからであります。それをますます深く、身近に感じ、味わえるために、私たちの教会はこの御言葉を主題聖句と取り上げました。またその象徴として、目に見えるぶどうの木も持っているのであります。

 私たちの教会の庭、ちょうどこの十字架の外側に植えられているぶどうの木のことを皆さんご存知でしょう。私はこのぶどうの木を、かつて中尾さんご夫妻が植えてくださったと聞きました。今年の1月に中尾カツエさんは天に召されました。そしてその時の状況によって、たくさんの人々と共に見送ることができずに葬式が行われましたが、この中尾さんご夫妻を通して天草からの結構貴重な品種のぶどうの木が植えられたのだと聞いています。一時はこのぶどうの木から成るぶどうでぶどう酒を作り、それを聖餐式でも用いていた話も聞きました。再びそれを目指しましょうと総会でも共有した話です。私たちの教会の信仰そのものではありませんが、身近な目標として、このぶどうの木を再び実の成るぶどうの木にしましょうという目標も与えられました。

それは、私たちがこの教会を通してますます神様と繋がる象徴、実を結ぶという象徴、またこの教会を通して出会っている人々との繋がりをますます大切にしましょうという象徴とするためです。そして天に召されましたが、私たちの教会のために良いぶどうの木を残してくださった方々の思いを大切に受け継ぐために立てられた目標であることを覚えています。

このぶどうの木から再びぶどうが成り始めました。ぶどうの実が成ることを信じて、これから成るという意味ではなく、本当に成り始めています。先週の礼拝後、除草作業をしながら裏の庭に回ったところでぶどうの実が成り始めていることを見ました。何人かの方々にはすでに伝えているものであり、Facebookでも共有しました。

しばらく実が成らなかったぶどうの木からなぜぶどうが成り始めたのか、その正確な理由は分かりません。どなたか、実はこっそり世話や手入れをしたものでしょうか。あるいは再び実の成るぶどうの木にしたいという私たちの思いが叶ったことでしょうか。ぜひそう信じたいものではあります。確かなことは、これは私たちの教会への素敵なプレゼントであり、私たちはこのことを喜び、ますます聖書の御言葉を思い起こさせるプレゼントであります。

まだとても小さな、しかし確かなぶどうの粒であります。私一人だったら見ても気づかないくらいの小ささでありました。実はいつも教会に花を植えてくださったり、草取りや消毒をしてくださったり、それに私にその作業をしかけてくださる妻のお母さんがそれを見つけた次第でした。「ほら、成り始めている。良かった!」それから私も見て確認し、ラインで役員の方々に伝え、少し騒ぎました。今の時点ではとても小さいぶどうの粒でありますが、どうすればこれが本当にぶどうと言えるものになるかと色々話し合っていました。私も以前から少しは調べていましたが、肥料をあげたり、枝の手入れをしたりする以外には何か特別な方法はなさそうです。逆に言えば、それが実るぶどうの木になる方法です。

実は、このようにぶどうの木の育て方について調べる前に、今日の聖書、福音書の中にはぶどうの木の手入れについて書かれていました。主イエスの言葉の中にありました。「わたしはぶどうの木…わたしの父は農夫である。」「実を結ばない枝はみな父が取り除かれる。しかし実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」確かに書いてありました。

その上に、少し調べた情報からこの本文の意味が私は良く分かりました。ぶどうの木は決して自動に実を結ぶ木ではなく、手入れをしなければならない木であることです。ただただそこにいて、枝が伸びるだけで実が成る訳ではないです。ぶどうの木は直立して(立って)伸びる木ではなく、いわゆるツル性の植物、周りの何かに茎を伸ばしてそれに絡んで成長する木であります。その成長から枝に、そして実が成ることに繋がる木です。だからぶどうの木のツルが何かを絡めるように、うちの教会にも置かれていますが、良く柵のようなものを作るのでした。もし周りにツルが絡めそうな物がなければぶどうの木はただ地面にツルを張るだけで、自分の力では上の方に伸びられない木だそうです。

これは、皆さんが話を聞くだけで良く想定できる内容だと思います。この性質からぶどうの木は他の何かと一緒に生きる木であることも分かりました。この十字架の後ろに植えられているぶどうの木も隣の木に絡んでいました。作られてある柵を越えて、隣の大きな木にとても強くしがみ付いていました。ある意味隣の木にとっては迷惑だったかも知れません。濟々黌に上る道沿いに植えられた木に、どれくらい上までツルが絡んでいるか、目では確認できないくらい高く、強く絡んでいて、引っ張っても離れなかったので、その枝は先日私が切りました。切った枝を引っ張っても私の力では離れないくらい長く、複雑に絡んでいたことでしょう。そのツルはまだ隣の木にたるんでいます。

ぶどうの木は周りの何かに絡んで成長する。絡むものがなければ地面を張る形で成長する。しかしただそうやってツルを張るだけで実を結ぶどうの木とはならないのがぶどうの木の性質であります。だから聖書に「手入れをなさる」と書かれていて、昔のイスラエルの人々も当然知っていたことでありましょう。これが今回、私たちの教会にあるぶどうの木を見て、ぶどうの木の習性を少し調べて気付いたものです。私は今日、福音書の解き明かしを、これをもってしようと思い、語っているつもりです。

ぶどうの木は手入れがなければ実を結ぶことができない。このことは実は私たちに大切なことを教えているのではないかと私は感じます。土の中でどれだけ豊かに水分と栄養を吸い込んで伸びたとしても、伸びるだけでは実を結ぶことにはならないことです。その栄養とエネルギが全部枝を伸ばすことだけに使わされては実はならないことです。吸い込んだ水と栄養が実を結ばせるために選択されなければなりません。そう選択というか、流れと繋がりを作るのが手入れでありましょう。無駄に伸びすぎることがないように、実を結ばせるための栄養とエネルギにすること、それが農夫の手入れです。

聖書を代表するこの有名なたとえ。そして先週の箇所のおいて、同じヨハネによる福音書の箇所から羊と羊飼いのたとえ。ぶどうの木と枝のたとえ。この二つのたとえには共通する性質があります。羊は羊飼いの世話と守りがなければ生きていけない存在であること。ぶどうはぶどうの木と枝を手入れする農夫の働きがなければ実を結ばないこと。養ってくれたり、手入れをする存在が必要であること。それが、私たちでもあることを、聖書はたとえを通して伝えてくれるのです。そして本当の意味で私たちを養い、手入れをしてくださるのは、神様でありイエス・キリストであることをヨハネによる福音書は伝えてくれるのです。

やはり私たちは確かな目的と理由をもって生きなければなりません。何か実を結ぶ生き方をしたいと思うならば、それを私たちの生きる目的としなければなりません。なぜならばぶどうの木も私たちに教えてくれるからです。どんなに長く、大きく伸びていったとしても、伸びるためにのみ栄養と力が使わされるなら、いつまでも実を結ぶことはできないからです。

ぶどうの木はぶどうという実を結ぶために植えられるものであるように、私たちも何か良き実りを神様に向かって実らせるために生きていかなければいけないこと。そのためには、ぶどうの木のエネルギが実をならせるために使わされる選択がされなければならないこと、それが実を結ぶ道なのです。そして私たちが私たちの命を通して実を結ぶような生き方と選択をしようとするならば、私たちの時間、力、命、心…これらのものを、実を結ぶために注がなければならないこと。場合によってはそのためにのみ、力を振り絞らなければならない場合もあること。ただただ生きているだけでは、私たちの命が無駄な方向に伸びたり、進んだりすることもあり得ること。むしろ実を結ぶ方向を見失い、どこまでも「ただ」伸びるだけではますます実を結ぶ道からは遠ざかること。私たちがただ自分のためだけに生きるならば実を結ぶようなことにはいつまでも到達できず、むしろ遠ざかる一方でもあり得ること。ぶどうの木が私たちに教えているのではないでしょうか。

たとえば、家族を愛するという実を結びたいならば、自分の力と時間、働きが存分に家族に行き届くように選択しなければならないことでありましょう。そういう選択と生き方をしないのに、口先だけで家族を愛すると言うだけでは、それは今日の第二の日課の言葉のように、それは「偽りの愛」でありこと、私たちは気付くことができます。家族愛を題材にしましたが、何かを成し遂げたい思い、誰かのために貢献できるようになりたい思い、その他、自分が夢だと思う様々な事柄においても同じだと思います。つまり、そのために、自分の力、働き、人生、心と思いとが、その方向に繋がり、注がれるようにしなければならないこと。そういうこともせず、自分の思い通りにならないものを他の何かのせいにする私たちではないかと振り返る必要があるかも知れません。

私たちが生きる日数、私たちが生きながら伸ばす様々な領域、私たちが生きる痕跡、それらが実を結ばずにただただ伸びていく、いろんなものに絡むだけにならないことを私たちは祈るべきだと思います。実を結ぶために私たちが生きることを祈るべきだと思います。主イエスは御言葉を通して明確に教えてくださいます。実を結ぶ枝は「ぶどうの木に繋がっている」、「生きている」枝であって、木を離れては何もできないこと。そしてこの御言葉を聞く人々にどんな実を結ぶべきか問いかけます。その答えは、聖書を読めば明確に示されているものです。

「互いに愛し合う」こと。これが真実の神を知って信じ、神に繋がってその愛を受けている人たちが結ぶべき実であること。聖書は決して遠回りでなく明確に示しています。それが、神によって植えられたぶどうの木から伸びていく枝として私たちが結ぶべき実りであること。そしてその実によって神の愛がどれほど私たちに豊かに注がれているかを確認するもできるぶどうの木のような繋がり。今日のヨハネの手紙(第二の日課)が言っているように、私たちが「互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださる」ということが逆に証しされる、真実、真理なのです。まさにぶどうの木に繋がっている枝が実を結ぶ証なのです。

私たちの目に見えるあのぶどうの木さえも、伸び方向を整え、状態が良くなったら実を結び始めるということを私たちに教えてくれるのではありませんか。ぜひそれを見て学ぶ私たちになりましょう。そして実を結ぶ私たちになりましょう。目指しましょう。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」ことを示してくださる主イエスは、私たちに必要な糧とものを届けてくださいます。そればかりか、十字架の血潮を私たちに注ぎ、届かせてくださいました。その十字架の血潮が無駄にならないように生きましょう。私たちにその血が流れるように生きれば、私たちもその赦しとその養いによって実を結ぶことができるはずです。主イエスは真実な方だからです。私たちはそのように清められ、実を結ぶまで生きるように招かれている一人ひとりです。


心の目が開く

2021年4月18日(日)復活節第3主日礼拝説教要旨
使3:12〜19  ヨハネ一3:1〜7 ルカ24:36b〜48                                
 本日の礼拝の冒頭でも知らせましたように、復活を祝う3週目の礼拝を迎えて、私たちが共にいます。今日は特に初めて来られた方々がたくさんいらっしゃると思います。大学生として教会と連なる導きによって来られた方、そして前の方に座っていらっしゃる合唱団三つのコーラスグループから、私たちの教会を会場にして活動と練習をされている方々が、今日の礼拝奉仕のために、そして礼拝後のコンサートのために来てくださいました。どのような導きときっかけにしても、私たちがしばらくここで主イエス・キリストの復活による新しい喜びと祝福に与ることが出来ることを心から願いながら、今日の聖書の言葉メッセージについて触れたいと思います。

 ちょっと関係ない話のように聞こえるかもしれませんが、私はこの教会に住んでいるので、昨日3階の屋上から夜空を見ました。何で屋上に行ったかは私の習慣とか生活の中で行われる作業があったりすることだから重要ではありません。とにかく昨日の夕方は屋上から空を見ました。向かい側の山を見つめることもちょっとした息抜きになります。昨日は月が綺麗に見えていました。小さな三日月でした。でも小さな三日月を良く見るうちに不思議なことを発見しました。とても小さく見える月だったんですけど、その月が割れているように見えたんです。その月の先が、なんか割れが入ったかのように。見れば見るほど月が重なっているかのように見えるのではありませんか。私はとても不思議に思い、まず妻にこのことを言いました。下の階でテレビに夢中であった妻に「月がちょっと割れて見える」と言いましたけど何の興味も示してもらえませんでした。あまり聞き入れもされなかったので、私は自分のスマホで月の写真を撮って見ました。そしてその画像を拡大してみましたが、いくら拡大しても写真上では月が割れているようには見えません。 でも再び自分の目で見たら変わらず、一瞬じゃなくて、月は割れているかのように見えます。ついに、テレビに夢中であった妻を申し訳ない気持ちをもって屋上に連れて行って見せました。「ほら、見て見て」と。でも妻には月が割れて見えないみたいです。妻は僕に言いました。「眼鏡かけて見たら?」確かにメガネはかけていませんでした。そして二階から眼鏡をかけて再び三階に登って再び月を見つめたら、月は割れていませんでした。

 で、私はこれは何だろうと思い(便利な世の中です)スマホで「月が二重に見える」と検索しました。したら私のような人は結構いるみたいです。月が二重に見える人々は「眼科に行って受診しなさい」と。実は私は左目と右目の視力の差があるので眼鏡で矯正しているつもりだったのに、眼鏡を外した目で月を見て「これどんなことだろうか」、「月が割れているのではないか」と一瞬思ってしまった出来事。ちょっと面白く馬鹿馬鹿しい話しでもありながら、私は一応今日の話の題材として語ったつもりです。

 世の中で私たちが一番確かなものとするものは、目で見たことでありましょう。もちろん聞いたことという体験も含まれることと思います。一番確かな証拠、それは目で見えるものであることは間違いないことだと思います。ただしよく考えると、目で見えるんものが必ずしも確かでもないということはあり得ることではないかと思います。もちろん私の目のようにボケや視力の問題によって錯覚して見る現象もあれば、同じような現象を見ていても見る人によってその解釈が別れ、真実というものも人によって随分分かれてしまうのは私たちの世界の現実であります。ただ見えるその事実だけが誰にでも同じように認められる真実であるならば私たちの世界は分裂や思い違いはないものかもしれません。しかし同じ現象、同じものを見ているにしても実は見える角度の違い、見る人の視点の違い、そして見えることによって思いと心も分かれていく…。ただただ逆説的なことを言いたいわけではありませんが、見えるものが全てでもない世界、私たちの命であります。

福音書でイエスを見た人々の証言が色々書かれています。もちろんそれも見る目によって変ったことでありましょう。ある人はイエスの復活なんか死者が蘇ることなんかないことに決まっているのではないかと簡単に片付けてしまう人々も世の中では多い中、実はイエスが復活したことを体験した人々の証言も聖書をいろいろ比較してみたらその証言が少しずつ異なったりする記録が聖書の中に書かれています。でもですね、これある意味イエスの復活はなかったということではない確かな証拠といえるものであります。なぜならば同じものを同じ一連の成り行きをたくさんの人々が見る中で、人々が受け止める姿どういうところを重点的に受け止めるのか、それは人々の目によって変わってくるからであります。同じ競技場で同じ競技を見ていても、この場面がこの競技の決定的な場面だと見るその視点はいろいろ違うでしょう。 イエスは復活して何人かの人々に現れ、コリントの信徒への手紙15章、復活の章と呼ばれ呼ばれるその記録によれば何人かの一人二人ぐらいではなく十数人ということでもなく500人以上の前で現れたという記録もあることだから、イエスの復活、イエスの墓は空っぽであった、遺体はなくなっていたという復活の証言は私たちの世界からただただなかったということとして片付けることではもはやできない出来事と証拠です。少しぐらいの不一致はあったとしても世界にこれだけたくさんの記録、証言が存在するからこそイエスの復活は「あった出来事」。少しずつ違う異なる証言、証拠といえるものであります。

皆さん、そういう中で、私たちが目に見えるものが必ずしも全部一致する真実として受け止められない私たちの姿もありながら、聖書が証言するイエスの復活の記録に対して、皆さんはどのような思いで当たることでしょう。そのことを深く考えることとしてもう一度皆さんに想像していただきたいと思います。

皆さんが愛した方々、その中にはもう死んで、今の世の中で目で見たり一緒に触ったりすることがもうできなくなっている方々が、夢でもなく私たちの現実の中で見えてきたとするならば皆さんはどういう心情になるでしょうか。愛する方々であります。世の中の自分とほぼ関係のない誰かが蘇ったということではなくて、皆さんが愛し、身近で深い絆を持っている誰かが、皆さんの今生きている目の前で現れるとしたら皆さんはその方が自分の愛する方だからただただ懐かしく思い、喜びに満たされることでしょうか。そういう方々もいるとは思いますが、私の予想するにそう簡単に、単純に喜べない私たちでもあると私は予想します。私も想像します。既に眠って死んで天に召されたと信じている私の家族の中で、私の目の前にその形が見えてきたとするならば私はどのように思うでしょう。また私の視覚の錯覚だと、私の自覚の錯覚だと思うでしょうか。あるいは確かな証拠はないけれども世の中で伝わっているように幽霊が見えたとするでしょうか。実はいくら愛する人でも私たちの目の前にありえない姿で現れるならば、私たちは多くの場合恐れるしかない私たちである。 それが私たちの姿であると思います。想像的な話をしようとするのではなくて、聖書の中の弟子たちの姿をもうちょっと深く理解しようと思いました。

イエス様に自分の人生をかけて従った弟子たちがいました。その中にはちょっと変な期待、イエス様の心通りの従いじゃなくてそれぞれ人間的な期待も含まれて、しかしとりあえず自分たちの人生を捧げて従ってきた弟子たちが、この世の中で決してあってほしくないとても惨めな死を遂げることになりました。人間として誰でもそのような死を見たくない、そのような死を受け入れたくはない、肉体的にも社会的にも辛くて恥ずかしい死を体験した弟子たちでありました。その後しばらくは絶望のどん底野中で生きていた弟子たちであります。その彼らが何人かの女性たちの証言によって、イエスの墓は空っぽであった証言を聞いてすぐ信じたかと言えばそうではありませんでした。疑い続けました。なぜ遺体が亡くなったんだろう。誰が持っていたんだろうぐらいの思いだったでしょう。そしてイエス様のことで自分たちは人々に責められるのではないかと、隠れて生活していた彼らにイエスが現れた記録が聖書のいくつかの箇所に書かれています。

その姿を見たからすぐ、弟子たちはイエスが死ぬ前から重ねて言っていた通りに復活したのかと信じたようではありませんでした。今日の聖書の中にもその代表的な姿が、そして私たちもきっとこうであろうとする姿が記されているのではありませんか。彼らはまるで亡霊を見るかのように、幽霊を見るかのように、そうならざるを得なく、死に縛られている人々の姿です。ひょっとしたら私たちの姿であります。私たち、人は、「死んで終わりではない」と心のどこかでは思いながら、人は死んだら再び会えないという死の限界と死の力の威力の中で私たちの愛する人々を見ます。そういう目を持つしかない私たちであることは認めざるを得ないことかと思います。 弟子たちもそれと同じような人間だったということを聖書の記録から、短い淡々とした記録ではありますけど、読み取ることができます。でも話しは本当にそれで終わりませんでした。今日のルカによる福音書の中では、イエスをまるで亡霊のように思っていた弟子たちの姿が反映されていました。これは、イエスの死と召天後、初めて立ち上がった教会の中では、イエスの復活はただ霊魂、魂だけが復活したことととされる、いわば部分的な復活として認められる思いに対して、「そうではない」ことを諭すために挿入された記録と解釈されるようです。もちろん私たちの感覚からすればとても受け入れ難いことからではありますが、イエスは信じられない弟子たちに向けてご自分の体をお見せになったと。十字架の上で釘付けられた傷跡、それを見せて触らせたと。「この私だ」と。幽霊じゃない。あなた達と一緒にいたわたしであり、あなたたちが見て目撃し、十字架につけられて死んだあの私であるということを知らされる場面でありました。それでも信じられなかったと思います。 だから一緒に魚をとって、かつて多くの弟子たちが漁師であったゆえに、あの時水辺のほとりで出会ったことを思い出させるかのように、魚を取って一緒に食事をしたという場面さえあって、弟子たちに自分の姿は亡霊や幽霊のような目の錯覚ではなく、体をもつご自身であることを知らせてくださったイエス様の記録であります。

もちろんだからといって、その後この世の人間と共に何歳まで生きましたという形での復活の体ではありませんが、神様から与えられたご自身がどなたであるかということを信じさせるために見せてくださったイエスキリストの体であった。それが今日のルカによる福音書の記録でありました。

そしてこの箇所の中では見落としてはいけないとても大切な文言があります。イエスはこのような姿をお見せられてから、45節あたり、「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」言われたという箇所があります。決して私が発見した聖書の分析ではなく、学ばれたもので、世の偉大な信仰の先人たちが教えてくれたものでありますが、ルカによる福音書の記録のキーワードは「心の目」らしいです。「心の目」であります。弟子たちの見る、その目が変わるのはイエスによって心の目が変われること。そのように祝福された弟子たちは信じるようになったという出来事であります。逆に言うならば、心の目がイエスによって開かれる前までではイエスを見ても亡霊のようにしか見なかった彼らであり、空っぽの墓を見ても、イエスがそんなに死ぬ前から言い伝えていたのに「わたしは三日目に復活する」という預言を信じることができなかった。そういう目に留まっていた弟子たちであるということであります。

しかしイエス様はご自身の愛する弟子たちのために、ご自身の体をお見せになって、「心の目」を開いてくださいました。ご自身の息を彼らに吹きかけてくださいました。創世記の人の創造の記録によれば、神様は土で人の体を形作り、しかしそれそれだけではまだ人としての命ではなく、その体に神の息を吹きかけられて初めて生きる人となったように、イエスご自身もこの場面でご自身の息をかけられて、「信じる目」を与えてくださった出来事。ルカによる福音書が伝えようとしたのはそういう出来事だったのであります。

44節辺りです。イエスは言われました。「私についてモーセの律法と預言書の書と詩編に書いてある事柄は必ずすべて実現する」。ここに書かれているモーセの律法、詩編、そういうものはつまり私たちが手にしている旧約聖書を指しているのであります。旧約聖書に書かれている歴史、教えを通して、この世界にユダヤ人を始めとして伝えられた神の預言は必ず実現するのだとイエス様は教えてくださいます。しかしそれだけではまだ「心の目」が開かれてない、ただ残されて与えられている書物の教えとしての文字の記録ではないかと思います。そこでイエスは彼らの「心の目」を開いて言われて、次のように読むことができると教えとして示してくださいます。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国々の人々に宣べ伝えられる」。このことを読み取ることができるようになるのは、文字としてはとても短い表現ではありますが、イエス ご自身が彼らの「心の目」を開いてくださったことによって信じるようになったのです。

旧約聖書の長い歴史と記録は実現する。どうやって実現するのか。イエスが人々の罪の代わりに十字架につけられてその犠牲によって、罪の呪いの代わりの支払いによって、そして復活によって、神の救い、天の御国の命に与り、神と繋がる者となって実現する。そう信じられるようになった弟子たちの働き、新約聖書の福音書の以降の記録なのであります。

その弟子たちの姿がこの体験以前とは、復活のイエスとの出会い以前の姿とはガラッと変わってしまったことは最近の礼拝で繰り返し伝えていた内容でありました。もはや絶望せず、逃げず、死を恐れず、復活を信じるようになったから、死を恐れられないようになりました。そしてほとんどの弟子たちが自分たちの命を殉教の形で捧げました。そうすることによってイエスの命令を本当の意味で実践するようなになった弟子たちの働き。それによって救いの約束、それを宣べ伝える教会の働きがこの地上に、私たちの世界の歴史に現れるようになりましt。私たちの教会もその証しの一つであり、これを信じる人はイエスの復活の証人であることであります。

私たちは誤解してほしくないと思います。なぜこのようなことが私たちに知らされているのか、主イエスは弟子たちを愛されたからであります。その弟子たちにつながる私たちをも愛されたからであります。そういう人々がこの世での肉体と罪の命、その命が終わるとしても、救いは訪れること。神はその救いの命を与えてくださるということを信じさせるために。そしてそれを信じるゆえにこの世で死と代表される一番の困難と試練に負けないために、それを超えて私たちに与えられた大切な命と絆を見つめ直すために、開かれた心、信じる心の目で私たちの世界と命を見つめるために。そうなるように愛してくださったからこの世界に表してくださった主イエスの復活なのであります。それを信じる人々はやがて主と共に復活の命に与ることができる希望、それはまだ実現していないものですが、それを信じるゆえ、かつての弟子たちのように、私たちも新しく生きるために愛され、招かれている私たちであります。


あの方は復活なさった

2021年4月4日(日)主の復活主日礼拝説教要旨
イザヤ書25:6〜9, コリント第一15:1〜11, マルコ16:1〜8
 礼拝の冒頭においても知らせましたし、今日この教会に来られたたくさんの方々がご存知であるように、今日は私たちの教会の最大の祝日の一つ、復活祭(イースター)です。実は、私たちの教会自体、その信仰自体が復活に基づいていることからすると、まさに私たちの教会の始まりの出来事。実はこの祝日ばかりではなく、今日の福音書に書かれていた出来事として主の復活が初めて知らされていたのがユダヤたちからすれば安息日の翌日、週の初めの日(日曜日)でありましたので、私たちはすべての主日礼拝ごとに、毎回復活を覚え、祝う信仰、それが私たちの教会の信仰であります。そういう意味で私たちは、私たちの教会にとって最も大きな祝日を今日受け入れることになりました。

「ヘピーイースター」,「イースターおめでとうございます」という形で、私たちが喜び合ううことはもちろんふさわしいことでありましょう。ただ私から若干しつこい確認をいたしますと、このように歴史上で定められた祝日だから、伝統だから、習慣だからという形で、イースターなり、クリスマスなどを祝うことが「形だけ」に止まるならば、実は、私たちはそういう形によってむしろ大切なものを見失ってしまうものではないかと、私は懸念の思いを持っている一人です。

 体は形に従います。私たちの心も習慣に従います。そういうことによって「イースターおめでとう」,「クリスマスおめでとう」という形を守ります。しかしその形の中に中身がなく殻だけになってしまうならば、実体のない殻だけの信仰にならないだろうかと。そうならないようにもう一度思い起こしたいことは、定められた記念日のために私たちが「イースターおめでとう」と言い合うだけではなくて、主イエス・キリストが私たちのためにこの世における苦しみと恥の極端の道を経て、そこから神様によって復活させられたことを私たちが心から触れ、復活の恵みに預かってからこそ、私たちは本当の意味で主の祝日を祝うものではないかと思います。大前提ではありますが、私たちはそういう意味でこの時間、真心を持って主イエスの復活を喜ぶ一人一人となることをもう一度確かめたいと願います。

 与えられた恵みの出来事、この世における過去の出来事は、イエス・キリストの復活でありました。死んだイエスが「生きておられます」と証ししている出来事です。もちろんのことは、この世を生きる人間として、今の時代を生きる私たちにとってはとても信じがたい知らせです。みなさん、復活の出来事を皆さんは素直に信じられるでしょうか。

 「聖書がこう語っているから信じています」。こうなられる方はそのまま信じて良いと思います。これがこの世界の古い、伝統的な宗教、キリスト教の信仰だからそれに従うことだと。やや乱暴な言い方をするならば「こうだから黙って信じなさい」。それに従い得る方ならばそのまま従って信じて良いのではないでしょうか。信じて決して損はないと思います。このようなことを先に言っておいたのですが、実は私が予想するに、このような形で信じられる方々は私たちの世界の中でとても少ないことと思います。なぜならば私たちはこの世で、今の時代の人間らしい感覚を備えていて、間違いなくそれらが優先された形で私たちを包んでいるからです。人が人として死んだのにどうして生きていると言えるのか、どうして復活ということがあり得るのか、多分多くの私たちにとっては受け入れられない。そういう復活を聖書は証ししているものです。これを信じるということは、無理やりの信仰なのか、 非科学的で妄想的な追求なのか、迷信的な形の信仰なのか…。  実は、私たちの中でなかなか解けられないままで、しかし私たちの心の中にある微かな希望と、聖書の証しに対する一部の従順な心によって信じられているものかも知れません。私たちは、間違いなく私たちにも訪れるであろうという死の影響(死を私たちは疑わず、まだ自分に訪れなく、周りの人々だけに表れているものでも、疑わず受け入れているであろう)の中で、しかし死の影響力からすれば、量的にも強度的にも遥かに弱い微かな形の希望として復活を認識しているのではないかと、私は予想します。

 もちろん聖書が知らせている通りの復活の信仰に固く立っておられる方はそのまま信じて、その恵みによって生きられることは何という幸いでしょう!皆さんもそうであると思いますが、私はこの復活の出来事を知った時から、無意識の中でも意識の中でも、悩みに悩んだ私であったことを覚えています。だからと言って、今疑っているのかと、信じていないのかと問われるならば、それに端的にお答えするならば、私は人間的な考えを持っていない私ではありませんが、復活を信じるように至りました。しかしこれは多少しつこく言っている通り、無理やりに信じる、信じようとするものではなくて、「復活を信じるように導かれました」、「信じるように祝福されました」と言った方がふさわしいと思います。まさに私たちの教会が繰り返し強調するものでもあるように、信じるということは私たちの力によるというものというよりは、神様が信じさせてくださる恵みであることを私も実感します。ある人が美しい例えでこのようにも言ったものでありました。「信仰は雨に似ていて上から降りてくるものである」と。  実は人間としてはとても信じ難い復活を信じて、それに希望を置くようになったということはまさに恵みであります。

 そして今を生きる私たちばかりではなくて、実は聖書を読んでみると、淡々と語られているこの古い文献の中にも、イエスの一番身近なところにいた人々さえ、イエスが生きている(復活した)ことをなかなか信じられない人々がいたこと!それがこの世を生きる人々の実態であるということを私たちは読み取ることができるのではないかと思います。

 聖書が一貫して証していることは、実は全てがイエス・キリストの復活なのであります。新約聖書全体は、まとめて言うとイエスの復活に対する証しです。その中でも、イエスの復活の出来事とその前の生涯と受難とイエスの教えとを記録した福音書をよく読んでみますと、そこでは主イエスが何度も死ぬ前から言い渡しておいたにも関わらず、主イエスが死んだ途端イエスを信じられなかった一番身近な人々の姿がそこに描かれているのでありました。なかなか信じられない私たちへの慰めとして語っているばかりではなく、これが人間の実態であるということを確認する意味で、私たちはこういう人間と変わり得ない私たちの姿を見つめること、信じるための一つの備えかもしれません。

 弟子たちはイエスが死なれる場面でどこにいましたか。中にはイエスを売ったものもいました。「あなたから離れません」と強く誓いましたが、ペトロはイエスが連れて行かれる死の前の段階からどこにいましたか。どこで何を言っていましたか。「私はあの人を知りません」と、世の権力の前でとても惨めな姿で、しかもイエスがまだ近くにいるところで弱くなってしまいました。弟子の代表者的なペトロがそうであったとするならば、他の弟子たちはどこにいましたか。多数が逃げていました。「わたしは苦しみを受けて三日目に復活する」と何度も言われていて、イエスに自分たちの人生をかけて従ってきた弟子たちとはなかなか言えない人間の姿がそこにあります。彼らは忘れてしまったのか、結局のところその時点ではイエスの復活を信じられなかったから、イエスのそばにいなかったのです。

 男性たちは捕まることを恐れて逃げたでしょうが、女性たちはイエスの死の最後までそばにいた何人かがいたようです。そして今日の福音書の出来事からすると、イエスの遺体に香油を塗るために朝早くからイエスの墓を探しに来た女性たちの姿があります。彼女たちは、見えてくる姿からすれば男性たちの弟子たちより信仰があったものでしょうか。愛情はあったのかもしれませんが、まだ信仰はなかったものだと思います。なぜならば彼女たちが探していたのは、イエスの遺体、つまり死の証拠だったからです。

 聖書には詳しくまでは書かれていなかったとしても、主イエスが十字架で息を引き取ったのは金曜日でありました。つまりユダヤ人における安息日の前日であります。ユダヤ人的な都合からも、イエスはとても残念な死に方をされました。安息日には「汚れ」と思われるものを触れないために、金曜日のうちにイエスの遺体は急いで片付けられる必要があったのでありましょう。惨めな死に方に加えて急いである墓に納められたその遺体には、ユダヤ人の習慣によってまだ香油も塗られていなく、必要な葬儀の儀礼も行われなかったかもしれません。だから何もできない安息日が過ぎてから女性たちはイエスに対する愛情をもって、その愛情のゆえに大きな悲しみをもって、墓を訪れたのでありました。多分愛する人を失った全ての人の姿がこの姿なのであります。愛する人の亡骸、しかしそこにはもはや命はないと知りながらもそれが自分の愛するその人だと見受け、その遺体をなんとか最後まで大切にしようとする人間の姿、愛する人を見失った人の姿です。見に見える遺体に対する私たちの思いです。  そういう思いに対してやや残酷な言い方でありますが、そういう遺体を前にしている私たちはやはり死に支配されています。よく考えればそこに命はもうないと知りながら、それが自分の愛する存在だと、それに縛られています。ここまでが、悲しみと絶望、死を迎える多くの人々、私たちの姿でしょう。

 その人々に、そういう悲しみの中にいる人々に、神様が与えてくださった最大の奇跡、それがこの世において今までたった一度のイエス・キリストの復活の出来事なのであります。私たちは誤解してはいけないことと思います。この出来事が今における私たちの生き方や考え方に対して、非科学的で、無理矢理に迷信的あるいは妄想的な信仰の押し付けなのかとするならば、そうではありません。死んだのに愛する人々の前に現れたのだから、それがまるで死体が急に生き返って、私たちに虚しい想像を信じさせるのか、それを押し付けられているのかという葛藤の中で、神様がせっかく与えてくださった復活の出来事を歪めて、誤解し、信じなくさせる影響力から私たちは解放されるべきではないかと思います。

 繰り返して確認することは、私たちからすれば当時を生きていたもっとイエスの身近にいた人々とさえも、信じられなかったこと。むしろこの日曜日の朝の出来事の中で女性たちは信じたというよりは「驚き震え上がっていた」のです。それぐらい、驚くべき恵みを神様はたった一度ご自分の独り子を通してこの世に示してくださった。それが復活の出来事です。

 この後の聖書の様々な記録は、信じられなかった人々がどうやって信じるようになったかと、そのことが様々な形で記されていました。ある記録によればある女性は最初はイエスだと知らなかったのにイエスが呼んでくださってからイエスだと分かったと記されています。ある記録によれば最初からイエスだと気づいた人々の姿もあります。ある体験の記録によればイエスの弟子二人が道を歩いていた時にいつのまにか主イエスが一緒だった。彼がイエスと一緒にいた時は聖書の様々な記録が、心が開かれその意味とその真実とが素直に信じられるようになった。しかしいつのまにかイエスの姿は再び見えなくなってしまった。様々な形での体験が聖書の中に記されていました。こういう体験の記録は私たちに信じられないものでしょうか。作り上げられたものなのでしょうか。私は決してそうではないことと思います。一部の不一致の記録はまさにたくさんの人々が体験したから、その体験によって人が書いたものだから一致していない部分も出てくるものと思います。彼らの心からの体験の証しは真実なものだと思います。  なぜならば、ちょっとだけの論理的な考えをするならば、ここまでイエスを信じられなかった人々、イエスから逃げ去った人々、絶望のままにイエスから離れていった弟子たちはその後の生涯がどう変わったのか!そのことによって彼らの証しと体験は真実だったものだったと私たちは信じることができるのではないでしょうか。

 キリスト教の迫害者であったパウロが復活のイエスに出会ってから、自分がしていた迫害をやめ、自分が迫害していた人たち側に入って改宗しました。それどころか彼ら以上に働いて、「イエス・キリストは生きておられる」、「わたしはそのイエスに出会った使徒です」と。人として生きている間は出会ったこともなかったパウロが、復活したイエスに出会ったので「わたしは使徒」だと自分から名乗るパウロとなったからです。人間としては、人が生き返ったということを信じるぐらい、とても受け入れ難い出来事であります。しかもそのパウロは自分の命を捧げ、もはや自分はいつ死んでもよいという姿で、ただただ復活したイエスの教えをもとに各地に教会を建てる働きをしたそのパウロの証言、私たちは信じられないものでしょうか。

 パウロばかりではありません。復活のイエスに会った体験、それを起点にして弟子たちは、「逃げ去っていた」姿から、自分たちの命を差し出す人へと変わりました。弟子の多くは殉教の死を遂げました。こういう劇的な人の変化、それは復活のイエスとの出会いによって変えられたものです。その出会いがなかったものでしょうか。彼らがただただ自分たちが建てる教会と教理のために、自分たちの命を差し出してまでしたものでしょうか。それなのに、なんでイエスが死なれる場面ではイエスから離れる惨めなことをしてしまったのでしょうか。イエスの復活がなかったとするならば、説明できない人々の姿が歴史上に残っています。その歴史のつながりから、まさに神様の恵みとしての復活の信仰のつながりから、今この場所も主イエス・キリストの復活を祝うキリストの教会となられているのです。

 私たちはこの時、イエスの復活との出会いを信じるために招かれた一人一人です。これを信じるために繰り返し恵みが与えられる私たちであります。私はこれに真摯に向き合うならば、神様が私たちを信じさせてくださると信じてこの礼拝を捧げます。なぜならば、神様は私たちに命を与えてくださった。この世界を与えてくださった。私たちが人間として最も大切にしているかけがえのない人の絆も、実は私たちが作り出したのではなく、神様によって与えられたもので、それが終わるというこの地上の絶望を前にして、神様は「これが終わりではないのよ」と私たちを諭してくださると信じるからであります。

 神秘的な体験だけではありません。主イエスを通して示された一度の、最大の奇跡で十分であります。神様はこれが、神様が与えてくださる命なのだと、神様の命だと、天の御国における本来神様が主である命だと、私たちのそれぞれの命はまさに神様によって生かされるものだと、イエス・キリストの復活を通して私たちに示してくださいます。その証し、私たちの教会につながる一人一人は信じるように招かれ、信じるように恵みをいただくことになると信じてお願い、私たちに示された主イエスの復活を共に祝いたいと思います。

 聖書のすべてがこの事を知らせるために私たちに与えられたものでありました。今日の旧約の日課の表現を借りて私たちに与えられた神様の御心を噛み締めたいと思います。神様は私たちすべての人の顔から「涙を拭い」、涙を拭うためには一度私たちに涙が流れる悲しみが確かにあるものですが、しかしそれが終わりではなくて、神様は私たちの顔と心から「涙を拭い」、この地の絶望と罪の呪いから私たちを解放してくださると約束してくださるのであります。その約束のしるしはイエス・キリストの復活です。

   お祈りいたします。恵み深い天の父なる神様、イエス・キリストは私たちのために、私たちが信じるために人としてつらい肉体的な苦しみ、人間的な苦しみと恥、それを十字架を背負う形で私たちの代わりに背負われました。そして人々の罪と悪に渡されましたが、神様に委ねられたその魂は神様によって生きるものであることを、私たちはこの教会を通して、信仰の証しを通して、御言葉を通して聞くことができました。これを私たちの魂に納め、主とともに主の復活に向けて生きる私たちとさせてください。死に近づく私たちではなく、神様の命に近づく私たちにさせてくださることを私たちはこの朝、心から喜び賛美をお捧げいたします。益々神様の豊かな恵みと信仰の中で生きる私たちでありますように。主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。


見よ、主なる神が助けてくださる

2021年3月28日(日)主の受難主日 礼拝説教要旨
イザヤ50:4〜9a フィリピ2:5〜11 マルコ14:1〜15:47
いよいよ私たちの教会の暦において四旬節の最後の週となる主の受難主日を迎えました。いつも以上に長い福音書のみ言葉から聞いたように、イエス・キリストの受難の場面に当てられた聖書の記録です。また私たちの教会の以前の暦において、「エルサレム入場の主日」、「枝の主日」と言われたのは、主イエスが十字架にかかるために、受難の道のためにエルサレムに入場していたのに、人々はイエスを歓迎し「救い主」と讃美しながら枝を切ってイエスを迎えていたからです。そのような記念として守られてきた私たちの大切な主日、もちろんそこに記されている内容は、この世に生きる人間としてはこの上ない悲劇、このようなことだけはなくて欲しいと思うような悲劇でありますが、イエスがこの世でそのような悲劇を受けられたのは私たちの救いのためであったという大いなる神秘、聖書に書かれているどのような奇跡よりもどのような出来事よりも私たちのための奇跡・神秘であったから、私たちの教会はまさに十字架を私たちの信仰のシンボルとして掲げて、この十字架を土台として信仰の歩みをする群れです。今日はこのイエスの受難に向き合う主日です。

 あることを伝えるために、私は先週の個人的な感想を話したいと思います。ちょうど先週の間、私は仕事の都合でも家族の事情でも一人になる日が多かったです。私は心が疲れたのか、悩んだのか、しばらく遠くの所へ行って気分転換をしよう、外の風に当たってみようとした日がありました。どこでもいいから遠くへ行ってみよう、できれば泊まって来ようと心の赴くままにどこか行って来ようとしました。そんなに私の健康と精神に影響があるほどの何かではありませんので、そのようには聞かないでください。ただ、当てもなくしばらく気分転換したかった話しです。

 確かに割と遠くまで走りました。しかしいざと出かけてきたのだから、どこでもいいから景色のいいところ、静かな場所で自分一人でいたら気持ちが落ち着く、色々頭の整理ができると思ったのに、それは私にとっては大違いでした。何を言いたのか、当てがないということは何の慰めにもならない、返って当てがないからこそ更なる彷徨い、更なる迷いの種となると私は個人的に感じました。

 実は二十数年前くらい、私が軍隊に服務していて休暇で出てきたときも同じような体験をしました。ドラマのせいなのか、海の所に行って一人旅をしたらいい気分転換になるだろうと思ってそうしたところ、その時私は自分の中で誓いました。「二度とこんなことはするまい」。一人で旅をすること、つまらない以外何もない。実はこれを経験していた私ですが、気分転換と思って再び同じことを試みた次第でありました。

 もちろん私の個人的な思いかも知れませんが、ある程度の当ては私たちに必要なのであります。決して処世術のようなことを言うためにこのような話を持ち出したわけではありませんが、たとえ私たちが何かをするにしても、ある一定の期間を過ごすことにしても、あることを成し遂げようと試みるにしても、当てがなく、あるがままに、流れるままにして、何かが決まったり、成し遂げられたりすることは多分ないものと、私は思います。大切なのは、ある程度の方向性、大まかでもいいからある程度の自分が進む道の方向や大きな目標などの当ては、私たちの人生に必要なのではないかと。人生論は語りたい訳ではありませんが、ある程度の当ては私たちの命に必要であること。その当てを、人々はそれぞれの何に当てるのか、それがまさに更なる課題でもありましょう。しかし信じる私たちにとってのそれぞれの当ての終着点は救い主イエス・キリストである。この当てだけでも私たちにとってはきっと良いのです。彷徨っても戻って来られる道が与えられる、苦しんでも悩んでも倒れても再び起き上がれる当てがイエス・キリストであることを思います。

  そして実は、イエス・キリストこそが世の人々を、さらに迫られた言い方をして私たち一人ひとりを当てにしてこの世に来られた救い主、神の御子です。

 私たちにイエス・キリストがなければ私たちには変わる変わるこの世の苦しみまた様々な誘惑によって生きる方向を十分失ってしまい、混沌のままに生きるであろう、そういう私たちを当てにしてこの世に来てくださった神の御子、救い主であることを福音書は一貫して伝えようとする、それが福音書の伝えであります。人として世に来られたイエスの道のりにおいても当てはありました。それは罪におぼれて自分の魂を失っている一人ひとり、罪人がイエスの進む道の当てであって、その当てに向かって歩んでこられたイエスの満ちです。人々の前に現れた時間は3年余りでしょうか、その道のりの終着点が今日私たちの礼拝のテーマとして掲げている十字架なのであります。

 十字架と言っても決して最初から栄光のしるしではありません。むしろ私たちが今日長い福音書の記録を読んだように、十字架はこの世の人間的な基準からすれば悲劇、残酷、嘲り、侮辱のしるしです。しかしそれを担ってくださったイエス・キリスト、私たちへの愛のゆえに、十字架は私たちの信仰のしるしとなった大いなる奇跡が、今日いつも以上に長く聞いた福音書の糧です。

 その終着点、十字架の物語は信仰を無くしては聞いていられない、信仰なくしては見ていられないくらいの残酷と悲劇の模様です。かなり前の映画ですが、当時のイスラエルの背景と文化を再現してイエス・キリストの十字架の場面を表現した映画がありました。パッションオブクライストという映画ですが、私は授業の一環としてその映画を見せたことがあります。その映画を見た人々の反応として「これは残酷さを描くための映画?」と首を振るくらいの残酷さでした。私たちには文字だけでは伝わらない残酷さが今日の記録の中に含まれています。これをどう聞くのか、どう見るのか、確かなのはことは、これは信仰なくしては聞いていられない、見ていられない主イエスの姿です。しかし信仰あってこの場面を聞き、この姿を見つめるならば、この世においては残酷な死のこの物語が、私たちの魂の救い、私たちの死の突破口となる、光となる奇跡であることを私たちはここから見出すことができます。

 イエス・キリストは、この十字架のために、そしてこの十字架の後の救いのために、これを当てにこの世に来られたと、それぞれの福音書が書き方も、著者も、表現も違い、イエスを描く順番も互いに前後したりする形ではありますが、全ての信仰の著者たちがこの十字架を当てに、終着点に福音書を書き記したのでした。その終着点の箇所、私たちは聞くべきです。そしてこれは偶然こうなった結末ではなく、これが神の計画であって、イエスのみ心であること、このためにすべてのことが進められてきたこと、福音書が一貫して伝えているこの記録を私たちは聞き取れているでしょうか。

 今日の福音書の中でも、高価な香油をイエスの注いだある女性の行為をみて、その心を知らない人がただ言います。「こんなに高価なものを無駄にしている」、「これを売って貧しい人々を助けることができるはずなのに」と。確かにその場面においては不思議なことであったはずですが、イエスは言われました。「よしなさい。この女はわたしに良いことをしてくれたのだ」、「これは後に新たな記念となるものだ」、「なぜならばわたしの埋葬を準備してくれたのだから」。香油をめぐる出来事がありました。イエス・キリストは今日の福音書から聞いている通り、ご自分を裏切る弟子を知りながらその弟子と一緒に食事をしていました。人間としては苦しいことです。弟子たちは後で逃げていくことを知りながら弟子たちと食事をし、励ましていたことを福音書は告げています。また細かいところにおいて、イエスが引用されている旧約の言葉とか、兵士たちがイエスの服を誰がとるかとくじを引いた場面とか、私たちの聖書で行を変えて引用されている旧約の言葉は、この十字架によって実現していたという事細かい記録がそれぞれの福音書の証し。  それらが結局のところ伝えるのはこれであります。イエス・キリストの死、侮辱に耐える受難の道は予め神の計画であったこと。イエスはそれを知りながらこの道に進んだこと。大いなる目的のためであったこと。そのためにこのように人間としては耐えがたい道をイエスは受け入れたということ。これらを土台にして建てられた私たちの教会としては、ここまで神の御子がへりくだり、私たちに代って罪の支払いを神の御前でしてくださったのだから、ここまでにして私たちを愛してくださったから、私たちの罪が神の前で裁かれることなく、救われる命へと変えられたこと、イエスの復活に連なる命とされたこととして私たちに示されているのであります。

 実は福音書の記録の中に潜んでいる人々の姿が今日の箇所の中でもたくさんあります。一時この世で勝ち組のように見えている人々の姿の中に、実は当てもなく生きている姿が現れていました。偉そうな人でも、ただイエスへの妬みのゆえに偽証する人がいました。「偽証してはならない」。彼らが最も大事にする律法の掟の一つです。しかし彼らはいつの間にか、ただ自分たちが妬むイエスを捕まえるために偽りの裁判をしていたのです。実は世の権力を気にして、ピラトは自分の政治において過ちの残してはいけないと、群衆を気にしていい加減な判断をしました。ユダヤ人の宗教的指導者たちは、自分たちの立場がイエスに奪われるのではないかという畏れによって、イエスを処理しようとしていました。さらにそういうことは知らずに先導されて、一時はイエスを救い主だと叫んでいた群衆はいつの間にか「イエスを十字架につけろ」と叫ぶ姿があります。こういう人々の姿、信仰的な見方をして、すべて当てもなく生きている、ただ揺れ動き、変わり続ける人々の表象です。

 しかし主イエスは、まさにそういう一人ひとり、そのような私たちを当てにしてこの世に来て十字架にかかられました。それが愛のしるし、私たちの十字架なのです。


God be with you till we meet again

2021年3月21日(日)J3宣教師エリカ説教要旨
エレミヤ31:31〜34 ヨハネ12:20〜33  ※テサロニケ5:23〜28  
                                     
Growing up, I spent a lot of time with my grandparents. They owned a pizza restaurant, and my mom worked there, too. Before starting preschool, my sister and I would spend the days that my mom worked either at the pizza restaurant or at my grandparents' house, with my grandma babysitting us. As we grew up and started school, we also would spend Sunday evenings at their house for dinner. We played card games, we talked, we ate good food… But most importantly, before we left, my grandfather would sit down at the piano and play this hymn.
子(こ)どものころ、私(わたし)はたくさんの時間(じかん)を祖父母(そふぼ)と過(す)ごしました。祖父母(そふぼ)はピザレストランを経営(けいえい)していて、私(わたし)の母(はは)もそこで働(はたら)いていました。幼稚園(ようちえん)に入(はい)る前(まえ)、姉(あね)と私(わたし)は、母(はは)が働(はたら)く日(ひ)はそのレストランか、祖父母(そふぼ)の家(いえ)で祖母(そぼ)に世話(せわ)をしてもらって過(す)ごしました。私(わたし)たちが大(おお)きくなって学校(がっこう)に通(かよ)い始(はじ)めたときは、日曜(にちよう)の晩御飯(ばんごはん)を祖父母(そふぼ)の家(いえ)でよく食(た)べていました。カードゲームをしたり、おしゃべりをしたり、おいしい食(た)べ物(もの)を食(た)べたり・・・。なにより一番大切(いちばんたいせつ)だった時間(じかん)は、私(わたし)たちがうちに帰(かえ)る時間(じかん)になると、祖父(そふ)がピアノのところに座(すわ)ってこの歌(うた)をひいたときでした。

God be with you till we meet again,
By His counsel's guide, uphold you,
With His sheep securely fold you,
God be with you till we meet again.

? This song became very special to me. It meant time with family. Not only was it played and sung when we visited, but also when we celebrated holidays with all of my extended family. During Christmastime, when all my aunts and uncles and cousins would come, we would always sing this song before we left, with my grandpa playing the piano. It represented the bond I had with my grandparents, especially my grandpa. He used to accompany me on piano as I played violin. This song was, in a way, representative of all music in my life.
この歌(うた)は私(わたし)にとって、とても特別(とくべつ)な歌(うた)になりました。この歌(うた)は家族(かぞく)と過(す)ごした時間(じかん)そのものを意味(いみ)していました。それは、私(わたし)たちが祖父母(そふぼ)の家(いえ)に行(い)ったときだけでなく、祝日(しゅくじつ)を親戚(しんせき)みんなと一緒(いっしょ)に祝(いわ)ったときにも演奏(えんそう)して歌(うた)ったからです。クリスマスには、私(わたし)のおばやおじ、いとこみんなが遊(あそ)びに来(き)て、帰(かえ)る時間(じかん)には祖父(そふ)のピアノの伴奏(ばんそう)で、みんな一緒(いっしょ)にこの歌(うた)を歌(うた)ったものです。それは私(わたし)と祖父母(そふぼ)との、特(とく)に祖父(そふ)との絆(きずな)をあらわしました。祖父(そふ)は私(わたし)がバイオリンを弾(ひ)くのに合(あ)わせてピアノを弾(ひ)いてくれました。この歌(うた)は、ある意味(いみ)で、私(わたし)の人生(じんせい)のすべての音楽(おんがく)の代表的(だいひょうてき)なものだったのです。

Till we meet, till we meet,
Till we meet at Jesus' feet;
Till we meet, till we meet,
God be with you till we meet again.

? Now, this song is a little sadder to sing. My grandfather died when I was in 4th grade. This was really hard for me-I was so close to my grandfather. This is the hymn we sang at the very end of his funeral and later, the song my sister and I played at his burial. This song, that had always meant so much to me, the sound of family and togetherness, became something that was almost impossible for me to sing anymore. But though the words remain difficult to sing, and memories of my young childhood come rushing back with waves of emotions, the words remain a comfort.
いまでは、この歌(うた)を歌(うた)うのはもう少(すこ)し悲(かな)しいです。私(わたし)が小学校(しょうがっこう)4年生(ねんせい)のとき、祖父(そふ)がなくなりました。それは私(わたし)にはとてもつらいことでした―(ー)祖父(そふ)と私(わたし)はとても親(した)しかったからです。私(わたし)たちはこの歌(うた)を祖父(そふ)の葬式(そうしき)の一番最後(いちばんさいご)に歌(うた)いました。そして埋葬(まいそう)のときには私(わたし)と姉(あね)が演奏(えんそう)しました。それまでいつも私(わたし)にとって大(おお)きな意味(いみ)をもつこの歌(うた)が、また、家族(かぞく)と人(ひと)とのつながりを意味(いみ)した音(おと)が、もはやほぼ歌(うた)えなくなるほどの存在(そんざい)になりました。ですが、歌(うた)の歌詞(かし)は歌(うた)うのがつらいもので、また、いろいろな気持(きも)ちの波(なみ)といっしょに、子(こ)どものころの思(おも)い出(で)がやってくると同時(どうじ)に、それらは私(わたし)にとってのなぐさめでもあります。

God be with you till we meet again,
'Neath His wings protecting hide you,
Daily manna still provide you,
God be with you till we meet again.

? I came to Japan in 2018, but the first graduation I went to was Luther's Junior High School Graduation in 2020. I had no idea that this hymn is a very common one for events such as graduations and going away ceremonies. Luckily for my emotions, I was told which hymns were going to be sung before the ceremony began, otherwise I'm sure my emotions would have gotten the best of me. It was special, hearing and singing this song for the first time in another language, that it was connected to saying goodbye to some special students. This moment, as well as singing it a couple other times while here, has brought even more memories to this song.
私(わたし)が2018年(ねん)に日本(にほん)に来(き)て、最初(さいしょ)に参加(さんか)した卒業式(そつぎょうしき)は2020年(ねん)のルーテル学院中学校(がくいんちゅうがっこう)のでした。私(わたし)は、この歌(うた)が卒業(そつぎょう)やお別(わか)れの行事(ぎょうじ)でよく歌(うた)われる歌(うた)だとまったく知(し)りませんでした。私(わたし)の気持(きも)ちを考(かんが)えるとよかったな、と思(おも)うことは、式(しき)が始(はじ)まる前(まえ)にどの歌(うた)が歌(うた)われるかを教(おし)えられていたことでした。そうでなければ、きっと気持(きも)ちが高(たか)ぶって私(わたし)はうちのめされていたでしょう。初(はじ)めてこの歌(うた)を他(ほか)の言葉(ことば)で聞(き)いたり歌(うた)ったりしながら、特別(とくべつ)な生徒(せいと)たちへのお別(わか)れを言(い)う機会(きかい)にこの歌(うた)が使(つか)われたことを特別(とくべつ)だと感(かん)じました。ここにいる間(あいだ)に何度(なんど)か歌(うた)ったとき、そしてこの瞬間(しゅんかん)も、この歌(うた)にはさらにたくさんの思(おも)い出(で)ができました。

Till we meet, till we meet,
Till we meet at Jesus' feet;
Till we meet, till we meet,
God be with you till we meet again.

? Now, I know the words are a little different in English compared to the Japanese. And it makes sense that, in translating it from English to Japanese, some of the meaning would be changed or lost. Having grown up with the English version, I guess I am a little biased when I say that I think the words in English have a little deeper feeling to them. In the English, there isn't necessarily the idea that we will meet again in this life. However, there's the constant reassurance and hope that God is with us throughout our lives, and in the end, in eternity, we will be together with all our beloved with God. The imagery used again and again shows God's comfort. The repetition of the chorus is a reminder of what is to come for all the Saints of God.
さて、歌詞(かし)についてですが、英語(えいご)と日本語(にほんご)ではすこし違(ちが)います。もちろん、英語(えいご)から日本語(にほんご)に訳(やく)すと、意味(いみ)が変(か)わったり、なくなってしまったりすることがあります。私(わたし)は英語(えいご)のほうになじみがあるので、英語(えいご)の歌詞(かし)のほうが少(すこ)し深(ふか)い意味(いみ)があると感(かん)じるのは、私(わたし)の偏見(へんけん)かもしれません。英語(えいご)では、この歌(うた)での「また会(あ)うとき」が、生(い)きている間(あいだ)の話(はなし)だけとはかぎりません。ですが、この歌(うた)は、神様(かみさま)が私(わたし)たちの人生(じんせい)で私(わたし)たちとともにいること、そして最後(さいご)には永遠(えいえん)に、愛(あい)する人(ひと)たちと神様(かみさま)とともにいるのだと安心(あんしん)させ、希望(きぼう)をもたせてくれます。何度(なんど)も使(つか)われる表現(ひょうげん)は、神様(かみさま)のなぐさめを表(あらわ)しています。くりかえすフレーズは、私(わたし)たちに神様(かみさま)の聖人(せいじん)たちに何(なに)が待(ま)っているかを思(おも)い出(だ)させてくれます。

God be with you till we meet again,
When life's perils thick confound you,
Put His arms unfailing round you,
God be with you till we meet again.

? In English, "Goodbye" first came into the language as a condensed version of "God be with you". The standard farewell salutation in English, dating back centuries, is really saying the same as this hymn-God be with you. Right now, as I'm constantly preparing to leave Japan and saying many goodbyes, I am ever drawn back to this root meaning of "goodbye". Each time I say goodbye to someone here, I wonder if I will, in fact, see them again. This word and this hymn serve as a reminder that, even if I'm unable to come back to Japan and see each person again, I will see them again.
英語(えいご)に"Goodbye"という言葉(ことば)ができたとき、それは"God be with you," つまり 「神様(かみさま)があなたとともにいてくださるように」という言葉(ことば)が短(みじか)くなったものでした。何世紀(なんせいき)も前(まえ)、英語(えいご)で別(わか)れのあいさつをするとき、一般的(いっぱんてき)にこの歌(うた)にあるように"God be with you" と言(い)っていたのです。現在(げんざい)、私(わたし)はずっと日本(にほん)をはなれる準備(じゅんび)をしていて、たくさんのさよならを言(い)っていますが、いつもこの本来(ほんらい)の意味(いみ)の"Goodbye" を考(かんが)えます。ここで誰(だれ)かにさよならをいうとき、いつも本当(ほんとう)にまた会(あ)うんだろうか、と思(おも)います。この言葉(ことば)と歌(うた)は、もし私(わたし)が日本(にほん)に戻(もど)ってこられなくて、一人一人(ひとりひとり)に会(あ)えなくても、いつかまたみんなに会(あ)えるのだということを思(おも)い出(だ)させてくれます。

Till we meet, till we meet,
Till we meet at Jesus' feet;
Till we meet, till we meet,
God be with you till we meet again.

? In the reading I selected for today, the author of 1st Thessalonians is ending the letter like many biblical letters are ended-with advice and a blessing. Now, for obvious reasons, I wouldn't recommend greeting each other with a sacred kiss, but the other advice here is to pray for each other and to share the message of Jesus. The passage begins and ends with blessings. May you be holy and whole until we are together again with Jesus. And may God's Grace be with you through it all. These blessings are ones I wish to you as well.

God be with you till we meet again,
Keep love's banner floating o'er you,
Smite death's threatening wave before you,
God be with you till we meet again.

今日読(きょうよ)むのに選(えら)んだ箇所(かしょ)で、テサロニケ信徒(しんと)への手紙(てがみ)一(いち)の著者(ちょしゃ)はこの手紙(てがみ)を他(ほか)のたくさんの聖書的(せいしょてき)な手紙(てがみ)のように終(お)えています ― アドバイスと祝福(しゅくふく)の言葉(ことば)です。さて、理由(りゆう)は明(あき)らかですが、聖(せい)なる口(くち)づけでお互(たが)いにあいさつするのはおすすめしません。ですが、ここでのもうひとつのアドバイスは、お互(たが)いのために祈(いの)って、イエス様(さま)のみ言葉(ことば)を共有(きょうゆう)することです。文章(ぶんしょう)は、祝福(しゅくふく)ではじまって、祝福(しゅくふく)で終(お)わります。「私(わたし)たちがイエス様(さま)と一緒(いっしょ)になるまで、あなたが神(かみ)への信仰(しんこう)をもって、完全(かんぜん)なものでいられますように。神様(かみさま)の恵(めぐ)みが、いつまでもあなたとともにありますように。」これらの祈(いの)りを、私(わたし)も皆(みな)さんにお伝(つた)えしたいと思(おも)います。

? Right now, it's very bittersweet. I'm sad to be leaving Japan. I'm sad to not have the chance to say normal goodbyes to so many people because of the pandemic. And honestly, I'm more than a little nervous to be going back to the US. However, I am excited to see my family, fiancee, and friends again. Each part of my life's journey so far has brought me close to so many people, and for that I've been so blessed. My prayer as I leave is that you listen to this hymn and remember that God's deep, unconditional love protects us throughout our lives. May you feel this love until we meet again, the next time I'm in Japan or at Jesus' feet.

Till we meet, till we meet,
Till we meet at Jesus' feet;
Till we meet, till we meet,
God be with you till we meet again.

今(いま)、私(わたし)はほろ苦(にが)い気持(きも)ちです。日本(にほん)を離(はな)れるのは悲(かな)しいです。パンデミックのせいで、たくさんの人(ひと)にふつうのお別(わか)れを言(い)う機会(きかい)がなくて悲(かな)しいです。正直(しょうじき)に言(い)うと、アメリカに帰(かえ)ることについて少(すく)なからず緊張(きんちょう)しています。ですが、家族(かぞく)や婚約者(こんやくしゃ)、友達(ともだち)にまた会(あ)えるのをとても楽(たの)しみにしています。私(わたし)の人生(じんせい)の旅(たび)のどんな出来事(できごと)も、私(わたし)にたくさんの人(ひと)に接(せっ)する機会(きかい)をあたえてくれました。私(わたし)は本当(ほんとう)に恵(めぐ)まれていると思(おも)います。私(わたし)の旅立(たびだ)ちにあたって、皆(みな)さんがこの歌(うた)を聞(き)いて、神様(かみさま)の深(ふか)くて無条件(むじょうけん)の愛(あい)が皆(みな)さんを人生(じんせい)でずっと守(まも)ってくださるということを覚(おぼ)えていてくれるように、祈(いの)りたいと思(おも)います。私(わたし)が次(つぎ)に日本(にほん)に来(く)るとき、 あるいはイエス様(さま)のもとで皆(みな)さんに会(あ)うときまで、皆(みな)さんがこの愛(あい)を感(かん)じていてくれますように。


神の賜物

2021年3月14日(日)四旬節第4主日礼拝三浦慎里子神学生説教要旨
民数記21:4−9  エフェソ2:1−10  ヨハネ3:14−21
本日の旧約聖書、民数記21章には、イスラエルの民が荒野を放浪していた時のことが記されています。神様はモーセをリーダーにしてイスラエルの民をエジプトから救い出し、約束された土地へと導かれました。その約束の地に至るまでの旅が人々にとってどんなに長く苦しいものだったかということは良く知られています。本日のテキストに書かれている道のりもおそらくとても険しかったために、人々は途中で我慢の限界が来て、不平不満を言い出しました。「なぜ、私たちをエジプトから導き上ったのですか。荒野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」先の見えない不安、怒り、疲れ、空腹、痛み。ありとあらゆる感情が渦を巻いて、人々の心を占領していたのでしょう。あなたたちを必ず約束の土地に連れていくと約束してくださった神様の言葉など思い出せないくらいに、自分自身のことで頭がいっぱいになっていたのだと思います。確かに、パンも水もなかったかもしれません。しかし、荒野の放浪ではマナという神様からの恵みの食べ物が与えられていました。 出エジプト記16章にはマナが白くて蜜の入ったウエハースのような味だと記されています。神様が荒野の厳しい道のりを行くイスラエルの民のために与えてくださったこの恵みを、人々は感謝するどころか「こんな粗末な食べ物」と言ってしまいました。人々のこのような態度に対する神様の反応は当然、大変厳しいものでした。神様が送った毒蛇に咬まれて多くの人が死にました。

自ら神様の恵みを遠ざけようとする人々の姿は今を生きる私たちの姿と重なります。良い時には簡単に感謝しますが、厳しい状況に陥るとつい愚痴を言ってしまう。自分自身の思いに捕らわれ、この世の価値観に振り回され、愚かなものにしがみついてしまう。少なからず、私たちは自分が罪深い存在であることを心のどこかで感じながらも、そこから目を逸らしながら生きているかもしれません。もしくはそのことに気付かないくらい神様から遠ざかっているかもしれない。それは本日の使徒書に書かれているところの「自分の過ちと罪のために死んで」おり、そして「生まれながら神の怒りを受けるべき者」だということでしょう。神様との壊れた関係の中にある者はすなわち霊的な死の状態にあると言っているのです。本日の旧約の箇所では、蛇に咬まれた者が死を免れる唯一の方法として、モーセの造った蛇の像を高く掲げそれを見上げることが書かれています。自分の無力さを忘れて傲慢に振舞ったにもかかわらず、そんな人間の「救ってください」という祈りを聞き届けられる神様の愛と憐みがそこにはあります。 そして、この時モーセによって旗竿の先に掲げられた蛇は、後に救い主としてこの世に遣わされ、十字架の上で死なれた主イエス・キリストを啓示していると言われています。では、私たちが見上げる、十字架に架けられたイエス・キリストによる救いとは、いったいどのようなものでしょうか。

 本日の使徒書は私たちに、主イエス・キリストを通して私たちがどこへ向かうのかを語ります。エフェソの信徒への手紙2章10節より。「わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」神様は何のために私たち人間を創造されたのでしょうか。物を作ったり、料理をつくったり、文章を書いたり、、、生み出すという行為には、作り手の思いが込められるものだと思います。神様も私たち人間を造られた時、きっと私たちが想像できないくらい強い思いを込められたに違いありません。でも人間は、罪にとらわれ、神様に造られたことをすぐに忘れてしまいますから、自分が本来あるべきところに戻る道も分からなくなってしまいます。そんな人間に、神様はご自分の方から歩み寄られ、あらかじめ用意してくださっていた命の道へ来るようにと招いてくださる。それが主イエス・キリストの十字架の出来事です。イエス様は、私たちが負うべき罪の重荷を代わりに背負い、私たちを救ってくださいました。  十字架にかけられたイエス様の激しい痛み、悲しみ、死と引き換えに、私たちは闇から光へと、死から命へと引き上げられたのです。神様が望まれる、私たちのために用意された場所へと連れて行っていただくのです。そしてこの救いの出来事は、私たち人間のことを想い慈しむ神様の憐み深い愛によって実現するのだと聖書は語ります。イエス様を信じてついて行く者たちが一人も滅びないで永遠の命を受けるためです。それは決して私たちの正しい行いなどから実現するのではありません。だから、永遠の命とは、イエス様の十字架を通して私たちに与えられた神様からの純度100%の愛の贈り物なのです。

 私は、昨年1年間神学校を休学しました。認知症の発症や手術などで介護が必要となった祖父母とともに過ごすためです。今年の1月に祖父母はそろってケアホームに入居しましたが、それまでは自宅で一緒に充実したというか濃厚な介護生活を送りました。夜中に私には見えない誰かと話したり、外に出ようとしたりする祖父が気になるので、いつも睡眠不足でしたし、祖母には何度も何度も同じ質問をされていたので少しですけれども忍耐力が鍛えられました。初めての介護は確かに大変だった。愚痴もたくさん言ってしまいました。恥ずかしいけれど、生きている意味を考えてしまったりもしました。しかし、この1年間を振り返った時強く胸に迫ってくるのは、困難な状況のただなかに共におられる神様の圧倒的な存在感なのです。今まで元気そうにしていた祖父が急に意識をなくしてしまったり、昨日できたことが今日は出来なくなっていたりと、不安定な日常の中で、自分自身の進むべき道さえも分からなくなってしまいそうな時、イエス様が語り掛けてくださるみ言葉から得る確かな希望が私を支えてくれました。  イエス様が用意してくださっている一番良い場所があるから、私は必ずそこに導かれるのだと信じるから、たくさんの人にかけていただく温かい言葉やご支援、祈りによる交わりの中に聖霊の働きを感じ、介護にも前向きに取り組むことができるようになりました。私は牧師として神様からどのように用いられるのでしょうか。それはまだわかりません。でも、ままならない日々に疲れている人たちや気力を失っている人たちに、ご自分の方から歩み寄ってくださるイエス様という方がいて、その方は決してあなたを見捨てないんだよと伝えることができる牧師という素晴らしい働きに、私のような小さな者を召してくださる神様の御心の不思議さを思います。召命の思いが更に強められたことは、本当に大きな恵みであったと思います。

 ヨハネによる福音書3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」十字架のイエス・キリストを仰ぎ見る私たちは、無力で、心の中に良いものを持たず、すぐに道を見失い、さまよってしまう、本当に小さな存在です。しかし、そんな私たちを、神は愛し、祝福し、命の道へと招いてくださいます。今日も、み言葉の恵みによって主イエス・キリストという命のパンをいただきましょう。そして、神の愛を携えて、私たちはこの室園教会から隣人のもとへと遣わされていきます。どうか室園教会が、苦しみや試練の中に、そして、私たちの無力さの中に、主の恵みを見出し、この世に輝き続けますように。アーメン。


救われる者への力

2021年3月7日(日)四旬節第3主日礼拝説教要旨
出エジプト記 20:1〜17 (詩編19) 一コリント1:18〜25 ヨハネ2:13〜22
 四旬節の3主日を迎えました。今日私たちに与えられた福音書の御言葉も真剣なイエスの行為と言葉が記されています。ある意味語弊のある言い方かもしれません。一体真剣じゃないイエスの行為と教えとがあるのか。しかし私がここであえて真剣と言ったのは、この世的な視点、この世界を中心にした考えや見方、人間的な考えに基づいてみるならば、今日の福音書でのイエスの行為とその発言はまるでそれらとは衝突するかのような真剣さ厳しさを持っている意味で、今日のイエスの記録も真剣なものであるといった意味であります。イエスは当時ユダヤ人たちが大切に守っていた神殿で、人々の見方からすれば不思議なことをしました。不思議と言うか彼らの目に圧倒されるようなもの、あるいは今の時代でも人間を中心にした道徳的・倫理的な観点によれば、イエスはなぜこのようなことをしたのか、なぜ暴力、怒りのように見えることを行ったのかと、そう見えてそう語られてしまう箇所かもしれません。

 イエス・キリストを礼拝する私たちはそういう視点は少し下ろしといて、むしろ私たちに救いを示した救い主イエス・キリストがなぜこのようなことをあえて行ったのか、そして聖書の物語の成り行きとしては、この事を行った故に当時の権力者、権威者たちとの対立が著しく深まり、結局イエス・キリストの十字架の死を招いてしまう決定的な出来事をイエスはなぜ行ったのかということに視点を置いて、つまり私たちの信仰により中心的な視点をおいてここのイエスを見つめたいと思います。

 かつてイエス・キリストはこういう言葉も話していました。別の福音書に書かれている言葉であります。「誰も二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなた方は神と富とに仕えることができない。」「地上に富を積んではならない」とイエスキリストは教え、「富は天に積みなさい」とマタイによる福音書において教えてくださいました。もちろん福音書は違ったとしても私たちはイエスの生涯とその教えとが一貫しているということ様々な箇所から確認することができると思います。今日のイエスの行為を理解するために、このマタイによる福音書の御言葉も参考にした次第であります。

 私たちに一つ真剣な問いを思い起こしてみましょう。神様を、イエスキリストを礼拝しようと集まった私たちへ。一つのイエスの御言葉に照らし合わせて、私たちはこの地上の富よりも神に仕えることを親しんでいるでしょうか。私たちはイエスが求め教えてくださったように「一方を憎んで他方愛するか、一方を軽んじて他方を重んじるか」のように、結局のところ、この世の富や成功、自分を囲むこの世の様々な事情によりも、神様の方を選んで礼拝しているでしょうか。私はこの問いに関する答えとして、この「神殿清め」とよく言われているイエスの行いと教えに向き合いたいと思います。私たちには厳しく思われるような選択かもしれません。心では神様を信じ、礼拝をしていると言いながら、実は自分が気づいていない、自分の認識が届いていない場所において、私たちは繰り返し繰り返し神様よりはこの世のもの、自分のものを優先してしまって生きてこられている私たちかもしれません。ただ厳しそうなことを思い出すためにこのことを思い起こしているわけではありません。

 イエス・キリストがあえて神殿でたくさんの人々が嫌うようなことをしてまで、そしてそうしたことによって十字架の苦しみと辱めを受け入れようとしたそのイエスの行い、それが示すものは私たちにとって何であるかということに向き合うために思い出してみた次第であります。

 実は今の私たちの時代と比べれば、厳しさにおいても生活習慣においても民族の背景とその伝統そして律法を常に抱えて生活していたこのユダヤ人たちでさえも、神様の方を重んじて生きていたとは言えない姿が今日の箇所の中でも記されていると、そう見えるからであります。彼らは確かに私たちと比べればはるかに厳しい規定の中で、きっと礼拝をするためにも沢山の準備と厳格さを持って礼拝していたはずです。彼らさえも実は神様よりもこの世の富を重んじていたような姿が今日の出来事です。今日の神殿の中で見える人々の姿であります。

 背景を少し確認してまいりましょう。神殿の前で厳密には、神殿の庭と言える場所においてユダヤ人たちはなぜ鳩や羊や子牛、牛を売り、そして両替をする台を置いて両替をしていたでしょうか。ユダヤ人たちにおいては伝統的に成人の男性ならば年に3回ほどエルサレムの神殿に登る巡礼を行って、神様に礼拝をすることが決められていました。今日の聖書の一番最初に、「過越祭が近づいたので」と書いてあります。ユダヤ人にとって最も大きな祭りの一つである過越祭を迎え、その時期に人々は遠くからも近くからもエルサレム神殿に来て礼拝をする彼らの信仰生活、大切な伝統であります。礼拝のために、動物を犠牲として捧げていたのが当時の礼拝でありました。遊牧民族であったイスラエル民族、自分たちが持っていた家畜の一部を、しかも傷のない良いもの、初めて得られた初子を 捧げることが 神様に対する礼拝の大切な行いとして守られ、命じられていました。しかし想像してみると、そして人々が伝えてくれる歴史的な背景によると、遠いところから巡礼して来る人々が捧げるための家畜を連れてくる、持ってくることにはきっと困難があったことでありましょう。  そういう背景もあったことから、神殿の前でその人々のために家畜を用意する、犠牲の捧げものを用意する、それを商売とする人々が生じた背景。私たちもこういうことを考えたら、私たちの世の中の動きからして想像しやすい現象ではないかと思います。ある意味そこにおいても「需要と供給」と言える経済的な事柄が現れたことでありましょう。しかしそれと共に、本質からどんどん離れていく人々の姿がここに現れているのであります。それを商売とすることはもちろん、それをわざわざ用意してそこから利益を得る人々の姿が現れることであり、実は神殿を管理する人々によってそれが許可される必要もあったことでありましょう。まとめるならばいつの間にかその神殿の前の区域において犠牲のささげものを売っていた人たちいっぱいになっていたその成り行きは、人間の合理的な意味ではこうなるしかないような成り行きだったかもしれません。私は合理的と言いました。ささげものを用意することが困難な人々が神殿に入る前にささげものを買って入るという合理性がここにあります。  その商売を認めることによって神殿を維持したり、神殿のための経済的なお金を蓄えたり、そして祭司や偉い人たちの利益にも繋がったりする合理性と利益がここにありましょう。合理性を中心に考えたら、これは理にかなっていたことではないでしょうか。しかし今日のイエスの出来事は、この神殿の前では少しも人間の合理性を優先し、それが混じってはいけないこととして、そこで商売をしていた人を追い出し、彼らの道具を運び出せと極端で過激な姿にも見える行いを示したイエスであります。なぜでしょうか。

 私たちはここでのイエスの御心を理解するために、イエスの言葉から示されている「この場所」(神殿)について正しい認識を持ちたいと思います。イエスはこの場所を「父の家」と呼んでおられました。別の福音書によれば(ちなみに四つの福音書を全部が記録しているこの出来事は重要な出来事でしょう)、「祈りの家」とも呼ばれている神殿なのです。この神様、礼拝する家、祈りの家には、いかなる人間的な合理性、利益、互いに良いとされるいかなる条件においても、神様の御前で 混じってはいけないということをはっきりと示してくださった、それが今日のイエスの「神殿清め」と呼ばれる今日の福音書のメッセージです。

 今日の旧約聖書の日課は、有名な十戒が授けられる場面であります。そして今日の福音書で過越祭が近づいたという時間的な背景は、実はイスラエルの先祖たちの出エジプトの出来事、そして十戒という律法が与えられた出来事を記念し祝うための過越祭でありました。しかしそれを祝う人々の姿はそこから真逆のように背かれていたことを私達は気付くべきであります。ユダヤ人たちはきっとこの律法、十戒を厳しく守ろうとしたことでしょう。厳しく守っていると自負していた彼らかもしれません。しかし肝心な神様を礼拝する場所において、彼らは商売を行っていた。そこで人間の富、富のための働きがなされていたということは十戒の中でも一番大きな掟である「わたしの他に神があってはならない」という戒めを既に犯している姿と言えます。神様ではなくて人の富を、それを営む行為として行っていたからです。その富のための行為によって、「わたしの他に神があってはならない」ことだけではなく、その富をまるで神以外の像のように拝んでいるともいえる人々の姿、神を礼拝するにおいて神の名をみだりに用いてしまう罪、安息日を聖してるのではなくて、  神を礼拝するその時間に置いてある人々は自分の利益を生み出す「仕事」をしていたと言える…。神様に対するあらゆる掟を犯してしまう姿が、実は神殿の前で商売をしている人々の姿から見えるものです。

 羊や牛や鳩を売っていた者、両替をしていた者とは一体誰だったでしょう。こう言い換えることができるのではないかと思います。そこで商売をし、両替をしていた人たちは、神殿に来て神に仕えていたのではなく、自分に仕えていた者であります、神を拝んでいたの者ではなく、自分の為の仕事をしていた者、形としては私たちとは比べられないぐらい厳しさと厳格さをもって生きていた人たちもこのように間違った信仰的生活、誤った信仰的な行為をする罪人であることを私たちは反面教師として見ることができる今日の福音書の出来事ではないかと思います。だからイエスは敢えて怒られたのであります。敢えて人間的には過激に見れる行いをもってそのようなものを排除しようとしたものです。一点の不純な交じりさえも、神が臨在する場所で、礼拝するその場所においては許せないことだったからであります。このイエスの決然さと厳しさ、完全な信仰の姿、私たちは振り返りたいと、これに当てはめて悔い改めたいと願う部分であります。

 だから主イエスは彼らの前で「この神殿を壊してみよう」と宣言されました。これはこの箇所に限られるイエスの言葉ではなく、聖書全体を貫く信仰的な宣言だったのであります。もちろんこれを聞いていた人々は嘲笑ったでしょう。46年かかって積み上げた神殿をあなたはたった3日で壊し、建て直すのかと嘲笑ったでしょう。しかし後で弟子たちの思い起こしによれば、これは目に見える石を積んだ神殿を指していたのではなく、ご自分の体を指していたであるとの思い起こしを記録した形のヨハネによる福音書です。今日の箇所においてもこのイエスの福音を正しく受け入れるための鍵は「イエスの十字架の死と復活」であります。ここでイエスが言われた神殿とは、もはや石を積み上げた形の神殿ではなく、生き物、動物を犠牲として捧げる場所としての神殿ではなく、まさしく自分自身であるということがここにおいて宣言された。弟子たちは当時理解できなかったものでありましょう。別の言葉を思い起こして、イエスは熱意が強すぎてその反響でご自分の体を食い尽くされるような悲劇がこのように与えられるのだろうという昔の言葉(詩編)を思いしたという感想、気づきも書かれていました。


しかしさらにその後には、このイエスの宣言と行為がもっともっとすごく大きい意味であることを気づくことができたことです。ここで「壊す」ものは人間の間違った信仰行為と神殿であって、新たに立て直す神殿とは、ご自身の体、つまりイエスであること。別の聖書の言葉も解き明かすように教会はキリストの体であること。聖書を貫かれている大切な信仰的恵み、新たな信仰的定義がこの出来事を通して示されたのです。  当時の姿として厳格なユダヤ人たちにはなかったもの、しかし今の私たちにはあるもの、それはイエスキリストという新しい神殿です。当時の人々には気づかれなく、受け入れなかったもの、むしろ拒まれたもの、裁きの原因となったもの、しかし私たちは恵みと救いのしるしとして示されているもの、それがイエスキリストの体、十字架とそこからの復活なのであります。イエスは、誤って目に見える犠牲や捧げもののために神を礼拝をし、本当は自分自身のための誤った信仰ために、これから神殿を壊しあえて十字架の道に歩まれました。その尊い苦しみがイエス・キリストの十字架の道。私たちが信じるために与えられた唯一のしるし、救われるために救いの道にたどり着くための唯一の道と導き、それが私たちにおける十字架のなのであります。

 私たちは生活の厳しさや私たちの心の厳格さによって神様を選んで重んじ、愛し、この世のものを憎むようなことは正直これからもとても難しい私たちかもしれません。しかしまさにそうである私たちのために、これから永遠に私たちの礼拝の犠牲として主イエス・キリストが十字架の上で代わりに捧げてくださったご自身の体により、私たちはそれを通して礼拝すること、それが私たちに示された新たな神殿、新たな礼拝の場所なのであります。どうか私たちに示された十字架だけは失わない忘れない私たち、私たちの教会でありますように切実に願いたいものです。これが私たちの救いのと命のしるしだからです。今日の第二の日課が示しているように「十字架は滅んでいく者にとっては愚かなものでありますが救われる者にとっては神の力」だからであります。私たちは信じる人々にとっての救いの唯一の力である十字架をこの世に奪われるような愚かさではなく、神が私たちの救いのために与えて下さったこの十字架をこれからも抱えることができるようにちょうど先週の福音書の日課であったように、「私の後に従いたい者は自分を捨て十字架を背負って従う」  ことができるように、私たちの礼拝においてはそうすることができることを共に覚え、その道をこれからも私たちの教会として続けたいと思います。先週の言葉の中にありました。「自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが、私のため、また福音のために命を失う者はそれを得るのである。」私は自分の思いによってではなく、イエスが示した福音によって断言いたします。私たちが自分の努力や自分の行いや自分が捧げるものやその他あらゆるものを通して命を得ようとするならば、私たちはかえってそれを失うでしょう。それが十字架に秘められた神の知恵なのであります。しかしイエスの十字架を見つめ、その十字架のイエスに頼ることで実は私たちは最終的な命を得、自分を清めることができます。それは私たちに示されている十字架によるものであると、イエス・キリストの受難の道と福音を通して示された信仰により断言できます。私たちが自分の力で自分の知恵を持って得ようとするものはことごとく、私たちを大切な救いから遠ざけさせ、失わせるでしょう。私たちがただ一つ、失わず守るべきもの、それは私たちのために示されたイエス・キリストの十字架であること。  それが本当の意味での清めと救いの約束であること、今日のイエスの行いと言葉から受け入れたいと願います。


大丈夫、信じて委ねよう

2021年2月28日(日)四旬節第四主日礼拝説教要旨
創世記17:1〜7、15:16 詩22:24〜32 ローマ4:13〜25 マルコ8:31〜38
イエス・キリストの受難を覚える四旬節2週目を迎えて、今日私たちに与えられた福音書のイエスの御言葉は、おそらく私たちにとって最大の難関のような言葉だと思います。なぜそうなのか、福音書の中でイエスが語る言葉を注意深く聞いた人は感じているものだと思います。「わたしの後に従い者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」こう言われているからです。

 「神様を信じれば幸せになるのではないの?」、「いいことが起きるのではないの?」。こういう単純な期待(これに似たような姿勢)はこの言葉の前で不安や疑いに変わり、神を信じることは一体どういうことなのかと改めて考えさせるものかも知れません。もしくは、今日の厳しいイエスの言葉はとりあえず置いておきたい、もしくはこれは初代の弟子たちに当てはまる言葉だろうと、ここから逃げたい気持ちになるかも知れません。

 それは、人間的には決して可笑しくないと思います。私たちはこの世で、できる限り自分と大切な人々の命を守り、できれば幸せに生きることを概ね目標にしている人からです。実はイエスの第一の弟子ペトロさえもこのイエスの言葉には反発しました。マルコによる福音書の中では、ご自分の受難と死をここで「初めて」、「はっきりと」教え始めたイエスに対して、ペトロはいさめ始めました。「いさめる」。私としてはあまり馴染まない言葉だったから意味を確認しますと「主に目上の人に対して、その過ちや悪い点を指摘し、改めるように忠告する」意味でした。つまりペトロはイエスに対して、自分が従う師であるから、畏れ敬う様ではありながら、イエスの受難の予告に対しては「それは違う」、「そうあってはいけない」と逆に忠告しているのです。人間的にはペトロの心情が理解できるどころか、こう語るイエスの方がおかしいと感じるかも知れません。この世の人間的な立場で考えるときにそうだと思います。もっと厳密に言うと、この世で何とか生き延びること、長生きすること、安楽に、豊かに、気高く生きることを目標にする立場ではこうなることだと思います。  ここでイエスが「はっきりと」教えたのが、この世の幸せとはあまりにも極端に相反するものだからです。

 今日の福音は結構難しいと思います。言葉の意味が難しいか?言葉的にも多少、難しくはあります。「自分を捨て」、「自分の十字架を背負って」従うというのがどんな意味なのか、確かにちょっと難しい印象ではあると思います。でも理解不能なくらいではありません。文字的にはそうです。「自分を捨てる」とは、自分の意志ではなく、神、イエスの意志に従うという意味です。「自分の十字架を背負って」とは、イエス・キリストの十字架も思い浮かぶことですが、まず単純に置き換えると、一番残酷な処刑として十字架刑を宣告された囚人が、自分がつけられる十字架を背負って刑場まで行く姿。つまり「殉教の覚悟で」、「死ぬ覚悟で」と置きかえって間違いではありません。文字的に解いて置き換えればこうです。

 この言葉が私たちに難しく迫る理由は、文字的な意味が難しいからではないでしょう。私たちの心情的に受け入れたくない性格の言葉だからです。というのは、(よっぽどじゃない限り)私たちはこの世の人だからです。私も告白します。所詮この世の人間だからという遠回しのような言い方でもなく、死にたくないと思おう人間だからです。死ぬところか苦しみさえも、できれば生活のために当然伴うべき苦しみさえも軽くなって欲しいと期待してしまう人間だからです。そういう人間であるゆえに、私は今日の言葉が皆さんに感化される形で伝わることを、ある意味諦めてお伝えします(実はいつも感化されているのでもありませんが)。今日は、なぜそうなのかという問いに対して答えを探す形としてこのみ言葉に向き合ってみたいと思います。

 なぜ(多くの)私たちにはこのイエスの言葉が難しい(または厳しい…)のか。答えはすでに言ったようなもので、私たちが今この世の人間だからです。当時のペトロもこの世の人間だったからです。死にたくない、死にたくないどころか上手く生きたい、できれば心配することなく、物質も多く与えられ、人々と比べて気高く生きたい人間だからです。福音書の別の場面で弟子たちが将来、自分たちの中で誰が一番偉くなるかと言い争っていたのを思い出してください。私たちは聖書から、弟子たちの前半の姿から、いかにも愚かでいかにも弱く感じがちですが、実は弟子たちの姿って私たちが日常の中で普通にやることです。自分の先生がある権力に捕まって殺されるところで逃げない人がどれくらいいるでしょう。自分の先生は誰よりも高い、メシアだと喜んで信じる中で、では自分の先生にもっと近いのは誰だ、誰がもうちょっと偉くなれるか…。実は私たちの方がもっと生々しく人と人とを比較し、場合によっては目に見える立場を争い、場合によっては露わにならない心の中で誰が上なのか、どっちが優越なのかと比較し、計算しています。  そして多くの場合、物的にもしくは心的に、  自分の方が上になりたがるのがこの世の人々、私たちではありませんか。

 答えは、こういう私たちだから「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とのこのイエスの命令は好きにはなれません。しかしイエスが与えようとしているのは、これからイエスが導き、連れていこうとするところは、私たちが富と名誉を得て安楽に長生きできるところではないからです。体が快楽に平穏に満たされる場所ではないからです。実は、イエスが連れていこうとするところはそういう人間が望むところではなくて、天国だからです!体が長く健康に、喜べて生きたとしても、いつか死ぬことに変わりはありません。巨大でも、高価でもそこが墓であれば、死んでそこに置かれても死んだ人は認知できません。満足することも死んでからはないと思います。主イエスが指し示し、導く場所は、私たちの体が行くところではなく、死んでも消えない私たちの魂が行くところだからです。

自分の十字架を背負って従えと命令する言葉の続きは、実はもう少し分かりやすく形で私たちの心を紐解いているかもしれません。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」私たちも命が失ったらすべてが無意味なのを死んでなくても知ります。命はどんな代価でも、まさかお金で買い戻せないことを知ります。だから死んで滅びる道ではなく、生きる道に行くようにイエスはこのように教えています。ただし体が生きる命ではなく、私たちの命の源である魂が生きる道です。復活の命です。この時点で、これから主イエスが先に向かう道は、ご自分を憎む権力者たちによって苦しまれ死に、復活する道です。弟子たちに、そこに従って来られるように、世の虚しさ、この地上に限られる軽くて浅い喜びへの誘惑、偽っていずれ滅び、実は現実的にも手に入れようと藻掻いてもなかなか得られずむしろ苦しませる世の誘惑と罠を捨てて、そこに自分の命を懸けず、生きる道へと従えと命じているのです。それが、イエスが示し、伝えている「命」です。

この世の立場で聞くとき難しくてそこから逃げたいように思わせるイエスの教えの鍵は復活の命です。文字的に、知識的に理解できる概念でないかも知れません。でもその命中心(永遠の命)に考え直したら、私たちの浅い期待、それのための日々の藻掻きは、朽ちない永遠の命に比べていかにも儚く、空しいもの、一時的で限られるものなのかと気付くかもしれません。世の文字的な知識じゃなく、私たちの心が悟れる真実が近づくかも知れません。

   私たちは、今日のメッセージの厳しさに圧倒されて、私たちの期待に反するような文字に圧倒されて、こう伝えるイエスを誤って認識しないように注意すべきです。この部分の文字とそのイメージに縛られればイエスに従う、信じることがただただこの世を否定し、不幸を担うことに見えてしまいます。この部分だけとって見ればそう見えます。しかしイエスは命を与えよう、命に至らせようとこう教えています。命に至らせるために、ご自身は「必ず」苦しみを受け、死ななければならない決然さと切実さがここにあります。むしろ私たち、この世人を抑圧するのは、これからイエスを苦しめ、殺す、この世の権力と上辺です。まさに暴力です。実は暴力的な中身と本質が私たちを騙し、富の形で、利己的な安楽の形で、権力と名誉、人より上になろうとする形で世人を誘惑し、支配していることを知るべきです。

 今日のイエスの命令は、私たち信じようとする人々みんなに対して与えられた言葉です。「あなたはメシアです」と信仰を表明した人に向けられた言葉です。イエスの後に従いたい者、誰にでも向けられている言葉です。言うならば、言葉として思いとして信じたその信仰が本物であるために、「十字架を背負って従う」ことが求められています。それは私たちの信仰が本物であるためです。世の偽りよりも尊い命の方に属するためです。そしてその尊い命は自分の力によるものではなく、神のもので、与えられるものであることを信じるためです。信じるゆえに、信じさせないものを捨てることです。自分の力では得られないものを自分の力で得ようとすれば失います。しかしそれを与える神のため、イエスのため従うことでそれは与えられます。「自分の命を救いたいと思うものは、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」はそういう意味ではないでしょうか。

 最後に信じようとする私たちに希望を与える物語、今日の旧約の日課と使徒書の日課で伝えられているアブラハムを思い出したいと思います。「あなたは多くの国民の父となる。」全能の神の約束です。アブラハムはこの約束を信じることによって、神に従う、全き者、正しい者とされました。これが鍵です。これが答えです。「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。そこころ彼は、およそ百歳になっていて、すでに自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。」信仰は、信じる人を、その歩みを強めるのです。「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。この命令は厳しく、重苦しく聞こえますが、私たちの救いのために御子を遣わした神は、私たちの命のために先にこの世の命を捨てられたイエスは、私たちが従えるように助けてくださることも信じるべきです。

神様は助けてくださいます。「神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱られたペトロも、主イエスに叱られたのであって、主イエスとの絆が断絶されたのではありません。その絆は主イエスの死の前で、人間の弱さで、イエスを知らないと否認してしまっても断ち切られなかった絆です。信仰は強められます。アブラハムのように約束の実現へと進めさせます。それが神の導きと認めです。信仰です。だから信じて委ねましょう。自分の思いよりも、福音の約束を信じましょう。この世に縛られる人間的な思いが信仰を否認させることのないように、神の前では自分の思いを下ろして大丈夫です。むしろそうすることが天国への道です。


誘惑の勢力からの解放

2021年2月21日(日)四旬節第1主日礼拝説教要旨
創世記9:8-17 詩25 ペトロ一3:18-22 マルコ1:9-15
「わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」「わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。」

今日の旧約の日課の中に記されていた神の言葉です。地上のすべての生き物が、四十日四十や降り続いた雨によって滅び、しかし神に従う無垢な人、ノアとその家族は予め神の命令によって箱舟を作り、そこに入って地上の滅びから救われた後の場面です。そしてこのノアの箱舟の中に入って生きた他の生き物も滅びから救われました。やがて雨は止み、乾いた土が現れる間、ノアが飛ばした鳩がオリーブの葉をくわえて帰って来るしるしを見る時を経て、ノアと家族、箱舟の生き物は乾いた土に出ることができました。再び地上に生きることができました。そこでノアは祭壇を築き、神に礼拝をささげ、そこから神に祝福されて言われた言葉が今日の旧約の日課。契約のしるし、虹の話です。

スケールの大きい神話?虹の約束をもって祝福される美しい童話?そういう視点で見ても十分魅力のある話だとは思います。ただし、この物語がもつ面白さや浅い教訓がこの伝承の本質ではないと思います。この壮大な物語は、霊的で信仰的な意味で、この世界、世界の悪、それに対する神の裁き、そこからの救い、新たな神の約束と祝福を物語っています。設定とストーリの面白さだけがこの物語の中心ではありません。本来のこの世界と命に戻ること、それらを創造し、支配する神を思い起こすための物語です。

「命ある肉なるものが、二度とすべて滅ぼされることはない。」この神のメッセージは、この世界に対する神の真実な約束として受け止めていいと思います(そう受け止めるべきです!)。ただし文字と人間的な思いに縛られ、浅くて利己的な、自己中心的な疑いの目線では、この約束の真実さと素晴らしさは見えてこないと思います。実はこういう態度では、聖書のどの記録からも何も見えてこないと思います。聖書は神との関係、絆に対する記録だからです。この物語のメッセージもそうです。書かれている単語からも、これは「契約」の物語、つまり神との関係の物語です。「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。」「わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」

そもそもなぜ洪水による滅びが起こったのか。その世界が神と断絶された世界だったからです。堕落し、悪に満ち、神は人を造ったことを後悔し、心を痛められたからです。神によって創造された世界は、神との断絶が滅びであり、死です。アダムとエバはなぜエデンの園から追放され、堕落したでしょうか。悪の誘惑に屈服し、彼らが神に背く選択をしたからです。それが神なき人間と世界の由来。

それに対して神ありき人、つまり神を信じる人には、ここから大きい霊的な絆と祝福が示されています。神とつながる人に、神に従う人に完全な滅びはもうない。皆さん、旧約の物語だからと言って、これがどの時代に当たる物語なのかよく分からないからと言って、そもそもこれは事実だったとは認めがたいと言って、よくある昔話のように聞かず、この物語が伝えるメッセージに向き合ってください。この物語の中で、神は、神と契約を立てたノアとその子孫に、二度と完全な滅びはないと約束されています。依然として悪と誘惑に満ちているこの世界かも知れませんが、私たちの歩みもそうかも知れませんが、神と絆を守り、神に従う人に滅びはない。神がいるという信仰。神がいるという信仰にすでに神の裁きもあるはずですが、しかし神とつながる命に滅びはなく、神による救いと命があること!私たちにとってもっとも根本的な霊的な約束、土台です。これはどんな信仰的なメッセージともつながる究極な、信仰の土台ですが、この世の試練や苦しみ、誘惑に囲まれている場合は力強い助けと導きになると思います。神とつながる人は滅びない。たとえ死んでも、命の元である霊は滅びません。 この、滅びない救いの実現を、ペトロは今日の手紙、使徒書の日課の中でこのように解き明かしています。「キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」それがイエス・キリストです。神とつながる者は二度と滅ぼさない約束は実現されました。神が御子をこの世に遣わしたことによって実現しました。神の救いの究極な実現です。そのイエスの記録を私たちは今日、再びマルコによる福音書1章から聞きます。


 「神の子イエス・キリストの福音の初め」から始まっているマルコのイエスに対する記録の中で、今日の本文は、イエスがヨハネから洗礼を受けたこと、荒れ野で誘惑を受けたこと、そしてガリラヤで宣教し始まれた記録です。三つのことが伝えられる三つの段落。同じことを報告し、描いている他の福音書の記録と比べれば非常に短く、説明や描写はほとんどないと言っていいほどの簡単さです。ヨハネの洗礼にしても、荒れ野での誘惑にしても、他の福音書を参考にした方がもっと詳しく、豊かなメッセージになりそうな印象もあるかもしれません。しかしマルコにはマルコ的な味が、強調点があることでしょう。それを味わい、受け止めるのが、一つの報告ではなくそれぞれの福音書を読む意義でもあると思います。

 今日の福音書の記録から私たちは、まず文学的に分析するならば、この世に、私たちのところにもっとスピーディーに、直接来られるイエスを感じられるのではないかと感じます。ヨハネから洗礼を受けられる前後のもうちょっと詳しい記録を参考にしたり、悪魔の誘惑とその意味についてもっと詳しく向き合ったりしたい時は他の福音書からそう読み取り、神の子でありながら人の姿で現れたイエスの究極な業、治癒などをもっと早く、数多く読み取られることがマルコの味と言えます。ペトロの言う如く、「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」、このイエスがこの世界のために、私たちの救いのために「来られた」ことにもっとストレートに注目し、究極な信仰的結論を明瞭に感じ取るのが、マルコを通して福音に触れる味だと思います。ここで強調されるのは、イエスがヨハネの前に現れるもうちょっと詳しい背景よりも、悪魔がどんな誘惑をもってイエスに挑んだのかというよりも、これらの道を経て、イエスが人々にすでに「来られた」ことです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

 時はもう満ちたのです。神の国と救いはもう近づき、イエスを通して示されたのです。だから必要なのは私たちがそこに入ることです。そのために私たちに求められるのは、「悔い改める」こと、「信じる」ことです。それが肝心なものです。ある信仰の先人はこのように言います。「私は律法書も読み、預言書も読み、詩編も読みました。しかし福音書以外にどこからも『神の国』という表現を見つけることはできませんでした。『神の国』は主イエスの来られてからこそぱっと開きました。」

 イエスはこの世のために来られ、模範を示されました。その模範とは神との和解と繋がりために洗礼を受けること、そして誘惑に打ち勝つこと。そしてまっすぐに人々の中に、私たちのいるところに来られたのです。まっすぐに来られ、教え、癒し、この世で「一度苦しみ」、死なれました。このまっすぐなイエスの歩みが私たちに求めることは、早くイエスの道に加わり、信じてつながることです。信じてつながるためには、神を信じさせず、背かせるこの世の誘惑から立ち返ることです。弱い私たちだから度々誘惑と罪に負けそうな私たちですが、神との絆を手放さないことです。誤ったら正し、忘れては思い起こし、離れたら戻ることです。それが悔い改めです。この世の誘惑の勢力、そしてその勢力が引っ張っていこうとする滅びの道から離れることです。聖書における「悪魔」の意味は「神から引き離す者」です。「罪」の意味は「的外れ」です。この世の誘惑の働きの目標は、本来の神の創造と救い、「神の国」への道のりから私たちを外れさせ、引き離すことです。そこから引き戻すために来られたのが神の子イエス、そのイエス・キリストの福音です。滅びから生きる方向への転換です。 それが信じること、悔い改めることです。明瞭な結論です。私たちに明瞭に迫り、明瞭に求められるものです。

 もう一つの信仰の先人の言葉を聞いて今日のお伝えの話を閉じましょう。「リンゴの甘さは根っこの苦さに報います。お金を稼ぐ希望は海を渡る危険を喜んで受けさせます。健康になる期待は薬の苦さを飲み込ませます。実の中身を求める人は殻を破らなければなりません。そのように、聖なる良心、魂の喜びを求める人は悔い改めの苦みを飲み込むべきです!」

 悔い改めることは、私たちが悔い改めに入ろうとする瞬間の苦さや痛さ、心苦しさより、それらとは比べられない良さをもたらします。それは本来の命の姿に戻ることだからです。体にたとえるなら回復であり、浄化です。悔い改めることは、どんな時も求めるべき信仰的動作ですが、四旬節の教会の歩みを始めた私たちにさらに強調され、求められる、神の国への求めです。

私たちの命は滅びません。滅びに向かわせる霊に私たちの命を丸ごと手渡し、麻痺されるほど屈服しない限り滅びません。試練と困難はあっても、誘惑があっても滅びはしないことに決まっています。神が、神とつながる人をそう定めたのです。だから神の絆の中に立ち返りましょう。


姿は変わる

2021年2月14日(日)主の変容主日礼拝説教要旨
列王記下2:1〜12 詩50 コリント二4:3〜6 マルコ9:2〜9
2021年の主の変容主日を迎えました。主の変容主日は顕現節の最終主日であって、その次の週の四旬節(受難節)につなげる主日です。教会歴の流れと順番としてはそうです。そして福音書の記録においても、主の変容を記録している三つの福音書の中では、イエスがご自分の死と復活を知らせた数日後(マタイとマルコでは「六日後」、ルカは「八日ほどたったとき」)にイエスの輝いた姿について報告しています。つまり、主イエスの変容は、これから主イエスが世で苦しみを受けられる前において三人の弟子たちに、光に輝くご自身の姿を見せられた出来事です。この流れには意味があることでしょう。これから弟子たちが目にするのは、自分たちの師であるイエスの悲劇(人間的な目では)。しかしその受難の道、悲劇の方に進んで行かれたイエスは、輝いておられた方、「神の光」であったことを思い出させるためであったのです。  山の上で、三人の弟子たちに、世の中で目にするどんな光よりも真っ白に輝くと描写されていた(このようにしか描けなかったでしょう)イエスの、の不思議な出来事のメッセージはこれです。世の罪人に代わって、罪の呪いと罰のため十字架を担い、十字架で死なれたあのイエスは神の光に輝く方であったこと!実は神の輝きである方、光である方が、その光を秘められてこの世を苦しみ、十字架の死に向かって進まれたこと!そしてそれは、世の罪人(私たちを含む)のためにそうされたことであり、罪と死を滅ぼすためであったこと!神の光が本質である方が、これから受難の道に進まれることを伝えているのです。これが、まず福音書の文面から受け止められるイエスの変容に対する真意です。

 この出来事を目撃したのは弟子たちの中でも三人だけ、ペトロ、ヤコブ、ヨハネでありました。なぜこの三人だったのかは分かり得ませんが(それはイエスの選びだから)、私たちがこの出来事のメッセージを正しく理解するための前提のようなものは必要かもしれません。なぜならこれをただ文字的に読んで理解するとき、これは間違いなくあり得ない話か、作り話、その辺りのどちらかになるからです。福音書はまじないの記録ではありません。ファンタジーでもありません。空想や人間の表現によるイエスの神格化でもありません。だいたいこういうのが聖書の本質だったならば、聖書は大昔この世の中から消えていたと私は思います。そこに存在し続ける力が、「命」と言えるものがないからです。  信じる人にとって、聖書はいつもこう読まれるべきですが、聖書は霊的な記録です。聖書の他の部分もそうであって、これは霊的に読まれなければ意味がない記録です。「霊的に」というから、私たちの現実とは違う、関係のない、かけ離れた事柄だという意味ではありません。「霊的に」というのは、私たちの肉眼の目で察知できる事柄よりも本質的で、秘められている原動力に関する事柄です。  確かに言葉に言い表しにくいことではありますが、これは霊的に、イエスがどういう存在であったのかを伝えている記録です。福音書はイエスの姿がただ変わったとは言っていません。どこそこの誰の前にでも光輝いたとも伝えていません。ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登り(それは間違いなく祈り、祈らせるために人々から離れていかれたのでしょう)、彼ら三人の目の前で変えられた姿をお見せになりました。イエスの神聖が彼ら、選ばれた人々にまみえたことです。このまみえの前提のようなものを敢えて言い表そうとするなら、イエスの神性はどこそこ誰の目にでも見えるものではないことです。さらに言うならば、神の臨在は、誰にも感じられる肉的な出来事ではないことです。信仰的な、霊的な事柄を単なる肉的なレベルに当てはめるとき、肉的に解こうとするとき、間違いなく神と神の事柄は姿を隠します。信じようとしない人にとって神は見えないと思います。魔法が本当に起きたのかどうかと確認しようとしても魔法の神はいません。信じない人にはそうです。これが当然のような、前提と言えば前提です。

 話しは戻ります。イエスはご自分の神性、神の光である本質を、ご自分が選び、従わせた弟子三人に現しました。イエスによって招かれた人たちです。これから人として死と悲しみを迎えるイエスを見る人たちです。その後、復活の主に出会い、私たちの教会の土台を築いた人たちです。 神の子イエスの神性を直接体験したのは彼らですが、彼らの証言と証を通して、この世に現れて一度死なれたイエスはどんな方であるかが、この世界に知らされました。もちろん彼らを通して知らされるイエスを知ることも信仰によるものです。これも前提です。 皆さん、福音書と信仰の先人が告げている聖なる証を信じることにより、本来は神の光である方、そして人として私たちのために現れてくださったイエスを知る皆さんとなってください。私たちの肉の目に見える光ではありませんが、神の光はこの世に現れ、示され、私たちの先人の目に垣間見られました。それは闇に打ち勝つ、死を超える神の救いがこの世に届いたことを信じさせるためです。 私たちの世界に光が届いたのです!神様が遣わし、現せた神の御子が来られたのです!それはペトロらが山の上で目にしたように、以前神に召された者、預言者を通して伝えられていた神の預言の実現です。モーセとエリヤと代表される、この世に預言され、示されたことに繋がる、神の決定的な働きです。これを知る者になりましょう。これを知るために、信仰の先人と聖なる福音書が告げるのを信じる人になりましょう。これらも神の働きと導きだからです。比喩するならば、聖書と信仰の先人の言い伝えを信じることは、まるでイエスに従って高い山に登るようなことです。この世と人々から離れ、神と神の御子と神の霊が導く高い世界に登っていくことです。神の導きを見ようとしない低いところに留まらず、従ってゆくことです。それは祈りです。礼拝です。み言葉との向き合いです。そうやって神に向かって登ろうとする者に神の福音は許されて与えられます。 今日の第二の日課の言葉です。「わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。」神の導きに従って「登る」者に神の救いを信じて、知ることは許されています。それは、信じようとしない人々が、くらまされた心の目によって語ることとは違う世界です。彼らの目にイエスはいないはずです。アウグスティヌスは言いました。「肉身の目に太陽があるならば、信じる人の心の目には主がおられる。」

 神様を信じ、神様により頼み、神様の導きを受けようとする皆さん、神様と私たちを隔てる覆いのようなものが取り除かれることを祈りましょう。その覆いが取り除かれるように許された者は、以前はモーセのように神のみ顔を仰ぎ、エリヤが天に上げられることを見ました。それは空しい幻ではなく霊と信仰によるまみえです。そしてペトロらはイエスの輝きを目にしました。 「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」今日、変容主日の礼拝をささげる私たちに示された第二の日課の言葉のように、私たちの中にも神の命じる光と輝きの現われによって神を悟ることができる私たちになりますように。命を覆っている肉体と肉眼によって見えるものばかりではなく、本来神が創造されたものを見ることができる私たちでありますように。  イエスに従った弟子たちの目に、イエスの姿は変わりました。変わったというより本来の姿がまみえました。実際、ここで用いられた「変わる」という意味のギリシア語「ヘテロス」の意味は、「違う何か」という意味と「初めの状態に戻る」という意味があるそうです。弟子たちの服従は、イエスの本来の姿、イエスの初めの姿を垣間見ました。私たちはその証を聞いています。そして神の光である方が、これから敢えて受難の道に進む証をもこの後、聖書から聞きます。聖書の記録に基づいた教会歴と礼拝から聞き取ります。  今日の話の結びとして、神が私たちのためにへりくだられたのをもっとも明確に言い表している証、悟りの言葉を聞きましょう。フィリピの信徒への手紙2章に書かれている言葉です。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」 これが、私たちが神の救いに繋がるためになさった主イエスの人への変容、十字架の歩みです。


主を待ち望む人へ

2021年2月7日(日)顕現後第5主日礼拝説教要旨
イザヤ40:21〜31 詩147 コリント一9:16〜23 マルコ1:29〜39
「新型コロナウィルス」という言葉と概念が私たちの世界の一部となり、いつも言及されるようになってからもう1年が過ぎました。そして私たちの地域と社会、もちろん私たちの教会に影響を及ぼし始めた時期、振り返れば去年の今頃だったと思います。その影響は結局終わらず、私たちの教会は本日の定期総会の日を迎えています。  この世界に、おおよそ1年前から新しく現われ、人々をさらに生きにくくしたコロナウィルスの強い影響を受けている私たちに、今日の旧約の日課、イザヤ書の言葉は語りかけます。「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れる…」。 これは、特定の人々に当てはまる預言ではなく、この世界における目に見える現実だと私は受け止めます。この世を生きる人は必ず、力尽きて倒れます。たとえ若者も、勇士もそうです。一時自分の若さと力を誇る者も、いつどうなるか分からないこの世界です。せいぜい上手く生き続けたとしても、時間と共に気力が失せていくのを避けられる人は、今のところ誰一人いません。  しかし預言者イザヤの言葉が語るのは、昔も今も変わらないこの世界の困難、力尽きることに決まっている人々の運命ではありません。「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが/主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。」 この言葉はおおよそ1年前頃からこの世界のトピックになって、いずれ力尽き、倒れて息絶えることに決まっている人々の命に、さらに、困難と恐れを大きく加えたコロナウィルスの影響の中で生きる私たちに良いメッセージだと思います。当然、大昔のイザヤという預言者が新型コロナウィルスという黴菌を知ったはずはなく、そもそもイザヤが語っているのは、医学的でも、科学的なメッセージでもありませんが、確かに疲れ、恐れているかも知れない私たちに「力」を与える言葉です。しかも疲れて、気力と勇気を失っている人にかなり具体的に語りかけているようい聞こえます。「ヤコブよ、なぜいうのか/イスラエルよ、なぜ断言するのか/わたしの道は主に隠されている、と/わたしの裁きは神に忘れられたと、と。」  神様はご自分の人々を忘れているのではなく、神様の働きは隠されているままのものではありません。神様は疲れている人に新たな力を与え、気力失せている人に勢いを与えます。これは医学的な治療でも、魔法でもありませんが、神様を信じて、望み、神様と繋がっている人々に与えられる力です。神様を信じる信仰が、霊的な目覚めが私たちの命の中で起こされると、私たちの生きる姿の中にも、日常にも、神様の摂理と神秘が働いていることを見ることができます。生きる力、前に進む気力が湧いてくることもあり得ます。困難であった何かが、失せていた気力が回復されることを見ることもできます。なぜなら神様を信じる人は、目に見える状況ばかりでなく、恐れさせ、衰えさせる世の影響ではなく、神によって生きるからです。私たちの命を動かす魂は、神によって造られて与えられ、今も神によって動かされるものであると信じるからです。「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神/地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく/その英知は究めがたい。」

 私は、聖書に書かれている多くの病が悪霊との関連で語られていることに納得します。確かに昔は今のような医学的な分析と技術がなかったから悪霊との関連で語られているとも言えますが、聖書は信仰を教える書物であり、霊的な書物だからです。私たちが聖書から得られるのは、この世の人々への神様の働きと愛の証しであり、信仰だからです。身体的な病気を治療するために私たちは薬を飲んだり、病院に行ったりするでしょう。もしも聖書が何々を食べて病気が治ったとか、何々の薬を飲んで、何々の処方で病気が治ったと書かれていたならば、聖書はジャンルの違う書物になると思います。「聖なる書物」ではなく、神様に対する書物でもなく、人間の記録、それも今の私たちからすれば原始的な人間の記録になるからです。聖書が伝えるのはそれではなく、世の困難と試練、病気、死の定めに苦しむ人間に、神がどのように救いの手を差し伸べたのか、どのように神様を信じさせ、ご自身と繋げさせたのかを記録しているからです。そして神の力に触れ、神を信じるようになった人々があらゆる罪と悪しき霊、働きから解放された記録だからです。

 「主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」向き合えば向き合うほど不思議な、神秘的な言葉です。とりあえずこの旧約の言葉の実現を、私たちは福音書を通して、イエス・キリストとして見ることができます。  今日の福音書の日課、この世に現れたイエスは、ご自分の弟子になったシモン(ペトロ)とその兄弟アンデレの家に行きました。そしてシモンのしゅうとめの病気を癒されました。熱によって動くことができない、自らイエスに会いに行くことができなかった彼女の病床に「来てくださった」のです。イエスによって癒され、力を取り戻した彼女は「一同をもてなした」と書かれています。神様によって「新たな力を得」た人は、この世の歩みを仕えながら生きる人へと変わっていきます。困難と恐れがまとうこの世で「弱ることなく」、「疲れることなく」、神と人々に仕える命、まさにイザヤ書に書かれた神の預言と働きの実現の姿です。  イエスが癒されたのは彼女ばかりではありませんでした。「いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし」、「多くの悪霊を追い出し」、「悪霊にものを言うことをお許しにならなかった」。つまり悪霊の意図通りにさせることなく、人々を悪霊の働きから、創造主、神の働きのもとに戻されました。これらの癒しは、神の子イエスがこの世に「来てくださって」実現しました。そしてイエスはさらに、苦しみ、悪霊に取りつかれている多くの人々のところへ行こうされたのが今日の福音書の記録です。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出てきたのである。」イエスはこのために、この世界に来られたのです。そのイエスを信じ、迎える人々は、神の働きを預言した言葉のように「新たな力を得」、新たな力によって、今日のしゅうとめのように「仕える」生き方をすることができる。疲れと躓きからの解放です。  ここに、救い主イエスの存在と、私たちの教会が目指すべき道、方向が見出されます。私たちは、世の困難と悪霊の支配からイエスによって解放され、さらに多くの人々がイエスに出会えるように「仕える」教会、「祈る」教会であるべきです。祈らなくても成し遂げられたはずのイエスでさえ、人里離れた所で祈りの時間をもたれてからご自分の働きに向かわれたのだから、なおさら私たちは祈り、願うべきではありませんか。それが私たちの信仰の使命でもあります。それは、人々を癒し、救おうとするイエスのみ心に参与するためです。信仰の先人パウロも今日の使徒書の中で言っています。「何とかして何人かでも救うため」に、「福音のためなら、どんなこともする」奉仕の心、福音に与る教会がもつべき心です。

 今日はこの礼拝の後、私たちの教会の総会。私たちの共同体の新たな1年の目標と願いを掲げる日です。1年ほど前から新型コロナウィルスと代表される、新しい世の困難に委縮されているかも知れない私たちの共同体、私たちのためにこの世に「来てくださった」主イエスとまず改めて繋がる私たちとして、私はこのイエスのみ言葉を提案したいと思います。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」(ヨハネ15:5)  枝は木に繋がっているからこそ生きています。生きている木に繋がっていれば、寒くても、渇いていても、たとえ折られても再び伸びます。生きている木の力がそうさせるからです。生きておられるイエスに繋がり、新たな力を得、再生を目指す「生きる枝」を目指しましょう。そしてそれを祈りましょう。私たちの教会に神様が何を望んでおられるか、最後に今日交読した詩編の言葉から向き合いたいと願います。「主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく、人の足の速さを望まれるのでもない。主が望まれるのは主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人」。この世にイエスを遣わされた神様が私たち教会に臨むのは、神が与える命と力に繋がって生きることです。そのためにまず「主の慈しみを待ち望む」こと。これはいつどんな時も私たちが思い起こし、目覚めるべき第一歩です。


悪霊を叱る権威

2021年1月31日(日)顕現後第4主日礼拝説教要旨
申命記18:15〜20 詩111 コリント一8:1〜13  マルコ1:21〜28
ダビデが山頂を少し下ったときに、メフィボシェトの従者ツィバが、ダビデを迎えた。彼は二頭の鞍を置いたろばに、二百個のパン、百房の干しぶどう、百個の夏の果物、ぶどう酒一袋を積んでいた。 イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

この世に、神の子として現れたイエスの「顕現」をテーマに礼拝するこの季節の礼拝、今日は顕現後第4主日の礼拝です。福音書の日課はまだマルコによる福音書の1章です。展開が遅いという意味で「まだ1章」と言っている訳ではありません。どんな書物もそうかも知れませんが、伝えようとする始まりの部分にこそ、その後の内容の「鍵」となるものが示される場合が多いからです。  マルコによる福音書において、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受け、人々の前に現れる直前に悪魔の誘惑を受けてそれを退き、伝道を始め、漁師だった人々を「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と弟子たちを招いた後の部分が今日の日課です。  余分な叙述なく、イエスについてとても淡々と記述していることが特徴と言えるマルコによる福音書の今日の日課の中での出来事です。弟子となった人々と一緒に、イエスの一行が当時のユダヤ人の会堂入った出来事でした。この短い日課の中で私たちが注目されることは次の二つだと思います。  @イエスの教えを聞いた人々が非常に驚いたこと・・・イエスの教えは律法学者たちのようではなかったこと。  Aそこにいた一人の中に入っていた悪霊がイエスを前にしてその人から出て行ったこと・・・その霊はイエスの正体を知っていたこと。  これが今日の日課が伝える内容であり、この後のマルコのイエス記述に対する「鍵」にもあります。

 まず、イエスの教えを聞いて人々が驚いたことについて。今日の日課は、そこでイエスの教えを聞いた人々の反応をこのようにまとめています。「律法学者のようではない」こと。そして「権威ある者として」教えておられたこと。つまりイエスの教えは、それまで会堂で民衆を教えていた学者たちからは感じられない「権威」が感じられたことです。  改めて「権威」とは何でよすか。辞書では「自発的に同意・服従を促すような能力や関係」と書いてあります。なるほど、なんとなく知っている単語も改めて意味を確認することは有益です。この世界で一般的に用いている意味を確かめ、知るだけでも今日の本文の真意に大分近づいた気がします。「権威」とは相手に対して、本人自らが進んで従うようにさせる力なんですね。「権威ある」とは実はこういう意味です。私の印象だと、本当はこれが「権威」の意味であることに対して、世の中では人々の地位や人々の評価、特定の人の表面的なイメージについて「権威」という単語をつける場合が多い気がします。まさに、なんとなく権威を位置付けているのかもしれません。  ともかく、イエスを前にして、イエスの教えを聞いた人々が感じたもの。そこで、それまで会堂で教えていた律法学者たちにはなくて、イエスにはあったもの。それが「権威」です。これ、もう結論です。それまでの律法学者は人々の言い伝えに基づいて、もちろん人々の言い伝えが悪いと断定するものではありませんが、時代が過ぎ、状況も変わり、彼らの先祖と歴史上の偉大な過去も教えもなぜか忘れられ、変質する中、ただそれを学んで、研究したという評価と地位に基づいていた律法学者。一言でまとめるなら、律法学者たちがもっていたのは「人間的な(人としての)権威」。それに対して、イエスは神からの権威!なぜならイエスは、神から人の姿で遣わされた神の子、イエスの本質、その言葉は神の言葉、神の霊だからです。  神的な存在でない私たちが神のことを証明することは出来ません。しかし聞いて、触れて感じることはできます。人自らが神を造り出し、見出すのではできなく、神が人に示し、聞かせたものを人は受けて、聞き、神を感じます。それが神に触れた人々、神の示しと導きに従った人々の証しです。そしてそれはただ感じられることに終わるのではなく、そこから人自らを動かす力が出て来るのです。  先週の漁師たちはイエスの言葉を聞いてどうしましたか。従いました。従うために「網」を捨てました。イエスの「権威」がそう従わせた、まさに権威の力です。ルターはここでの「権威」という単語をvollmacht、「すべてを圧倒する力」という単語で翻訳したそうです。イエスの教えに触れた人々が「非常に驚いた」理由は、その時が神の現れる時だったからです。その現われを目にし、耳にして圧倒されたからです。そして人々が圧倒されている間、神の顕現をより詳しく気付いていたのは、ある人の中に入っていたある「霊」でした。  「そのとき、この街道に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。『ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。』」  「汚れた霊」とは、いわゆる「悪霊」を表すユダヤ人的な言い方です。聖書の中には悪霊に取りつかれた人々が結構出てきます。ある意味イエスがこの世に現れたから悪霊の存在も明らかになったのかもしれません。イエスの霊が神の霊だから、それに逆らう霊として、もろもろの悪霊の存在がよりはっきり現れて出てきたと言えます。ということは、神の霊であるイエスが現れなかったなら、悪霊は気付かされずずっとこの世界と人々を支配し、動かしていたかも知れません。イエスの現われ、その教えを人々はただ驚いているその時、目に見えない、人を越えていて、人の中に入っている霊はイエスが神であることを認知します。そして嫌がります。「かまわないでくれ。」  私はこれを、あまりにもホラー映画を見るかのような感覚で受け止めて欲しくはないです。聖書は映画ではないからです。聖書、聖書だけではなく宗教的な教えや精神に触れる時、必ず「霊」という概念に向き合います。キリスト教的な理解で、「霊」とは、人間の論理と言葉に表わしにくい概念ですが、「命そのもの」もしくは「命の一番深い部分」、「命を動かす力」という概念です。確かに今日の悪霊も人の中に入っています。目に見える姿は現していませんが、人の中に入っていて、人を動かし、人の声でイエスを敵対します。「かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのかと」。  先も言ったように、イエスの前でのこの出来事、普段目に見えることばかり見て生きる私たちからすればあまりにも極端なこと、ホラー的な事柄に感じられるかもしれないと言いましたが、私たちも、私たちの中に見えない何かによって動かされている私たちを感じることができます。それは私たちの思いのようで、感情のようで、そして欲望のようで、実は私たちの思いや感情を動かし、支配している何かさえあると思います。説明し難い概念ですが、それが霊的な何かではないでしょうか。  今、神に向かって一緒に礼拝したり、それを見守ったりする私たちの思いと態度が全員一致しているものまでではありませんが、一応大まかにまとめて神様に寄り縋ろうと私たちです。しかし神に寄り縋ろうとする私たち、いつも神様の霊、イエス・キリスト、聖書的な霊に包まれて生きているでしょうか。神様に反するような、神様が望まないような姿になることなく、神様以外の影響力に引っ張られたり、動かされたりすることなく生きているでしょうか。そうではないと思います。いずれ私たちもこの世界の霊に支配されがちな一人ひとりだと思います。霊は、人が馬鹿にできる存在というよりは、まさに「霊的な存在」だからです。病気になったり、痙攣を起こしたり、変に叫んだりとした姿でなくても、十分悪い霊に取りつかれがちな私たちと言えます。むしろ極端な姿で感知される霊的な影響の方が分かりやすいのであって、知らず知らず、もしくは最後まで感じられず、ただ支配して死に向かわせる何かの力がもっと恐ろしいものかも知れません。  逆説的にも、神の顕現と権威は、悪霊の反応によってより明らかになります。人間的な存在ではありませんが、これは神の力がこの世に、この世の誰か、悪霊に取りつかれている人に介入しようとしたから現れる反応でもあります。そして悪霊は真の神の前で取り払われます。そうなるために、イエスはこの世に来て、これからもっと多くの人々を悪霊の支配から解放し、癒すからです。それがイエスの力と権威です。私たちも悪霊ではなく、騙し、隠す霊でもなく、天地創造と命の源となる神の霊、その命へと救うイエスの霊に導かれるために招かれているのです。だから礼拝につながり、だからみ言葉を聞き、だから讃美し、神を求め、願っているのです。  イエス・キリストの権威と力は、悪霊を黙らせ、私たちから追い払います。信じて生きる人は、イエスの対する姿勢を正しくしなければなりません。イエスの力、神の招きに対して、もしそれを嫌がり、疑うなら、私たちも「かまわないでくれ」と叫んで離れていく悪霊と変わらないです。信じて受け入れ、従う時に、新しい命、新しい変化と導きが訪れます。イエスと弟子たちの繋がりの始まりは、彼らが「人間をとる漁師にしよう」と、主イエスの言葉が招いたとき、それに従い、網を捨てたときに始まったのです。本当の神が臨在する場に他の霊は離れます。離れさせなければなりません。他の支配と縛りも離れていきます。今日の聖書はそれを伝えています。私たちも、私たちを縛り、支配し、恐れさせ、神に繋がり、神の力によって生きることを邪魔するもろもろの影響力から離れて、イエスの言葉と霊、力を迎える私たちになりましょう。

   終わりにキリスト教歴史上の神学者アウグスティヌスの説教の言葉を引用して伝えます。もちろん素晴らしい霊的な解き明かしだと思うから伝えます。  「ペトロはどんな理由で主イエスから褒められ、幸いな者とされたのか考えてみましょう。『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えたからでしょうか。ペトロに『あなたは幸い』と言われた方はペトロの言葉だけでなく、彼の心の中にある愛を知ってくださったのです。皆さんはペトロの幸いが彼の言葉からではないことを知りたいですか?実は同じ言葉を悪霊も言いました。『あなたの正体は分かっている。神の聖者だ。』ペトロもイエスを神の子と告白し、悪霊もイエスを神の子と告白しました。『区別させてください。主よ、区別させてください』私がその違いをはっきり言います。ペトロは愛によって答えましたが、悪霊は恐れによって答えました。だからペトロは『主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております』と答えましたが、悪霊は『かまわないでくれ』と答えました。聖餐の食卓に進んで来られた皆さんは、皆さんの信仰だけを誇ってはいけません。信仰はもち、愛と一緒にもってください。信仰なしには愛をもつことができないからです。愛する皆さん、私が皆さんに勧め、励まし、主のみ名によって教えることはこれです。  愛と共に信仰をもってください。愛なくして信仰はもてないからです。私が伝えている愛は神への愛と隣人への愛です。このような愛は、信仰を無くして、どうしてあり得ましょう。」お祈りします。

  神様、恐れの霊、疑いの霊、もろもろの罪を犯させる霊から私たちを解き放ち、あなたを信じ、あなたを愛する霊に私たちを繋げさせてください。・・・


わたしに従いなさい

2021年1月17日(日)顕現後第2主日礼拝説教要旨
サムエル記上3:1〜10 詩139:1〜6 コリント一6:12〜20 ヨハネ1:43〜51
2021年になって1月ももう半分が過ぎました。過ぎていく時間を数えるのはいつも早く感じます。私たちは忘れるものもあります。あまり見つめずに流していくものも多いです。しかし時間は一度も止まることなく進んでいきます。だから過ぎていく時間を全部見極めることができない私たちは時間の流れを、過ぎてみれば早く感じるしかないかも知れません。 そしてこの後、私たちがどうなるかを私たちは知れません。今の時期、色んな人々が言っている言葉でもあります。だいたいコロナウィルス関連でそう言われています。しかしコロナ以前も、後も、いつも私たちはこの後が分からないものです。それが私たちの生きるこの世の時間、未来でもです。過ぎてみれば早い、この後は分からないものです。 こういう時間の中に生きている私たちに対して、先ほど交読した詩編の言葉は、新しい視点で私たちの時間を見つめさせます。「主よ、あなたはわたしを極め、わたしのすべてを知っておられる」。「あなたは、わたしの内臓を造り/母の胎内にわたしを組み立ててくださった」。「わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。まだその一日も造られないうちから」。 「ダビデの詩」と命名されているこの詩編の歌は、こういう内容のためか、ダビデの晩年に書かれたものではないかと想定されるようです。波乱万丈な人生の中であらゆることを体験し、耐えてきたダビデが「神はわたしのすべてを知っておられる」、「初めからわたしを造り」、「神の前で骨一つも隠すことはできない」、そのすべては自分の産まれる前から、「まだその一日も造られないうちから」決まっていたものだと告白する歌です。 その時その時の悩みと苦しみに囚われて生きる私たちからすれば、とても不思議な感覚で迫ってくる歌でしょう。私たちが生きている間のほとんどの瞬間に、私たちは自分の目の前に見えるもの、そのとき聞こえるものしか感じられないからです。しかしまだ分からない自分の未来さえもすでに「神の中にある」。この歌は私たちにこういう視点を示しています。ここから、信仰はどういうものかと見出すならば、私たちのすべてを知っておられる、私たちいる前からまだ分からない未来まで、すべてを知っておられる神と向き合うこと。それを神との向き合い、礼拝、信仰と言えるものではないでしょうか。

いつもと違って交読文として示された詩編の言葉から触れてみました。私たちのルーテル教会の礼拝形式を体験されてきて、理解されている方々はとっくに感じていることだとは思いますが、旧約聖書の箇所、新約聖書の箇所、それに福音書、最近は詩編の言葉まで、比較的たくさんの箇所が礼拝で読まれる私たちの礼拝の中で、それぞれの箇所は互いに関連があって結びあわされている日課です。それをいつも一々解いている訳ではありませんが、旧約で語られた言葉や預言がどのように実現されたのか、イエスはどのように示されたのか、さらにイエスによって建てられた教会がそれをどのように教えているのか、詩編の歌はどのように賛美していたのか…。時代を貫いて、過去と未来、全ての時間を貫いて、ある繋がりが見出されるための、教会の暦に合わせて組まれている日課です。 もちろんその解き方は、人によって、教会によって、聖霊の導きによって、様々な解き方があり、様々な解き方があって豊かなみ言葉の恵みと信仰が実を結ぶことですが、今日は「すべてを知っておられる神」に着目して、今日私たちの礼拝に与えられたみ言葉を見つめてみたいと願います。 「すべてを知っておられる神」は旧約のある時代には、年老いた祭司の下で仕えていた少年サムエルを呼ばわれました。そして新約聖書の福音書では、人となられたイエスの姿で弟子たちを呼ばわれます。「わたしに従いなさい」と。  結論から言えば、これらの信仰の先人のように、神の呼びかけに従うように、それによって神と繋がるように教えているのが今日のみ言葉です。母ハンナの切実な祈りによって得られた息子サムエルが神の預言者となる最初の一歩が神の呼びかけに答え、「主よ、お話しください。僕は聞いております」と従うことでした。最初、自分の同僚からの話だけでは信じずにいたナタナエルが「来て、見なさい」と勧められ、イエスのところに来て「あなたは神の子」、「イスラエルの王」と認めるのが使徒としての一歩でした。  私たちは神の導きと呼びかけに従うべきです。なぜなら私たちのすべてを知っておられる神が、御言葉を通して、聖霊に導きと、それに従う先人と仲間を通して呼びかけているからです。その呼びかけに従ってこれからを生きることは、何も確かなことがないように見えるこの世の歩みに一つの道を、天国と神による命を見出す道を示すからです。

 今日の福音書は主にナタナエルという弟子がイエスに出会う記録に焦点が合わせられています。彼はイスラエルの律法と預言者のある程度学んだ、真面目で正直な人であったと思われます。イエスご自身が彼に会って、実は彼に会う前から知っていて、彼についてこう言っているからです。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」それに、イエスはなぜナタナエルがいちじくの木の下にいたことを言われているのか…。パレスチナ地方ではかなり大きな木になるいちじくの木は、その日陰でラビたちが弟子たちを教える場所でもあったからです。つまり「いちじくの木」は律法を学ぶ場所、ナタナエルがいちじくの木の下にいたのをイエスが見ておられたというのは、ナタナエルが真面目に律法と預言書の教えを学んだ人であることを象徴するとも読める記事です。実は、だからナタナエルは同僚フィリポから「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った」と話しを聞いたときにそれを否定していたのです。それが「ナザレ人」ならば、「ナザレから良いものが出る」はずはないと。ある程度、預言されていることを知っていたからこう否定したのです。  しかし、これは本当の出会いと信仰を妨げる姿でもあります。イエスに出会う前のナタナエルは、ただイエスの出身がナザレ(もしかして田舎だから?)だから、そこからは預言者が出るはずがなく、そう預言されていないと否定します。もしナタナエルが、フィリッポが勧めるように「来て、見る」ことがなかったならば、彼は自分の生涯の中で自分を知っている神との出会いを自分の知識と考えによって拒んだことになったでしょう。私たちがよく先入観と呼ぶ、それに似たような思いです。私たちも自分の中にある、これに似た思いと判断によって、本当に出会うべき、触れるべきものを拒んでいるのではないか注意すべきものでもあります。信仰は、自分が聞いた知識ではなく、他の人々が言っている事柄でもなく、自分が出会い、体験した「来て、見た」ものです。聖書の信仰者たちの告白も、彼らの観念、思想がそう言わせているものではなく、彼らが出会って体験したことを語るから「証し」なのです。ヨハネの手紙一の最初の言葉です。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。」これらの証言を聞く私たちも、彼らの生そのものが体験し、感じたものとして聞き入れるとき、その証言の本当の恵みが伝わります。 だから、仲間フィリポがナタナエルに言った「来て、見なさい」、この一言は大きいです。私たちは私たちの日常でも、見過ごさず実際見ることによって大切な発見を得ることが多々あります。その相手が自分にとって大切な人、愛せてくださる存在、私たちのすべてを知っておられる方ならなおさらです。「来て、見なさい」とナタナエルを勧めるフィリポは、実は同じ言葉をこの箇所の前の場面でイエスから直接言われた人でもあります。「わたしに従いなさい」。従ってイエスを知った人フィリポは、自分がイエスを知った後は、自分の体験をもって友に伝えています。こう繋がるために用いられているのは人ですが、招きは神から、主イエスから出るものです。それが身をもって、真実をもって、歴史の中では命をささげてまで新しい人々に伝えられ、繋がることによって、人は神と向き合い、神が自分を招いていることを実感するのです。 ご自分の前に導かれ、それを見に来たナタナエルにイエスは言われました。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見ることになる。」やがて使徒であり、地上の教会の先人であり、偉大な宣教者、奉仕者となる彼の未来は、初めから神の中に、主イエスの中にあったものです。神の招きに従うことは、神が招いた者に見せてくださる、神の中のその人(自分)を見つめることです。ずっと前から定まっている神の中の自分を知ることです。

この世は私たちを恐れさせます。色んなものを見せ、聞かせ、しかし結局は本当に自分が見るべきもの、聞くべきものを妨げていると言えます。私たちを恐れさせたり、誘惑したりするものに捕らわれ、本当の自分を見失う場合も多いです。しかし神の招きは別の見方と道を私たちに示します。それは、初めから神によって造られた私。神の前で何も隠せない私。逆に言えば神の前ですべてが知られている私。だから罪人でもある私。しかし赦し、神のみ心によって新たに生かされる私です。それを来て、見ようではありませんか。神様が示すあらゆるものによって、神と向き合うことは、私たちの命がもっと良いもの、価値あるものを見るための招きです。神の招きがそのために、神ご自身から与えられたものです。しかも、今日の使徒書の言葉が伝えているように、私たちは招かれていることを越えて、主イエスの十字架という「代価を払って買い取られた」者、神の霊、聖霊が宿る神の神殿とされた私たちの命です。


あなたはわたしの愛する子

2021年1月10日(日)主の洗礼 説教要旨
創世記1:1-5 使19:1-7 マルコ1:4-11
2021年となって10日目の朝、今日は主イエスが洗礼を受けられたことをテーマに礼拝する主日です。人としてこの世に来られた神からの救い主はいよいよこの世界に来られた理由として、人々を救うための働きを始めようと、そのために人々の前に出て行こうとされるところです。そこでヨハネから洗礼を受けます。これが、マルコが語るイエスの、いわゆる公生涯の始まりです。クリスマス物語となるイエスの誕生の次第、出身・成長については言及なしに、直接人々の間に現れるイエスを描くマルコは、その始まりとなるイエスの登場をヨハネから洗礼を受ける場面から指し示しています。  人間的な理解においては混乱する余地がある場面かも知れません。キリスト教で救い主として信仰しているイエスが、イエスより少しだけ前の人物であり、確かに偉大な宗教家であったヨハネから洗礼を受ける…。それはヨハネがイエスより上だったのかと、イエスはもともとヨハネの弟子だったのかと思わせるからです。この人間世界の一般的な(?)認識はこうなりがちです。キリスト教はヨハネ、中心的な教えと活動がまさに「洗礼」であったから「洗礼者ヨハネ」と呼ばれていた人物の弟子であるイエスを救い主として崇めていることになります。これでは、単に一人の「人」を「神」にしてしまうことになります。それも、前の時代の人物や、ここでもイエスに洗礼を授けたヨハネを抜いて、敢えて後に現れたイエスを神と「した」ことになります。  多少複雑なことを言っているように聞こえるかもしれません。信仰って、ある人々が「じゃこれを神にしよう」としたらそれがそのまま信仰に、神になるものでしょうか。それが宗教となるのでしょうか。実はそれを信仰だと思っている人々も結構いるかも知れませんね。それならまさに、神は人が造り出すもの、誰でも造り、始めることができるのが宗教ということになります(もちろん人に共感されるそうでないかは別にして)。そして実際こういう成り行きで造り出されて存在する宗教も結構あることです。これ、結局は人が造ったものになります。  もしもこういう流れと由来が宗教ならば、宗教って人間の空想の産物になります。神性…?ないものです。だって人が造って命名したものだからです。私たちは、この世界に存在していた無数の人物から、優れていたから、凄かった人物だったから、その中の一人を神にして(昇格させるような感覚で)「イエスは神の子」と崇めているのではありません。この人こそ神の現われであった!これこそ真理であった!預言であり、実現であった!そこに神性があったから、それを信仰としています。  話を戻しますが、キリスト教会はヨハネの弟子を神としているのではなくて、人の姿で現れた神が(不思議にも、人の考えを超えて)ヨハネから洗礼を受けたことを始めとし、そこから人々の間に現れ、治癒と奇跡を行い、それまでの人の教えとは違う新しい真理を示した痕跡を辿るのであります。それが「神の顕現」であったから、それを記念し、その記録で礼拝する季節を「顕現節」と呼び、その中でも今日はイエスが洗礼を受けたことを記念しています。

   なぜ人となられた神は、人間ヨハネから洗礼を受けられたのでしょうか。それは別の福音書が語るように、それがこの世界に示す人への「模範」でもあり、「正しいこと」であったからと解釈されますが、結局は神がこうなさったからです。神はこのような仕方でこの世界にご自身を現わしたからです。それを人間的な考え・論理に固執して見ようとすればするほど、イエスはヨハネの弟子だったのではないかと説きたがります。神性をなくし、人と人との比べとして、誰が先だったのか順番として見るのです。信仰を見出だすことにおいて神性をなくしてはいけないことです。どこに神性が現れてかです。 すべての福音書が一貫して証していることは、ヨハネは主の道を準備するための人として敬虔に生きていた預言者であること、そしてヨハネの告白を通して「わたしより優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」と言っているほど、人間とは別の次元、聖なる神の計画が現れ、実現することです。それがイエスであった。そのイエス御自らヨハネから洗礼を受けて、まさにヨハネの後に現れてくださった!新しい実現の時代を切り開き、これから人々の前に現れてくださった。それが救い主、神の子の洗礼の出来事です。そこで天からの声、神の言葉、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と、イエスの存在を神御自らが明かしています。

 こうしてこの世界に現れたイエスを通して、私たちはイエスが神の愛する子であること、神のみ心に適った方であることを見つめます。言うならばこの大前提のもとに、この後のイエスの働き、人の姿として現われる生涯と姿、教えを見るのです。もちろん人として死、復活までのすべてを。そのすべてが神の愛するみ子としての現われと働きであったこと、神のみ心であったこと。この実現によって、この世界における前の時代の預言者たちは真実の預言者であったことが確証され、神の御子が洗礼を受ける場面で用いられた水は「聖なる水」となります。そしてその姿に倣って人々が洗礼を受けることも正しいこと、御心に適うものと「させて」くださるために、主イエスは洗礼を受け、水の中に入られたのです。これは天地創造の言葉の新たな実現でもあることを、今日の礼拝で示された旧約の言葉から私たちは思い出します。「神の霊が水の面を動いていた」今日の創世記の言葉。「主のみ声は水の上に響く」今日の詩編の言葉。そして神の声である言葉は宣言します。「光あれ」と!  この光によって私たちは混沌から抜け出し、神の良さの中で生きることができます。神が天地を創造し、光を示したこの霊的な記録は、人間にとって解明不可能な不思議な空想ではなく、創造論なのか進化論なのか、人間の認識にとどまってこの文章をめぐって人間の認識同士に争うためではなく、まさに「神」を認識するために示された記録です。「光」があることで、混沌と闇は消え失せ、神の創造の良さが見えてくるように、神が遣わし示されたイエスによって、神のみ心と救いは見えるようになるのです。これが「顕現」です。 光は見えるようにしてくれるものです。見えるようになるから現われを見ることができます。世に現れたイエスが、人の姿で水から上がったイエスが、神の「愛する子」、「神のみ心に適う」ものであったことは、この世に差し込む救いを見えるように、分かるようにしてくれます。罪という混沌と闇から、本来神が造られた「良い」被造物への回復、これが本当の意味での「聖霊による洗礼」です。ヨハネ洗礼は、水による洗礼は、自分の罪を思い起こし、それを認め、後悔し、改めなければならないことを認識させる敬虔な人間の努力です。しかしその後に来る「聖霊による洗礼」は、究極に罪を清め、本来良しとされたものへの回復です。それは、神の力によってしかできないものです。だから神の業であり、神の救いです。人間の努力を、凄い努力だから、人間の美徳に沿った美しい行いだから、それを美しく言って、上品に呼んで「救い」としているのではなく、神に良しとされるのは神の業だから「神の救い」と呼ぶのです。  今日の、神の子イエスの洗礼とそこで降りてきた聖霊によって示された神の言葉を信じる皆さんであることを祈り願います。それによって、私たちも「聖霊による洗礼」に預かる私たちであることを祈り願います。つまりイエスが示した姿を見て、それが神の現われと信じ、またそれに倣って、私たちも「神の愛する子」、「み心に適う者」へと変えられることです。それを信じて前に進むこと、それがこの世における私たちの信仰の歩み、光に導かれる聖なる歩みです。神は私たちへの光として御子をおしめしになったのです。


あなたを照らす光は昇る

2021年1月3日(日)主の顕現 礼拝拝説教要旨
イザヤ60:1〜6 エフェソ3:1〜12 マタイ2:1〜12
今日は2021年となってから初めて迎えた主日、私たちの教会の暦によっては主の顕現日です。主の顕現日とは、イエス・キリストの神性が初めて、公にこの世に現れたことを記念する日です。キリスト教の歴史の中で西方教会の伝統では、この最初の顕現を東方からの学者たちがお生まれになったイエスを訪ねてきたときと見、東方教会の伝統では洗礼者ヨハネからイエスが洗礼を受けたときと見るようです。だから私たちの教会の、今日の礼拝の福音書は東方からの学者たちが登場する箇所です。  正確に主の顕現日は、クリスマスから12日が過ぎた1月6日ですが、今年の1月6日に一番近い主日である今日を主の顕現を祝う礼拝としています。イタリアやスペインなどキリスト教の伝統が強い地域においては、顕現日を祝日と指定して、東方からの学者たちの日として年初の祭りとするようです。星を見ながらユダヤ人の王を訪ね求めてきた学者たちが、まずヘロデ王を訪問し、その後再び星の導きによってイエスが生まれた場所までたどり着くのに12日がかかったという解釈が反映されているようです。日にちの設定に関する一つの由来ですが、正確な日にちは確認するすべがない現代の私たちでありながら、私たちは人としてこの世にお生まれになったイエスが初めてこの世界に示されたもう一つの記録を心にとめる今日の礼拝です。

 一つの記録、一つの出来事からも、それに対する見方と態度によって解釈は色々異なります。実は私たちの世界のすべての事柄や歴史がそうです。だから民族ごとに国ごとに歴史をめぐる対立があります。それぞれ異なる視点と立場はそれぞれ違う存在と態度そのものです。この世界に現れたイエスに対してもそうです。キリスト教の見方は、文字通りイエスをキリストと見る視点だからイエスが救い主であると信じます。しかしイスラム教やユダヤ教からすればイエスは救い主ではありません。優れた預言者だったけど救い主ではない、神ではない、改革に失敗した改革者、または偽りの預言者とも見られる様々な見方が存在します。血統と歴史からすれば、人としてのイエスと同じ民族に区分される人々が、返ってイエスを認められない現実がこの世界にはあります。イエスをキリストと信じるユダヤ人たちがまったくいない訳ではありませんが、現代の宗教の分布からしても、キリスト教はある意味「異邦人たち」に伝えられ、受け入れられ、信じられている宗教です。今日の使徒書の日課である手紙を書いたパウロも言っています。「あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているパウロは…」と。あなたがた異邦人に福音が伝えられるために自分が選ばれていると証ししています。 返って同じ民族からイエスは受け入れられない姿はイエスの生涯の記録の中にも度々見られるものであり、実は今日の福音書の記録にも表されています。まだ人として生まれて間もない瞬間においてもそうです。今日の物語の中でイエスを探し求めて来、イエスを拝んだのは誰だったですか。東方から来た占星術の学者たちでした。聖書の記録には記されていないから彼らがどの国から来た学者なのかは明確でないですが、彼らはペルシアの祭司とする伝統的な解釈があるようです。そして占星術の学者とされる彼らは当時においては、天文学、薬学、占星術、魔術、夢解釈など当時のあらゆる学問に通じていて、人の運命や世の動きについて神意を伝える人であったそうです。彼らにとっては研究され、求められ、探し当てられたイエスです。 しかし当時のユダヤ人たちはどうだったと今日の物語は伝えるでしょうか。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」と占星術の学者たちの言葉を聞いて、まず「ヘロデ王は不安を抱き」、「エルサレムの人々も皆、同様であった」と今日の福音書が告げています。当時の王であったヘロデは自分以外の王が現れるのかと不安を抱いたのだと容易に推測できますが、他のユダヤ人たちはなぜでしょうか。おそらく他のエルサレムの人々も同様であったという短い記述の中には色んな事情があったものだと思います。彼らの歴史において代々受け継がれてきたメシア信仰、つまり自分たちを救う救い主が現れるのを待ち望んでいたはずの彼らでありながら、いざと現れたという知らせに対して、ある人々はそれを受け入れる準備ができていなかった。ある人々はそれを疑わしく、疑い深く見ていた。ヘロデ政権に近い人々は彼らが享受していた安定的な立場に変化が訪れることを危うく感じたかもしれませんし、またある人々はその影響によってヘロデの暴政が行われること、もしくは過激な人々が現れることを恐れていたかもしれません。おそらく色んな立場によってこの知らせを耳にした思いも反応も色々だったでしょう。もちろん推測ですが、これはこの世の姿だからです。もちろん今もそうです。 ともかく、色々な立場と思いが混在していたユダヤ人たちだったかも知れませんが、そこに新しいユダヤ人の王、救い主の現われを喜ぶユダヤ人はいなかったことは、今日のマタイによる福音書が伝えようとした当時の様子として重要な部分だと思います。

クリスマスのイエスの誕生物語の一部としてよく知られている今日の物語。この世界のある人々には神話のように、昔話のように伝えられる今日の伝承。しかしこれがこの世界に対するキリストの現われの記録、旧約聖書の預言の実現として信じる立場から、私はとても単純なメッセージをお伝えしたいと思います。単純すぎるので特別には聞こえないものかも知れません。それは、キリスト、救い主は、その現れと実現を求めていて喜ぶ人々に現れるということです。当然と言えば当然です。救いは救われることを求め、待ち望み、それを見出そうとする人々に訪れ、現われるのであって、実はそれを求めず、待ち望まず、見出そうとしない人々には現れないということ。また救いと因んで様々な縛りからの解放、自由、希望、変化…あらゆるものもそうです。これらどんなものも、それを本当に求める人々にそれらは待ち望まれ、実現されるのであって、本当はそれを求めない人々には実現しないという当然と言えば当然な現象です。異邦人の占星術の学者たちには見えて、本当は近くにいて、同じ民族であったユダヤ人たちには見えない導きがそれを語ります。見出そうとすれば、イスラエルの牧者はベツレヘムから現れるという、自分たちの先祖の預言の言葉を持っていても、それを求めず、希望しない人々にその言葉が返って恐れになってしまう人々の姿が今日の物語の中に含まれています。 理由は色々かも知れません。その原因を探ろうとすれば一つにはまとまらないものかもしれません。人間それぞれの事情と心理は複雑だからです。何かに縛られていれば、叩き込められた何かから、不安に思う何かから、それを嫌っているようで実はそこから離れようとはしない心理、そのままに留まり、そこに安住し、自分さえも騙すような心理が見られる場合もあります。しかし私は心理を語りたい訳ではなく、救い主の現われに対して、表面上救い主を待ち望んでいたはずのユダヤ人には見えず、認められず、むしろ敵になってしまうキリストが、それを純粋に探し求めた異邦人の学者に、後には異邦人たちと色んな民族に、そして信じるすべての人々に現れるイエス・キリストを見つめたい訳です。

「あなたを照らす光は昇る」。今日の旧約の言葉から今回の説教題をつけました。実はまだ説教を詳しく考える前の時点で旧約聖書を読んでつけました。題は決める必要があるからです。でも美しい言葉だと思います。この一言だけでも、この言葉を真に受け止める人には言葉の力と働きが伝わるものだと思います。しかし、この一言にしても、実はこれを美しく思いたい人に、この通りになればいいと思う人にこの言葉は伝わるものでしょう。「そんなものがあるか」と受け止める人には虚言のように聞こえるかも知れませんし、表面上の綺麗事のようにしか聞こえないかも知れませんし、返って悪い刺激や欺きのように聞こえる人も、ここから何の感想や思いも感じられない人々もいると思います。聞き取る人はもちろん、その時と状況に左右されることでしょう。なぜならば私たちは自分自身と時と状況に縛られがちだからです。 この世界に伝えられたイエス・キリストもそうです。実はこの信仰に結びついている様々なものや希望や思いや行いもそうです。それを見出そうと、見出したい人々にそれは現れるのです。これを邪魔するものは色々あると思います。騙すものも色々です。現実とその現実に対する恐れも、時には自分自身も、もしくは周りの人々や周りの人々の反応や考えも、私たちを縛りたがります。そして私たちは縛られた状態で、縛られ囲まれた枠の中で断定するのです。それは違う…、それは良くない…、何かを失わせるかも知れない…。 私はある意味これらの闇がこの世界と私たちを包んでいると、今日の旧約聖書の文言から感じます。「見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる」。しかし!「あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる」。これこそ信じる人々に向けられる神の顕現であって、信仰によって見出される神と救いです。福音書に出てくる占星術の学者たちのようにその光に導かれる人はいることです。パウロのようにそこから神の秘められた計画から、それへの確信をもってさらに神に近づく人もいることです。私たちはそれを学ぶためにみ言葉を聞いたと思います。遠い道のりを経て、私たちの人生そのもののような遠い道のりも惜しまず従ってきて、自分たちのもっとも価値あるものをささげる今日の福音書の人たちのように、出会い、ささげる喜び。それ以前にそこにたどり着きそうな希望さえも喜ぶことができる信仰。それが今日の福音書の星の導きなる光ではないでしょうか。 新しい年を迎えてもこの世界の不安は晴れずに、さらに深まっていくようにも見えます。しかし私たちは出会いたい、感じたい導きと光を見出す群れになりたいと願います。


何事にも時がある

2021年1月1日(日)新年礼拝説教要旨
コヘレト3:1〜13 黙示録21:1〜6a マタイ 25:31〜46
2021年を迎え、1月1日の礼拝を私たちが共にしています。この世界の時間を数える暦の中でも、重んじられる日ほど、その日に似合うことをするために忙しい時です。私たちの文化で年の初めの日はもちろん重んじられる日ですが(もっとも象徴的で、重んじられる日ではないでしょうか)、こうして新しい時を礼拝と共に始める私たちの上に、神様の祝福はあります!その祝福は私たちが「こうするから」という行為による祝福ではなく、神様の祝福があるから、私たちはそれに招かれ、ある意味忙しいかも知れない時に、この時くらい外してもいいと言える時に礼拝に導かれているのです。 もちろんここにいない人々や離れている人々は祝福されていないかのように言っているのではありません。それぞれ大切な人々に仕え、共に過ごすという大事な役割のために、または心配されている感染病から自分と大切な人々を守るために、または今まで頑張ってきた歩みの中で意味ある休息のために、それぞれの場所で過ごしている方々の上にも神様の祝福は注がれていることを信じます。なぜなら私たちの教会と繋がっているからです。神様と繋がっている人々に神様の祝福が与えられるからです。そして神様がそれぞれの場で、それぞれの役割のために励んでいる人々を知っておられ、励ましてくださるからです。 大切なことは、繋がっていること、繋がっているから覚え、思うこと、祈ること、そしてこれからも共にすることです。そしてそのために、室園教会と呼ばれる私たちの群れは、新しい時間の区切りを室園教会として神様にささげます。それはもちろん、これからの時間も神様と共に生きるために、神様と繋がって歩むための思いであり、祈り、献身であるからです。

少し個人的な話をします。昨日は12月31日で2020年の最後の日でしたが、私たちの家族はこの室園教会の牧師館で住み始めて1回目の年越しをしました。そしてこの国の文化で良く行われる習慣として年越しそばも三人で食べました(そばが合わないメンバーはうどんにしました)。その食卓で3人家族の内の一人が私に聞きました。「今年どんな1年でしたか?」 私は内心、毎日一緒に生きてきて「今さら何?」と思いましたが、せっかく聞かれたので「変化に富む1年だった」と答えました。色んな意味で適切な、偽りのない一言の答えだったと思います。もう一人にもどんな1年だったか聞かれましたが、その人が答えたのか周りが答えたのか「歩き始めた年だったね」と言われました。そしてこの質問を振った人は自分で1年を振り返って答えました。「私は牧師の妻になったことを実感した1年だった」。その一言だけでも、ほぼ無意識状態だった私の意識が目覚める一言でしたが、その続きに「いい人たちにいっぱい支えられて幸せだった1年だった」と言っていました。一番身近な人が「幸せな1年だった」と言った言葉は私に新鮮なショックでした。なぜそんな感想なのか…、その理由は上手く表現できないから置いておき、改めてこんな会話をさせるのも、暦、時間の区切りと認識なんだなと、改めて感じました。個人的な話の終わりとして、「幸せな1年だった」と聞かれた私は特に反応はしなかったものの、心には結構響いたのでお風呂の中で、私の中での小さな新年の目標を見つけました。「無駄な夫婦喧嘩は減らそう」。 でも、新年に掲げられる多くの目標や誓いのごとく、たとえこれが叶わず、忘れられたとしても、別に落胆はしないと思います。 ともかく私たちが生きるこの世の時間は、一度も止まることなく連続しているはずですが、その連続の中で、今までの時間を振り返らせる、そして私たちの心と姿、絆を改めさせる、色々な意味を見出させる区切りは確かに有益かもしれないと思いました。

今日の新年礼拝という、今年初めての礼拝の中で、私たちは四つの聖書の日課に触れました。旧約の日課としてコヘレトの言葉3章と交読した詩編8編。そしてヨハネの黙示録の言葉とマタイによる福音書25章の言葉です。どれもが「時間」の中で生きる人間に対して強い示唆を与える言葉だと、だから新年という時間の区切りにふさわしい日課として選ばれていると私は感じます。 その中でも、コヘレトの言葉と詩編のメッセージが持つ見方は、旧約聖書らしく、この世の現実的な場所からの視点、この世を生きる視点からの気づきと示唆であることに対して、新約聖書の二つの箇所は、信仰的な意味での「これから」について、神の国の到来を預言し、黙示している視点でのメッセージであると私は区分してみます。 まずコヘレト言葉。この言葉を受けてみなさんはどんな感想を受けるでしょうか。私たちよりはるか昔の時代に語られた言葉ですが、さすがに賢者の言葉らしく、なかなか一言では言い表せない深みに迫られるのではないでしょうか。この世に起きる瞬間とその中の人間の姿が、数えてみれば28の事例として数え挙げられる中で、それぞれ対立する事柄がこの世界の時間の中で存在することを思い出させます。私たちもこれらのことをすでに経験しているか、これから経験していくのです。自分にとっていいものばかりではありません。しかしそのすべては「定まっているもの」だとコヘレトは語ります。 詩編8編の賛歌は、この世界の素晴らしい秩序と摂理がたたえられる中で、その中の小さな存在である人間は一体どういうもので、なぜ神の心に留められ、顧みられるのかと、その不思議な恩恵をさらに深く歌っています。確かにそうです。 そして黙示録。先の二つの旧約の日課がこの世界を見つめながらのメッセージとして伝えられているのに対して、その世界はやがて去って生き、新しい天と新しい地に対する預言。この世の終わりがあることはもちろん、その終わりは新しい神の国の始まりであり、その神の働きはこの世界に入り込み、人と共になり、涙も、死も、悲しみも、労苦もない世界が訪れる預言が語られています。 そして福音書の言葉は、神の国が訪れるにおいて神の裁きがあることを私たちに伝えます。すべての民族、すべての人々は裁かれる時が来ることを伝えています。実は昨年となりましたが、2020年11月22日の主日、聖霊降臨後最終主日の福音書日課でありました。私たちの教会の暦によれば1年のサイクルの最後の主日に読まれました、割と最近聞いたはずの箇所です。 今日のこれら4つの聖書の共通しているメッセージはこれです。「時」、時間を司るのは神であること。すべての「時」と定め、その後の新しい世界でさえも、神が支配するものであること。神を信じるということは、時と世界を動かす中心である神を認め、それに従うということです。それを喜び、それに意味を見出し、それによってこの世界の苦しみ、悲しみ、限界を超え、新しい命を見出すことです。その繋がりを信じ、その繋がりを認識できる人はどんなに幸いなことでしょう。詩編の言葉を歌う詩人の感動がまさにこれです。この世界、この宇宙、その中の一点くらいにもなり切れないくらいちっぽけな「私」(たち)が、遥かなる時空の秩序と摂理の中に置かれ、その美しさと素晴らしさに触れさせられるとは、「私」(たち)が一体何者であるゆえに与えられるものでしょう。少し時が過ぎれば跡形もなく消えていくはずの私たちが永遠を思えることは何事でしょう。でもその永遠を思う心が与えられていること幸せなとこだと思います。それは確かに神からの賜物であるゆえに神聖で、私たちにこの世のものや人間が与えるものとは違う力づけを与えてくれます。 だから神の定めの中にいるのは素晴らしいことです。コヘレトが語るように、今しばらくこの世で、喜びとと悲しみ、始まりと終わり、楽しみと苦しみが色んな形で交差する中にいて、これらを身をもって背負わなければならない定めだとしても、それを与え、しかしそれを超える神、永遠に繋がることは限りなく幸福なことです。 それは人が労苦して得られるものではないこと。神と繋がるから知るもの。今日の福音書はその神に繋がることとは、この世を生きる間にどうするものかについて語っています。私たちは今日、今日の福音書についてそれほど解説っぽいことを聞かなくても、どう生きることが神と共に生きることなのかをもう一度聞くことができます。「わたしが飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ね」たのは、誰か。それは、人の間に現れ、人と共に住んだ神、主イエスにしたことであると。十字架の死に至るまで世の弱い人、悲しむ人の姿となられた神にしたこと。その神と真に繋がることだと、真に繋がっているから仕えられるしるしだと。もしくは繋がっていないしるしだと私たちに語ります。 私たち、神を信じる者はまた新たな時間を始めるにおいて、新しい時間を誰と共にすべきか思い出すべきです。大切な者、繋がる者と共に生きれば、その絆が与える喜びと生きる意味を見出すことができるように、神を信じる者は、神と共に、神と改めて繋がれば、神によって自分を超える恵みをますます知ることもできるのではないでしょうか。それが神と繋がる意味でしょう。 人間的な数えかも知れませんが、新しい年、神と共に歩んできた今までと、さらに神と繋がるこれからを見つめられる私たちでありますように。そこに生きる意味と喜びを見出す私たちであるように願いたいと思います。たとえこの後、また躓くとしても、新しい時間こう願うことによって、また前に進む私たちでありたいと願います。 私たちにとって古い時間も新しい時間も、その時間が与えられた意味は、一緒にするべき存在と一緒にし、繋がるべき存在と繋がることだと思います。私たちが一緒にいるべき人と一緒にいれば、同じような毎日からもその時間の意味と喜び、恵みが見出されるように、私たちが神と共になればこの世界を超えるものが私たちに近づきます。




説教(2020年)

時は満ちる

2020年12月27日(日)降誕節第1主日礼拝 説教要旨
イザヤ61:10〜62:3、ガラテヤ4:4〜7、ルカ2:22〜40
 今年のクリスマスが過ぎた後の最初の主日を迎えました。クリスマスという大きな祝日の後なので、注目度と緊張感が緩む時かも知れません。しかし私たちは、私たちに与えられる「時」に対して、それぞれの「時」の意味を正しく見つめる人になりたいと願います。 祝日は単に休みのための時ではありません。終わらせるための時でもありません。もし私たちが、私たちにとって意味ある日を、その意味のゆえに休む日、終わらせる日と認識してしまうなら、私たちは祝日という時をとても誤って用いることになると思います。祝日は文字通り祝う日であって、ただ休むため遊ぶための日ではありません。それは祝いの意味と、そのために設けられた時を、「休み」と「遊び」に変質させてしまうことになります。その日を覚えて過ごしたように見えて、何の意味も残さないのです。むしろ終わった後には、返って休みと遊びは終わったという虚しさが残るのです。本当の意味の祝日ならば、それを祝ったゆえに、その次の時を生きる喜びがあるように、喜びが与えられたゆえに新たな時をさらに意味ある時間として生きる力が与えられるように用いなければなりません。休むこと、楽しむことは悪いかのように、堅苦しいことを言っているのではありません。意味のない休み、中身のない楽しみ、終わりによって私たちの日数を虚しく数え、ただ時間を流していく生き方を警戒しましょうという意味です。

今日の福音書には二人の老人が登場しています。一人は84歳と歳が記されている女性であり、一人は年齢が記されていませんが間違いなく老人であることは、文脈から読み取れます。 老人…。今の時代、人に対して注意を払うべき単語かもしれません。歳をとった人のことです。私たちは誰もが歳をとるのに、歳をとることに対して、もしくはとっていることに対して否定的な感情、それが残念かのような認識をもつなら、私たちの人生ってどうなるものだろうかと改めて考えます。みんな歳をとるのに、なりたくはない自分になっていくのをやむを得ず見ていくのが私たちの人生でしょうか。それに耐えながら、本当は数えたくない年数を仕方なく数えるのが私たちの歳でしょうか。このような見方なら、私たちの人生ってすでに絶望ですね。私も私の中のどこかで、これに近いような認識に囚われていたかもしれないなと思いつつ、認識を改めようと思います。 私は人類・社会学者でも、福祉家でも、だからといって哲学者でもないのに、老人について語るのは、もちろん今日の聖書に老人と言える二人の人物が登場しているからです。福音書はこの二人の老人を決して否定的にも、衰えて弱った存在としては指し示していません。むしろ「長く待ち望んだ人」として指示しています。長く神を信じた人であり、長く神に仕えた人です。長くそうしてきたことは、わざわざ文面で表現されなくても、長い分、たくさんのことを体験し、たくさんのことを耐えてきたことを、この世を生きる私たちは知ります。それはある意味、身体の衰えの面だけをとって「弱い」と意味づけるより、長くたくさん体験し、耐え忍んだことから、堅固であり、むしろ「強い」と言える要素であります。 それに正しいことのために自分たちの人生を費やしたこの二人のことを福音書はどう説明しているか見てみましょう。シメオンの方です。「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、、聖霊が彼にとどまっていた」。正しく、信仰と聖霊に満ちている人は、自分の民が「慰められる」のを待ち望む人と表現しています。 次はアンナという女性預言者です。彼女は夫と死別して84歳になっていたが、「神殿から離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」。そして幼子イエスに会ってからは、「エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した」とあります。  聖書全体の中でそんなに注目されていない箇所かも知れない今日のこの箇所から、特に英雄のようにではなさそうな二人の姿から、私たちはとても素晴らしいことを学べます。この二人が年を取ったのは、たくさんの時間を過ごしたのは、虚しくなかった証をしているからです。長い人生を通して神から離れず、祈るのも辞めず、自分たちこそたくさんの困難に、試練に立ち向かわれたゆえに、きっと自分たちの後輩であり、子孫であるはずの「イスラエルの慰め」を願っていたと。そして自分が待ってきた救い主であり、出会った救い主の「幼子」を教える人になっていたと。これだけも素晴らしいですが、よく読めば読むほど、さらに強烈なメッセージを私たちに伝えてくれている今日の福音だと私は思います。それは彼らが長い時間を生きてきたことに「目標」があったことです。現代の私たちが良く触れる人生を啓発するような意味での目標とはちょっと違うと思います。しかし、確かに目標であったはずです。「神の救い」を待ち望むという目標です。  この、聖なる目標を持つ者は、肉体が衰えるまで長く生きることが虚しくならないどころか、聖霊によって「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」と約束され、強められる目標です。そしてそれは実現にまで至り、実現する時が満ち、実現してからは喜びと平安をもたらすのです。それを目の当たりにしたシメオンは神をたたえて言います。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」  聖なる目標は、生きる力を与え、生きる力は約束の実現を見させ、その実現は喜びと感激、平安をもたらせたと証しします。恐れるはずの死を、すでに衰えてきた自分を、安らかに去らせられるときが来たと平安をもって迎える姿。英雄のように登場していませんが、信じる人の模範を大叙事詩のように私たちたちに示しています。「信じる人よ、このようになれ」と歌うかのように。確かに私たちの教会が用いる式文の歌にもなっています。

   救い主は来られました。人々の想像のようではなく、貧しく小さな姿で、しかもすべてのユダヤ人が通る時間と場所において現れました。イエスの人間として両親は当時のユダヤ人が守っていた一定の清めの期間が過ぎてから、子を主にささげるためにエルサレムに来たと今日の福音書は書いています。神に対しても伝統に対しても誠実に、一歩一歩歩む歩みを通して。子の聖別のためには、本当は1歳の子羊をささげるのが一般的な当時の風習であったそうですが、山鳩や家鳩の雛は子羊をささげることが困難な貧しい人々のためのささげものとして示されたものだそうです。マリアとヨセフはきっと当時の世の中では貧しい方の家系だっただろうと思われる一面でもあります。  しかしこの世の貧しさ、人の小さな足取りは、神の救いの実現にふさわしくない姿ではありません。むしろ救い主はそういう貧しさ、素朴さ、しかし誠実な小さな歩みの中に、幼子として、それを待っていた人々に現れたのです。聖霊に満ちいていた彼らはそれを見逃すことなく、そこから自分たちの念願の喜びと平安を見出すのです。  私たちは救い主が人となられ、幼子の姿で現れたクリスマスを祝った後、もっと正しい教会歴においてはクリスマスは終わったのではなく、今日の暦のように降誕節1週という引き続く祝いの期間を迎えました。そして世の暦においては1年の終わり、2020年の最後の礼拝を共にしています。祝いの後のただ小さな時間ではありません。祝いが終わった時間でもありません。無意味な時間ではありません。私たちの小さな足取りを繋げる時間、主イエスと共に歩む時間であり、聖なる目標によって喜びと平安へ繋がる時間です。世の事情が大変だから、不自由だから、不安だから、なくていい時間ではありません。救いという目標を前にして、主が共にいてくださる時間に、無意味と虚しさはありません。今日も私たちにとって新たな始まりの時であり、私たちをささげる時、救いに近づく時、私たちのために来てくださった主イエスに出会う日です。なほ

 祈り:聖なる主、万軍の神よ。あなたのみ名をたたえます。シメオンが歌ったように、アンナが語ったように、私たちが私たちの生を通して、偉大なる神、この世界と私たちを越えて存在している主を待ち望み、その救いを語り伝える者、それによって生かされる者とさせてください。


ことばは生きている

2020年12月25日(金)クリスマス朝礼拝 説教要旨
イザヤ52:7〜10、ヘブライ1:1〜4、ヨハネ1:1〜14
私には今1歳の息子がいます。息子をこの世で見てからそんなに長い歳月が経った訳ではないので、まだまだ息子を見ると不思議な気持ちになります。そして息子の姿から、時々私を感じる、家族の誰かを感じるときは、神秘的だと言っていいくらいの不思議さを感じます。命はこうやって繋がるのか…と。ちなみに去年息子が生まれるとき、立ち合い出産で、私は母の胎から本当に出てきたばかりの息子を見ることができました。この世に出てきて初めての顔を見たその瞬間、私のお爺さんの顔が見えてびっくりしたことを覚えています。私が小学生4年くらいに亡くなって、もう顔なんて覚えていなかったかも知れない家族の顔。今見るとまた変わってお爺さんに似ているようには見えなくなったのですが、そのときはお爺さんに見えて、ある時は親戚の誰かに見えて、息子が怒っているときや意地悪いときには妻に見えて…まさに家族の血を引き継いでいる命を実感します。  そういう息子の姿の中でも、最近とても不思議に感じる瞬間は、息子が声でママとパパを呼ぶときです。まだそんなに教えよう、覚えさせようと努力した訳ではないと思いますけど、韓国語でママとパパを呼んでいます。日本語と韓国語、二つを聞いているからなのか、少しシャイな性格なのか、言葉を発するのは少し遅い方かも知れませんが、聞いている言葉はだいたい理解しているように見えます。夫婦の会話も聞いていて、余計なこと、聞いたらばれてしまうことはもう言えなくなりました。  顔が、体系と体質が、性格が誰かに似ていることも不思議ですが、私の中で一番不思議に感じるのは言葉です。赤ちゃんってどうして言葉が分かるようになるのだろうと。そして自分も言えるようになるだろうと。DNAが、顔や体質が、どこからかその本質を受け継がれるように、言葉も聞くことによって受け継がれる…。命ある者同士の神秘です。  私が息子の話をしたのは、命が受け継がれる様子、言葉が受け継がれ、伝わっていく様子が、今日の福音書の言葉と似ているように感じるからです。「初めに言があった」、「言は神であった」、「言の内に命があった」、「言が肉となった」…。とても神学的で抽象的、象徴的と言える、この有名なヨハネによる福音書の最初の部分は、ぴったり当てはまるとまでは言えないかも知れませんが、息子の命と成長、その受け継がれる姿を感じることとなんとなく似ているように感じます。言葉で上手く説明できないけど、命の見えない本質が、内在していた本質が、移り伝わって、新しものになることを感じさせ、完璧にではないけどこの福音書の言葉を理解させようと、理解を助けようとしているように感じます。

 今日のヨハネによる福音書は、表面上、イエスのお生まれについては直接記録していない福音書です。たとえば昨日のイブ礼拝で読んだルカによる福音書のように、イエスの誕生の予告も、お生まれになったイエスが寝かせられる飼い葉桶の話も、天使と羊飼いも、ヨハネの記録の中にはありません。だからと言ってヨハネはイエスの起源と出現についてまったく触れていないのではありません。誕生の次第自体は伝えていませんが、イエスの存在がどこから来た存在なのかについては伝えています。そしてそれは、それぞれの福音書において伝え方、表現の仕方が違うのであって、結局同じ本質と出現を伝えているのです。つまり神からです。  ルカによる福音書は、マリアが天使のお告げを受け、聖霊が降り、イエスがマリアの胎内に宿る次第を説明しています。マタイも同じことを言っていますが、その次第のストーリーがヨセフ中心です。ルカとマタイによる福音書によれば、イエスの本質と始まりは聖霊、神の力です。 マルコによる福音書は、ヨハネと同じくイエスの誕生の次第は記録していませんが、最初の文章において「神の子イエス・キリストの福音の初め」と、イエスは「神の子」であると指し示しています。とても短い説明です。  それではヨハネはイエスをどう説明しているでしょうか。私たちは先ほど聞きました。イエスは「言」です。神の「言」。その「言」は以前から存在していたのであり、伝わったいたものです。実は一番初めにあったものです。なぜなら神は御自分の言葉によって天地を創造されたからです。「言」は神の意志であり、神の力です。だから世界の以前に由来します。そして世界を存在させた力であり、その「言」の中に命があったのです。  また「言」の命は光でもあると言いています。なぜなら真理を照らし、この世界を、暗闇を、人々を照らすものであったからです。それがイエスであったとヨハネによる福音書は証ししています。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とは、神の子が、神の御意志と力によって人となって、人々と共にいるようになったとの表現です。  この起源を、人々と繋がった形の物語にすればルカとマタイによる福音書が伝える誕生の次第であり、マルコのように結論だけを言えば「神の子イエス」です。実は福音書同士は互いに補っているかのように、それぞれ違う視点をもって、違う表現の仕方をもってイエスを示す中で、ヨハネによる福音書はイエスを「言」であり、「光」であり、「肉」となって人々の間に宿られた神として伝えているのです。分かりやすくというよりは、ヨハネの方はイエスの存在と本質を「深く」、象徴的に証ししていると言えます。  大切なのは、「言」であり、「光」であり、人の肉となったイエスを、私たちがどう受け入れているかです。今日のヨハネによる福音書1章は、イエスの存在と生涯、またこの世界でイエスに触れた人々の反応と姿とを含蓄しています。「暗闇は光を理解しなかった。」「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」という姿が含蓄されており、一方「しかし言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」とまとめています。イエスの「言」を受け入れる者は神の子となる資格が与えられ、神の子どもです。私たちを「暗闇」なのか、神の子ども、神に繋がり、神から生まれた者とならしめるのがイエスの「言」です。 「言」は命から命へと伝えられ、繋がります。真理を証し、悟らせます。命を授かった赤ちゃんも言葉に触れ、言葉と共にいれば、やがて言葉を聴き分け、理解し、語ります。私たちは神の「言」、イエスの「言」と共に生きる者です。その「言」を受け入れる者となることを願います。 今日はイエスの誕生、つまりイエスが肉となってこの世界に来られたことを記念する日。ある人は言います。記念するということは、ただ記憶し、思うことではない。記念する「その出来事を、再び今の出来事として新たに体験すること」だと。またある信仰の先人は言います。「キリストがベツレヘムでたとえ千回、万回生まれたとしても、あなたの心の中にキリストが生まれなければ、あなたは永遠にキリストと断たれた者であると」。 私たちは人の肉となって、人々の間に、私たちの間におられる「神の言」なるイエスを、「再び」、「新たに」受け入れるために今日のクリスマスを記念しているのです。

  祈り: 神様。あなたは主イエスを通して私たちをあなたの子どもとして招いてくださいます。主イエスが人となられたのはそのためでありました。その神の招きを、神の愛を私たちが受け入れ、神の子どもさせてください。子どもが親を自然に、純粋に、素直にありのまま受け入れるように、私たちが神の子となる招きをそのように受け入れることができますように、私たちに神の「言」と信仰によって、神の招きと祝福によって養ってください。世に罪、暗闇ではなく、神の救いの光に当てられる命とさせてください。あなたの御子、あなたと私たちの繋げる救い主イエス・キリストによって祈ります。


これがあなたがたへのしるし

2020年12月24日(木)イブ礼拝メッセージ要旨
イザヤ書9:1〜6、テトス1:11〜14、ルカ2:1〜20
イエスの誕生祝う夜を迎えました。この夜は正確にイエスが人としてお生まれになった日にちではありませんが(それは確かめられませんが)、おおよそ2020年以上の前のある日、世の救い主イエスは、今日のルカによる福音書が描いてくれているように、ベツレヘムという町でお生まれになったことです。  このお生まれは長らく待ち望まれてきた救い主の出現の実現・成就でありました。この礼拝の最初に招きの言葉として聞いたイザヤ書の言葉を含め、数々の旧約聖書の言葉は、やがて神から遣わされる世の救い主の現われを預言していました。その預言の中には、救い主がベツレヘムから出ると預言されている言葉もあります。ミカ書5章、「エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしたちのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」  そして礼拝の最初に聞いたイザヤ書の言葉の中には、「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。/ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。/権威が彼の肩にある。/その名は、『驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。/ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。/王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。/万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。』」とあります。  この実現を、今日のルカによる福音書は伝えてくれます。「ベツレヘム」で「ひとりのみどりご」が生まれました。しかしこのお生まれは、イエスの命を授かり世話をした夫婦、そしてその周りにいた、当時の世界で身分の低い羊飼いたち以外には、まだ誰にも気づかれないまま実現したのです。こうして神の遣わされるみ子は人の姿でこの世に現れた、静かな始まり。静かなだけでなくいと小さく、多くの人々に比べれてもっと貧しく、困難な状況の中での始まり・実現だったのです。 その姿は、イエスのお生まれの場面に限られるものではありません。イエスの生涯を貫いて、弱い人々、苦しむ人々と共におられたイエスの姿、そして十字架の死というもっとも惨めな姿にまで「降りて来られた」イエスが救い主だった!それがルカによる福音書が伝える、救い主イエスです。

イエスは世の英雄のようではなく、神話のようにでもなく、いと小さな姿で人となられた。これが私たちへの「しるし」です。そして私たちのための「しるし」です。世の数々の神話、権力者や偉人たちの物語のように、それぞれの存在を特別な存在とたらしめる「自分(その存在)のため」の特別なストーリーではなく、人々の中で人々の上に郡臨し、輝くための特別なストーリーではなく、世の人々と変わらず、むしろ世の人々よりも低き姿になられたことを、その全生涯を通して、成し遂げられたストーリー。その、人としての姿の始まり、それが今日の福音書のストーリーです。 私たちはこの「しるし」を通して、神の救いが私たちの世界に届けられたことを知ります。むしろその救いが、この世のもっとも低いところで働かれたことを知ります。残した言葉とその魂が私たちとも共にあり、それを信じることによって活かされることを知ります。そして励まされます。私たちが歴史と文化の積み重ねによってクリスマスを喜び祝い、楽しむ以前に、主イエスは、そして生まれたみみどりごを人間の親として世話をしたヨセフとマリアは、そしてまだ誰も隣にいてくれなかった場面において天使の知らせにより生まれたイエスの隣にいた羊飼いたちは、困難の中でも、孤独の中でも、救い主の現われのために協力し、仕え、自分たちもそれによって喜んだこと、これは私たちへの励ましでもあります。

時代と地域、文化も、今の私たちと共通点がなさそうな背景に思われるかもしれませんが、この世を生きる人の姿の大変さ、寂しさ、だいたい一緒です。結局その本質は同じような原因、同じような世の流れから生み出されます。 マリアとヨセフはなぜ身ごもった姿で遠い所への旅に出かけたでしょうか。旅先の途中で子が産まれる事態を招いたでしょうか。しかも部屋が確保されない場面で子を産むようなことをしたでしょうか。住民登録をするためでした。住民登録は、世の支配者が自分の支配を整えるためなのか、秩序を確立するためなのか、税金を集めるためなのか、その良し悪しとは別に、一つの家族一人の生涯に必ずしも益になるものではありません。私たちもそうです。世界の流れによって、勢力によって、力ある人々の政策とその影響力によって動かされなければならない事情があります。というか、そもそも様々な影響力の中で生きていることは、私たちの生活の前提です。その間に家族と出会い、家族を成し、家族を守ります。マリアとヨセフ、イエスの家族と一緒です。今から子が産まれるのに部屋がないというのはあまりにも可哀そうかも知れません。でもこのような大変な事情はこの世の中で起きるものであり、時々程度の違いはあっても私たち何らか抱えるこの世界です。神からの救い主が人となられたというのは、人としてこの世で直面する困難、そこから生きるためのとっさの対応、苦しみの中でなんとか何かを守り、成し遂げようとする人々の姿、その姿になられたことです。お生れになる瞬間です。 羊飼いたちは貧しく、身分の低い人々に回されて仕事です。この世の社会、秩序、思想や理念も発展を成し遂げ、私たちは表上平等な社会に生きていますが、本当の意味ですべてが平等なのか、差別はないのかと言ったら、そうとは言えません。イエスがお生まれになる夜も羊飼いたちは寒い野原で羊の番をしていました。いつも羊の世話をするので家族もない人々だそうです。人々に比べて、仕事が汚い、寒い、休みがないみたいな大変さだけではないと思います。彼らは社会の中で低く見られる階級であり、そもそもあまり人々と一緒ではない彼らです。しかし救い主は世の中でどんな人々よりも、貧しく孤独な彼らの前に一番先に現れたのです。そして彼らの喜びとなられたのです。その姿はイエスの生涯、働きから見られるものです。「丈夫な人」ではなく、むしろ「病人のため」。自分たちが正しいと思っている「正しい人」のためではなく、むしろ「罪人」。貧しい者、飢えている者、泣いている者…世の中ではまず彼らのところに行かれ、彼らの友となられたイエスです。

 しかし私たちは今日の福音書の記事から喜ぶ人々の姿を見ます。その姿を見る前に、私たち、今までの自分自身なら何が私たちを喜ばせるのでしょうか。今からどうすれば自分は喜ぶでしょうか。それを一旦おいておき、今日の福音書の中にいる「小さい人々」は何で喜んだのか、私たちは見るべきです。神の使いによるお知らせを受け、その出来事を見ようではないかと思ってベツレヘムへ走り、お告げどおりの実現を見て喜んだのです。そしてその喜びはどれほど大きな、深い喜びだったのだ、彼らは賛美しながら帰って行ったというのです。その記録だけです。貧しかった羊飼いたちがお金持ちになったとか、偉い身分に変わったとか、彼らのこの世での状況が変わったとか、一言もありません。もしそのような話が加わったならこの世の人々にはもっと分かりやすいかも知れませんが…。  言うまでもなく、彼らは、救い主が彼らのために与えられたという神の知らせとそれが実現した「しるし」を見て喜んだのです。そして言うまでもなく、お金があったら喜ぶ、欲しいものが与えられたら喜ぶ、人々に認められ、重んじられたら喜ぶ人々より、世の中ではどんなに偉くても、結局自分の喜びを「現世的な欲望」に自ら限定させているどんな人よりも信心深いのです。そして幸せなのです。それに、彼らの喜びはその後の状況によって変えられたり、失われたりするものではありません。彼らは神の知らせを受け、神の約束の実現を見たので、それを喜んだので、その喜びは神の国に帰るまで変わらないものです。 私たちはこのクリスマス夜、イエスのお生まれの夜の出来事から、本当の喜びを学ぶことができるのです。それは救い主が人となられてこの世に現れた喜び。そして神の救いはイエス・キリストのお生れから始まり、その教え・み言葉によって約束され、聖霊を通して、イエスの弟子たちから各時代の信仰者を通して、我らの教会を通して、私たちに届いていること。この夜はそれを喜ぶ夜です。本当の喜びは消えないで繋がります。救い主が生まれたことを喜ぶ喜びそうです。これからも続き、世の人を支え、讃美させるでしょう。私たちも救い主のイエスのゆえに喜ぶ人になりましょう。

全能の神様。この世界に、私たちに、救い主を送ってくださり、救いのしるし、神様の愛を示してくださったことを感謝し、あなたのみ名を賛美します。私たちがこの世で遭遇する様々な場面、様々な困難の中から、神様が与える喜びを知って信じる者とさせてください。一時の喜びではなく、朽ちる、空しい喜びではなく、本当の喜びで私たちの命を満たすことができますように。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。


おめでとう、恵まれた方

2020年12月20日(日)待降節第4主日/クリスマス礼拝 説教要旨
サムエル下7:1〜11,16 ローマ16:25〜27 ルカ1:26〜38
● 改めてクリスマス
 とうとう2020年のクリスマス礼拝を迎えた今日の朝です。私たちの教会が用いている暦にもっと厳密であろうとするなら、まだ降誕の祝いはちょっと早く、今日の主日は待降節第4主日と見るべきかも知れませんが、待降節第4主日であると同時にクリスマス礼拝とするのが多くの教会の姿です。  キリスト教会の三大祝日の一つですが、肌で感じる感覚では、3大祝日の中でも最も派手に祝われる祝日、そしてキリスト教信仰者だけでなく、世界のもっとも多い人々に知られている祝日がクリスマスであることは間違いない現実だと思います。それには、この世界が覚えたい、祝いたい傾向の影響ではないかと思います。簡単に言えば、イエスの復活よりも、そしてイエスの昇天後、約束した聖霊が降りてきたことよりも、主なるイエス誕生した記念日の方がより祝日らしい、より分かりやすい、より楽しみやすいという傾向が影響された結果ではないかと。  私がクリスマスを懐疑的に、否定的に思うからこう言っているのではありません。どちらかと言えば、同じく重要な祝日であるはずの復活祭や聖霊降臨祭よりも、色んな意味でもっと特別に思い、注目しがちなクリスマス。そこにはこの信仰的であるよりは、世界の文化的な要素が含まって、クリスマスのイメージが作り出されたことは確かだと思いますが、要するに、単に「誕生日だから」という理由、その理由であまり考えずに「とりあえず祝おう」的なクリスマス。他の人々がそうするから、欧米の国々がそうしていたから、プレゼントが来るから、雰囲気がいいから…のクリスマスなら、それに対して、私はちょっと懐疑的かも知れません。別にそれでもいいのですが…。そしてこう言いながら、私もクリスマスだから、何かちょっと特別に食べたい、飲みたい、何かを買いたい気持ちになりますが、本当のクリスマスの意味くらいは、その本質くらいは保つべきではないかという懐疑です。

● 受肉
 この時間は、クリスマスという「祝日」に対する確かめの時間ではありませんが、クリスマスはイエスが生まれた日にちではありません。イエスが誕生したことを祝い、礼拝するために制定された日です。それはここにいる多くの方々も知っていることでしょう。 イエスという名がこの世界に知られるようになったのも、イエスが生まれた時点で知られたのではありません。人々を教え、いやし、不思議な業を行ったイエス、そのイエスが十字架に付けられて死んだ、そして復活して、その弟子たちが「復活」をこの世界に証したことによって、イエスの名は広められたのです。そして実は、そのイエスはどういう存在だったのか、どこから現れた存在だったのか、その家族、出身はどういうもので、その生まれはどうだったのかを遡ることで、イエスの誕生は祝日になったはずです。こういうスタイルの検証はそんなに重要じゃないと思われるかも知れませんが、イエスが世に知られた順番はこういう順であるはずです。だって、誰もが知っているイエスの誕生の物語のごとく、イエスが生まれたとき、世の人々が注目した訳ではありません。むしろ旅先で部屋もなく、産まれたイエスを始めて目撃したのは野宿していた羊飼いたちで、イエスの親も全然特別な身分でもなかったからです。 私なりにクリスマスという祝日を、信仰的に一言でまとめるなら、それは「受肉」です。神の霊が降り、それが人の肉を受けたことです。そして人として現れたことです。それが神の、世界に対する救いの新たな始まりであり、それまで待ち望まれてきた「救い主が来られる」という預言の実現である「受肉」です。ある意味、イエスの死よりも、信じられている「復活」よりも、そしてイエスが送ると約束した霊が弟子たちに降臨したことよりも、人間的には理解し難い神秘、それが「受肉」かも知れません。 そしてこの神秘、この奇跡、この信仰の支え、始まりとなるのは、「あのイエスが神からの救い主」、「あのイエスが神によって備えられた子羊」、「あのイエスの霊が神の霊」、「神の言葉」であった、という証です。私はイエスの誕生を礼拝するクリスマスをこうまとめます。

● マリアの信仰
 その受肉について、ルカによる福音書は今日の箇所を通して描いてくれます。イエスの受肉がどうやって実現したのか。それは一人のおとめの信仰を通してです。神の大いなる計画、この世界に示されるとても大きな出来事は一人の若い女の人とその信仰によって実現します。要らない補足かも知れませんが、マリアの信仰が救い主の受肉を実現させてのではありません。実現なさるのは神です。聖霊の力です。マリアはそれを受け入れ、神の業のために用いられた人です。  言うのは簡単です。マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と世界の歴史に刻まれる言葉をもって天使のお告げを受け入れたのだと。聖書は淡々と伝え、私たちも淡々と理解しがちですが、それによって聖なる信仰の記録の重みが失われた淡々さになってはいけないことと思います。文字数には現れていない重みが、この始まりの場面から、ここでのマリアの信仰告白の中に含まれていると思います。  私はこの記録について説教をする役割なので、ここでのマリアをこのように言い換えましょう。マリアは自分よりも神を選び、重んじた信仰者です。 マリアはこの世の人間的な目では普通過ぎる女性です。実はマリアという名前すらユダヤ人の間では良くある名前です。この世界の中で小さな民族、しかもローマという大国に支配されている民族、さらにその小さな民族の中ででも田舎町、注目されない町からの一人の女性です。大工の男性と婚約しているおそらく10代の女性です。ルカによる福音書の中で、今日の箇所でも、そしてそれに続く部分のマリアの賛歌にも書いてあるように、マリアは自分を「身分の低い」、「主のはしため」と言っています。神の目は、この世の中で、こんなに小さい存在に留められたのです。それは福音書記者ルカが注目する点でもあります。イエスの現れ、受肉の場面から、イエスの周りにいる人々は身分の低い女性、同じく身分の低い、貧しい羊飼いたちです。  それに、世の小さな存在に目を向けられた神の選びは、その小さな存在がこの世で困るかも知れない事情はあまり気になさらなかったのかのように、まだ成婚に至っていないマリアの胎内に入られました。これはこの箇所の説教を聞いてきた方々なら何回も聞いてきたはずの内容で、厳格な宗教的な規律を重んじる当時のユダヤ人にとって成婚の前の妊娠は罪です。それもかなり重い罪です。もちろん道徳的に、人間的な目線から重い罪です。結婚を約束している相手に対しては裏切り、人々の宗教的な評価からはみだらな、姦淫を行った女性と見られ、最悪の場合石打ちの刑、それに逃れたとしても、周りの人々からはそういう目で見られる女性になるということです。彼女のそこからの人生が、そして彼女から生まれる子どもの人生が、こういう人々の目線を受けて生きなければならないことを意味します。これは、淡々と書かれている聖書の記録に余計な想像力を加えた解釈ではなく、当時の事情に照らし合わせた現実だったはずです。  そこでマリアは答えました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」これはマリアが若かったから言えたものでしょうか。あまりその後のことについて色々、考えられなかった言えたものでしょうか。決してそういうマリアとして表現したルカによる福音書ではないと思います。マリアが人間的な、この世的なことを重んじたら、神の使いに対して、神の計画に対して、このように答えることはできないはずです。「わたしは主のはしためです」(女の僕です)と、神を信じ、従うから自分であるからこそ、このように答えたのです。自分を置いておいて、神がなさろうとすることを選んだのです。

● 神の計画を受け入れるということ
 私は、ここでの若いマリアの信仰の重みをもっと分かりやすく味わう方法に思いつきます。自分自身にこう問い直してみたらどうでしょうか。「神は私を通して、神の計画を実現しようとしている。それに伴って、これから人々はこの私を、罪人を見るかのように、姦淫し、裏切りの人かのように、私の子どもも汚れた人の子であるかのように見る運命が待っている。」もしそうならば、私は神の計画に従うだろうか、もしくはそこから逃れようとするだろうか…という問いです  今やこの世界と教会の歴史において、また見方によっては「聖母」とも呼ばれるマリアと自分を比較することはやはり無茶なことでしょうか。しかし私は思います。マリアのように神の子を身ごもるという奇跡までではなくても、誰に対してもその人に対しる神の計画があって、それを受け入れ、従い、私たちがその道に進もうとするとき、私たちはこれに似たような問いかけと選択に迫られるのではないかと。「私」を通して、「私」に対してなさろうとする神の計画に従おうとするときに、私たちはこの世に対しては、人々に対しては、また自分自身に対しては、諦め、下ろさなければならない何かがあること。逆に背負わなければならない何かがあることを。私たちは多分必ず、このような問いに、時には悩みに直面するのではないかと思います。そして実は、自分が選択するより、すでに何かを諦めるか、何かを担うかの自分自身になっていく私たちがいると思います。  マリアは、自分が進む道の焦点を神の計画に合わせた信仰者です。そのことによって、彼女は人々の目線を自分の人生と身をもって受けなければならなかったかも知れません。そして十字架に付けられる息子を生んだ悲しみを背負わなければならないことになったでしょう。しかしそれは、神の御子が、罪ある人間の業によって人となるのではなく、聖霊によって受肉するという神の業を受け入れ、協力するという、まったく次元が違う大きな、貴いことのために自分をささげたことになります。  神を信じ、神に従うということは、限られた自分、人間的な考え、利益ばかりを見るのではなく、それより貴い神の計画に自分の人生の視点を、焦点をもつことです。もちろんそれは大変で、悲しい犠牲ばかりが伴うに決まっているものでもありません。ただ、さらに貴いもののためには、下ろさなければならないこと、逆に担わなければならないことがあることは、信じて従おうとするすべての人々に共通するものではないかと思います。  救い主は、私たちの考えも感覚も超えた姿でこの世に来られ、示されました。それは人の肉を受けた神を通して、私たちが神と共に生き、その言葉を聴くためです。そして私たちも神の計画と導きに従うためです。そのための受肉、クリスマスです。  今はコロナウィルスと代表されるこの世での困難より、神によって与えられる喜びは大きいものです。


まっすぐな道

2020年12月13日(日)待降節第3主日礼拝 説教要旨
イザヤ61:1〜4, 8〜11、テサ一5:16〜24、ヨハネ1:6〜8, 19〜28
● 私たちが知るべきこと、すべきこと?
 今年ずっと続いている私たち、この世界の都合ですが、また新型コロナウィルスの感染者が増えています。こんなサイクルを何回繰り返したら、この問題は終結できるか、今の私たちにとっては分かりません。ただ、こういう時こそ、私たちは問題や恐れを直視し、私たちがすべきことを行うのが最善です。最善というのは、私たちが出来もしないことをむやみに頑張ることではありません。私たちに出来ること、その中で一番必要とされることをすることです。問題を直視するということもそうです。ただただ怖がる、心配し過ぎる、他人の言葉に振り回されすぎることは、直視することとは違います。これらの姿は、事実よりも恐れさせる部分のみを拡大し、そればかりを見つめることです。こうなることも、逆に私たちの大切なことを忘れさせたり、失わせたりする可能性が十分あります。  私たちの状況とその中の自分の姿を正確に知ること、そして自分がすべきことも正確に知ること、考えてみれば、コロナウィルスの状況だけでなく、私たちが生きるすべての場面に必要な構えでした。自分と周りの状況、自分が出来る、すべきことを正確に知ること、そんなに特別なものに聞こえないかも知れません。しかし私たちの人生の課題です。正確に知ること…意外と難しいことです。実は私たち、私たちが聞いている日々の情報や他人の言葉さえ、それが事実もしくは真実なのかと意外とあまり確かめられずに触れています。そしてそれらの情報や言葉によって揺れ動く私たちの気持ち、心、感情…なおさら私たちの正確な気付きを邪魔します。正確に知るって、実に簡単なことではないかも知れません。そして私たちは何かを正確に知ることが難しいゆえに、何もかもを知ろうとするより、本当に大切なもの、自分に本当に必要なものを気付くことで精一杯かも知れません。実は何もかもではなく、本当に気づくべきものだけをわきまえ、守る、それで十分な私たちの命かも知れません。

● 曲がった思い、曲がった人
 何か人生論を語っているような出だしのようですが、今日の待降節第3主日。教会歴に従って礼拝をする多くの教会において、待降節第二と第三週は洗礼者ヨハネに関する日課です。それで私たちも先週に続き、今週も洗礼者ヨハネの姿を福音書から見ています。洗礼者ヨハネという信仰の偉人をどのように語るか…、選択肢も糸口も色々ある中で、私は今日、この人物を「正確に知った人」として見つめてみたい思います。  洗礼者ヨハネは「正確に知る」ことに成功した人だと私は思います。自分の人生の中で自分の使命を知った人です。それも正確に知った人です。というのは、正確に気づくことを邪魔する要素も結構あったはずです。彼の厳格な教え、「悔い改めなさい」という叫びが民衆に響いたようで、ある人々は彼が来るべきメシア、長い歴史の中で預言されてきた救い主ではないかと言い始めたようです。だから今日の記録の中で、洗礼者ヨハネに質問する人々が送られました。「あなたはどなたですか」。  この質問の意味は、「あなたが(ある人々が言うように、そして預言されてきたように)メシアなのか」という質問であったので、ヨハネは「わたしはメシアではない」と言い表しました。「では、何ですか。あなたはエリヤですか。」以前からユダヤ人たちは来るべきメシアが現れる前に、旧約時代の代表的な預言者エリヤが再び現れると信じていたので、質問者たちはこのように聞いた訳です。エリヤではないと答えるヨハネに質問者たちはさらに、「あの預言者なのですか」と聞き続けますが、ヨハネはことごとく「違う」と答えました。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」神経質に聞こえる質問です。人は自分が求める返答じゃなければ神経質になりがちです。あまり良い気付きではありませんが、私は自分の姿を含め、私が見る人々の姿からそう感じます。しかしヨハネは投げられた質問に正確に答えただけです。自分が違うと思って知っていることを、ただ「違う」と言っただけです。  ここだけでも、私たちは「正確に知る人」とそうでない人とを区別することが出来ます。自分が違うと思っているからその通りに言うことは相応しくないことでも、無礼なことでもありません。むしろその通りに言わないで、曲げたり、回して言ったりすることが正しくないのです。私は、この質問者たちの姿から、良くない、人間の断面を見ます。彼らの期待する答えは実は聞く前に決まっていたようです。それは洗礼者ヨハネが「自分がメシアだ」とか、「自分がエリヤだ」とか、「自分は(例えばモーセのような)大きな預言者だ」と言って欲しかったのだと思います。じゃ、そう答えられたら、ヨハネを尊敬するために、ヨハネに従うために聞いたのか?そうは限りません。むしろ新約聖書が描くユダヤ人の姿、特にファリサイ派の人々や当時の祭司たち、当時の民の中で指導的な立場の人たちの姿からすれば、神によって遣わされた真実な人を重んじる彼らではなさそうです。  彼らは自分たちのための質問をしているのです。それも非常に自己中心的な質問をして、自己中心的な答えを要求しているのです。ヨハネの答えによって自分たちの立場を決めるためです。おそらく、ヨハネが「わたしがメシアだ」とか、「エリヤだとか」、「あの預言者だ」と言うなら、そうであるはずがない理由を見つけて民衆に注目されているヨハネを断罪するためです。だから「違う」というヨハネの正当な答えに不満です。自分たちの期待通りでないからです。 それに「それではいったい、だれなのか。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければならない」と焦ります。「違う」という返事は返事ではないでしょうか。しかも「自分たちを遣わした人々に返事をするため…」。私は個人的にこの場面をとても主体性のない姿、情けない姿として見ます。彼ら質問者は当時の祭司でレビ人です。彼らを派遣した人たちはもっと偉い人々だったかも知れませんが、彼ら祭司とレビ人も、当時の民衆の間で十分偉いとされた人、宗教と信仰を指導し教える立場の人々なのです。「あなたはどなたですか」から始まった質問、「メシアなのか、預言者なのか」と自分たち民族の信仰に直結する質問を、ただ「報告するため」に投げかけている彼ら。それも、おそらく良くない意図で遣わされ、質問している彼らは、ヨハネが自分たちの期待通りでないから苛つきます。美しい気付きではありませんが、私にはある意味の教訓で気付きです。真実をむしばむのは、人との絆をむしばむのは、人と人の間の大切な何かをむしばむのは、すべて利己的で自己中心的な人々の意図です。実は利己的で自己中心的な思いが、何かの理由を被って変装し、まるで正義かのように、まるで正当な理由かのように人々に要求されます。そういうのを要求する人々は曲がった人たちです。まっすぐでない人たちです。まっすぐでなく、「曲がった人」って、多少抽象的で良く分からない説明かも知れないところ、まさにここの質問者たちのような姿です。そんなに登場人物がたくさんいる訳でもない中、まっすぐな人ヨハネの前で曲がっている人々の姿をこのように見つけることができるのです。

● 曲がったものをまっすぐに
 しかし、まっすぐな人ヨハネは曲がった質問に対してもまっすぐに答えます。「あなたはだれなのか」に対するヨハネの答え。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」  ヨハネは自分が「主の道をまっすぐにするために」叫ばれる声であると証ししています。これは、ヨハネ自身が気付いて知っている自分であり、自分の使命です。自分は、人々が自分の後に来られる偉大な方を迎えるために、曲がったものをまっすぐにするための者。そのために荒れ野で叫ぶ者であると証ししています。実は曲がった心では真実を知ることも、救い主を認め、迎えることもできないからです。悪い思いに結ばれた心は、神の人を認めず、認識しません。自分たちを高く思う心、実は自分しか見ない心は真実な存在を軽蔑します。だから曲がった心はまっすぐにならなければなりません。それがその人の道でもあります。ヨハネは、自分をそのために叫ぶ声であると。まさしく「悔い改めなさい」と叫ぶ声だと、自分を正確に気付いていたのです。  ヨハネによる福音書が描くイエスは「神の言葉」であり、「世を照らす光」です。難しく聞こえる描写かも知れませんが、イエスが真理を照らす「神の言葉」で、ヨハネはその言葉が聞こえるように、人の中に入るようにする「叫び」なのです。「言葉」、「真理」が「叫び」、「音」によって繋がる大きな役割です。そのために神に遣わされた神の人です。  まっすぐで、正直で、神の前でへりくだるヨハネは、自分は「後から来られる方の履物のひもを解く資格もない」者だと言っています。謙遜になるのが美徳だからこう言っているのではありません。人間ヨハネは自分が知らないもの、出来ないことを知っているからです。神によって遣わされ、預言の使命と力を授かったヨハネでも知らないのは知らないこと、出来ないことは出来ないのです。ただそうである自分を知っていて、自分の後、救いの御業は、神、救い主の働きであることを知るヨハネです。聖霊がおとめの胎内に宿り、初めから神と共にあった言葉が人の肉となる神秘は人間の知恵では解けない神秘です。そうやって信じる人々の救いへと展開される神の計画を、当初の人間ヨハネはその全部を知ることができません。だから後から来られる方、イエスのひもを解くことまでは出来ないヨハネであって、そういう自分を知っていたヨハネです。  そして自分は曲がったものをまっすぐにするために叫ぶ者、悔い改めさせるために水で洗礼を授ける者。その後の神の業をまだ知らなくても、自分が神でなくても、自分の後に来られる方を知っていて、その方を示すことができたヨハネの使命でありました。ヨハネはそのためにいる者です。今を生きる私たちのためにもそうです。救い主イエスの直前、もはや歴史上では同時代にいて、救い主イエスを示した最後の預言者。私たちはヨハネの叫びを通して、洗礼を通して、主イエスが近くにおられることを知ることができます。それゆえに、今一度悔い改め、心をまっすぐに、私たちが主を迎える道をまっすぐにしなければならないことを気付かせる声、今日も私たちに届いています。


呼びかける声がある

2020年12月6日(日)待降節第2主日礼拝 説教要旨
イザヤ40:1〜11、ペトロ二3:8〜15a、マルコ1:1〜8
● マルコの伝えの初め
 待降節第2主日を迎えた今日の福音書のみ言葉はマルコによる福音書の最初の部分です。教会の暦では、先週から始まったこの新しい1年、主に読まれる福音書でもあります。こう始まっています。「神の子イエス・キリストの福音の初め」。  とても簡潔な表現です。マルコらしい書き始めです。というのは、他の福音書と比較するなら、4つの福音書の中で一番短いのがマルコだからです。しかしイエスの治癒の出来事、奇跡物語は一番数多く記録しているのがマルコです。新型コロナウィルスを始め、たくさんの不安や圧力に苦しんでいるかも知れない私たちも、新しく始まった1年間、マルコが伝えるみ言葉によって「いやされる」1年になることを願ってみます。 マルコは、マタイやルカのようにイエスの誕生については触れていません。またヨハネのように、イエスがどんな存在なのかについて、それほど深く説明していません。これは、神の子であるイエスの福音、その始まりであると手短く、明瞭に書き出します。この書物のタイトルのようで、序論のようです。そしてすでに結論でもあります。「イエスは神の子である」と最初から書き出しているからです。 この書き方は、この書き方としての分かりやすさがあります。実はどの福音書もイエスが神の子であることを伝えているはずです。敢えて、各福音書の始まりの部分だけ比較して見ますと、マタイとルカはイエスの誕生の物語を通して、マタイはヨセフ目線で、ルカはマリア目線で、イエスの誕生のストーリを伝えることによって、イエスは神からの存在であったことを伝えます。しかしマルコはそれなしに、それを要約した結論だけを伝えるかのように、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と伝えます。 このスタイルはヨハネとも違います。ヨハネは、「初めに言があった。言は神であった。…その言が肉となってこの世界に宿られた。」と、難解だと言われても仕方がない書き方で、教会的には一番神学的で内面的な印象で書き出しています。 もちろんこれら4つの福音書の中で何が一番優れているかを決めつけるのはふさわしくありません。それぞれのスタイルがあって、それぞれの個性があります。私たちのようです。人と人とがそれぞれ違うキャラクターであるように、福音書のスタイルもそれぞれ違いますが、私たちはそれぞれの個性によって、イエス・キリストの福音をさらに豊かに受け入れること、それが大切です。 イエスの使徒ペトロの弟子で通訳者だったと伝えられるマルコ。確かに、余分なものなく、イエスの生涯と働きをそのまま、たくさん伝えるマルコによって、イエスの福音を明瞭に、明確に受け入れましょう。

● 前の段階を経て
 今日の福音書は、1章1節から8節と、毎週読む福音書の分量としても短い方です。そしてまだここにはイエスの姿がありません。旧約聖書の言葉と洗礼者ヨハネが登場しています。しかし、これも、これが、イエスの福音の始まりであるということです。これらが神の子イエスに繋がっているゆえに、まだここにイエスの姿がなくても、ここからが福音、まさに「良い知らせ」の始まりなのです。  すべてのことが起こるためには、その前の段階があります。水が湧き出るためには熱がかけられる時間が必要です。火山が爆発することもいきなりのことに見えますが、見えない地下では圧力と熱が集まってくる段階があることでしょう。植物が実を結ぶことも、実がひとりで成るのではなく、太陽と水と栄養を吸収した時間があり、成長し、命のエネルギーが結集して実ります。  神の救いがこの世界に示されることを何にたとえましょう。火山の爆発でしょうか。イエスによって爆発的な波及力が現れたことはそれに似ているかも知れません。しかしよく見れば、これにも段階があり、経過があって、神の計画によって驚くべき福音が現れたことを私たちは聖書から読み取ることができます。長い間の熱望が集まって、その熱望は叶えられるまで時代から時代へと繋がり、その熱望が実現する瞬間が来る。旧約の歴史と時代ごとの預言者の言葉が重ねられ、ついにイエスが現れる直前、洗礼者ヨハネの時です。  別のたとえとして、神の福音は、今や知り出そうとしています。走り出す瞬間はイエス・キリストのときです。洗礼者ヨハネは「よ〜い、ドン」の「よ〜い」という掛け声の瞬間かも知れません。しかし、実は走り出すための前の段階もあったはずです。走るための鍛えのとき、成長のとき、走ろうと思い始めたとき…。数えるならば長すぎたかも知れないその期間は、旧約時代の熱望の時代、預言の時代であって、それが重なり続けてきてようやく、福音が走り出そうとする直前、洗礼者ヨハネが現れたのです。  私の想像とたとえが、納得できるほどのものなのかどうか自信はありません。しかしマルコ的に、簡潔に、「神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤ書にこう書いてある。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう』」であります。要するに、イエスの登場はいきなり、とっさの、偶然の現われではなく、長い間の預言と熱望の時代を経て、神の計画によって実現した、それがイエスの福音であることです。


 マルコは確かにまとめることに長けていたかも知れません。「預言者イザヤの書にこう書いてある」と言いながらその続きに、「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」しかしこの引用はどうもイザヤ書だけの引用ではないみたいです。多くの解釈がこの引用には少なくとも三つの旧約の箇所が反映されているとのことでした。主エジプト記23章20節、「見よ、わたしはあなたの前に使いを遣わして、あなたを道で守らせ、わたしの備えた場所に導かれる」。今日の第一の日課でもあったイザヤ書40章3節、「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」マラキ書3章1節、「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に備える。」  これらの言葉がどのように合わさってマルコの言葉になったのか、それを知っても知らなくても、洗礼者ヨハネに至るまでの長い道のりと経過があったことは事実です。そしてようやく実現の直前です。洗礼者ヨハネも、区切ってみるならば一つの成就、実現です。彼は預言された通り、イエスの登場の前に人々を準備させ、荒れ野で叫んでいたからです。「そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えていた。」  人々を準備させる者はヨハネです。それも直前の準備です。そしてその準備とは、「悔い改め」させることです。罪を告白し、赦される準備をすることです。自分を清めて救いを迎える備えをすることです。見失っていた信仰、曲がっていた心、神から遠ざかり、逆らっていた自分を悔いて(後悔して)、改めることです。心を再びまっすぐに、そして再び信じ、神に立ち帰ることです。ヨハネは荒れ野でこのことを教え続け、水による洗礼を授けていました。しかしこれが完全な赦しと救いの実現ではないことは、ヨハネ自身も知っていたのです。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」  こうして、ヨハネはただただへりくだって、人々が自分に集まってきても、従っても、尊敬されても、ただただ自分の使命、役割を正確に保ち、次の瞬間へと、次の優れた方へと、時を繋げたのです。そのときが長く預言されてきた実現、神の子、救い主の現われの直前の時であって、現れた方はイエスである!それがマルコの伝える福音の始まりであります。

● 私たちがすべきは「悔い改め」
 ゆえに、私たちが今日の言葉から受け入れ、倣うことも明確です。それは「悔い改める」ことです。救いが実現するために、主イエスが私たちのところに来られる準備のために「悔い改める」ことです。それは必要な過程であり、道です。そして直前の段階です。これがないなら、自分に本当の救いは現れていないと言っちゃっていいと思います。悔い改めは通るべき道、過程だからです。私たちは、自分の罪を認め、告白し、赦しを願うことを否定的に捉えてはいけません。それは恵みの現われなのです。見失っていた、遠ざかっていたものが立ち帰り、道が見え始めたしるしだからです。その先に主イエスはおられるからです。 私たちルーテル教会の柱であるルターは言いました。それも有名は95か条の論題の一番初めにこう言っています。「私たちの師にして主であるイエス・キリストが悔い改めよと言われた時に、それによって主イエスは、キリスト者の全生涯が悔い改めであるべきことを求めておられたのである」、これがルターの第一の提題です。ルターは、『大教理問答』という著書の中で、「もしわたしが罪の告白を勧めるなら、それはわたしがキリスト者であることを勧めているのである。」私たちが本当の信仰者となる招きは、実は罪の告白への招きであり、そうすることは信仰の始まりなのです。なぜなら赦しと救いとは偶然ではないからです。求めと実現、神の計画だからです。 今日の第二の日課、ペトロの手紙にも書かれています。「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは遅いと考えているようですが、主は約束の実現を送らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます。」だから、「愛する人たち」と呼んで勧めていることは、その一番の始まりは悔い改めることです。それが平和に過ごすことの始まりでもあります。むしろ忍耐しておられるのは神様であると、待っておられるのは主だと言っています。 「悔い改めなさい」と呼びかける声がある、それは私たちにまだチャンスがあることのしるしであり、時が近づいている、救いに招かれている、愛されている、待ち望まれているしるしなのです。最後に、信仰の先人、古代の教父オリゲネスという人の言葉で話しを結びたいと思います。「主はあなたの中に道を開こうとされます。その道を通してあなたの心の中に入り、あなたの道を造ろうとされます。主の道はあなたの中に作られなければなりません。人の心はこの世界のように大きく広いです。しかし大きくて広いとは肉体的な量が大きいという意味ではなく、真理を認識する心の力が偉大である意味で理解してください。まっすぐな生き方を通してあなたの心の中に主の道を備えてください。主の言葉がつけつけと入っていけるように、あなたの生き方の道をまっすぐに備えてください。」


目を覚ましていなさい

2020年11月29日(日)待降節第一主日礼拝 説教要旨
イザヤ63:19b〜64:8 コリント一1:3〜9 マルコ13:24〜37                                          
● また新しいとき
 11月の最後の主日、待降節の始まりの主日を迎えました。教会の暦によって新しい1年の始まりの主日です。私たちが生きる時間、それは私たちがこの世の生を閉じるまでずっと連続しているものではありますが、その中に終わりと始まりを私たちは繰り返し見出します。私たちの1日の中にも、実は止まっていない時間を1日の終わり、1日の始まりと区切ります。私たちの働きや作業においても、働きの始まりと終わりに。そして1週間、1か月、さらに学期や季節、年度、1年の始まりと終わりへと、考えてみれば数多くの終わりと始まりを設定するのです。これらは何のためにそうするのか、意味を見出そうとするなら、それは私たちが新しく生きるためにではないかと、ずっと繋がっている時間と命を、それぞれの時期にふさわしく備え、新しく生きるためではないかと私は思います。  この世を信仰もって生きようと、また神様と共に生きる教会にとって、また新しい1年が始まりました。また新しい時を数えるのは、ただ私たちが生きた年数を数えるためだけではありません。時間が過ぎていくことに憂いを感じるためでもありません。新しく生きるためです。新しいときにふさわしい私たちを整えるためです。そして希望と喜びを見出すためです。

● 神が与えられる時を見る
 この新しいときに与えられた今日の主イエスの御言葉はまず、終末、この世の終わりが来ることの予告です。「世の終わりは確かに、いつか来る。それらの日に、大きな苦難の日が来る。太陽が、月が、星と天体がその姿を変える。」これらの予告と描写は私たちにどのような印象で迫るでしょうか。文面上では、希望や喜びではなさそうです。むしろそれらを奪い取り、命の危機と共に、絶望が近づく印象、表面的にはそう感じるはずです。私たちがこの地上の命を基盤にする場合、こう読み取るしかありません。私たちがこの地に生きている肉身の命、それが全てかのように生きる私たちなら、まさにこのような終わりは絶望です。そして虚無です。悲しみです。  実はこのことを考えるだけでも私たちは新しくなれます。私たちは何を信じて望むのか、改めてそのことを顧みられるのです。この肉身が死ねば全ては終わり、無に帰ることを信じるのか。この世界に終わりの困難と滅びが来ることを信じるのか。それとも、そういうものはないかのように、偽りを信じるのか。とりあえず今だけを信じるのか。そうやって、この世の変化、私たちの周りの人々が少しずつ死んでいくのを見ながら生きるのか。  神を信じる人は、この地に生きている今の自分の命を基盤として生きるよりは、この命を預けた神を基盤として生きる者である、私はこの言い方がもっと適切だと思います。教会の暦で、救い主の到来を待ち望み、新しい1年を迎えた私たちはここで、改めて神に基盤を置くべきです。季節が変わる、世界が変わる、新しいことが起こる、不安と恐れが生じる…私たちはこれらの変化を毎日見聞きする度に何を思い起こすのでしょうか。これからの自分と自分の家族の生活はどうなるか、自分の立場はどうなるか、自分の財産と職はどうなるか…。世の変化の中でこれらのことを考え、これらのことのための準備がある程度できるなら、それはある程度良いことではあります。しかしこれら「のみ」を考える私たちなら、私たちは神を信じる意義をほぼ持たないのです。厳密に「信じる人」とは言い難いです。実はこの地上の命だけを基盤とし、そのことのために生きるからです。  時間が過ぎる、世界が変わる、新しいものが見え、新しいことが起こる中で、「信じる人」が見つめるべきは、「神が与えるとき」を見ることです。それを思い起こすことです。そのことを主イエスはまたたとえを通して示されました。「いちじくの木が時間と共に姿を変える。葉が伸びる。するとそれは夏が近づいたことだ」。夏はいちじくを収穫する季節です。収穫されるとき、終わりのときがあって、そのときが近づくことを思い起こしなさいと言われます。「それと同じように」私たちも、私たちの今の命が終わりを迎え、収穫され、神が望む実りを見せるときが来ることを思い起こさなければならないのです。  「信じる人」にとって終末とは脅しではありません。虚無でも、恐れになってもいけません。一つの終わり、収穫、裁きを見つめるべきです。その瞬間が来ることを思い起こし、それに備え、今一度それに合わせて自分を改め、整え、信じるべきです。  宗教をもつこと、信仰をもつことは、死を超える世界と命を信じることだと、しかしそれをあまりにもいい加減に信じることは、実はふさわしくないものかも知れません。どこかに所属し、名前を挙げたから、自分は救われた、天国に行けるとあまりにも簡単に片づけて終わりにするのも望ましい姿ではないかも知れません。というか、所属したり、名前を挙げたりしたことで終わり、それ以外に何もしていない可能性があります。そういう教えと精神なんだと一度軽く理解してそのまま眠っている状態が信仰ではありません。  信じるとは、信じていることに自分を置き、それを基盤とし、見つめることです。神に呼ばれるときを見つめることです。2020年と数える年が終わる、新型コロナウィルスという新しい伝染病が広がる、生活と経済が、国際情勢が危うい…、「信じる人」はこれら、この世界の変化を無視しなさいという意味ではもちろんありません。これらの時間の流れと変化の後に、その向こうに、それを超えるところに、神がおられることを見つめることです。その神に対して、神に呼ばれる者として、ふさわしい自分になるために、そのときを見つめることです。

● 目を覚ますということ
 見つめるためには目を覚まさなければなりません。当然なことです。私たちがこの後の私たちの生活を心配するためにも、私たちはこの世の変化に注目し、「アンテナを張ります」。変化と状況を認識できる感覚、準備がないことを、私たちは「無頓着」、「眠っている」と良く言います。目指していることに対して無感覚な状態をこう言う風に表現します。  私たちは、私たちが信じようとすることに対して眠ったような無感覚になってはいけません。目を覚まして見つめる!そのことを今日の主イエスは言われます。今日の本文の中で、何回も「目を覚ましていなさい」と言われます。「目を覚ます」とは、思い起こして見つめることです。今のように生きる時間の終わりがある、その終わりのさらに向こう側がある、その終わりに対する神の裁きがあることを思い起こし、それに合わせて神と自分を見つめ直すこと。それがなければ、イエスのたとえのように、旅に出かけた主人を忘れてしまう僕、もちろん主人から割り当てられた責任も忘れた僕のようになるからです。主人のことを忘れて門番のようになるからです。門番なのに眠っているなら、それは門番とも僕とも言えません。神様を忘れて生きるなら、私たちは神様に属している人とは言えないのです。世の中が混乱だから、危険だから、生活が大変だから、仕事が、家族のことが大変だから…だから私たちは神様を忘れるのでなくて、神様を思い起こすのが、神様の人の姿です。私たちが眠りから目覚めれば何をすべきか気づくように、神様を思い起こせばどうすべきかということも実は気付けるのです。本当の不安と危機は無感覚、眠りの方です。危険を感知できない私たちです。目覚め、思い起こし、気付くことは、実は不安と危機の解消でもあります。

● 「終わり」は備えるために
 こうして時間が過ぎていくことを見つめながら、私は自分がいつか衰え、この肉身が終わるだろうなと信じることができます。時間と共に、少しずつなのかたくさんの変化なのか、ゆっくりなのか早い変化なのか、色んなものが変わっていくのを見ながら、色んな終わりが来るだろうなということを認識することができます。それを知って認識することは、神様と共に歩む私たちにとってただの不安、ただの憂い、ただの悲しみになってはいけません。むしろそうならないために私たちは目覚めるのです。通らなければならない時間と道の向こう側に神様を、神様と向き合う自分を思い起こすことによって、私たちはそのときの新しい命を希望し、備えるのです。それが目覚めるということです。目覚めれば、ちゃんと認識して信じれば、恐れに囚われて死んでいくのではなく、備える道に、生きる道に気付くことができます。私たちは目覚めて、備え、望むことができます!それを知らせるための、終末の教え、主イエスの教えです。終わりを認識することは恐怖を感じるためではありません。備えるためです。そしていつかの終わりのときに対して、それと繋がってまた始まった私たちの新しい時間に思い起こされる信仰です。

   「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ」。弟子たちに主イエスは言われました。それは、世の人々が恐怖に落ちるためではなく、眠るためでもなく、生きる道に備えるためです。弟子たちを通して、世の多くの人々が生きる道に目覚めるためです。神を見つめるためです。その言葉が今日の私たちにも届いています。これは私たちが、目覚めて、感じて受け入れれば、終わりと死を越えて生きられること、そのために招かれていることの証です。「そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」神様の招きと、主イエスキリストの約束と御言葉に目覚めて生きる、私たちの新しい時間となりますように。


神はご存知なのだ

2020年11月22日(日)永遠の王キリスト/聖霊降臨後最終主日礼拝 説教要旨
エゼキエル34:11〜16、20〜24 エフェソ1:15〜23 マタイ25:31〜46
● 続く終末に対するたとえ
 私たちの教会が用いている教会の暦によれば、今日から始まる今週が1年のサイクルの終わりです。そして来週からが、教会歴における新しい1年の始まり、待降節の始まりです。ということで私たちは、1年という区切りの中ではありますが、一つの終わりの時を迎えています。そしてその終わりに相応しく、今日の福音書のテーマは、永遠の王なる神、キリストの裁きです。  振り返りますと、マタイによる福音書25書の中に続くたとえすべてが終末に対する教えでした。「十人のおとめ」のたとえ、「タラントン」のたとえ、そしてそれに続く今日のたとえは「すべての民族が裁かれる」時が来るたとえとして、王の裁きのたとえです。  これらのたとえは、イエスの福音を受け入れる人々にとっては天国が分かりやすく示されるためのたとえです。それゆえに私たちは最近の日課から天の国に相応しい人として天国を待ち望むために、どういう生き方をすべきか、どういう生き方をしてはいけないかを見ることができました。花婿を迎えるためにともし火をもって花婿を待つのはみんな待つけれど、そこで十分な油を用意するおとめとそうでないおとめたちに分かれるように、私たちは私たちの信仰と希望とが消えずに灯され続くために、その光が放たれ続くように、それを守る用意と対応をすべきでした。 また、僕たちの力に応じてそれぞれのタラントンが預けられたたとえから、神様が私たちに預けたそれぞれの命と賜物をもって、私たちがそれをどのように活かし、神様と自分、隣人のために用いるべきか…。自分に与えられた賜物をもって何もせず、それを無価値、無益なものにしてしまう人にならないことを学ぶことができます。 そして今日のたとえからは、これです。飢えている者に食べ物を与え、のどが渇いている者に飲み物を与え、旅をしている者に宿を貸し、裸でいる者に着せ、病気の者を見舞い、牢にいて不自由な者を訪ねることでした。多少、長く繰り返されているように感じるかも知れないこれらの文言が意味するのは、つまりこの世でもっとも小さく、弱い者を助け、憐れむことです。そうすることが、神の国に相応しい人であり、やがて天の国に迎えられる人であること。同時にそうしなかった人は、天の国に相応しくないゆえに、そうしなかった罰が待っていること。これが結論です。主イエスは、御自分を信じてこの世を生きる人々が、自分から見て苦しんでいる人々、小さくされている人々、不自由な人々を憐れみ、助けて欲しいのです。そうする人が本当に神の救いを信じる人であり、天国に迎えられる人であることです。

● 弁明の余地がない明確さ
 私は毎回説教をするために、毎回の聖書の言葉をどのように解いて語るか考える者です。もう少し美化して言うならば、御言葉を求め、語られるように祈る者ではあります。そのために、御言葉を感じて、考え、語る前に感動したり、聞く人より先に心刺されたりことは必要な過程です。  確かに、一目読むだけでは意味が十分伝わらず、まるでそこに隠された宝を探すように、深い地面の下に流れる水までたどり着くようにに、比喩され秘められたものを解釈したり、掘り続けるように聖書の意味を探したりすることもなくはないです。そういう風に作業しなければならないときも確かにあります。  しかし、今日言いたいのは、今日の主イエスの言葉はそうではないほど分かりやすいことです。これ以上、何かを解いて説明する必要も、さらに何かにたとえて例を示す必要も感じません。すでに具体的で、あまりにも明確すぎる…。むしろ明確しすぎて、ここからの逃げ道や弁明を探すのが難しく感じるくらいです。  同じ言い回しを繰り返していると思わずに、自分とは関係のない、良く分からないものだと思わずに聞いてみてください。主イエスは、やがてすべての国の人々が裁かれるときが訪れ、それによって天国に迎えられ、そこで永遠に生きる人々と、永遠の罰を受ける人とに分かれるときが来ると教えています。それはまるで、日中は色んな家畜が混ざって放牧されているけど、夜になれば牧者が羊は羊どうしに、山羊は山羊どうしに集めるように、明確に分けられるときが来るとのことです。ここで今日、唯一解説っぽいことを言うならば、日中は色んな家畜が混ざって自由に放牧されるけど、夜になれば羊と山羊に分かれなければならないことは、山羊は寒さを嫌うから洞穴や小屋に入れるのに対して、羊は新鮮な空気を必要とするため野外の囲いに集めるのが牧者の仕事。しばらくは混ざっていても、牧者の目にはいざというときに、羊と山羊をすぐ分けることが出来るように、神の前で天国に迎えられるために集められる人と罰を受けるために集められる人とが、明確に分かれることであります。  そしてその基準として示されているのがこれです。私たちに刺さってくる言葉もここからです。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせた」、「のどが渇いていた時に飲ませ」、「旅をしていたときに宿を貸し」、「裸のときに着せ」、「病気のときに見舞い」、「牢にいたときに訪ねてくれた」。もちろんこれが、私たちのできる善行の具体的な種類をすべて羅列したものではないにしても、どういう人が天国に相応しいのかを説明するには明確です。  もし神の義を行う人が天国に相応しいのだと言われるに対して、「神の義とは何か…良く分かりません」と言うなら、その理由はまだ正当な弁明に聞こえます。心の清い人は神を見ると言われるけど、「どういう人が心の清いものですか」と言うなら、それもまだ正当に聞こえます。神を愛し、隣人を愛するのがもっとも重要な掟だとするならば、「どうすることが神を愛し、隣人を愛することですか」と言われるかも知れません。これらまでは、まだ「分からない理由」が正当に聞こえます。しかし「飢えたときに食べさせ」、「のどが渇いていた時に飲ませ」、「旅をしていたときに宿を貸し」、「裸のときに着せ」、「病気のときに見舞い」、「牢にいたときに訪ね」る、これらのことがどういうことか分からないと言うならば、それは多分嘘です。文字を読み取り、言葉を聞き取り、ある程度この世界を生きてきた人で、ここまで言われてその意味が分からないというなら、それはそれ以前の問題なのか、ただ盲目的に反対したいのか、どちらかだと思います。つまり主イエスが、天の国についてここまで示されたことに対して、私たちはその意味が分からないからできないとは言えないのです。  

● 私たちが知るべきこと
 これら、「最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしたこと」、「最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしなかったこと」は、美しいほど分かりやすい言葉です。私が美しいほど分かりやすいと言ったのが、単なる読書感想文のように、文学に対する評論みたいに聞こえないことを祈ります。もはや主イエスは、貧しい人、苦しんでいる人を憐れみ、助けることは良いことだという風には教えません。その一つ一つが直接御自分にしたことだと言われます。これが、これから十字架の死に向かう方の言葉です。一時、この世の中で一番惨めな姿にまでなられる、敢えてそこまでなられる方の言葉です。それはもちろん小さな一人ひとり、弱く苦しむ一人ひとり、悲しむ一人ひとりと主イエスは共におられることの示し、預言です。それゆえに、この言葉は単なるたとえ、比喩ではありません。ご自身からこの世で一番小さく、一番弱く、一番苦しく悲しくなられる方の言葉であるゆえに、この世で小さい人、弱い人、苦しみ悲しむ人の中には主イエスがおられるのです。そして実はこの方こそ終わりの時の裁き主です。私たちに示されているのはそのことです。私たちの多くは自分の目に移っているように判断し、人々が評価するように行動します。しかしそれが最後の裁きではなく、私たちの目には移らなかったり、見過ごしたりした誰かへの私たちの一つ一つ行いが、天国に属する人として行いなのか、それに属さない人としての行いなのかに分かれることです。  厳しいと言えば厳しく聞こえます。なぜなら私たちは、きっと、飢えた者に食べさせ、渇いた者に者に飲ませ…るより、そうしないときが多いからです。多いよりほとんどだからです。実は、私たちは分かっていなかったのです。今まで語ったくだりで言えば、分からなかったというより分かりたくもなかったからです。今日の描かれている裁きの場面での人々の言葉を見てください。「主よ、いつわたしたちは飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、(いつ)のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか」。または「いつ、そうしなかったのでしょうか」。いつ、誰に対してそうして、そうしなかったのかを私たちは分からないのです。そして、分かりたがりません。それが私たちのできない理由です。もしも「このとき」、「この人」にということが分かれば、そうすることで永遠の罰ではなく、永遠の喜びが得られることを分かっていれば、食べさせ、飲ませ、助けるでしょう。同時に、もし私たちがそう分かってそのときだけはその人を憐れみ、助けるならば、そのときだけに行われる私たちの「偽善」です。これも私たちは良く知っている事柄です。「そのときだけ」、「相手を見て」、自分が行うことに対して自分に「どんな報いが返ってくるのか」計算して行うのは、「偽善」です。  主イエスが地上におられるとき、もっとも警戒させたのが「偽善」でもあります。規律や決まりに対しては厳格であったはずのファリサイ派の人々がイエスに厳しく批判されたのも、彼らの偽善のためです。「こうしたから自分たちは正しい…」。実は彼らは神に対してではなく、隣人に対してでもなく、「こうすれば自分は正しい」という、「そのとき」と「相手」が限定されていて、自分たちには分かっているかのように判断し、人々を自分たちが裁いていたからです。これは、自分は信じていると思う私たちがもっとも陥りやすい、警戒すべき偽善的な姿なのです。信じて、救われるということをあまりにも自己中心的に単純化し、自分は正しいという錯覚と、自分の目で正しく見えない人に対する勝手な裁き…。これが偽善と傲慢という具体的な姿でもあります。  それに対して、主イエスが今日教えられるのは、この世で「最も小さい者の一人にしたこと」が御自分にしたことであることです。これが正しい教えであり、本当の裁き主の言葉です。それは「主よ、わたしたちが、いつ、そうしたでしょうか。しなかったでしょうか。」と、私たちが先に分かるものではないことです。それは私たちがこの世を生きるときに分かるものではなく、ただ主ご自身が私たちの行いと姿勢を受けて分かるものです。最も小さい一人となられたキリストが、その小さく、弱い、可哀そうな一人として私たちの行いを受けて、イエスご自身が知ることです。同時に私たちには、今ではなく、後で分かるものです。というか、それを計算しているかのように行うのではなく、ただ主イエスの言葉のように、私たちが見る小さな一人ひとり、苦しむ一人ひとりと主イエスは共におられることだけを知ることです。私たちが知るべきはこれであり、私たちが裁き主かのような知識ではないのです。  神様が私たちに何を望んでいるか、どのように生きることを望んでいるのかは明確です。そしてご自分の望みどおりに生きる人にやがて与えられるものがどんなものであるかを、今日の主イエスの言葉を通して、先に示してくださいます。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」私たちが、小さな一人ひとり、苦しむ一人ひとりにするのは、無理にそうするのではなく、天国に属する一人だからできる恵みの現われです。憐れみ、助けるのは祝福された者だからできることです。 最後に敢えて付け加えるなら、今日の第二の日課の言葉から私たちへの結びの言葉として聞きましょう。「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父があなたがたに知恵と掲示との霊を与え、神を深く知ることが出来るようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。」 私たちが知ろうとするなら、むしろ神をもっと深く知ることを求めるべきあり、それがどれほど素晴らしいかを知ることです。


宝はあなたの中に

2020年11月15日(日)聖霊降臨後第24主日/子ども祝福礼拝 説教要旨
マタイ25:14〜30
● お金の話?
 子ども祝福礼拝として守っている今週の礼拝、今日の福音書から子どもたちへのメッセージとして「神様の子どもはうずくまらない!怠けない!」と聞きました。神様の子どもは失敗を恐れず、神様から与えられた賜物を活かす!神様が与えてくださった賜物は活かされる!  子どもたちに伝えたこのメッセージで、今日の説教はもういいと思っている方もいらっしゃるかも知れませんが、これからの時間は、大きな(神様の)子ども向けの説教の時間です。小さな子どもたちの方がみ言葉を素直に聞き入れるとするならば、この世界で大人と呼ばれる私たちはみ言葉をもっと深く聞き入れられることを願います。  タラントンのたとえ。イエスのたとえ話の中で一番有名で印象的なたとえかも知れません。とても分かりやすく感じます。もちろんイエスのたとえの一つの役割は天の国を分かりやすく教えることだから、だいたいのたとえが分かりやすいのですが、その中でもさらに印象的なたとえではないかと思います。多分一回聞いたらなかなか忘れない話だと思います。もしそうならば、私はその理由がお金の話であり、利益を残す内容だからではないかと、少し勝手に思います。お金、利益…この世で人々の意識が自然に向けられるモチーフではないかと。そして多くの人々にとって、結局これらのために注がれる労力が一番大きいのは、多くの場合否定できないことではないかと思います。  もちろんこの話から、5タラントン預って5タラントン儲かる僕のようになろう、2タラントン預って2タラントン儲かる僕のようになろう、そう聞き取って意欲を出そうとするならば、それもそれで良いことだとは思います。もしくは何もしないで怠けることはやはり悪いという風に聞き取ることも悪くないと思います。ただその方向性が、本当にお金を儲かること、成功することに限定されるならば、それはこのたとえの二次的なメッセージだけを受け取って、本来の宝は見逃すことになると思います。もしくは、それは誤まって聞き取ることかも知れません。たとえられてる素材がお金であって、これを通して大切にして欲しいものは、神様から与えられているあらゆる賜物、命、私たち自身なのです。私たちのお金や利益はそのうちのほんの一部と認めるならば大きく見積もった方かも知れません。

● これは終わりの時に対する教え
 それでは今日与えられる福音のメッセージをなるべく正しく聞き取れるように、まずマタイによる福音書の中でこのたとえが置かれている位置、その順番を確認してみます。マタイによる福音書24章において、イエスは神殿の崩壊を予告されました。そして終末、世の終わりに表れるしるしと苦難について予告されました。その苦難の日々の後、イエスは再び来られる、だからあなたがたは目を覚ましていなさいと教えられます。それから終末に向けて目を覚まして生きることをもっと分かりやすく教えるためにイエスはたとえをもって教えられる中で、先週の福音書であった十人のおとめのたとえ、それに続く今日のタラントンのたとえが語られています。つまりこのたとえは終末に対する勧告のメッセージの続きです。多くの人々の意識はなぜか、誰がどれくらい利益を残したかに囚われ、怠けて利益を残せないのは駄目だとこの物語は語っているかのように聞き取りがちですが、これはそれらを越えて終末に向けて私たちがどのように生きるべきかを悟らせるためのたとえです。どのたとえもそうであるように、天の国をたとえているこのたとえの中で、  「かなりの日がたってから、僕たちの主人が帰ってきた」時を、世の終わり、救い主の再臨の時として読み取ることはそれほど難しくないメッセージです。言い換えるなら、それぞれの僕たちに、それぞれの力に応じて預けたタラントンをもってどのように生きたか主人が清算する時が来るように、私たちに預けられた命、時間、その中に含まれている私たちの才能、個性、チャンス、出会い…神様から与えられたあらゆるものをもって、いつかは私たちがどう生きたか。それぞれをもって私たちは、それらの与え主であり、本来の主人である神様のためにどのように働いて生きたかを問われる時が来るとのメッセージとして与えられているたとえ話であります。  そこで主イエスは私たちを分かりやすく教えるために示してくださっている一人の姿、私たちがここでもっとも注目すべきは一タラントン預った僕であります。ある意味、この僕がこのたとえ話の主人公とも言えます。この僕のようにはなるまい、そのことのために示されている姿です。

● 一タラントンを無駄にする罪
 一見、一タラントン預った僕は他の僕たちに比べ預けられた量が小さいことから、劣った僕として見られているかのようですが、一タラントンだけでも当時の価値では相当な金額です。6000日分の賃金、日雇い労働者がほぼ20年働き続けてこの金額になります。つまり一タラントンでも決して小さくない預けであり、そこから生活したり、何かを始めたりするには決して十分な預かりです。  4世紀のキリスト教神学者、グレゴリオス主教はこれを、五タラントン、二タラントン、一タラントンについてこのように解釈したそうです。人間の肉体の感覚は、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚と五つあるように、五タラントンは体の外部に対する豊かな知識を表すと。二タラントンは理論と実践、二つを表す。そして一タラントンは理論だけを表すと。必ずしもこの読みを参考にしなければならないことではありませんが、私はこのたとえをこんなに具体的に私たちの世界へ置きかえるほど、深くみ言葉を追求することに感動する次第です。そして五タラントンからさらに五タラントンの儲け、二タラントンからは同じように二タラントンの儲けが出ることにも、何かの象徴があるかも知れないとも思います。確かにここで儲け、利益とたとえられる新しい何かを生み出すためには、それを生み出せる力が必要であること。人々に備えられている力は人それぞれ違うことを私たちも感じることはできます。このように、このたとえに細かく込められているかも知れない様々な象徴はこのたとえの面白い部分かも知れませんが、あまりにもこれに注目しすぎて、  もっと大きなメッセージを見逃したらいけないと思います。  問題は一タラントン預った僕です。特に失敗とかが想定されていないこのたとえの中で、図式じゃありませんが、五タラントンからはさらに五タラントンが、二タラントンからはさらに新しい二タラントンが生み出されるのであれば、一タラントン預った僕もその一タラントンから新しい一タラントンを儲けることができたはず、それがこのたとえの前提のような成り行きではないかと思います。しかしその僕は自分に与えられた一タラントンで何もしなかった。確かに一タラントンは他の二人よりは少ない金額だけど、何かができるはずの一タラントンをただ地の中に埋めて、何の価値もないものにしてしまった。地の中に隠したことはそれが何のためにも使われないことであり、自分自身にも価値のない、無益なもの、他の人々のためにも何の有益をもたらさない、何かの有益が生じる可能性する閉ざすものであることです。これも歴史上のある信仰者が解釈した内容です。このようになってはいけない、このように生きてはいけない、このように終わりの時を迎えてはいけないメッセージを私たちは聞くことができるのではないでしょうか。  一タラントンは一タラントンとしての価値があります。この一タラントンを私たちはどのように読むことができるでしょうか。一だから、少ないというより、もっとも根本的なものに置き換えることができるかもしれません。命、自分、もしかしたら信仰や愛など…。また数値としても、大切でない一では決してありません。すべての数えは一から始まります。五タラントンも、二タラントンも、最初の一タラントンがなければ始まらない数えです。一タラントンは一タラントンとしての大切さ、素敵さがあります。  このたとえの主人の見方も私たちは注目すべきです。主人は五タラントン設けた僕も、二タラントン設けた僕も同じように褒めています。五タラントンがもっと多い儲かりだから、この世界みたいに五と二に対して違う評価がある訳ではありません。同じく、「忠実な僕、よくやった。お前は少しのものに忠実であったから多くを与えよう。主人と一緒に喜んでくれ。」ここで大切なのは「主人と一緒に喜ぶ」ことだと思います。五であろうが、二であろうが、この主人にとって数値が喜びの基準ではないようです。このたとえ話には現れていませんが、きっと一タラントン預った僕がもし一タラントン儲かったならば、同じく褒め、一緒に喜ぶことができたであろう、主人の姿、つまり神様です。一タラントン預った者は一タラントンを用いることで天国の喜びに加わるはずだったのです。しかしその大切な預かりを無意味なものにする罪、それがこの僕の姿が表している警告です。  この僕は「恐ろしくなり」預ったものを地に隠したと、たとえの中で弁明しています。しかしこのような恐れは捨てるべき恐れであり、偽りの恐れであることを私たちは知るべきです。本当に主人を恐れていたなら主人が与えたものを無価値なもの、無益なものにはできないからです。このたとえ話の設定だと、ある意味この僕は主人を恐れていないから何もしなかったのであり、「あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる方」と言っているのです。「恐れる」ことには二つの姿があります。単に怖がる、危険を感知するという単純な意味の恐れと、もう一つの深い意味の恐れとして、恐れつつ敬うからこそ、自分の意志ではなく恐れ敬う存在の意志に従うことです。私たちが良く聞く、信仰的な意味で「神を恐れる」とはもちろん後者の、深い意味での恐れです。私たちは今日のたとえから、神様が私たちに与えた「一つ」を軽んじず、無益なものと見ず、もったいないものにしない私たちとして、神を恐れるべきです。  才能がたくさんあるかそうでないか、力が大きいかそうでないかより、私たちにみんなに与えられている、自分の中に確かに与えられている「一つ」をまず正しく見つめることです。神様から自分への一タラントンは何でしょうか。もしかしたら一つを見つけてすぐにも、これもこれもと与えられている大切なものに気づく私たちかも知れません。神様は、それらをただ隠しておくことを望みません。それが今日の主イエスのたとえのメッセージです。それをもって、自分が生きるために、他の人々のために用いることを望みます。人間社会の失敗や損は想定されません。それは人間社会の可能性であって、神の国への世界にそういう前提はありません。与えられたものを神様のみ心通りに、神の国に向けて用いるならば、その実りを見ることができます。一番大きな実りは天国で神と共に喜ぶという実りであり、それに向かう途中においても私たちは大切なものを用いる喜び、良いものが活かされる幸せを実りとしてみることができます。いつか「わたしが預けたものでどう生きたのか見てみよう」と問われる時に、「主よ、このように用いました」と言える私たちであるように、  私たちに与えられたものを見つめましょう。私たちの中に与えられているものは、この世で隠され、朽ちてなくなるためにあるのではなく、将来、天国の倉に移り入れられるために、これから用いられるために与えられている宝だからです。


ともし火をともしていなさい

2020年11月8日(日)聖霊降臨後第23主日礼拝 説教要旨
アモス5:18〜24 テサロニケ一4:13〜18 マタイ25:1〜13                                        
● 婚礼にたとえられている天国
 今日の礼拝に与えられている福音書は「十人のおとめ」のたとえです。そのうちの五人は愚かで、五人は賢いという設定です。この時代の婚礼の風習から、この十人のおとめたちの役目は、花嫁を連れて行くために来る花婿を迎えることです。花婿は花嫁と一緒に生きるために設けられた家に花嫁を連れて行くその道に、花嫁の友だちもその行列に加わって新しい家の宴会に参加する役目です。役目ではあるけど、自分の友だちの大切な時を一緒に祝うための役目です。これは時代と結婚の風習が違う私たちにも分かることです。自分の大切な友だちが結婚するとどうしますか。結婚式の日程を空けておくだけでなく、本当に大切な友だちなら披露宴の準備に携わり、当日は受付をしたり、芸を用意したりします。その祝いの参加者であると同時に、祝いのための大切な働き人です。もちろんそれは強いられてするのではなく、自分との関係において、進んで行うことです。  今日のイエスの福音は、天の国がこのような婚礼にたとえられています。やがてイエス・キリストの再臨と救いの時、天の国に迎えられる私たちは、婚礼における十人のおとめにたとえられていると言えましょう。十人のおとめには祝いの時において役目があるように、私たちもやがて天国の救いと喜びに与る一人ひとりであると同時に、役目が与えられると言えます。それは一緒に喜ぶための役目であり、皆と一緒に祝うための役割です。主イエスとの繋がりから私たちがぜひ、進んですべき働きです。婚礼の喜びは、婚姻する人との友情と繋がりから、救いの喜びは私たちを天国に招く主イエスとの繋がりと信仰によって与えられるものです。今日の分かりやすいたとえ話のメッセージを誤解せず、正しく受け止めるために私たちが心得ておくべきはこれではないかと思います。救いと喜びの時に招かれている私たちはどうあるべきか。今日の福音書はこれを伝えるためのたとえです。

● 賢さと愚かさ
 大切な友のために婚礼に招かれ、友だちのための、友だちとしての役目が与えられているのだからそれを誠心誠意で果たすべきでしょう。しかし招かれている人々の中で五人は賢く、相応しかった。でも五人は愚かで相応しくなかったという話です。考えてみれば、どの場面においても賢いのと愚かであることは区別されるこの世界かも知れません。それは人を裁いたり、評価したりするためにあるというよりは、それぞれが現実として見分けられる世界です。婚礼に携わる人の中にも賢い人とそうでない人がいるように、私たちが生きるあらゆる場面と働く場面において賢さと愚かさ、相応しい在り方と相応しくない在り方があることは現実です。ただ、このたとえは処世術や人が成功するための話ではありません。 神に対する信仰の話、神との絆において相応しい在り方の話です。  賢いおとめと愚かなおとめがいるように、賢い信仰と愚かな信仰があります。世の中の見方とは別に、神の前で賢い生き方と愚かな生き方があります。さらに進んで人々が願ったり抱いたりする希望、それにおいても賢い希望と愚かな希望があります。それは事実です。敢えて確認しますが、ここでいう愚かさというのは、頭が悪い、能率悪いという類の意味より、間違っている、未熟という意味の愚かさであると思います。さて私たちは神様を信じるなら愚かに、間違った、悪い信じ方ではなく、相応しい信じ方をし、それによって相応しい希望を持ちたいです。愚かな、敵わない希望を抱いて、自分は神様を信じているのだとはなりたくないはずです。

● ともし火をもって迎えること
 私は個人的に今日のたとえのような分かりやすくて、そこからストレートなメッセージが聞こえる聖書箇所が好きです。本来ならばどの聖書からもメッセージが聞こえてくるべきですが、今日のたとえ話は分かりやすいゆえに私たちの姿に適用しやすいと私は思います。
 私にはこのたとえ話からこのような声が聞こえます。火をともさないともし火は無駄です。それは飾り?いつか火をつける時のために持つ物?無理やりな意味付けなしに、ともし火は火をともして、明りをつけるためにあるもの。私たちの信仰がまさにそうでなければなりません。信仰は何ですか?飾り?趣味?習慣?所属感?何かの時に役立つかもしれない保険?もしも私たちがこれら、もしくはこれに似たような姿で自分は信じている、クリスチャンであるという姿なら、私たちは火がともされていないともし火を手にして花婿を待っている係のような者です。ともし火は火をつけて夜中に周りを照らすためにあるように、私たちは私たちの心に信仰の火をつけてその光を見るように、自分と周りを照らすようにあるものです。せめて自分がその光を見るように、それに闇の中であるならばいくら小さい火でもそこに火があることが分かるように、私たちの人生や生活や内面…どこかに信仰的な光が見え、それに照らされるなり、温められるなり、その影響と力とを自分のものとする何かがあるためです。  たとえ話の中の十人のおとめ、みんな招かれている友人のはずです。みんながともし火を持っています。というのは、みんなが花婿を迎え、婚宴の席に伴う資格のある者であることです。最初はそうです。しかし花婿が遅れます。遅れるというよりいつ着くかは分からず夜です。眠いです。このたとえのちょっとだけ面白い部分はみんながうとうと眠ることです。悪く評価される人が花婿を待つ間に居眠りをするのだという話ではないのです。賢いおとめたちも眠気がさして眠り込んだのです。いつ来るか分からない中で待つという気の遠さがあるでしょう。退屈さもあるでしょう。疲れもあるでしょう。私たちの人生のようです。そこで眠らないほどの強い忍耐力や精神力を持ちなさいとのメッセージがこのたとえのメッセージではないのです。ともし火をもって花婿を迎える役目を与えられているなら、手にしているともし火から火が消えないように、ちゃんと明りが付いているともし火を持って待つようにとのメッセージがこのたとえのメッセージです。  眠るような時もあります。疲れるときもあって、躓き、挫折する時さえあるのが私たちの姿です。その時の状況と影響を受けて姿が変わり続けるのが私たちでもあります。それはある意味容認されていると言えるこのたとえかも知れません。夜中に辿り着く大切な花婿を待つのに対して、「居眠りせずに待て」ではないからです。むしろそれより大切なことは、婚礼を祝うためにそこにいる友であるゆえに、花婿を迎えるために待っている奉仕者であるゆえに、花婿が辿り着く時には火のついたともし火を持って婚礼の行列に加わることです。そのために、すぐに消えてしまうくらいの少しだけの油、曖昧な準備、花婿と花嫁その婚礼を本当は大事にしていないかも知れない、十分でない心構えをもって祝いに臨む愚かな人でないように。それがこのたとえのメッセージです。火がついていないともし火を持って夜中に待つことは確かに愚かなことです。その結果、婚礼の祝いに与れないことは可哀そうなくらい愚かなことになります。

● 信仰の火を灯そう
 私たちは、こういう警告的で、啓発的な性格のメッセージを聞く時、それが私たちのためのものであると気付いて聞き入れなければなりません。警告的に聞こえたり、叱られるように聞こえたり、何か心に指すように聞こえたりの時、私たちはある意味喜ぶべきです。それはみ言葉から聞こえるものがあるからです。主イエスが語られたことが無駄ではない証拠だからです。私も職務として自分で語りながら心が痛い時があります。実は語る人こそ一番先に聞くからです。 ともし火が飾りじゃなくて火をともすためにあるように、信仰も飾りではありません。火がついてないともし火が何の役にも立たないように、私たちの信仰が、火もついてなければ、中が空っぽになっている瓶のように形だけ、痕跡だけ、外見や名前、単語だけになっているならば、それは救いではありません。実際その人が生きるに何の影響も、何の気付きと思いも感じられないものなら、まさに火が消えているともし火の型のようなものです。これはある人々を攻めたり、指摘したりする目的の語りではありません。私たちの信仰が、教会との繋がり(それはつまり神様との繋がり)がその人に何かの意味をもち、何かの光を見出すためです。 私たちが、特に福音書からよくたとえ話を聞く時、それぞれがたとえているものは何だろうかと、まるでパズルの答えを探すようにぴったり当てはまる何かを求めがちかも知れません。しかし中には、このたとえに当てはまるものは何だろうかと、明確でないかのように広がりを感じさせるものもあります。実は今日のたとえの「ともし火」や「油」もその一つかもしれません。ただ私はこのともし火を信仰に置きかえって語りましたし、それが私には一番適切に聞こえます。せっかくともし火を手にするならそこに火をつけて、しかも火が消えないように油を持ちましょう。そのように、神様を信じる私、自分ならば、その信仰が生きて働き、自分を動かせ、思わせ、何かの光を放つものであるように、その信仰が維持できる油のような何かを持ちましょう。ある意味ではその油のようなものが週に一度の礼拝かも知れません。聖書の言葉かも知れません。祈りでも、教会のための奉仕でもありそうです。ある人はこの油を聖霊だと解釈する人もいます。あるいは自分が知って繋がっている誰かの信仰者でもあり得ると思います。その人を通して信仰を思い起こし、その人が自分のために祈ってくれ、 切れない関りをもってくれるなら、その存在も十分信仰の火を維持する油と言えます。 じゃ油は用意できるものでしょうか。祝いへ向かうある程度の準備はできるものでしょうか。私は、このたとえは実はそんなに厳しくもなさそうで、厳しくも聞こえます。なぜならこのたとえのメッセージは、いつか分からない「その日、その時」に対して「目を覚ましていなさい」ですが、それはまったく「眠るな」という意味での目覚めではなく、ともし火を守れるように用意する意味での目覚めだからです。でも、それさえも出来ない深い眠り、消され忘れられる信仰のともし火が、この世界に、誰かの姿の中に、自分の中の一部に見えるからです。 このたとえが見せてくれるそのような姿に気づかせられるなら再び信仰の火をともしましょう。そして油も用意しましょう。これは確かに週末、世の終わりに備えさせるための主イエスの勧告です。でも信仰の火がともされていて主イエスを待ち望む人にとって、その時は救いの時、祝いの時です。私たちは一緒にそこに向かうために、ともし火を持って生きる一人ひとりです。


愛する者たちよ

2020年11月1日(日)全聖徒の日礼拝 説教要旨
黙示録7:9~17 ヨハネ一3:1~3 マタイ5:1~12
● 失った方々の言葉
私がある方から与えられた言葉、問いです。とても難しい問いです。「私たちの息子がなぜそんなに早く、突然死ななければならなかったのか、答えが欲しい」、「息子が残した家族に言える言葉、説明が欲しい…」。 また私が知っている別の人はSNSにこう書いていました。数年前に母親を失って、今は別の町にいる。SNSには良い姿しか見せないけど、母親と思い出が詰まっている熊本にはもういられなくて、涙が止まらなくて、別の町に移っているのは、まだ若いその人にとって「生きるための選択」だったとのこと。 私が知っている愛する人を失った方、そしてその言葉…、割と最近聞いた言葉です。もちろんお名前も、どんな方であることも言っていませんが、もしも今日のメッセージの話題にしているこの話を聞いているなら許してくださることを願います。 また、私が知っている方とは言えない方ですが、最近息子を失った有名な牧師先生の言葉をインターネットの記事から読みました。息子を失ったその牧師は言いました。「キリスト者とは答えをもっている人ではなくて、答えを持たずに信仰によって前に進む人」である言葉が心に触れるとのこと。息子が突然神様に呼ばれた理由に対する答えは見つからずいるけど、そして永遠に見つからなさそうだけど、信じて進みますと。慰めと祈りを送ってくださる方々に感謝しますとの言葉を最近読みました。  これらのストーリは愛する方々を失った特定の方々のストーリですが、特定の方々にだけ当てはまる悲しみと問いではないことは、まだ痛烈な別れを体験していない人々にも分かることだと思います。遅かれ早かれ誰もが向き合う、愛する人との別れだからです。見方にもよりますが、まだ信仰的な話じゃありませんが、今日私たちが全聖徒の日の礼拝として、先にこの世から亡くなられた方々と共に礼拝をするということも、当然人の死に向き合っている証拠です。

● 悲しむ理由は愛
 唐突に、乱暴に聞こえるかもしれませんが、私たちが誰かの死、やがては自分の死を体験し、向き合わなければならない理由は、私たちに命が与えられ、生きた存在だからです。なぜその死の辛さと悲しみを感じなければならないか。私たちが生きた存在であることに加えて、私たちが互いを知っており、自分との関係があり、そして愛したからです。それがなければ、私たちに悲しみと苦しみはありません。実は数えきれない生命体が死んでいます。今も死んでいます。中には私たちが何も思わず死んでいる生命体もいて、私たちがしばらく生きるために死なせている命さえあります。しかし私たちが誰かの死を悲しみ苦しむ理由は、そこに自分との出会いがあり、関係があり、愛があるからです。 なぜ悲しいのか。愛したからです。そして実は、なぜ悲しい死と別れが訪れるのか、その理由が分からないのと同じく、私たちはなぜその存在と出会い、繋がり、愛するようになったのかも分からないのです。分からないことだらけだと言えばその通りです。ただこんな疑問と感情が生まれる確かな原因は愛です。仮の話ではあるけど、じゃ愛が消滅するなら、完全になくなれば、ある存在に対する悲しみともどかしさはなくなるのか?そうだと思います。そうでしょう。でもそれは私たちに不可能なことです。死んでも残るのが愛だからです。その存在との出会いと関係が、目に見える命が死んでも、私たちの命のどこかに残るからです。命と存在を自覚することも、その別れを悲しむことも、すべては愛です。

● イエスの道
 その愛が大きければ大きいほど、それを失う悲しみも大きいはずです。しかしそれが悲しみに終わらず、喜びに変わる道を示された方、その方が主イエスであると私は信じます。私たちが抱くそれぞれの愛に対して、ぴったりの答え、慰められ、納得できる答えに、私たちが生きている間に出会えるかどうかは分かりません。ただ私たちに与えられた愛を完全に消すことができない私たちにとって進むべき道を主イエスは示されます。まさに主イエスは道です。主イエスが示される道は、信じて進みなさいという道です。愛し続けて進みなさいという道です。愛したことで生きる間に伴う痛みと悲しみ、愛によって乗り越えなさいとの道です。さらに愛を追い求めなさいという道で、その愛のゴールに向かって進みなさいという道です。痛みも苦しみも悲しみも、それらを乗り越えてこそ答えらしいものが見えるはずだからです。この悲しみの道を出ればどこが出て来るのか。この暗闇を出れば何が表れるのか。それが分かるためには、まずそこから抜き出さなければならないからです。愛し続けるという道は、愛を消すことが出来ない、なかったものにすることが出来ない私たちが選べる、たった一つ残る道です。  そして主イエスが私たちに示した道は、行って見なければ分からないだろうからとりあえず進み続けて見なさいだけの道ではありません。ご自身が先に進んだ道です。復活への道です。本当に復活できるかどうか、それは証明できないから、ただ復活はあると示しただけでもありません。そのためにご自身が人として死ぬ道をも進んだ道です。そうやって示した復活の道です。それがこの世に示された神の愛です。この世の死は悲しむための死だけではない。力が尽きて、失われてくる死だけではない。愛する者のために死ぬ死もある。死を乗り越えるための死もある。死んでも消えないものは確かにある。だからそれを乗り越えるために、死にまとい付く絶望を越えてその先にあるものを示すために、進まれた道。それが十字架の道です。そして復活の道です。

● 向かうところ
 今日の福音書の言葉、有名な山上の説教の言葉は、文学的にと言えましょうか、文章の意味を解明するには難解な箇所です。幸いについて語られていて、その内容がこの世の人には全然幸いじゃないからです。ゆえに私は全聖徒の日の日課である山上の説教について、今日は文学的な意味や解釈を省きます。世の人々のために十字架の道を進んだイエスの言葉、そのまま聞き取りと願います。「心の貧しい人は幸いである。悲しむ人々は幸いである。柔和な人々は幸いである。義に飢え渇く人々は幸いである。憐み深い人々は幸いである。心の清い人々は幸いである。平和を実現する人々は幸いである。義のために迫害される人々は幸いである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。」なぜ幸いなのかは、その理由について今日の福音書は私たちにこう示しています。「天には大きな報いがある」から!  ほんの少しだけの解説っぽい説明を加えて言うなら、イエスを信じる弟子たちと群衆に対して語られたこの言葉は、ここで語られるような姿になるとき、十字架の道に進み、愛のゆえに命を捨てる主イエスの姿のようになるから。何を行うよりも主イエスに従うことになるから幸いであり、それゆえに天の国において神による大きな報いがあるから幸いなのです。  「主イエス」と「天の報い」が信じる人々への答えです。それに向かって、従って、進むのが答えへの「道」です。これが私たちに愛する人を与えられた神の答え、神の御子を世のために与えられた神の答えです。それゆえに「喜びなさい。大いに喜びなさい」。朽ちるもの、死ぬものを超える愛と喜びを喜ぶことへの招きと約束です。  今日の第一の日課であるヨハネの黙示録がそれを目に見えるかのように証ししています。信じる人が見た黙示を証ししています。この預言の言葉を朗読して、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちは幸いであると、ヨハネの黙示録の始め1章3節に書かれている黙示です。その黙示と預言の言葉は今日私たちに語ります。「神の玉座において数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身にまとって神に仕えていると。彼らは大きな苦難を通ってそこにいて、子羊の血、つまりイエスの十字架の血によって洗われて白くされてそこにいると。彼らのために新しい幕屋が張られる。彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを撃つことがない。子羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へと導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれる。」私たちの愛する人々がいるのはそこであり、私たちも彼らのところに向かうのです。


真理はあなたたちを自由にする

2020年10月25日(日)宗教改革主日礼拝 説教要旨
エレミヤ31:31~34 ローマ3:19~28 ヨハネ8:31~36
● 真理とは
 宗教改革を記念する主日の今日、私たちに与えられたみ言葉は「真理はあなたたちを自由にする」です。私はこの言葉をかなり前から色んなところで聞いてきました。色んな場面で引用される言葉だからだと思います。格好いい言葉だという印象がありました。ただこの言葉の意味は何かと言えば、確かに格好いい感じの言葉だけど、この言葉の明確な意味はしばらく掴めずにいた気がします。  「真理は自由にする」。それでは真理とは何か…。必然的に浮かぶ問いです。イエスの十字架の死の前の場面でイエスを尋問したピラトも同じことを言っています。「あなたはユダヤ人の王なのか」という尋問に対して「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのために世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」そこでピラトは言ったのです。「(では)真理とは何か」。  主イエスを知らない(信じない)人にとって「真理とは何か」という問いは難しい問いでありそうです。真理とは何でしょうか。まず国語辞典から開く必要がありましょうか。それから真実な道理とは何かという答えを探すために、色んな哲学や宗教の思想、また世界で著名な人たちの言葉を調べる必要がありましょうか。そういうことに向いている人なら、その探究がある程度有益かも知れません。真理とは何かという、ぼんやりとしていて、範囲も方向も定まらないくらい大きな問いに対して、その答えを探すために長い旅をしなければならないのかも知れません。それに対するやや過酷な現実を先に言うならば、色んな思索と探究という長い旅をしたとしても、明確な答えは得られないかも知れないところです。  真理とは何か。この世においては難しい問いのようです。しかしイエスを信じる人にとっては、すでに答えが示されている問いです。それゆえに私たちは膨大な文献を調べることも、修練や苦行のような経験を積まなくても真理が何かを知ることができます。答えは聖書に書かれています。今日の福音書であるヨハネによる福音書に書かれている答えです。「言は肉となって、わたしたち(世の人々)の間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。」(1:14)さらにもっと明確な答えを、恵みと真理に満ちていた方がこう言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。」(14:6)そして今日の箇所の中にもその方が言われます。「わたしの言葉にとどまるならば、わたしの弟子である」。その続きの言葉として、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。 真理とは、イエス・キリストです。そしてイエスからの言葉です。信じる人は、真理が何かという当てのない問いと答えのためにさまよい、苦しまなくていいです。信じる人には、その信仰のゆえに示された答えであるイエス・キリストを真理の道とし、その道を進めばいいのです。これ、今日のメッセージの結論です。

● 真理を知る人がすべきこと
 ある信仰者は言います。「もしあなたが暗闇の中にいるなら主イエスを光としなさい。もしあなたが人生の道をさまよっているなら主イエスを道ずれとしなさい。主イエスはあなたに示し、導いてくださる。主イエスはあなたが求める「それ」であって、「それ」はすべての場所で求めることができる。神の介入なしに成るものは何もない。」  真理という言葉の辞書的な意味は「いつどんなときにも変わることのない、正しい物事の道筋」です。もし私たちが聖書に書いてある答えのごとく、主イエスを真理とするならば、私たちの人生のどの場面でも変わることなく、進むべき道、行うべきことを見失うことなく、主イエスを正しい道筋と知って生きることができます。それは真理が何かという答えを持っている人の強みです。どうすべきか、何を見て、何をするべきか…宛先もなく悩むのではないのです。宛先は決まっています。真理である主イエスは自分に何を望んでおられるのか、どのように命じているのか。主イエスの言葉を聴き、頼り、祈ることから始まります。そうすれば真理である方が進むべき道を示してくださいます。そしてその求めが正しく、私たちが主イエスの言葉と答えとを正しく受け止めるならば、今日の格好いい言葉のごとく、あらゆる束縛からの霊的な「自由」と「解放」を体験するでしょう。

● 罪の奴隷
 今日のメッセージの結論はすでに言い伝えた通りです。この結論を私たちの真理とするならば、それが真理であるゆえに、それ以上疑う必要も、悩み苦しみ続ける必要もありません。ただしこの結論通り、格好いい言葉通りにならないならば、依然として終わらない、解決しない問題の中でさまよっている私たちがならば、何かが間違っているものかも知れません。私たちの求めがそうかも知れません。主イエスの言葉と答えを間違って聞いて、受け止めているのかもしれません。もしくは、本当は主イエスを真理としていない私たちがいるかも知れません。今日もイエスの前で質問している人々がその一つのふさわしくない例を私たちに見せています。それは「真理はあなたがたを自由にする」というイエスの言葉、特に「自由にする」という言葉に対する彼らの疑問でした。  「あなたは自由になるとどうして言われるのですか。私たちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。」彼らユダヤ人は言っています。自分たちは誰かの奴隷になったことはないと。なぜ自由になるのかと。言うならば、すでに自由だと言っています。自分たちへのプライドが感じられます。同時にそのプライドのゆえに真実を見つめていない彼らの姿が見えます。結論からすれば、彼らは自分たちが奴隷になっていることを気づかずに、自分たちは奴隷になっていないと思い込んでいるのです。何に対する奴隷?ローマ帝国に支配されている奴隷?さすがにここでは、彼らが政治的な事情を見落としてこう言っているのではありません。ここで彼らが言っている「だれかの奴隷になったことはない」という言葉の意味は、自分たちは神に選ばれている民族であるゆえに、他の神に属したことはない、他の神の奴隷ではないという意味です。まさに彼らのアイデンティティ、プライドであり、信仰です。ただしどちらかと言えば表面的なプライドであり、信仰です。彼らが何を見落としているのかは、続くイエスの言葉から分かります。  「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」彼らは、神に選ばれた先祖アブラハムの子孫であるゆえに、誰の奴隷でもないと、神に属していると信じています。しかし罪を犯していることには気づいていない。自分たちは神の民だという事柄だけに捕らわれ、それを固執しているからです。さらに聖書が良く取り上げるテーマに沿って言うならば、自分たちは神の掟である律法を守っている。だから誰かの奴隷ではなく、神の民である。しかしそれは彼らが設定した表面的な基準による思いであって、神の思いとは違っていたのが真実です。だからイエスは彼らに遣わされたのです。「あなたたちは罪の奴隷になっている、律法の奴隷になっている」ことを知らせ、彼らを盲目にしていた膜のようなプライド、思い違いを取り除くためです。

● 律法主義を越えて
「こうすれば正しい」、「この条件を満たしている自分は正しい者である。そうでないあの人は間違っている。」…神が命じた掟が、本来の神のみ心とは違う形で言語化され、条件化され、その枠でしか判断されず、本来の意図とは違って頑なに自分を正当化し、誰かを裁くこと。それに大体の場合、そのように公式化された条件を道具として誰かを責めたり、見下したり、憎むこと。そういう姿を表すキリスト教用語があります。「律法主義」がそれです。本来の意図でない形で、言葉を道具に、表面的な条件だけを基準に自分を正当化し、他人を裁く主義と言えましょう。今日の第二の日課にも書かれています。「律法(のみ)を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない」。「律法によっては罪の自覚しか生じない」。律法という枠のみを守っているから自分を正しい者し、他人を裁くのは、自惚れであり、勘違いです。決まった条令を全てとするのであって、本来それを与えられた神を真理とするものではありません。本当は律法そのものをも深く見つめている姿ではありません。どちらかと言えば自分のために判断したがたる姿が大体の姿です。別の箇所に律法は何のためにあるかという、有名なまとめがあります。「神を愛し、隣人を愛するため」。決まった個々の条令と言葉に対する言及があっても、そこに真実の愛がなく、裁きしかないならそれが「律法主義」です。  今日のイエスの言葉は続きます。「奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかにが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」奴隷なら、どこかに売られることもある。移されることもある。その家の、いつも変わらない一人ではないことをたとえとして示しています。しかしその家の子は、その家とは分離できない存在である。やがてその家の主人でもあります。その子が自由にすれば、それまでの奴隷は本当に自由になる。律法と罪の奴隷と神のみ子であるご自身をイエスはこのように示しておられます。だからあなたたちは奴隷としてではなく、御子との繋がりと自由のチャンスが与えられているとのメッセージ。罪からの自由、死からの自由が神の御子によって与えられることを教えてくださいます。「あなたたち」、彼ら自分の力ではなく、御子による解放と自由です。もちろんここには、この後、世の人々の罪を代わりに背負って十字架に向かう、御子イエスの犠牲と愛が込められている解放と自由です。  律法主義という誤り。私たちがもっとも警戒すべき罪の一つです。実は個々人だけでなく、ユダヤ人だけでなく、教会の群れをも罪と誤りに陥れていた躓きでもありました。教会の歴史の中には、贖宥券(免罪符)という献金の証拠、慈善のしるしそのものが神の赦しと救いであるかのように乱用された歴史があります。宗教改革はその誤りに対する省察、本当の神の赦しと救いを見つめ直すために起きた信仰的覚醒の出来事です。この時間で宗教改革について語り直すことはしませんが、私たちの教会はこの信仰的覚醒と発見によって建てられた教会です。目に見える行い、それに対する人の評価によるのではなく、神の恵みと救いは神によって与えられるもの、これが真理です。ゆえに信じる人は神のみを見つめるのです。「聖書のみ」私たちに示された真理は、神とイエスの言葉です。「信仰のみ」神の前で人を義とするのは御子を信じる信仰によるもので人間の力や行いではありません。「恵みのみ」これら、救いと赦しは神とその御子イエスから「ただ」与えられるものです。この精神と信仰こそ、神のみ、キリストのみを真理とする姿、繰り返される罪と背きの間から見付けられた  信仰的出発点です。真理はキリストです。


神はあなたのことを喜ぶ

2020年10月18日(日)聖霊降臨後第20主日礼拝 説教要旨
イザヤ45:1〜7 テサロニケ一1:1〜10 マタイ22:15〜22
● 罠から名言
また主イエスの前に一つの質問が投げかけられました。本来、問いとは真理を見出すための道具であると、数週間前の説教でお伝えしましたが、イエスの前に立ちはだかる敵対者たちは今日も真理を見出すためではなく、イエスを「罠にかけよう」と質問します。それも、当時ファリサイ派の人々とヘロデ派と言われる二つの群れが同時に、手を組んでイエスに挑みます。彼らにとってイエスは共通の敵だったからです。 この世界を生きる中で「罠」のような躓き、困難はどこから来るのでしょうか。神から?悪魔から?それとも自然災害のようなもの?私は人からだと思います。厳密には妬みや憎しみのような悪に駆られて攻めてくる人からだと思います。人が自分の求める道を進むにしても、何かを貫き夢を叶えようとするにしても、一番の競争相手もしくは邪魔となるのは人ではないかと。ある人々は、「自分の最大の敵は自分自身だった」と深くて格好いいような、しかし正直良く分からないことを言います。確かに深い洞察としてその通りかも知れませんが、私はこの世を生きる多くの人々が、「最大の敵である自分自身」に向き合う前に、自分じゃない敵としての「人」、「他人」に立ちはだかれるものだと思います。 あまり素敵じゃない考えを語るのはここまでにして、とにかく人による困難、人による罠が数多く存在するこの世の現実と言えば、間違いではないでしょう。人となられた主イエスも、この世の困難として、人による罠に遭うことはしばしばあったのです。 今日の福音書の記事からは、その罠を見事に、罠をかける相手たちを嘲笑うかのように通り抜くイエスの姿を見ることができます。一見とても分かりやすく、それほど深く考えなくても理解できているように思う記事です。感覚的に捉えれば「上手い」、「見事」と聞こえる、名言っぽい言葉です。じゃ今日の言葉って、イエスのセンスでしょうか、言葉の上手さでしょうか。もしかしてユーモアでしょうか。いざとこう聞かれれば「そうではない」と、皆さんの心が感じているかも知れません。 「銀貨に刻まれているのは、誰の肖像と銘か」。「皇帝のものです」。「では皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」私は一時、この言葉が上手い言葉だから好きだったかも知れません。もちろん聖書の言葉であり、イエスの言葉だから、信仰を抜きにただ上手いと感じた訳ではありませんけど、この言葉に魅了された理由が機知と知恵に富む言葉だと感じたから好きだったみたいです。ただ、今やこの言葉から語ろうとするときに、これが機知に富む上手い言葉だと語ってしまうなら、それ以上語れることがありません。 今日のイエスの言葉は信仰の言葉です。聖書、とりわけ福音書が語るのは信仰です。知恵も、タイミングのいいとっさの言葉も、美しいほどの名言も、信仰という魂から出るものです。私たちは短くて、明確で、美しい今日の言葉を、信仰から聴き、私たちへの言葉とするときに、恵みと祝福が与えられます。

● 巧妙な問いかけ
そのために、イエスが「偽善者たち」と呼んだファリサイ派の人々とヘロデ派の人々の質問の意味も少しは振り返りましょう。彼らは「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているかどうか」と聞いてきました。しかもイエスがこの質問から逃げないようにするためか、「あなたは真実な方」、「誰もはばからない方」、「人々を分け隔てなさらない方」とイエスを称賛しながら訪ねてきます。もちろんイエスを罠にかけるためにそうしています。私は、ここで彼らの巧妙さと悪賢さも、人間的に認めます。この質問もなかなかのものです。多くの解釈が言っているように、この質問で彼らが投げかけた二つの選択肢、どちらを選んでも罠にかけられる形の質問です。 彼らの質問の意図はただただ税金を払いたくないからではありません。もちろん重い税は民を苦しめる大きな理由ですが、ここでの質問の主な意図がお金の問題ではないみたいです。それでは自分たちの民族を政治的に支配するローマの皇帝がただただ憎いから?という単純な問題でもありません。実はこの問題は彼らユダヤ人たちが置かれていた状況の問題であって、質問している彼らもその答えをはっきりは言えず、回避していた問いです。 彼らが聞いているのはこれです。ユダヤ人からしてもちろん異教の信仰で神格化されている皇帝に、税金を納めることは、ユダヤ人の信仰としてどうかという問いです。神は唯一。唯一の神を崇める信仰として、神格化されている皇帝に税金を納めるべきかどうかという問いかけです。 「皇帝に税を納めるべきである」と答えるなら、彼らを支配している政治に真っ向から反対することになります。それは皇帝の支持を得て権力を握っている当時のヘロデ派の人々に攻撃される羽目になるという罠です。また「皇帝に税を納めるべきでない」と答えるなら、神格化されている皇帝を認めるという理由で、ユダヤ民族にとって第一の掟である「わたしの他に神があってはならない」という戒めを破ることになって罠にかかる。同時にファリサイ派の人々にとってちょうどいい攻撃の的になります。  彼らはいい罠を見つけたのです。この問いをイエスにはめるのは彼らにとって都合が良さそうですが、実は自分たちの問題でもあります。もしもこのような巧妙な試し、敵対者が私の前にあるならと…想像するのも空しく、想像したくないものですが、多分すっかりこの罠にかかってしまうか、どちらとも言えず、どちらとも言えないから責められる果てになりそうだと想像します。もちろん今日の聖書を読んでないならということが前提ですが…。人が人を罠にかける世界、人が人を陥れる関係、それが自分の置かれて生きる場ではないようにと、願いたいものです。これ、場合によっては、私たちがこの世を生きるにおいて重要な問題だと思います。

● それは皇帝のもの
それでは、主イエスの言葉を聴きましょう。今日の福音書から私たちが学べることは、イエスの答え自体ももちろんですが、ここでイエスの「視点」ではないかと、私は思います。つまり信仰的視点です。この問い自体が罠であって、どちらの選択肢も罠だからこそ、その罠を見つめずに、信仰によって神を見つめる視点です。彼らの罠を無視していると言ってもいいかも知れません。それは何も語らずに無視するという意味ではなく、彼らの思いどおりにならないという意味です。彼らが何を見つめているかを指摘しながら、自分は彼らの見つめとは違う視点をもつことです。イエスご自身もここで、ただ神を見つめる視点で、彼らの誤りと愚かさを明らかにしています。  イエスを陥れようと試みた彼らは、今イエスの言葉によって、むしろ、自分たちの視点が間違っていることを明らかにすることになります。まだイエスの洞察と信仰を理解しないまま、自分たちが何を見つめているか告白してしまいます。「銀貨には誰の肖像と銘が見えるか」。「皇帝のものです」。「だったら、その銀貨は皇帝のものである!あなたたちが見つめているのも皇帝である。あなたたちは皇帝のものをもって、税を納めるべきかそうでないかで、神にふさわしいかふさわしくないかを判断しようとしている。ローマの銀貨をローマに納めるなら神は何かを損なうのかように見つめている。それともそこに刻まれている皇帝が本当に神だとも思っているのか?神はローマの銀貨を必要としているのか?もちろん神は、地上の王である人間のものを求めにはならない!神が求めるのは神のものである。神ご自身が自分のものとされたものである。あなたたちが差し出すそれではない。あなたたちは人間のもの、人間の測りによって神を思おうとしている。皇帝が金を求め、その求めに応じるかそうでないかで、わたしを試そうとしている…。」 今日の短く、明確な答えの真意は伝わっているでしょうか。主イエスのみ心は聞こえるのでしょうか。少なくとも、神はお金を欲しがる方でもなければ、お金をお造りになった方でもありません。人間のもの、世の権力者のものである金を税として人間に納めるか納めないかが神を崇めることの是非ではないのです。むしろ人間としての約束なら約束として、秩序なら秩序として、人間に返すべきかも知れません。彼らの罠はただの罠として見れば結構なことです。

● 神のものは?
それでは「かみのものは神に」、神のものは何でしょうか。今日のイエスの言葉の中には敢えて挙げられていない神のものとは…。これこそ信仰的な話で、私たちが向き合うべき問いです。もちろん神がお造りになったあらゆるもの、神の霊が吹き込まれているあらゆるものが神のものです。私たちは天地創造のメッセージからも、神によるイスラエル民族の選びと贖いからも、神が遣わされた御子イエスの姿とその業、言葉からも神のものが何であるかを知ります。確かにそれはいちいち数えられないはずです。本来、信仰によれば、この世界の始まりと終わりも神のものだからです。 本当の意味で信じる人は、今日の悪しき質問者のように、人の者と神のものとを混同したりはしないはずです。またこの前の週のたとえのように、神のぶどう園を勝手に自分たちのものにする悪しき農夫のようではないはずです。また別のたとえのように、働くように、一緒に喜ぶように招かれている招きを無視したりはしないはずです。信じる人自身は、自分が神のご自身のものであることを知る人だからです。神を信じているかどうか、それは自分の中に神のものを持っているかどうかでもあります。 あなたが今、神にささげようとする感謝、祈り、奉仕…。また神の働きのために、しるしのためにささげる物、思い…。それらはもちろん神のものです。教会も、命も、神によって与えられ、出会った人も、あなた自身も…。ただ神を信じると言いながら、神のものを自分のものや人のものにしてしまうこと、今日の福音書に出て来る偽善者たちのように、神を知らないより悪しき罪かもしれません。 私たちも小さい存在ながら、本当は何も持っていないに等しいほどの者でありながら、勝手に自分のものを他人のものとされる不義、それからの怒りを知る者です。「神のものは神に」。私たちに示された明確な答えです。神によって与えられたものも、神に求めるものも神のものです。神を信じるとは、神のものを神のものとして返すことができることです。そしてあなたにとって神のものと認められるものは良いものであります。


友よ、もっと大切なものがある

2020年10月11日(日)聖霊降臨後第19主日礼拝 説教要旨
イザヤ25:1〜9 フィリピ4:1〜9 マタイ22:1~14
● 改めてたとえの目的
 今日も私たちの礼拝に主イエスのたとえが与えられています。先々週の「二人の息子」のたとえ、先週の「ぶどう園と農夫」のたとえに続くたとえです。「あなたは何の権威でこのようなことをしているのか」とイエスに抗議し、試してきた人々を相手に語られたたとえの続きです。  私が思うに少し難解なたとえかも知れません。もともと今の私たちからすれば時代と文化の差が含まれる文面です。しかし福音書のたとえの中には、読んで聞くだけで、すうと理解できたり、あるいは有名だから繰り返し聞いて自然に理解できるようになったりするものもあれば、そうでないものもあります。私の感覚ではありますが、今日のたとえはそこまで有名でもなければ、このたとえのストーリの設定は今の私たちからすればちょっと唐突に思われる何かが含まれているのではないかと思います。適当に読んだら、なぜ婚宴に招く話から、誰かが殺され、誰かが外にほうり出されることになるのか…と、良く分からない感想で終わってしまう話かも知れません。  ここで改めて、私たちが福音書のたとえを聞く目的について考え直したいと思います。言うならばたとえを聞く目的の「再設定」です。何事も目的って大事です。目的がなければ何も得られない場合が多い私たちの世界です。それは私たちが何かの話を聞く時もそうです。聖書の話以前に、私が誰かの話を聞く時も、せめて相手を理解しようとする目的はもった方がいいです。相手を理解しようとせず、共感する姿勢なしで、相手を無視したり、勝手に馬鹿にしたりするなら、話が通じないことはもちろん腹が立つはずです。何も得られません。  もしも私たちが、今日のたとえは自分に合っていないようだと思ってしまうなら、私たちもまるで相手にまったく共感しようとせずに話を聞いて、相手を勝手に判断する人に似てしまうことかも知れません。イエスのたとえにも目的がありました。聖書の記録をまとめればイエスが良くたとえで話された目的は二つあると言えます。?天の国の秘密を悟らせるため(もちろんこれ、聞こうとする人々に限定されることです)。A天の国の秘密が秘密のままになるため。つまり天の国の秘密を悟ることが許されていない人には「見ても見ず、聞いて聞かず、理解できない」(マタイ13:13)ことになるため。もちろん私たちは、福音書から悟るために聞く人であり、そのために招かれた者です。

● 婚宴のたとえ
 まずこの「婚宴」のたとえは、私たちの礼拝の順番にしても、聖書の順番にしても、三回連続しているたとえの三番目のたとえです。たとえが繰り返される中で、その意味と寓喩化(比喩)も深まっています。それと共に、実は比喩されている対象がますますはっきりとされているはずです。  「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いたおいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。」王は神、婚宴に招かれたのはイスラエル、つまり婚宴とは天の国です。婚宴にたとえられた天の国は、婚宴がそうであるように喜ぶための時と場です。今日の第二の日課であったフィリピの信徒への手紙にも書いてありました。教会と結ばれた人々に対してこう告げられていました。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」  神の国とその支配も、そしてこの世を生きる私たちに届けられる福音(良い知らせ)も、それを受ける人々が「喜ぶ」ためのものです。私たちは神によって喜ぶために招かれた者です。しかし今日のたとえはそれに応じない人々の姿を指摘し、たとえています。  その招きに「来ようとしなかった」人々がいました。だからたとえの中の王はまた別の家来たちを遣わして、再び招きます。食事の用意は整ったと、しかも牛や肥えた家畜で最上の用意ができていると、婚宴に来てそれに与るようにと。しかしそれにも応じない人々の姿、一人は畑に、一人は商売に…。そしてそうやって招きを無視することにとどまらず、ある人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺したというたとえのストーリです。  王から遣わされ、婚宴に招く家来たちがたとえているのは、先週のたとえと同じく、神によって遣わされた預言者たちです。時代ごとに、繰り返し遣わされました。しかし神の国に招かれたはずのイスラエル、ユダヤ人たちはそれをことごとく拒み、聞き入れようとしなかった姿がもう一度たとえを通して指摘されています。しかもその中には遣わされた人々に対して迫害を加え、殺してしまう悪事を犯してしまう人々がいることが表れています。だから王は怒ります。それに対しる裁きがたとえられています。家来に代わる軍隊が送られ、人殺しどもを滅ぼし、その町は焼き払われます。ある解釈によれば、これはこの後のイスラエルの運命、ローマによってイスラエル神殿が焼き払われることが反映されているとも言われる描写です。 理由は、まず彼ら、王の招きを無視するばかりでなく使者を殺してしまう人々にたとえられているイスラエルの罪にあります。適当に読んだら、なぜこの王は自分の王子の婚宴に人々を招いたあげく、それに応じないから人々を滅ぼすのかと読まれてしまう可能性があります。いくら王政社会でも酷いのではないかと誤解されるかも知れません。でもここで王はただ招きに応じないからという自己本位ではなく、自分の家来を迫害し、殺したことに対する怒りとして彼らを滅ぼしたことです。 それに、婚宴という、大きな招きです。今の私たちでさえも婚宴の招きを軽くは受け止めないはずです。王みたいな存在は私たちの時代にはいませんが、知り合いの招きでも無視はしません。せめて断る場合でも、相手を軽んじず、断りに代わる丁寧な反応を示すはずです。婚宴という招きが、人の人生と、その人と繋がって招かれている人にとって、軽いもの、どうでもいいものではないからです。 しかも婚宴とたとえられているものは、人の婚宴よりはるかに大きいものです。王とたとえられている存在も、昔の世界に存在していたような地上の王よりはるかに大きい存在です。昔の世界のように王みたいな存在はほぼなくなったかも知れない今の時代でも、逆らえない、無視してはいけない権威はあるでしょう。私たちがもし昔の世界に生きる人だったら、王という存在の大きさ、王からの招きという重みをもっと知ることだと思います。ただこのたとえの設定の中では、ここの王が最初から怖い、滅ぼす王ではなかったはずです。この王は招き、招かれた人々はそれを無視するどころか、ある人々は王の使者たちを殺します。王の尊厳が傷ついたどころか、反逆と言っていいものです。王としてたとえられている神の尊厳は、地上の王のそれより遥かに大きいです。

● もう一つの逆らい
 たとえはここで終わりません。王子の婚宴に招かれた人々が来ず、王子の婚宴を祝う民がいないため、王は婚宴に与る人々を探します。前より急ぎで、とにかく多くの人々を招きに当てる様子でしょうか、通りで見かけられた人々、前人も悪人もあまり選定されず急いで集められるストーリとなります。これは天の国への招きが、かつての選民意識(それが傲慢という罪を起こしてしまったかも知れないが)をもっていたイスラエルから、異邦人たちへ移ったと解釈されるたとえです。神の民とされていたイスラエルは神に逆らい、異邦の国々の人々が神に従うようになることの反映です。とにかく多くの人々がこの招きに当たります。ここまでだったら、このたとえの難解なイメージはあまりないことと思われますが、ここでもう一つの、最後の比喩と指摘が加わります。  礼服を着ないで婚礼に来ている人、婚礼にふさわしくない姿でいる人です。これを、急いで招いておいて礼服を着ない人を裁くのは厳しすぎではないかというように、今の私たち風に見てしまったら、これを通して伝えようとしているメッセージを見逃してしまうことになります。王の前ということ、婚礼という儀式と伝統、それに伴う昔の規律を想像すべきです。しかもユダヤ人の伝統と規律によれば、婚礼には婚姻主が与える礼服を着て婚礼に参列すること、しかも王や身分の高い者は婚礼にふさわしい晴れ着を与える姿が旧約聖書のいくつかの記述に含まれています。ここで礼服を着ずに王子の婚礼にいる人は、この人が貧しかったり、礼服を用意する時間がなかったりする設定ではなく、この人が王に対しても婚礼に対しても無礼で、不誠実な者であるという意味です。姿の違いがあるだけで、王の招きを無視した人々と同じく、これも王を無視したことという意味です。要するに、神の国にふさわしくない人が誰でも入ることではないというメッセージです。今日の本文の最後に、本文自体がこのたとえの解釈を書いているので、私たちはこのたとえの解釈に迷う必要はありません。  「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」主イエスの御言葉です。

● 私たちへのメッセージ
 そして全ての聖書の言葉がそうであるように、聖書のメッセージは昔のユダヤ人に限定されず、信仰によって今の私たちに向けられるものです。天国に招かれる人は多いけど、選ばれる人は少ないとは、神の厳しさでしょうか。そうではないと思います。神は招かれる方だからです。しかも多く招かれるからです。招かれる人が喜んで欲しいのが神のみ心です。 招きを無視して畑仕事をする人、商売をする人、王の婚宴という素晴らしいチャンスを前にして、それに比べればつまらないこの世のこと、自分のものに縛られて神の招きをないがしろにする。そういう人は神の国にふさわしくないというメッセージが表れています。ただそれだけではありません。もう一つのメッセージが続いて示されています。だった招かれる人はから何でもいいのか、もちろんそうではありません。招かれるのは神の国であって、自分のワールドではないからです。 「礼服を着ないで婚礼にいる人」をどう解釈しましょう。神に対してふさわしくない、不誠実なあらゆる姿が当てはまりそうです。権威ある、ある解釈はこう言います。「罪を赦されながら、なおそれを自分のもとにとどめようとする者」、「恵みと邪悪とを一緒に評価する者」、「永遠の宝を求めながら、とるに足りないことのためにそれを軽視してしまう者」、「キリストを主と呼びながら、なお自分自身に仕えている者」、「神を信じながら、自分の悪い快楽を求める者」… 主イエスの言葉のごとく、招かれる人は多い、招かれる回数も多い。しかし本当にふさわしい人は少ない、自分の姿の中にも神に対して本当にふさわしく、真剣な自分も少ない。今日の主イエスの嘆きのような言葉に当てはまる私、私たちだと思います。断言できます。信じない人は信じないゆえに、信じる人は信じると言いながら、真剣でなく誠実でない姿になってしまうのが私たちです。だから主イエスの十字架が私たちの前にあります。私たちは、神の前の自分がどういう者なのかを正確に、できれば厳しく見つめつつも、私たちは今日の主イエスの言葉の続きの主イエスを見つめるべきです。だから罪人のために、ふさわしくない世人のために担い、受けられた十字架の道、血潮。私たちが着るべきは、主イエスの十字架で私たちのために流された血潮、神が用意され、与えた「礼服」です。私たちはそれを着るべきです。 「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」私たちはこの言葉から、確かにふさわしくない姿が多い私たちを振り返りながら思い直すべきです。私たちに与えられる神の招きを見直すべきです。神の前で何が本当に大切なものなのか。今の自分の営みなのか、欲望なのか、自分の思いなのか…それとも救いと命、尊厳と清さなのかを正しく見つめ、判断する私たちでありたいと願います。 神よ、私たちが神の与えようとするものの尊厳、尊さ、喜びに気づくことができるようにしてください。そしてそれに真剣に向け合えることができるようにしてください。


ふさわしい者に与えられる

2020年10月4日(日)聖霊降臨後第18主日礼拝 説教要旨
イザヤ5:1〜7 フィリピ3:4b〜14 マタイ21:33〜46
● 先週に続くメッセージ
 「もう一つのたとえを聞きなさい」。ここで「もう一つのたとえ」とは、先週のたとえの続くのたとえという意味です。先週のたとえは、イエスに「あなたは何の権威でこのようなことをするのか」と抗議してきたユダヤ人たちに対してこういうたとえでした。ぶどう園の主人であるお父さんが二人の息子にぶどう園に行って働くように命じたのに、一人は「いやです」と言って後で思い直し、働きに出かけたが、もう一人は「お父さん、承知しました」と言って、働きには行かなかったという話。イエスに「あなたは何の権威でこのようなことをするのか」と質問した質問者たちに対して、イエスは「あなたたちこそ父なるに神に不従順な者、返って徴税人や娼婦たちがあなたたちより天の国にふさわしい者」という直撃のメッセージが語られたところです。徴税人や娼婦たちは悔い改めるけど、彼らは悔い改めず、自分たちの権威で、神から遣わされたイエスを認めなかったからです。  今日の箇所はこれのすぐ後に続くもう一つのたとえです。なので、ここでまったく新しい、別のメッセージではなく、同じメッセージが語られていると言っていいでしょう。その対象は変わりなく、イエスに敵対しているユダヤ人たち、後にはイエスを殺してしまう人々です。そして彼らの罪と背きが、前のたとえよりさらに厳しく、生々しく語られています。

● このたとえのくだり
 たとえの内容は分かりやすいです。まずたとえの始まりは、あるぶどう園の主人が、自分所有のぶどう園を農夫たちに貸して旅に出かけたという設定でした。当時のイスラエル社会は、社会階層の格差がますます広がり、農地のかなりの部分は大地主たちのもので、地主たちの中には外国人もしくは外国に住むユダヤ人たちがいたそうです。このたとえはそういう地主と小作農たちの関係をモチーフにしたたとえです。だからと言って、このたとえが当時の経済を語るものなのか、当時の社会について語るものなのかと言えば、もちろんそうではなくて、当時の人々が分かりそうな登場人物、当時のある状況を借りて、神の国をたとえて解く物語です。  農夫たちは離れているぶどう園の主人に逆らいます。それも酷く逆らっています。彼らは正義とためにではなく、何か地主の不当な抑圧や搾取が原因でもなく、ただ離れている主人に従いたくなくて、収穫を渡したくなくて逆らっています。彼らにとって地主、その影響力が離れていることは一つの「隙」です。自分たちの利益、自分たちの何かを固められるチャンスです。彼らはそれを見逃しません。収穫を集めるために送られた主人の僕たちをことごとくひどい目に遭わせ、殺します。再度送られる僕たちに対しても同じ悪事を繰り返します。 これは「神の国」を言うためのたとえなので、これが現実的なのかどうかとあまりにも細かく分析する必要はありませんが、このストーリは現実味がありそうでないかも知れないと私は思います。現実味がある部分は、農夫たちの支配階級と言える地主の隙を見逃さず、それを自分たちのものにしようとする農夫たちの姿です。ぶどう園という決して小さくない財産をめぐって、それを奪えるチャンスと隙を見逃すこの世界ではありません。昔も今も、東洋においても西洋においても、人々が集まっている社会なら、利益をめぐって争い、戦い、対立するのが常であるこの世界です。私の感想として、あまり良い感想ではありませんけど、この悪い農夫たちは現実味のある登場人物です。 それに対して、このぶどう園の所有者なる主人は現実味のない登場人物だと私は思います。いくらたくさんの土地と財産を持っている大地主だとしても、自分所有のぶどう園をこのように管理する人はいません。農夫たちが裏切る可能性を考えない地主はいないだろうし、裏切られたらすぐ奪われそうになる無防備の状態に放置する主人、こんなに自分の財産に対して警戒と執着がない資産家はこの世にはいません。  まさしくこの主人がたとえているのは神様です。神はご自分が選んだ人、民に対して、言うなら無防備のような信頼と条件、縛りのない自由なチャンスと恵みを与えられました。選ばれた農夫たちはそこで働き、その実りにも与り、その一部を主人に返せば良い話です。このぶどう園の働きに与る農夫たちはイスラエルをたとえています。このたとえを聞いている、当時イエスの前にいるユダヤ人たちです。そして彼らは農夫たちが主人に逆らうように、神に逆らってきたことを告げられています。主人から何度、何人の使者が遣わされても逆らいます。主人から遣わされた僕たちは、イスラエルの歴史の中で神から遣わされた預言者たちをたとえています。イスラエルは預言者たちを通して語られた神のメッセージに背きました。繰り返し背きました。その罰として、外国に侵略され、支配される厳しい歴史も送ります。それでも神のメッセージに耳を傾けず、背きます。そこで神は最後の人を遣わすことになる。このたとえのストーリの中で、もっとも現実味のない一人の人の派遣、最後の派遣です。なんと、ぶどう園の主人は自分の息子をぶどう園に送ります。


 このたとえの結末に触れる前に、断っておくことは、私がこのたとえに対して現実味がある、ないと言っていることは、もちろんこのたとえの出来を評価することではありません。私はこのたとえをもって礼拝する立場であり、言うまでもなくこれに聴く立場です。それゆえに、この世界ではなさそうだ、現実味がないと言っている部分はまさしく、このたとえのように与えられている神の与えがいかに大きいなものかという讃美のつもりです。  私たちはイスラエルに注がれた神の選びと与えが、この世の現実にはないほど、人の姿には比較できないほどのものであることを、ぶどう園の主人のたとえで気づきました。そしてさらに、それよりも大きい神の最後のチャンスに気づく順番です。それは自分の息子を送る主人の選択、神のみ心です。  ぶどう園の主人の息子が誰をたとえているかは、主人が神を、主人の僕が預言者たちを、農夫たちがイスラエル、ユダヤ人たちをたとえていると知った時点で明らかでしょう。神の御子、イエス・キリストです。  言うまでもなく、この世の中には、主人の資産を自分たちのものにしようと逆らっている人たちに、その僕たちを殺すまで逆らう農夫たちに、自分の息子を送る人はいません。しかし神はそうなさったということです。自分の息子なら敬ってくれることを期待して送ったことです。神のみ心の表れです。さすがに神は人間のように、ぶどう園という土地、資産を求める訳はありません。それが誰の人間所有であってももともとは神のものです。神がそれを許すか許さないかです。主人が自分の息子を送ることにたとえられた神は、もちろんその息子を通して、農夫たち(つまりイスラエル)を裁くために息子を送ることではありません。裁くことが目的なら息子を送らずに裁くことができます。しかしここで息子が送られることに込められている神のみ心とは、息子を受け入れ、敬うならば、以前の悪事と罪は赦されるという神の選択、神の与えるチャンスを表すものです。  このたとえの結末は、神の裁きを預言する結末になってしまいますが、それは神がただ裁き主であるからこうなった結末ではなく、神の大きな恵みに対する人々の悪事があっての裁きであり、最後にそれまでの全てを赦され、神との関係の回復のチャンスがあったにも関わらず悔い改めなかったことへの裁きです。  私たちは礼拝の前半にはいつも私たちの様々な罪といたらさ、咎を、神に対して告白し、御子、主イエス・キリストによって赦しが宣言されます。主イエスは世の人が神に赦される最後のチャンスであり、最大のチャンスです。もちろんぶどう園とたとえられる神の国へ罪人が入る唯一の道です。  しかしたとえの中の農夫たちはそのチャンスさえも、神の最後の招きさえも、「これは跡取りだ。殺して、相続財産を我々のものにしよう」と、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまいます。これは主イエスを神殿の外で十字架に付けて殺す、この後の現実を反映し、預言しているとも言えます。現実味があるというか、この通りになる現実です。たとえの中の農夫たちが最後の赦しへの道を自分たちの手で閉ざすように、ユダヤ人たちはイエスを拒み、憎み、殺してしまいます。

  ● 罪はもっと大きな罪を
「さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すに違いない。」 今日のたとえの結論、そしてこの世界の歴史にも反映されている結論です。もともとぶどう園を与えられた農夫たちは結局、そのぶどう園の農夫でなくなります。もともと神に選ばれていたイスラエル、ユダヤ人たちは神のものでなくなります。代わりに神の次の選び、神の収穫を神に納められる者たちに、ぶどう園とたとえられる神の国は移ります。悔い改めず、神のものを自分のものにしようとした彼らの選択でもあります。悪事と罪は結局最後まで、最後の悪事と罪を犯すまで続き、ますます大きくなってしまう人の姿も描かれていると言えましょうか。それは罪人の人間の姿であって、神はそういう罪人を止めて赦されようとした姿、それが主イエスの姿です。このたとえを語る主イエスの姿であり、罪人と共におられ、彼らに「あなたの罪は赦された」と神に代わって宣言された主イエスの働きであり、そしてご自分の敵対者たちによって、この後、十字架の死に至るまで待っておられた主イエスです。 私たちに示された十字架はそういう意味の十字架です。主イエスは私たちが悔い改め、信じるために送られた方であって、それによって神に戻れば、主イエスが招き、赦された徴税人のように、多くの罪人たちのように、むしろ神のものを自分のものに変えようとした祭司や世の有力者たちより、神の国にふさわしい者になるのです。 今日のたとえが語る、神の国にふさわしい者とは、罪の中で神の独り子を信じて悔い改める者であり、神のものを神のものとする人です。主イエスという親石の上に立てられた家に帰って、真の神を礼拝する者です。 神よ、私たちが神のものを自分のものとする罪や過ちから離れ、神の中で生きて働き、その実りを神にささげることができますように。


どちらが神の望みどおりなのか

2020年9月27日(日)聖霊降臨後第17主日礼拝 説教要旨
エゼキエル18:1〜4、25〜32 フィリピ2:1〜13 マタイ21:23〜32
● 無意味な問い
イエスの前にイエスの敵対者たちがいます。当時の祭司長や民の長老たちでした。当時の社会的な評価と身分からすれば「正しい者」とされていたような人々です。ただ人が造り出した権威や立場でそのように見えていたのであって、本当にそうであるかとは違います。現代もそうです。私たちも知っているはずです。その人の立場が、地位が、尊敬に値しそうな人だから、その人が本当に正しい人とは限らない例をいくつも見つけることができます。人の背景、肩書、立場は、ただそれだけです。それら自体が正義ではありません。そもそも地位は与えられ、付けられたのであって、それがその人自体ではありません。本当にその人の真意を決めるのは、もちろんその人の人格、価値判断、行い、生き方です。 今日の本文で当時の社会で偉い人々であった人々がイエスに尋ねました。「(あなたは)何の権威でこのようなことをしているのか。誰がその権威を与えたのか。」ここで彼らが言う「このようなこと」とは、今日の福音書の前の部分でイエスがしたことを指します。本来は祈りの家であるべきところ、しかし商売者だらけになっていた神殿から商売者たちを追い払ったこと、実を結ばないいちじくの木を呪われたことです。 これらの出来事以外にもイエスが気になって仕方がない敵対者たちだったのですが、自分たちの目の前、神殿の境内でイエスが教えておられたので直接聞いています。「あなたは何の権威でこのようなことをしているのか」。 権威を重視する彼らの姿が垣間見えると言えましょうか。しかしこれは愚問だと私は思います。答えは神からの権威であることに決まっているからです。彼らがそう認めるか認めないかを別にして、イエスはずっと神の国について教えてきたからです。神の名によって罪人を赦し、神の力で人々を癒し、業を行ってきたからです。彼らがイエスを妬み、憤慨する理由も、イエスが神からの人であると言われていたからです。今日の福音書の流れの中で、結果的に、この問いは彼らにとって無意味な問いです。意味があるとすれば、彼らがイエスを妬んでいることがますますはっきりとされるための問いです。

● 「わからない」
この場面においてイエスは直接な答えを避けているように見えるかも知れません。しかし聖書全体とイエスご自身の生涯からイエスはこのような問いから決して逃げていません。この世界に来られた時から、人々の前に現れ、神の国を教え始められてからイエスは神の子です。そして結局その理由で、ご自身に敵対する人々の仕業に殺されるに至るまで、ご自身が神の子であることを言い表した方です。 ただここでは、イエスは直接の答えの代わりに、問うてきた者たちに対して問い返します。「わたしも尋ねる。…ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか。それとも、人からのものか。」 イエスを攻撃するために問うてきた者たちに困る問いでした。どちらだとも言えません。今日の箇所に書いてあるように、ヨハネは天からのものだったと言えば、なぜ自分たちはヨハネに従わなかったのかと言われることになり、人からのもの、つまり天からのものではないと言ってしまえば、ヨハネを尊敬 している人々が怖いです。 結局彼らの答えは「わからない」でした。これが彼らの姿です。イエスを突き詰めようと質問してきた彼らは、実は分かっていない者なのです。なのに人々の上に立ち、指導し、自分たちに敵対する人は裁きます。ちなみにここで彼らが言った「わからない」とは、もっと真相を知るために、まだはっきりされるまでには至っていないから「わからなない」ではなく、もっと慎重に追及すべきだから「わからない」でもなく、まさに自分たちの事情で「わからない」ことにしたものです。ヨハネが神からの者であったと認めても、認めなくても、どちらも自分たちの非が出て来るからです。これこそ、究極の問いから逃げる人の姿です。 自分たちの敵には問い詰めるけど、自分たちへの問いからは逃げる。こういう人々に騙されないために、「問い返す」ことは私たちがこの世を生きるにおいて必要な知恵の一つかも知れません。

● 逃げる人
今日の話し、「問い」というものを用いて話しをしているので、一つだけ聖書以外の話しを挟みます。本来、問いとは真理を見出す道具であり、賢明に生きる道への近道です。私たちは問うことによって考え、探し、大切なものを見つけ出します。本来の問いはそのために用いられるためです。本当に正しいものを見つけ、判断するため、本当に大切なものを選択するためです。自分の都合のために、人を攻撃するために用いるべきではありません。そして問いを持つからには、その答えを探すことです。それを求めて探し続けることです。それをしないなら、問いの意味はなく、問いでなくなります。 オルダス・ハクスリーという作家はこう言ったそうです。「経験とは、あなたに起こった出来事ではない。あなたに起こった出来事を、あなたがどう受け止めたかである。」つまり本当の意味での経験とは、単に自分が遭った出来事ではなく、自分が遭った出来事によって自分がどのように考え、どのように選択、決断をし、どのように行動したかであることです。なるほど…。単にたくさんの出にたくさんの出来事があっただけで経験ではない。それは自分が生きた過去の事実にはなるけれど、たくさんの出来事の中でも何も考えず、何も選択せず、何もしなかったのなら、その経験はその人の賢明さや知恵にはならないという意味です。そういう意味で、単に起こった出来事、その量、数が経験ではないという意味ですね。自分として考え、選択、決断し、行動してこそその人の経験だという意味ですね。 私たちの生きる姿勢に有益な言葉でもあるかと思い、紹介しました。そして、イエスに問いは投げるけど、自分たちへの問いには答えられない人々の姿を思い出します。「それでは、あなたたちにとって、預言者ヨハネは、神からの者だったのか、そうでないのか」。この、選択肢が非常に狭まった質問に対して、答えを選ばず、言えない人の姿。高名な宗教家でも学者でも、人々の間での有力者で長老でも、彼は単なる答えを選ばず、そこから逃げて、何もしない人。彼らが言うように、ただ「わかっていない」人なのです。


その彼らの姿を暴くようにイエスはたとえ話をされます。短くて分かりやすいたとえでした。ある人に二人の息子がいて、自分のぶどう園で働くように言ったが、一人は「いやです」と最初は否定して後で思い直し、働きに行きます。もう一人は「お父さん、承知しました」と言ったけど働きには行かなかったという話です。どちらが父親の望みどおりなのか。 これ、わざと奇抜なことを言おうとしない限り、誰でも同じ答えを言うと思います。父親が自分のぶどう園に働いて欲しいと思うのに、最初の返事はともかく、結局働きに行ったのか行っていないのかの結末があるのに、どちらが父親の望みどおりなのか分からないはずはありません。洗礼者ヨハネは神からの人だったかという問いには「わからない」と答えた彼らも、さすがにこの問いには答えざるを得ません。「働きに出かけた兄の方です」。 このたとえはどういうメッセージとして響くでしょうか?人には正直者であるべき、言ったことはちゃんと実行すべきだという道徳的な教え?教会学校の子どもたちにはとりあえずそう教えるかも知れません。そして確かにそれも教訓ではあります。 このたとえ話のメッセージは、これを聞いていた者、最初はイエスに「何の権威でこのようなことをするのか」と攻撃するために問うてきた者、しかし「ヨハネは神からの人だったのか」という問い返しには答えられず逃げた者である祭司長や民の長老に対して、「あなたたちが『お父さん、承知しました』と偽りを言って働きには行かなかったような人である!」と告げるメッセージです。それに「徴税人や娼婦たちがあなたたちより先に神の国に入るのだ(ふさわしい)という宣告です。 理由は明確です。彼らは悔い改めないからです。神が望むのは悔い改めることに対して、「悔い改めなさい」と教えたヨハネが神のお告げを言っているのか、自分で言っているのか「わからない」人々です。イエスは何の権威で教え、業を行っているのか「わからない」人々です。悔い改められない人々です。彼らの言い分である「わからない」とは真実を追求すべき、その途中だから「わからない」のではなく、彼らの姿勢です。彼らは自分たちのための業は行うけど、神の業はわかっておらず、それに従わないからです。まさにお父さんに対して口で良い約束だけ言って、従わない人の姿、神に対する彼らの姿です。しかし、徴税人や娼婦たち、確かに神から遠くにいた者たちは、神の望みを聞いて悔い改めるからです。 主イエスの前で、人の目には見えない本当の姿は明らかにされます。人の世界が着せていた肩書も、地位と立場も真実を隠すことは出来ません。神の前の私たちはそうであります。この世で人々が見る姿は祭司でも、神の前では悔い改めた徴税人の方が神に近い人です。神の望みどおりの者です。神が望み、導いたものに従うからです。 私たちも考え、選択し、決断すべきです。そして決断までするのではなく、その通り行い、実践することです。何が神の望みなのか。そして望まれていないことなのか。何を悔い改めるべきなのか…。これらのことを顧みず、考えず、悔い改めず、実践しないなら、私たちもそれらしい返事だけ言って従わない息子のような礼拝者です。 今日の第二の日課に書いてある言葉です。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」神に従わない者ではなく、従う人になりましょう。私たちを動かす神の招きに、与えられる御言葉に、私たちの内で響く声に、「わからない」という姿勢ではなく、それを受け止め、行う人になりましょう。そうして神の国と祝福に与る人、神の与えられるものを受け継ぐ人になりましょう。


赦さないという罪

2020年9月13日(日)聖霊降臨後第15主日・敬長礼拝  礼拝説教要旨
創50:15〜21 ローマ14:1〜12 マタイ18:21〜35 
                                  
● 何回赦せばいい?
イエスの弟子、ペトロが聞きました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」 ペトロはこの質問を通して、私たちを含む多くの信仰者に貢献しています。この時点でのペトロの姿が模範的だという意味ではありません。このペトロの質問を通して、私たちに主イエスのみ心がより明確に表れるからです。ペトロはどういう気持ちで「七回まで」と言ったのか、この文面だけでは分かりません。七回も赦せれば十分、それが限度だと思っていたのか、自分は七回も赦す準備ができているという意味のか…。 いずれにしろ、主イエスの次の答えで、ペトロが思いは改められなければなりません。「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」。この答えが490回を意味するものではないことは明らかです。というか、490回まで赦しの数を数える人はいません。いつまでも赦しなさいという意味です。赦しに数の限度などはないという意味です。 この答えに驚くのはもちろん、戸惑う人もいると思います。この答えによって、自分の心の中にある思いと葛藤する私たちがいるかも知れません。確かなことは、この答えが今日のみ言葉の結論です。主イエスのみ心です。この答えを受けて、葛藤する私たち(自分自身)がいるなら、私たちがいかにもこの世の様々な決まり、ルール、人との比較に縛られているのではないかと、私は思います。言うならば、決められている人間社会のルールや比較と計算には慣れているけど、それより大きな次元の「愛」には理解が乏しいのかもしれません。 偉いことを言うつもりはありません。こんなことを言っている私は、主イエスの言葉通り、人を赦しながら生きているか…。そう言い切れるはずがありません。私たちはそんなに単純ではありません。どこかで罪に絡みます。自分がいちいち気付かないほど、たくさんの思いと憎しみが取りつきます。あまりにも自然に憎しみと復讐心に駆られます。そしてだいたい自分は悪くない、被害者だと思いこみます。ほぼ自動的にと言っていいくらい、憎しみを抱く自分を正当化します。そして憎しみ続けます。だからこそ、そういう私たちの思いは壊される必要があります。私は願います。今日の主イエスのみ言葉を通して、愛に生きるのではなく、人を裁くことに生きている私たちの思いが壊されますように。この言葉を聞いたから、すぐにも、何度でも他人を赦す人になることは難しいかも知れませんが(私たちが弱いから)、少なくとも愛に生きていない自分の状態に気づくことができるように、憎しみの方に、罪の方に立っている私たちの心が壊されることを願います。

● 赦される姿、しかし赦さない姿
そのために与えられたイエスのたとえ話が続きます。たとえ話に登場する家来は、相当偉い方の家来なのか、借金の規模が桁違いです。1万タラントン…たとえ話の中の金額が大事ではありませんが、一応私たちがイメージできるように換算すれば大企業の社長レベルの桁です。(※一タラントンは6000デナリオン、1デナリオンは1日分の賃金、それの一万倍です。)ある解釈は、自分の領域で多額の税の徴収が可能な地方長官が考えられると言っています。つまり普通に自分で働いては決して返済することができない巨大な額、自分の家族や持ち物を全部売り払ってもとうてい及ばない多額の借りが王にあって、それを帳消しにしてもらったということ。こんな王がこの世にいるでしょうか。もちろんこの王がたとえているのは神様です。 しかし彼は自分に借金がある人に対しては無慈悲で、「返すまで待ってくれ」と頼まれたのに猶予も与えず牢に入れたという話。ちなみに自分が貰うべき金額は、自分が王に対して返済すべきだったけど帳消しにしてもらった金額の十万分の一です。 そんなに悩むほど難しい解釈ではありません。あり得ないほどの巨大な憐みと赦しを貰った者が、また別の者に対してはちっとも赦してやらないということ。神様に多くを赦された者が、人に対しては小さな赦しの思いも行動もないことです。これがもし実存する人物で、私たちの知っている誰かなら、私たちはきっと彼を酷い人、悪人と呼ぶでしょう。そういう人で憤慨すると思います。このたとえ話の中でもそうであって、見っともなさのあまりにその悪事は再び王の耳に入ります。本来ならば赦されたはず帳消しを、彼の不届きさのゆえに再び返済するべきものに変え、それはもちろんとうてい返済できないゆえに裁かれる者になるという話です。自分の邪悪さが赦しを裁きに変えます。 このたとえ話の比喩は、現実ではなさそうな極端なたとえに聞こえるかもしれませんが、このたとえのメッセージは非現実的ではありません。十分あり得る、むしろ実存する誰かをモデルにしたかような話です。自分は多くを赦されながら、他人を赦さない人。自分の罪と過ちに対しては弱く、人の罪と過ちに対しては無慈悲な人。自分の負い目には盲目で、人の負い目には残酷な人。 私たちは程度の違いと形の違いがありながら、こういう人の姿をどこかで見ているのではありませんか。このたとえ話のメッセージは、もちろんこういう人になってはいけないという警告であり、こういう人は神様に裁かれること。さらに踏み込んで読むなら、人は神様に多くを赦される存在であり、それゆえに自分も誰かを赦すべきというメッセージであります。

● 恵みに生きるか、罪に生きるか
ペトロの質問に戻ります。ペトロは多くの人々の姿を代弁しています。あくまでも自分という立場に立っている人を代弁しています。厳しく言えば、自分のことしか考えていない立場を代弁していると言えます。「何回まで赦すべきでしょうか」。赦す自分、忍耐する自分のみがいるのであって、そこに自分が赦されるべき、忍耐されるべき自分はいません。「何回まで赦すべきでしょうか」。厳密に言って、この質問の心に忍耐はあるかもしれませんが、愛はありません。「何回まで」という条件がすでに条件づけられています。その条件を越えれば、その愛は死んだ愛、消滅する愛になるのです。なくなる前提の愛です。 私たちが神様を信じて従いたいと思うなら、誰かを赦す自分を思い出す前に、神様に赦される自分を思い起こすべきです。誰かの非を見つけて憤慨する前に、自分も憤慨されて裁かれて可笑しくない存在あることを思い起こすべきです。そういう自分なのに赦され、愛されていることを思い起こすべきです。 そういう自分を知るならば、私たちは赦しというもの、また赦しを生み出す愛を理解する者です。そういう自分を知らないならば、私たちは赦しを知らない者、自分が受けている赦しも知らない者、それゆえに赦しに生きることは出来ない者です。実は自分が赦せるか、赦せないかは、赦しを知るか知らないか、赦しを認めるか認めないかの話です。本当にそうです。赦しというものがどれほど有難く素晴らしいものか、どれほど美しくて大きいものか、その良さを知らない、認められないから赦せないのです。赦しがあり得ることと、その赦しを始まりである愛を信じられないからです。 赦しは恵みです!そして愛です。自分が赦すということは自分にとっていかにも犠牲であって、苦しみなのかと思い込む私たちの認識は改められなければなりません。赦すということは悪いものでも苦しみでもなく、神様の恵みの中にいる証拠です。自分が赦されている、また自分も赦しを実践するほど赦しを理解していて、その赦しと愛によって生きて存在している証なんです。恵みだから、そこに限度はないのです。 今日は室園教会に置いて、敬長礼拝です。私たちが本当の意味で年長者を敬うということは、人が創り出した伝統と規範に命令されて無理にそうすることではありません。無理やりにそうすることは本物でも愛でもありません。敬うといことは、自分より先に生きてこられた方々を見ることです。もちろんその中には、見つめなければ伝わらないたくさんの出来事、経験と試練、愛と赦しが込められていると知ることです。もちろんそれを包んでいるのは神様の大きな愛と赦しであって、私たちは私たちの先輩を見ることを通して、神の恵みを見るのです。そして神様がくださった出会いを見るのです。私たちに与えられた人々を正しく見つめる心、目が与えられますように。私たちが赦せないという罪の中に生きるのではなく、恵みに生きるためです。


立ち帰れ、立ち帰れ

2020年9月6日(日)聖霊降臨後第14主日礼拝 説教要旨
エゼキエル33:7~11 ローマ13:8~14 マタイ18:15~20
● 猛烈な勢力の台風を前に
過去最大級の台風と言われている台風が近づいている中で、台風のことを言わずにはいられません。今はどんな状況でしょうか。私たちの地域は今日の夜から明日までが今回の台風10号の影響を一番近くから受けることになるという予報です。 室園教会のある方々は、何人かで一つの家に避難して集まると聞きました。そして教会にも私の家族ともう一家族(今のところ)、同じ教会の屋根で過ごす予定です。昨日夕方聞いた気象庁のコメントによると、一部の家屋は崩壊が予想されるということです。どうか、みんなが安全な場所で台風に耐えることが出来るように。私たちと繋がっている人々の家々がなんとか耐えてくれるように、可能な対策がほとんど終わっている今は、そう祈ることしか出来ません。 昨日の夕方、教会に来た山田さんと話したところでした。室園教会って、30年前くらい、台風で倒れて、新しく立て直した建物ですね…と。確かにそうでした…。じゃ今の教会の建物は、建てられて30年ほど過ぎているけど、使命を果たすべき時だと信じたい!もちろん厳密な意味での教会とは、共同体とは、家族とは、建物だけではありませんけど、私たちが頼って生活するそれぞれの家・建物が守られることを、切に祈る今日、これからの時間です。 イエス・キリストは、心を一つにして祈る祈りが神様に叶えられると、今日の福音書の中で約束してくださいます。たくさんの人が必要でもありません。「二人が心を一つにして求める」ことを聞いてくださり、そして彼らと共にいてくださる!私たちが今求めることは、何か利益ではありません。誰かの成功でもありません。何か特別な喜びや楽しみでもありません。私たちが知っている誰か、繋がっている誰か、今困難と不安の中にいる誰かの命と魂が守られることです。そのために、その誰かがいる家と場所が守られますように祈っています。

● 人は繋がり
私たちはたとえ離れていても繋がっています。嵐の前にも、嵐の中でも、嵐の後でも…。今回の嵐がどういう結末を見せてくれるか、正直分かりません。ただし、どういう結末であっても私たちの繋がりに変わりはありません。そしてその繋がりの中に主イエスも共にいてくださいます。 私たちは世の状況にって生きる姿が変わるように見えて、災害や困難から逃れながら生きるように見えて、繋がりの中で生きる者です。それゆえに、もしもこれから被害が襲ってきたとしても、怯えそうな危機が訪れたとしても、何かが壊れていくとしても、自分が愛して頼り、大切にする繋がりを守ること、そしてその繋がりを守るために自分の心を守ることが求められるかもしれません。もっとも大切なことは繋がり。 そして私たちは愛する人々との繋がりだけでなく、その人々を与えてくださった神様と繋がって生きる者です。その繋がりは失われるものではないこと覚えておきましょう。そして乗り越えるべき時を乗り越え、大切な繋がりとの新しい局面、新しい時を待ち望みましょう。繋がっているなら大丈夫です。 今日の福音書の内容も繋がりに対する話しなんです。共同体の中で罪を犯した人をどうするかに対す るイエスの教えでした。自分が属する共同体の中で誰かが罪を犯すこと、あって欲しくないことです。人と人の関係が悪くなる?その人の罪によって共同体全体が悪くなる?秩序が乱れてしまう?あらゆる弊害が心配になります。こんな問題に直面するとき、多くの場合の私たちはこういう問題をどう処理するかを考えがちです。まず解決策を求めるのが、だいたいの私たちの姿です。今日のイエスの教えは解決策でしょうか。そうとも言えます。「兄弟があなたに対して罪をおかしたなら…」。まずは二人だけで忠告する。最初から大っぴらに、開けっぴろげにせず慎重に忠告する…。しかしそれでその人に聞き入れられないなら、次は他に一人か二人、その次は二人か三人、それでも聞き入れなければ、共同体全体で忠告するようにとの教えです。 これは対処法、方法論的な話でしょうか。そう理解してもいいとは思いますが、何のための、誰のための対処・方法なのか、そこが大事です。私たちは主イエスのみ心を正しく吟味する必要があります。罪を犯した者は悪い者、それ以外の自分と仲間のための対処でしょうか。一応説教をするために、今日のみ言葉を考えた立場として、私は思います。自分と自分の仲間のためだけの対処になってはいけないこと!その人を思い、その人のための対処、その人に必要な忠告にならなければならないこと。忠告というのは、罪を犯し、都合が悪くなる人を攻めるため、裁くため、その人に比べ自分たちが正しくて優位であることを証明するためのものではなく、「その人のため」のものにならなければならないことです。 今日の旧約の日課の言葉も明確に示しています。「…主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。」神様の教え、神様の赦し、そのために、神様に従う人々の忠告と働きというのは、罪を犯す者を罰するためではなく、それより彼が立ち帰るために、変えられるためにあるものです。私は思います。私たちの社会のルールなどは、秩序を大事にすることが優先的な目的であるためか、自分や人たちに弊害が出ないようにしなければならない思いが優先されるためか、悪いことをした人は罰を受け、悪い者とされる傾向です。それが全てのようになりがちです。この世のルールはそれで公平性を保たなければならないものかも知れませんが、神様にとってはそれが全てではない。これが神様を信じる人々が見逃してはいけない肝心な、神のみ心です。 改めて考えます。なぜ主イエスはファリサイ派の人々や律法学者など、きちんと決まりによって生きる、人々を裁く人、決まりを重んじる人々と対立しなければならなかったのか…。決まっている基準によって、また人々の評価によっては罪人とされるゆえに裁かれ、見捨てられるべき人々を赦し、救い、新しい人にすることこそが本当の神様のみ心であったからです。そしてそれを世に悟らせるためです。それに人の基準では気付かれないけれど、神様の前で何かの罪をもっている人々が、自分は善人であるという自己中心的な矛盾を気付かせるためです。神様に対して傲慢ではなく共にへりくだり、神様に代わって裁く者ではなく共に悔い改め、自分ばかりではなく共に救われるためです。今日の部分の教えは、自分たちの間で罪を犯した人をどうすべきかに対しる方法に聞こえて、その前後、聖書の有名な例えと教えと共通する真理です。「一匹の羊が迷い出たら、残りの99匹をしばらく置いてでも捜しに出て見つけなければならない」。「どんな罪人でも、何度罪を犯しても彼が赦しを乞うなら赦さなければならない」。 本当に神様が望む救いとは、決まっている基準の中にいるように見える人々だけでなく、その外にいる人々、何かの理由でそこから外れ、話されている人々にも届く救いです。罪人のため。その人のため。相手のため。その思いに基づいてこそ、私たちは聖書の教えを正しく理解するのです。そして繋がります。裁きは繋がりを断つものです。「行って、忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得ることになる」。書かれている通りです。実は、そうやって「兄弟を得た」方が自分のため、共同体のため、そして神様のためなのです。

● 神が望むこと
今週は、どうしても台風の話しをします。それが、これから直面する私たちの危機であって、どうも軽い危機ではなさそうだからです。私たちはこれからの危機で、私たちが知っている人、繋がっている人を失いたくありません。理屈ではなく、それが私たちの心です。実はこういう危機にこそ、私たちは何かに邪魔されず本当のことに気づくのです。自分と繋がっている誰かは、本当は失われたくない一人であることを。ある状況が、自分との思い違いが、悪く転んでしまう場合、ある人を憎み、ある人を嫉妬し、ある人を攻める…。でも彼は、本当は自分と繋がっているべき一人である。 台風の話しに、取りまとめのない話に聞こえるかもしれませんが、誰かと繋がって生きるということは、自分のことばかり考えての繋がりではないこと。相手のことを思って繋がること。そのためには赦すことも、忠告することも、その人が良くなるために努力し、場合によっては何かの犠牲を払うこともすべきであることを気づかされます。実は私たちも誰かの赦し、誰かの努力、誰かの犠牲によって成り立っていることを。世の罪のため、人々のため、私たちのために十字架を担い、血潮を流した主イエスを仰ぎ見、思い起こすべきことです。 神様とその御子主イエスは、兄弟を断つことではなく、兄弟を得ることを望みます。共に生きることを望みます。そのために祈ることを望んでおられます。そしてその中に一緒にいてくださいます。


失わせるものではなく得させるもののために

2020年8月30日(日)聖霊降臨後第13主日礼拝 説教要旨
エレミヤ15:15〜21 ローマ12:9〜21 マタイ16:21〜28
● 「この時から」
「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」 今日の福音書の本文の中で、「このときから」と言われた時とは、先週の箇所、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と輝かしい告白をした時です。イエスは、単なるご自分の未来について弟子たちに打ち明けられたのではなく、ご自分を通して神のみ心がどのように現わされるかを打ち明け始められたのです。それはペトロを始めとする弟子たちが、イエスを神からの救い主、神の子と信じて告白した時のことです。 その直後に私たちは今日の福音書を読みます。イエスご自身が褒められるほどのせっかくの信仰告白。弟子たちがご自分をどのように見て、思っているかを確認し、その真実な絆のゆえに、この地上における教会、天国への鍵を授けると約束された「その時」のことです。その後に、御自身が対面する世の人(権威)との対立、受難、死…。弟子たちがこの時に聞いた後のことは、「三日目に復活する」ことを除いては、人間としてあって欲しくないもの、むしろ「このようなことだけは避けたい」ものです。彼らが救い主、神の子と信じるイエスがそうなることは望みたくない、信じたくないのは、一般的な(普通の)人間の姿と言えましょう。

● 向き合ってみたいこと
この場面から私たちは改めて考えてみたいです。向き合ってみたいと思います。ペトロを始めとする弟子たちはイエスを何者として信じて告白したのでしょうか。メシア(救い主)として、神からの神の子として…ペトロの言葉どおり、福音書に記録された通りです。しかし、彼らがそのように望んでいたイエスが、これから世の権威者たちと対立し、彼らによって敗北と見える姿となり、殺されるということを言われて彼らはどうでしょう…。弟子たちを代表するペトロの反応が示されているように、「そんなことがあってはならない」と彼らは思っていたのです。 これ、ちょっと複雑なことです。彼らはイエスを信じています。しかしイエスがこの後辱められ、殺されることは(この時点で)信じたくないのです。実は復活も言われているけど、おそらく一番後に言われている復活はまともに耳に入っていないかも知れない…。その前に言われている事柄があまりにも衝撃的で、あって欲しくないものだからです。 彼らはイエスを救い主として信じている…しかし自分たちの救い主がそのような目に合ってはならないと思っている…だとすれば彼らは、イエスをどのような救い主として信じていたのでしょう。この世の多くの解釈と分析が言っているように、政治的にローマに支配されているイスラエルを開放する救い主?自分たちを高め、この世で偉い人にしてくれる救い主?おそらくこのようなイメージでイエスを自分たちの救い主として信じていたのだと思います。歴史上の解釈者たちの分析は合っていると思います。そうなんです。後々の弟子たちの姿は別ですが(このように思っていたのが全てではないかも知れませんが)、ある時まではイエスをこのように信じて、望んでいたいたのが彼らの姿です。とても人間的です。 今度は私たちに置き換えて、向き合ってみましょう。私たちが神を礼拝しながら望むことは何でしょう。神を信じて(もしくは信じたくて)イエスの御名によって何を願いたいのでしょう。自分と自分の近い人々の幸せ、平安、成功、物質的な豊かさ、安泰…おそらくこう言った項目にまとまることと思います。別に批判し、咎めるつもりで言っている訳ではありません。実は私もだいたいこんなことを祈っています。これらを求めることが悪いと言いたい訳でもありません。ただし、これらのみ、これらが信じる理由のすべてならば、私たちは、この世で「十字架に付けられて死んだイエス」を信じる意義があるのかと向き合いたいものです。 改めて考えると、自分と自分の身内の繁栄のためならば、もうちょっと分かりやすい信仰の在り方や文化が私たちの身近にあることを思い出します。誤解して欲しくないのは、別の宗教や信仰をわざわざ批判する話ではありません。イエスを信じる意味を見出したいのです。繁栄、健康、成功、安全、富、学問、恋愛、合格…。明確にこれらを打ち出している文化と信仰、私たちは知っているはずです。あるいは、それぞれの目標と願いを神々への信仰とは別に、自分の力と努力で成し遂げたい人々姿もあります。何を一番に生きるかは人それぞれです。私は別に嫌味ではなく、この世界で見えてくる姿から言っていますが、ある人々はそれぞれの神を通して自分、家族、繁栄などを求め願い、ある人々は神的な存在なしで自分たちの幸せ、それぞれの自己完成のために生きています。宗教がない人でも、言って見れば、ある人は自分という宗教、ある人は家族という宗教、ある人はお金という宗教を追求して生きている様々な人の姿がこの世にあります。または自分が何を望んで、何を追求して生きているか分からない、考えない姿も、もちろんあります。

● もっとも大切なことは
当然なことではありますが、主イエスの十字架の前で礼拝をする者は、主イエスが世の人々のために成し遂げ、示してくださったことを信じて望むのであります。主イエスが世の人々、私たちに望まれることをみ心とすることです。この世で幸せになる、成功する、人々の間で輝く…もちろんこう願うのが間違いではありません。ただこれらが全てではありませんし、全てになってはいけません。これらのために神を信じるのではありません。聖書の言葉(イエスの言葉)で補足するならば、別の箇所でイエスは言われます。「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか…何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:31〜)本当の意味で神を信じる、神と繋がり、従って生きることに、「加えて与えられるもの」のために命を懸ける必要はありません。「加えて与えられる」ように願って信じることはいいと思いますが、「加えて与えられる」ものより大切にすべきことがあります。それは命です。命は神より与えられたことを前提に、神との繋がり、絆です。 今日の主イエスの言葉は、聞き方にもよりますが、真剣で難しくて暗い印象の言葉に聞こえるでしょう。確かにそうですが、厳密に言うと、そう感じる私たちの裏腹には、自分の好みに合って分かりやすく明るいものを求めたがる私たちがいるのかも知れません。ともかく、まさに「受難の予告」のごとく、暗く難しく感じる今日の言葉の中に、実は理解して納得することにまったく難しくもない言葉を見逃してはいけません。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」 私たちがどれくらい成功しても、どれくらいのものを手に入れても、命を失ったら何の得にもならな いことは多分誰にでも理解できること、理解するより本能的に分かるものです。だったら、一番大切な命を優先し、他のもの、先ほどの聖書で「加えて与えられるもの」と言っているものなどは適切に求めればいいところです。しかしこの世界が複雑なのか、人間が複雑なのか、もしくは悪魔が人間を惑わしているためか、命を別のものに代えてしまう、自分の魂を別のものに売り払ってしまう人々の姿が結構見えてくる私たちの世界です。そして人間の姿です。 もともと聖書が書かれた原語で、「罪」と訳している言葉の意味は、「的外れ」の意味が含まれています。端的に言って、聖書が言う罪は「的外れ」です。生きることの「的外れ」、命の「的外れ」です。だから罪がもたらす報いは死です。肉体的な死ではなく、神の前での死であり、神との断絶です。イエスが言っておられる命も、神の前での命です。天国での命です。聖書で言う罪人とは、人間社会で法律的に悪いことをしたことではなく、神の前で、あるべき命の在り方から外れてしまい、死に向かってしまうことです。イエスがこの世に来て人々に示した究極なものは、神の国、天国に繋がる命であり、罪によってそこから外れてしまう人々を救うためのものです。本来神が創造し、命を与えたように生きること、そして神の元に戻る命の在り方を見出すことです。罪によってそこから引き離す悪魔の仕業から真の命への道を取り戻すことです。そのために罪の報いである死を、世の人々に代わって受け、罪の代価を代わりに支払うためにイエスは十字架の死に向かわれました。それが神のみ心、神に遣わされたイエスの道です。今日の福音書の場面は、主イエスを救い主であると告白し、信じる弟子たちに、これからの具体的な救いの過程と実現とが打ち明け始められる場面です。何からの救いなのかが現れ始められる時です。 ペトロを始めとする弟子たちは、この時点ではイエスを信じつつも、人々の攻撃と苦しみを受け、死に向かう道は、救い主の道ではない、自分たちの師のイエスの道ではないように思っています。しかしいずれ悟ります。彼らもこの後、一時の悲しみと絶望、苦しみが訪れますが、そこから本当の命に気づき、そこに向かう信仰者になります。自分のことを思う信仰者から、神の望むどおりの信仰者になります。主イエスが彼らを離さなかったからです。分かるように愛してくださったからです。だから彼らは本当の命に気づき、後では本当の命の妨げになる全てを手放して、彼らに約束された命のためだけに生きる者になります。 私は、復活して生きておられ、神と共におられる主イエスが、世の色んなものに惑わされる弱い私たちをも、悟らせ、導いてくださると信じます。そこで思います。神様が与えてくださった私たちの命と魂を、私たちを惑わし奪おうとする者に売り渡してはいけない。奪われてはいけない。いずれ主イエスが守ってくださいますが、私たちも忘れてはいけない。忘れては思い起こし、奪われそうなら取り戻し、罪をおかしたら悔い改める信仰が与えられることを。それは神の前の私たち、神を信じようとする私たちにとってもっとも価値あること。取り返しのつかない死の誘いから私たちの命と魂を得ることです。実は落とし入れ、失わせ、死なせようとする力から、逃れることです。求めさせるけど与えられず、潤そうとしても満たされない罪の力、騙し続け、縛り続ける力から解放されることです。そのためにイエスは人となられ、私たちのために十字架を担われました。それが命への道です。


神が現わしてくださった

2020年8月23日(日)聖霊降臨後第12主日礼拝 説教要旨
イザヤ51:1〜6 , ローマ12:1〜8 , マタイ福音書16:13〜20
● 私は相手にとって誰?
もし皆さんに「私は誰ですか」と聞いたら、皆さんは私のことをどう答えるでしょうか。多くの場合なぜそんなことを聞き、また答える必要があるのかと思われるかもしれません。敏感な方は今日の福音書の内容と関連があることを気づいているかも知れません。ともかく、本当はそれぞれの関係において重要な質問であり、究極な確認です。 私は教会の方にとっては「自分の教会の牧師」と言われて欲しいし、私の学校の学生にとっては「自分の学校の教師またはチャプレン」と言われて欲しいです。そして自分の息子にとっては「私の父」、妻にとっては「私の夫」と言われて欲しいです。それぞれの話しに、私に対する評価はまだ別の話しです。性格がいいのか悪いのか、出来がいいのか悪いのか、説教や教えが上手なのかそうでないのかは、ある意味どうでもいい(本当にどうでもいい訳はないけど、別の次元の話だという意味)です。 極端な例えとして、もしも私の息子が私のことを「優しい人」、「自分に良くしてくれる人」という良い評価を言ってくれるとしても、自分の父とは言ってくれないならどうでしょう。ある意味とても悲しいことであり、問題です。本当にそうならば私は彼にとってあまり意味のない存在になってしまいます。それより、良いことを言われなくても、例えば煩くて、面倒くさいと思われても「自分の父」と言われた方がましです。ましというより、彼の父である意味があります。仮の話しなのに真剣になりすぎることも変ですが、私の息子に対して私は、彼の父になる(認められる)ことがまず大切であって、良く思われるかそうでないか、関係が円満なのかそうでないかは、その次の問題です。 それぞれの関係において、相手をどのように認めるか(また認められるか)は大切なことです。大切というよりそれがその関係の全てです。他人に有能な人と評価される人がもし自分の家族に家族として認められないならどうでしょう。とても格好いい人でみんなに憧れるような人なんだけれど、自分は愛しているのにその人は自分を愛していないなら、愛し合っている関係の成立にはなりません。他人に良い先生だと言われる人も、自分の先生にならないなら、その「良い」という意味は「ない」のです。 もしかしたら今の私の例えの中には、ある人々にとっては本当に真剣な問題となることが含まれているかも知れません。が、もちろん私は、今日の聖書の言葉を自分なりに解いて語るために言っているだけです。

● ペトロは答えた
主イエスは弟子たちに聞きました。まずは「人々は」ご自分のことを何者だと言っているのか。洗礼者ヨハネだという人も、エリヤだという人も、ほかにエレミヤだという人、預言者の一人だという人がいますとの色んな答えが出ました。ここに羅列されているそれぞれの人物に対する説明は省きますが、要するにそれまでのイエスの教えと行いが評価されて、反響を呼んでいる様子です。それぞれの人物は歴史上象徴的な人物ですから…。もしイエスが、一人の宗教家として教師として認められたい人であったなら、これらの答えは十分立派で満足できる答えかもしれません。 しかし肝心な質問はその次の質問です。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」、つまり 何者と思うのか。ここでもし弟子たちが世間の人々が言っている同じ答えを言ったならば、今日の記録は意味がない記録になります。最初から書かれなかったでしょう。偉大な宗教家、優れた預言者、教師…どの答えも悪い見方ではありません。でもそれならばイエスと弟子たちの関係はほぼ意味がない関係になります。なぜならイエスは、偉大な宗教家、優れた誰かとして弟子たちに現れたのではなく、単に優れた教師と弟子の関係になるために弟子たちを招いたのではなく、神からの救い主、彼らの主として来られたからです。幼稚な例えかも知れませんが、私が息子に「いい人」と言われるようなものです。ただいい人の一人で「お父さん」にはならないような話です。 幸いにも、ペトロが答えます。「あなたはメシア(つまり救い主)、生ける神の子です」。イエスが自分の救い主、神から遣わされた自分の主であると答えました。イエスが地上に来られた目的、イエスが彼らの前にいる意味を、正確に答えました。だからペトロは主イエスの人、主イエスによって救われるのはもちろん、その救いの業のために「鍵」を授けられる人です。

● 全ての始まり
イエスがイエスであること、イエスが何のために地上に来られ、何のために宣教をしているか。イエスがどんなイエスなのかを正確に答えた彼は、イエスによって素晴らしい権限を与えられます。一言の答えに対しては大きすぎると思われるかもしれませんが、それは単なる一言ではなくイエスとペトロの芯の関係・絆の表れだからです。「あなたはメシア、生ける神の子」と答えたペトロは、自分が答えた通り、メシアの人、生ける神の子の人だからです。実はペトロという名前もここから(この絆の中から)与えられたという話です。「あなたは岩」。何の岩?「私(イエス)の岩」。「イエスがその上に教会を建てる岩」。「教会の始まりとなる岩」。「信仰の岩」…。 ここでペトロが人間的にそれにふさわしい人物なのか、人から見てそれほど凄い人なのかは別の問題です。もしくは問題じゃありません。救い主であるイエスご自身がペトロをそういう人に「した」ことが全てです。福音書に書かれているペトロの言動を人間的に評価して、気が早い人だとか、情熱は認められるけどそこまで思慮深くなさそうだとか、意外と弱くても脆い人のようだなどの評価は問題でありません。そして後にそれぞれの弱点は克服されるからです。 ここではぴったり、素晴らしい答えを言ったけど、このすぐ後にイエスに叱られることを言ってしまう…問題じゃないのです。主イエスが切実な気持ちで「しばらく祈っていなさい」と言われたのにすぐ眠ってしまう…問題じゃないのです。主イエスが逮捕される場面でイエスが望んでいないこと、剣を振るって兵士を怪我させることをしてしまった…それも主イエスにとっては自分の人、ペトロじゃなくなることではありません。やがて、イエスが兵士たちに辱められ迫害されるとき、人々に呪われるとき、「わたしはあの人を知らない」と3度もイエスを否認してしまう…これは人間的にどうだろうと思われる弱さと過ちも、主イエスにとっては問題じゃなかったのです。イエスにとってペトロは、イエスのペトロであることに変わりはない。情熱あるペトロでも弱いペトロでも、自分に従うペトロでも一時裏切ってしまうペトロでも、どのペトロも主イエスは「ご自分の人」として彼を受け入れられました。ご自身の人とされました。そうされたから、後にペトロはもはや誰から見ても「イエスのペトロ」になっていきます。迫害の前でも死の前でも、イエスのためのペトロになります。 だから一時の会話のように書かれている今日の記録は重要で、真実なのです。イエスはどんな方で、イエスを信じる者はどういう者なのかを現わす証なのです。「あなたは私の主」、「私の救い主」、「生きてい る私の神」ペトロが告白したこの言葉はペトロにとってその通りです。ただ、ペトロがそう言ったからそうなったことではありません。今日の聖書に書いてある通り、ペトロにそのことを現わしたのは、他の人間でもなく、ペトロ自分からの発見でもなく、神がイエスをそのように現わしてくださったからです。ペトロに対して、イエスが救い主として、ペトロの主としていてくださるからです。そして、実はペトロ自身もここでまだ完全に認識していなかったかも知れないところ、主イエスご自身がペトロをご自分の人、救われる人の親石、世の人々に天国の扉を示し導く、イエスご自身の働き人とされたのです。主イエスの選び、それが全てです。ペトロはその選びに答えられたものです。少しくどく聞こえるかもしれない言い回しですが、イエスとペトロの関係において、ペトロはどんな資質の人なのか、どれくらい良い人なのかではなく、イエスがペトロを自分の人とされた、ペトロはイエスを自分の主としたことが始まりであり、全てです。そしてその関係にふさわしく、ペトロはやがて「救い主の僕」に、「生ける神」を見るようになるのです。復活の証人となります。 この記録は私たちに、主イエスがどなたであるかを示し、また主イエスに選ばれた信じる者がどんな者であるかを示してくれます。真の関係・絆とは何かを示します。意外と私たちの世界は、人々がどう思うとか、どれくらいのことが出来るとか、3人称目線でそれぞれの存在を評価する目線に満ちています。そこに本当の意味での「自分の神」、「自分の人」、「自分の心、思い」というのは「ない」のです。真の関係は、他の人々の目線よりも前に自分と相手が直接向き合う関係であり、知識よりも評価よりも先に、「自分にとって相手が誰なのか」です。 ペトロにとってイエスは自分を「イエスの岩」としてくださった神。イエスにとってペトロは、ご自分を主と信じて告白した人。ペトロはイエスの人だからこそ、イエスの岩とされたからこそ、陰府の力、世のどんな悪しき力にも揺るがない教会の土台、親石となった。そのように変えられ、必要な時なそうなるために乗り越えられた。やがて天国を見、生きているイエスを見る人となった。その始まりは、なににもまして二人の絆そのもの。互いを自分の存在と向き合い、認める心。それこそ信仰であり、神の招きと選びなのです。


主は聞いてくださる

2020年8月16日(日)聖霊降臨後第11主日礼拝 説教要旨
イザヤ 56:1,6〜8, ローマ11:1〜2a,29〜32, マタイ15:10〜28
● 人の言葉、口論
私たちが生きる中で、人に害を与える行いや習慣、色々ありますが、その中で一番身近に、そして頻繁に行われるもの。口論(言い争い、口喧嘩)ではないかと思います。今日は、口論について考えてみることから、話を進めてみたいと思いますが、もちろん意味もなく口論という素材を取り上げるのつもりではありません。今日の福音書のみ言葉と私たちの姿を照らし合わせるためです。 人それぞれではありますが、多分誰でも人との言い争いを経験しながら生きることと思います。軽い、細やかな口喧嘩から、決して軽くない対立まで、振り返ると私たちの生活は人との口論が絶えないことと思います。そうでない方々ももちろんいると思いますが、ほとんどの私たちが人と口論しながら生きているとやや強引に言っちゃっていいと思います。 私は人を傷つける一番の武器は、人の口から出る「言葉」だと確信します。災害よりも、不意の病気やウィルスよりも身近で、怖いものです。私たちが人と生きるために欠かせないものですが、なぜか人を一番傷つけるものでもあります。そして実は他人ばかりでなく、自分自身をも傷つけるものが言葉でもあります。 私は今まで学校に務めながら、聖書から教育的な意味や日常的な道徳と関連付けたネタを色々話してきました。その中で割と多くのネタは「言葉」と繋がります。日常的で、教育的なネタの中から私が忘れないのは二つくらいあって、その一つ、「悪口」のダメージを一番早く受けるのは悪口を言う人自身であること。悪口を一番先に聞くのは、それを言う人だからということでした。脳科学的な話です。そして悪口はだいたい刺激的で破壊的なものだから、それを言うと同時に聞く人自身の脳細胞は悪口によって破損されるという話。 もう一つは、韓国の教育番組から見たある実験です。ある放送局で行われた実験で、ご飯(米)を二つのガラス瓶にそれぞれ入れて、一つには「良い言葉」、もう一つには「悪い言葉」と書いた瓶を、アナウンサーたちが行き来するところに置きます。そして通るたびに「良い言葉」と書かれた瓶に向かってはあらゆる良い言葉(きれい、かわいい…)をかけ、「悪い言葉」と書かれた瓶には色んな悪い言葉(いや、嫌い…)をかけるという実験でした。2週間過ぎてそれぞれの瓶を開けたら、「悪い言葉」の瓶の中のご飯は汚くて、悪い匂いがするカビができているのに対して、「良い言葉」の瓶の中のご飯は「悪い言葉」をかけられたご飯よりきれいで整った色のカビが、しかも酷くない匂いのカビが出来ていたとの実験。 言葉が持つ力、エネルギーについて、私が喋ってきたネタの内二つをまた繰り返しました。言葉は人に大きく影響するという話、私たちの姿は、私たちが発し、受けている言葉によって変わり続けると確信します。

● 人の口から出て来るものが人を汚す
でも私たちは「言葉」というものを互いが(人と)生きるために用いているでしょうか。良い意味で用いるより、そうでない場合が多いのは、おそらく多くの人々によって事実ではないかと思います。 口論。誤解しないで聞いて欲しい、自分の反省的な話ですが、人と口論して何か良いものが生まれる場 合があるかも知れませんが、私の経験上ではその場合は僅かで、まさに口論は人と喧嘩するため、それだけのための場合がほとんどだと思います。必要で、建設的な種類の口論がないわけでもないけど、私たちが経験するほとんどの口論が何かの決着を導き出すものなのかと言えば、そうではなく対立や感情の溝をさらに深く、互いの思いの違いをより明確にするだけのもので終わる、多くの場合それが事実ではないかと思います。実は聖書の中でイエスと口論をした人々(ファリサイ派、律法学者など)も、イエスに言い込められてから納得して終わったのかと言えばそうではなく、イエスへの憎しみがもっと大きくなって殺意に至るものになっていきます。 「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」 私が用いたネタが無意味な言い回しでないことを願いながら、このイエスのみ言葉と向き合ってみたいと思います。この言葉だけとって聞くなら、少し唐突で謎めいた言葉かもしれませんが、私はなんと絶妙で深い言葉だと思います。人の口に入るもの?もちろん食べ物です。食べ物は私たちを汚しません。というより私たちはちゃんと選別して自分の口に食べ物を入れます。自分が食べられるもの、好きなものなど…。しかもそれらは自分の腹に入って外に出されます。 人の口から出て来るもの?それは言葉です。自分が発する言葉は、自分が食べるものよりはるかに選別されずに自分の口から出てしまいます。人の中に入って傷をつけて、毒を生み出し、さらに傷と毒を大きくするために出てきます。それが繰り返されます。私たちはこうなるための口論は避けなければなりません。「これこそ人を汚す」というイエスの言葉は真実で事実です。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口など… 実は、自分たちが作り上げた儀式には、かなり厳重で厳しかったファリサイ派の人々も、その心から出て来るものは悪いものでした。儀式、伝統など、表を覆う口実はまさに口実でしかなく、その奥にある本音は民衆に対しては権威欲と支配欲、イエスに対しては憎しみと妬みです。私たちは、私たちの口論や対話が、何かを口実にして自分の悪意を隠し、騙し、人を害し、自分をも害するものにならないように注意すべきです。謎めいた印象の言葉ではありますが、「人の口から出て来るものが人を汚す」。私たちをもっとも戒める言葉かも知れません。

● 真実は現れる
今日は、その続きの「カナンの女の信仰」の記録について、「人の心の中から出て来るもの」という観点で聞いてみたいと思います。マタイによる福音書の構成上、順番からして、この女性の信仰が、中身の悪い「人の口から出て来るもの」と対比、対照されます。純粋な信仰と願いから出て来るものは、言い返されても信仰と願いそのものです。悪霊に苦しむ自分の娘がイエスにいやされて欲しいという切実な叫び。心無い人々にはうるさく、喧しい叫び。ユダヤ人的な評価では汚れた異邦人。自分たちは神に選ばれた存在で、異邦人は救いの対象ではないという評価の女性です。 この女性の叫びを聞いて、イエスの最初の沈黙とその後の、一瞬否定に聞こえるイエスの言葉は、そういうユダヤ人の冷たさの反映でしょうか。それとも、多くの解釈がそうであるように、イエスの使命と救いが伝わる順番を意味するものでしょうか。いずれにしても、私たちはこの部分のイエスの言葉だけに躓いてはいけません。この箇所が究極に伝えようとするのは、冷たく見えるこの瞬間ではないのです。むしろこの続きの信仰者(懇願者)の姿とその人を受け入れるイエスの姿です。イエスの一度の沈黙と、一瞬の断りは、彼女の信仰と願いがさらにはっきり出て来るためのものとなります。彼女の中には娘がい やされて欲しいというひたむきの願い、イエスに対する熱望しかありません。だから彼女から出て来るものはそれです。そしてそれをイエスは聞いてくださいます。知っていてくださいます。「あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」あの女は喧しく、追い払われるべき人だ、汚れている異邦人だと思っていたユダヤ人たちが主イエスからこの言葉を聞くことはありません。「あなたの信仰は立派だ」、「あなたの信仰があなたを救った」。福音書の中から何回か出て来るイエスの言葉です。しかしこの言葉の対象は全て、人々の評価からすれば惨めな姿の人々です。自分こそが正しいと思っていた、イエスと同じ血統のユダヤ人とか、人の目から敬虔で権威ある者とされた偉い人々では決してありません。むしろそういう人々はイエスと口論し、ますます悪意と殺意を露わにしていきます。 聖書、とりわけ福音書は権威ある人々側に立って、彼らを擁護する記録ではありません。道徳や伝統を語るための記録とも違います。どちらかと言えばそれらを壊すものです。いつからか、神のための権威や道徳、伝統ではなく、人のためのもの(しかも一部の、利己的な人々のためのもの)になっていたそれらを壊すものです。それを道具とし、口実にして、人の上に君臨し、自分たちの思いを通し、それと違う思いは排除する人々の姿を暴くものです。私たちが罪人である以上、私たちの深いところに罪が宿っている以上、それらは間違いなく私たちの心から、私たちの口から出て来ることでしょう。ただし神に憐みを乞う心、ただ神を見つめる心からは祈りと信仰が出てきます。神はそのどちらを清い心とされるのか、今日のイエスの姿から私たちは神のみ心、裁きを見ることができます。本当の心も本当の信仰も主イエスの前で隠すことはできません。実は自分自身にも隠すことはできないものです。口論を続ければ口実に包まれていた悪意が出てき、願いのこもった対話と祈りを続ければその信仰が出て来るのです。それは人の評価や先入観、一時の沈黙や拒絶、何も内に秘めている本物を隠すことはできません。そして裁かれるべきものは裁かれ、正されるものは正され、受け入れられるものは受け入れられ、報われます。今日のメッセージは、単に人の切実さと熱心さがあれば報われるというメッセージではありません。それを聞いて、知っていてくださるのが主イエス、神がおられるというメッセージです。 神様に礼拝をささげるこの瞬間、私たちはどんな心で向き合っているでしょうか。どんな心を神にささげ、神様は知っていてくださる私たちの心はどんなものでしょうか。悔い改めるもの、感謝するもの、願い叫びたいもの、正されるべきもの…そのどちらもそれが真実ものであるなら、それはすでに神に知られているものです。 「もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら/わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。」(詩編51編) 本当の礼拝も、本当の神の答えと報いも、神の前で打ち砕かれた本当の心から始まるものです。


なぜ疑うのか

2020年8月9日(日)聖霊降臨後第10主日礼拝 説教要旨
列王記上 19:9〜18, ローマ10:5〜15, マタイ14:22〜33
● 奇跡の次、そして祈り
先週の福音書の記録に続き、今週もイエスの奇跡物語です。聖書の奇跡の証は、信じる人々にとって「一つの挑戦」だと先週もお伝えしました。それは、非現実を無理やりにのみ込むという挑戦ではなく、現実の中で生きつつも、それを超える神の御業を見つめる挑戦。確かな意味があって、現実が見せてくれない希望と力を見るという挑戦です。 僅かな食べ物で大勢の人々が共に食べたという先週の日課から、いや、むしろパンや魚ではなく、イエスこそが人々を満たし、生かす「命の糧」である奇跡を体験した日課から、今日はすぐその後の場面に移ります。「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。」ここから今日の出来事が展開されます。 今日のこの日課の中で、一般的に注目されるポイントではありませんが、イエスが「祈るためにひとりに」なられたことに、今の私たち、少し注目したいと思います。イエス・キリストでさえも祈るための時間を持ちました。奇跡を行い、人々を癒し、新しい救いを示されたイエスでさえも!しかも人々の前で祈るのではなく、ひとりで祈る時間をもちました。私は礼拝を準備するために、今日の日課を読む中で正直この箇所に目が留まりました。主イエスでさえも祈られる。私は何をしているのだろう…色んなものに追われ、色んな考え事を抱え、たくさんの人々の姿を見、その声を聞き、時には気にし…なんと祈りの少ない自分なんだろうと気づかされます。もちろん祈りは「量」でも「比較」でもありませんが、私たち教会の信仰の対象であるイエスご自身が祈られるその姿を前に、祈らない信仰者になっているのではないか振り返ること。ひょっとしたら、今の状況の中でそれこそ有益な気付きかも知れません。今日の日課で弟子たちが遭遇するような人生の荒波は、もしかしたら祈りから離れられた姿なのかも知れないと、振り返ります。 コロナ・ウィルスが心配な皆さん。その影響で教会を含め、色んな動きを我慢している皆さん。暑さの中で無気力を感じる皆さん。それに人には言えない心配と悩みを抱えている皆さん。祈りましょう。私たちに出来ることはそれです。それだけではないけれど、それこそ信じない人々には出来ない、信じる人々の特権です。私はたくさん、熱心に祈っていると人には言えませんが、祈れば、今よりさらに良い姿が見えてくることを感じ、確信します。祈りはどんな場面でも、どんな姿でも出来るものです。祈りながら今日の聖書が描く出来事を見てまいりましょう。

● イエスは超えて、共にいる
イエスが祈っている間に舟に残っていた弟子たちは逆風に遭いました。5000人以上の人々がイエスによって満たされるという素晴らしい奇跡を目撃した彼らですが、そのすぐ後、彼らは逆風という試練に遭います。ただの強い風とか嵐でもなく、わざわざ「逆風」と表現されていることに、もしかして意味が込められているでしょうか。一つの恵み、一つの喜び、一つの勝利…?その一つの何かで私たちのこの世の人生と歩みが一段落するものではありません。その後には必ず良かった事とは違うこと、それを忘れ させること、場合によっては悪い何かが訪れます。風はずっと同じ方向には吹かないように、私たちの人生を動かす世の風もそうです。ここでの弟子たちは、イエスの素晴らしい奇跡を体験し、学んだ後、気付けばイエスと離れさせる逆風に動かされていたのです。 弟子たちの多くが漁師だったと言われる彼らですが、大きな風で苦労して、再びイエスの特別な力で助かったというが今日のメッセージでしょうか。表面的なものだけに囚われると、福音書の伝える福音が半減するどころか、実は無意味に変えてしまうものかも知れません。福音書の記録は信じる人々に特別な意味を伝え、角印するためのものです。過去にあった出来事ばかりでなく、現在においても、そして未来においても主イエスを見出すためのものです。イエスがあの日の夜明け、彼らに特別な奇跡をもって助けられたのは、過去においもそうですが、この世を生き続ける人々が繰り返し体験せざるを得ない逆風の中で、何によって生きる道を見出すのかへのメッセージです。もちろんそれは主イエスです。 いつの間にか離れていた時も、色んな理由で離れざるを得ない時も、困難な時も、むしろ困難によって悩まされ、イエスを忘れている時も、イエスは共におられることを見える形で示された出来事です。波を越えて、現実の困難を越えて、時間を越えて主は再び来られ、共にいることの信じさせる奇跡です。弟子たちが一瞬「幽霊だ」と叫んだように、これは霊的体験なのか、錯覚なのか、何かの象徴なのか…目撃していない者にとって断定できないけれど、これを信じて救われた弟子たちと信仰の先人たちが歴史上存在しています。この後の未来において、イエスの十字架の死を通して、イエスとの離れを体験し、復活によって再開した弟子たちがいます。さらにその後、地上の教会が直面する困難と試練、迫害の中で、「主イエスは世の終わりまでいつも共におられる」ことを信じ続けた教会の歩み、歴史があるのです。錯覚が2000年以上続くのか…かつてのイエスの記憶が弟子たちを立ち直せたのか…そうだとは考えにくい展開が、信仰の歴史です。しかも一度絶望と離脱を体験した弟子たちが命を惜しまなくなるほどの変化…信じない目線でそれをどう説明できるか分かりませんが、信仰によって 福音書の奇跡を読む者にとって、それも神の業であり、奇跡です。つまり現実の困難を越えて来てくださるイエスを信じた信仰者の歩みと歴史も奇跡だということです。そこに神の救いが示され、その奇跡のクライマックスがイエスの復活です。道なきところから来られ、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と共にいてくださるイエスだからこそ、イエスは死を超え、時間を超え、信じる人々の困難のさなかに近づいて来られる救い主です。そのことを信じます。水の上を歩くことについて、これがあり得るものなのか説明できません。しかしこの記事に込められている神の愛を信じます。人間の弱き愛は、離れと困難を恐れ、絶望を悲しみますが、神の愛は信じる人に向けて、「超えて来る」のです。それに留まらず信じる人をも乗り越えさせる道をも与えます。

●ささやく声、しかし確かな声
世の困難と絶望を乗り越えること、どんなときも共にいてくださる神の愛があること、信じてそれを見出せること。これを信じる目で聖書を読むなら聖書はどれほど生命力の溢れている書物でしょう。そしてそれを告げる声は、意外と静かで囁きのようなものです。弟子たちを悩ませた逆風がうるさく荒れていたのであって、私たちを囲む世の困難が騒がしくいかにも激しそうなのであって、神が示す愛はそうではありません。イエスは荒れ狂う荒波を激しさで制するものではありませんでした。弟子たちへの語りかけを通して信仰と安心を与えます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」私たち信じる人々が耳を傾けるべきは、いかに激しい声ではなく、世の強い音でもなく、むしろ囁きのような、しかし 何よりも確かな神の声。み言葉です。 その有様は今日の旧約の日課にも共通します。旧約の代表的預言者、ユダヤ人にとって象徴的な選ばれし者。今日の場面はエリヤが自分を殺そうとする剣から逃れて、すでにたくさんの預言者がその時代の剣によって殺された後、山の洞穴に逃げ隠れていた時です。彼は絶望的で疲れています。神様に情熱をもって仕えていましたが、その情熱も消えそうな場面です。そこで神は語りかけます。エリヤに語りかける前に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕きます。しかし風の中に主はおられませんでした。風の後には地震が起こりました。しかし、地震の中にも主はおられませんでした。地震の後には火が起こり、人の中にも主はおられません。火の後に、静かにささやく声が聞こえ、エリヤは神の声を聞きます。ユダヤ人にとってこの場面は歌となって語り継がれているようです。風の後に、地震の後に、火の後に、神の言葉があった。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。・・・わたしはイスラエルに七千人を残す。バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」エリヤを再び立ち上げる言葉、それは風でもなく、地震でもなく、火でもない。ささやかれる神の言葉です。 今日の福音書でペトロはイエスに願います。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進みますが、すぐ沈みかけ、溺れそうになります。何がそうさせたのでしょうか。強い風と波がそうさせたように見えます。ペトロはそれを見て、怖くなり、舟を降りた勇気も信頼も一旦失われたのです。ここで改めてイエスに近づこうとしたペトロを沈ませた力は何でしょうか。もちろん強い風と波に見えますが、より厳密には、強い風と波によって起きたペトロの怖さ、恐れがペトロを沈ませたのです。彼は進む途中で、怖さによる疑いで沈んだのです。「来なさい」と言われるイエスを見るべきところ、荒れ狂う風と波によって心を奪われたのです。もちろんそれでも主は共にいてくださいます。離れては忘れ、忘れては恐れる人間だから主は共にいてくださいます。共にいるために来てくださいます。間違ってはいけません。ペトロを沈ませたのは、イエスでもなく、神でもなく、風と波自体でもなく、風によって生じたペトロの怖さと疑いなのです。信仰や希望はこうやって奪われていきます。忘れられます。むしろ信仰が芽生えようとするところ、希望が生じようとするその瞬間、逆風はすぐにそれらを襲い、それらを無きものかのように見せかけます。でも本当は無いものではなく、惑わされないなら、疑われないなら、確かに有るもので、信じる人を信じる方向に進ませるものです。 今の自分は、何を信じ、何を恐れ入るのでしょうか。何を見つめ、何を見失っているでしょうか。届きたいところ、繋がりたい方を見ているのか、それを打ち消そう、怖がらそう、騙そうとしているものを見ているのか。私たちの心と魂は分別したいところです。私たちを襲う風と波が神の計画なのではなく、むしろそれに隠されているようですが、聞こうとすれば私たちに聞こえてくる神の言葉が神の計画です。今日の使徒書の日課、ローマの信徒への手紙が言うように「あなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にあるみ言葉」。 それを守るために、失わないために、見出すために私たちに必要なのは、祈りだと思います。


すべての出会いは不思議

2020年8月2日(日)聖霊降臨後第9主日礼拝 説教要旨
イザヤ書55:1〜5, ローマ9:1〜5,マタイ福音書 14:13〜21
● この出来事
今日の福音書の記事はイエスの行いに関する記事の中でもっとも有名な出来事です。聖書の中にはかなりの奇跡物語が含まれていますが、数々の奇跡の中でもスケールの大きい出来事です。そしてこの出来事が持つ意味も重要なものでしょうか、四つの福音書が全部この出来事を記録しています。あえて補足すれば、それぞれの福音書記者は、それぞれの置かれた教会の環境、教会が対象にしていた人々の事情と状況、一人のイエスの中からも強調したい部分もそれぞれであるため、それに著者の個性も加わって、全部一致するイエスの記録ではありません。多くのものは重複して報告される中、たくさん存在していたイエスに対する証言、目撃、記録から、各福音書記者が選んだものを並べているのが四つの福音書です。そういう意味で、イエスが5000人以上の人々を食べさせたというこの出来事は、当初から多くの人々に知らされていたイエスの記録であり、しかもイエスを説明し伝えるにおいて重要な意味をもつから、四つの福音書記者がみんなこれを報告していることでしょう。 そしてこの出来事は、私たちの教会が大切にしている聖餐式とその意味にも繋がる出来事です。この出来事は、福音書の記録の順番からすれば、後の、弟子たちとの最後の晩餐の先取りであり、最後の晩餐は聖餐式の始まり、出所だからです。 これほど重要な箇所だということは納得できるはずとし、しかしこれを読む私たちには困難があるものかも知れません。多分、間違いなくあると思います。これを読み、聞く私たちに、一つの大きな挑戦が与えられます。五つのパンと二匹の魚から数多くの食べさせた…もちろんあり得ないこと(だから奇跡ですが)です。

● この報告が与える挑戦
私にはある程度、聖書を教えてきた経験があります。私の場合は、キリストを信じている人々を対象にしたよりは、信じていない人々を対象にして聖書を教えたり、聖書のメッセージを語ったりしたことが多いかも知れません。そこで正直、困難を覚える部分の一つが奇跡物語です。そしてそれぞれの奇跡にもそれぞれの性格があり、もちろん聞く人によるものですが、人間的にあり得るものに聞こえたり、絶対ありえないだろうという風に聞こえたりに分かれることもあると思います。今日の出来事は多分多くの人々にとって後者でしょう。 私は不信仰的な見方を語ろうとしているのではなく、これを聞く私たちの感覚を確かめるつもりです。いい加減に、信じる、信じないとことを分けるのではなく、一応私たちに与えられる大きな挑戦を真面目に受け止めてみたいという心構えです。私たちには、この世を生きるにおいて、それなりの現実的・人間的感覚を持っています。そして、そういう人であると同時に、神に対する信仰と希望をもつ存在でもあります。私は個人的に、いかにもあり得ないと思われることを無理やりに信じ込むことが信仰だとは思わない方かもしれません。もちろん今や見えないもの、まだ決まっていないものを信じることが信仰ではありますが、信仰とはギャンブルのような「懸け」なんでしょうか、ファンタスティックな憧れや妄想なんでしょうか。私は思います。あまり意味のない無謀な懸け、軽い憧れの想像が信仰なのではなく、大切 な意味が込められている「希望」!そして信じることによって、無意味や空しさではなく、良き力が、何か良いものが湧いてくるものが信仰だと思います。

● イエスを求めて付いてきた人々
今日の福音書を皆さんはどのように聞き、受け止めますか。伝説的に?神話的に?魔術的に?それとも文学的に?あるいは何か秘密が込められているように?たとえば、この出来事は実際あるのはあったけど、ある人が自分のもっていたパンと魚を差し出したから、それに心を打たれた他の人々もみんな出すようになって、一緒に食べたとか…(私は決してこの読み方を勧める訳ではありません)。 これを信じるか信じないかの選択はあるものの、誰一人、これを直接目撃して、体験した人は、今やいないと思います。そしてこれを信じるならば(信じたいならば)、信仰的に読み取るしかないと思います。福音書を書いた人はこれを通して何を伝えたいのか。ただただイエスという存在が不思議な存在で凄い存在であることを表現したいのか。ならばもっと信じ易く、聞いてあり得そうな言い方の方が良さそうだという考えもよぎりながら、一人二人でもなく、数十人でもなく、成人の男性だけで5000人以上が満ち足りたと報告しているのか…。 推測に聞こえるとは思いますが、まずイエスを求め、従ってきた人が当時これほど多かったことは確かだったと私は思います。そして彼らは何かをもっていて、人間的に何かの可能性を感じて、イエスを求めてきたというよりは、何もなくて、普通の人間的な感覚ではむしろ可能性が感じられない何かの回復、何かの癒し、何かの求めをもってイエスのところに来た!イエスがあそこにいると聞いて、人里離れたところまで付いてきた!「イエスによって何かが与えられるかどうか、分からない…。」「食べ物も持たずあそこまでついて行ったら後で大変なことになるかも知れない…。」のように色々考えて、計算して来たのではなく、ただ付いてきた。なぜならば、彼らに別の何かがあればそれによって満たされ、別の方法があればそれによって回復するなり、力づけられたりするところ、彼らには何もなかったから、だからこそ、あのイエスならば何かを与えられるかも知れないという希望、人間的には無謀に見える期待を抱いてイエスと出会った。私はそれが、当時の数え切れない多くの人々とイエスの出会いだったと読みます。今回のマタイによる福音書ではなく、マルコの記事によれば「飼い主のいない羊のような」有様でイエスを求めてきた。これが当時の多くの人々とイエスとの出会いであったと読み取ります。 彼らの求めは、すでに人間的な考えを越えていたのかも知れません。むしろ、だからこそイエスに付いて来ています。人間的に可能な術をもっている人はそちらにいることでしょう。そちら側に立ってイエスの噂なり、イエスの動きを見ていたことでしょう。しかしイエスがあそにいると聞いて、いつもなら人がいないところまで付いてきた大勢の彼らは、確かにその瞬間「イエスしかいない」人々であった。それがイエスと彼らの出会い。そしてイエスは彼らを返すことも、見放すことも、失望させることもなく、彼らに向き合い、彼らを深く憐れんだ。それが、この場面での出会いから生まれたものだと信じます。まさにイエスの説教の中にも語られていた「心の貧しい人々」、「悲しむ人々」、「義に飢え渇く人々」が彼らだったと、聖書を読んで推測します。

● 彼らは満たされた証
イエスを求め、イエスに出会い、イエスによって憐れまれた彼らは満ち足りたのです。人間的には予想できないほどの、不思議な恵みで満ち足りたのです。これは誤魔化しではなく、神の恵みの不思議さで す。ここで、どんな形のパンを食べたか…一人何個くらい食べたか…魚はどんな種類だったか…なんで福音書はそういうのは書かなかったのか…。何をどれくらい食べたか、それが大切ではなく、彼らがイエスによって満たされたのが大切だからでしょう。この世にはない恵み、糧がイエスによって与えられたから不思議な出来事、信仰の恵みでしょう。むしろ満たされた彼らにとっては、イエスによって与えられた何かではなく、イエスこそが彼らの命の糧、満ち溢れる恵みです。飢えも、貧しさも、様々な世の困難も、克服できるものがイエスを通して与えられ、満たされた証。それがこの記事が伝えようとした神の子イエスとの出会いです。満たされなかった人はいなかったからイエスは救い主としてあがめられたのです。むしろ一時の出来事ではなく、後の人々さえも満たされるくらいのものが与えられたからこそ、「有り余る」のです。この証は、ここだけの出来事ではなく、イエスは信じて求める者に対してどんなお方であることが明確に表れるからこそ、皆から語り継がれ、書き記される信仰的な証なのです。

● 与えられて生きる奇跡
私たちには色んな出会いが与えられます。どんな存在とも出会い、出会ってきたはずです。中には出会っても認識されない出会い、受け止められない、残らない出会い、ただすれ違う出会いもあって、そして大切出会い、何とか守りたい、強く求める出会い、すでに強く結ばれている出会いがあります。色んな種類の出会いと向き合いの中で、自分にとってかけがえのない出会いは誰との出会いでしょう。その出会いはどこから与えられ、何が与えられ、どうやって守られるものでしょう。 それは偶然でしょうか?自分の力それとも誰かの力でしょうか?世界や社会の働きでしょうか?この世界は、様々な出会いに対する理由と見方を私たちに提示します。それぞれの領域や言い分が、自分たち(これこそ)がその理由だと言っているようです。ある場面では科学、ある場面では人間・社会、ある場面では良く分からない運命、そして神を信じる者にとっては神…。 私は私のかけがえない人を神様が与えてくださったと信じます。自分の遺伝子がこうなって子どもが生まれたとか、自分の性格と好みがこうだからあの人と巡り合ったとか、自分がこういう場所にいてこんな仕事をしてこんな部類の人だったからそういう人々と仲間になったとか…それぞれの理由は人間的に分析できたり、納得できたりします。しかしそれが出会いの理由と結果、全てだとは思いません。 私の資質や能力、立場、収入がこれくらいのものだからこういう人生になるだろうと。仮に参考や予測は付きますが、それらに縛られません(縛られたくない)。偉そうなことを言っているのではなく、ただそれが全てだとは思わず、私は主イエスを信じる人です。躓き、忘れ、自分で間違う時も多々ありますが、主イエスを通して、それぞれの出会いを見つめます。 何によって自分の命と出会いを見、何によってその報いを受けるか。多分何によっても、どうなるものか分からない、実はそれが一番正確だと思います。私たちの命と出会いは不思議なものです。すべてがそうです。いかにも確実に見える何かが一瞬で崩れることもあります。小さなウィルスでここまで世界が変わるとは分からなかったものです。これからもどうなるか分かりません。そういう世界生きる私たちに神は語りかけ、呼びかけます。聞き届けられる人には聞こえ、実は古くから、信仰者を通して語りかけられていました。「渇きを覚えている者、銀を持たない者、わたしのところに来るがよい。来て飲み、食べよ。」「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。」「わたしに聞き従えば良いものを食べ、魂は豊かさを楽しむ。」「魂に命を得る。」今日の旧約の日課の言葉、預言者イザヤを通して与えられた神の言葉です。これらの預言、神の言葉はイエスを通して実現しまし た。どんな人でもイエスに求めれば、与えられ、満たされ、生きる。むしろこの世も、この世の人々も、誰も与えることのできない魂の救いと糧が、主イエスによって与えられる奇跡!どんな人も与えることができず、満たせないものだから奇跡!しかしイエスによって彼らは生き返ったように、命の恵みに満ち溢れた証、今日の福音であり、信仰の先人たちが残した遺産、私たちもこのようにイエスと出会い、生きた糧に預ることができる約束と希望です。 「あなたたちが彼らに食べる物を与えなさい。」「とって食べなさい。これはわたしの体。」「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」すべては主イエスから出た命の糧です。


天国までもっていくもの

2020年7月26日(日)聖霊降臨後第8主日礼拝 説教要旨
列王記上 3:5〜12, ローマ8:26〜39, マタイ福音書 13:31〜33,44〜52
● 空しいものと大切なもの
「お金はあの世には持って行けない」。よく聞く言葉です。確かにその通り。分かりやすくて、よく聞く言葉だから、あえてこれを特別に良い言葉とする印象もないですが、考えてみれば、限りのある人の命と、人の姿に対して洞察力をもつ言葉です。色んな場面に当てはまりそうな言葉ですが、主にお金に執着する人の姿を諭すための言葉でしょうか。 でも、だからと言って人がお金に執着しなくなるのかというとそうではないと思います。死ぬまで自分のお金を抱え込み、死ぬまでお金のことに悩み、自分があの世には持って行けないことを知るからこそ自分の身内になんとか残してあげようとします。人々は(私たちは)知っていながらこうなります。ある意味悲しい現実です。 私がまだ幼い頃聞いた説教の中で、ある牧師先生は本当に大切なこととは何だろうと説明するときにこんなたとえを言っていました。私なりに面白くて覚えています。人が死ぬときに何を本当に大切にするだろうか、車か?お金か?じゃ死ぬ間際、自分の車でも最後に触ってみようとする人がいるか?自分の通帳をもう一度見てみようとする人がいるか?いないだろう…。おそらく多くの人は、自分にとって大切な家族や人を求めるだろう。そして信仰をもつ人なら自分の信仰を大切なものとするだろうとの話。私には納得できました。 私たちがこの世を生きる間に求めるもの、欲しがるものの中には、私たちの命の終わり、この世界との別れのときには、無意味になるものがあり、空しいものがあります。逆に、終わりを迎えても、なお自分にとって大切なもの、価値あるものはあるようです。じゃ、人々(私たちは)、空しい者ではなく本当に大切なものを選んで生きるか?簡単にその通りにはならないことは、この世界の悪しき影響?騙しの力でしょうか、それとも人の弱さや愚かさのためでしょうか。 私は自分が人生に対して、人々に対して未熟で弱い者であることを知っています。そういう者であるからこそ想像してみます。私のこの世での人生が終わる時に私には何が残るだろう。何を悔やみ、何を最後まで愛するだろう。おそらく最後まで大切にすることが私にとって本物だろう。ならば今も本物を選んで生きればいいことです。生きる間に空しく、後悔させることのために生きて最後にやっと気付くのではなく、なるべく早く、後悔させないもの、最後まで残るものを選んで生きる方が良い。その選択は大事だと感じます。言うように簡単でもないかも知れませんが、その選択で私たちが生きる大きな設定と方向性が決まると思います。

● ソロモンの選択
選択は大事なもの、人生・命は選択の連続。今日の旧約の日課に登場する人物は、生きるにおいて模範的な選択をした人物のようです。ソロモン、知恵の王、イスラエルの歴史の中でもっとも栄えた時代の王です。今日の旧約聖書の場面は、彼が父ダビデに次いで王に即位する場面です。王になることはすでに決まっていたところで、彼は王としての自分の人生で何を選択したのか、どんな方向を選んだのか。神様は彼に選ばせました。「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」。ソロモンは答えました。「あなたの民を 正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。」 ソロモンがなぜ「知恵の王」と呼ばれるのかが分かる場面でもあります。彼は知恵を選び、知恵を与えられました。そしてこの選択は神様に喜ばれました。私たちも神様を信じる自分なら、私たちの人生の中で神様に喜ばれる、多くの人々に喜ばれる選択ができればいいでしょう。ここでのソロモンの選択は正しかった。神様はソロモンに答えました。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命を求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶものはいない。わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べる王は一人もいない。もしあなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう。」 これほど素晴らしい選択はないくらい、ソロモンは良い選択をし、求めたものを与えられました。そして富と栄光、長寿を直接選ばなくても、それらも付いてくる選択をしました。神の子、主イエスが教えておられた生き方の先通りのような選択です。「何を食べようか、何を飲もうかと思い悩むな。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ7:31〜) しかし、ここで素晴らしいものを選び、王としての自分の人生のために良い方向を決めたソロモンも、最後までずっと良い道を守ることはできなかったようです。彼に与えられた繁栄が罠だったのか、その繁栄のゆえに彼を囲んでいたたくさんの王妃、側室がダメだったのか、ソロモンは後に神様から遠ざかる人生を歩んでしまい、繁栄していた王国を分裂させてしまうきっかけをつくってしまいます。「ソロモンの背信」と呼ばれる晩年のストーリーです。ソロモンは一時の成功と繁栄に繋がる良い選択はできましたが、最後まで正しい選択、つまり神様に従い続ける選択はできなかったようです。そのソロモンであったためか、表上、彼が著者となっている『コヘレトの言葉』の中でソロモンは、富を求めることも、知恵を求めることも空しい、風邪を追うようなものだと繰り返し書き記します。 ソロモンはかなり良い選択をし、その選択のゆえにしばらく良い道を歩んだ。しかしそれが最後まで、究極に、完璧な選択にはなかった。なぜならそれを与えられた神様に従い続けない道を選び、富も栄光も長寿も空しくなる選択をしたからです。富や栄光、長寿、敵の命そのものに拘るほど浅はかではなく、それらを生み出す知恵を求めた賢いソロモンでしたが、さらにその知恵の与え主なる神様を最後まで選び続ける信仰にはならなかったのです。良い選択と悪い選択、繁栄の原因と虚しさの原因、私たちに両方を示してくれるソロモンの人生です。

● イエスを選択すること
今日の福音書における主イエスの教えは全部で五つのたとえです。もちろんすべてが神の国、天国を伝えるためのたとえです。この五つのたとえを通して、主イエスは私たちにどんな選択を求め、どんな生き方を望んでおられることでしょうか。もちろん神の国を選んで、それを目指し続ける生き方を望んでおられます。 私たちがこの世を生きる間に神の国を選び、目指すというとは、まるで小さすぎて見えないくらいの「からし種」と「パン種」に似ているとのことです。しかし目に見える大きさが一瞬小さいだけであって、その中には驚くべきエネルギー、爆発的な生命力が隠されています。どんな種よりも小さい種がやがて 成長するとどんな野菜よりも大きな木になり、空の鳥が巣を作ってそこに生きるほど!少量の粉が他の大量の粉に入るだけ、混ざるだけで全体が膨らみ、食べられるパンに変わるほど!今、この世を見つめる目線ではごく小さく見える天国の種、天国への繋がりはやがて驚くべき大きなものに変わっていくことが教えられています。しかも命が安らぎ、命が生かされ、力づけられる方向に拡大する変化です。私たちの生きる姿にからし種ほど、パン種ほどの信仰が入れば、私たちの人生、私たちの生きる姿も成長し、力づけられることを願いたいです。確か、別の箇所でイエスはこのようにも教えておられます。「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」天の国を目指すという選択は、最後の瞬間にだけ現れるのではなく、この世を生きる中でも何かを可能にする力を与え、成長し続け、私たちを変えていきます。 また天の国は、畑の下に隠されている宝のようで、どんな宝石よりも高価な真珠のようだと教えてくださいます。それを得るためならば持っている物全部を売り払っても良いくらい、むしろ今持っている物なんか比較にならないくらい、惜しくないくらい、価値あるものが天国です。むしろ今持っている物はそのために手放し、空しいところから価値あるところに置き換えるべきです。このたとえがもし本当の財産、お金の話で、間違いなく利益になる投資なら、人々は謝金をしてでも買おうとするでしょう。あらゆる手段を尽くして宝の土地を、高価な真珠を買い取ろうとするでしょう。本物の価値に気づくか気づかないかです。天の国を求めることは、私たちのちっぽけすぎるものから、比較にならないくらい価値あるものを得るチャンスです。 さらに天の国は、網の中のあらゆる魚が良いものと悪いものに分かれるように、用いられるもの・捨てられるもの、生かされるもの・死ぬものに裁かれること。そのときが来ること。最後の時に備えることです。その最後の時に、終わるのではなく改めて始まる選択、捨てられるのではなく生かされる選択が天国を求めることです。 このような天の国の秘密を知る人、悟る人は、自分の倉から新しいものと古いものとを正しく選んで取り出す人。大切に守るべきものと手放すものを賢く分ける人。私たちの中から、人生の中からそう選び分けるべきです。 「空しいものではなく、主イエスを選びなさい」。「私たちを救い、生かす主イエスを信じなさい」。今日の聖書は私たちにこう囁きます。いつもこう呼びかけています。信じることは空しくは終わらない。それどころか、この世も、自分の力も、他の誰も与えられないもの、新しい命が示されます。この世で私たちより先に主イエスを選び、求め、主イエスのためならばこの世の命を惜しまず捨てるほど最後まで信じ続けた信仰の先人が、今日の手紙で証ししています。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。患難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。・・・わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。世のどんな物も、わたしたちの主キリスト・イエスの愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」 どんな困難と害にも壊されず、消えない愛。私たちを引き離さない絆。その主イエスの愛を選んで、求め続けてください。それは天国に至るまで、最後までいつも残るとの約束です。 祈り:「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」


忍耐して待ち望むのです

2020年7月19日(日)聖霊降臨後第7主日礼拝 説教要旨
イザヤ44:6〜8, ローマ8:12〜25, マタイ13:24〜30,36〜43
● 草を抜いた体験
今日、私たちに与えられたイエスのたとえは、麦と毒麦。麦の間に生えている毒麦を性急に抜いてしまうと麦まで一緒に抜くかもしれない。このたとえに、ぴったり当てはまるまではないけど、似た体験をしたことがあります。数週間前のことです。 室園教会に住み始めて、それまでの生活空間にはなかった庭が目の前にあり、以前も話しましたが植物を楽しめる生活になりました。もちろん手入れも必要です。私にとって休みとなっている月曜日に、仕事に出かける妻を見送って草取りをしました。頑張ってしました。言うならその後の数日間、筋肉痛になるくらい、何時間も頑張りました。一人で頑張ったときは、自分は仕事をして汗を流したのだという満足感と達成感に満ちていました。しかし妻が帰ってきて、庭を見回ったとき唖然となりました。とても気まずい空気が感知されました。 私は妻が帰って来る数時間前の自分の行いを思い起こさなければなりませんでした。草取りをしながら、これは雑草だろうか育てている花だろうか…あいまいなものがいくつかありました。見た目上、花もつぼみもないし、抜いてしまえ。僕は庭をきれいにするのだという脳の命令に従いました。隣の敷地との隔てを巻き上げているように伸びてきているこれ何?花はこんな伸び方しない。雑草だと思い、結構抜きました。そうやって抜かれたものの中には、妻がわざわざ植えたり、種を蒔いたりした、マリーゴールド、朝顔が入っていました。しかも早く育ってねと毎日声をかけるくらい愛情を注いでいたこと、抜いた後に聞きました。その夜の家庭の雰囲気、想像に任せます。 朝顔とか…小学校の時に学んだ気がするけど、何十年も庭の花とは縁がない生活をしてきて、壁を巻きながら伸びるのが朝顔だったとか想像もしませんでした。僕は壁のために抜きました。教会の入り口の坂の上の庭からは伸びすぎて壁にぶら下がっているように見える花がありましたが、それも伸びすぎだろうと思い、壁のために切りました。後日、あれも教会の方が植えたもので、上からぶら下って伸びるのを楽しむ植物であることが分かりました。 今は幸いにも、私の手から抜かれなかった朝顔なのか、それとも妻の悲しみを一晩体験した私が、翌日抜かれ落ちていた茎をまた土に植えて生還したのかは分かりませんが、ある程度伸びてきて、中には花を咲き始めている朝顔があります。私たちの教会の朝顔は、一瞬、ちょっとだけ切ない事情がある朝顔なのです。

● 抜かない方が良い時がある
今日のイエスのたとえは、毒麦を抜くべきなのか、置いておくべきなのかの話しです。私はただの無知で、育てていた花を抜いたところでしたが、実は抜きながら少し思ったことがあります。育てている花の近くには、なぜか比較的にそれに似ている草が伸びてきていること。たまたまなのか、そう見えるだけなのか、それともそれが植物の生態なのか…。そして簡単に気持ちよく抜かれるものもあれば、根がどこまで続いているのか、なかなか抜かれず、抜こうとしても切られてしまい根は残るものがある。もしそれを本気で全部抜き取ろうとするなら土を耕す勢いでする必要があり、そうなると近くにある他のものも抜 かれるだろうということです。 私は当時のパレスチナ地域の麦と毒麦がどんな植物なのか知る術もありませんが、聖書の参考書的な本によれば、根っこの部分から絡んでいる麦と毒麦なら、毒麦だけを引き抜くのはかなり難しいゆえに、間に毒麦があっても抜かずに収穫の時まで待っていたのは、当時の農民たちの実際の知恵の一つだそうです。そうなんですね。抜かないで待つということ、時と場合によってはそれが「知恵」であり、大切なものを守る選択でもあります。私たちは知恵と言えば何かの措置をとる、何かをするという風に思いがちかも知れません。でも場合によってはそのまま置いておく、しばらく待つ方が賢明な判断という場合もあり、そこでは「どうしよう」という心の騒ぎを治め、我慢して待つという忍耐も必要な場合があります。 今日のイエスのたとえとその説明を読めば、これが明らかに終末に対する話であることが分かります。いずれ週末の裁き、善と悪の選別があるがゆえに、しかもそれは神様の裁きであるゆえに、私たちは悪と見なされるものを性急に、無理に取り除かなくても良いというメッセージです。性急に、無理に取り除いてしまうと、そうすることによって一緒に抜かれたり、傷ついたりする良いものがあるというメッセージです。さらに、そもそも善か悪かを判断するのは神様なので、その裁きは神様に委ねるべきというメッセージも含まれているのではないでしょうか。私たちは善と悪、良いものと悪いものが複雑に絡んでいる世界と生活の中で生きています。そしていくら自分の基準で考えても、実は自分の中に善いものばかりある訳でもないこと、認めざるを得ないことと思います。自分が裁きの基準になって誰か、何かを取り除くような裁きを行うとき、私たちは実は悪くない誰かまで傷つけてしまう場合もあれば、大切なものを失う、もしくは自分自身も裁かなければならない矛盾をも十分起こり得る私たち、注意すべき私たちの姿です。

● 神の言葉に生きるか、悪魔の仕業に生きるか
せっかく与えられた主イエスのたとえ、もう少し掘り下げ、深めてみたいと思います。他のたとえもそうであるように、主イエスのたとえは当時それを聞く人々が十分理解できるくらい、身近にある姿、みんなが知っている事柄を提示しています。今回も、毒麦を神経質に引き抜かない方が良いというのも、当時の人々が知っていた知恵であるから、イエスは提示していると思われます。そのように、神様に対して、天の国に対して信仰をもつことが、このたとえによる教えの狙いです。そうなるためには、イエスのたとえをちょっと分かりやすくなった話として表面的に聞くだけでなく、私たちのあらゆる姿に置き換える必要があるかも知れません。実はそう吟味してこそ、主イエスのたとえと教えの真価、宝のような深い導きが現れます。 今日のたとえの設定は、敵である誰かが麦畑の間にこっそりと毒麦を蒔いて行ったことです。厄介です。単純に考えて、毒麦を見つけて早く取り除きたいところです。しかしよくよく考えると、すでに蒔かれて芽を出している毒麦、根っこから絡んでいる毒麦です。それを神経質に、性急に取り除くと、一部の良い麦まで一緒に抜かれる、もしくはだいぶ抜かれてしまって、収穫に対して損を負わなければなりません。実はそうやって損することこそが、敵を喜ばすことになります。敵の本当の狙いは何か、自分の毒麦を他の人の畑で育てることか?侵入させることか?もちろんそれが一時的な(表面的な)狙いではあるとは言え、本当の狙いはもっと深い部分にあります。毒麦は道具であって、狙いは麦畑を荒らすこと、駄目にすること、さらにその畑の持ち主に損を負わせることです。 今日のたとえの解説の部分で、「畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子ら、毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わり」と書いてあります。悪魔がこの世界に、私たちの生活、私たちの間に悪(もしくは悪人)を蒔いた本当の狙いは、私たちなのであります。本来の私たちを損なわせること、傷つけること、混乱させ、さらに傷を大きくすることです。神の子らとして生きて、実るはずの人を傷つけ、抜かせることです。信仰を壊し、絆を傷つけることです。そこで悪を取り除く名目で戸惑い、焦って、大切な誰かを傷つけ、大切な何かを失うことになると、誰が喜び、誰が悲しむのか…。悪の種を与えた悪魔が喜び、本当は悪人ではないのに、悪と絡まれている誰かが悲しむのです。それは畑という世界にとっても損、畑の主人、神様にとっても悲しいことでしょう。「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つまでしておきなさい。」神様のみ心をたとえている言葉です。 主イエスは、当時の人々がすでに知っている麦の栽培の術を教えているのではなく、終末に向けて生きる私たちの生き方、在り方を教えておられます。世の終わりとは私たちにとってただ遠い、途方に暮れるようななことではありません。誰もがいつか、一度、確かに訪れる終わりに向けて生きています。神様はその終わりのときに全てを裁き、天の御国に受け入れる者、贖われ赦される者、生きる者、そしてそうでない者がいることを示してくださいます。しかしそこに辿り着くまでの間に躓いてしまったら悲しいことです。しかも誰かが誰かを傷つき、神様の代わりに誰かを裁き、除いてしまうこと、実に悲しいことです。そうなってしまうことは、実は神の望むどおりに生きるのではなく、敵である悪魔の望み通りに生きることです。はっきり言って、「善」という基準を掲げて誰かを排除するあらゆる行為と選択がそうかも知れません。植物の根っこ以上に複雑に絡んでいるこの世界と私たち(人々)が、ある理由で誰かを傷つけ、誰かを排除するとき、それは表面的に掲げる基準が善であったとしても、やっている行為は敵の望み通り、悪魔の動かす通り、もしくはただ自分が全て(自分が神)として生きることの現れかもしれません。生かすためではなく、壊すための行いかも知れません。 「刈り入れまで、育つままにしておきなさい。」この一言には主イエスのみ心と、私たち自身と大切な誰かが傷つけられずに生きる知恵が込められています。現に悪い何かが存在していても、それは神様の裁き事態を防ぐものではない、それに邪魔されず、やがて終わりのときの神の裁きは来るという約束。だから裁きは神に委ね、忍耐して待てる信仰。そして一束の麦のような小さな者でも失わせたくない神様の愛を知ることです。実を結ぶまで育てたい誰かを、神様が抜き取りたくない、傷つけさせたくない誰かを、神様の愛に従って守ることです。それが神様のみ心通りに生きる選択だと今日のたとえが告げています。それに聞き従う人ならば、私たちの人生において、生活において、何かの悪に直面する瞬間において、「最後まで育つままにしておきなさい」という主イエスの声を聞くでしょう。これ、私たちが生きるにおいて、重要な選択になる場面が必ずあると思います。生かすか壊すか、抱えるか捨てるか、一つになるか分裂するかの瞬間に、ふさわしい選択ができる知恵を、一人ひとりを愛する主イエスの声から聴く私たちでありたいと願います。

神が蒔かれた種は生きる

2020年7月12日(日)聖霊降臨後第6主日・召天者記念礼拝(室園) 説教要旨
イザヤ書55:10〜13、ローマ8:1〜11、マタイ福音書13:1〜9,18〜23
● あなたに平安があるように
「私たちの父なる神と、主イエスキリストから、恵みと平安とがあなたがたの上に豊かにありますように。」今日は、いつも礼拝のメッセージの前に唱える祝福の挨拶から考えてみたいと思います。「恵みと平安とが…あるように」。良い言葉です。そして本当にこの言葉通りになることを祈ります。ただこの言葉通りにならない現実も、私たちの生活や姿、この世界の様子から「いかにも容易に」見つけられることでしょう。この挨拶が意味のない挨拶だと思う訳ではありません。不信仰な思いで、疑いの思いで、この通りにならないと思う訳でもありません。「改めて」考えてみます。 豪雨によって被害が続出しています。しばらく前からウィルスによって世界は大きく変わり、今もその影響の真っただ中です。はっきり言って今の世界が平和だ、平安だと言える人はほとんどいないと思います。さらに、こういう世界の中で生きる一人一人、そこには世界や国、地域の状況ではまとめられない別の事情がたくさんあります。無事に生きているだけで平安だと思う人はほとんどいないと思います。むしろ無事に生きていると思うその場所に、実は色々与えられて生かされているその場面に、様々な葛藤や試練があり、時には身近で大切な人とも色々変化があり、おそらく平安と言える時間より、そうでない時間が長い私たちかも知れません。 「あなたに平安があるように」。それは、平安とは言えない状況が、童話のように、俗な言い方で魔法のように気持ちいい状態に変わるようにという意味ではないと思います。もちろんそうなればいいことかも知れませんが、なかなかそうはならない状況の中で空しい挨拶、空しい願いを言い続けることではないと思います。むしろどんな状況の中でも「あなたの心が平安を求める」あなたであって欲しいとの願いです。私たちを取り巻く外や環境の状態が変わるというより、それらに直面するあなたの態度と姿勢が、神様が守り導いてくださる平安に向き合うことを願う祈りです。不安や恐れ、困難な状況の中で、全てを神様に委ねられる心(勇気)をあなたが持つようにとの祈りです。 少し難しく聞こえるかも知れませんが、私なりに学ばれたものを噛み砕いて伝えています。私たちが願う本当の平安とは、自分の外の状況や状態じゃない。自分の心の態度、心の方向です。神様の導きに向けられている心なら、その心に神様が与える平安は入ります。

● 自分の心という土壌
旧約聖書が書かれたヘブライ語で、「人」は「アダム」(固有名詞でもありながら「人」の意味でもあります)。「土」(アダマ)から造られたからだと創世記1章が伝えます。この視点からすれば、人とは神の前で「土」、「土壌」です。神様の土地です。そこに何が蒔かれたか、後で出てくる芽、成長、実りによって分かります。良い種は良い木に、悪い種は悪い木に。恵みの種は恵みを、邪悪な種は邪悪な実を結びます。私たちの心と魂は、何を蒔かれ、何を受け入れる土壌なのかによって、神様の畑になるのか、自分の欲望や罪の土壌になるのか、それとも石や茨などの邪魔物(周りの影響)によって何にもならない土壌となるかに分かれます。 今日の福音書のイエスのたとえは、私たちに、神様が蒔かれる恵みの種を受け入れる土地、畑となるよ うに励ましています。これは励ましのメッセージです。神様が投げてくる種を自分の良き土壌をもって受け止めれば、最初は小さい種でも何十倍ものの実りが約束されているという祝福の約束です。実らないことへの裁きのメッセージではありません。自分が実らない土地にならないように、警戒し、見直し、悔い改めるための勧告のメッセージです。 実は自分の心という土壌がどんな状況なのかなかなか気づかない私たちでもあります。自分で自分の状態は良い土地だと錯覚し、自分には良いものが与えられないのだと勘違いしがちです。周りの状況のせいだと、世界の不平等のせいだと、困難な状況のせいだと思いがちです。まさにそういう心が、イエスがたとえている、道端と変わらない土壌、色んなものに踏まれ続け、固くなった心のゆえに種が入り込まず、ただ置かれ、鳥に食べられるように、何かに恵みを奪われる心。石だらけの土壌、深く根付けず、一時は芽生えているようで、何かがあればすぐ枯らせ、変わってしまう心。茨だらけの土壌、自分の中にある思い煩いや誘惑によって、育て上げるべきものは覆いふさいで、むしろ取り除くべきもので自分の中をいっぱいにする心です。 私たちの心の状態を、こんなに分かりやすく振り返られるこのたとえは、私たちへの救いです。分かりやすい話だ、良い話だ、聞いたことのある話だと思って、聞き流すべき話ではありません。いつの間にか硬くなったかもしれない心を掘り起こし、固い部分を砕いて耕し、石や茨のような邪魔物が入っているなら自分の心から取り除くために語られている話です。 自分はすでに良い土地だと思って何もしない、自分を変えないことが確かに楽です。今すぐにはそっちが平安かもしれません。しかしそれはすぐ枯れてしまう偽りの平安です。そしてそれは自分に対する怠けでもなります。自分の心という土壌を砕くことも、耕すことも、何が入っているか見もしない怠けです。「怠ける者は欲望があっても何も得られない」と箴言にも書いてあります。これは、私たちの社会的な、実生活的な忠告だとは思いますが、私たちの心にも当てはまる戒めかも知れません。 何も芽生えて来ないなら、何かの原因がその土壌にあるように、私たちの心に何か良いものが芽生えそうもないなら、おそらくその原因は自分の心にあります。私は不特定の人の心を指摘してこう言っているのではなくて、聖書の言葉を信じている立場から、自分を含めこの言葉を聞く人々に言い聞かせています。自分が良い種を芽生えさせる畑になることは、種を投げられる方に対して、心を開き、心を委ねられる勇気。さらに自分の心を入れ替え、悪いものは素直に認めて取り除ける勇気あっての、心という畑の耕しです。

● 心に入れば命
最後に、イエスのたとえの中の農夫、種を蒔く人は、なぜそんなに無駄になる種をも巻き散らすかについて考えたいと思います。このたとえは当時の人々が身近に見ていて、聞いて分かるような事情に基づいています。ということは、当時のユダヤ人はこのような仕方で種を蒔く農作をしていたことです。一個一個の種を良い土地に大切に蒔くのではなく、巻き散らしていたということです。理由は、彼らが生きていた土地が農作には厳しい土地だったからです。ほとんどの土地が良い土壌でなく、最初から畑ではないから、まず種をばらまいて、その後に種が土に埋もれるように耕し、成長するのを待つ。たとえ話の中にも、良い土地に落ちる確率は1/4ですが、当時の実際の種蒔きからすると実を結ぶまで成長できるのは蒔かれた種の1/10にも満たないとのことだそうです。でも、それこそ、厳しい土地と環境の中で実を結ぶための努力なのです。良い土が少ないからこそ、たくさん種を蒔くこと、種を無駄にすることではん ばく、実を結ぶための方法です。 まさしく主イエスの言葉と神様からの賜物もそのようであります。良い土が少ない土地のような私たちの心、神様の言葉とみ心を受け入れにくい私たちの心だからこそ、主イエスはたくさんみ言葉の種を蒔かれるのであります。ある言葉は私たちの心の硬い部分に当たってはじけ飛びます。ある言葉は聞き流されます。ある言葉は入ったようで、根付いたようで、枯れて消えます。でもちゃんと心に入った言葉は芽生えます。何十倍の実りをもたらすように、ちゃんと入った言葉はその人を動かし、生かします。そのために主イエスは世の人に言葉を与え続けます。それは、聖書を通して、今でも行われている種蒔き、神の働きです。この世の人々(私たち)の心という土壌が厳しくて入らない種も多いけど、一粒入って欲ししという心情で投げ続けられるみ言葉かもしれません。もし一粒でも入ったら、そこから芽生える信仰と変化は大きい!種も、み言葉も神様からの命だからです。小さくても、目に見えないものでも、豊かな命を含んでいるものからです。 本日、私たちの教会の召天者記念礼拝につき、私は私たちの家族や大切な人々も神様から与えられた命の賜物であることを、再確認したいと願います。今日の旧約聖書の言葉は、このように私たちに語りかけます。「雨も雪も、ひとたび天から降ればむなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。」 神様から出てきたものはむなしく戻らない(ならない)。とりわけ神の言葉がそうであり、今日の福音書もまさにそのことを私たちに教えています。それに、もう一つの命の賜物、私たちの家族、大切な人々もそうです。神様によって与えられ、先に神様のもとに戻られた一人ひとりも、私たちにとって空しく離れた方ではないことを、私たちは知っています。ある時は悲しく、ある時は寂しく思い、もしかしてこれからもそうかも知れません。しかしこの方々を通して、与えられた出会いを通して私たちは愛を知り、出会いを知り、絆を信じました。共に生きることを知りました。今でもそうです。種蒔く人に種が与えられ、食べる人に糧が与えられることよりも尊く、それらとは比べられないものを感じさせ、与えてくれました。その一人ひとりとの出会いも私たちに対する一つの賜物、一つの命、一つの種です。 私たちは、与えられた命の出会いと共に、主イエスの命の約束を預っています。今日の第二の日課、ローマの信徒への手紙が証しします。「キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、霊は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、・・・あなたがたをも生かしてくださるでしょう」。この言葉の種が私たちの中に入っていれば、私たちは生きます。そしてその命の恵みと喜びに再び預かるでしょう。大切な人々の出会いは、真に命の恵み、喜びです。それを受け止められる皆さんの心であることを、心から祈ります。どんなときでもそれを失われない私たちの心でありますように。そこに私たちの本当の平安があります。


神の恵みに適うのは誰か

2020年7月5日(日)聖霊降臨後第5主日礼拝 説教要旨
ゼカリア9:9〜12 ,ローマ7:15〜25a,マタイ11:16〜19、25〜30
● 人は器
私たちは人を器に例える言葉をよく聞きます。「器の大きい人、小さい人」、「器が違う」…。人が器に例えられる理由は(理由を考えなくても比喩事態で良く伝わりますが)、人は器のように自分の中に色んなものを入れる存在だからだと思います。人はその人の中に何が入っているかによってその姿が決まる。私は自分の説教の中でこのことを結構語ってきたつもりです。 それならば、私たちは良いものを受け入れる器でありたいと願います。聖書も良く人を器に例えています。一つだけ取り上げましょう。信じる人は、イエス・キリストの輝きという宝を土の器に納めている者だとコリントの信徒への手紙二4章に書かれています。この世界と人々は、その器がどんな器なのか目に見えるものだけで判断し、評価したがります。しかし器という物が装飾品ではなく、使われるための物ならば、その中に何を入れるか、何が入って、何のために用いられるかでその価値が、真価が表れます。人という存在がそうです。外見、その人を取り巻く背景、その人の資質…これらのものがその人という器なのかもしれません。でもどんなに優れた器でも何も入らない器なら用いられない器であって、普通の、安価な器でも、大切なものが入っているなら、用いられる器、価値ある器なのです。 私たちはこのように、抽象的なもの、しかし真実で深いものなどを何かに例えて分かりやすく表現したりします。そのような例え、比喩はこの世界にもよくあることですが、すでに聖書の中にも見られるもので、主イエスの多くの説教は、例えによって伝えられています。これからしばらく、教会の暦によって礼拝する私たちはイエスの例えを聞く季節を始めます。だから私たちは、比喩される形で与えられる真実と真理を、分かりやすさや楽しみをもって、理解できる喜び、自分への恵み深さとして汲み上げて、自分の中に受け入れる器であって欲しいと願います。

● 受け入れない人々
「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。」 イエスは、広場で笛を吹いたり、歌ったりしながら遊ぶ子どもたちの姿を通して、当時の時代を語っています。正確にはその時代の人々の姿を語っています。こういうことです。笛を吹いて一緒に踊ることを呼びかけられても、葬式の歌を歌って一緒に悲しむことを呼びかけても、それらに応じない。笛を吹き、歌を歌う子どもは、神の言葉を伝える預言者を例えています。時には喜びと希望のメッセージ、時には悲しみと慰めのメッセージ、しかしそのどちらにも応じないで、喜びも悲しみも一緒にしない人々の時代だとイエスは言われています。 これは深刻な現実に対する嘆きです。実は今の時代がそうかも知れません。早くから社会学者たちの間では21世紀の社会をこう予測していたらしいです。「三無の時代」。無関心、無感覚、無感情。今はコロナウィルスの影響で「三蜜」が定番の言葉になりましたが、人に関心と感覚と感情がないこと、恐ろしい現実です。私たちの社会と人間性を壊すもの、時に残酷な事件のものです。 こういう状態、社会的にも非常に良くない、危ない状態ですが、イエスは信仰的にもそうであることを指摘しています。人々は預言者を受け入れない。洗礼者預言者が悔い改めを教えるために、禁欲的に、食 べも飲みもしないでいると、食べ物見もしないから「あれは悪霊に取りつかれている」と言って、受け入れない。イエスは罪人と共にいるために(彼らを教え、悔い改めさせるために)、彼らと一緒に飲み食いすると、「あれは大食漢だ、大酒の飲みだ」、「罪人の仲間だ」と批判して受け入れない。つまりどちらも受け入れず、神の言葉を伝える人を受け入れないということは、神の言葉を受け入れないことです。 それを器に例えるならば、ふたが閉まっているのか、ひっくり返されているのか。どこかが壊れているのか、別のものに満たされていて新しいものが入る余地がないのか。理由は色々ですが、結局与えられるものを入れられない器の状態です。そして受け入れない理由というのは、だいたい自分勝手なものです。食べも飲みもしないのは食べも飲みをしないから気に入らない。食べたり飲んだりすれば食べたり飲んだりするから清くない。本質は埋もれ(隠れて)しまい、自分たちの基準で受け入れない。食べたり飲んだりすることに限らず、神の言葉に対する姿勢に限らず、私たちはこういう人の姿をよく見ているなずです。そういう人の姿を目の当たりにして、傷ついたり、悩んだり、苦しめられたりする場合もあります。 世界の様子は良く例えに含まれています。受け入れられず苦しむ人、困る人、悲しむ人、もしここにいるならば、今日のイエスの言葉のごとく、イエスのもとで安らぐことを祈ります。

● 神の恵みに適うのは誰か
こういう時代、こういう世界、現実だからイエスはこのように言われます。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢いものには隠して、幼子のような者にお示しになりました。…これは御心に適うことでした。」神の言葉、神の恵みは、この世で知恵ある者や賢い者(正確には自分でそう思っている者)には隠されてしまった!なぜなら彼らが自分の知識や基準によって受け入れないからです。食べない人は食べないから、食べる人は食べるからと言ってその人、その人を通して伝えられるものを受け入れないからです。だから、幼児のような、そのまま受け入れられる人こそが神の恵みを受け入れる人であるとのことです。それが神様のみ心に適うこと、神はそういう人にご自身を示されるということです。 今日の説教題を「神の恵みに適うのは誰か」と付けてあります。この問いの答えは、今日のイエスの言葉から答えるなら、「幼子のような者」、「そのように神を受け入れる人」であると答えられます。まるで試験のようです。ただ、この言葉のようになかなかなれずにいることが、きっと私たちの多くの現実ではないでしょうか。理由は色々でしょう。器に中身が入らないにも色々な場合があると言いました。私たちの中に、信仰が入らない、平安が入らない、喜び、希望、赦し、慰めが入らない理由も色々です。自分で心を閉じているかも知れません。何かの影響で締めてしまい、固く締めすぎたのか、開けたい、開きたいと思っても、なかなかそうなれない場合があります。世界や周りの影響なのか、もしくはどこかで受けた傷でどこかが破れているのか…。そしておそらく一番多い理由として、自分の中に色んなものがはいっているため、それが自分の思いなのか、世の思いなのか、恐れなのか疑いなのか、もしくは何かへの憎しみなのか…与えられるものが入る空間がない。物に例えてばかばかしいですが、私たちの心ってそのようだと思います。実は物質じゃないからこそ、なかなか開きません。 隣で言い続ける人の言葉でさえ、本当の意味で入らない私たちもいるくらいです。

● 「わたしのもとに来なさい」
どうすればいいでしょうか。そういうときにこそ、主イエスに尋ねるのが信仰の働きです。今日のみ言 葉を、私たちが信仰によって見る目をもてば、聞く耳をもてば、次の主イエスの言葉を受け入れられるはずです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」。 「わたしのもとに来なさい」と、音声や文字が表すこの言葉は自分に触れられてどうなるものでしょう。本当なのか?としばらくの葛藤の内に消えるものでしょうか。良く聞いてきた言葉だと認識されて、それ以上何もないままどこかに流れていくものでしょうか。そういうものなら、確かに、自分の中に入っていない言葉だと思います。生きている言葉ならば、そして自分の中に入った言葉ならば、「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」との言葉で、自分の心が動くはずです。思い込みではありません。どうすることがイエスのもとに近づくことなのか、なぜ安らぎは与えられるものなのか。理屈じゃありません。イエスに行こう、聞こうという求めがあって、それに応えられる主イエスがいるからです。私たちが親しい者から、愛する誰かから得られる安心や喜びも理屈ではなかったはずです。 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」書いてある文字を受け入れるのではありません。これを語る主イエスを迎え入れることです。その触れ合いと出会いは形に、姿に限定されませんが、言うならば、心から求め、祈ることです。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたに安らぎを得られる。」イエスと繋がって生きる、学ぶことです。そうすれば、安らぎは与えられ、感じられるものでしょう。主イエスがそうしたいと約束されているからです。あなたにとって主イエスがどのような方なのかが、表れると思います。 わたしたちは先も、そしてこれからも、賛美して求めます。「天の力にいやし得ない悲しみはこの地にない」。


繋がれ

2020年6月28日(日) 聖霊降臨後4主日礼拝 説教要旨
エレミヤ28:5〜9, ローマ6:12〜23 ,マタイ10:40〜42
● 人は何かの奴隷
私たちの世界はしばらくコロナウィルスの影響によって恐れ、騒ぎました。その影響はまだ終わっていませんが、改めて考えるとすごいことです。ウィルスは肉眼では見えないくらい小さいです。見えないどころか、何倍に拡大すれば見えるものなのか、そんなことは言われないくらい、小さいです。でもそんなに小さいものが人の体に入って、発病し、死に至らせ、世界に広まる。世界がとどめを刺そうとしなかったなら、きっとすべての世界はコロナが支配する世界になったはずです。 目に見える大きさではないのです。浸透力と影響力です。むしろ目に見えないものこそが恐ろしいです。入ってしまえば、そのものの奴隷になります。そのものが苦しめる通りに、死に至らせる通りに、ほぼ無防備で私たちの命は変えられてしまいます。 ウィルスばかりではありません。ウィルスはいくら小さくても物質として存在するものです。しかし物質でなくても人を動かすもの、死に致せるものはあります。人の中に貪欲が入れば人は貪欲ばかり追い求めるようになります。情欲が入れば情欲の奴隷になります。憎しみが入れば憎しみの奴隷、恐れが入れば恐れの支配下に置かれるのが私たち人間です。そしてもっとも怖いのが、自分が感染されたのかどうかなかなか気づかないように、私たちは自分が何に支配されているか、何によって生きる者なのかなかなか気づかないことです。それが恐ろしい現実です。死ぬまで一生気づかないかも知れないし、自分がなぜ死んでいくのかも気づかないかも知れません。 人は何かの奴隷です。地位と身分が高い人の下に属するといった分かりやすい意味の奴隷ではありません。ウィルスより気付かれない、消えにくい、しかも浸透力も影響力も強い、目に見えないものの奴隷です。それは避けられなく、否定できないことと思います。自分はそうじゃないんだと思うのは大きな勘違いに他なりません。自分にはウィルスなんか関係ないと思う人と同じです。それならば、尚更、悪いものの奴隷ではなく、良いものの奴隷、良い影響力を受け入れ、それによって生きればいい話です。 実は菌にしても悪いものばかりあるのではなく、乳酸菌みたいに有益な菌があるように、コレステロールにしても悪玉コレステロールもあれば善玉コレステロールもあるように、目に見えないもので私たちを支配し動かす様々なものの内にも、良いものと悪いものがあることに気付けばいいのです。乳酸菌にしろ、善玉コレステロールにしろ、人々から聞いたり、ある程度の興味があったりすれば、それらに気づき、その影響に赴くことができます。同じように、私たちの心、自分の魂に何が有益で何が害悪なのか、自分なりに興味をもって自分を顧みたり、ある程度人々から聞いて参考にしたりすれば、見えてくるものと思います。

● 神の働きが入る時間
雨の多い季節で今日ここにいる皆さん、もしくは、ここにいなくてもこの礼拝を共に聞いている皆さんは、この時間がしばらくみんなに良い影響に触れる時間となります。説教者が勝手にそう言っているだけだと思われても構いません。だいたいこう言われるものもんだと思って聞いて構いません。課題だから来て聞いているんだ、ある人の勧めによって義務感で来ているだ、構いません。大事なのはきっかけ はともかく、良いものに触れることです。それが本当に良いものなのかそうでもないか、自分に必要で合っているものなのか、そうでもないのか、触れて知ることです。きっかけはともかく、受け入れられ、それに活かされるにふさわしい人であれば良いものは私たちの中に入っていきます。実は説教者の話しというより、礼拝は神様の言葉と神様の導きだからです。神様の働きに向き合う時間です。もちろん目に見えません。しかし触れられ、入っていくからには何かが感じられます。何かが気付かされます。ある人はその働きによって生き返りました。ある人は自分で歩けるようになり、ある人の耳は開きました。人を扇動するような怪しいこと、あり得ないことを言っている訳でもなければ、なんか良く分からない抽象化したことを言おうとしている訳でもありません。神様の働きで生きる力は与えられ、感じられるという証ししているつもりです。かの有名なマザー・テレサは、今日の言葉と同じ内容の「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25:40)この言葉から神の声と召しを聞きとり、生涯、死んでいく人、植える人、苦しむ人に仕えました。仕えさせられたと言った方が正しいかも知れません。人の生涯、人の人生、難しく複雑そうですが、結局何を受け入れ、何に基づき、何に従うかなんです。 主イエスは言われました。「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。」今日の聖書を通して、わたしたちに言われている言葉です。文脈を整理すればこういう意味です。イエスが派遣した弟子たちを受け入れる人は(もちろん彼らの言葉や働きを受け入れる)、彼らを派遣したイエスご自身を受け入れることであり、またイエスをこの世界に派遣した神様を受け入れることだという意味です。悪い方の例えですが、ウィルスが人を通して人の中に入っていくのも事実です。神様の働きと祝福は、神様によって送られたのであって、その見えない神様の働き、祝福、命とは、神様が送った人によって、神様に従う人々によって伝わるものです。 ウィルスなら解明できる、拡大したら見える。でも神の贈り物、祝福ってなんだ?!それは物質でないゆえに見せたり、説明して納得できたりすることではないかも知れませんが、私たちが体験するあらゆる形の愛がそうであるように、人の中に入れば喜びとなり、平安となり、原動力となり、他の良いものと合わさって勇気や希望にもなり、私たちの中にある悪いものと闘って治療され、清められる力となります。解明はできませんが、その力の業は感じられます。それが神様の働きの証です。

● 繋がるということ
今日の福音書のみ言葉はいつもの週より短いゆえに、短く絞って受け入れることができると思います。神様が送った人を受け入れれば、神様を受け入れることになる。その人に冷たい水一杯でも差し出せば、神様にそうしたことになる。神様と繋がることになる。色々手の込んだ料理とか温かく沸かしたお湯でもないのです。すぐに出せる冷たい水でいいんです。多くものでもありません。一杯で十分です。それを神様が送った人に差し出せば、神様と繋がる。なぜなら送られた一人ひとりは、神様の者だからです。 私たちが誰か、何かと触れ合うにしろ、触れ合うからにはすでに色んなものが行き来します。気持ちも行き来する、目に見えない小さな物質や空気も行き来すれば、それぞれの互いの心が通い合う。そうやって私たちは色んな存在と繋がってたり、拒絶したりして生きます。悪いものが入ることを防いだり、予防したりすることは良いですが、私たちは実は受け入れるべきものも拒絶する癖があるかも知れません。 一回手を差し伸べるべきどころ、冷たく断る私たちがいるのかも知れません。恐れがそうさせるのか、勘違いなのかいちいち気付きません。一回受け入れたら理解できるものがあり、伝わるものがあるのに、拒絶したり気難しく裁いたり、憎む私たちがどこかにいると思います。一回手を差し伸べてやったら、その人が生きる、その良い業によって自分も生かされるどころ、私たちの中に入っている悪い何かの働きなのか、自分が損するという錯覚なのか、手を差し伸べられない私たちがいると思います。 良いものは受け入れてみてそれが良いものと分かるしかありません。そう信じて繋がるしかありません。赤ちゃんが自分を生かしてくれる存在を受け入れて、その関係から疑わず愛情をたっぷり受けるように、良いものに心を開いたらその良いものはすでに自分のものです。良いものの影響力と働きのもとに置かれるのです。 そうなるために神様は私たちに決して多くは求めません。冷たい水一杯のようなすぐにでも出せる小さな一部、耳を貸し聞いてもらえる小さな動作と心の動きです。それで繋がると約束してくださいます。神様が送り続ける誰か、何かに対して、それで十分繋がると約束してくださいます。しかしそうやって繋がることによって行き来する良いもの、以前は感じられなかった平安と心強さ、そして色んなものと合わさって生まれる喜びや希望、報いは実に大きなものです。それに気付けることは幸せであり、チャンスです。特別なものではなく、目の前の相手に水一杯くらいは差し出せる心の開きで、神様の祝福は入ってきます。まさに水のように浸透し、命の隅々にまで行き届きます。だいたい特別な何かを要求するのが世の誘惑や悪しき働きです。 悪い感情、疑い、否定し、本当は裁くべきでもないのに人を裁く心、妬み憎しみ…。これらの奴隷として生きるのではなく、私たちの心の扉を叩く良いものに向かって私たちの心を開く私たちとなりますように。まずそのように私たちを促し、導く神様の働きに私たちを委ねてみましょう。きっとふさわしい変化が自分の中に起こることと信じます。ごく小さなものに思われて、それが入って、その影響によって生かされる。私たちの命はそういうものであることを、心に留め、互いに受け入れ、互いに仕え合う心をもう一度整えましょう。


人々を恐れてはならない

2020年6月21日(日) 聖霊降臨後第3主日礼拝 説教要旨
エレミヤ20:7〜13 , ローマ6:1b〜11 , マタイ10:24〜39
● 恐れない方が勝つ
コロナウィルスの影響で色んなスポーツゲームも中止されていましたが、人気のある種目が再開しようとしているところです。スポーツ、私たちの社会と切り離せない要素の一つだと思います。多くの人々が見ていて、それに多くの事業が繋がっているからです。私も人並みの興味と視聴をしている方かなと思います。私は数年前のサッカーワールドカップ見て、優勝候補と評価されるチームが弱チームと評価されるチームに負け、色んな分析でどのチームが勝ち、どのチームがトーナメントに残るか、その予想がひっくり返されるのを見て自分の中でこうまとめました。「恐れないチーム(人)が勝つ」。 年中リーグ戦の中で何十試合もすればチームの全体的な実力通りの成績が表れる、つまり運や変数にあまり影響されない結果になると思いますが、一発勝負、その1試合で進出か脱落か、優勝か敗退かが決まる試合ならなおさら「恐れないチームが勝つ」。私はスポーツを語れる人間ではありませんが、人並みに見る人の感想としてそうです。実力、評価、それまでの戦績などにおいていくら差があって、強チームと見られても、「まさかこのチームに負けちゃまずいな」、「もしかしてここで負けるともう終わりだな」みたいな雑念、恐れに囚われると、本当に負ける場合がある。逆に負けてもあまり驚かれず、失うこともあまりない立場から恐れず挑めば勝つ場合もある。私たちはスポーツ試合を通してそういう様子を見てきたのではないかと思います。だから相撲選手たちはみんな、インタビューで一律したかのようなことを言うのかもしれません。「一試合一試合集中して頑張ります」。

● 聖書も、イエスも「恐れるな」
主日礼拝でスポーツの話しをしたところですが、それは人が生きる姿の一面を表現していると思って、このメッセージを言うためでした。「恐れない方が勝つ」。これ、今は私が言っていますが、人が生きるあらゆる場面に当てはまることだと思います。私たちの人生に置き換えても、厳密には恐れの質によるものかも知れませんが、恐れない方が勝利する人生、負けない人生、幸せな人生だと思います。誤解して欲しくないのは、私が人生の勝ち負け、成功論を語りたい訳ではありません。分かりやすく言うならばの表現です。というか、恐れている時点でそれは、幸せとか、平和とか、自分らしさなどからかけ離されている状態です。恐れないこと、私たちが生きるにおいて結構重要で、普遍的なキーワードではないかと思います。私は今日の福音書のメッセージをこの観点から解きたいと思います。

「恐れるな」。多分文章の形としては、聖書の中で一番たくさん出てくる表現の一つではないかと思います。旧約聖書でも新約聖書でも、預言者や使徒が語る言葉にも、天使のお告げにも、神が臨在する場面でも、イエスが教える場面でも…。このメッセージと文言は聖書全体を貫いています。聖書は「恐れるな」、これを伝えるための書物だと言っても、間違いとは言えないでしょう。 今日の福音書のイエスの言葉の中でも、一段落で3回語られています。「恐れ」とは人が生きるにおいても普遍的な壁のようですが、これから弟子たちが宣教するにおいても乗り越えなければならない壁だったようです。先週の箇所は、イエスが弟子たちを派遣しようとする場面での宣教命令でありました。今日の箇所は、その宣教命令に対する迫害の予告であり、その迫害に対してどう構うべきかの勧告命令で す。

● 師にまさるものではなく
「人々を恐れてはならない」。弟子たちへのイエスの命令は、これからイエスの宣教を実践するにおいて、迫害と困難があることが前提です。これは現実的な見通しです。イエスが指示したように苦しむ人をいやし、助け、世話をし、彷徨う人には教え、信じさせる、そのことを実践するにおいて、人が皆喜ぶのか、歓迎するのか、賛同してくれるのか、いくら多く見積もっても皆が皆そうではないことがこの世界の現実です。これは私たちが生きるそれぞれの場面にも共通することです。受け入れられことは大きな恵みと喜びですが、敵と試練がはだかります。そしてその殆どは人によるものです。もしくは人々によって動かされる現実です。 イエスご自身でさえもそうでした。救い主とあがめられるイエスでさえ、苦しみの道を通らなければならなかった、むしろイエスが示す救いとは、苦しみの道、十字架の死の道を通って、それを乗り越えてからこそ「救いへの道」なのです。「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない」とはこの観点からの言葉です。弟子たちを襲う迫害と困難はあるけれど、その師であるイエスが受けたものより大きなものではない。イエスより先に受けるものではない。直接の弟子にしろ、世代を超えてイエスに信じて従う人にしろ、今まで全くなかった真新しい敵や試練に遭うのではなく、この世界に潜在していていつか現れるはずだった敵と困難に遭う訳です。イエスがすでに身をもって受け、通られた道の後を通る訳です。確かに殆どの場合、主イエスが受けられた迫害と苦しみよりは小さい迫害と困難を、殉教者の場合はイエスの受けたものと同じ形の死に直面するという意味です。 しかし迫害には逃げる道もあり、乗り越える道もある、死の後は復活がある。私たちの人生ならば一つの試練の後に与えられる慰めもあれば変化と成長もある、試練を知るからこそ気付く平安もある…だから「恐れるな」であります。むやみな意味での「恐れるな」ではなく、私たちの先駆者であり、この世界に救いを示した主イエス・キリストが通られた道としての、この世の道、私たちはその後を続くのであって、イエスを見てそのように続くのであって、神様はその私たちを見ていてくださって、助け導いてくださる!イエスは世の終わりまでいつも私たちと共にいると約束してくださっている!だから「恐れるな」であります。一羽では小さすぎて売れない、だから2羽で売られるあの小さな雀の1羽でさえ神は見ていてくださる。神様は愛する者の髪の毛までも数えているほど知っていてくださる。神様によって創造され者だからです。 語弊があるように聞こえるかもしれませんが、今日の福音書は分かりやすいです。なんか暗くて、厳しそうなことが書かれているようで、明確で、現実的なメッセージです。私たちが自分を苦しめる何かに遭うとき、悩ませ、恐れさせる何かに遭うとき、まずは「なぜこの私が?」という風に思わないことです。その思いに縛られないことです。人によって担う程度の差はありますが、この世界に潜在していた悲しみと困難、きっと誰かに似た形で現れた悲しみと困難であり、何よりも神の子イエスが人となった故に人として受けられた悲しみと困難、それに勝らない苦しみです。 そしてそれらを恐れるな。神様は見ていてくださる。知っていてくださる。この世に永遠に隠されるものはなく、いつか何かの形で現れるのなら、神の裁きと業もそうである。今目に見えないのであって、そ れはやがて現れる。人の中に何が入っているのか、物質以外にその人の心、気質、能力、それらは見えない。しかし人の中にある見えないものは、いずれ人生の中に現れてその人の生涯とその人を決め占めるように。土の中に隠されている種の命はいつか木になり、実りで現れるように、神の業も現れる。だから恐れるな。むしろ恐れるべきは、今私たちを苦しめ悩ます誰か、何かではない。それらのみを恐れることで騙されるな。むしろ恐れるべきは神である。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」私たちが何を恐れ、何を恐れないでいるべきか、曖昧でなく、難しそうにでもなく、はっきりと告げ知らせている今日のイエスの御言葉です。 神様は全てを見て、知っておられる。そのことが自分にとっては不安なのか、励ましなのか、裁きなのか慰めなのか、そのどちらなのかによって私たちは目に現れていない正確な自分を知ることができるのではないかと思います。自分は何に支配され、何によって生きているのかが見えてくるのではないかと思います。恐れないで生きる、それは今置かれている現実の中でもそうすべきです。さらに、神様を恐れるしかない自分になってはいけないことです。自分の敵、試練と困難、悲しみ、人の目や評価、関係、それらはもちろん私たちを苦しめます。しかしいつかは過ぎ去ります。ただ神様の裁き、神様の前に立たれる私たちは過ぎ去るものではなく、これからいつか現れるものです。どちらを恐れ、どちらを乗り越えるべきか。どちら重んじ、どちらを軽んじるべきか。最後の最後に頼り、選ぶなら何をとるか。この世界と私たちのすべてを知っておられる神様に対して、主イエスはこのように教えてくださいます。「誰でも人々の前で自分(イエス)をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。」 私たちがもし、善者か悪者なのかに裁かれるなら、それは厳しいもの、難しいものです。しかしイエスと共に生きることは厳しくて難しいより、これ以上のない優しさであって、赦しそのものです。だから私は不完全どころか、人の目に現れない惨めな自分を知っててでも、主イエスと共に生きる道を歩むと願います。そしてその道を進めば、神様が見せてくださる恵み、神様が導いてくださる変化、自分が現れるはずです。


収穫は多い

2020年6月14日(日)聖霊降臨後第2主日礼拝 説教要旨
出エジプト19:2〜8a,ローマ5:1〜8, マタイ福音書9:35〜10:23
● 働きとは
私たちが生きるために必要なもの、根本的に何を思い出すでしょうか。空気、水、食べ物、家と言った物質から考える視点が順当でしょうか。さらに私たちの生活に合わせて具体的に表せれば、必然的に収入(とりわけお金)に繋がると思います。正直、このような思考回路は、多くの場合の私たちの現実であること、否定できないことと思います。もちろん生きるためにお金ばかりが大事ではありませんが、私たちの思い(悩みにもなる)、私たち求めが、現実的にはお金、生きるためのものをどうやって得るかに集中されているのは事実だと思います。 とりあえずこの思考回路によっても、お金のために必要なのは、実は「働き」です。そうなんです。収入やお金は働きの結果として与えられるものだからです。この思考回路が正しいのかそうでないのか、気に入るのかそうでないかは別にして、お金のためにも自分はどんな働きをするかは必要なんです。これを抜きにして、お金ばかり求めることは、相当矛盾なこと、利己的なことであって、現実的に与えられることは多分ないと思います。 現実的に生きるためのものを得るために働きが必要だという、面白くもなければ、今さら新しくもないことを言いましたが、生きるために働きが必要であることは、別の視点(思考回路)で考えても同じです。自分の生き甲斐をどこから感じるか、他の人々との関係をどこから見出せるか、自分は何者なのか、自分の働きに繋がります。お金のことを考える場合と同じく、働きに帰結します。 この事実は間違いではない。しかし私たちが「働き」と思いだしたときに何らか否定的な感覚が付いてくるならば、働きが苦しい状態にあるのか、自分が疲れているのか、私たちをまっすぐに生き難くする何か別の影響があることでしょう。だからと言って私たちが生きるための働きそれ自体を否定することはできないのです。私も「働き」と考えたときに、そんなに嬉しい感想は持たない一人です。でも働きます。くどい言い回しは置いといて、働かなかったら生きるのがもっと辛くなるからです。それに、働いたら働いた分の報いがあるからです。報いはお金ばかりではありません。私の生き甲斐も、他の人々との関係も、私が私である理由も、私の働きによって得られることは事実であり真実です。

● 教会の働き
「働かざる者食うべからず」。古い言い方でも多くの人々が理解する、有名な言葉です。実は聖書の言葉で、テサロニケの信徒への手紙二3章10節の古い訳の言葉からの表現です。この言葉は、働かない者は食うなという一面だけを表す言葉ではないと思います。働いた者が食うという、分かりやすい意味、狭い意味だけでなく、人が生きるにおいてふさわしい在り方を含んでいる意味だと思います。怠惰になることを警戒する意味です。何もしないという無意味に陥らないためです。創世記の天地創造の物語によれば、神はエデンの園を設け、自ら形づくった人をそこに置いて、土を耕す者としました。他の生き物を支配し管理する働きを与えました。もちろん働くことが苦にならない理想的な世界でした。それが神の命の息を吹き入れられた「人」の本来の在り方であり理想です。 しかし罪が人の内に入ってから、働くこと、食べ物を得ることに苦しみと呪いが加わったという天地創 造の由来です。この世と私たちの生の営みに、悪い何かが加わって、まっすぐに働くことを喜べない私たちがいること、この由来と共通することではないかと思います。 日曜日に教会に来られた皆さんに仕事のことを思い出せるために話をしている訳ではありません。働くというのは生きるにおいて、本来自然なこと、ふさわしい姿であることを言いたいです。それは神のみ心でもあります。それぞれの存在が生きているからこその固有の働きを持つのです。鳥は空を飛び、囀ります。種は殻を破って地に根を下ろし、成長します。花を咲かせ、実ります。そういうのも働きなんです。何もしないような赤ちゃんも、泣いて笑って、一緒に生きてくれて、家族と人々に愛と喜びを与えます。それも赤ちゃんという命が持つ固有の働きだと思います。(赤ちゃんは泣くのが仕事だとよく言われるのではありませんか!) それでは教会という共同体は何の働きをもつ存在なのでしょうか。実は今日これを言うために、働きの話しをした次第です。学校が子どもを社会的に教育する働きをもつなら、教会は?その答えが今日の福音書だと思います。 「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を述べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」そして、「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった」。まずはイエスご自身が人々に対して働かれてからは、弟子たちに働き(仕事)を与えられたという今日の聖書です。これは、この地上に存在するキリスト教会が何者であるかを示している記録です!人の由来が天地創造にあるように、教会の由来はこれだという記録です。いやいやここではイエスが弟子たちに仕事を与えたのであって、教会とは書いていないのではないか?ではありません。ここで派遣された弟子たちとその働きが教会になるのです。教会は建物というより、社会的な組織というより、信じる人々の集まりであって、信じるという働き、信じることによって動かされる働きなんです。神と真理について教え、それを気付かせ、神の国があることを宣言し、この世で苦しむあらゆる患いをいやすという機能と体をもつ有機体なんです。その動きが教会の命の証でもあります。 私たちの教会は今年、何の聖句を主題聖句にしているのですか。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」(コリント一12:27)教会とは頭なるキリストにつながっていて、一体をなす体なのだ。私たち一人一人はその部分部分であることを今年の主題としている私たちの教会です。体のそれぞれの部分は頭によって総括されます。頭によって存在意義を認められ、その指示によって感情によって動きます。それが体です。抽象的な、概念的な例えではありません。教会はキリストの体だという、これ以上短く言うことができないくらいの明確な定義であり宣言です。それが生きている体ならば、イエスの思いを知り、その思い通りに動く。生きている体としての働きをなします。命の息吹を吹き入れられた体が生きる者、人であるように、イエスの息吹、聖霊を吹き入れられたのが教会です。

● その働きの始まり
私たちは、今日、教会の働きは何であるかを気づくと同時に、それがどこから始まったものなのかをも知る必要があると、私は思います。それが今日、教会に集まった私たちの仕事でもあります。どこから始まったのか…もちろんイエスの弟子たちへの命令から始まっています。「教え」、「述べ伝え」、「いやす」…それは何の思いから始まったものなのか。それはイエスが当時のイエスの近くにいた人々の姿を見てからのイエスの思いです。そして今でも同じような生き方をしている人々へのイエスの思いです。「飼い 主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」姿です。それを見て、イエスは深く憐れまれた。これが弟子たちに仕事を与え、派遣した理由です。飼い主のいない羊のように、生きる方向を彷徨い、困難を恐れ、苦しみを背負っている人々を見て、深く憐れまれたからです。今までたくさん説教を聞いてきた方は、ここで「深く憐れまれた」という言葉が原語の意味で、憐れむゆえに「腸を痛める」という断腸の思いを意味するという話を思い出すかもしれまえん。そうです。ここでイエスが「深く憐れまれた」とは一時軽く可哀そうに思って終わったという思いではなく、従うべき牧者を見失い、どうするべきか知らずに慌て、恐れ、苦しんでいる人々を見て、自分の腸が痛むほど彼らと思い、彼らと痛みを共にしたことです。私たちも自分の最愛の人がもしこの状態なら、打ちひしがれているようなら、ただ可哀そうと感じて終わることには済まないでしょう。愛する人の痛みなら、苦しみなら、自分の心と体をもって痛み苦しみを一緒に感じるものだと思います。イエスの思いはそういう思いです。そしてイエスの前に苦しんで打ちひしがれている人が多いこと、今の世の中にも多いこと、私たちの姿の一部でもあること、それゆえにイエスは弟子たちを派遣しました。この地上にご自身の体なる教会を建てました。それは苦しんでいる人々に差し伸べるイエスのみ手です。体を動かすというより、憐みのゆえに動かされるという思いです。ゆえにキリストの体なる教会は、その思い通り動くべきです。 私たちの教会は生きているキリストの体なのか、名ばかりの体なのか。その動きによって分かります。今日は働きという話しをして、あたかも何かを強いられたり、実績や機能を求められたりしたような気持ちになったならごめんなさい。決してそういうつもりではありませんし、私はそういうものを要求できる人ではありません。教会の働きも決してそういうものではありません。ただ、私たちの教会が生きている教会ならば、頭なるイエス・キリストの思いを知って感じるはずです。忘れていたなら自覚し直し、思い出すはずです。それがつながっていて生きている証拠だからです。それを知って感じてどう動くか、それは体の調子もあるし、与えられている力もそれぞれだから違います。そもそもいくら力があったとしても、意志と思いが伴わなければその体は動きません。憐れむ心、感じる心がなければ「助けよう」、「動こう」、「祈ろう」にはならないのです。 そういう意味で、今日のみ言葉から私たちが何よりもまず聞きたいのは主イエスのみ心です。こう動きなさいと命令されるのが、どれだけ正しいもので力強くても、もし心の通わないつながらないものなら聞きたくなくなります。本当の意味で動かされません。イエスは地上にご自身の教え、天の御国が近づいたという知らせを、心無い姿で伝えましたか?腸を痛めながら働かれました。十字架の死に至る道を避けずに伝え続け、働き回りました。自分を差し出す思いで人々を見ていました。そして弟子たちを派遣され、権能を授けたのです。 私たちは弟子たちがイエスの思いと力を授けられ、悪霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやしたという業が私たちには出来ない、遠く離れたものであるかのように思ってはいけません。必要なのはキリストと繋がっていると信じる信仰です。私はキリストの体の一部、その思いによって動かされる一部であると自覚できる信仰です。そして憐みです。キリストの思いを自覚しているなら、キリストと同じく共感しているはずの憐みです。何を願い、何を祈るべきか、誰のことを思うべきか、誰の傍にいるべきか、自分は何者なのか…誰のための者なのか…。私たちのふさわしい働きはそこから始まるはずです。 続くイエスの派遣の命令からも、イエスの思いは伝わります。私たちが持つべき霊的な姿勢が書かれています。金銭も衣服も杖も持って行くな。極端に聞こえ命令ですが、イエスの示される働きは道具によるものじゃないのです。必要な力は与えられます。それより伝えようと、いやそうと、助けようと、イエス の言葉どおりしようとする心がです。 「平和があるように願い、挨拶しなさい」。相手がそれをどう思うか恐れる必要はありません。例えそれを受け入れない相手でも空しく語られて終わる平和ではないのです。受け入れられなかったら戻ってくるのであって、消えるものではありません。その平和も言葉も、神から出たものだからです。神から出たものであるゆえ、伝わるか伝わらないかの責任が人にあるのではありません。ただみ心通りに願い、伝えるのみです。私たちが頼るのも、伝えるのも、イエスの心、神のみ心だからです。 主イエスは今日、私たちに言われます。「収穫は多いが、働き手が少ない」。収穫は多いという言葉がみなさんにどう聞こえるでしょうか。やるべきことが多い、同時に得るものも多い。しかしそのために働く人は少ない。約束であり、嘆きでもあります。決して仕事を振るための嘆きではないのです。誰がイエスの心になって祈るべきか、誰がイエスの口になるべきか、誰がイエスの足となり、手となるか…そうなれるチャンスと仕事はいっぱいあって、それによって与えられる実りは多いという、神の権能が与える約束です。


神の業がある

2020年6月7日(日)三位一体主日礼拝 説教要旨
創世記1:1〜2:4a, Uコリント13:11〜13, マタイ福音書 28:16〜20
● 神が世界を創造された
私が自分なりに色んなことを自覚し、考えるようになったある日、子どものときだったと思います。こんな疑問を持ったことを覚えています。私というものを包む(含む)世界がある。そして私を包む世界はさらにそれを含む大きな世界に包まれているはず。その世界は学校で学んだ宇宙(?)、宇宙は良く分からないけど、さらに大きな宇宙に包まれているはず。それではそのさらに大きい宇宙は、さらにさらに大きな宇宙に…。 こう考え始めて、終わりのない疑問が延々と続く…だいたいこんなことって、寝ようとするときに考えるためでしょうか、金縛りになった記憶もあります。変な話ですが、きっと病院に言わせれば私という子どもは体調が悪い、病弱だという話になっただろうと思います。ちなみに私はそこまで考えが多い子だったとは思いません。 笑っちゃう話だと思いますが、もしかしてこんな気が遠くなるような疑問、途方にくれるような感覚、感じたり思ったりしたことはありますか。言葉に表しにくいですが、どちらかと言えば、何かが永遠に分からないような感覚や疑問で自分とは何だろうという虚しさを感じる感覚です。こんなに大げさに言うのも私が大人になってから金縛りになった感覚を思い返した時の思いではあります。何を言いたいかというと、私のような人(とりわけ私は)神様を信じて良かったという話です。 この世界って何だろう、誰がつくったのだろう、どこまで、いつまで続くのだろう。きっと科学でさえも明確に答えられない、終わらない、解けないジレンマの中で生きる息苦しさをなんとなく感じた私だったと自分なりに振り返る感覚です。その私に、神様がこの世界を造られた(!)と答えが与えられた。もちろんこの説明で、何の疑問も出なくなることではないけど、途方に暮れそうな、分からないことが多すぎて苦しくなるようなことはストップになる気が、私はします。 私の話を聞いている皆さんが、私のように考えるとは限らないことは知っています。でも自分って何だろう、世界って何だろうという疑問に対して、私たちは必ずある程度の説明と答えを求めることは、程度の違いはあっても誰にもあることと思います。わからない、そういうもの考えなくていいと思う人も、実は考えた末にその答えがあるのかも知れません。とりあえず生きながらある程度の説明と答えを求める私たちにとって、神がこの世界を造られたという説明は、とても素晴らしい説明で、何もかもが混沌で、混沌すぎて命も自覚も愛も、何も見えないような状態から、「私」という存在を自覚させる答えだと、私は思います。 しかも、神がこの世界を創造されたメッセージは、ただ存在させただけでなく、今日の旧約の日課で繰り返し書かれているように、「良しとされた」存在、肯定されたメッセージです。この世界と「私」の命、あなたの命、生き物の命を神は与えてくださったもの。それは私自身の意志ではなかったけど、私ってそのための存在だと、その理由で生きているという素晴らしい答えだと思います。 この聖書の話は、(実はまだ知っていく途中であるけど)科学的な言い方とは違うと思う人々には、それまで話だろうけど、なぜこの創造の物語が聖書の一番最初のページ並べられているか、分かる気がします。「初めに」という文言のためかも知れないけど、私たちの命という魂が遡れる一番先の領域だから です。まずそれが私たちと命と魂の始まり、それを存在させた神様とのストーリーの理由と始まりからです。本来は「良しとされた」存在としてこの世界と私たちがある。それを信じて話ではありますが、それによって活かされる。こういうのが霊的なメッセージ、言葉だと思います。

● 三位一体とは
私は、できる限り霊的な言葉を解き明かしたいのであって、哲学的な話を追求したい訳ではありません。今日は私たちの教会、そして多くのキリスト教会において、三位一体主日です。「三位一体」って何だろう。三つであって一つ、かなり哲学的に聞こえる言葉です。正直、三位一体主日って難しいなと思いながら説教を準備した次第です。本当は哲学というより「信仰」の話です。人間の論理で解こうとすれば難しい話で、間違いなくそれは無理なことです。 私たち人間の認識だと、「父」、「子」、「聖霊」という三つの存在ですが、三つでありながらこれは一つだという概念。人間的な論理では矛盾ですが、実は人間的な論理を越えているから「信仰」でもあります。何もかも人間の論理そのままだったら、もはやそれは信仰ではないです。アウグスティヌスという神学者もこう言っています。「完全に把握できる何かだったら、それは神ではない」。 そもそも「三位一体」という言葉自体、聖書には出てきません。キリスト教会の歴史の中で生まれた言葉です。だからと言ってこれが人間の作りものだという意味ではなりません。聖書が伝える神を、人間の論理から生じる疑問や誤解、矛盾から区別する過程を経て、こう呼ばれるようにものです。「教理」とはそういうものです。主に「異端」と言われる、何か間違った理解から、正しい信じ方を確かめるためのものです。私たちの社会が無秩序にならないために秩序を決めることと似ています。間違いと区別することです。間違いを定義ことです。そういう意味で、父なる神、御子イエス、聖霊とは、それぞれ別々の三つだと言う理解は間違いだということです。確かに三つだけど、みな同じ一つである。それが真実だということです。

● 三つであり一つ、霊的な救いのメッセージ
教会の歴史の中で、この概念を説明するために様々な試みがありました。堅苦しい言葉は置いておいて、皆さんも聞いたことがあるかも知れないいくつかの説明(例え)を振り返ってみましょう。こんな例えを良く聞きます。チェという人は教会や学校では牧師と教師であって、家ではお父さんであって夫。しかしお母さん前では一人の息子。呼ばれ方は別々だけどみんな同一人物、一人の人。それっぽい例えですが、完全ではない説明のようです。(ちなみにこの言い方を聞いたとき私はこれでいいと思いました。)しかしこのように言い方で神を語るのは、教会史の中で異端と宣告されたそうです。異端とされた話を聞いてからはもう教会学校でこの説明し方は言いません。呼び方だけがそれぞれであって、それぞれ違う姿にはなってないからだと思います。 こんな例えもあるようです。太陽は巨大な火の塊で眩しい光と熱い熱を発散する。でも火の塊と光と熱はもともと一つであって、別々ではない。これもそれらしく聞こえますが、完璧ではないようです。これと似ている例えで、水も、氷も、水蒸気も形はそれぞれだけど、皆同じ本質、H2Oという元素だ。もちろん不完全な説明です。植物に例えた説明もあります。木の枝、茎、根っこ。クローバーの三つの葉っぱのような、一つの全体の中の部分に例えた説明がありますが、これも完全な説明ではありません。父、子、聖霊はそれぞれ部分ではないからです。くどい話ですが完全な説明にはなりません。理解に役立つく らいなら、いいとは思います。 それぞれ不完全な説明だと知りながらひと通り紹介した理由は、神として信じる事柄が、人間の軽い言い換えではない、それとは違うことを言いたいがためです。分かりやすくなるのはいいと思います。これらの話しが悪いと厳しがるためでもありません。こう語る私も厳格さとは程遠い人間です。ただ、言葉を分かりやすくするために、信仰そのものが薄っぺらな認識にすり替えられたら大きな過ちです。私たちが主イエスの教会ならば、実は語る人も、聞く人も、気をつけなければならないことと思います。聞きやすいメッセージ、人の都合に合わせた話…そのために聖書の言葉が、神の姿が三つであることではないからです。 この地上に建てられた教会が神の言葉である聖書を解き明かすとき、この世界に示された神は三つの姿までして示された理由を正しく受け止めるためです。魔法のようなものになるためではありません。ファンタジーでもなく、人々の都合に合わせたただ素敵な理論になるためでもありません。霊と真理に関する話です。人の魂を救うため、神の愛を伝えるためのものです。神はその愛をもってこの世界と命を造られた。混沌の中から確かな存在にされた。良いものとして造られた。しかし聖書のストーリーはさっそく、その次のページから人は罪に落ちてしまった。世界は悪に満ち、罪が支配する世界であった。それゆえに神は人となられた。人となれれて教え、正しめ、打ちひしがれている者はいやして活かした。不義とは闘われた。闘われた故に人としては殺された。死んでこの世を去りながら弟子たちに約束された。「わたしの代わりに別の弁護者、共にいてくれる霊を送ろう」。「その霊があなたがたと共にいる」。「あなたがたはその力と真理を受ける」。 神の姿が三つであるというのは、神は、父なる、創造主の神と、人となられて現れたみ子イエス、信じる人の弁護者として送られた聖霊、この三つの姿に示されたのであって、その三つの姿とも神である。神に似せられたのではなく、部分的に神なのでもなく、完全に神そのものである、それは真実であることの証としての「三位一体」であります。その本質と尊さを変質させないため、曲げないため、誤解や偽りと闘って正され、確かめられた証、真理です。 こう示された真理によって聖書を読むなら、その意味が変わります。そこに込められている神の愛の深さが変わります。数々の記録が、羅列するのが困難なくらいの多くの記録が、父と子の聖霊が同じ一致した神であることを証しているのが分かります。そしてその証の究極な目的は、神が我々と共にいる、神の救いの業が私たちに与えられていることを示すことです。 「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子としなさい。彼らに父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るようにしなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」父と子と聖霊のそれぞれの業によって、しかしみな同じ一つの神の働きによって、罪に生きる者が救われることです。 神は私たちと共におられる。創造主として、救い主として、導き・助け主の霊としておられる。どの姿もが私たちのためにおられ、信じる人々に照らされた神の姿である。永遠に、どこででも、信じる人々に向けられる神の愛。三位一体とは神の愛の神秘、全能・永遠なる神と繋がれている霊的なメッセージです。

渇く者は満たされる

2020年5月31日(日)聖霊降臨主日礼拝 説教要旨
一コリント12:3b〜13, 使徒言行録2:1〜21, ヨハネ福音書7:37〜39
● 聖霊降臨
よく「教会の誕生日」と言われる、今年の聖霊降臨祭を迎えました。なぜ「教会の誕生日」と言われるのか、今日の第二の日課、使徒言行録が記録している「聖霊が降りてきた」出来事によって、キリストの教会が成立したからです。そこからキリスト教会の宣教が始まったからです。誕生日がその人の人生の始まり、その人という存在の再確認であるように、聖霊がこの地上に降りてきたことは、今私たちが集っている教会の始まりであり、その働きのスタートです。それと同時に教会とは何かを再確認するのです。 それは、私たちの聖書を辿れば、旧約聖書を貫いて預言されてきたことの実現であり、イエスが与えられた約束の実現であります。救いの実現の本格的な始まりです。とても大きな出来事です。だからキリストの教会はこれが実現したことを覚え、祝い、そこから私たちキリスト教会とは何か(どういうものか)を確認するのです。 最近の主日日課を通して私たちは、イエスが地上を離れるにおいて約束された言葉を読んできました。「高い所からの力に覆われるまで、都にとどまっていなさい」、「あなたがたはこれらのことの証人となる」(ルカ福音書の終わり)。そしてこれが実現する次第は、今日の第二の日課の使徒言行録に書かれています。

● その様子
風が吹きました。激しい風です。炎が現れました。天からの炎です。聖霊は神からの霊なので形に納まらないはずですが、それが降りてくる様子を使徒言行録はこのように伝えています。形に納まらないからこそ、どんな姿でも現れます。これが自然現象としてありえる姿なのか、あり得ない姿なのか、それに戸惑い悩む必要はありません。伝えようとしていることは神の顕現です。 「炎」は、旧約時代から神の顕現を象徴するものです。かつてのモーセも荒れ野で燃え上がる柴、炎を見て神の声を聞きました。「風」は、神の霊の象徴です。神の似姿として形づくられた人の体、その鼻に、命の息が吹き入れられて人は生きる者となる聖書の始めの記録でした。天から風が吹いてくることは、神からの命の本質なる霊が人々のところに吹いてくることです。それも強く与えられたことです。そして炎のような舌が分かれ分かれに現れた。それを受けて、人々の舌が動き始めた…。語り始めた…。色々な言語をもつ人々が互いに他の言語を語り出し、しかし自分たちの故郷の言葉を聞く…。 この現象を神との関連で見ないならば、イエスが地上を離れる前に約束された約束と見ないならば、単なる不思議事、信じ難い記録、驚き怪しむ出来事です。見方によっては怖い姿です。そこにいたある人々が言うように、「あの人たちはぶどう酒に酔っているのか」と 思われる模様です。 しかしこれは神の顕現を表す記録です。神が起こした業、奇跡です。神がそこに顕現し、神の霊が降りてきてそこにいた人々を支配した出来事です。それを受けて人々は何かを語り出し、しかも色々な言語をもつ人々が何を語っているのか分かる形で繋がった。そこにいた人々は一体何を語り、互いに何を聞いていたのか。それらを録音したような証言ではありませんが(もしも録音されたとしても信仰があるかなしかでその意味はあるかなしかです)、使徒言行録はここで人々が神の霊を受けて語り出したことをこのように証言します。「(それぞれ違う言葉をもつ)私たちがどうしてめいめい生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。ガリラヤの人である彼らが、私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」(使2:7~11)。 多言語が語られる奇跡、そこで語られていて、人々が聞いたものは「神の偉大な業」を語るメッセージ、「神の偉大な業」を賛美する言葉だったんです。私は、この記録が人間的な視点でまた不思議な記録なのは分かりますが、信仰的に難しくありません。神の霊が与えられ、その霊を受けた人々は霊が語らせることを語ったのです。その語りの実態は「神の偉大な業」を証し、賛美するものだったのです。 それは、神の業を否定する人々にとっては酒に酔っているように見えるものでしたが、信じて受け入れる人々にとって神の業の証、まさに神から命と霊が届けられた語りです。命と霊が語らせたものなので、信じる人には新しく生きる力が与えられる語り、讃美、力そのものなのです。 このときのように、激しい風がないから、炎が見えないから私たちは聖霊の存在と働きを信じられないでしょうか?聖書の言葉を聞いて、信じる人々の証を聞いて、酔っ払いのような言葉、実体のない戯言のように聞くのでしょうか?もちろんこの世界にはそのように聞くと言える人々がいることは間違いないですが、私たちに聖霊が臨んだ、神が語らせた言葉として、聖書の言葉と証と賛美を聞くとき、私たちはそこから力を感じるのです。私たちを包む力を感じ、力を得ます。新しく生きようとする始まり、変化が起こるのです。それくらいはできるものです。教会という集まりがなそうとしているものです。「それくらい」と言ったら語弊があります。神の業をたたえ、聞くことを劣っていることのように思って「それくらい」と言った訳ではありません。むしろ反対です。何よりもまして「それを」体験することはできるという意味で、むしろ「それを」語るべき、「それを」聞くべきものとするキリスト教会、信仰者だという意味です。教会という共同体はそのために現れた集団です。

● 一つになる
今日の第一の日課、第二の日課、そして福音書…。順番は前後しますが、聖霊を受けた教会の教えと助言から、聖霊が降りてきた時、教会という集団が誕生する瞬間の記録、そしてそれ以前の、福音書の描くイエスの姿に遡る順番になります。 天に戻られる前のイエスは、今日の福音書の場面、祭りが最も盛大に祝われる場面で人々 に大声で宣言されました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」 聖書の解釈に役立つ参考書などを読めば、この場面の祭りは、イスラエル民族がカナンに定着してから収穫の祭りであり、そして農耕ために雨乞いの性格の祭りであった可能性があると報告します。雨を求める祭りだったかどうか断定はできませんが、ともかくここで収穫を喜び祝い、さらなる豊作を願う人々に対してイエスは、「渇いている人はわたしのところに来て飲みなさい」と言われます。祭りだからお酒を飲みなさいと意味でしょうか、それとも人が生きるにおいてとても大切な、そして穀物が得られるためにも非常に大事な良い水分を求めなさいとの意味でしょうか。祭りだから、そういうお酒や水分ならすでにそこで有り余るほど飲んでいるはずの人々に向けられたイエスの言葉でした。それらとは違う種類、形で人々を真に活かすものを「来て飲みなさい」とイエスは叫んでいたのです。強い風のような霊が激しく降ってくる先に、イエスは強く叫んで伝えていたのです。ヨハネによる福音書は、ここでイエスが言われていた「生きた水」を、信じる人々が受けることになる「霊」のことであったと証言しています。 本当の意味で人の命を潤し、活かすものとは何でしょうか。喉が渇き、体に水分が足りないなら水を飲めばいいです。気持ちを晴らし、ちょっとした苦しみを忘れ、楽しくなりたいならお酒を飲むことも効果があります。でも、喉が渇いて水を飲んでも、お酒を飲んでしばらく楽しくなっても、解消できない渇きは確かにあります。物質としての水やお酒について私たちは良く知っていて、良く飲んでいます。それらがもたらす効果と力は限定されていて、一時的であることを皆が知っています。それらを飲むから自分の命全般が満たされることではないこと、改めて考えなくても私たちの魂がすでに感じて知っていることです。 イエスはもっと深い意味で、人の命のもっと深い部分を潤し満たすものを与えるのだから、それを受けなさいと、それを受けて自分の中に入れ、信じなさいと言われていたのであります。それが入れば再び自分の渇きを消すために別のものを求めなくてよい、別のものを得るために苦労しなくてもよいと。一番根本的なもの、一番大切な部分を満たすものを受け入れなさいと。それは私たちの魂を活かす、神からの「霊」であります。 「霊」の形は自由です。自由で、私たち自然界を超える神の霊だから、風のようでも炎のようでも水のようでもあります。形はともかく、それを受け入れることで世の物質や人がつくり出したものでは満たせない部分を満たすことは確かです。この世界で知っていること、できることがとても限られている私たちに対して、私たちを超える神の業を信じることは、この世界を「新しく生きる力」を与えます。私たちを縛る世界を越えて生きる希望を与えます。そしてその信仰は、単なる不思議さや珍しさではありません。自分さえ良ければいいというものでもありません。正しい信仰、本当の聖霊の働きとは、「その人の内から生きた水が川となって豊かに流れ出るように」、それによって他の人々にも良いものを届けるように、今日の第一の日課に書いてあった表現のように「一人一人に、霊の働きが現れるのは、全体 の益となる」ように、自分以外の人々と繋がり、活かす力なのです。一つに結ばれる力なのです。 私たちの教会の先人たちが受けたものはその霊であり、何よりもそれによって生き、その力によって存在し、時代を超えて働いた教会。今日はその始まりを祝い、確かめる日です。

喜びながら、絶えず賛美しながら

2020年5月24日(日)復活節第7主日礼拝 説教要旨
使徒言行録1:1〜11, エフェソ1:15〜23, ルカ福音書24:44〜53
● 別れ、人の感情、そして「信じること」
主イエスが天に昇られたことを記念する主の昇天主日です。復活してしばらく、愛する弟子たちに生きておられる姿をお見せになった主イエスは、いよいよ彼らを離れて天に昇られます。今まで一緒にいて、傍にいて、しかし離れなければならないこと、人にとって寂しいこと、悲しいことです。私たちが良く知っている感情で、生きているうちに体験する気持ちです。 もう二十数年前になりますが、韓国で私が軍隊に入隊するために家を出た朝、お母さんは物凄く泣きました。きっと泣くことになるだろうから、入隊する「訓練場までは送らないね」と言って、私が家を出たところで別れたのですが、後ろから母の泣く声が聞こえていたことを忘れません。そうやって別れた後は、なんで最後の見送る場所にまで付いて行かなかったんだろうと後悔して、家でも泣いていたと言っていました。 私が日本に留学に来るために、慣れ親しんだ場所と友たちから離れること、当時の私の若い感性では、けっこう辛かったです。今思えばふざけいた時代、何一つ良いと言えることは何もしなかった時代、遊ぶと言ってもお酒ばかりだった20代、しかしいざそこから離れようとするとき、押し寄せてくる寂しさ、一瞬離れたくなくなる気持ち…。私たちが歩んできた人生はもちろんそれぞれですが、私が何のことについて言っているかは共感できるものと思います。 人が誰かと、何かと離れることは簡単なことではありません。その対象に対して愛が多ければ多いほどそうです。しかし、私たちは生きながら、離れなければならない時があることも、色んな形で悟り、体験します。私の話を例に挙げましたが、私が軍隊に入らなければならない時が来て母はあんなに悲しかった、実は私も寂しかった。でもそれって、今になったらどうなのか。当時の基準で2年ほどの別れ、自分の記憶と気持ちを美しく振り返って、あの時はそうだったな…くらいです。2年なんて、私の人生のごく一部です。年をとればこの間の2年がどう過ぎたのか分からなくなるくらいです。あの時の寂しさ?笑います。というか人生の本題はその後からです。それよりもっと真剣な別れもその後です。 今日の説教のために、こういう話を強引に引っ張りだそうとするつもりではありませんでしたが、私たち、人の感情というのはだいたいの場合、「その時」に限るものです。悔しかったのも、悲しかったのも、辛かったのも、当たり前の話ですが、「その時にそうだった」という感情です。実はずっと悔しがることも、ずっと悲しむ、苦しむことも難しい話です。生きていれば、「その時の感情と思い」に新たな意味が加わること、私たちは繰り返し体験しているつもりです。だから、私たちには、その時その時の自分の思いばかりでなく、もっと大いなる時間と命に私たちの感情や思いを委ねる必要もあります。それも信仰です。この 先がどうなるか、将来がどうなるか、もちろん分からない私たちですが、その瞬間の自分が全てではないと思える心、認めてそう生きる心、信じる心です。

● イエスが天に昇られた理由
前置きが少し長くなりましたが、今日はイエスが弟子たちを地上に残して、天に昇られる場面です。天に改めて昇られたというよりは、天に帰られたと言うのが、もっと正しいかも知れません。主イエスを神と信じる信仰において、主イエスは世の人々のためにしばらく人として現れた神の子だからです。イエスは本来の在り方に帰られたことです。 イエスはなぜ天に昇られたのか。全能の神ならばいつまでも愛する人々とこの世にいてもいいのではないか。人間中心的な疑問も浮かぶものかもしれません。それは神様がお決めになったことだから答えようがないものです。もちろん愛があってそう思う心かも知れませんが、実は狭き、その時の自己中心的な思いではないかとも思います。すでに確認した通り、イエスは本来いるべきところにいるためです。そしてそこから私たちを迎えるためです。 最近の主日礼拝の日課にその理由が述べられていました。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。…行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻ってきて、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所にあなたがたもいることになる。」、「わたしは父に願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」(ヨハネ14章) イエスが天に昇られたのは、イエスが弟子たちとただ離れるためではなく、いつか弟子たち、信じる者どもをイエスのいる場所(天国)に招くためです。そしてイエスが約束した聖霊が弟子たちと信じる人々に来るためです。そしてその聖霊に導きによって、地上に残される弟子たちと信じる人々が地上にいる間に神が望む業、イエスが教えられた業を行うためです。地上で愛し合うためです。イエスはそのために天に昇られたのです。

● 信じれば、変わる。
今日は私個人の体験談が多いですが、一緒に生きる直系家族としては、母と私しかいない二人も離れて生きることが多かった昔でした(今もそうですが)。その時代、手紙で母から繰り返し言われていた文言があります。「今よりもっと良い未来のために…」。いつからか母が思う自分ではないんだと思っていた私ではありましたが、母からのこの文言にはそれなりに納得し、その心は感じていました。「私たちの二人にとってもっと良い未来のために、母は仕事をしているんだ、君は留学をしているんだ、少し苦労をしているんだ、離れているんだ…」と度々言われていた言葉でした。もちろん私の家族の話しであって、人生観と場面によってはこの考え方が正しいとは限らないものでもありますが、こう言い続けていた母にとっては、そして聞かされていた私にとっては確かに意味ある言葉でした。 人が生み出した思い、言葉、そしてその通りに信じる心さえも何かを動かす力があります。 寂しい中でも「もっと良い未来のために」と信じ込めば、それによって動かされる自分と未来があります。キリストを信じる群れとは、神なるイエスが約束されたことを信じる群れです。そしてその約束とは、主イエスがこの地上で十字架の死まで成し遂げながら与えた約束であり、復活して生きておられる姿まで示して、さらに確かめた約束であります。そしてその約束の最終的な実現、天の国に生きるその時まで、信じる人々を支え、導くために、主の約束の証人として働くために、聖霊を送って保証された約束であります。 私たちはその約束を信じて、今を生きる者です。今日の福音書に記されている弟子たちの姿を見てください。彼らはイエスが離れていかれて寂しがりましたか?悲しみましたか?「大喜びでエルサレムに帰った」とあります。彼らにいいことがありましたか?喜べる理由がありましたか?主イエスが約束して、祝福された以外は何もありませんでした。むしろ地上では迫害が待っています。しかし彼らは喜べた!神を賛美した!彼らが何によって生きる者であったかを私たちは見ることができます。 私たちは誤解してはいけません。彼らがそうしたのは自分たちの悲しみや苦しみを紛らわすために、無理にそうしたものではありません。無理にしようとするには限界があります。彼らはちょっとした慰めのために、主イエスの約束と祝福を受け入れたのではありません。そうではなく、まったくその約束に生きたのです。少しくどい言い方かもしれませんが、ちょっと気持ちを紛らわすことなら、実は自分たちに見えた死、絶望、悲しみを認めることなのです。それがあって、自分たちはそれに縛られていることを認めるから紛らわしたり、目をそらしたり、忘れようとするんです。厳密な意味で、そういうものを信仰だと呼ぶわけではありません。信仰は偽るという心の動きではなく、約束された通り、信じている通り生きることです。 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(テサロニケT5:16)。有名な聖句で、明るい言葉です。しかしこの言葉は「喜び、祈り、賛美する」ことについて、そう演じなさいという意味ではありません。主イエスが私たちに約束されたものを思い起こしなさいという意味です。信じなさいという意味です。信じればこうなるからです。 信じることで世界が変わります。信じる状態でなかった弟子たちはかつてイエスが傍にいたとしても、直接教えられ、奇跡を見せられても、足を洗われるほど愛されても、そして最後には復活した姿を見せられても、喜ぶ弟子たちではありませんでした。そこに究極な喜びと賛美はまだないという意味です。しかし信じるようになった弟子たちは喜び、賛美します。むしろイエスの姿が見えなくなってもそうです。もっとイエスの弟子らしく生きるようになります。以前は恐れていた世の憎しみと迫害をももう恐れません。イエスによって心の目が開かれたからです。イエスが帰られた場所がある、やがて自分たちも変えられる場所がある、そこにイエスが生きておられ、見守っておられることを本当に信じたからです。私たちが願うべきは、開かれた心の目、イエスの約束を信じる心です。


わたしが生きているので、あなたがたも生きる

2020年5月17日(日)復活節第6主日礼拝 説教要旨
使徒言行録17:22〜31, Tペトロ2:2〜10 ヨハネ14:15〜21
● 生きているものからの平和
私と私の家族、この室園教会に引っ越して約一カ月が近づいています。諸々の理由で色々制限された生活ではありますが、今までとは違う新しい環境を味わう生活を送っています。個人的には、何が一番変わったかと言うと、生活空間に庭があることです。庭というより駐車場ですが、それでもそこには抜かれる雑草もあれば、何かを植えられる土があり、そこから咲く花があります。今まで長く生活したマンションにはなかった風景です。楽しんでいます。 ちょっと一息したりするためにそこにある草や花、木を見回ると、ついに一息どころかじっくり見つめ続ける私がいます。今まではなかった時間と空間があるからかも知れませんが、私もそれなりに植物が好きな一人です。一時は観葉植物を買い集めていた時期もありました。教会や周りの方々からもこの時期、外出が減ったためか新緑が成長する季節のためか、庭仕事に励んでいるという話をよく聞きます。植物を育てる、管理する、見つめる、人によっては楽しみです。 なぜ楽しみなのか、私に言わせると、それぞれの草が「自分、生きている」とを感じさせるから楽しいです。話もしない、動きがまったくないわけではないけど動物のようには動かない、しかしそこにいて、生き続け、成長する。子どもを見て「大きくなったね」と感動する、それと似たような感動を草や花からも感じられるからです。種類は違っても、一緒に生きてくれる「命」です。そして命あるものからは、じわっと与えられる平安、慰め、楽しみ、感動があります。 私たちは、実は自分以外の命から色々励まされ、助けられる存在です。助けられるというより一人では生きていけないから人です。見方にもよりますが、じっとしている植物からも命の恩恵を感じようとすれば感じられるものだから、まさに同じ命として通じ合って生きている人、隣人からはもっと大きな励ましと感動が得られるはずです。傷つけ、苦しめる場合もあるとは言わず、自分と一緒に生きてくれるということからの励ましがあるはずです。キーワードは「命」です。生きていてくれることは、自分に何かを与え、自分を何かの形で生かしてくれます。 そして礼拝をする私たちにとっては、もう一つ、私たちを生かす大きな存在がいます。「生きておられる」神です。

● 神の働き、それを成す「霊」
もちろんのことですが、神を信じるということは「生きて存在する」神を信じることです。ある哲学者が言うように「神は死んだ」のではありません。しかもただ存在するのではなく、生きているゆえに「働きかける」神を信じることです。大昔、私が回心して生き方を改めたときに友人が言いました。「神様って本当にいるんだね」。人に比べれば遅い結婚を決めたときには別の友人も言いました。「神様っているんだな」。ふざけた話のようで、普段は神を信じない態度の人々さえも神様が働きを認める場合があります。目に見えない神、動物や植物のようにその存在を確認する訳ではない神、その神を私たちはどうやって信じるか。神という文字や概念があるから信じるか、神話の中に書いてあるから信じるか。違います。私たちは生きている中で、神の「働き」を感じ、向き合うから信じます。先週の箇所でもイエスは言われ ました。「信じないなら、業そのものによって信じなさい」。 今日の福音書は、この世を生きる私たちがどうやって神の働きを感じるかに対する答えでもあると思います。イエスはこの場面で弟子たちに言われます。「これからわたしは父のもとに帰る」、「世はわたしを見なくなる」。しかし「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」。 離れいって見えなくなるというのに、それは人間的な視点では十字架上で死ぬということなのに、どうやって「あなたがたをみなしごにはしておかない」と言われるのか。その理由は、イエスにとって弟子たち十別れは永遠の別れではなく「あなたがたのところに戻ってくる」という再会の約束が伴っていること。そしてイエスは離れる代わりに「別の弁護者」、つまり「聖霊」を弟子たちに送るからです。

● 彼らの内に共にいる存在
弁護者という言葉(訳)。新約聖書の原文でのギリシア語では「パラクレートス」だそうです。この言葉の元々の意味は「傍らに呼ばれた者」という意味なので、法廷での弁護者、代弁者を表す言葉となったそうえす。だからここで弁護者と訳されている言葉は法廷上での存在でなく、もっと広い意味で「共いいてくれる」存在として読むべきと思います。共にいてくれるから、時には慰めを与える、時には気付きと助けを与える、そして迫害する者、神を知らない者の前ではどういうべきか説明と証の言葉を与える、これらが聖霊の送られる理由と役割であると、信仰的に認められます。 そしてこの聖霊、弁護者なる存在は、人間でもなければ動物や植物でもなく、何かの道具でもない。しかしこれから「あなたがたの内にいる」ことになると、イエスは約束します。内なる存在なので目には見えませんが、その聖霊が内にいて、弟子たちを動かし、成しとげる「業」。それを確認することはできます。 「霊」というと、特に今の日本語では幽霊みたいな印象の言葉として使われていますが、キリスト教的に「霊」という言葉の意味は深いです。キリスト教辞典に書いてある意味を要約していえば、命の一番核心的な部分もしくは命そのもの、命を動かす原動力という意味だそうです。だから、イエスが約束した聖霊がこれから弟子たちの内にいることになるとは、弟子たちの中に神の霊、イエスの霊が入ることであって、それがまさに彼らの命に入り込むことであって、弟子たちを動かすことであります。動かすって、ロボットやパソコンみたいに命のない物を操作するような働きではありません。人としての命をもち、生かされている弟子たちの内に共に生きることとして交わることです。だから教会で用いる祝福の文言の中に、神からの祝福を表す一つとして「聖霊の交わりが豊かにありますように」と祝福されています。時には慰め、時には気付かせ、時には力を与える形で…信じる人を励まし動かす存在です。 だから弟子たちは信じるようになったのでした。イエスが見えなくなってから(つまり死んでから)彼らはしばらく絶望しましたが、その絶望から立ち上がるようになったこと、聖霊が彼らの内にいたからだと思います。慰めと希望、イエスが約束した命を聖霊が気づかせてくれたことでしょう。弟子たちが人々に勇敢に愛をもって証をし、イエスについて教え、人々を癒したこと、彼らの内にいる聖霊の働きです。聖霊が彼らに言うべきことを教え、なすべきことを示したからでしょう。しかも弟子たちのほとんどは無学であったと言われるのに人々を納得させ、この地上の「教会」という群れが形成されるほど人々を従わせたこと、真理の霊である聖霊の働きです。弟子たちが迫害と死を前にしても恐れなかったのも彼らの内に聖霊が共にいたからです。肉身の命よりももっと尊いものを気づかせ、恐れを越えて生きる力愛する力を与えたからです。

● 神と繋がり、生きて愛する
私は聖霊の存在と働きを信じます。幽霊や他の霊についての話はどんなにリアルに怖く言われても、信じないというよりあまり興味を持ちません。しかし聖霊に対する証言は、誰かによって「見えた」と言われなくても、聖書に書かれている記録で信じます。自分が今まで教会を通して与えられた恵みによって信じます。それは惑わしたり、怖がらせたりする霊ではなく、人々を慰め、力づけ、教える霊だからです。人を生かす、良いものを与えるからです。神からの真理の霊、イエスが約束した霊だからです。そしてこの世界に、このように教会があるからです。イエスを信じる人々が命も惜しまず、聖霊によって変えられ、動かされた証がこのようにあるからです。それに未熟ながらも、私自身も、慰められ、気付かせられ、力づけられ、自分の姿を変えた体験があるからです。それは私だけでなく、信じて神を求める人に与えられる体験でもあります。 今は説教する立場でありながら、全てが言葉や説明で証しされるとは思いません。むしろ言葉や説明で伝わるもの、ほんの一部でもあればいいと思っています。人の努力や情熱、能力の賜物だとも思いません。結局、信じるということは命を感じとることだと思います。生きている命として、生かされることを信じることだと思います。ちっぽけな草でも、その小さな命をもって、慰めと平安とを、命ある私たちに伝えます。神を信じることは、生きて働く神が私たちに届ける励まし、平安、気付き、力づけとを、命をもって感じとることです。そうやって神と繋がり、結ばれて生きることです。「わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」 生きておられる復活の主イエスは、その命の息吹を、聖霊を通して送ってくださいます。「わたしが生きているので、あなたがたも生きる」。「わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す」。生きて愛すること、今日、神様から私たちに与えられる働きかけ、賜物です。


わたしがいる所に, あなたがたもいる

2020年5月10日(日)復活節第5主日礼拝 説教要旨
使徒言行録7:55〜60, 一ペトロ 2:2〜10, ヨハネ福音書14:1〜14
● 場所
人は、よっぽどでない限り、生きるうちにいくつかの場所を体験します。人にもよりますが、いくつか自分が住む場所、居場所を移しながら生きるという意味です。数日前の私の体験ですが、夢で私が昔いた場所を見ました。そんなに大した夢ではありませんでしたが、それで自分が昔その場所にいた記憶を懐かしく感じ、起きてからGoogleマップでその場所を検索してみました(いい時代です)。ちなみにその場所は私が生まれ育ち、20年近く生きた韓国ソウルのある町です。 私がいた頃とは大分変わったとしても、学校とか、道とか、駅などの位置はそのままなので、「ああ、ここだった」としばらく思いふける時間でした。帰国することがあっても用がないのでわざわざその町には行かない。私の記憶の中に眠っていた一つひとつの場所を思い巡りながら、上からの写真(衛星写真)を見ていました。そしてマウスのスクロールを回しながらその地図の縮尺を変えていくと、その町がどんどん小さくなります。視点は遠くなりますが、見える地域は広がります。ソウル市全体が見えるようになり、ついそれも小さくなります。
一瞬、私が天に上っているような感覚、意図的な錯覚を味わいながら、韓国全体もどんどん小さくなります。ついに日本が見えてきます。世界地図からすれば、私が生まれ育った所からそれほど遠く離れていないなと改めて思いながら、今私がいる場所にも目を置きます。私は、生まれ育ったソウルから、モニターの画像では数センチ下(つまり南)に移って、今は日本の熊本におります。 とぼけた話ではなく、当然、私は今ソウルにはいません。以前、数年ぶりにソウルにいる友だちに電話をしたら「お前地震で死んだかと思った」と言われたことがあります。私が日本に行ったことを知っている友人ですが、会うことがなく、連絡もなかったからふざけて言っているようで、もしかして地震とかで何かあったかもしれないと、本気で思っていたみたいです。 会えないこと、見えないこと、聞けないこと、その人がいた場所にその人がいないこと…。確かに死んだらそうなることです。しかし、私はここに生きております!あいつには見えない、連絡しない、あいつが知っている昔の家にいなくても、一緒に遊んだ場所に私の姿がなくても、私はいないのではなく、ここにいます。場所を移しただけです。私が思い老けた数日前の話ですが、今日の福音書の解き明かしに役立つかと思い、話しています。

● どこへ行かれるのか、わかりません
今日の福音書、いわゆるイエスの「告別説教」と呼ばれる部分の一部です。まさに、これから、しばらく弟子たちから離れることになる直前、イエスのメッセージです。そしてこの後、イエスは死を迎えます。その死を前にして、イエスは弟子たちに「心を騒がせるな」と言われます。「神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい」と呼びかけます。 聖書の記録を辿れば、イエスはご自身が十字架にかけられて死ぬことを、弟子たちに何度にもわたって言い知らせたようです。しかし当時の弟子たちにはどうもその実感がなかったようです。今目の前にいて、話していて、しかも自分たちを愛している。生きているイエスがこれから死ぬことを予告しても、と ぼけた話のように聞こえること、分からなくもないです。だったら、その後の復活の話しなんて、もっと現実味のない話です。人間的にはそうです。 だから弟子たちは今日のイエスの話しを聞きながらイエスに聞くのです。イエスは言われました。「行ってあなたがたのために場所を用意する」、「戻ってきて、あなたがたをわたしのもとに迎える」、しかし弟子たちは「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちにはわかりません」。「わたしは道であり、真理であり、命である」、「わたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。すでに父を見ている。」、しかし弟子たちは「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます。」 ある意味当然な話しかも知れませんが、当時を生きていた弟子たちにとって、その場、見える範囲、知っている範囲を超えた話、聞いてすぐ信じるには困難があったようです。だって、言うならこの世界にいる私たちはこの世界のことさえ信じないことがあります。地球は丸い、自分の目が届く以上に世界は広く、自分の知らない場所にもそれぞれの営みがあり、生きている人々がいる。自分の考え以上に可能性はあって、実際色んなことが起きている…。私たちは誰かから聞かされて、学んで、部分的には体験もしているこの世界のことさえ、理解はするようで、感覚・心情的には信じない私たちがいるくらいです。この世のことでさえそうですが、ここでイエスが言われる「父の家」、「道」とは、今生きているこの世界ではないこと、当時の弟子たちも私たちも知っています。だから死ぬことを言われながら、行って戻ってくる話が分からないのです。目で見る、自分の体で自覚し、事実を確認する人間的な認識でそうです。

● 聖霊
しかし結論から言えば、この場面でこの話を聞かされていた弟子たちは、イエスの話したことを信じるようになるのが、聖書の結論であり、証、この世界の歴史の証でもあります。この場面ではまともに信じていないような弟子たちが信じるようになる、その次第も、私たち人間の認識では説明しがたい事柄かも知れません。ヨハネによる福音書の証によれば、実は弟子たちが信じるようになるのは、イエスによって何かが与えられてからであります。実際イエスが死をもって弟子たちから見えなくなり、その代わりにイエスが送られる何かが来てからであります。それから弟子たちは信じるようになります。私たちも信じるためには弟子たちに降りてきた何かが必要です。イエスによって与えられた何かが必要です。それは、イエスが約束された「霊」(聖霊)です。 ヨハネによる福音書は比較的に長い分量を割愛して、イエスの「告別説教」を伝えています。その告別説教の後半、今日の箇所の後の内容はイエスが聖霊を約束する内容です。イエスは約束します。聖霊が降れば「わたしが話したことをことごとく思い起こさせる」、聖霊が送られれば「あなたがたはわたしについて証する」、聖霊があなたがたに来れば「あなたがたの内にわたしがいることを知るようになる」、もう「あなたがたはどこへ行くのかと聞かなくなる」。「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」、「悲しみが喜びに変わる」、「わたしの業をあなたがたも行うようになる」… 神とイエスからの霊がこれらのことを実現するという約束が、ヨハネによる福音書の中でかなり強調されて記されています。私たち人間的な力を越えていて説明しようがなく、完璧な例えになりませんが、目には見えなくても私たちの中には人間的な何かがあって私たちを人間らしくしらしめすように、人間として自分自身として自分を動かす何か(それが心なのか魂なのか)があって自分として存在するように、神の霊が私たちの内にいると、神を知る者になる、信じるようになるということです。 人として現れたイエスの中には神の本質、「父の霊」があって、「父がわたしの内におられる」、「わたしが言う言葉は、自分からではなく、わたしの内におられる父が、その業を行っておられる」のであります。だからイエスを動かす神の霊が内にあるイエスを見ることは、「すでに父なる神を見ている」ことなのです。そのことを最初からずっと証するヨハネに福音書、いわばヨハネの神学です。 「(神の)言は肉となった」、「肉となってわたしたちの間に宿られた」、「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」… これらの言葉が私たちを動かし、何かを呼びかけているように感じたら、それは文字の力でしょうか。作者や話者の力でしょうか。想像力の産物でしょうか。文字を通して文字が伝える意味を超え、作者を通して作者の力を超える何か、想像を超え人が信じるように変えさせる何か、それは文字や人を用いて働く神の力、聖霊の働きであると私は信じます。そして願えばますます豊かに与えられると信じます。今日の言葉でイエスは約束しているからです。「わたしの名によって願うことは、かなえてあげる」と。

● 業を見て信じなさい
さらにイエスの約束はもう一つ言われます。「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」 「業」とは何ですか。イエスが世にいる間、人々に示した業です。渇く者に生きた水を与えた業です。病に苦しむ者をいやした業です。飢える者には命のパンを、闇の中にいる者に光を与えた業です。愛する者を失った者に命を、見えない目を見えるような目に回復させた業。そして何よりも大きな業は、神に犠牲としてささげられる従順な羊のように、罪に定められるべき人々のために代わりに血を流す業。羊のために命を捨てて羊を生かす羊飼いの業。人々の救いのために世の命を捨てる十字架の業です。これらの業を見て信じなさい。これらが神のなさる行いで、神の御心であると信じなさい。神はイエスの内にあることを証する言葉です。 それに留まらず、イエスを信じるようになる弟子たちには、さらに約束されました。「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、もっと大きな業を行うようになる」。もちろん弟子たちがイエスを超えるという話ではなく、イエスによって行う大きな業の意味です。イエスのように世の人々に奉仕する業、信じるゆえに命を捨てる業です。そしてこう約束されたその業は本当に弟子たちによって行われ、私たち人間が認知できる歴史の中にも刻まれています。私たちの教会がその業の証でもあります。 「心を騒がせるな。神を信じなさい。わたしを信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。わたしのいるところに、あなたがたもいることになる。」この約束を信じるゆえに行える生き方、この世の歩み方、この世への奉仕。それが信じる者の生きる道、生きる力、「業」です。それによってさらに多くの信仰が生み出される業です。なぜそのような原動力が、死を恐れず生きる勇気が生まれるでしょうか。彼らの中にはいて、彼らを動かし、生かしていたのは神の霊だったからです。信じる者にとってこの世から死んで消えても、それは本当にいなくなることではないからです。次の場所、家があるからです。イエスが用意する家へ場所を移すことだから、信じる者はイエスと永遠に離れる、見なくなる、忘れられるのではなく、イエスのいる場所に共にいるようになることです。いや、いつも一緒に生きているのです。そのことを信じれば、心の騒ぎは消え去ります。悲しみ、困難は喜びに変わります。きっと私たちの姿をも変えさせ、今をも生かす力が主イエスによって与えられます。


生きるために、聴く

2020年5月3日(日))復活節第4主日礼拝 説教要旨
使徒言行録2:42〜47, 一ペトロ 2:19〜25, ヨハネ福音書10:1〜10
● 羊は羊飼いの声を聞く
羊飼いは、羊一匹一匹の名前を呼ぶ。羊は羊飼いの声を聞いてついて行く。自分の羊飼いでない、他の者の声は聞かずついて行かない。 古代から遊牧民族であったイスラエルを背景とするゆえに、聖書の各場面に出てくる羊と羊飼い。私たちがいる文化は遊牧とは程遠いように見えますが、理解するのがそんなに困難ではない姿(関係)です。今日の福音書でも主イエスはとても大切なメッセージを、羊と羊飼いになぞらえて教えておられます。 「羊は羊飼いの声を聞く」。単純な言い伝えですが、考えれば考えるほど、想像すれば想像するほど美しい様子です。命あるものが聞くべきものを聞いてついて行くこと、良いことです。対象は変わりますが、本質は似ていると思われる関係はいくつも見つけられます。子は親の声を聞く、友は友の声を聞く、弟子は先生の声を聞く、先人の声を聞く、国民の声を聞く、愛する者の声を聞く、真理の声を聞く…。 ふさわしいことです。平和なことです。この聞くことによって色んなものが始まります。私たちは生まれた瞬間から、何かを聞くことによって生きます。学びます。成長します。(一応、ここで「聞く」ということ、身体的な聴覚に限らず、広い意味で「示され、影響され、従う」こととして理解されればと思います。) 羊は羊飼いの声を聞くことに戻ります。羊が羊飼いの声を聞くことは、羊飼いの自己満足のためではありません。むしろ羊飼いは献身的に羊に向き合います。そこには愛があります。それによって羊は生きます。これが言わば前提です。聞くべきものから聞く、そこには真実な愛があり、それによって命が生き、生かされる。互いが喜ぶ。命ある姿から見つけられる深い真理、完全な関係、平和です。

● 聞いてはいけない声、聞くべき声
動物の姿からは、生きるために、本能的に聞くべき相手、頼るべき親についていく姿を、私たちは見ることができます。人間にもその本能はあるでしょう。学習されなくても生きるために、自分を守って愛を注いでくれる存在に頼って生きます。 しかし、ある意味本能的にも築くことができるその絆と調和、その平和が壊される場合もあります。聞くべきものでなく、聞いてはいけないものから聞くとき、平和は壊され、奪われます。調和が乱れ、害が及ぼされます。騙され、傷つきます。私たちは人が聞くべきものから聞くという良い例と同じくらい、ついて行ってはいけないものから聞いて、害を受ける例もたくさん見かけます。場合によっては命そのものが奪われます。 そうです。イエスがたとえてくださっている羊の例がまさにそれです。羊はついて行くべき自分の羊飼いでない、他の者について行ったら盗まれ、屠られます。盗人とか強盗のための犠牲になってしまいます。命に直結する分かりやすい場面です。しかし羊は声を聞き分ける。人間に比べれば劣っているように見える羊かも知れませんが、羊には声を聞き分ける能力があります。ついて行ってはいけない者の声は聞かない、ついて行くべき羊の声だけに聞き従う。 人間はどうでしょうか。私たちはどうでしょうか。そして私たちが一番聞き従うべき「声」とは誰の声でしょうか。私たちを真に生かす声はどんな声でしょか。 人によって違います。人によって一番にしている声は違うから、それぞれの行き着く結末も違います。聞き従う声によって生きる姿は変わります。私たち、教会は、主イエスの声を聞くための群れです。神によって生かされるための群れです。そうなるためにはやはり「主イエスの声であるみ言葉」に聞き従うことが始まりです。そうでなく、他の誘惑、他の騙し、偽りの声について行ってしまったら、「迷える羊」になってしまいます。笑い話ではありません。私たちや私たちの大切な人が、犠牲になってしまう可能性があります。尊い犠牲ではなく、悪しき者への犠牲です。偽りの満足、偽りの喜び、偽りの利益がいつも私たちを誘っているこの世界で、私たちがいかに聞くべき声を聞くか、私たちそれぞれの命の行方を決める選択になります。

● イエスは門
聞き分けることに関しては、私たちより厳格で優れた耳をもっている羊。パレスチナでの羊たちの生活はこうです。朝、主人から雇われている羊飼いたちが囲いから羊を連れ出す。牧草地に連れて行かれ羊たちは自然の牧草を食べる。運動する。喉が乾いたら水場に連れて行かれ、渇きをいやす。自由にのんびりされているようで、羊飼いたちが見守る中、もし何かあれば羊飼いの声にすぐ従うことが前提です。そして夕方になれば、主人の囲い連れ戻される。 この生活の中で、直接羊を狙う獣以外に、どこから盗人や強盗が忍び寄るのか。基本的に雇われている(任命されている)羊飼い以外にはついて行かない羊たちですが、羊飼いとそうでない者、つまり羊を守ってくれる者と狙う者の見分け方について主イエスはこのように教えられます。「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかのところを乗り越えてくる者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。」 なるほど。いずれ羊たちは自分が知っている声にしか聞き従わなさそうですが、それを私たち目線から分かりやすく言えば、堂々と門から入るか、門ではないところから入るか、それによって羊飼いか盗人かが分かるということです。しかも主イエスは言われます。「わたしは門である」。多少唐突に聞こえる例えかも知れませんが、つまりこういう意味です。門から入るか、入らないかで羊飼いか盗人かが分かるように、イエスを通してか、そうでないかによって本当の指導者・働き人なのか、そうでない者なのかに分かれるということです。人を神への導く真の指導と教えとは、イエスから出てくるからであります。このヨハネによる福音書が最初から告げているように、イエスは肉となってこの世に現れた「神の言(ことば)」だからです。 イエスを通して(イエスによる)か、そうでないか…。そうではない場合も色々ですが、門を通らないで囲いを出入りする者は結局羊のための者ではなく、自分の不正な利益を求める者であるように、教会の群れにおいても、本当の意味でイエスによらない者は、神のためではなく自分ための者です。羊を世話するように見せかけて、羊を盗んで自分のものにするために忍び込んだ者のように、神のため人々のためと見せかけて本当はただ自分のため、自分のための教え、自分のための奉仕、自分が認められるため善行…。主イエスはこれらの者に対してきっぱり言われます。盗人であり、強盗である。

● 自分ではなく、神と人々のために
「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。」しかし「わたしが来たのは羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」盗人は自分ためだけに働く。それに対して主イエスは命と、命に必要なものを与える。私たちは見分けようとすれば、見分けることができます。すべてが自分のための人、そうではなく人を生かし与える人とを。神を信じる群れに向けられたイエスの教えですが、この本質は私たちの世の中にも通じている気がします。 自分自身のためにしか働かない(すべてが自分のため)、そのような利己心によって神に向かうはずの教会は分裂し、破壊されます。世の中でも、自分のためにしか生きない人、その利己心によって、ある人は騙され、ある人は傷つき、ある人は利用されます。利己心は、羊だけでなく、私たちの命と信仰の敵です。 イエスがこの世におられたとき、神と人々のためではなく自分たちのために生きる指導者たちの悪を暴きました。それによって十字架にかかりましたが、復活されました。それは誰かの利己心によって抑圧されていた人々、利己的な力の縛りの中で生きる私たちを解放するためです。私たちは、羊が聞き分けるように、私たちも聞き分けることができます。他人を見るばかりでなく、自分の生き方も分別することができます。「これは、主イエスによる、神が望むことなのかそうでないか、人々を生かすことなのか、自分のためのことなのか。」 そう聞き分けることは、私たちの命と生きる姿にも直結することです。救いに通じるイエスの門を通ることにも直結することです。そしてこの聞き分けと選択とに誰かが影響されることです。今日の第一の日課に、私たちの教会の誕生の歴史、理想的な教会の姿が記録されています。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。…信者たちは皆一つになって、すべての物を共有し、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」 利己心のないただ神への熱心、皆が皆のために一つになり、すべてが共有され、分かち合われる群れ。こういう群れに奇跡は起きました。こういう教会に救われる人は加わりました。しかも迫害があった時代の中で、民衆から好意を得ました。私たちもこれに倣いたいです。そのための一番の始まり、主イエスに聴くことです。私たちの教会が主イエスにふさわしい姿なのか。今の自分が主イエスの望む姿なのか。そこに愛はあるのか。人を生かす姿があるのか。もしそうであるなら、私たちも主イエスという門を出入りして豊かな牧草をたどり着く羊と羊飼いのように、約束されている者です。主イエスの復活の命に預かる、豊かな命が約束され、守られている者です。 「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(ペトロ一2:25) 主イエスは共におられます。主はご自身の羊、私たちを導いてくださいます。


主が共に歩んでくださる

2020年4月26日(日)復活節第3主日礼拝 説教要旨
使徒言行録2:14a, 36〜41, 一ペトロ 1:17〜23, ルカ福音書24:13〜35
● 二人が歩いていた
「歩く」ということ。人間の特徴の一つです。私は生物学的知識が詳しい訳でもなく、またこの場でそんな話をしようと思っているのでもありませんが、二つの脚で垂直に立って長く歩くこと(直立二足歩行)をするのは、人だけだと聞いたことがあります。ともかく歩くということ、もっとも人らしい動作であるためか、私たちが生きること自体、時間とともに進むそのものを代表したり、例えたりします。つまり「歩く」、「歩む」と言ったときに、それは必ずしも二つの脚で直立して前に進むことを直接言い表すに限られず、人が生きる、時間が進む中に人がいることを表す場合があるということ、わざわざこのように説明しなくてもすでに私たちが知っていることです。「人の歩み=人が生きる」ということ。 今日の福音書の中で二人の人が歩いています。まずは直接移動しているという意味での歩きです。でもこの場合にも、二人の「歩き」は単なる町から町への移動だけを表現したい訳ではありません。エルサレムという町からエマオへ向かって、60スタディオン(約11km)移動しているとか、どうでもいいです。本当にどうでもいいはずはありませんが、それが今日の福音書が伝えたい主なメッセージではないという意味です。主なメッセージは彼らが歩くうちに、かけがえのないことを体験したことです。それは復活の主イエスの体験です。イエスと共に歩んでいたのです。それが事件であり、彼らが生きていること、信じていることのもっとも大きな証となったのです。もちろんのことですが、この一大事件を通して、その後の彼らの生きる姿は、つまり彼らの歩みはすっかり変わったはずです。これが、今日の二人の歩きの中で起きた出来事です。

● 彼らの目は遮られていた
歩いていた二人はイエスの弟子であったと書いてあります。イエスが任命した12弟子に入っている人物ではないようですが、当時イエスに従っていたのはイエスが任命したと言われている12人だけではなかったはずですから、象徴的な12弟子ではなくても、イエスを愛し、イエスに望みをかけて従っていた人という意味で弟子です。 「ちょうどこの日」。彼らが歩いていたこの日とは、イエスの墓を訪れた女性たちが、遺体のない空っぽの墓を目撃して、そこで天使から「イエスは復活なさった」ことを知らされたその日です。この日、今日の二人の弟子はエルサレムからエマオという村へ向かって歩いていました。自分たちが従っていた主が死んだ場所から離れていく動線です。彼らはこの一切の出来事について話し合っていたと書かれていますが、それは悲しみと絶望の振り返りだったと思います。なぜなら彼らの顔は暗かったと書いてあるから。彼らは物理的には自分たちの悲しみと絶望の場から離れようとしつつも、本当は離れきれず、歩く道の上でそれを思い起こしているのです。 歩くということ、人に色んなものを思い起こさせ、過去を振り返らせます。この時点の彼らにとって、思い起こすこと、振り返るのは主の死です。いつの間にか主イエスが共に歩いていましたが、彼らは分からなかった。一緒に歩いていたイエスから「何の話をしているか」と聞かれても、彼らは何でそのことを知らないのかという反応で答えます。 一応、彼らの説明の中には自分たちが愛して、それまで従ったイエスの姿があります。「この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。」イエスの数々の癒しの業、自分たちを変えさせ、信じさせた力ある行いと教えとを覚えているようです。それでも彼らの顔は暗いです。なぜなら彼らの中でイエスは死んだからです。彼らが変わっている(変なの)ではなく、人にとっての死がそうです。どんなに素晴らしくても、どんなに愛しても、命が死ぬこと、終わりがあることだけは認めざるを得ない、乗り越えられない事実です。 彼らは一応聞いていたようでした。彼らの話の中で、「婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻ってきました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」と言っています。復活の知らせを告げられた女性たちの言葉を復唱していますが、この時点でそれを信じてはいないようです。むしろ女性たちは何でそんなことを言うのか、遺体は一体どうなったのか、そう思っている様子であります。つまり彼らの中でイエスが死んだ事実は覆されないままのことです。 これが死の力です。死の縛りです。人は死ぬ、愛する者も大切な命も死ぬ、死んだ。そのことだけを見させるのです。今日のルカによる福音書は、今日の個所の始まりで、とても大切なことを短い文言で表現しています。「二人の目は遮られていて、イエスだと分からなかった。」死ぬ、死んだことしか見させない目、それしか思わせない目、それが「遮られた目」です。一応、私たちの世界、自然界を見る目もこのような目です。私たちがよく「事実」、「客観」と呼ぶのも、この目線からの視点だと思います。

● 遮られている目を開けるのは
私たちも当然、自然界の目をもって生きる者。世の人々が死んでいくことを見、中には自分にとってかけがえのない人の死を体験する者。命が生まれ、死んでいくことを学ぶ者。私たちの今の目も遮られていると言えます。きっとそうです。ただ福音書と信仰の先人たちが、遮られている網膜の向こう側にある復活を提示しています。証しています。自然界の目で生きる私たちとして、復活を見ることを体験していない人として、それは読むから、聞かされるから簡単に信じていくとは限らないことです。きっと、読んでも聞いても、自然界の目のままでは見られない領域です。 ある意味で励ましとなるのは、イエスの復活を体験した当初の人々の反応です。イエスの弟子たちは、聖書の記録を読む限り、「イエスは異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけれれる。彼らはイエスを鞭打ってから殺す。そして三日目に復活する」と何度言われてきても、イエスが死んでそれを望んでいるような人は一人もいませんでした。むしろ「墓に遺体がない」、「イエスは復活した」と聞かされてもそれを最初から素直に信じる人は一人もいませんでした。彼らは私たちと別世界に生きていたのではなく、私たちと同じ目線を持っていた人だったようです。その彼らがある時点から変わったのです!それは復活のイエスを見てからであり、ルカの表現によれば、遮られている目が開いてからです。 どうやって見ることができたのか、どうやって信じたのか、それは私たちの目線では説明しようがないことかも知れない。ただ復活された方ご自身が、彼らに見せ、彼らの遮られている目を開けてくださってからです。親が子どもを愛しているとただ説明するだけで子どもが愛を理解するのではなく、何かを受け、体験してからその愛を理解し、信じるように、彼らは主の復活を体験して信じたのです。以前、主イエスが盲人をいやしたように(18章35節以下)。でもただそれを目撃するのではなく、自分たちが身 をもって、以前は見えなかった復活の命を見たのです。盲人がイエスによって見えるようになったのは、単なる身体的な奇跡ではなく、後に弟子たちが復活を見るようになる、信じるようになることの先取りなのです。

● 道
自分たちと歩いていたのがイエスだとは気づかなかった二人が目指していた村に近づきました。しかしイエスはなおも先へ行こうとされました。古くから旅人をもてなす民族性の彼らはイエスを泊めようとします。もてなそうとします。そうやってイエスは家に入ります。しかし招かれた側であるにも関わらず、イエスは家に入ると、「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かった。」 これが二人の弟子の目が開いた体験であり、信じた次第。本当の意味でもてなしたのは、イエスであります。イエスが裂いて食べさせるものによって、イエスの人は生きるのです。生きるための目を開くのです。私たちが礼拝の中で行う聖餐式の由来であり、本質です。説明しようがないですが、信じる人は主をもてなすより、主によってもてなしを受け、生きるための糧を分け渡され、死を見つめる目を生きることを見つめる目に変えさせられる者です。そして感じるのです。今日の二人のように。「道で話しておられるとき、聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」 信じる人の歩む道。振り返れば悲しみと絶望に見えて、そこに主イエスが共にいたことを感じる道。確かに燃える心を体験する道。そして二人がエルサレムに戻ると他の弟子たちも、本当に主が復活して現れたことを見ていた。同じく信じる仲間に出会う道。それが私たちのこの世の道です。歩いているように見えて、時間が過ぎていくように見えて、愛する人々が去って見えなくなるように見えて、その向こう側にある命の復活を信じ、心を温める道です。 「主よ、見えるようになりたいです。」「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」かつての見えなかった人のように、私たちも主に願いましょう。そして私たちの道を歩きましょう。


あなたがたに平和があるように

2020年4月19日(日)復活節第2主日礼拝 説教要旨
使徒言行録2:14a,22〜23, 一ペトロ1:3〜9, ヨハネによる福音書20:19〜31
私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安とが、私たちの教会に繋がる一人ひとりの上に、一人ひとりがいるそれぞれの場所に、豊かに与えられますように。アーメン。

● 週の初めの日のもう一つの出来事、「再び」そして「本当に」
先週の復活祭礼拝に続き主イエスの復活を祝う今日の礼拝。この礼拝のために与えられた福音書の記録は、今年の私たちの教会の暦以前に、この世界における主の教会の始まりのきっかけとなる出来事です。週の初めの日、墓に行って、主の復活の知らせ、そして復活された主イエスに出会った女性が「わたしは主を見ました」と弟子たちに伝えた同じ日の夕方の出来事です。 自分たちの師であり、主であるイエスを失った悲しみと絶望で、そして恐れで、ある家に留まっていた 弟子たちのところに復活のイエスは現れました。その家の戸は閉まっていて、鍵がかけられていましたが、イエスは彼らの真ん中に入りました。そして言われました。「あなたがたに平和があるように」。 ヨハネが記録しているこの出来事は、弟子たちが主イエスの復活を信じる出来事であり、もちろんそれ以前から主イエスに繋がり、関わっていたけれど、この世における苦しみと諸々の出来事で主を見失っていた彼らが再び立ち上がり、再び主と結ばれる出来事であります。そして本当の意味で、主イエスを信じるようになった出来事であります。 「再び」そして「本当に」。その前まで彼らがイエスを信じて、従っていたことは本当ではなかったのか、本気ではなかったのかと言うなら、単純に本当じゃなかった、本気ではなかったとは言い切れないでしょう。彼らは自分たちの人生をかけて主に従ったはずです。その彼らは主イエスの死を体験しました。自然死のような、月日が満ち、時が来て死んだ訳ではありません。病気や事故のような、残念だけどやむを得ない事情で死んだ訳でもありません。自分たちの師であり主である方を、妬み、憎んでいた人たちの手によって、侮辱され、惨めな姿で、人たちの目にさらされて残酷に殺されたのです。この上ない悲しみと絶望です。彼ら、弟子たちの信仰と献身は崩れたはずです。すべてが一段落したように、完全に、一切崩れ去ったのかどうか、私たちは当事者ではないので彼らの絶望がどれくらいなのかを測れませんが、おそらく彼らの望みは完全に消えたはずです。 「消えた」、「終わった」と思ったところで(思ったというより体験したところで)、実はそうではなかったから、彼らの信仰の火は「再び」灯されたのです。そしてこの後はもう消えることなく、彼らが自分たちの師のように世の迫害によって死に直面しても、崩れることがないものとなったので、「本当に」信じたと言うのです。 事柄の本質は異なりますが、今日の福音書の出来事の背景と似ている私たちの姿があります。それは、今それぞれ家の中にいる私たち、外に出られずにいる私たちです。日曜日でも教会に集わないのは相当な異例です。イエスの弟子たちのように私たちは誰かからの迫害を恐れて家にいるのではありませんが、しかし、外に出られず閉じこもっていた弟子たちに主イエスご自身が現れて、再び出会ってくださったように、信じさせてくださったように、それぞれの家にいる一人ひとりにも主イエス・キリストからの恵みと平安が届くことを祈り願います。主イエスは鍵がかけられている家の真ん中に入り、家の中にいる 人々に言われます。「あなたがたに平和があるように」。

● 戸を超えて
主イエスと再開するまで、弟子たちは恐れていました。何を恐れていたのか。福音書が告げる文面どおり、自分たちの師であり主である方を殺したユダヤ人たちを恐れていました。自分たちもイエスの仲間であると非難され、非難されるどころか、主と同じ目に合うのではないか、まずそれを恐れていたと考えられます。そして人間の心というのは、短編的な一言だけにすべてがまとめ切れないように、それだけがすべてではないように、彼らはイエスの死をめぐる様々な心境に囚われていたはずです。自分たちは何をしたのか。自分たちは誰なのか。人生をかけて従ってきた主が敵につかまって、殺され、人たちの目にさらされる中で、主を裏切る者がいた。そこから逃げる者がいた。何もできず、何もできないどころか、主を見捨ててしまった自分たちがいた。人が経験する多くの傷がそうであるように、その深い傷は害を与える相手だけが原因のすべてではなく、自分自身に帰結します。自分は一体何をしたのか…。 外への通路を断ち、家に閉じこもる姿は、傷を負う人、生きる望みと気力を失った人の姿そのものです。人の行動は言葉以上に多くのものを表す場合があります。家に閉じこもって、戸に鍵をかけている、それはまず誰かの侵入を防ぐ、自分への接近を遮断する、自分を守る。ここでの弟子たちの行動と姿は、当時の彼らの心境をいろいろ物語っています。 しかし主イエスはそこに入られます。イエスはマジシャンなのかを伝える話ではありません。イエスは幽霊なのかでもありません。他の聖書の奇跡物語もそうであるように、ただ不思議なこと、有り得ないことが起こるそのものを伝える話ではありません。人の魂、命に対する話です。それが回復する物語です。イエスは来られます。物理的には来るはずがないところに来られます。色んな現実を超えて入ります。人の魂と心の深くまで、人がどれほど傷つけられ、自分で自分を閉め、諦めても、そこに入って来られます。そして癒します。「あなたに平和があるように」。弟子たちは、かつて主イエスと共にいた頃、イエスが多くの人々を癒していたその奇跡を、今や自分たちが体験します。イエスが数々の人々に「あなたの罪は赦された」、その赦しを今、自分たちが受けています。人としてできるはずがないと思うところでその出会いと癒しが起きます。イエスは神だからです。イエスは彼らを愛しておられるからです。神である主イエスが彼らを愛することに、赦すことに、出会って喜ぶことに、自然界の限界、人の隔て、憎しみ憎まれる現実は妨げになりません。 主イエスはどこにもおられます。扉の外にも中にも、私たちの心の外にもそして中にも。私たちが触れて見ているすべて、私たちの命と魂も、本来神による創造の賜物だからです。

● 信じる人になりなさい。
もちろん(と言うか)、目に見えるものを見、手で触れるものを探りながら生きる私たちからすれば、信じ難い事柄です。信じたくても単純には信じ切れない私たちがいるはずです。それは今の私たちだけでもなかったみたいです。弟子の一人、トマスが異論を立てました。他の弟子たちが「わたしは主を見た」と言うと、彼は「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言いました。人が神を信じる一番の難関は、物理的な扉でも、厳しい現実でもなく、その人自身かもしれません。信仰とは、信じる人が信じられない人にただ教えて生じるものでもないようです。「わたしは主を見た」。他の人々が言っているその言葉、トマスに は自分の体験ではなかったから、彼は信じないと言っています。 もちろんトマスも主イエスの愛する一人です。先に見たのか後に見たのか、すぐ信じたのかすぐではなかったのか、それが重要ではありません。まさか信仰を人間的な目で後か先か、大きいか小さいか比較すること、無益です。神を信じる誰もが、自分の力で信仰をつくり出す訳ではないからです。自分でつくり出した神を信じることではなく、私たち以前に存在する神とその働きとに出会い、それを感じて信じるからです。 一見、疑い深く見えるトマスは、自分も本当に信じるようになることを望んでいるとも言えます。人々が言うだけでなく、自分も自分の命と感覚をもって体験したい、どちらかと言えば人間的に真面目な人かもしれません。信じている人々の中にも、どこかに、このトマスのような思いはあるものと、私は思います。そしてイエスはトマスの求めに答えられます。裏を返せば、トマスは信じないのではなく、自分で確かめたかった、信じたかったからです。神は求める者に与えられるからです。 八日後にトマスも主イエスを見ます。復活して、生きておられる主イエスの手、主イエスの体、そのみ傷。それに自分で触れて彼は信じたでしょう。あの時死んだイエス、しかし今は自分の前におられるイエス。かつて自分が従ったイエス、愛したイエス、しかし一時見失ったイエス。人々が傷つけたイエス、それを知っていて、そこから逃げ去った自分。しかし再び自分の前にいるイエス。自分を赦し、自分の求めに答えられているイエス。表現しきれない感情と思いの揺れが含まれているはずです。イエスを見て感じたトマスの一言、「わたしの主、わたしの神よ!」。 イエスが体をもって受けた傷は、トマス自身のためのものです。彼を赦すためのものであり、信じさせるためのものです。それは、信じる私たち、信じたい私たちにも同じです。イエスの十字架とそのみ傷は、死んでも消えない、神による命と復活を信じるためのしるしです。罪と弱さを疑いをも赦す神の赦しのしるし、それを超えて再び結ばれる神との絆のしるしです。

この証を伝えているヨハネが書き記しています。「これらのことを書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」 私たちを信じさせるためのこの書物の最初の章に書かれていた言葉を振り返ります。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」私たちはイエスを通して、そしてその言葉によって神を見、その御心を知るのです。 「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」見えないから、触れないから、その存在とその愛がない訳ではありません。むしろ見えない中でも感じられるものはもっと豊かな信仰、もっと大きな愛、もっと強い絆です。私たちは主イエスのみ言葉によって、主イエスを見て感じます。生きて働く言葉として復活の主の働きを受け入れます。その言葉が今日も私たちに息吹を与え、神の御心と愛を伝えています。「あなたがたに平和があるように。」 この信仰の体験と出来事から始まった私たちの教会、それに連なる一人ひとりの上に、復活の主イエスの息吹、聖霊が臨み、伝えています。あなたに、あなたの家族に、愛する大切な人々に、困難と孤独、苦しみと戦う人々に、主が愛される一人ひとりに、平和があるように。あなたの魂が平和であること, それが神の望みです。


墓にいたのは天使

2020年4月12日(日)復活祭主日礼拝 説教要旨
使徒言行録10:34〜43, コロサイの信徒への手紙3:1〜4, マタイによる福音書28:1〜10
● 復活は始まり
復活祭の朝です。私たちの教会は、言うまでもなく、主イエスの復活の上に建てられている教会です。イエス以前の神殿は打ち倒され、三日目に復活された主イエスを体とする私たちの教会です。室園教会の今年の主題聖句も繰り返し、このことを私たちに思い起こさせてくれます。「あなたがたはキリストの体、また一人一人はその部分」。私たちの教会は、目に見えるこの建物ではなく、主イエスです。そして私たち一人一人がキリストの体の一部です。もちろんこの建物に意味がないことではありません。この建物は、教会なるイエス・キリストのために用いられる、清められた道具・家です。 生きている命は、まさに生きているゆえに動き、働き、成長し、ますます命の力を発揮します。植物が種を生み出し、その命を増やすように、木が新しい枝を張って、命ある動きを拡大し、成長するように、生きておられるキリスト=教会も、その動きを示します。あらゆる形でその動きは、見ようとすれば見えるものであり、キリストの体の一部である人々を通して世に示され、歴史の足跡となります。 1946年11月24日、熊本教会員10名が日曜日の午後、九州女学院で礼拝を始めました。1947年2月14日、熊本市清水町室園地区に新しいルーテル教会の設立願が提出されました。同年4月6日に、最初のイースター礼拝がささげられ、4月20日には教会設立総会が開催されました。私たち室園教会の始まりの歴史、記念誌に記録されている足跡です。 私たちは生きて働くイエスの動きと展開とを、この歴史からも確認できます。そして今に至ります。世を脅かすウィルスの影響によって、その動きは少し、一時期制限されるように見えるかもしれませんが、変わらず生きている命です。まるで寒さで動きが止まったように見える植物は、死んだのではなくしばらくその動きをこらえ、新しい成長を準備するように。そして新しい季節にまたその命の動きを再開するように。私たちの教会もいずれ新しい時を迎えるでしょう。大切なのは生きている命を見つめることです。私たちの教会の命そのものであるイエス・キリストを見つめることです。そして準備することです。 今日は復活祭。私たちの教会の命の始まりを見つめる日であり、室園教会の歴史においても誕生のきっかけとなったイースター礼拝の日です。主イエスが生きておられること、私たちの教会が生きて働くことを見つめたいと思います。

● 墓をめぐって
「安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。」悲しみと絶望の時が過ぎました。そして安息日がありました。安息日に人々は働きません。その翌日、週の初めの日となって、再びイエスの墓にいるのは、イエスが葬られる時、墓の入り口が閉じられる時、それを見つめていた同じ二人の女性です。 厳密には、イエスの墓にいたのは二人だけではありませんでした。墓を監視する兵士たちがいました。その兵士たちはイエスの遺体が盗まれないように、イエスの敵対者たちがおいた兵士です。祭司長たちやファリサイ派の人々と代表されるイエスの敵対者たち、彼らは自分たちの企みでイエスを殺した後も、 イエスとの戦いを続けていました。あいにくも、自分たちが民衆に厳しく制限をかける安息日に、彼らはピラトのところに行きました。そしてピラトに伝えます。「かつてのイエスは三日後に復活すると言っていた」。「遺体がなくなると、民衆は本当にイエスが復活したと信じるかもしれない」。「だから兵士をおいて墓を守らせてください。」 安息日には何もせず、聖なる日として守れと人々には言いながら、イエスが安息日に何かをすれば(それが良い業であっても)厳しく指摘しながら、自分たちは抜け目なく働く安息日でした。安息することも、神を聖とすることもない、ただ自分たちのための安息日です。 このようにイエスの死、その証拠が置かれている場所を見つめる視点も色々です。自分たちの敵たち(イエスの弟子たち)が動くのではないかという疑いの目。人に命令されて仕事としてそこを守る目。早くもイエスの死を忘れ始めている人々の目。そしてイエスの死を悲しむ目、つまりそれはイエスを愛する目。 この世で、人が人の死と墓を見る目はせいぜいこれくらいと言えます。自分と関係があり、愛情がある人ならば悲しみ、感謝し、追悼する。自分と関係がないならば無関心。人は死ぬ者であることを繰り返し確認し、場合によっては憐れみ、場合によっては無関心、そしてたまに自分もいつかは死ぬ、いつかは自分の愛する人ともの別れることを思うかもしれません。しかし、イエスの墓を監視する人々の目、それは憎い相手が死んでも安心できない目、世の中でも稀な例です。恐れの裏返しかもしれません。 ともかく、神様はこの日、人の死とその証拠である墓に対して、新しい視点を与えられました。その新しい視点は、イエスを愛する人々にとってはもちろん驚きの喜びと希望ですが、イエスを憎む人々にとっては変わらぬ疑いと不信仰、憎しみもとです。愛する目には新しいものが見え、憎む目には引き続き敵しか見えません。愛は新たな愛を生み、憎しみは憎しみを、疑いは疑いを生み出します。人の死をめぐってもそうです。

● 神は見せて、聞かせてくださる
イエスを愛する人が見に行った墓。そこで彼女たちが見たのは、愛するイエス遺体ではありませんでした。あるべき遺体、それを見ることができなかったのは、墓が閉じられていたからではなく、誰かが遺体を盗んだからでもありません。兵士たちはまだそこにいたのです。 彼女たちがそこで見たのは天使です。死んだ人ではなく、神が遣わした存在と神が起こした光景です。この記録を私たちは非現実的な描写、作られた記録として見るのではなく、信仰によって見るのです。絶望でも、疑いでもなく、マジックや映画を見るようでもなく、愛によって見るのです。神はご自身を愛する人に新しいものを見させ、聞かせ、信じさせてくださいます。彼女たちは愛するイエスの墓で、死を超える信仰、人間の限界を超える希望を見て聞いたのです。それは神が遣わした天使と、その天使からの御言葉。神からの啓示の言葉であり、イエスの言葉。 実は、神が人となり、この世に来られる前にも天使は現れ、聞かせたのでありました。「聖霊が宿り、男の子が産まれる。彼は自分の民を罪から救う」。今やイエスが人として死んだ後も天使は遣わされます。そして告げます。人になる前も、人として死んだ後も、イエスは神のものだからです。神と共にいる存在だからです。ただ世の人のために世に現れたのでした。その姿を見、愛する人は愛し、憎む人は憎みました。イエスは、ご自分を遣わされたのは神である、ご自身が行うのは神のみ心であると証し続けました。初めから死ぬ時までそうでした。それを聞いて信じる人は信じ、疑う人は疑いました。むしろある人々は 憎みました。
イエスの墓にいた二人の女性はどうだったでしょう。イエスによって癒された人です。神が共にいるイエスを実感し、信じた人です。こよなく愛した人です。その二人に神は見せて、聞かせてくださいます。あなたが愛するイエス、神が遣わしたイエスは、ここ、死者の中にいない。イエスご自身がかねて言われていたとおり、復活した。神と共におられる。生きておられる。それを信じなさい。そして知らせなさい。 告げられた二人は驚きます。しかし喜びます。走ります。数日前、墓が閉じられる時、墓の方を向いて座っていた二人は、新しいことを知らせられた今や墓に背を向け、動かされるのです。これが復活を知る人の動きです。そしてこの知らせを確証づけるかのように、彼女たちを励ますかのように、もっと喜ばせるかのようにイエスご自身が彼女たちの前に現れました。イエスを信じて愛する人に、イエスはさらにご自身を現わしてくださいます。 「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」かつて彼らがイエスに出会ったガリラヤ。そしてこれからイエスと再開するガリラヤ。そこに行きなさい。そこで私が命じることを行いなさい。再び始めなさい。再び信じ、再び愛しなさい。わたしはいつもあなたと共にいる。 私たちの教会はこの声から始まった働きの賜物。幻覚なら、錯覚なら、惑わしなら、命がないものなら止まったはず働き、この世の歴史の数えで2000年ほど続いています。主イエスは愛する者に、命の姿を、御言葉の声を与えてくださいます。それは命与えられ、命救われる者への愛と使命。それを聞き取る私たちの教会となりますように。


裂け、開き、始まる

2020年4月5日(日)受難主日礼拝 説教要旨
イザヤ書50:4〜9a、フィリピ2:5〜11、マタイ福音書27:11〜54
● 「十字架につけろ」
今年の四旬節(受難節)の最後の週。今日の福音書の日課は主イエスが死刑の判決を受け、人々から罵られ、十字架に付けられる場面です。 裁判とは言えない裁判。しかもユダヤ人たちには、自分たちで死刑に処するような決まりなどなく、十字架刑はローマ帝国のやり方。自分たちを支配していて本音では忌み嫌う帝国のやり方で、(人間的には)自分たちの同胞を殺そうとする人々。 私たちの教会の信仰において非常に重要な場面を記す、イエスの十字架の死の場面には人々の邪悪さが見えてきます。一体、なんで。民族性として忌み嫌うはずの異邦人の手を借りて彼を殺そうとするのか。その次第は福音書全般をかけて、律法学者、祭司長、ファリサイ派の人々など、イエスと敵対していた様子が記録されています。今日の本文に書いてあった記録が、なぜそれまでしてイエスを殺そうとするのかを一言でまとめています。「人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。」(18節) 本当はねたみのために、イエスを殺そうとすることが、ユダヤ人からすれば異邦人である、ローマから派遣された総督にも分かるものでした。ねたみはすべての悪の始まりだと言われます。ねたみは火のように燃えあがるもの、ある哲学者が言います。今日の福音書でイエスを憎む人々は、ねたみの本性と素顔を生々しく見せています。「十字架につけろ」。(イエスではなく)「バラバを!」 イエスがどんな人物なのか、どんなことをしてきたのか、どんな主張をしたのか、正しく見る目はありません。ただ自分たちの敵である、それがすべてです。自分たちの権威、伝統、利権にそぐわない。ただそれです。ねたむ理由、憎む理由、それです。聖書の記録だけでなく、いろんな場面での、人が人を憎む理由もたぶんこれです。 人となられたイエスは、人となられた故にこの世のねたみ、憎しみ、悪を人から受けたのです。そして人によって人としての生を閉じます。もちろんそれが終わりではなかった、そのことを証しするのが福音であり、私たち教会の信仰です。 主イエスは激しい人々の憎しみに対面し、それを受けました。「ユダヤ人の王」という罪名書きの下、ひどく罵られ、嘲りを受けました。馬鹿にするどころか、王冠の代わりに茨の冠を載せられ、葦の棒を持たせられ、「ユダヤ人の王、万歳」と侮辱されました。人の権力・権威に縛られる者どもは、自分より弱者、自分より小さい者に対しては残酷なほど無慈悲です。その邪悪さを一番強く受けてしまう場面に行かれました。へりくだるどころか、人間なら誰もがこういう事態だけは避けたい、その姿になられました。「神の子なら、自分で救ってみろ。十字架から降りて来い。」かつての荒れ野での悪魔のように、人々はイエスを試し、呪います。 なぜイエスはこの道を進まれたのか。なぜ…。難しい問いです。キリスト者っぽい答えを出すなら、クリスチャンとしての模範解答を言うなら、言えないものでもないです。誰かが言った言葉、教えられる答え、それで答えられるのはそんなに困難でもないかもしれません。しかし自分で向き合うこと、なぜイエスは十字架、なぜ十字架が救いのシンボル、本当の意味を自分で知ること。それが本当に信じて、本当に 救われる者が知るべきことと私は思います。私も、皆さんも、そして多くの人々がこの問いに向き合って欲しいと願います。

● 神の僕の姿とイエス
私たちの教会の信仰において、旧約聖書の意義の一つは、それが救いの完成を預言していることです。待望していることです。それゆえに旧約聖書の中からメシア、救い主イエスの姿を私たちは見つけることができます(もちろん存在としてイエスはそこに登場していませんが)。探そうとすれば、イエスを預言していると受け止められる部分たくさんあります。 今日の旧約の日課からも、私はイエスの姿を見ます。人としての現れとしてはイエスよりかなり前であることは事実ですが、今日の日課にもイエスは預言されています。まさに私たちが用いている聖書が「主の僕の忍耐」と小見出しをつけています。 「主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。打とうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。」 今日の旧約の日課イザヤ書の言葉です。まさにイエスの姿です。敵たちの手に渡される夜、ゲッセマネでイエスはこう祈られました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」父の御心どおり、それを聞き、それに逆らわず、退かず、苦難の杯を受けたイエス。その姿は(ここばかりではないが)旧約の預言書にすでに預言されていました。なぜ、イエスは苦難と嘲りの道に進まれたのか。その答えの一つはこれです。それがイエスを遣わした父(神)の御心だったからです。 イザヤ書が伝える大事な内容は続きます。顔を隠さずに嘲りと唾を受ける…「主なる神が助けてくださるから。わたしはそれを嘲りとは思わない。」、「見よ、主なる神が助けてくださる。誰がわたしを罪に定めよ。」 苦難の中で、世の嘲りの中で、神に従う僕は苦難を見るのではなく、嘲りを見るのではなく、それらを与える人々を見るのでもなく、神を見るのです。 「十字架につけろ」。訴え続ける人々に対してイエスは沈黙を貫きました。尋問に対しても弁明のようなことはしていません。打とうとする者に頬をまかせるように。ご自身の教えのごとく「だれかが右の頬を打つなら、左の頬をも向ける」ように。 これが自分を打つ人、十字架につけるように訴える人を見ていて、彼らと争っていて十字架の死の結末なら、これよりひどい敗北はないです。しかしイエスが見ていたのは彼らに負けないとか勝つことではありません。ただ神を見ています。息を引き取る最後の瞬間までそうです。 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」一見、絶望を露わにしているかのように聞こえる言葉。十字架の傍にいた人々は預言者エリヤを呼んでいるように聞こえたこの言葉。これは詩編22編の讃美の言葉だともよく言われます(確かに文言と内容はぴったり一致します)。出だしは絶望的ですが、最後は神への感謝と信頼の歌。ともかくイエスが見ていたのは神、イエスを世に遣わし、十字架の道に送られた神です。

● 神がしめした始まり
イエスの父、神が、神の子イエスが息を引き取って示されたもの。地震、避ける岩…ねたみ憎む人々に は分からないけど、神の被造物は叫ぶかのように揺れ動いていたとマタイは記します。それはイエスの死を悲しむこととしての叫びなのか。決してそうではない。悲しみだけではないのです。神殿の垂れ幕が真っ二つに裂け、墓が開いたこと。これが悲しみや怒りとは考えられません。これは変化であり、始まりです。一時的な現象ではなく、イエスの死を起点に新しいことが起こったこと、始まったこと、そして待望されていたものが完成されたことを告げるしるしです。 ユダヤ人の神殿の垂れ幕、これは至聖所という神殿の奥にかかっていたもの。祭司しか入れない、祭司でも年に1度くらいしか入らない聖なる場所。そこにある垂れ幕が裂け、開いたこと。イエスが言われていたように、そしてその言葉を聞いて人々が嘲笑っていたように、本当に神殿は打ち倒されたのです。悪人が築き、悪人が聖なるものとしていた神殿は裂け崩れ、三日後に新しい神殿が立つ。それは言うまでもなくイエスの復活。 神は助けてくださいました。助けてくださるどころか、イエスを通して遮られていた幕のような隔てが裂け、墓が開き、死からの解放が示されたのです。この始まりによって私たちの信仰は立ちます。神と遮られず、防がれず、邪魔されず直接繋がります。死んで復活する命が始まります。私たちの教会もこの始まりの上に立っているのです。 「本当に、この人は神だった」イエスの十字架を見ていた人がなぜこう言ったのか。おそらく地震という現象を見て恐れたからのようですが、私たちも言いたいと願います。できれば現象や恐れではなく、御言葉と導きとによって信じるゆえに、「本当にイエスは神だった」と証できる私たちの教会となりますように。今までもそう受け継がれてきたように、これからもそう信じて礼拝する私たちとなりますように。神様がそうさせてくださるように祈ります。


  

説教(2020年3月までは西川晶子牧師)

説教(2020年1月〜3月)

もう終わった、と思った先に

2020年3月29日(日)四旬節第五主日礼拝説教要旨
エゼキエル書37:1〜14、ローマ8:6〜11、ヨハネ福音書11:1〜45
主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。 主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。 そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」 そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。 これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。 わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」 わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。 わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。 主はわたしに言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」 わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。 主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。 それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。 わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。 また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」と主は言われる。

肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。 なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。 肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。 神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。 キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。

ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。 このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。 イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。 ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。 それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」 弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」 イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。 しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」 こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」 弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。 イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。 そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。 わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」 すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」 マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。 マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。 イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。 家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、 言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。 イエスは涙を流された。 ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。 しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。 イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。


今日の福音書の中で、愛する兄弟ラザロを失ったマルタはイエス様にこう言いました。「主よ、あなたがここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」神さま、あなたがここにいてくださったら。あなたが今ここで奇跡を行って下さったら。おそらくいま、悲痛な思いでそううめいておられる方々がおられるだろうと思える今の世界の現実です。

ラザロが病気であることを聞かれてから、イエス様はさらに二日間、同じところに滞在されます。もしかするとイエスが急いでくだされば、そもそもラザロは死なずに済んだかもしれない。これはこの世で起こる出来事において、しばしば経験することかもしれません。神さまが何もしてくださらない、沈黙しておられるように感じられる状況がある。

「主よ、葬ってから四日もたっていますから、もうにおいます」。イエス様が墓の前に立ったとき、マルタはこう言いました。死んだラザロに対して、マルタとマリアはもうなすべきことをすべて終え、埋葬が終わってしまっていました。ラザロはもう向こう側に行ってしまって、わたしたちはもう自分達にできることはすべて行ってしまって、もうこちらからの手は届かない。もうすべてが終わってしまったと、その場にいるすべての人がそう思っていた。

しかしそれを越えて届いた恵みがあるのです。もう完全にすべてが終わった、だれもがそう思った所から、ラザロは立ち上がった。聖書はイエス様がこのラザロとマルタとマリアを愛しておられた、そのことを強調します。そしてこの愛は、死によって終わるものではない。そのことをイエス様は、墓の中からラザロを起き上がらせる、という形で示されたのです。いま、わたしたちのこの世界も、嘆きにあふれています。病む大切な人に寄り添うこともできず、手が届かずにいるもどかしさもある。けれどもわたしたちは、もうすべてが終わった、と思える状況で、それを越えて届く恵みがあるということを、希望として持ち続けたいのです。


あなたこそ、世の光

2020年3月22日(日)四旬節第四主日礼拝説教要旨
サムエル記下16:1〜13、エフェソ5:8〜14、ヨハネ福音書9:1〜41
ダビデが山頂を少し下ったときに、メフィボシェトの従者ツィバが、ダビデを迎えた。彼は二頭の鞍を置いたろばに、二百個のパン、百房の干しぶどう、百個の夏の果物、ぶどう酒一袋を積んでいた。 王が、「お前はこれらのものをどうするのか」と尋ねると、ツィバは、「ろばは王様の御家族の乗用に、パンと夏の果物は従者の食用に、ぶどう酒は荒れ野で疲れた者の飲料に持参いたしました」と答えた。 王がツィバに、「お前の主人の息子はどこにいるのか」と尋ねると、ツィバは王に、「エルサレムにとどまっています。『イスラエルの家は今日、父の王座をわたしに返す』と申していました」と答えた。 王はツィバに、「それなら、メフィボシェトに属する物はすべてお前のものにしてよろしい」と言った。ツィバは、「お礼申し上げます。主君である王様の御厚意にあずかることができますように」と言った。 ダビデ王がバフリムにさしかかると、そこからサウル家の一族の出で、ゲラの子、名をシムイという男が呪いながら出て来て、 兵士、勇士が王の左右をすべて固めているにもかかわらず、ダビデ自身とダビデ王の家臣たち皆に石を投げつけた。 シムイは呪ってこう言った。「出て行け、出て行け。流血の罪を犯した男、ならず者。 サウル家のすべての血を流して王位を奪ったお前に、主は報復なさる。主がお前の息子アブサロムに王位を渡されたのだ。お前は災難を受けている。お前が流血の罪を犯した男だからだ。」 ツェルヤの子アビシャイが王に言った。「なぜあの死んだ犬に主君、王を呪わせておかれるのですか。行かせてください。首を切り落としてやります。」 王は言った。「ツェルヤの息子たちよ、ほうっておいてくれ。主がダビデを呪えとお命じになったのであの男は呪っているのだろうから、『どうしてそんなことをするのか』と誰が言えよう。」 ダビデは更にアビシャイと家臣の全員に言った。「わたしの身から出た子がわたしの命をねらっている。ましてこれはベニヤミン人だ。勝手にさせておけ。主の御命令で呪っているのだ。 主がわたしの苦しみを御覧になり、今日の彼の呪いに代えて幸いを返してくださるかもしれない。」 ダビデと一行は道を進んだ。シムイはダビデと平行して山腹を進み、呪っては石を投げ、塵を浴びせかけた。

あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。 ――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。―― 何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。 実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。 彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。 しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。 明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」

さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。 わたしは、世にいる間、世の光である。」 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。 近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。 「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。 そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」 人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。 イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。 そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」 ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。 そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。 それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、 尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」 両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。 しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」 両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。 両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」 すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」 彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」 そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。 我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」 彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。 神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。 生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」 彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。 イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。 彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」 イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」 彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、 イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」 イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。 イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

この四旬節第四主日は、伝統的に「レターレ(歓喜の主日)」と呼ばれます。四旬節のちょうど半分を過ぎた頃、まだまだ寒さは襲ってくるけれども、その中で近づいて来る春、ご復活の兆しを感じ取り、待ちのぞむときです。そして今日このとき、聖書は、生まれつき目が見えなかったけれども、イエス様と出会って新しい光を見た、ひとりの人のできごとが記されています。

この人は初め、目が見えない状態で道の端に座り、おそらく物乞いをしています。イエス様の時代、目が見えないことは神様への背きによるものだ、とみなされていました。イエス様に一番近かったはずの弟子たちでさえ、そのような考え方に囚われています。しかし、イエス様はそれに真っ向から反対されました。「この人の目が見えないのは罪の結果などではない。むしろ神の輝きがこの人に現れるためなのだ」。

社会の中で低い扱いを受けていたこの人は、イエス様との出会いによって、自身が光となります。この人は、彼が本当にかつて目が見えなかった人かどうかを論じる人々の間で「わたしがそうなのです、わたしがかつてあの目が見えなかった盲人です」と証言します。当時の社会の中においては周縁に置かれていたこの人が、イエス様によって遣わされ(=シロアム)、過去もひっくるめて主に用いられ、神さまの働きを証言していくのです。とはいえ、社会の偏見というのは根深いものです。それは、この人の目が開かれた後であっても、周囲の人々がなかなか彼の言葉を信じようとしない、特にエリート層の人々の「お前は全く罪の中に生まれたくせに、われわれに意見しようというのか」と、彼の言葉を聞こうとしない姿にも表れています。そしてその行きつく先は、イエス様の十字架でした。イエス様の光は、そのようなわたしたちの持つ弱さをも浮き彫りにします。しかし、それと同時に私たちは、私たちの愚かさの果てに神様が備えてくださった、十字架からの復活も見るのです。「恐れを信仰に変えたまいし わが主のみ恵みげに尊し」。 追いやられているもの、砕かれているものに目を留め、招き、引き上げて下さる方。その方の恵みに信頼し、四旬節の残りの期間を歩みたいのです。


いのちを生かす泉

2020年3月15日(日)四旬節第三主日礼拝説教要旨
出エジプト記17:1-7、ローマ5:1-11、ヨハネ福音書4:5-42
主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。 民がモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言うと、モーセは言った。「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」 しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」 モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、 主はモーセに言われた。「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。 見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。 彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。

このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。 それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。 それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。

それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。 わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」 ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。 女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。 「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」 人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。 その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、 イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。 弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。 イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。 あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、 刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。 そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。 あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」 さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。 そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。 そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。 彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

今日の福音書は「サマリア地方」と呼ばれる地域での、ひとりの女性とイエス様との出会いの物語です。サマリアは、イエス様が活動しておられたユダヤ地方と隣接しています。しかし、当時ユダヤ人とサマリア人とは犬猿の仲であり、ユダヤ人であるイエス様がサマリアにおられるのは、実は奇妙なことでした。そこでイエス様はこの女性と出会い、彼女に水を求めるのですが、彼女はこう言うのです。「なぜユダヤ人のあなたが、サマリア人のわたしに水を飲ませてほしいと頼むのですか」イエス様とこの女性との間には、いくつもの壁があります。ユダヤ人とサマリア人。男性と女性。それに加えて彼女はわざわざ真昼に水を汲みに来なければならない事情を抱えていました。

彼女はこれまで五回結婚し、しかしそのすべてで何らかのトラブルがあり、今は夫ではない男性といわゆる同棲をしている。女性に強い貞操観念を求める古代社会のこと、彼女が社会的にどんなレッテルを貼られていたか、想像できます。イエス様はその彼女に「あなたの夫を呼んできなさい」と不思議なことを言われます。しかし彼女はイエス様に「夫はいません」という。彼女は嘘は言っていません。しかしすべてを伝えたわけでもありません。しかしイエス様はその彼女に、「あなたはありのままを言った」と言われます。嘘は言っていない、でもありのままのことも言えない。それが彼女の心の「ありのまま」です。イエス様は彼女が言うより先に、それをご存じだった。彼女の口にできない痛みも含め、イエス様は彼女のすべてをご存知の上で、彼女と出会い、御自分から語りかけられたのです。彼女とイエス様の間、ひいては彼女と神様の間には、越えられないように思える壁があった。しかし、イエス様はその壁を越えて彼女と出会い、彼女を捉えて下さった。

「もうここに水を汲みに来なくてもいいようにしてください」と言っていた彼女は、イエス様との出会いによって、街の人々に自分からイエス様のことを告げるものへと変えられていきます。弱さや過ちを抱えた私たちと出会い、語りかけてくださる方。その方こそが、私たちの命を潤し、回復してくださる、神さまの生きた水なのです。


聖書の中の聖書

2020年3月8日(日)四旬節第二主日礼拝説教要旨
創世記12:1〜4a、ローマ4:1〜5,13〜17、ヨハネ福音書3:1〜17
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。 あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。

では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。 もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。 聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。 ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。 しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。 神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。 律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。 実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。 従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。 「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。

さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。 はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。 わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

ニコデモという、ひとりのファリサイ派の議員とイエス様の対話によって、今日の福音書の物語は進められます。ファリサイ派は聖書の中では、イエス様に敵対する立場として描かれることが多い、ユダヤ教の一派です。しかしニコデモという人は、イエス様に会いに来た。夜に来るということは人目を忍んで来たと考えられます。イエス様に何かを感じているが、堂々とイエスの所に行くのははばかられる…そうニコデモは葛藤した上で、夜の闇に紛れてやって来たのでしょう。

そのニコデモにイエス様は「新しく生まれること」の必要性を促されますが、ニコデモは「年を取った者がどうして生まれることができましょう」と答えます。自分はもうこんなに年を取ってしまった。変わりたいけれども、こんなに凝り固まった自分が、変われるはずがない。これは自分の立場を捨てきれないニコデモ自身の嘆きなのでしょう。

「変わりたいけど、こんな年を取った自分が変われるわけがない」…しかし、そのニコデモにイエス様はこう言われます。「あなたを新しく生まれさせてくださる、神の恵みがある」。「新たに」は「上から」と訳すことができることばです。あなたは変われない自分自身に絶望しているかもしれない。しかし、そのわたしたちを「上から」、新しくつくりかえてくださる神の恵みがある。

ヨハネ3章16節、この個所を宗教改革者マルティンルターは「聖書の中の聖書」と言いました。イエスという方の中に、そしてその方のご生涯の究極と言える十字架の上に、神さまからわたしたちへの思い、それほどまでに世を愛しぬかれた方の恵みが現れているのです。

 実はイエス様の十字架の際、イエス様の遺体を十字架からとりおろしたのがこのニコデモであったとヨハネ福音書は記します。もしかするとニコデモは、十字架のもとで「自分は遅かった、もうすべてが終わった」と絶望したかもしれません。しかし、すべてが終わったと思われた、そこか神さまは新しいこと、上からのことを起こしてくださったと、十字架から三日目に起こった出来事は私たちに示します。わたしたちは自分の弱さに、限界に絶望しなくともよい。そこから新しいことを、無から有を生み出してくださる神様、その方によって私たちはすでに上から捕らえられているのです。その方に信頼し、私たちも四旬節の旅を続けてまいりましょう。


誘惑と克己

2020年3月1日(日)四旬節第一主日礼拝説教要旨
創世記2:15-17&3:1〜7、ローマ5:12〜19、マタイ福音書4:1〜 11
主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。 主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。

このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。 律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。 しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。 しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。 この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。 一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。 そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。 一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。

さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

教会の暦は、先週水曜日から、イエス様の十字架を記念する四旬節(受難節)に入りました。イースターまでの日曜日を除く40日間です。教会の習慣ではこの時期、今日の福音書の日課でもある、40日間のイエスの断食にならって、様々な形で断食や節制が行われてきました。

荒野で断食されているイエス様は、そこにやって来た悪魔(サタン)によって誘惑を受けられます。悪魔とは「誘惑する者」という意味で、わたしたちを神さまや、良い生き方から引き離そうとする存在のことを言います。その悪魔からイエス様は、三つの誘惑を受けられる。悪魔はイエス様に「わたしを拝むなら、世界のすべてを与えよう」と言われます。悪魔を拝むことも、世界のすべてを得ることもわたしたちにはあまりピンと来ないかもしれません。けれどもたとえば私たちの前に、人を傷つけ自分が得をする道と、誰かを生かすけれども自分は得をしない道があれば、私たちはつい、前者を選んでしまう。それが「私(サタン)にひれ伏す」ことではないかと思います。

イエス様は、今日の悪魔の誘惑を退けられました。悪に仕えて自分を救う、その道を断ることをイエスは選びます。そしてそれはイエス様が、この四十日だけではなく、その全生涯をとおして歩まれた歩みでもあります。

この四旬節の終わりに、私たちはイエス様の十字架を見ます。イエス様が十字架にかかられたとき、その十字架の下で「神の子なら自分を救ってみろ」とイエス様は周りの人から罵られました。しかし、イエス様は自分を救わなかった。イエス様は、ご自分を救うよりも、わたしたちのために、その命を与え尽くすことを選ばれた。そのイエス様の大きな愛と出会うのが、この四旬節です。

「Do you want to fast this Lent?」「Fast from hurting words and say kind words」(ローマ法王フランシスコの四旬節メッセージより)。私たちがこれから帰って行く日々のいのちにおいて、意識して望ましい生き方を選ぶ。神さまが喜ばれる道、人を生かす道を選びとっていく。ここからイースターまでの間、出会う一つ一つのことと、できるかぎり誠実に向き合い歩みたいのです。


輝きが地の上に

2020年2月23日(日)変容主日礼拝説教要旨
出エジプト記24:12-18、第二ペトロ1:16-21、マタイ福音書17:1-9
主が、「わたしのもとに登りなさい。山に来て、そこにいなさい。わたしは、彼らを教えるために、教えと戒めを記した石の板をあなたに授ける」とモーセに言われると、 モーセは従者ヨシュアと共に立ち上がった。モーセは、神の山へ登って行くとき、 長老たちに言った。「わたしたちがあなたたちのもとに帰って来るまで、ここにとどまっていなさい。見よ、アロンとフルとがあなたたちと共にいる。何か訴えのある者は、彼らのところに行きなさい。」 モーセが山に登って行くと、雲は山を覆った。 主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた。 主の栄光はイスラエルの人々の目には、山の頂で燃える火のように見えた。 モーセは雲の中に入って行き、山に登った。モーセは四十日四十夜山にいた。

わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。 荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。 わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。 こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。 何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。 なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。

六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。 弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。 イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」 彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。

山上の説教の中で、イエス様による聖書の掟、律法の解釈が語られている個所です。ここで言われる「昔の人は…こう言っている」とは、旧約聖書に記されている律法と、当時の解釈を指します。そこにイエス様が新しい解釈を示されたのが、今日の一連の個所です。しかしイエスは決して昔の掟を全否定されたわけではありません。むしろ今日の聖書の言葉では、「昔の人の言い伝え」がより厳しく、私たちに突きつけられているような気さえします。

「殺すな」と言われているが、それは「兄弟に対して腹を立ててはならない」ということまでも含まれる掟なのだ…イエス様はこのように「殺すな」。兄弟に腹を立てる、この場合は兄弟を侮辱するというニュアンスの方が強いと思いますが、それは殺人と同じくらい重い罪に当たるのだ、という。非常に重い解釈です。たいへん厳しいように思われますが、しかしイエス様はここで、ただ表面上で聖書の掟を守ればいいというのではなく、その掟が指し示すさらに深いところにあるものが大切なのだ、そのことを教えておられます。

聖書の律法は本来、人間が神さまと人との正しい関係の中で生きるために与えられたものです。ですから「殺すな」は、殺さなければ何をしても良いという掟ではありません。相手のいのちを傷つけないこと、これがこの掟の中心であり、相手への侮辱は確かにこの掟に反するのです。しかし、私たちはしばしば掟を自分の都合の良いように解釈します。掟を真っすぐ受け取ることより、掟を守らなくてよい理由を探します。今日の聖書の最後の「『然り、然り』、『否、否』とだけ言いなさい」という言葉は、そのような私たちへの「言い訳をせず、自分の姿をまっすぐに見つめなおしなさい」というメッセージに聞こえます。

「あなたの右の目があなたをつまずかせる(=罪を犯させる)なら、えぐり出して捨ててしまいなさい」。イエス様の厳しい言葉は私たちを打ち砕きます。しかしこれらのイエス様の厳しい言葉は、私たちに対する真心からの言葉です。あなたに罪を犯してほしくない。人を傷つけるあなたではなく、人を生かす生き方を選べるあなたであってほしい。弱い私たちですが、その私たちと真っすぐに向かい合って下さるイエス様の真心からのご命令を、受け止める勇気を持ちたいのです。

まごころの掟

2020年2月16日(日)顕現後第六主日礼拝説教要旨
申命記30:15-20、第一コリント3:1-9、マタイ福音書5:21-37
見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。 わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。 もしあなたが心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕えるならば、 わたしは今日、あなたたちに宣言する。あなたたちは必ず滅びる。ヨルダン川を渡り、入って行って得る土地で、長く生きることはない。 わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、 あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。それが、まさしくあなたの命であり、あなたは長く生きて、主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地に住むことができる。

兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。 わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。 相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。 ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。 アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。 わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。 植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。 わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。 だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、 その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。 あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。 はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。 もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」 「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」 「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。 地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。 また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。 あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」

あなたがたは、この地上に良い味を付ける「塩」である。あなたがたは、この世界を照らす「光」である。塩も光も、人が生きるのに必要不可欠です。そのように、あなたはこの世界の中で大切な役割を与えられているんだよ、そうイエス様はおっしゃいます。

「あなたたちは」地の塩「である」とイエス様は強調されています。ギリシア語は主語「あなたがたが」「あなたがたこそ」地の塩、世の光。そういう存在としてあなたは神さまに造られたのだ、そうおっしゃってくださっているのです。この当時、イエス様から直接「地の塩」「世の光」と呼びかけられた人たちは、当時の社会の中で小さい存在だとみなされていた人たちがほとんどでした。その人々に対してイエス様は、いやあなたたちは塩であり光なんだ、そうおっしゃるのです。

塩は、味付けだけではなく、防腐剤としての働きもあります。しかも塩は、自分自身を主張するのではなく、スープや料理に溶けて、その他の素材を生かす働きをする。目立たないけれども、世の中で大切な働きを果たす。しかしイエス様はここで、その塩が塩気を失ってしまうこともある、そのことに気をつけなさい、ともおっしゃっています。塩が塩気を失うとは、湿気によって塩分が溶けて失われてしまうことを言います。わたしたちは神さまから世の中で役割を果たすようにと造られている。しかし世の中で生きているうちに、わたしたちは疲れてしまい、そういった塩気を失うことがあると思います。わたしたちがこの世の中で、大切なことを大切にしていこうとするときに、しかしそれがとても難しいことがある。そう生きようとする中で、疲れてしまうことがある。自分なんてとてもそんな「塩」や「光」みたいなことはできないと、自分は何も持っていないと、そう思ってしまうことがある。

しかし、そのわたしたちにイエス様は「灯を灯して升の下に置く者はいない。燭台の上に置く」と言われます。あなたは自分ではそうは思えないかもしれないけど、でもそんなあなたが必要だから、神さまはあなたをそこに置いているんだよ、イエス様はそうわたしたちにおっしゃるのです。たとえ自分ではそうは思えなかったとしても、「いや、それでもあなたは光だ」と言ってくださるイエス様が共にいてくださいます。そのことに希望を持ちたいのです。

あなたこそが世の光

2020年2月9日(日)顕現後第五主日・家族礼拝説教要旨
イザヤ58:3-9、マタイ福音書5:1-12
何故あなたはわたしたちの断食を顧みず/苦行しても認めてくださらなかったのか。見よ、断食の日にお前たちはしたい事をし/お前たちのために労する人々を追い使う。 見よ/お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし/神に逆らって、こぶしを振るう。お前たちが今しているような断食によっては/お前たちの声が天で聞かれることはない。 そのようなものがわたしの選ぶ断食/苦行の日であろうか。葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと/それを、お前は断食と呼び/主に喜ばれる日と呼ぶのか。 わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。 更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。 そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。 あなたが呼べば主は答え/あなたが叫べば/「わたしはここにいる」と言われる。軛を負わすこと、指をさすこと/呪いの言葉をはくことを/あなたの中から取り去るなら

イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 そこで、イエスは口を開き、教えられた。 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

あなたがたは、この地上に良い味を付ける「塩」である。あなたがたは、この世界を照らす「光」である。塩も光も、人が生きるのに必要不可欠です。そのように、あなたはこの世界の中で大切な役割を与えられているんだよ、そうイエス様はおっしゃいます。

「あなたたちは」地の塩「である」とイエス様は強調されています。ギリシア語は主語「あなたがたが」「あなたがたこそ」地の塩、世の光。そういう存在としてあなたは神さまに造られたのだ、そうおっしゃってくださっているのです。この当時、イエス様から直接「地の塩」「世の光」と呼びかけられた人たちは、当時の社会の中で小さい存在だとみなされていた人たちがほとんどでした。その人々に対してイエス様は、いやあなたたちは塩であり光なんだ、そうおっしゃるのです。

塩は、味付けだけではなく、防腐剤としての働きもあります。しかも塩は、自分自身を主張するのではなく、スープや料理に溶けて、その他の素材を生かす働きをする。目立たないけれども、世の中で大切な働きを果たす。しかしイエス様はここで、その塩が塩気を失ってしまうこともある、そのことに気をつけなさい、ともおっしゃっています。塩が塩気を失うとは、湿気によって塩分が溶けて失われてしまうことを言います。わたしたちは神さまから世の中で役割を果たすようにと造られている。しかし世の中で生きているうちに、わたしたちは疲れてしまい、そういった塩気を失うことがあると思います。わたしたちがこの世の中で、大切なことを大切にしていこうとするときに、しかしそれがとても難しいことがある。そう生きようとする中で、疲れてしまうことがある。自分なんてとてもそんな「塩」や「光」みたいなことはできないと、自分は何も持っていないと、そう思ってしまうことがある。

しかし、そのわたしたちにイエス様は「灯を灯して升の下に置く者はいない。燭台の上に置く」と言われます。あなたは自分ではそうは思えないかもしれないけど、でもそんなあなたが必要だから、神さまはあなたをそこに置いているんだよ、イエス様はそうわたしたちにおっしゃるのです。たとえ自分ではそうは思えなかったとしても、「いや、それでもあなたは光だ」と言ってくださるイエス様が共にいてくださいます。そのことに希望を持ちたいのです。

主の愛を軸として

2020年2月2日(日)顕現後第四主日・教会総会礼拝要旨
ミカ6:1-7、Tコリント1:18-30、マタイ福音書5:1-12
聞け、主の言われることを。立って、告発せよ、山々の前で。峰々にお前の声を聞かせよ。 聞け、山々よ、主の告発を。とこしえの地の基よ。主は御自分の民を告発し/イスラエルと争われる。 「わが民よ。わたしはお前に何をしたというのか。何をもってお前を疲れさせたのか。わたしに答えよ。 わたしはお前をエジプトの国から導き上り/奴隷の家から贖った。また、モーセとアロンとミリアムを/お前の前に遣わした。 わが民よ、思い起こすがよい。モアブの王バラクが何をたくらみ/ベオルの子バラムがそれに何と答えたかを。シティムからギルガルまでのことを思い起こし/主の恵みの御業をわきまえるがよい。」 何をもって、わたしは主の御前に出で/いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として/当歳の子牛をもって御前に出るべきか。 主は喜ばれるだろうか/幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を/自分の罪のために胎の実をささげるべきか。

十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さを意味のないものにする。」 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。 それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。 神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。

イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 そこで、イエスは口を開き、教えられた。 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

今日の福音書から、「山上の説教」が始まります。イエス様が、ガリラヤ湖のほとりの丘の上で、弟子たちや集まって来た群衆に向かって語られた、マタイ5〜7章までの説教集です。そしてその中でも、このマタイ5:1-12、「幸い」に関するみことばはよく知られていますが、同時に「これは本当に『幸い』なのか?」と疑問に思われることも多い個所なのではないでしょうか。

 「柔和」「心が清い」など、こう生きることができれば確かに幸いだ、と思えるところがあります。しかしそれは、そう生きることがどんなに難しいかを知っているからこそ出てくる感想です。そのような生き方を貫くには厳しすぎる、私たちの周囲の現実がある。そしてその中で、もしそう生きられたとしても、その生き方は世間の常識ではどちらかといえば「損」なのです。

私たちが考える幸福とはおそらく安心、安全が保障され、そして満たされていることではないかと思います。イエス様の言われる幸いは、その世間の物差しとは異なっている。イエス様がおっしゃるその価値観が大切だということはわかる。「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかはお前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。」(ミカ6:6-8)それが神さまがこの世を御覧になる物差しだというのです。

そう生きられたらよい、しかしそう生きられない自分を私たちは知っている。あるいは周囲の状況により、そう生きることがばからしく思えるようなときすらある。しかしそのような私たちに対してイエス様は「あなたたちこそ幸いだ」と言われます。この「幸い」という語をカトリックの本田哲郎司祭は「神からの力がある」という意味であると解釈します。「いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれたもの、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人」…この言葉を語られたのは、当時の社会の中で救いから遠いと、神から見捨てられたとみなされた人々でした。世間的には損な生き方かもしれない、そう生きることができずに自分の心の貧しさに苦しむときがあるかもしれない、しかし、神はそんなあなたがたとこそ、共におられる。「あなたたちにこそ神からの力がある」イエス様の言葉は、今まさに現実の中を生きる人々に対する、救いの宣言です。

片隅から始まる救い

2020年1月26日(日)顕現後第三主日礼拝説教要旨 
イザヤ8:23-9:3、Tコリント1:10-18、マタイ福音書4:12-23
今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない。 ダビデの位 先に/ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが/後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた/異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。 闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。 あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように/戦利品を分け合って楽しむように。 彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を/あなたはミディアンの日のように/折ってくださった。

さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。 わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。 あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。 キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。 クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています。 だから、わたしの名によって洗礼を受けたなどと、だれも言えないはずです。 もっとも、ステファナの家の人たちにも洗礼を授けましたが、それ以外はだれにも授けた覚えはありません。 なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。

イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。 そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。 「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、 暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 二人はすぐに網を捨てて従った。 そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。 この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。



イエス様が宣教活動を始められた時の様子が、今日の福音書には記されています。「悔い改めよ、天の国は近づいた」。このような言葉でイエス様は、ガリラヤのカファルナウムという土地から、その働きを始められました。

そしてそれは聖書の中であらかじめ預言されていたことだったのだと、マタイ福音書は語ります。そして、そのイエス様の救いは、当時のユダヤの宗教的な中心であるエルサレムからではなく、ガリラヤのカファルナウム、という北のはずれの漁師町で起こりました。そしてこれはイエス様が御自分に洗礼を授けた洗礼者ヨハネの逮捕を知り、ガリラヤに「退かれた」からだ、と聖書は語ります。宣教を始めるのならば、当時の都であり、宗教的中心であるエルサレムに行くのが良いと普通ならば考えるはず。しかしイエス様はカファルナウムへと向かわれる。もしかすると多くの人の目には、それは「後退」であるかのように映ったかもしれません。

しかし、むしろマタイ福音書はこのことによって「聖書で言われていた救いの出来事が実現した」と語るのです。ガリラヤという土地は、今日のイザヤ書の中で「異邦人のガリラヤ」と言われているように、ただ単に地理的に当時の都エルサレムから遠いというだけではなく、宗教的に神から遠い土地であるとみなされていました。イエス様御自身、聖書の中で「ガリラヤのナザレから出た預言者イエス」(マタイ21:11)と言われますが、ナザレもまた「ナザレから良いものが出るはずはない」と言われるような土地でした。しかし、そのイエス様によって、神の救いが、世界の片隅といえるところから始まった、というのです。イエス様がいちばんはじめに招いた弟子たちも、 エルサレムの祭司や宗教家ではなく、そのあたりで網を打っていた、ガリラヤ湖の漁師たちでした。「洗礼者ヨハネが逮捕され、退く」という一見ネガティブな出来事、しかしその場所から、「暗闇」「死の陰の地」に光が差し込み、神の恵みがそこから輝き始めた。恵みが届かないとされていたところから、その救いの働きを始められたイエス様。そこにこそ、イエス様を通してわたしたちに示された、神さまの御心があらわれているのです。

恵みが地に開く

2020年1月12日(日)主の洗礼主日礼拝要旨
イザヤ42:1〜9、使徒言行録10:34〜43、マタイ福音書3:13〜17
見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。 彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。 傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。 暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。 主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ/地とそこに生ずるものを繰り広げ/その上に住む人々に息を与え/そこを歩く者に霊を与えられる。 主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び/あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として/あなたを形づくり、あなたを立てた。 見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出すために。 わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さず/わたしの栄誉を偶像に与えることはしない。 見よ、初めのことは成就した。新しいことをわたしは告げよう。それが芽生えてくる前に/わたしはあなたたちにそれを聞かせよう。

そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。 どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。 神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、 あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。 つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。 わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、 神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。 しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。 そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。 また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」

そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

クリスマスが終わり、新年を迎え、教会の暦では「顕現節」が始まりました。クリスマスにお生まれになったイエス様がその後どのような歩みをなさったか、そのことを私たち自身、新年を迎えて新しい出発をしつつ、共にたどってゆく季節です。

この顕現節の始まりには例年、イエス様の洗礼についての聖書個所が読まれます。この洗礼が、イエス様の「公生涯」の始まりです。公生涯とは、イエス様がお生まれになった後、人々の前に姿を現し、神様のお働きをなさったその一生のことを言いますが、それはこのヨルダン川での洗礼から始まった、と聖書には記されています。

洗礼はキリスト教の入信式です。頭もしくは全身に水を受けることで、イエス様の恵みを信じ、クリスチャンとして新しく生まれ変わるという儀式です。しかし聖書はここで、神さまの所から来られたそのイエス様ご自身が、まず洗礼を受けられたのだ、ということを語ります。洗礼者ヨハネは、「いやわたしこそあなたから洗礼を受けるべきだ」と遠慮します。しかしイエス様は、「いや私が洗礼を受けることが、ここでは正しいことなのだ」と言われます。イエス様が人間と同じところに並んで、洗礼を受ける。これが神様から見て正しいことだというのです。

そしてそのとき、天がイエス様に向かって開いてそこから神の霊が降ってきた。地上に向かって天が開く、それは私たちが生きるこの地上の現実、そこに立ち、洗礼を受けられたイエスによって、その現実を生きる私たちこの地上の民に向かって神の恵みが開いた、というのです。 イエス様が神の働きができたのは、神が御一緒だったからだと聖書は語ります。この顕現節、私たちはイエス様の働きが、神さまの働きだったことを記念します。それは、私たちが生きるこの現実の中を、イエス様が私たちと同じように、いやむしろ私たちよりも低いところを歩んでくださったこと、そのイエス様がこの世に来てくださったことにより、地上に生きる私たちに対して神の恵みが開かれたこと、そしてそのイエス様が、今も私たちが生きるこの現実の中で共に歩んでくださるのだということを、思い起こすためです。

「主の受けぬ試みも、主の知らぬ悲しみも 現世(うつしよ)にあらじかし いずこにもみ跡みゆ<イエス様がお受けにならなかった試練も、イエス様がご存知ない悲しみも、この世にはひとつもない、この試練や悲しみ多い世の中のどんな場所にも、私たちはその只中を歩まれた、イエス様の足跡を見ることができる。>」(讃美歌532番2節)

説教(2019年)

必ず最後に愛が勝つ

2019年12月29日(日)降誕後主日礼拝要旨
イザヤ63:7〜9、ヘブライ2:10〜18、マタイ福音書2:13〜23
わたしは心に留める、主の慈しみと主の栄誉を/主がわたしたちに賜ったすべてのことを/主がイスラエルの家に賜った多くの恵み/憐れみと豊かな慈しみを。 主は言われた/彼らはわたしの民、偽りのない子らである、と。そして主は彼らの救い主となられた。 彼らの苦難を常に御自分の苦難とし/御前に仕える御使いによって彼らを救い/愛と憐れみをもって彼らを贖い/昔から常に/彼らを負い、彼らを担ってくださった。

というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。 事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、 「わたしは、あなたの名を/わたしの兄弟たちに知らせ、/集会の中であなたを賛美します」と言い、 また、/「わたしは神に信頼します」と言い、更にまた、/「ここに、わたしと、/神がわたしに与えてくださった子らがいます」と言われます。 ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、 死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。 確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。 それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。 事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。

占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」 ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、 ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。 こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。 「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」 ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、 言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」 そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。 しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、 ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。

先週、わたしたちはイエス様のお生まれをお祝いするクリスマスを迎えました。しかし今日の福音書では、イエス様のお生まれの後で起こった、その喜びを帳消しにしてしまうような出来事について語られています。イエス様を警戒したヘロデ王が、ベツレヘムの幼児を虐殺したというのです。 この出来事が史実であるという証拠は今のところ見つかっていません。しかしヘロデ王はその在位中、自分の持つ権力を失うことを警戒し続けた王であり、十分にあり得る事だろうとは考えられています。ヘロデという大きな力が、生まれたばかりのイエス様を殺そうとする。そして、結果としてヨセフはイエス様を連れてエジプトへと逃亡しますが、そのときベツレヘムにいた他の幼子たちは殺されてしまった、と記されています。

単純に、イエス様は助かったからよかったね、などと言えるような出来事ではないと思います。奪われていい命などあるはずがない。イエス様は逃げることができたとはいえ、取り返しがつかないできごとが起こってしまった。いのちを脅かそうとする力はあまりにも強くて、どうしようもないと思えることがあります。そのような中で、ヨセフのような、ヘロデのような権力者と比べて社会的に小さな存在は、あまりにも無力に思えます。

しかしそこで聖書が語るのは、そのどうしようもないできごとのただ中で、一見無力に見える人々をの働きをとおして実現していく、神さまの救いです。ヨセフ一家はこのあと、帰ってきたものの、ヘロデの息子を恐れて「ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って」住むことになります。わたしたちから見れば、「そこへ行こうとしたけど大きな権力に邪魔されてできなかったから、仕方なくナザレに住んだ」ように思える、しかしそこで聖書は「このようにして、聖書に書かれている神の救いの出来事が前進したのだ」と語ります。いのちを殺そうとする権力に、いのちを生かそうとする、ヨセフの働きが勝っていく。神が目を留め、守られるのは、いのちを守ろう、生かそうとする、一見小さい存在と思える人々の愛の働きなのです。いのちを奪おうとする大きな力の前で小さな愛はあまりに無力に思えるときもある。あってはならない悲しいできごとはきっとこれからも世界からそう簡単にはなくならない。けれども、それでもそのただなかに、神様は必ず働いてくださる。そう信じて、歩みたいのです。

神の恵みが人となる

2019年12月22日(日)待降節第四主日・クリスマス主日礼拝要旨
イザヤ7:10〜16、ヤコブ1:1〜7、マタイ福音書1:18〜25
主は更にアハズに向かって言われた。 「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」 しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」 イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。 災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで/彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。 その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる。

神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします。 わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。 信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。 あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。 あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。 いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。 そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。

イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

世界で最初のクリスマスは、決して手放しの喜びの中で祝われたわけではなかったことが、今日のマタイ福音書の降誕物語からもわかると思います。マリアの夫ヨセフは、マリアのおなかの中にイエス様がいることを知って、思い悩み、葛藤しています。

彼が「離縁する」を決意したのは、マリアに腹を立てたからではありません。ユダヤの律法では、「婚約中」の女性の不倫が発覚した場合、相手の男ともども女性は死刑になる。だから表ざたになる、つまりお腹に子供がいるとはっきりわかる前に、彼女を離縁する。それが、ヨセフの思いつくギリギリのラインだったのでしょう。

しかし、限界を抱えながらも何とかいのちを守るために行動しようとしたそのヨセフに、彼の思いを越えたところから、道が開かれます。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい」「大丈夫だからマリアとおなかの赤ちゃんを引き受けなさい」…そのおなかの赤ちゃんは、神によって与えられた命であり、神からの恵みなのだから、とヨセフに夢で現れた天使はいうのです。

 (おそらく二人とも)若く、悩みを抱えながらも命を生かそうとするカップルの間に、神様はイエス様を送られました。悩み苦しむヨセフは、救い主の育ての父となります。

決して初めから喜ばれた誕生ではありませんでした。しかし、何も問題がない家庭ではなく、破れや葛藤を抱えて、その中で家族となっていこうとする彼らのただ中に、神さまがイエス様を送り、神の恵みが確かにそこにあることを示された。わたしたちはそこに、わたしたちが問題や破れを抱えて歩むそのときに、「神が我々と共におられる(インマヌエル)」ことを知ることができます。最初のクリスマスが手放しの喜びの中で祝われたわけではなかったことは、悩み多い現実を生きるわたしたちにとって、大きな慰めなのです。クリスマスおめでとうございます!

夜明けは近い

2019年12月15日(日)待降節第三主日礼拝要旨
イザヤ35:1〜10、ヤコブ5:7〜10、マタイ福音書11:2〜11
荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ。 花を咲かせ/大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ/カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。 弱った手に力を込め/よろめく膝を強くせよ。 心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」 そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。 そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。 熱した砂地は湖となり/乾いた地は水の湧くところとなる。山犬がうずくまるところは/葦やパピルスの茂るところとなる。 そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ/汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ/愚か者がそこに迷い入ることはない。 そこに、獅子はおらず/獣が上って来て襲いかかることもない。解き放たれた人々がそこを進み 主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて/喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え/嘆きと悲しみは逃げ去る。

兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。 あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。 兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。 兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。

ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、 尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」 イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。 わたしにつまずかない人は幸いである。」 ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。 では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。 では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。 『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの前に道を準備させよう』/と書いてあるのは、この人のことだ。 はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。

イエス様のお生まれを待つ待降節の、第三主日を迎えています。寒くなり、夜も永くなってきていますが、それでもゴールが見えて来た。いつまで続くのかと思われる闇と寒さ、しかし、確かに救いは近づいているのだ、そのような意味合いを持つ日曜日です。

今日の聖書で読まれた福音書にはまだ、イエス様もマリア様も登場しませんが、洗礼者ヨハネが登場します。ヨハネは、聖書によればイエス様の親類であり、この人もまた神によって選ばれ、イエス様が救い主としての歩みを始められる前の露払いとして登場した人だと伝えられます。しかしこのとき彼は、牢の中で、いつ処刑されるかもわからない状態にありました。

彼はイエス様に弟子を送り、こう尋ねます。「来るべき救い主は、あなたでしょうか。それともほかの方を待たなければなりませんか」牢の中で、彼は不安になっていたのかもしれません。自分の働きは正しかったのだろうか。まだ決定的な救いの兆しはないまま、自分は処刑されようとしている。自分のいのちに果たして意味はあったのか。本当に、救いは来るのか。

イエス様の答えはこうでした。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き…」聖書によれば、イエス様は聖書の中で、このようなたくさんの奇跡を行われています。そしてそれは、それは聖書に預言された、救い主があらわれるときのしるしです。救い主が来るときは、そのように「荒れ野に花が咲く」のだ、と。

聖書は、イエス様のなさったことは、神の働きだと語ります。神から来たイエス様がなさったことこそが、神さまがこの世界を気にかけて下さっているしるしです。わたしたちがクリスマスに迎えるのは、小さな、無力な、まだ何もできない赤ちゃんです。しかし、その小さないのちの中に、大きく豊かな神の約束がある。まだ闇は深いけれども、しかし確かに夜明けは近づいている。神は決して、この世界の最も小さくされたところを見捨てない。その恵みを受け取りたいのです。

荒れ野の中に

2019年12月8日(日)待降節第二主日・家族礼拝要旨
イザヤ11:1〜10、マタイ福音書3:1〜11
エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。 弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。 正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。 狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。 牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。 わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。 その日が来れば/エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。

そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。 これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」 ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。 そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、 罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 悔い改めにふさわしい実を結べ。 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。

アドベント(待降節)の第二主日を迎えています。クリスマスは、ちょうど一年で夜が最も長くなる冬至の頃に祝われます。それは、闇がもっとも深くなるときに救い主・イエス・キリストが私たちのもとへと来られるのだと、そのことを私たちに示してくれていると思います。実際、イエス様が生まれた当時のユダヤは、閉塞した社会状況にありました。しかしだからこそそこに、神さまはイエス様を送ってくださったのだということです。

クリスマスの準備として、キリスト教会では伝統的にこの季節は「荒れ野に道を備えよ」と呼びかける聖書の個所が読まれることになっています。イエス様をお迎えする準備を、聖書は「荒れ野に道を通す」ことだと言います。聖書における荒野のイメージは、孤独・渇き・無です。いのちがない土地、生きたものが何もいない世界です。その荒れ野に道を通すことが、イエス様を迎える私たちの側の準備であるというのです。私たちのこの現実の中にキリストをお迎えする、この世界はそれにふさわしい場所でしょうか。また私たちはそれにふさわしい自分でしょうか。今日の聖書の言葉はわたしたちに「道を正せ」そして「今わたしたちが生きる、この現実を見つめるように」、そう促しているように思えます。

イエス様が来られた当時のユダヤの姿は、私たち自身でもあると思います。しかし、わたしたちこの世界の現実、また自分自身の現実に苦しむときにこそ、そこをめがけて生まれてくださる方がおられるのです。聖書の中で今日私たちは、「主はこんな石ころからでもアブラハムの子を作り出すことがお出来になる。」という言葉も聞きました。聖書で「アブラハムの子」と言われるときに、それは「神の救いにあずかる資格がある者」という意味です。神は石ころからでも、石ころのように思われるような現実の中からでも、神さまはアブラハムの子らを造ることがおできになる。それを示すためにも神さまは、イエス様を小さな赤ちゃんとして、わたしたちのただ中に送ってくださったのです。夜の闇が深いと思われるところ、私たち自身の現実が深い夜の中にいるように思われるところ、そこにこそクリスマスの恵みは確かに注がれます。そのことに希望を持ちながら、イエス様をお迎えする準備を進めていきたいのです。

今を生きる者のための神

2019年11月17日(日)聖霊降臨後第23主日礼拝要旨
マラキ3:19〜20、ユダ17〜25、ルカ福音書20:27〜40
見よ、その日が来る/炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は/すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。 しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには/義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように/躍り出て跳び回る。

愛する人たち、わたしたちの主イエス・キリストの使徒たちが前もって語った言葉を思い出しなさい。 彼らはあなたがたにこう言いました。「終わりの時には、あざける者どもが現れ、不信心な欲望のままにふるまう。」 この者たちは、分裂を引き起こし、この世の命のままに生き、霊を持たない者です。 しかし、愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。 神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。 疑いを抱いている人たちを憐れみなさい。 ほかの人たちを火の中から引き出して助けなさい。また、ほかの人たちを用心しながら憐れみなさい。肉によって汚れてしまった彼らの下着さえも忌み嫌いなさい。 あなたがたを罪に陥らないように守り、また、喜びにあふれて非のうちどころのない者として、栄光に輝く御前に立たせることができる方、 わたしたちの救い主である唯一の神に、わたしたちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、力、権威が永遠の昔から、今も、永遠にいつまでもありますように、アーメン。

さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。 次男、 三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。 最後にその女も死にました。 すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」 イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、 次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。 この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。 死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」 そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。 彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。

教会の暦は、もう一年の終わりに近づいています。キリスト教会は伝統的にこの季節、この世の「終末」についての聖書のみことばに耳を傾けるときとして、過ごしてきました。この世界もわたしたちの命も永遠ではない、いつか神さまが定められた終わりが来る。ではそのあとはいったいどうなるのか、当然の疑問かもしれません。

今日のサドカイ派からイエス様への問いかけは、旧約聖書が伝える結婚制度、「レビラト婚」を指します(申命記25章など)。ある男が子を残さず亡くなった場合、その兄弟が亡くなった兄の妻をめとって兄の名を家系に残すことになっている。しかしもし死後の復活があるとするならば、その女性は誰の夫になるのか。そうサドカイ派の人たちはイエス様に問答を仕掛けます。

イエス様は「あなたたちが考える復活と実際の復活とは違うのだ」、大意でいえばこのように返答されました。その答えを聞いても、復活のイメージは湧かないままかもしれません。しかし、イエス様はおそらくこうおっしゃりたいのです。「あなたたちは答えの出ない議論に囚われているが、それはそんなに重要なことではない」。このレビラト婚は、家系のための掟であると同時に、当時の女性を守るための掟でもありました。私などはむしろ、そちらの方がこの掟の主目的だったのでは、とすら思います。

イエス様はこう言われます。「神は死んだ者の神ではなく、生きているものの神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」(ルカ20:38)聖書は決して答えのない、意味のない「死んだ」議論のためにあるのではなく、いま目の前にいる人が、特に社会の中で立場の弱い人々が、「生きる」ためにある。私たちが「終末」を迎えるための備えるべきことは、今この時をどのように生きるか、隣人をどう大切にすることができるか、そのことなのではないでしょうか。

すべてが聖とされる

2019年11月3日(日)全聖徒主日礼拝要旨
ヨナ2:1〜10、Tコリント15:51〜58、ヨハネ福音書16:25〜33
さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた。 ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげて、 言った。苦難の中で、わたしが叫ぶと/主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めると/わたしの声を聞いてくださった。 あなたは、わたしを深い海に投げ込まれた。潮の流れがわたしを巻き込み/波また波がわたしの上を越えて行く。 わたしは思った/あなたの御前から追放されたのだと。生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうかと。 大水がわたしを襲って喉に達する。深淵に呑み込まれ、水草が頭に絡みつく。 わたしは山々の基まで、地の底まで沈み/地はわたしの上に永久に扉を閉ざす。しかし、わが神、主よ/あなたは命を/滅びの穴から引き上げてくださった。 息絶えようとするとき/わたしは主の御名を唱えた。わたしの祈りがあなたに届き/聖なる神殿に達した。 偽りの神々に従う者たちが/忠節を捨て去ろうとも わたしは感謝の声をあげ/いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。救いは、主にこそある。

わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。 その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。 父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。 わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」 弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。 あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」 イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。 だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。 これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

全聖徒主日、室園教会では秋の召天者記念礼拝です。キリスト教には祖先を「拝む」習慣はありませんが、その代わりに私たちは「この方々を私たちに(たとえほんの短い命の間であっても)与えて下さった神さまに感謝し、その方々に働いた主の恵みを思い起こす日」としてこのように記念の時を持ちます。

今日私たちがこうして思い出す教会の召天者の方々には、それぞれのいのちがあり、またそれぞれのいのちの終わりがありました。その中には、充分に生きたと言える方ばかりではなく、もしかすると道半ばだったのではないだろうか、そう思える方もおられます。また、各地で続く災害の犠牲となった方々のことも、今年は心に浮かびます。今日のヨナ書の日課は、ヨナという預言者がある事情で海に投げ込まれ、死に瀕し、そこで神によって命を救われたときの歌です。ここで記されているのは「死」の荒々しいイメージです。この、自分の力の及ばないできごとの中で、私たちはなすすべもない。

しかし私たちには、その中で信じていて良いことがあるのです。今日の福音書の日課は、イエス様が十字架にかかられる前の「告別説教」と言われる部分です。今日の言葉を弟子たちに残された後、イエス様は今日の弟子たちに告げられたとおり「ひとりきりにされて」十字架にかかって命を落とされる。弟子たちにとっても、イエス様に近しい人にとっても、おそらくそれは絶望的でなすすべもない出来事でした。

しかし、聖書はその十字架という絶望の中からの「キリストの復活」を語ります。キリストの死は、死のままでは終わらなかった。わたしたちはなすすべもない出来事の中で揺らぎます。しかし、その中で死から立ち上がられた方がこう言われるのです。「あなたがたには、世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)私たちは世で、なすすべもない出来事に出会うことがある。しかし、そのただ中で「わたしが世に勝っている」そう約束してくださっている方がおられる。その方にわたしたちは、先に天へと見送った大切な方々を、既にゆだねている。そのことに信頼し、安心したいのです。

リフォメーション

2019年10月27日(日)宗教改革記念主日礼拝要旨
列王記下22:8〜20、ガラテヤ5:1〜6、ヨハネ福音書2:13〜22
そのとき大祭司ヒルキヤは書記官シャファンに、「わたしは主の神殿で律法の書を見つけました」と言った。ヒルキヤがその書をシャファンに渡したので、彼はそれを読んだ。 書記官シャファンは王のもとに来て、王に報告した。「僕どもは神殿にあった献金を取り出して、主の神殿の責任を負っている工事担当者の手に渡しました。」 更に書記官シャファンは王に、「祭司ヒルキヤがわたしに一つの書を渡しました」と告げ、王の前でその書を読み上げた。 王はその律法の書の言葉を聞くと、衣を裂いた。 王は祭司ヒルキヤ、シャファンの子アヒカム、ミカヤの子アクボル、書記官シャファン、王の家臣アサヤにこう命じた。 「この見つかった書の言葉について、わたしのため、民のため、ユダ全体のために、主の御旨を尋ねに行け。我々の先祖がこの書の言葉に耳を傾けず、我々についてそこに記されたとおりにすべての事を行わなかったために、我々に向かって燃え上がった主の怒りは激しいからだ。」 祭司ヒルキヤ、アヒカム、アクボル、シャファン、アサヤは女預言者フルダのもとに行った。彼女はハルハスの孫でティクワの子である衣装係シャルムの妻で、エルサレムのミシュネ地区に住んでいた。彼らが彼女に話し聞かせると、 彼女は答えた。「イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたたちをわたしのもとに遣わした者に言いなさい。 主はこう言われる。見よ、わたしはユダの王が読んだこの書のすべての言葉のとおりに、この所とその住民に災いをくだす。 彼らがわたしを捨て、他の神々に香をたき、自分たちの手で造ったすべてのものによってわたしを怒らせたために、わたしの怒りはこの所に向かって燃え上がり、消えることはない。 主の心を尋ねるためにあなたたちを遣わしたユダの王にこう言いなさい。あなたが聞いた言葉について、イスラエルの神、主はこう言われる。 わたしがこの所とその住民につき、それが荒れ果て呪われたものとなると言ったのを聞いて、あなたは心を痛め、主の前にへりくだり、衣を裂き、わたしの前で泣いたので、わたしはあなたの願いを聞き入れた、と主は言われる。 それゆえ、見よ、わたしはあなたを先祖の数に加える。あなたは安らかに息を引き取って墓に葬られるであろう。わたしがこの所にくだす災いのどれも、その目で見ることがない。』」彼らはこれを王に報告した。

この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。 ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。 割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。 律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。 わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。 キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。

ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。 そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、 鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」 弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。 ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。 イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。

今日の礼拝は宗教改革記念主日、マルティン・ルターが1517年の10月31日に、当時の教会に対する「95箇条の提題」を突き付けた。そこから宗教改革運動が始まったことから、私たちはこの日をプロテスタント教会の誕生日として記念します。1502年前のこのときからキリスト教会全体に巻き起こったのは、信仰の構造改革です。ルターは決して当時の教会に決別するためではなく、教会があるべき姿にリフォームされる、つくりかえられることを望んで行動を起こした。今の私たちもまた、この日を教会と自分自身の「リフォームされる日」と受け止められればと思います。

今日の福音書は、いわゆる「宮清め」といわれるできごとです。「イエスは縄で鞭をつくり、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金を撒き散らし、その台を倒し、鳩を売るものたちに言われた。『このようなものはここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家にしてはならない』」(15−16節)。イエス様の乱暴に思える行動が記されています。この乱暴狼藉を受けた人々も、なぜイエスがこんなことをするのか理解できなかっただろうと思われますが、しかし、ここでのイエス様の行動もまた当時の信仰をリフォームしようとされたものでした。神殿の在り方や、信仰の形が、本来神さまが求められた方向とは違う方向に進んでいる。だからこそイエス様は(暴力を肯定するわけにはいきませんが)ここで厳しく当時の社会の在り方に切り込まれたのです。

この宮清めのできごとは、イエス様が十字架にかけられるきっかけとなりました。イエス様のこの厳しい行動を、神の都エルサレムは受け入れ変わることができず、イエス様を十字架に付けて、壊してしまったのです。それは今の私たちにも見られることです。神さまのメッセージを聞かず、何かを傷つけ続けている私たち。その私たちの弱さが、イエス様を今も十字架にかけ続けている。そう考えると私たちの中には何も良いものなどないように思われます。

しかしその私たちに、キリストは言われます。「この神殿を壊してみよ、三日で立て直してみせる」(19節)。イエス様は十字架の死から立ち上がられた、と聖書は語りますし、教会もそう信じて告白します。「あなたたちは壊すがいい、わたしが建て直す」これは、神の恵みを壊すしかできない、弱い私たちへの救いの言葉です。私たちが神に背き続けるにもかかわらず、神はその私たちに対して「十字架からの復活」という形で、恵みを返してくださった。そこに私たちは「罪びとをどこまでも愛しぬく」という神の「義しさ」、ルターの発見した「神の義」を見ることができると思います。その恵みを受け入れ、神さまのリフォメーションのお働きに、身をゆだねたいのです。

希望が見えないときも

2019年10月20日(日)聖霊降臨後第19主日礼拝要旨
創世記32:23〜31、Uテモテ3:14〜15、ルカ福音書18:1〜8
その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。 皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、 ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。 ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。 「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」 「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、 その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」 「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。 ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。

だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、 また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。

イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された」(ルカ18:1)…今日の聖書はこう語りますが、私たちの直面する現実において「気を落とさずに祈る」ということは、決して楽なことではないと思います。本当に神様は祈りを聞いてくださっているんだろうか。自分の祈りなんて神さまは聞いてくれないんじゃないのか、と思えてしまうときも私たちにはあるのです。

その私たちにイエス様は、「不正な裁判官」という不思議なたとえを用いて語られました。「やもめ」とは、夫を失った女性のことを言い、男性中心の当時の社会では圧倒的に社会的弱者でした。ですから聖書ではこの「やもめ」は、社会で保護されるべき対象です(申命記10:18他)。ですから本来、この裁判官も彼女の訴えには真っ先に耳を傾けなければならないのです。

ところがこの裁判官は「神を畏れない」人でした。ですからどんなに聖書の掟も、彼にとっては何の意味も持たないのです。彼女からすれば、希望はほとんどなかったかもしれません。結局この裁判官は根負けして、彼女のために裁判を行いますが、それは彼女が厄介な相手だったからです。どれくらい厄介かというと、「ひどい目にあわされるかもしれない」とこの「人を人とも思わない裁判官」に思わされるほど、彼女の訴えは強かったのです。彼女は、自分には自分の訴えを聞いてもらう資格がある、と確信しています。

私たちから神様のお考えはわからないことが多いですし、祈っていても祈りの確信が得られず、悩むこともあります。もしかすると自分には神に愛される資格はない、と思えるときもあるかもしれません。しかし、不誠実な人間でも「ひどい目にあわされる」ということになれば相手の要求を聞く。私たちのような不実な人間だってそうなのですから、「まして」神様が聞いて下さらないはずがない。自分に資格がないなんて思わなくてもよい、自分がどんなにちっぽけに思えるときでも、神さまは私のことを確かに見ていてくださるはずだ。そう信頼して、祈り求めたいのです。

癒しと救い

2019年10月13日(日)聖霊降臨後第18主日礼拝要旨
列王記下5:1〜14、Uテモテ2:8〜13、ルカ福音書17:11〜19
アラムの王の軍司令官ナアマンは、主君に重んじられ、気に入られていた。主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられたからである。この人は勇士であったが、重い皮膚病を患っていた。 アラム人がかつて部隊を編成して出動したとき、彼らはイスラエルの地から一人の少女を捕虜として連れて来て、ナアマンの妻の召し使いにしていた。 少女は女主人に言った。「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」 ナアマンが主君のもとに行き、「イスラエルの地から来た娘がこのようなことを言っています」と伝えると、 アラムの王は言った。「行くがよい。わたしもイスラエルの王に手紙を送ろう。」こうしてナアマンは銀十キカル、金六千シェケル、着替えの服十着を携えて出かけた。 彼はイスラエルの王に手紙を持って行った。そこには、こうしたためられていた。「今、この手紙をお届けするとともに、家臣ナアマンを送り、あなたに託します。彼の重い皮膚病をいやしてくださいますように。」 イスラエルの王はこの手紙を読むと、衣を裂いて言った。「わたしが人を殺したり生かしたりする神だとでも言うのか。この人は皮膚病の男を送りつけていやせと言う。よく考えてみよ。彼はわたしに言いがかりをつけようとしているのだ。」 神の人エリシャはイスラエルの王が衣を裂いたことを聞き、王のもとに人を遣わして言った。「なぜあなたは衣を裂いたりしたのですか。その男をわたしのところによこしてください。彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」 ナアマンは数頭の馬と共に戦車に乗ってエリシャの家に来て、その入り口に立った。 エリシャは使いの者をやってこう言わせた。「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」 ナアマンは怒ってそこを去り、こう言った。「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。 イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか。」彼は身を翻して、憤慨しながら去って行った。 しかし、彼の家来たちが近づいて来ていさめた。「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」 ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。

イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。 この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。 だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。 次の言葉は真実です。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、/キリストと共に生きるようになる。 耐え忍ぶなら、/キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、/キリストもわたしたちを否まれる。 わたしたちが誠実でなくても、/キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を/否むことができないからである。」

イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

聖書の中で「重い皮膚病」と訳されている言葉は、ヘブライ語で「ツァーラアト」と言われる、ある種の特徴を持った皮膚病のことです。この重い皮膚病にかかった人の運命は過酷を極めました。この病に対しては徹底的な隔離政策がとられました。おそらくそれは共同体の中での伝染を警戒してのものだったと考えられるのですが、やがてそれが宗教的な「けがれ」と結びつきます。この病気にかかった人は、肉体的、精神的な苦しみに加えて、共同体や家族から引き離されるという社会的な苦しみ、けがれたものとされるという宗教的な苦しみを負わされねばなりませんでした。その苦しみの中から「憐れんでください」と叫ぶ人たちの声を聞いて、イエス様はその病を癒された。それが、今日の福音書の物語です。

10人の人が癒され、そのうち9人は喜んで祭司の元へ、社会復帰のための宣言をしてもらいに行きました。しかし一人のサマリア人がイエス様のところに戻ってきて、イエス様を礼拝したというのです。ここでこの人にだけ特別な言葉が、イエス様から与えられます。イエス様はこの人に「救い」を宣言されました。これは戻ってこなかった9人の癒しが取り消されたというのではありません。イエス様の癒しは、この10人すべてに届きました。しかしその中で、このサマリアの人は自分に「癒し」をもたらしたものに気づいた。それはもしかすると、サマリア人がユダヤ社会において、神から遠いとされた人だったからこそ気づくことができた恵みだったかもしれません。

彼らにとってこの病は自分と社会、自分と家族、自分と神さま…それらの間に横たわってそれらの関係を破壊する、どうしようもない隔てでした。しかし、イエス様という方の訪れによって、それらすべての隔てを超えて神の恵みがこの10人に届いた。それがこの「癒し」の背後にある神の憐れみであり、「救い」です。

人間である以上、この10人すべてが、これからもまた人生において、病気や生活上の労苦や悩みを背負って生きていくことでしょう。しかしそうであっても、このとき彼らに起こった「癒し」をもたらした神の「救い」の恵みは彼らと離れず共にある。イエス様を礼拝することにより、私たちはくり返しその恵みを思い起こします。どんなに私たちが神さまから遠いと感じる時であっても、神の救いは確かにすべての隔てを超えて、私たちへと届く。その希望をもって歩みたいのです。

信仰のないわたしでも

2019年10月6日(日)聖霊降臨後第17主日礼拝要旨
ハバクク2:1〜4、Uテモテ1:3〜14、ルカ福音書17:1〜10
わたしは歩哨の部署につき/砦の上に立って見張り/神がわたしに何を語り/わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。 主はわたしに答えて、言われた。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように/板の上にはっきりと記せ。 定められた時のために/もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。 見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」

わたしは、昼も夜も祈りの中で絶えずあなたを思い起こし、先祖に倣い清い良心をもって仕えている神に、感謝しています。 わたしは、あなたの涙を忘れることができず、ぜひあなたに会って、喜びで満たされたいと願っています。 そして、あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています。 そういうわけで、わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。 神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。 だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。 神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、 今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。 この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。 そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。 キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。 あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。

イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。 そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。 あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。 一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

「からしだね一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に『抜け出して、海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」聞きようによっては、とても厳しい言葉です。自分には何もできないのは、自分にはからしだねほどの信仰もない…私たちにはそう思えることが多いからです。

今日の福音書によれば、そもそもこれは「これらの小さい者のひとりをつまずかせるより、海に投げ込まれた方がよい」「七回、人が自分に罪を犯しても、七回悔い改めれば赦してやりなさい」というイエス様のみことばを聞いた後、弟子たちから出てきた「信仰を増してください」といった願いに対してのお返事でした。

人をつまずかせてはいけない、人をどこまでも赦すべきだ。頭ではわかっても、いざ実行しようとなると、私たちはこの言葉にしり込みします。だからこそ、そんなことにならないような強く豊かな、揺るがずに誠実に生きられる信仰が欲しい。

 しかし、「つまずきは避けられない」のです。私たちは信仰の道に入ったからと言って、すべての煩わしいことから解放されるわけではありません。その中で、私たちが持っている信仰など、本当に吹けば飛ぶようなからしだねのように、揺らぎやすいのです。山奥で隠遁生活を送れば、もしかしたらそれらから解放されるかもしれません。しかし、宗教改革者マルティン・ルターは今から500年前、そのような隠遁生活を「十字架や悔い改めも抜きにした、まことにけっこうな安穏生活」と皮肉りました。この言葉は、こういっているように聞こえます。「私たちはこの体を抱えて、この世界の現実の中を生きるために召されているのだ」と。

この世界を生きるとき、私たちの信仰は本当に微かなものです。からしだねほどもないかもしれません。しかし聖書にはイエス様に対する信仰をこのように表した個所があります。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(マルコによる福音書8章24節)からしだねほどの信仰すらない私たちです。しかし、人の弱さをご存知の上でそのわたしたちの間を生きられたイエス様、その方はこんな信仰のないわたしたちをも助けてくださる方だと、そう信じる。つまずいたり、人をつまずかせたりの私たち。しかしそのただ中で働いてくださる神さまに、信頼したいのです。

大胆に、恵みを生きる

2019年9月22日(日)聖霊降臨後第15主日礼拝要旨
コヘレト8:10〜17,Tテモテ2:1〜7,ルカ福音書16:1〜13
だから、わたしは悪人が葬儀をしてもらうのも、聖なる場所に出入りするのも、また、正しいことをした人が町で忘れ去られているのも見る。これまた、空しい。 悪事に対する条令が速やかに実施されないので/人は大胆に悪事をはたらく。 罪を犯し百度も悪事をはたらいている者が/なお、長生きしている。にもかかわらず、わたしには分かっている。神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になり 悪人は神を畏れないから、長生きできず/影のようなもので、決して幸福にはなれない。 この地上には空しいことが起こる。善人でありながら/悪人の業の報いを受ける者があり/悪人でありながら/善人の業の報いを受ける者がある。これまた空しいと、わたしは言う。 それゆえ、わたしは快楽をたたえる。太陽の下、人間にとって/飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない。それは、太陽の下、神が彼に与える人生の/日々の労苦に添えられたものなのだ。 わたしは知恵を深めてこの地上に起こることを見極めようと心を尽くし、昼も夜も眠らずに努め、 神のすべての業を観察した。まことに、太陽の下に起こるすべてのことを悟ることは、人間にはできない。人間がどんなに労苦し追求しても、悟ることはできず、賢者がそれを知ったと言おうとも、彼も悟ってはいない。

そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。 王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。 これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。 神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。 神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。 この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。 わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです。わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。

イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』 管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。 そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。 『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』 また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。 そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。 ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。 だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。 また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

在職中に不正を行って主人の財産を着服した上、それを指摘されて自分の立場が危うくなると、さらにとんでもない方法で自分の立場を守ろうとする「不正」をしたにも関わらず、主人にほめられる管理人。そしてイエス様も、これが「よいお手本」であるかのように語られる。決してたとえ話のストーリーそのものが難しいわけではないのですが、「イエス様、こんなことを言ってもいいの?」と、理解に苦しむ個所なのではないかと思います。

しかし、倫理的なよしあしはともかく、やはり彼の賢いところ、そして彼のこの緊急時における判断力は尊敬に値します。しかも彼は、自分の立場が危うくなったとき、自分の身銭を切ったのではない。彼は、主人から預けられた財産を最大限に利用しています。にもかかわらず、この主人はこの不正な管理人の「抜け目のないやり方をほめた」というのです。

イエス様はここで「だから、不正にまみれた富で友達を作りなさい」と言われます。「富」というのはもちろん必要なもので、皆が欲しがるものですが、しかし宗教的には嫌がられがちなものでもあります。実際に聖書では富を「マモン」と呼んで擬人化し、人を誘惑する悪魔扱いすらされています。宗教はこれらの「俗物的」なものから距離を置くべきである。そのような考え方からキリスト教の歴史の中でも、修道院で、俗世間から離れたきよらかな生活を送ることが神に喜ばれることとして賞賛された時代もありました。しかし、宗教改革者ルターは、そのような俗世から離れた生活のことを「十字架も忍耐も抜きにした、まことにけっこうな安穏生活」と批判しました。

私たちにはそれぞれ、神様からゆだねられているいのちがあります。わたしたちはそれを「けがす」のを恐れるかもしれません、しかしその私たちに主は言われるのです。「不正にまみれた富で、友達を作りなさい」。この言葉には『この世』にしっかりと根を張って生きることへの招きが感じられます。この不正にまみれた世の中で、この世に交じって生きよと。彼の行動は主人に損をさせました。しかし、彼の不正な行動は、結果的に周りの人々のためになりました。

この世を生きる私たちを、神様は軽蔑されることはない。私たちがこの世の中で、与えられるものを生かして精一杯生きることを、神様はむしろ、喜んでくださるはずなのです。

キリストの『真実』

2019年9月15日(日)聖霊降臨後第14主日礼拝要旨
出エジプト記32:7〜14, 1テモテ1:12〜17, ルカ福音書15:1〜10
主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、 早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」 主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。 今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」 モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。 どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。 どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」 主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。

わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。 以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。 そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。 「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。 しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。 永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 そこで、イエスは次のたとえを話された。 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

今日の福音書では、「見失った羊」のたとえが語られました。有名なたとえ話ですが、これはたいへん緊張を伴う場面で語られたものです。イエスさまのところへ、「徴税人や罪人」が話を聞きにやって来る。そこにいたファリサイ派の人たちが「なんであんなやつらを招くんだ」と呟いたところにイエス様が語られたのが、このたとえです。このファリサイ派という一派は、非常に信仰深く、神の掟を忠実に守る人たちでした。しかしイエス様はその彼らに、「神様は、罪人とされたそのひとりを探し求め、喜んで招き入れられるのだ」と語られたのです。

 実は昨年の年末、「聖書協会共同訳」という新しい翻訳の聖書が出版されました。聖書を原語で精査し訳されたわけですが、その中の大きな変更点の一つが、これまで「キリストに対する信仰」と訳されてきた言葉です。たとえば、ガラテヤ書の中の一つの文章は、以下のようになりました。

「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(ガラテヤ2:20、新共同訳)

「私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために御自身を献げられた神の子の真実によるものです」(聖書協会共同訳)

この場合の「真実」は、「誠実」とか「まこと」「真心」と訳した方がわかりやすいかもしれません。わたしたちが神に受け入れられるのは、ただ「神の誠実」による。わたしたちの信仰が正しいとか深いとかいう理由ではなく、ただ私たちのことを、神様がその真心をもって受け入れたいと望んでくださったからこそ、私たちは神に招かれてここにいるのだとこの個所は語ります。それは、「わたしのイエス様への信仰」の力ではありません。あなたが信仰深かろうがそうでなかろうが関係なく、あなたが大切だから。ただそれを理由として、神様はわたしたちを探しに来てくださる。それこそが、わたしたちの信じる心が揺らぐときにも変わらない、「神の真実」。イエスという方を通してわたしたちに示された、神の真心なのです。

ゆだねて、日々を歩む

2019年9月8日(日)聖霊降臨後第13主日礼拝要旨
申命記29:1〜8, フィレモン1:1〜25, ルカ福音書14:25〜33
モーセはイスラエルのすべての人々を呼び集めて言った。あなたがたはエジプトの地でファラオとそのすべての家臣、その全土に対して、主があなたがたの目の前で行われたことをことごとく見た。 あなたがその目で見たのは大いなる試みで、それらは大いなるしるしと奇跡であった。 しかし主は今日まで、それを知る心、見る目、聞く耳をあなたがたにお与えにならなかった。 「私は四十年の間、荒れ野であなたがたを導いたが、あなたがたの着ている服は擦り切れず、足の履物もすり減らなかった。 あなたがたはパンも食べず、ぶどう酒も麦の酒も飲まなかった。それは、私が主、あなたがたの神であることを知るためであった。」 あなたがたがこの場所に来たとき、ヘシュボンの王シホンとバシャンの王オグが出て来て、私たちを迎え撃とうとしたが、私たちは彼らを討ち破った。 私たちは彼らの地を取って、ルベン人とガド人、そしてマナセ族の半数に相続地として与えた。 あなたがたはこの契約の言葉を守り行いなさい。そうすれば、あなたがたのすることはすべて成功する。

キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、私たちの愛する協力者フィレモン、 また姉妹アフィア、私たちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家の教会へ。 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平和があなたがたにありますように。 私は、祈りの度に、あなたのことを思い起こして、いつも私の神に感謝しています。 というのは、主イエスに対するあなたの信仰と、すべての聖なる者たちに対するあなたの愛とについて聞いているからです。 私たちの間でキリストのためになされているすべての善いことを、あなたがよく知り、あなたの信仰の交わりが活発になるようにと祈っています。 兄弟よ、私はあなたの愛から多くの喜びと慰めを得ました。聖なる者たちの心が、あなたのお陰で元気づけられたからです。 それで、私は、あなたのなすべきことを、キリストにあって極めて率直に命じてもよいのですが、 むしろ、愛のゆえにお願いします。年老いて、今はまたキリスト・イエスの囚人となっている、この私パウロが、 獄中で生んだ私の子オネシモのことで、あなたに頼みがあるのです。 彼は、かつてはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにも私にも役立つ者となっています。 そのオネシモをあなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。 本当は、彼を私のもとにとどめて、福音のゆえに獄中にいる間、あなたにではなく私に仕えてもらいたいと思ったのですが、 あなたの承諾なしには何もしたくありません。あなたの善い行いが強制されたものではなく、自発的なものであってほしいと願うからです。 彼がしばらくの間あなたから離れていたのは、恐らく、あなたが彼を永久に取り戻すためであったのでしょう。 もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、愛する兄弟としてです。オネシモは、とりわけ私にとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。 ですから、あなたが私を仲間と見なしてくれるなら、オネシモを私と思って迎え入れてください。 また、彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それは私の借りにしておいてください。 私パウロが自分の手でこう記します。私が返済します。あなたが自分を、私に負うていることは、言わないでおきましょう。 そうです。兄弟よ、私は主にあって、あなたから喜びを得たいのです。キリストにあって、私の心を元気づけてください。 私はあなたが聞き入れてくれると確信して、この手紙を書きました。私が言う以上のことさえもしてくれるでしょう。 同時に、私のために宿の用意もしておいてください。あなたがたの祈りによって、そちらに行かせてもらえるように望んでいるからです。 キリスト・イエスにあって私と共に捕らわれの身となっているエパフラスが、あなたによろしくと言っています。 私の協力者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくとのことです。 主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にありますように。

大勢の群衆が付いて来たので、イエスは振り向いて言われた。 「誰でも、私のもとに来ていながら、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命さえも憎まない者があれば、その人は私の弟子ではありえない。 自分の十字架を負って、私に付いて来る者でなければ、私の弟子ではありえない。 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰を据えて計算しない者がいるだろうか。 そうしないと、土台を据えただけで完成できず、見ていた人々は皆嘲って、 『あの人は建て始めたが、完成できなかった』と言うだろう。 また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうかを、まず腰を据えて考えてみないだろうか。 もしできないと分かれば、敵の王がまだ遠くにいる間に、使節を送って和を求めるだろう。 だから、同じように、自分の財産をことごとく捨て去る者でなければ、あなたがたのうち誰一人として私の弟子ではありえない。」

「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」(ルカ14:26)とてもショッキングな言葉で今日の福音書の日課は始まっています。親を大事にしなさい、子供を大事にしなさい、妻を大切にしなさい、というのならわかる。しかし、イエス様は自分についてこようとする群衆に向かって、こう言われたのです。

しかしこれは家族を嫌うことがイエスの弟子となる条件である、ということではありません。イスラエル・パレスチナ地方の言い回しでは「AをBより愛する」ということを示すときに「Bを憎む」という言い方をしたそうです。ですからこれは積極的に家族を憎悪しろということではなく、自分の大切なものとイエス様に従うことを比べるような状況になったとき、イエス様の方を優先しなさい、というようなことを言われているのでしょう。

とはいえ、厳しい言葉であることには変わりがありません。そしてかといって、イエス様がそう言っておられるのだからと衝動的に家族を捨てて世捨て人になる、そのようなことを言われているのでもないと思います。イエス様が語られた「塔の建設のたとえ」と「戦争に臨む王のたとえ」これらはどちらも、何かをしようとする時にはまずじっくり腰を据えて考えて、状況に応じてよい道を選び取っていくことを教えています。キリストの弟子になるということは、決して衝動に任せてすべてを捨てることではなく、いま目の前に与えられたいのちを、キリストのものとして生きることではないでしょうか。

今日の第一日課の中には、人々に対してこのようなメッセージが語られました。「わたしは四十年の間、荒れ野であなたたちを導いたが、あなたたちのまとう着物は古びず、足に履いた靴もすり減らなかった」。聖書の語る神さまは、「荒れ野のただ中」で導いてくださる神さまです。私たちはこの世の中で日々の生活を営みつつ、しかしわたしたちの生き方や人間関係の真ん中にイエス様を据えて生きる。そしてそれはわたしたちの全生涯に渡ってのことなのです。

目の前の道を一歩一歩生きることは決して楽なことばかりではありません。しかし、わたしたちが歩む人生がたとえ荒れ野のような時であっても、そのただなかにおいて一緒にいてくださる方がおられるのです。その方に信頼して、日々を歩んでいきたいと思います。

天国の入り口

2019年8月25日(日)聖霊降臨後第11主日礼拝要旨
 イザヤ書66:18〜23, ヘブライ12:18〜29, ルカ福音書13:22〜30
わたしは彼らの業と彼らの謀のゆえに、すべての国、すべての言葉の民を集めるために臨む。彼らは来て、わたしの栄光を見る。 わたしは、彼らの間に一つのしるしをおき、彼らの中から生き残った者を諸国に遣わす。すなわち、タルシシュに、弓を巧みに引くプルとルドに、トバルとヤワンに、更にわたしの名声を聞いたことも、わたしの栄光を見たこともない、遠い島々に遣わす。彼らはわたしの栄光を国々に伝える。 彼らはあなたたちのすべての兄弟を主への献げ物として、馬、車、駕籠、らば、らくだに載せ、あらゆる国民の間からわたしの聖なる山エルサレムに連れて来る、と主は言われる。それは、イスラエルの子らが献げ物を清い器に入れて、主の神殿にもたらすのと同じである、と主は言われる。 わたしは彼らのうちからも祭司とレビ人を立てる、と主は言われる。 わたしの造る新しい天と新しい地が/わたしの前に永く続くように/あなたたちの子孫とあなたたちの名も永く続くと/主は言われる。 新月ごと、安息日ごとに/すべての肉なる者はわたしの前に来てひれ伏すと/主は言われる。

あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。 彼らは、「たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない」という命令に耐えられなかったのです。 また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、「わたしはおびえ、震えている」と言ったほどです。 しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、 天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、 新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。 あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは、なおさらそうではありませんか。 あのときは、その御声が地を揺り動かしましたが、今は次のように約束しておられます。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。」 この「もう一度」は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。 このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。 実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。

イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。 すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。 「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。 そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。 しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。 あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。 そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

「狭い戸口から入りなさい」。並行個所であるマタイによる福音書の「狭い門から入りなさい」の方がよく知られている、イエス様の言葉です。たとえば難関校の入試などについて、「あの学校は狭き門だ」というように使われることがあります。今日のイエス様に質問した人も「救われる人は少ないのでしょうか」という問いでした。

こう聞くと私たちは、この「狭い戸口」という言葉に「救いには定員があり、入れる人と入れない人がいる」というようなイメージを持つと思います。「私はその救いに入る人数の中に入れるんだろうか?」と考える人もあるかもしれません。

 しかしイエス様の、この問いへの返答は、実はこの質問した人の問いに答えているようで、答えになっていないのです。この質問した人は救いのキャパシティについて尋ねていますが、イエス様は人数ではなく、入る戸口の大きさを問題にしている。そしてこのイエス様の答えは、私たちが死んで天国に行き、天国の入り口に立たされるときのことを言っているわけではないのです。

 「狭い戸口から入るように努めなさい」…ここで問われているのは私たちに寿命が来て神さまの所に行くときのことを言っているわけではない。そうではなく、これは「いま」「現在」のわたしたちに、あなたは「狭い戸口」を選んで生きているか、と問いかけるみことばなのです。

私たちの人生の中で「狭い」戸口とは何を指すでしょう。入れる人数は問題ではない、むしろ、それは入ろうとしさえすれば誰でも通れる道です。しかし、問題は「狭さ」です。わたしたちは広く、通りやすい道を行こうとします。しかし、狭い道は見つけにくく、また見つけたとしても通りにくい道です。わたしたちができれば通りたくないと思う道です。それは私たちにとって何でしょうか。部活か、勉強か。あるいは人間関係か。それらの日々のいのちの中で、望ましい道を、神さまが喜ばれる道を、考えて選び取る。これが「狭い入口から入る」ことではないでしょうか。

 もちろん、それは決して楽な道ではなく、わたしたちはしばしばそう生きようとするときにつまずき、砕かれます。しかしその私たちに先立って、私たちを導いてくださる方がおられます。イエス様は、今日の福音書の最初で「エルサレムへ向かって進んでおられた」ところだったとされていますそしてそれは、私たちの救いのためにあの十字架の上でわたしたちの身代わりとしてすべてを投げ出されるためであったと、キリスト教では理解します。その方が、つまずきながらも歩む私たちと、共に歩んでくださいます。私たちが、時につまずきながらでも一つ一つを大切に生きる歩みと共に歩み、そしてその先で、わたしたちを迎えてくださる方がおられる。その方に信頼しながら、歩みたいのです。

真の平和はどこに

2019年8月18日(日)聖霊降臨後第10主日礼拝要旨
 エレミア23:23〜29, ヘブライ12:1〜13,ルカ福音書12:49〜53
わたしはただ近くにいる神なのか、と主は言われる。わたしは遠くからの神ではないのか。 誰かが隠れ場に身を隠したなら/わたしは彼を見つけられないと言うのかと/主は言われる。天をも地をも、わたしは満たしているではないかと/主は言われる。 わたしは、わが名によって偽りを預言する預言者たちが、「わたしは夢を見た、夢を見た」と言うのを聞いた。 いつまで、彼らはこうなのか。偽りを預言し、自分の心が欺くままに預言する預言者たちは、 互いに夢を解き明かして、わが民がわたしの名を忘れるように仕向ける。彼らの父祖たちがバアルのゆえにわたしの名を忘れたように。 夢を見た預言者は夢を解き明かすがよい。しかし、わたしの言葉を受けた者は、忠実にわたしの言葉を語るがよい。もみ殻と穀物が比べものになろうかと/主は言われる。 このように、わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか、と主は言われる。

こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。 あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。 あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。 また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。 なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」 あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。 もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。 更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。 肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。 だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。 また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。 しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。 父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」

「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」。今日の福音書のイエス様のこの言葉は、わたしたちがイメージするイエス様とは少しかけ離れているかもしれません。イエス様は「平和を作り出すものは幸いである」と言われました。また、「あなたの敵を愛しなさい」とも言われました。にもかかわらず、イエス様はここでわたしは平和をもたらすために来たのではない、というのです。

そしてさらに今日の後半部分では、イエス様を信じることで家族が分裂する、というようなことが言われています。イエス様を信じることによって「家族」という、私たちにとって強い意味を持つ「つながり」が壊れることになるというのです。イエス様、あなたはわたしたちに平和をくださるために来られたのではなかったのですか、と言いたくなります。

しかしこれは私たちに簡単に家族を捨てろ、などと言われているわけではないと思います。聖書の中には、たとえば今日のエレミヤ書のように、お手軽な平和というのが出てくる。それは、相手との関係を壊さないように、相手にとって都合のよいことばかりを言う「平和」です。そのような平和は確かに人間関係に波風を立てず、穏やかに過ごすことができるかもしれません。

しかしイエス様は、そのような見せかけの平和に「火」を投げ込まれました。イエス様は、当時の社会で貧しかったり軽蔑されていた人の友となって歩まれましたが、それと同時に当時の宗教的な支配階級の偽善に対しては、徹底的に対立されました。火はもちろん怖いものです。様々なものを滅ぼすものです。しかし、聖書の中で神さまが人に送る火というのはただ怖いだけのもの、物を燃やし、壊すではなく、良くないものを取り除き、物事を新しく造り変えるものでもあります。イエス様の厳しい言葉は、「あなたに良く生きてほしい」というわたしたちへの思いの現れです。

その火を私たち自身の中に投げ込まれ、私たち自身がその火によって新しくされるとき、私たちはもしかすると自分の家族や隣人と向かい合わなければならないことがあるかもしれません。そしてそんなとき、私たちは何かを言うことによって、家族との関係が壊れてしまうのではないかと恐れてしまいます。しかし見せかけの平和を保つのではなく、できれば私たちもイエス様がしてくださったように、大切な人の本当の平和を求めていきたい。とても難しいことだと思いますが、十字架と復活のイエス様が共にいてくださる、そのことに勇気を頂いて歩みたいのです。

本当の『豊かさ』

2019年8月11日(日)聖霊降臨後第9主日礼拝要旨
 コヘレト2:18〜26, コロサイ3:5〜17, ルカ福音書12:13〜21
私は、太陽の下でなされるあらゆる労苦をいとう。それは私の後を継ぐ者に引き渡されるだけだ。 その者が知恵ある者か愚かな者か、誰が知ろう。太陽の下で私が知恵を尽くして労したすべての労苦をその者が支配する。これもまた空である。 私は顧み、太陽の下でなされたすべての労苦に、心は絶望した。 知恵と知識と才を尽くして労苦した人が、労苦しなかった人にその受ける分を譲らなければならない。これもまた空であり、大いにつらいことである。 太陽の下でなされるすべての労苦と心労が、その人にとって何になるというのか。 彼の一生は痛み、その務めは悩みである。夜も心は休まることがない。これもまた空である。 食べて飲み、労苦の内に幸せを見いだす。/これ以外に人に幸せはない。/それもまた、神の手から与えられるものと分かった。 この私のほかに誰が食べ/誰が楽しむというのだろうか。 なぜなら、神は御心に適う人に知恵と知識と喜びを与える。しかし、罪人には集め、積み上げることを務めとし、それを御心に適う人に与えてしまうからだ。これもまた空であり、風を追うようなことである。

だから、地上の体に属するもの、すなわち、淫らな行い、汚れた行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかなりません。 これらのことのために、神の怒りが不従順の子らの上に下るのです。 あなたがたも、以前このようなものの中に生きていたときは、そのように歩んでいました。 しかし今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、冒?、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。 互いに?をついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、 新しい人を着なさい。新しい人は、造り主のかたちに従ってますます新たにされ、真の知識に達するのです。 そこには、もはやギリシア人とユダヤ人、割礼のある者とない者、未開の人、スキタイ人、奴隷、自由人の違いはありません。キリストがすべてであり、すべてのものの内におられるのです。 ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。 互いに耐え忍び、不満を抱くことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。 さらに、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛はすべてを完全に結ぶ帯です。 また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和のために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。また、感謝する人になりなさい。 キリストの言葉が、あなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして教え合い、諭し合い、詩と賛歌と霊の歌により、感謝して神に向かって心から歌いなさい。 そして、言葉であれ行いであれ、あなたがたがすることは何でも、すべて主イエスの名によって行い、イエスによって父なる神に感謝しなさい。

群衆の一人が言った。「先生、私に遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」 イエスはその人に言われた。「誰が私を、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」 そして、群衆に向かって言われた。「あらゆる貪欲に気をつけ、用心しなさい。有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産にはよらないからである。」 そこで、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らし、 やがて言った。『こうしよう。倉を壊し、もっと大きいのを建て、そこに穀物や蓄えを全部しまい込んで、 自分の魂にこう言ってやるのだ。「魂よ、この先何年もの蓄えができたぞ。さあ安心して、食べて飲んで楽しめ。」』 しかし、神はその人に言われた。『愚かな者よ、今夜、お前の魂は取り上げられる。お前が用意したものは、一体誰のものになるのか。』 自分のために富を積んでも、神のために豊かにならない者はこのとおりだ。」
今日の福音書の中において、イエスさまは「あらゆる貪欲(どんよく)に注意しなさい」と言われました。世間的なキリスト教のイメージでも、「貪欲は罪で、清貧が美徳」と言われることがあります。しかし、今日のイエス様のたとえ話の中で誤解してはならないことは、イエス様はこの「愚かな金持ち」が、倉を建てて作物を蓄えたこと自体を批判しておられるのではないということです。

 わたしたちはそれぞれ、自分にとって大切なもの、それがあれば自分は満足できる、というものを持っていると思います。ある人はお金かもしれませんし、あるいは健康、知識などもそれに含まれるかもしれません。そして私たちはそれらを自分の手元にしっかり持っていることを望みます。そうすることで、安心するのです。しかし同時に、私たちはその「安心」を失うことを怖がります。ですから安心を失わないよう、自分に安心をもたらすそれらのものを集め、失わないようにそれを守ろうとする。それ自体は決して悪いことではないのかもしれません。しかし、それはしばしば私たちにとって、何かに対する必要以上の「執着」を産んでしまうのです。

イエス様がこのたとえ話で批判しておられるのは、この人の心の中を支配している思いです。「こう自分に言ってやるのだ」…というこの金持ちの言葉には、「自分が」「自分の」という思いが現れています。しかし、そこに神様からの「愚かな者よ。今夜、お前の命は取り上げられる。お前が集めたものはいったい誰のものになるのか」という言葉が語られる。

私たちはこの言葉を、どう聞くでしょうか。私たちが何かに「執着」しているとき、この言葉はもしかすると絶望を産むかもしれません。お金にしても、命にしても、私たちが持っているものが突然取り去られてしまうことは起こりうるのです。そのときにわたしたちがそれに「執着」していると、それらのものが失われてしまったとき、「私はすべてを失った」「わたしのこれまでの人生は全部無駄だったのではないか」と思ってしまうかもしれません。

しかし、「私が執着していたものは実は自分のものではなく、神さまから与えられたものだった」…そう考えてみたらどうでしょう。財産は確かに永遠ではない。しかしそれを私に与えてくださったのは神様であり、その神様がいてくださるなら、たとえ今夜わたしのいのちが取り去られても、わたしの今日のいのちの実りは、決して無駄にはならない。そう信じられるなら、私たちの日々の生き方は大きく変わってくると思います。それこそが私たちを本当に安心させてくれる、本当の豊かさではなのではないでしょうか。

憎しみのある所に、愛を

2019年8月4日(日)平和祈願日礼拝説教要旨
 ミカ4:1-5、エフェソ2:13-18、ヨハネ福音書15:9-12
終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。もろもろの民は大河のようにそこに向かい 多くの国々が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。 主は多くの民の争いを裁き/はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。 人はそれぞれ自分のぶどうの木の下/いちじくの木の下に座り/脅かすものは何もないと/万軍の主の口が語られた。 どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。我々は、とこしえに/我らの神、主の御名によって歩む。

しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。 キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。 それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。

「主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。
憎しみのある所に、愛を置かせてください。
侮辱のある所に、赦しを置かせてください。
分裂のある所に、和解を置かせてください。
誤りのある所に、真理を置かせてください。
疑いのある所に、信頼を置かせてください。
絶望のある所に、希望を置かせてください。
闇のある所に、あなたの光を置かせてください。
主よ、慰められるよりも慰め、理解されるよりも理解し、愛されるよりも愛することを求めさせてください。なぜならば、与えることで人は受け取り、赦すことで人は赦され、人のために死ぬことで、人は永遠の命によみがえるからです。」(伝:アッシジの聖フランシスコの平和の祈り)

わたしたちの教会では、この8月第一日曜日を「平和祈願日」として、平和について考え、祈り求める日としています。今日の旧約聖書のミカ書は、神の平和が実現する日には「彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。」…つまり、いのちを奪う道具が、いのちを生み出す道具へと作り替えられると預言します。しかし、わたしたちは普段、それとは逆のことを行ってはいないでしょうか。憎しみのある所に愛をもたらすどころか、まったく逆のことを行ってしまう。そういった弱さを私たちは自分自身の中に持っていると思います。そのような自分の持つ弱さを直視するには、勇気が必要です。

イエス様は、十字架にかけられる前の晩、弟子たちに今日のヨハネの福音書15章を含む「告別説教」を語られました。イエス様はご自分がこれから処刑されること、そしてそのときに弟子たちが自分を見捨てることを、ご存知でした。しかしそれでもイエス様は「わたしがあなたがたを愛したように」と言われます。人間がどんなに愚かでも、しかしイエス様を通して示された、神さまの私たちへの思いは変わらなかった。その方が「互いに愛し合いなさい」と言われます。その方を見上げるところから、あきらめずに、平和を求めて歩み続けたいと思うのです。

マルタとマリア

2019年7月28日(日)聖霊降臨後第七主日礼拝説教要旨
 創世記18:1-14、コロサイの信徒への手紙1:21-29、ルカによる福音書10:38-42
主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。 目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、 言った。「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。 水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。 何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」その人たちは言った。「では、お言葉どおりにしましょう。」 アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。「早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい。」 アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。 アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。 彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻のサラはどこにいますか。」「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、 彼らの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。 アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。 サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。 主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。 主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」

あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。 しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。 ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。 今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。 神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。 世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。 この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。 このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。 このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。

一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

今日の福音書は「マルタとマリア」と呼ばれる物語です。イエス様一行を迎えて、もてなしのために忙しく働く姉マルタと、イエス様の足元に座り、話に耳を傾ける妹マリアの姿が対照的に記されています。マルタはそのマリアの姿に苛立ち、イエス様に妹を叱ってくれるよう言うのですが、かえってマルタの方がイエス様からたしなめられてしまう。そのような物語です。

現代の私たちがこの物語を読むとき、もしかするとマルタの方に感情移入する人が多いかもしれません。しかしここでマルタが問題としているのは、マリアが単にマルタだけに働かせて自分はさぼっている、ということではないのです。当時、今以上に男性と女性の役割ははっきり分かれていました。いうなれば表舞台に立つのが男性たちで、女性はそのサポートをするのが当時のごく一般的な感覚でした。しかし、ここでマリアはほかの男性の弟子たちと同じように座り、イエス様の弟子としてイエス様のみことばに耳を傾けています。これは当時としては非常識なのです。

しかし、イエス様はそのマリアの行動について「マリアは良い方を選んだ、彼女の立場を取り上げてはならない」と言われます。しかしこの場合「では、一生懸命働いていたマルタの立場は?」という疑問もあるでしょう。マルタのしている「いろいろのもてなし」、これはその場を調えるために必要なことなのであって、決して非難されることではありません。

「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」…イエス様がマルタをたしなめておられるのは、マリアのように座っていないことではありません。マルタがせっかく良い働きをしているのに、多くのことに心を煩わせ、心を乱してしまっていること、そしてマリアが自ら選んだ、マリアの権利を取り上げようとしていること。そのことではないでしょうか。

「マルタ、マルタ」とイエス様はマルタを呼ばれます。イエス様から名前を2回呼ばれることは、彼女に特別にイエス様が気にかけておられるしるしです。忙しく立ち働くマルタのような存在にも、イエス様のまなざしはちゃんと注がれているのです。しかし、私たちは多くのことに心を煩わされて、しばしばそのことを忘れます。イエス様の眼差しが感じられなくなることがあります。そんなときにはやはりわたしたちは、一度自分の抱えている荷物を横に置いて、イエス様の足元に座る時間が必要なのだと思います。忙しさに我を忘れるとき、イエス様のまなざしを思い出したいのです。

あなたがわたしの隣り人

2019年7月21日(日)聖霊降臨後第六主日礼拝説教要旨
申命記30:1-14、コロサイの信徒への手紙1:1-14、ルカによる福音書10:25-37
わたしがあなたの前に置いた祝福と呪い、これらのことがすべてあなたに臨み、あなたが、あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で、それを思い起こし、 あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、 あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。 たとえ天の果てに追いやられたとしても、あなたの神、主はあなたを集め、そこから連れ戻される。 あなたの神、主は、かつてあなたの先祖のものであった土地にあなたを導き入れ、これを得させ、幸いにし、あなたの数を先祖よりも増やされる。 あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる。 あなたの敵とあなたを憎み迫害する者にはあなたの神、主はこれらの呪いの誓いをことごとく降りかからせられる。 あなたは立ち帰って主の御声に聞き従い、わたしが今日命じる戒めをすべて行うようになる。 あなたの神、主は、あなたの手の業すべてに豊かな恵みを与え、あなたの身から生まれる子、家畜の産むもの、土地の実りを増し加えてくださる。主はあなたの先祖たちの繁栄を喜びとされたように、再びあなたの繁栄を喜びとされる。 あなたが、あなたの神、主の御声に従って、この律法の書に記されている戒めと掟を守り、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主に立ち帰るからである。 わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。 それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。 海のかなたにあるものでもないから、「だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。 御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。

神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと兄弟テモテから、 コロサイにいる聖なる者たち、キリストに結ばれている忠実な兄弟たちへ。わたしたちの父である神からの恵みと平和が、あなたがたにあるように。 わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています。 あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです。 それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました。 あなたがたにまで伝えられたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています。 あなたがたは、この福音を、わたしたちと共に仕えている仲間、愛するエパフラスから学びました。彼は、あなたがたのためにキリストに忠実に仕える者であり、 また、“霊”に基づくあなたがたの愛を知らせてくれた人です。 こういうわけで、そのことを聞いたときから、わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。どうか、“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、 すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。 そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって、 光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。 御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。 わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

夏の召天者記念礼拝です。熊本のお盆に合わせてこの時期に記念礼拝をおこなっていますが、キリスト教においてこれは「供養」ではなくあくまで「記念」です。教会においては、死者があちらとこちらを行き来するとは考えません。私たちにとって良い意味でも残念な意味でも、「死」とはひとつの終わりであって不可逆的なもの、私たちの力の及ばないところです。

しかし、たとえば宗教改革者マルティン・ルターはこのように歌いました。「罪も死も、何ができよう。まことの神がわたしの味方。悪魔も陰府もしたいまま。それでも、御子がわたしの味方」(「Von Himmel hoch」讃美歌101番「あめよりくだりて」)。私たちからは力が及ばない、しかし、神さまはすべてをわかっていてくださる。今日最初に読まれた日課、エゼキエル書は「枯れた骨の復活」について語っています。枯れに枯れた骨、もう希望などない状態にあるものから、新しいことが起こる。預言者エゼキエルは「あなただけがご存知です」と語りました(37:5)。私たちからは、亡くなった方のいのちどころか、自分が一体どうなるかすらわかりません。しかし、神さま、あなたは私たちのいのちがどうなるかをご存知です。

そしてキリスト教は、その神さまがこの世に送ってくださったイエス様にこそ、神さまの御心が現れていると考えます。今日の福音書の日課はそのイエス様の告別説教と呼ばれる個所で、イエス様はこの後、逮捕され、十字架にかかり処刑されることになります。弟子たちは一度ここで「あなたが神のもとから来られたと信じます」と自分たちの信仰を告白しますが、その信仰はすぐに失われ、イエス様の逮捕によって弟子たちは散り散りに逃げ出します。このときの弟子たちにとっては、イエス様の十字架は、敗北であり、すべての終わりであったはずです。自分たちが望みをかけていたものが失われてしまった。しかし、聖書はその十字架という「終わり」の中からの「キリストの復活」を語ります。確かにイエスはだれからも見捨てられた、しかし「わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ」(32節)という言葉の通り、イエス様の死は死のままでは終わらなかったのです。

それは何より、わたしたちにイエス様が「世に勝っている」こと、たとえ私たちを脅かすものがあっても、そして私たちがどんなに弱く惨めな者であっても、イエス様の恵みがすべてを超えて必要なところに届く、ということを示しています。その方に信頼し、「勇気を出しなさい」とのみことばに励まされて歩みたいのです。

あなたが知っていてくださるから

2019年7月14日(日) 夏の召天者記念礼拝説教要旨 エゼキエル37:1-14、ヨハネによる福音書16:25-33
主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。 主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。 そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」 そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。 これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。 わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」 わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。 わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。 主はわたしに言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」 わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。 主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。 それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。 わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。 また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」と主は言われる。

「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。 その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。 父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。 わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」 弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。 あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」 イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。 だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。 これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

夏の召天者記念礼拝です。熊本のお盆に合わせてこの時期に記念礼拝をおこなっていますが、キリスト教においてこれは「供養」ではなくあくまで「記念」です。教会においては、死者があちらとこちらを行き来するとは考えません。私たちにとって良い意味でも残念な意味でも、「死」とはひとつの終わりであって不可逆的なもの、私たちの力の及ばないところです。

しかし、たとえば宗教改革者マルティン・ルターはこのように歌いました。「罪も死も、何ができよう。まことの神がわたしの味方。悪魔も陰府もしたいまま。それでも、御子がわたしの味方」(「Von Himmel hoch」讃美歌101番「あめよりくだりて」)。私たちからは力が及ばない、しかし、神さまはすべてをわかっていてくださる。今日最初に読まれた日課、エゼキエル書は「枯れた骨の復活」について語っています。枯れに枯れた骨、もう希望などない状態にあるものから、新しいことが起こる。預言者エゼキエルは「あなただけがご存知です」と語りました(37:5)。私たちからは、亡くなった方のいのちどころか、自分が一体どうなるかすらわかりません。しかし、神さま、あなたは私たちのいのちがどうなるかをご存知です。

そしてキリスト教は、その神さまがこの世に送ってくださったイエス様にこそ、神さまの御心が現れていると考えます。今日の福音書の日課はそのイエス様の告別説教と呼ばれる個所で、イエス様はこの後、逮捕され、十字架にかかり処刑されることになります。弟子たちは一度ここで「あなたが神のもとから来られたと信じます」と自分たちの信仰を告白しますが、その信仰はすぐに失われ、イエス様の逮捕によって弟子たちは散り散りに逃げ出します。このときの弟子たちにとっては、イエス様の十字架は、敗北であり、すべての終わりであったはずです。自分たちが望みをかけていたものが失われてしまった。しかし、聖書はその十字架という「終わり」の中からの「キリストの復活」を語ります。確かにイエスはだれからも見捨てられた、しかし「わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ」(32節)という言葉の通り、イエス様の死は死のままでは終わらなかったのです。それは何より、わたしたちにイエス様が「世に勝っている」こと、たとえ私たちを脅かすものがあっても、そして私たちがどんなに弱く惨めな者であっても、 イエス様の恵みがすべてを超えて必要なところに届く、ということを示しています。その方に信頼し、「勇気を出しなさい」とのみことばに励まされて歩みたいのです。

ここにいて、いいんだよ

2019年6月30日(日)聖霊降臨後第三主日礼拝説教要旨 エル記下11:26-12:13、ガラテヤ2:11-21、ルカによる福音書7:36-50
ウリヤの妻は夫ウリヤが死んだと聞くと、夫のために嘆いた。 喪が明けると、ダビデは人をやって彼女を王宮に引き取り、妻にした。彼女は男の子を産んだ。ダビデのしたことは主の御心に適わなかった。 主はナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。 豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。 貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに/何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い/小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて/彼の皿から食べ、彼の椀から飲み/彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。 ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに/自分の羊や牛を惜しみ/貧しい男の小羊を取り上げて/自分の客に振る舞った。」 ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。 小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」 あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。 なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。 それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。』 主はこう言われる。『見よ、わたしはあなたの家の者の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。あなたの目の前で妻たちを取り上げ、あなたの隣人に与える。彼はこの太陽の下であなたの妻たちと床を共にするであろう。 あなたは隠れて行ったが、わたしはこれを全イスラエルの前で、太陽の下で行う。』」 ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。

さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。 なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。 そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。 しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」 わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。 けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。 もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。 もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。 わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。

さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。 この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。 イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。 そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。 イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。 二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」 シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。 そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。 あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。 あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」 そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。 同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。 イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。

イエス様の活動されていた時代、「共に食事をする」ことは互いの関係を深めるために大切なことでした。聖書の中でもしばしばイエス様が、人と食事をする場面が描かれます。

今日の福音書の日課は、その食事の席で起こった出来事でした。イエス様はこのとき、ファリサイ派のシモンという人の家で食事の席に着いておられました。ファリサイ派というのは当時の宗教的エリートですが、イエス様は当時すでに「どうやらこの人は神が遣わした預言者らしい」と言われていたらしく、だからこそシモンは、イエス様を食事の席に招いた。しかしシモンは、その食事の席で起こった出来事によって、「このイエスという男は預言者ではない」と考えます。それは、ひとりの女性に対するイエス様の態度によるものでした。

その町で「罪深い」と噂されている女性が、会食の席にそっと入ってきて、イエスの足もとにひざまずく。そして足を涙でぬらし、自分の髪の毛で拭い、その足に口付けして高価な香油を塗る…その間、イエス様は彼女にされるがままでした。それを見て、シモンは「この女がどんな女かわからないこの人は、神の元から来た預言者などではない」と考えるのです。

しかし、イエス様はそのシモンを諭し、彼女に救いを宣言されます。イエス様は彼女がどんな女かわからなかったから、なすがままにさせておかれたわけではない。そうではなく、わかっていたからこそ、彼女のこれまでの人生、涙をこぼすほどの後悔や痛みや苦しみ、イエス様はそれらをすべてご存知の上で彼女の行為を受け入れておられる。このイエス様の姿にこそ、私たちはイエス様を送られた神さまからの彼女に対する「ここにいてよい」という思いを見るのです。

それに対しこの人を軽んじ、受け入れることができないシモンがいます。シモンは彼女とは異なり「清く正しく」生きてきた人です。しかし、イエスさまはそのシモンもまた神さまに対しては同じく罪人で、神さまに対し、返しきれない負い目があるのだと、たとえ話を通して指摘されます。

しかしそのことを知るとき私たちは、もう一つの赦しの物語を見ることができます。ここでイエス様をお招きするのに不十分なのは、実はシモンの方でした。しかし、そのシモンの性格や心の奥底もすべてご存知の上で、イエス様はシモンの家の客となられた。シモンのことをもイエス様は、初めから受け入れておられたのです。愛を示すことが少なく、そしてそのことにすら気づかない、シモンの持つ弱さは私たちも当てはまります。しかしそんな私のことも神様は大切に思ってくださると、イエス様は示しておられます。その恵みに気づくことから新しい歩みを始めたいのです。

あたらしい旅立ち

2019年6月16日(日) 三位一体主日礼拝説教要旨 イザヤ6:1-8、ローマ8:1-13、ヨハネによる福音書16:12-15
ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。 上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。 彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」 この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。 わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」 するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。 彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」 そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」

従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。 肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。 それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。 肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。 なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。 肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。 神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。 キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。 それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。 肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。

言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

三位一体主日と言われる日曜日です。父なる神、子なるイエス・キリスト、慰め主である聖霊とが、それぞれ独立した位格(ペルソナ、パーソナリティ)でありながら、しかし同時にひとりの神である、ということを記念する主日です。これは厳密には聖書の中にははっきりと書かれていない概念ですが、しかしキリスト教会はこの「父、子、聖霊」という三つの働きをされる神さまが、それと同時に同一の存在であるということを、伝統的に重要視してきました。

天地の造り主である父なる神さま、そして私たちの間を歩んでくださったイエス様、そしてイエス様が去られた後で送られた、聖霊。この三つのペルソナ、歴史の中に現れたこの神さまのパーソナリティは、ばらばらに存在するものではなく、私たちへの愛という、神さまのただ一つの御意思に基づいているというのです。

そして、この三位一体主日は、教会暦の大きな境目で、「クリスマス〜イースター〜ペンテコステ」(主の半年)と、「教会の信仰の成長の季節」(教会の半年)とを分ける礼拝になります。そしてこの三位一体主日は私たちにとって「派遣の日」でもあります。私たちはここまで、イエス様のご生涯の中に示されたわたしたちへの救いの出来事を味わってきました。そして今日、預言者イザヤが神さまに「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」と言ったように、私たちもこの世界の中に、神さまのお働きのお手伝いをするために、派遣されるのです。

もしかすると私たちは、神様のお手伝いにふさわしくない自分を発見するときがあるかもしれません。しかし「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は『地をすべて覆う』」…神の恵みは神様から遠く離れていると思われる場所にも届きます。私たちは弱さがあるかもしれません。しかし「イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体も『生かしてくださる』でしょう。」その恵みにすでに包まれた私たちはこの自分ごと、神さまに生かしていただくのです。その神さまの働きに、自分の歩みをゆだねたいのです。

豊かな言に満たされる

2019年6月9日(日) 聖霊降臨祭(ペンテコステ)礼拝説教要旨
   創世記11:1-9、使徒言行録2:1-21、ヨハネによる福音書16:4b-11
世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。 東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、 言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。 こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。 今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。 そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。 『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。 わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。 上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。 主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。

「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。 今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。 むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。 しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。 その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。 罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、 義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、 また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。

教会の三大祝祭日の一つ、聖霊降臨祭(ペンテコステ)と呼ばれるお祭りです。使徒言行録の日課にあるように、地上での働きを終え、神様の元へと昇っておられるイエス様を天へと見送った弟子たちに、イエス様が約束してくださった「聖霊」がくだり、弟子たちは異なる国の言葉で語り始めた。ここから弟子たちの宣教が始まったことから、この日は「教会の誕生日」とみなされます。

当時、神さまのメッセージというのは当時の旧約の民イスラエルの言葉以外で語られないものとされていました。しかし、この出来事により、どこから来た人にも理解できる言葉、そこに集まったひとりひとりの心のいちばん深い所に届くような言葉で、神の恵みが届けられ始めたのです。

今日の旧約の日課のバベルの塔の物語は、このペンテコステの出来事と対になるような物語です。これは「なぜ世界は異なる言語で話すようになったのか」という原因譚です。統一支配の象徴として高い塔を建てようとしていた人々が、それが神の御心に適わなかったため、言葉をばらばらにされ、全世界へ散らされた。私たちはもしかすると、この物語に神の横暴さを感じるかもしれません。言葉が一つなのはいいことではないのですか、神さま、と。しかしこの物語は実は、当時メソポタミア地方を支配し、周辺諸国を自分たちの文化に統一していったバビロニアなどの大国支配へのアンチテーゼであるとも言われます。すべてが一つであること…一見、それは良いことかもしれませんが、それらは実は「自分たちと異なる者は許さない」という、多様性の否定につながるのです。

ペンテコステのできごとによって、多様な言葉で神の福音が語られ始め、神の恵みがすべての人に向かって開かれました。そこに私たちは、多様性、あらゆる人々が大切にされることにこそ、神さまの御心があるのだということを見ることができるのではないでしょうか。

その聖霊が、今ここに集まった私たちにも与えられています。あのとき弟子たちにくだった聖霊が、いま私たちをも捕えて下さり、教会を、そしてひとりひとりのいのちを、確かに導いてくださる。多様性を祝福してくださるその聖霊の働きに、私たちもそれぞれ押し出されていきたいのです。

恐れの中で、平和

2019年5月26日(日)復活後第五主日礼拝説教要旨 使徒言行録14:8-18, ヨハネ黙示録21:22-27, ヨハネによる福音書14:23-29
リストラに、足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。 この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、 「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩きだした。 群衆はパウロの行ったことを見て声を張り上げ、リカオニアの方言で、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と言った。 そして、バルナバを「ゼウス」と呼び、またおもに話す者であることから、パウロを「ヘルメス」と呼んだ。 町の外にあったゼウスの神殿の祭司が、家の門の所まで雄牛数頭と花輪を運んで来て、群衆と一緒になって二人にいけにえを献げようとした。 使徒たち、すなわちバルナバとパウロはこのことを聞くと、服を裂いて群衆の中へ飛び込んで行き、叫んで 言った。「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。 神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。 しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」 こう言って、二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げようとするのを、やっとやめさせることができた。

わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。 この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。 諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る。 都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである。 人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。 しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる。

イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。 『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。 事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。

今日、イエス様が福音書の中で語られた「平和」ということを、わたしたちはどう考えるでしょうか。戦争がないこと、自分のいのちや生活を脅かすことが何もないこと、いつも心乱されずに安心していられること。それらの平和を守るために、わたしたちは安心を求めます。自分の周りから平和を妨げるものをできるだけ取り除き、心が乱されないようにします。

しかし、わたしたちはいつも平安でいられるわけではありません。思いがけないできごとや、見えない不安などによってその平和が破られるとき、私たちは「心を騒がせ」、「おびえ」、そして周りを攻撃したり、あるいは自分を閉じて小さくなることがあります。

  しかし、イエス様はそのわたしたちにこう言われました。「わたしの平和をあなたがたに与える」そして、「わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と。「事が起こったときに、あなたがたが信じるようになるために」…「事」とはイエスがこれから主イエスが向かおうとされる十字架です。まさにこれからイエス様は失われ、弟子たちは、平安を失い、混乱の中に放り出されることになるのです。しかし、これから平和が失われ、恐れに陥ることになるまさにその弟子たちにこそ、イエス様は「そのあなたたちに、わたしは平和を与える」と言われるのです。

 ヨハネ福音書では、イエス様が復活され、弟子たちの中に姿を現されたときのことをこう記します。「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」(ヨハネ20:19)聖書の中でいう平和とは、神と人や、人と被造物の関係が調和しており、結ばれていることを言います。そしてイエス様は、恐れの中にいる弟子たちの中に立ち、「平和」を語ってくださることで、御自分との結びつきが途切れていないということを、示してくださいました。

わたしたちは、目に見える平和が失われるときに、うろたえ、心を騒がせ、おびえます。しかし、復活のイエスさまはmその人間の恐れの真ん中に立ってくださったのだ、と聖書は語っています。不安や恐れはしばしばわたしたちの心を閉ざしてしまいますが、わたしたちの目にはすべてが失われたように見えても、しかし、あの十字架から復活し、恐れの只中に立たれたイエス様によって示された神の恵みは、決して失われることがない。これを希望として仰ぎ見たいのです。

神の前で、神と共に、神なしに

2019年5月19日(日)復活後第四主日礼拝説教要旨 
使徒言行録13:44-52, ヨハネ黙示録21:1-5, ヨハネ福音書13:31-35
次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。 しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。 そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。 主はわたしたちにこう命じておられるからです。『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、/あなたが、地の果てにまでも/救いをもたらすために。』」 異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。 こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。 ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。 それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。 他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。

わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。 更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」 すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。

さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。 子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

「そしてわれわれは―『タトエ神ガイナクトモ』―この世の中で生きなければならない。このことを認識することなしに誠実であることはできない。…(中略)…このように、われわれが成人することが神の前における自分の状態の真実な認識へとわれわれを導くのだ。われわれと共にいる神とは、われわれを見すてる神なのだ(マルコ一五・三四)。神という作業仮説なしにこの世で生きるようにさせる神こそ、われわれが絶えずその前に立っているところの神なのだ。神の前で、神と共に、われわれは神なしに生きる。神はご自身をこの世から十字架へと追いやられるにまかせる。神はこの世においては無力で弱い。そしてまさにそのようにして、ただそのようにしてのみ、彼はわれわれのもとにおり、またわれわれを助けるのである。」
(「ボンヘッファー獄中書簡集」p.417、E・ベートゲ編、村上伸訳、新教出版社、1998年)

今日の福音書の日課の中で、イエス様は『わたしが行く所にあなたがたは来ることができない』(33節)と言われます。このイエス様のメッセージはイエス様が十字架にかかられる前の「告別説教」と言われるものです。この言葉を語られた弟子たちはこれから、イエス様がいない世界を生きていかなければいけない。これからイエス様は、弟子たちを離れて去っていかれます。

これは、私たちが生きる世界の現実の姿ではないでしょうか。私たちが望むのは、神さまがすべてを助け、わかりやすく支えてくださる世界かもしれません。しかし、主がわたしたちに望まれるのはこの世界を私たちが生き抜くこと、しかも「わたし(イエス様)を見なくなる」世界で生き抜くことです。それは私たちが期待する神さま像とは少し異なっているかもしれません。

しかし、まさにその中でこそ私たちの神さまは共におられるということ、こイエス様の十字架、そしてそこからの復活ということにおいて神さまが示してくださったことでした。

 イエス様は弟子のひとりユダが、イエス様を裏切るために出て行ったときに「わたしは栄光を受けた」と言われました。ヨハネ福音書の中でイエス様が「栄光」といわれるとき、それはいつも十字架のことを指します。その栄光…神の輝きは、「神の子が、十字架の上で捨てられたものとなられた」という出来事の中に示されました。神の子であるイエス様が、自ら持たないもの、捨てられたもの、苦しむものとなってくださった。そこに神さまの私たちへの思い、私たちへの愛が現れているのです。その方の「互いに愛し合いなさい」という掟に押し出されて、また私たちはこの神さまが見えない世界を、しかし神の前で、神と共に生きる歩みへと押し出されていくのです。

時代の声を聞き分ける

2019年5月12日(日) 復活後第三主日礼拝説教要旨
   使徒言行録13:26-39、ヨハネ黙示録7:9-17、ヨハネによる福音書10:22-30
兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られました。 エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエスを罪に定めることによって、その言葉を実現させたのです。 そして、死に当たる理由は何も見いだせなかったのに、イエスを死刑にするようにとピラトに求めました。 こうして、イエスについて書かれていることがすべて実現した後、人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました。 しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです。 このイエスは、御自分と一緒にガリラヤからエルサレムに上った人々に、幾日にもわたって姿を現されました。その人たちは、今、民に対してイエスの証人となっています。 わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせています。 つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。それは詩編の第二編にも、/『あなたはわたしの子、/わたしは今日あなたを産んだ』/と書いてあるとおりです。 また、イエスを死者の中から復活させ、もはや朽ち果てることがないようになさったことについては、/『わたしは、ダビデに約束した/聖なる、確かな祝福をあなたたちに与える』/と言っておられます。 ですから、ほかの個所にも、/『あなたは、あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしてはおかれない』/と言われています。 ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りについて、祖先の列に加えられ、朽ち果てました。 しかし、神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです。 だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、 信じる者は皆、この方によって義とされるのです。

この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、 大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、/小羊とのものである。」 また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、 こう言った。「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、/誉れ、力、威力が、/世々限りなくわたしたちの神にありますように、/アーメン。」 すると、長老の一人がわたしに問いかけた。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」 そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。 それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、/昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、/この者たちの上に幕屋を張る。 彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、/太陽も、どのような暑さも、/彼らを襲うことはない。 玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、/命の水の泉へ導き、/神が彼らの目から涙をことごとく/ぬぐわれるからである。」

そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。 イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」 イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。 しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。 わたしと父とは一つである。」

これまで私たちは、三週間にわたって、復活のイエス様と出会う物語を聞いてきました。そしてこれから三週間は、その恵みを受けた私たちはどう生きるかを考える三週間であると思います。

今日の福音書の物語は、まだイエス様が十字架にかかられる前に語られた言葉であり、「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネ10:14)との言葉に続く部分です。聖書の中で、神さまと神の民の関係は、しばしば羊飼いと羊の関係に例えられます。

イスラエルの牧羊は「遊牧」形式で、羊は羊飼いについて旅をします。私たちも同じように、イエス様と一緒に旅をします。それはこの礼拝堂の中だけではなく、礼拝が終わってわたしたちが踏み出す新しい一歩を、私たちはイエス様という羊飼いについていくのです。私たちはこれからまた新しく生きる一歩一歩、その中で私たちを導くイエス様の声を聞きながら歩むのです。

私たちは、人生の旅の中で「イエス様の声を聞き分ける」ことが求められています。それは決して、ただ教会に籠って祈り続けることだけではなく、神様のことさえ考えていればいいと世捨て人のようになることでもないと思います。「あなたはここで生きなさい」と神さまが私たちに言われている場所において、一歩一歩を大切に生きる。「イエス様は私にどう生きてほしいと思っておられるだろうか」と考え、みことばに聞きながら、その道を選び取って行く。それがイエス様の声を聞き分けながらついていく、ということではないかと思います。

しかし、羊というのは本当に弱く、そして迷いやすい生き物です。聖書は人間を羊と見ています。私たちは決して強く正しい存在ではなく、弱く、そして迷いやすいものだというのです。私たちはこの時代の中で、迷い、大切なものを見失うことがあります。しかしそのような弱さを抱えてもなお、私たちは、自分の弱さにばかり目を向けるのではなく、その私に対して、イエス様が何をしてくださったか、そのことに心を留めたいのです。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」とイエス様は言われます。羊は本当に主人の声を聞き分けることができるそうですが、それは羊飼いが命がけで羊を守りながら旅をするからです。イエス様も、私たちのためにあの十字架の上で命をささげつくしてくださいました。私たちが聞くのはその「弱さを抱えた私たちのために、すべてを与え尽くして愛してくださる」方の声なのです。その声に耳を澄まして、歩んでまいりましょう。

喜びの食卓

2019年5月5日(日)復活後第二主日礼拝説教要旨 使徒言行録9:1-20、ヨハネ黙示録5:11-14、ルカによる福音書24:36-43
さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、 ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。 ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。 サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。 「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。 起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。 サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。 サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。 ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。 すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。 アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」 しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。 ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」 すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。 わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」 そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」 すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、 食事をして元気を取り戻した。 サウロ、ダマスコで福音を告げ知らせる サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、 すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた。

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

先々週のイースターおよび先週の日課では、復活のイエス様のお姿は見えないか、見えていてもイエス様とわからない、そのような形で復活が示されました。そして今日の聖書の個所は、そのイエス様がとうとう弟子たちに、その姿を現したときのことです。

感動的な場面ではあるのですが、どこかユーモラスです。弟子たちはイエス様の復活が信じられずにおびえている。その弟子たちに対して、イエスは手と足を見せ、それでも弟子たちが信じられずにいるので、その目の前で焼き魚をむしゃむしゃ食べて見せる。

イエス様が「見なさい」と差し出されたその手には、十字架にはりつけにされたときの、釘のあとがあったはずです。これを見せたのは、よく似た別人や幽霊などではなく、イエス本人だということの証明であったのでしょう。しかし弟子たちからすれば、その傷は自分の弱さを見せつけられる傷であったのではないかと思います。しかし、その彼らに彼らがイエス様を見捨てる前と変わらぬ態度で、ともに食事をされるのです。

イエス、恐れる弟子たちに「わたしだよ」と示す。それで、弟子たちがまだ信じられないので、なにか食べ物はないかと尋ね、差し出された焼き魚を召し上がる。お行儀よく食べるというよりも、むしゃむしゃおいしそうに食べて見せた、という方がこの個所には似合うように思います。ほらほら見てごらん、生きてるよ、わたしは生きてるよ!大丈夫だよ!

この当時、一緒に食事をするということは仲間であることのしるしでもありました。そしてこのときの食卓はイエス様の生前より、弱みをさらし合う食卓だったのではないかと思います。弟子たちはイエス様への負い目を抱えてそこにいたかもしれない。しかし、その中でむしゃむしゃ焼き魚を召し上がるイエス様から感じ取ることができるのは、変わらぬ弟子たちへの思いです。イエス様は、その食卓の中で、見捨てられる前と変わることなく、弟子たちと共におられるのです。

私たちが恐れ、動揺しているときも、あの十字架の上で裏切られてなお変わらずに、その恐れの真ん中に立ち、恵みの言葉を語ってくださる方がおられる。2000年前の弟子たちと出会われたように、私たちの人生においても。その方に希望を置いて歩みたいのです。

心を燃やす恵み

2019年4月28日(日) 復活後第一主日礼拝説教要旨 使徒言行録5:12-32、ヨハネ黙示録1:4-18、ルカによる福音書24:13-35
使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが、 ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた。 そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。 人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。 また、エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった。 そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、 使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。 ところが、夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、 「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った。 これを聞いた使徒たちは、夜明けごろ境内に入って教え始めた。一方、大祭司とその仲間が集まり、最高法院、すなわちイスラエルの子らの長老会全体を召集し、使徒たちを引き出すために、人を牢に差し向けた。 下役たちが行ってみると、使徒たちは牢にいなかった。彼らは戻って来て報告した。 「牢にはしっかり鍵がかかっていたうえに、戸の前には番兵が立っていました。ところが、開けてみると、中にはだれもいませんでした。」 この報告を聞いた神殿守衛長と祭司長たちは、どうなることかと、使徒たちのことで思い惑った。 そのとき、人が来て、「御覧ください。あなたがたが牢に入れた者たちが、境内にいて民衆に教えています」と告げた。 そこで、守衛長は下役を率いて出て行き、使徒たちを引き立てて来た。しかし、民衆に石を投げつけられるのを恐れて、手荒なことはしなかった。 彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。 「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」 ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。 わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。 神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。 わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」

ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、 わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。 見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、/ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。 神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」 わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。 ある主の日のこと、わたしは“霊”に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。 その声はこう言った。「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ。」 わたしは、語りかける声の主を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見え、 燭台の中央には、人の子のような方がおり、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた。 その頭、その髪の毛は、白い羊毛に似て、雪のように白く、目はまるで燃え盛る炎、 足は炉で精錬されたしんちゅうのように輝き、声は大水のとどろきのようであった。 右の手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった。 わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、 また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。 さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ。

ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、 この一切の出来事について話し合っていた。 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

あらためて、イースターおめでとうございます。私たちはまだイースターの祝祭の中にいて、くりかえし、イエス様が生きておられるということを確認します。

今日の福音書は、復活のイエス様と弟子たちとの出会いです。エマオへの道を、イエス様の弟子の二人が、論じ合いながら歩いている。彼らはこの時、イエス様が十字架にかかられたエルサレムから離れて、おそらく彼らの出身地であったエマオに戻ろうとしています。その心の中にあるのは決して喜びではなく、「疑い」「失意」「戸惑い」などであったでしょう。

彼らはイエス様の復活の知らせをすでに聞いています。にもかかわらず、彼らは復活を信じきれない。それは復活ということの非常識さもさることながら、それ以上に、彼らの心が深い悲しみに覆われてしまっていたからでしょう。しかしその彼らに復活されたイエス様が現れて寄り添い、ともに歩き始められます。しかし、この二人の弟子の目は遮られていて、一緒に歩いてくださっているのがイエス様だと気づかない。目の前で起こったことに囚われ、ふさぎこんでしまい、周りが見えなくなってしまっている…そんなことが、私たちにもあると思います。

しかし、そのわたしたちに、目がふさがれているわたしたちにそっと寄り添い、いつの間にか共に歩んでくださっている方がおられるのです。 二人の弟子たちがイエス様に気づいたのは、イエス様が宿に入って食事の席に着き、パンを裂いてくださったときのことでした。「みことばとパン裂き」…これは私たちも今守っている、この礼拝の原型です。礼拝という場は、目には見えないけれどもイエス様が私たちの主人となり、私たちをもてなしてくださる場所です。そしてイエス様は、みことばによって、ふさぎ込む私たちの目を、神さまの恵みに向かって開いてくださいます。

 そしてそのときこの二人は、一緒に歩いてくださっていたのが実はイエス様だったことに気づきます。復活の主に出会った私たちが気づかされるのは、まだ私たちが暗い顔をして歩いていたとき、まだ私の目が遮られていたそのときに、しかしその私たちに近づいて来て一緒に歩いてくださる方がおられたということです。2000年前のエマオの途上だけではなく、今も復活のキリストは寄り添って下さっている。その恵みを見上げて、私たちも新しい道へと歩みだしたいのです。

新しい朝が来る

2019年4月21日(日)イースター<復活祭>礼拝説教要旨
 出エジプト記15:1-11、Tコリント15:22-28、ルカによる福音書24:1-12
モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。主に向かってわたしは歌おう。主は大いなる威光を現し/馬と乗り手を海に投げ込まれた。 主はわたしの力、わたしの歌/主はわたしの救いとなってくださった。この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。 主こそいくさびと、その名は主。 主はファラオの戦車と軍勢を海に投げ込み/えり抜きの戦士は葦の海に沈んだ。 深淵が彼らを覆い/彼らは深い底に石のように沈んだ。 主よ、あなたの右の手は力によって輝く。主よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く。 あなたは大いなる威光をもって敵を滅ぼし/怒りを放って、彼らをわらのように焼き尽くす。 憤りの風によって、水はせき止められ/流れはあたかも壁のように立ち上がり/大水は海の中で固まった。 敵は言った。「彼らの後を追い/捕らえて分捕り品を分けよう。剣を抜いて、ほしいままに奪い取ろう。」 あなたが息を吹きかけると/海は彼らを覆い/彼らは恐るべき水の中に鉛のように沈んだ。 主よ、神々の中に/あなたのような方が誰かあるでしょうか。誰か、あなたのように聖において輝き/ほむべき御業によって畏れられ/くすしき御業を行う方があるでしょうか。

つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。 ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、 次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。 キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。 最後の敵として、死が滅ぼされます。 「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。 すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。

そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。 見ると、石が墓のわきに転がしてあり、 中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。 そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。 それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、 使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。 しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

イースター、おめでとうございます。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ」という天使の宣言を今朝、わたしたちは聴きました。

この知らせを最初に聞いた女性たちは、復活を信じていたからお墓に行ったわけではありません。むしろ彼女たちは、イエス様の葬りを完全なものにするために行ったのです。イエス様はもういないけど、愛する先生に、せめて最後にできるだけのことをしたい。しかし、そのような失意の中にいる彼女たちに、しかしそこで示されたのは「空の墓」でした。

とはいえ「復活」が信じがたいことであるのは確かです。女性たちからそのことを聞いた使徒たちもまったく信じません。こちらは悲しみの中にいるのに、何の悪い冗談だ、と。しかし、イエス様のいちばん弟子ペトロがその中で立ち上がります。彼もまた同じ苦しみと虚しさを抱えていたはずです。だがペトロはその体を抱えて、立ち上がって墓へと走ります。そして、そのペトロに示されたのは「空の墓」でした。本当ならばそこにはわたしたちの「罪の結果」であるイエス様のご遺体が横たわっているはずでした。しかし、そこにはもうそれはなかったのです。

そしてそれは十字架より前に、「人の子は必ず罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活する」と、あらかじめ準備されていたことでした。十字架の前に、弟子たちも女性たちも、弱さや無力さのゆえに打ち砕かれました。しかし、彼らが弱さや無力さに沈み込んでいるとき、しかしその彼らの知らないところで、神様は確かに(弟子たちがイエス様を見捨てるよりも先に、そして実際イエス様を見捨てても、それでも変わらずに)「復活」というご計画を進めておられたのです。そこに私たちは、「何があってもあなたを愛しぬく」とあらかじめ決めておられた神さまからの私たちへの思いを見ることができます。その恵みのもと、私たちはこの朝を迎えています。この恵みに触れるところから、新しい一歩を歩みだしたいのです。

十字架に支えられる

2019年4月14日(日)受難主日礼拝説教要旨 イザヤ53:1-6、ルカによる福音書22章、23章
わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。

さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた。 祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。 しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。 ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。 彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。 ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。 過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た。 イエスはペトロとヨハネとを使いに出そうとして、「行って過越の食事ができるように準備しなさい」と言われた。 二人が、「どこに用意いたしましょうか」と言うと、 イエスは言われた。「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き、 家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています。』 すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい。」 二人が行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。 時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。 イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。 言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」 そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。 言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」 それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」 食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。 しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。 人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」 そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。 また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。 そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。 しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。 食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。 あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。 だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。 あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。 イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」 それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らが、「いいえ、何もありませんでした」と言うと、 イエスは言われた。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。 言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。」 そこで彼らが、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言うと、イエスは、「それでよい」と言われた。 イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。 いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。 そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔 すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。 イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕 イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。 イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」 イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。 イエスは、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われた。 イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。 そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。 そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた。 それからイエスは、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。 わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」 人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。 人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。 するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。 しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った。 少したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言った。 一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った。 だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。 主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。 そして外に出て、激しく泣いた。 さて、見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした。 そして目隠しをして、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と尋ねた。 そのほか、さまざまなことを言ってイエスをののしった。 夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。そして、イエスを最高法院に連れ出して、 「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と言った。イエスは言われた。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。 わたしが尋ねても、決して答えないだろう。 しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」 そこで皆の者が、「では、お前は神の子か」と言うと、イエスは言われた。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」 人々は、「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」と言った。 そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。 そして、イエスをこう訴え始めた。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」 そこで、ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになった。 ピラトは祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言った。 しかし彼らは、「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張った。 これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、 ヘロデの支配下にあることを知ると、イエスをヘロデのもとに送った。ヘロデも当時、エルサレムに滞在していたのである。 彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。 それで、いろいろと尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった。 祭司長たちと律法学者たちはそこにいて、イエスを激しく訴えた。 ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した。 この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。 ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、 言った。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。 ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。 だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」 <底本に節が欠けている個所の異本による訳文> 祭りの度ごとに、ピラトは、囚人を一人彼らに釈放してやらなければならなかった。† しかし、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。 このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。 ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。 しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。 ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」 ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。 そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。 そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。 人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。 民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。 イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。 人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。 そのとき、人々は山に向かっては、/『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、/丘に向かっては、/『我々を覆ってくれ』と言い始める。 『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。 百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。 見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。 イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。 さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、 同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。 この人がピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出て、 遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた。 その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた。 イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、 家に帰って、香料と香油を準備した。 復活する 婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。

今日の福音書の日課のたとえ話は、イエス様がこの世界のことをぶどう園に例えて語られたものであると解釈できます。ぶどう園はこの世界、農夫は神さまからこの世を預かっている私たちです。

神さまはわたしたちを「極めて良い」(創世記1:31)存在として造られました。しかししばしば私たちは神さまが造られた当初の姿、当初の関係から外れてしまいます。この農夫たちも、主人が長い旅に出ている間、いつしかこのぶどう園が主人のものであることを忘れてしまったと語ります。神さまはわたしたちにこの世界でよい実りをもたらしてほしい、と期待しておられるのに、神さまが喜ばれるような歩みからどんどん離れていくようなわたしたち。そしてそのとき、神さまからのメッセージはしばしば私たちの邪魔になります。しかし、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」…これは旧約聖書詩編118からの引用ですが、この世で無用のもの、邪魔なものと考えられているものこそ、実は私たちにとって大切なこと、必要なことなのです。

この農夫たちは、主人(神さま)が送ったメッセンジャーを次々と拒絶します。そして主人が最後の手段として送り込まれた「愛する息子」は、あろうことか殺されてしまうのです。そしてまさにこのたとえ話の通り、イエス様はこの後、すべてを拒絶され、十字架へと挙げられます。

今日、キリストがこの世に現れたら私たちはどのようにふるまうでしょう。「あなたがないがしろにされるなんて、そんなことがあってはなりません」と叫ぶことができるでしょうか。この農夫は私たちの姿でもあるのです。イエス様はここで、「そんなことがあってはなりません」という人々を「見つめて」おられます。その眼差しの前で、私たちはどう申し開きができるでしょうか。主人の言うことを聞かない僕、神様の言葉を無視し、神の世界を壊し続ける私たち。普通であれば、取り去られるべきは私たちなのかもしれません。

しかし、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」。この世から拒絶されたイエス様の十字架、しかし神さまはそこから誰も思いつかない新しいことをなさった。人間のどうしようもない罪、その罪の結果たる十字架を、神は救いの礎とされたのです。

十字架の愛につぶされる

2019年4月7日(日)四旬節第五主日礼拝説教要旨 イザヤ43:16-28、フィリピ3:5-11、ルカによる福音書20:9-19
主はこう言われる。海の中に道を通し/恐るべき水の中に通路を開かれた方 戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し/彼らを倒して再び立つことを許さず/灯心のように消え去らせた方。 初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。 見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き/砂漠に大河を流れさせる。 野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ/わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。 わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。 しかし、ヤコブよ、あなたはわたしを呼ばず/イスラエルよ、あなたはわたしを重荷とした。 あなたは羊をわたしへの焼き尽くす献げ物とせず/いけにえをもってわたしを敬おうとしなかった。わたしは穀物の献げ物のために/あなたを苦しめたことはない。乳香のために重荷を負わせたこともない。 あなたは香水萱をわたしのために買おうと/銀を量ることもせず/いけにえの脂肪をもって/わたしを飽き足らせようともしなかった。むしろ、あなたの罪のためにわたしを苦しめ/あなたの悪のために、わたしに重荷を負わせた。 わたし、このわたしは、わたし自身のために/あなたの背きの罪をぬぐい/あなたの罪を思い出さないことにする。 わたしに思い出させるならば/共に裁きに臨まなければならない。申し立てて、自分の正しさを立証してみよ。 あなたの始祖は罪を犯し/あなたを導く者らもわたしに背いた。 それゆえ、わたしは聖所の司らを汚し/ヤコブを絶滅に、イスラエルを汚辱にまかせた。

わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。

イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。 そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。 更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。 そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』 農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』 そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。 戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。 イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』 その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」 そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。

今日の福音書の日課のたとえ話は、イエス様がこの世界のことをぶどう園に例えて語られたものであると解釈できます。ぶどう園はこの世界、農夫は神さまからこの世を預かっている私たちです。

神さまはわたしたちを「極めて良い」(創世記1:31)存在として造られました。しかししばしば私たちは神さまが造られた当初の姿、当初の関係から外れてしまいます。この農夫たちも、主人が長い旅に出ている間、いつしかこのぶどう園が主人のものであることを忘れてしまったと語ります。神さまはわたしたちにこの世界でよい実りをもたらしてほしい、と期待しておられるのに、神さまが喜ばれるような歩みからどんどん離れていくようなわたしたち。そしてそのとき、神さまからのメッセージはしばしば私たちの邪魔になります。しかし、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」…これは旧約聖書詩編118からの引用ですが、この世で無用のもの、邪魔なものと考えられているものこそ、実は私たちにとって大切なこと、必要なことなのです。

この農夫たちは、主人(神さま)が送ったメッセンジャーを次々と拒絶します。そして主人が最後の手段として送り込まれた「愛する息子」は、あろうことか殺されてしまうのです。そしてまさにこのたとえ話の通り、イエス様はこの後、すべてを拒絶され、十字架へと挙げられます。

今日、キリストがこの世に現れたら私たちはどのようにふるまうでしょう。「あなたがないがしろにされるなんて、そんなことがあってはなりません」と叫ぶことができるでしょうか。この農夫は私たちの姿でもあるのです。イエス様はここで、「そんなことがあってはなりません」という人々を「見つめて」おられます。その眼差しの前で、私たちはどう申し開きができるでしょうか。主人の言うことを聞かない僕、神様の言葉を無視し、神の世界を壊し続ける私たち。普通であれば、取り去られるべきは私たちなのかもしれません。

しかし、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」。この世から拒絶されたイエス様の十字架、しかし神さまはそこから誰も思いつかない新しいことをなさった。人間のどうしようもない罪、その罪の結果たる十字架を、神は救いの礎とされたのです。わたしたちの罪に対して神さまは、それでも私たちを愛しぬくことを選ばれたのです。四旬節は、そのどうしようもない私たちに対する、神様の愛を思い起こす時です。わたしたちは十字架の重みに一度つぶされるでしょう。しかしその十字架に現れた、神さまの大きな愛、救いの恵みをこそ、心に刻みたいのです。

あなたの帰りを待っている

2019年3月31日(日) 四旬節第四主日礼拝説教要旨 イザヤ12:1-6、Tコリント5:1-8、ルカによる福音書15:11-32
その日には、あなたは言うであろう。「主よ、わたしはあなたに感謝します。あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが/その怒りを翻し、わたしを慰められたからです。 見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌/わたしの救いとなってくださった。」 あなたたちは喜びのうちに/救いの泉から水を汲む。 その日には、あなたたちは言うであろう。「主に感謝し、御名を呼べ。諸国の民に御業を示し/気高い御名を告げ知らせよ。 主にほめ歌をうたえ。主は威厳を示された。全世界にその御業を示せ。 シオンに住む者よ/叫び声をあげ、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は/あなたたちのただ中にいます大いなる方。」

現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。 それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。 わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています。 つまり、わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、 このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。 あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。 いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。 だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。

また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

本日の説教要旨の裏面に、一枚の絵を載せています。画家・レンブラントが17世紀に描いた「放蕩息子の帰還」という絵です。そのタイトルからもわかるように、本日の福音書の日課である「放蕩息子のたとえ」、この場面をもとにして描かれたものです。

もちろんこのたとえ話に於いて、父は神さま、二人の息子は人間です。父の財産を生前贈与で受け取った息子が、遠い国で財産を食いつぶしてすべてを失ってしまう。これは神さまの前から離れていく私たちの姿をよく表していると思います。私たちはしばしば自分の目先の欲求を満たすことを求め、そしてそれを手放したくないと思います。残念ながらそれらは永遠ではないのですけれど、しかしそれにしがみついて、どんどん苦しい方向に向かってしまう。そんなことがあります。

弟はすべてを失ったところで「我に返」ります。しかし、父に対してあんな仕打ちをした自分がおめおめ戻れるわけがありません。ですから彼は「雇人の一人にしてください」もう息子でなくていいですから、あなたのところに戻らせてください、というのです。

しかしこの父親は、この弟息子の姿を見つけると「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、口づけした」。そして父はこの息子を、雇人などではなく、大切な息子として迎え入れるのです。

しかし、私たちは素直にこの父親の愛に感動できるでしょうか。ここに出て来る兄弟のどちらかかで言えば、最後に出て来る兄の肩を持つ人が多いのではないでしょうか。そしてこの父親の弟の迎え方に対しても、こんなどうしようもない息子を受け入れる父親が理解できない、非常識だ、と考える人が少なくないと思うのです。

しかし、自分勝手にボロボロになって、自業自得であるがゆえにどこも頼れなくなってしまう、そんな私たち。しかしそんな私たちのことをよく戻って来た、大変だったね、もう大丈夫だよ、と無条件に迎え入れてくださる方がおられる。それは私たちにとってなんとありがたいことでしょう。そしてそれはこの兄にもしっかりと向けられています。この父は、宴会の最中に、兄を迎えに出ます。この父にとっては、この兄も、たとえ自分に反抗的なときであっても、それまで言うことを聞いていたからではなく、その兄が言うことを聞かなくなったとしても、それでも変わりなく息子なのです。

あなたに滅びてほしくない

2019年3月24(日)四旬節第三主日礼拝説教要旨 出エジプト記3:1-15、Tコリント10:1-13、ルカによる福音書13:1-9
モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。 そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。 モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」 主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、 神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」 神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。 それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。 見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。 今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」 モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」 神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名/これこそ、世々にわたしの呼び名。

弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、 皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、 皆、同じ霊的な食物を食べ、 皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。 しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。 これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。 彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」と書いてあります。 彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました。 また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。 彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。 これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。 だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。。

ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。 そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

今日のルカによる福音書13章の前半の、人々からイエス様への報告と、イエス様が人々に告げられたシロアムの塔の話は、それぞれその頃実際に起こった事件と事故だったようです。暴力的で不幸な事件、そして突発的な事故。そしてイエス様はそこにいる人たちに対して「彼らが他のどの人よりも、罪深かったからだと思うのか。あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と言われました。こう聞くと、イエス様も結局、この人たちは罪を犯したからこのような目に遭ったと考えておられるのかと思えます。

しかし、イエス様は聖書の他の個所では、「この人あるいは先祖が罪を犯したから、不幸が起こる」といった因果応報節を否定されてもいます。しかしそれと同時にイエス様は、みんながまったく罪がない、とも言っておられないのです。今日イエス様がはっきり否定しておられるように、私たちは突発的な事件や事故についてその犠牲となった方々への「天罰」などと考えてはならない。しかしそれとは別として、わたしたちは今日のイエス様のことばを真剣に受け止めなければならないと思うのです。私たちが本当に恐れなければならない「滅び」とは何か。それは神さまとの関係の滅び、つまり私たち(あるいはこの世界)が神様が喜ばれる道から離れて行ってしまうことでしょう。私たちは皆総じて、悔い改めが必要な罪びとなのです。

旧約聖書には神に救われながら、神を忘れ、そのことによって国を失う神の民の姿が描かれます。それらの聖書の厳しい言葉は後の世代への警告です。神様を忘れて、自分たちはこんなに苦労した。だから後の世代は自分たちと同じような過ちをしないようにしてほしい。それは「あなたに滅びに至るような生き方をしないでほしい、よいいのちを生きてほしい」という思いの表れです。

今日の福音書の日課の後半のいちじくの木のたとえ、これも私たちへの警告です。3年も実をつけないいちじくに、しびれを切らしたぶどう園の主人が「切り倒せ」と言う。しかしその世話を任された園丁は、いやもう少し待ってください、もう一回チャンスをください。」と訴えるのです。この主人と園丁はそれぞれ神さまとイエス様、そしてこのいちじくは神の民の象徴だと解釈されます。聖書はこれがイエス様を私たちに送ってくださった意味だというのです。

しかし結果として、イエス様の言葉は人々から受け入れられません。いちじくの木は、肥やしを受け入れなかった。いちじくの運命はもう終わりです。しかし、そうではなかったのだ、と福音書は指し示します。神さまは、私たちの代わりにイエス様を「切った」。私たちがこの季節に見上げる十字架は、私たちのどうしようもない罪、そして「それでもあなたに滅びてほしくない」と望まれた、神さまの痛みと愛の現れです。その御心を覚えて、四旬節の歩みを続けたいと思います。

荒れ野を行く神

2019年3月10日(日) 四旬節第一主日礼拝説教要旨 申命記26:5-11、ローマ10:8b-13、ルカによる福音書4:1-13
あなたはあなたの神、主の前で次のように告白しなさい。「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。 エジプト人はこのわたしたちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。 わたしたちが先祖の神、主に助けを求めると、主はわたしたちの声を聞き、わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、 力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、 この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。 わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました。」あなたはそれから、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前にひれ伏し、 あなたの神、主があなたとあなたの家族に与えられたすべての賜物を、レビ人およびあなたの中に住んでいる寄留者と共に喜び祝いなさい。

では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。 聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。 ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。

四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。 そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」 イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。 更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。 そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。 だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」 イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」 そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。 というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。』 また、/『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』」 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。 悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

先週の水曜日から、教会の暦は「四旬節(受難節、レント)」、イエス・キリストのご受難を記念し、私たちの信仰を整える40日間(日曜日を除く)に入っています。教会の歴史では、イエス様の荒れ野の断食にならって、肉卵を食べない質素な食事をしたり、断食や節制を行うなどして、この季節を過ごすのが伝統です。

この四旬節、最初の日曜日の礼拝、ルーテル教会の日課では毎年、このイエス様が荒れ野で誘惑を受けられたという記事が読まれます。イエス様がこの世で福音宣教を始められようとするときに、イエス様は荒れ野で悪魔から誘惑を受けられた。そのことを毎年私たちは四旬節の始まりにくり返し聞くのです。

聖書において悪魔とは「神からわたしたちを引き離そうとするちから」のことを言います。それは、神さまを信じる気持ちを失わせる何かかもしれませんし、わたしたちに希望を失わせようとする何かかもしれません。神さまを信頼し、よりよく生きることから私たちを引き離そうとするものは、実は私たちの身近にあり、そして私たちはそれらに無頓着です。私たちは隣人との出会いやこの世で起こる様々な出来事において、しばしば神さまに喜ばれる道、人を生かす道ではなく、神さまを悲しませる道、人を傷つける道を選んでしまってこなかったでしょうか。

だからこそ私たちは四旬節、いつもよりも意識して自分の信仰を見直したいと思います。そしてそれは、断食などの儀式的なものだけではなく、私たちが普段生活する場所に於いて、私たちが何気なく生活する場所においてこそ、意識的になされるべきものでしょう。しかし荒れ野は人間の弱さや隠したい自分が現れるところでもあります。

イエス様はここで奇跡を使われません。悪魔の誘惑に乗って自分を救う、自分のためにいのちを使う、その道を断ることをイエスは選ばれるのです。そしてそれは荒れ野での四十日だけではなく、生涯を通しての主の歩みの中にこそ現れています。私たちは、この四旬節の最後には、イエス様の十字架を見ます。ご自分の栄光や命よりも、わたしたちの救いを選んでくださった主イエスを知るのです。私たちの弱さとか過ちとかそういったものをすべて背負って、イエス様は十字架にかかられました。イエス様は、ご自分が生きることよりも、わたしたちを生かすことを選んでくださった。自分自身よりも、わたしたちを選んでくださった方、私たちもこの四旬節、イエス様の受難と復活の歩みをたどりつつ、わたしたち自身、イエス様についていく道を歩み始めたいと思うのです。

地の上に輝くひかり

2019年3月3日(日) 変容主日礼拝説教要旨 申命記34:1-12、第二コリント4:1-6、ルカによる福音書9:28-36
モーセはモアブの平野からネボ山、すなわちエリコの向かいにあるピスガの山頂に登った。主はモーセに、すべての土地が見渡せるようにされた。ギレアドからダンまで、 ナフタリの全土、エフライムとマナセの領土、西の海に至るユダの全土、 ネゲブおよびなつめやしの茂る町エリコの谷からツォアルまでである。 主はモーセに言われた。「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。」 主の僕モーセは、主の命令によってモアブの地で死んだ。 主は、モーセをベト・ペオルの近くのモアブの地にある谷に葬られたが、今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない。 モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力もうせてはいなかった。 イスラエルの人々はモアブの平野で三十日の間、モーセを悼んで泣き、モーセのために喪に服して、その期間は終わった。 ヌンの子ヨシュアは知恵の霊に満ちていた。モーセが彼の上に手を置いたからである。イスラエルの人々は彼に聞き従い、主がモーセに命じられたとおり行った。 イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。主が顔と顔を合わせて彼を選び出されたのは、 また、モーセが全イスラエルの目の前で、あらゆる力ある業とあらゆる大いなる恐るべき出来事を示すためであった。

こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。 かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。 わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。 この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。 わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。 「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。

この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。 祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。 見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。 二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。 ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。 その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。 ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。 すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。 その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

変容主日という、教会の暦の節目を迎えています。福音書の日課にあるように、イエス様が山上で光り輝く姿、つまり神さまの輝きが現れた姿に変容されたこと、そのことを記念する日曜日です。

イエス様の姿が輝く姿に変わられたとき、旧約聖書のモーセとエリヤという二人の人がどこからともなく現れ、イエス様と語り合いました。この二人は当時のイスラエルで、神の救いが実現するときに現れると信じられていました。つまりこのとき、救いを待っていた人たちが見たくてたまらなかった光景が実現しており、ここに居合わせた三人の弟子たちはそれを垣間見ているのです。

この輝かしい天国の光景が終わろうとするとき、弟子筆頭のペトロはイエス様にこう言いました。「あなたとモーセ、エリヤの三人分の仮小屋を建てましょう。」。「仮小屋」は、聖書の民にとって、神が宿り、とどまってくださる特別な場所です。つまりペトロはこの輝きをここにとどめておきたいと願ったのでしょう。しかしここでその願いむなしくこの光景は失われ、あとにはもう輝いてはおられない、それ以前と変わらないイエス様が残されます。私たちは、素晴らしいことを経験すると、ずっとその中にいたいと思います。しかし私たちは、ずっとそんな状態でいられるわけではありません。そんなとき、輝かしい天国のような部分にとどまることだけを望んで、そうではないところ、いわばこの世の現実を見たくないと、そう思うことがあるかもしれません。

ディートリッヒ・ボンヘッファーは教会の「この世性」を大切にしました。この世の現実のど真ん中にあること、それこそが教会の意味であると主張しました。それは何よりもまず、イエス様がそうであったからです。今日記念する「変容」とは、イエス様が輝く姿に変わられたのではない。神さまの輝きをもっておられるイエス様が、人となって私たちの間に宿られたこと、それこそが私たちが記念すべき「変容」です。私たちの生きるこの現実を、主は軽く見られることはありません。だからこそ神さまの輝きを持っておられた方が、私たちの間を歩むことを選んでくださったのです。

イエス様に今日あらわれた光は瞬間的なもので、すぐに消え去ってしまいました。そしてこれから弟子たちが見ることになる「イエス様がこれからエルサレムで遂げようとしておられる最期」とは、天国の輝きどころか、鞭打たれて十字架にかけられる、イエス様の姿です。しかし、それほどまでに徹底的に私たちの間を歩まれたその方の姿にこそ、本当の輝きがあるのです。この世界の只中を歩まれるイエス様と生きる歩みへと、私たちもまたここから押し出されていきましょう。

どんなに小さな私でも

2019年2月24日(日)顕現節第八主日・家族礼拝説教要旨 列王記上8:41-44、ルカによる福音書7:1-10
更に、あなたの民イスラエルに属さない異国人が、御名を慕い、遠い国から来て、 ――それは彼らが大いなる御名と力強い御手と伸ばされた御腕のことを耳にするからです――この神殿に来て祈るなら、 あなたはお住まいである天にいましてそれに耳を傾け、その異国人があなたに叫び求めることをすべてかなえてください。こうして、地上のすべての民は御名を知り、あなたの民イスラエルと同様にあなたを畏れ敬い、わたしの建てたこの神殿が御名をもって呼ばれていることを知るでしょう。 あなたの民が敵に向かって戦いに出て行くとき、あなたの遣わされる道にあって、あなたのお選びになった都、わたしが御名のために建てた神殿の方を向いて主に祈るなら、

イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。 ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。 イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。 長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。 わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」 そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。 ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。 わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」 使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。

今日の福音書はひとりの「異邦人」の病が癒されたことについて、語っています。百人隊長とは当時の聖書の舞台であったユダヤ地方を支配するローマ帝国の分隊長です。その彼の部下が病気になったので、イエス様のところに助けを求めに来たという物語です。

しかし彼がこの時代のユダヤで、神の癒しを得るためには少し問題がありました。聖書の中でいう異邦人とはただ「外国人」というだけの意味ではありません。「聖書の民こそが神に選ばれた民族であって、それ以外の異邦人は救いから遠い」という「選民思想」の中で、異邦人は「神の救いから遠い民族」とみなされていたのです。

もちろん社会的にはローマ人の方がユダヤ人を支配する側です。しかしこの百人隊長は、自分が支配する側であるのにも関わらず、ユダヤ人の信仰と習慣を尊重しています。この百人隊長は、まずユダヤの長老たちを使いに出しました。これは、当時、ユダヤ人が異邦人と交流することは、彼らの習慣では良くないこととみなされていたからです。彼は、自分の持つローマの権威を使って押しかけることもできました。しかし彼はそうせずに、イエスの立場を尊重するのです。

「ノブレス・オブリージュ」という言葉があります。権力、社会的地位を持つものは、そうでない人々に対して思いやりを持ち、配慮する責任がある、ということです。おそらくこの百人隊長はそのことをよくわかっている人だったのでしょう。だからこそ彼はさらにここで、ユダヤの信仰を尊重し、イエス様に来てもらうのを遠慮して「ただお言葉だけ下さい」と言ったのです。

しかし、ただの遠慮ではありません。イエス様が「イスラエルの中でもわたしはこれほどの信仰を見たことはない」と感心されたように、心からの信頼のこもった言葉でもあります。聖書は、「神の言葉は生きていて、私たちを救う力がある」と教えます。彼はそのことを信じています。そしてさらに彼は「私は異邦人だが、私も確かに神の権威の中にいる、神のご配慮は自分にも届くはずだ」と信頼しています。自分は異邦人で、神の恵みから遠いとみなされている。そしてこのときイエス様との間には物理的な距離があり、部下の病気に際して何もできない無力な存在だ。しかし、神の恵みはそんなに小さな自分にも、そして今病で苦しんでいる自分の部下にも必ず届く、彼はそう信じているのです。そして聖書がこの物語で伝えていることは、私たちも同じように、神に信頼していいということです。私たちは弱く、無力さを感じることがあるかもしれない。しかし神さまの恵みは、そんな私の弱さを超えて、必ず届く。何よりもまず、そのことを信じたいのです。

いのちの礎

2019年2月17日(日)顕現節第七主日礼拝説教要旨 エレミヤ7:1-7、Tコリント15:12-20、ルカ6:37-49
主からエレミヤに臨んだ言葉。 主の神殿の門に立ち、この言葉をもって呼びかけよ。そして、言え。「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。 イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。 主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。 この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。 そうすれば、わたしはお前たちを先祖に与えたこの地、この所に、とこしえからとこしえまで住まわせる。 しかし見よ、お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない。

キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。 死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。 そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。 更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。 死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。 そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。 そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。 この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。

「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。 与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」 イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。 弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。 木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。 善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」 「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。 わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。 それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。 しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」

この三週間にわたり、ルカによる福音書の「平地の説教」(マタイにおいては「山上の説教」)が主日の聖書個所として与えられています。今日はそのしめくくりにあたる部分です。

マタイでもルカでも、この「岩の上に建てられた家」という箇所をイエス様は長いメッセージのしめくくりとして語られたのだ、ということを聖書は記します。

岩地と砂地に建てられた家…このことからわかるのは、どれくらい深く掘るかよりも、どこに立っているかの方が大切だ、ということではないでしょうか。私たちの生き方についていうならば、自分がよって立つべきところにちゃんと立っているかどうか、さらに言うならば私たちがいま、きちんとイエス様のみことばに立って生きているか、そのことを今日の福音はわたしたちに問いかけてきているように思えます。

「人を裁くな。人を罪人だと決めるな。あなたが人をジャッジするのと同じ秤(はかり)で、あなた自身も図り返される。」「あなたは、兄弟の目にあるおがくずは見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」これらの言葉の前にわが身を振り返るとき、私たちは恥じ入らずにはいられないのではないでしょうか。私たちは、自分が裁かれないために、その前に人を裁くことがあります。自分が罪びととされないために、人を罪びとと決めつけます。そして自分の中の目の中の丸太から目をそらすために、人の目の中のおがくずを指摘します。しかし、そのように自分をごまかそうとする私たちにイエス様はこうも言われます。「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない…(中略)…茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。」どんなに取りつくろってかくしたところで、自分の本質は変わらない……。

イエス様がおっしゃることは確かに厳しく、耳に入れたくないことです。しかし、それと同時に私たちを造り上げる言葉でもあります。「自分が正しいときに正しい宗教なんぞ、われわれは求めない。自分が間違っているときでも正しい宗教、というのを求めるのだ」(G.K.チェスタートン)

イエス様がおっしゃることは、厳しいかもしれませんが、しかしわたしたちの道を正してくださる言葉です。自分自身の中の丸太ときちんと向かい合い、その上で神様と隣人との関係を大切にしようとする生き方へと、招いてくださる言葉なのです。そのみことばを生きようとすることこそが私たちにとって「岩に家を建てること」です。もちろんそこには労力が伴います。砂の上に土台なしで建てる方が、よっぽど建てやすい。しかし、私たちがくじけそうになるときに、そのわたしたちを土台となって支えてくださる方がおられます。時に厳しい言葉によって、私たちをあるべき方向へと導いてくださる方。その方に信頼して、ついていきたいと思うのです。

凛として生きる

2019年2月10日(日) 顕現節第六主日礼拝説教要旨 創世記45:3-15、Tコリント14:12-20、ルカ6:27-36
ヨセフは、兄弟たちに言った。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。 ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか、もっと近寄ってください。」兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。 しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。 この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。 神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。 わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。 急いで父上のもとへ帰って、伝えてください。『息子のヨセフがこう言っています。神が、わたしを全エジプトの主としてくださいました。ためらわずに、わたしのところへおいでください。 そして、ゴシェンの地域に住んでください。そうすればあなたも、息子も孫も、羊や牛の群れも、そのほかすべてのものも、わたしの近くで暮らすことができます。 そこでのお世話は、わたしがお引き受けいたします。まだ五年間は飢饉が続くのですから、父上も家族も、そのほかすべてのものも、困ることのないようになさらなければいけません。』 さあ、お兄さんたちも、弟のベニヤミンも、自分の目で見てください。ほかならぬわたしがあなたたちに言っているのです。 エジプトでわたしが受けているすべての栄誉と、あなたたちが見たすべてのことを父上に話してください。そして、急いで父上をここへ連れて来てください。」 ヨセフは、弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンもヨセフの首を抱いて泣いた。 ヨセフは兄弟たち皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。その後、兄弟たちはヨセフと語り合った。

あなたがたの場合も同じで、霊的な賜物を熱心に求めているのですから、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい。 だから、異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい。 わたしが異言で祈る場合、それはわたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません。 では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。 さもなければ、仮にあなたが霊で賛美の祈りを唱えても、教会に来て間もない人は、どうしてあなたの感謝に「アーメン」と言えるでしょうか。あなたが何を言っているのか、彼には分からないからです。 あなたが感謝するのは結構ですが、そのことで他の人が造り上げられるわけではありません。 わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します。 しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。 兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。

「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。 また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

イエス様が語られた様々な言葉の中で、おそらくもっとも有名で、そして厳しい言葉が語られています。「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい、悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。…」このルカ福音書が書かれた当時、初代教会は実際に苛烈な迫害の中にいました。今の私たちにとっても、この掟は、決して簡単に「はい、そうします」と安請け合いできるようなものではありません。ですからしばしばわたしたちは「仕方ない」という言葉で、この掟を退けたくなります。

しかしこの言葉は、やはり私たちを生かし、いのちを与える言葉であります。「『汝の敵を愛せよ』というイエスのご命令は、決してユートピア的夢想などではありません。それどころか、私たちの生存のために、絶対必要な教えなのです。"敵をすら愛する"ことこそ、世界の諸問題を解決するカギです。」(『汝の敵を愛せよ』マーティン・ルーサー・キングJr牧師)

とはいえ、それがたいへん厳しいことも事実です。旧約聖書の創世記37章以降に登場するヨセフは、実の兄たちによってエジプトに奴隷として売り飛ばされた。本日の旧約の日課は、そのヨセフと兄たちとの再会の場面です。ヨセフは兄たちに「今は過去のことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません」と声をかけます。しかしヨセフにもそう言えるようになるまでに簡単には言い表せない葛藤がありました。確かに兄たちが自分を売ったことで、自分は世界の人々を救うことができた、しかしそれまでにヨセフが受けた痛みや傷は、決して消えるものではないのです。兄たちがしたことは、どんな理由があっても赦されることではない。しかし、そのようなどうしようもない人間の罪の中にすら、働いてくださる方がおられる。しかしヨセフは、そのような罪を超えて働く神の恵みを知ったことで、兄たちを赦す勇気を得るのです。

それは「神は、私たちが悪であるに拘わらず、悪に対し善を返してくださる」恵みです。それはイエス様の十字架という人間の究極の悪に対し、神は復活という形で赦しを示してくださった、その出来事に端的に現れています。人の敵意や悪意の中で神様は、私たちを愛しつづけられた。「あなたがたの天の父が憐れみ深いものであるように、あなたがたも憐れみ深くありなさい」

その神の愛を受け取るところから、私たちもまた人を愛する歩みへと押し出されたいのです。憎しみではなく、人を愛することを選び取る、それは本当に「自由な」生き方ではないかと思います。もちろんつまずくこともあるかもしれませんが、それでも神さまに立ち返りながら歩む、そのわたしたち自身を、神さまご自身に愛の器として差し出していきたいのです。

あなたでいいんだよ

2019年1月27日(日)顕現節第四主日・家族礼拝説教要旨 エレミヤ1:9-12、Tコリント12:20-26、ルカ5:1-11
主は手を伸ばして、わたしの口に触れ/主はわたしに言われた。「見よ、わたしはあなたの口に/わたしの言葉を授ける。 見よ、今日、あなたに/諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し/あるいは建て、植えるために。」 主の言葉がわたしに臨んだ。「エレミヤよ、何が見えるか。」わたしは答えた。「アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。」 主はわたしに言われた。「あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと/見張っている(ショーケード)。」

だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。 わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。 見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。 それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

イエス様が招いた最初の弟子は、特に聖書のことを詳しく学んだ人でも何か特別な訓練を受けた人たちでもなく、イエス様が活動を開始された場所のすぐ近くで漁をしていた漁師たちだったのだ、と、福音書は声をそろえて語ります。しかも、今日の聖書の個所を見るかぎり、後にイエス様の弟子筆頭となったシモン・ペトロは、イエス様についていくどころか、初めはイエス様の話すら聞く気があったようには見えません。

しかしその船に、いきなりイエス様が乗り込んできて、舟を出せという。もしかすると内心、「いい迷惑だな」くらいのことを思っていたかもしれません。シモンが船の中でイエス様の教えをどのように聞いていたかは書かれていません。しかし、夜通し苦労した結果、何もとれなかったためにもう片付けようとしていました。「先生、わたしたちは夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから網を降ろしてみましょう」…このペトロの言葉には、素人が何を言っているんだ、というそんなニュアンスも感じ取れます。

そして…ペトロと仲間の船は、とれた魚で沈みそうになります。そしてその結果に驚き、おそれ、イエス様に「わたしから離れてください!」と言うのです。ペトロはここで、自分の破れに気づかされたのでしょう。それはイエス様へのぞんざいな態度のことかもしれませんし、プロの漁師であるからこその自分が何でも知っている、という傲慢さであったかもしれません。そしてそんな自分の前にいる方は、実は畏れ多い方だった。すみません、私はあなたに近づく資格がない!

しかし、そのイエス様から離れようとするシモンに対し、イエス様は「あなたを人間を取る漁師にしよう」と言われるのです。ペトロにとってそれはまさに思いがけない出来事だったでしょう。疑い半分でイエスの言うことを聞いていた自分、疑い半分で下ろした網だったけれど、それでもそんな自分に、神の出来事が起こった。そしてそれどころか、こんな自分を弟子にしたいと言われるのです。そして実際、今後ペトロはイエス様の弟子となります。彼はその後、優等生だったわけではありません。彼は人間的な弱さを抱えたままであり、一時期は自分に絶望すらします。

しかし、ここでイエス様の恵みを知ったシモンにとって「お言葉ですから、網を下ろしてみましょう」、この言葉は、また新しい意味を持ちます。夜通し苦労しても、思うように行かないときがある。しかし、他ならぬあなたのお言葉ですから。疲れ果てた自分に声をかけてくださり、半信半疑だった自分にも、大きなことをなしとげてくださったイエス様、そのあなたが、そうおっしゃるのなら。こんな自分を通してだって、きっとそこで神様は何かを成し遂げてくださるはず。その希望によりわたしたちも、勇気をもって網を降ろしていきたいのです。

恵みの扉が開く

2019年1月13日(日) 主の洗礼日 礼拝説教要旨 イザヤ42:1-8、使徒言行録10:34-38、ルカ3:15-22
見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。 彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。 傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。 暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。 主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ/地とそこに生ずるものを繰り広げ/その上に住む人々に息を与え/そこを歩く者に霊を与えられる。 主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び/あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として/あなたを形づくり、あなたを立てた。 見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出すために。 わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さず/わたしの栄誉を偶像に与えることはしない。

そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。 どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。 神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、 あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。 つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。

民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」 ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。 ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、 ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 先週の礼拝で「降誕節」(クリスマス)は終わり、「顕現節」が始まっています。わたしたちはクリスマスを祝いました、赤ちゃんイエス様の誕生を祝いました。ここから私たちは、イエス様がこの地上で何をなさったかということをたどっていく季節、「顕現節」を歩んでいきます。

その中で、私たちは今日、イエスさまが洗礼を受けられたことを記念します。イエス様は、「洗礼者ヨハネ」という人から洗礼を受けられます。ヨハネはイエス様が彼の所に行く前から「悔い改めの洗礼」を人々に授けていました。そして彼はイエス様の洗礼は「聖霊と火による洗礼」であるといいました。火は、すべてのものをきよめる働きがあるとされていましたが、しかし同時に、恐ろしいものです。ヨハネは、神の救いを迎える準備として、自分の罪を知り、神の憐れみを祈り求める悔い改めが、私たちには必要だと宣べ伝えたのです。

しかしわたしたちは自分の弱さや過ちを認めることが得意ではありません。だからこそ私たちは自分の過ちを覆い隠そうとします。今日の福音書の中に登場する「領主ヘロデ(イエスを殺そうとしたヘロデ大王の息子)」もそうでした。彼は今日の福音書に記されている通り、自分の不義をごまかすために、それを指摘した洗礼者ヨハネを逮捕し、投獄します。彼は自分が「罪人として数えられ」間違っていると責められることを受け止めきれなかったのです。

主イエスの洗礼は、イエス様の公生涯の始まり、そして私たちの間で神の御心を示す歩みの始まりです。だからこそ私たちもクリスチャンとしての出発として、洗礼の恵みに預かります。しかしそれでもなお、私たち弱さを抱えた人間と神さまとは、遠く離れているように見えます。

しかし、だからこそ主イエスは、この不完全な地上に降られた。イエス様は自ら、罪人の列の中へと入って行かれました。そしてイエス様がヨハネから洗礼を受けたその時、「天が開けた」(あるいは裂けた)と、どの福音書も記します。「天が開く」という表現は、この世への神さまの介入を示します。弱さを抱えて生きる私たちに、神がイエス様によって連帯してくださった。神の子でありながら、人の子となられたイエスさまによって、天が開き、神の恵みが地に向かって降り注いだ。それほどまでに神さまは私たちのことを大切に思って下さっている。その恵みの中を、わたしたちもまた生きているのです。「あなたはわたしの愛する子」、この言葉を私たちに語られた言葉として深く受け取ることから、新しい季節を歩んでいきたいのです。

説教(2018年)

クリスマスの恵みを胸に

2018年12月30日(日) 降誕後主日礼拝説教要旨 エレミヤ31:10-14、ヘブライ2:10-18、ルカ2:25-40
諸国の民よ、主の言葉を聞け。遠くの島々に告げ知らせて言え。「イスラエルを散らした方は彼を集め/羊飼いが群れを守るように彼を守られる。」 主はヤコブを解き放ち/彼にまさって強い者の手から贖われる。 彼らは喜び歌いながらシオンの丘に来て/主の恵みに向かって流れをなして来る。彼らは穀物、酒、オリーブ油/羊、牛を受け/その魂は潤う園のようになり/再び衰えることはない。 そのとき、おとめは喜び祝って踊り/若者も老人も共に踊る。わたしは彼らの嘆きを喜びに変え/彼らを慰め、悲しみに代えて喜び祝わせる。 祭司の命を髄をもって潤し/わたしの民を良い物で飽かせると/主は言われる。

というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。 事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、 「わたしは、あなたの名を/わたしの兄弟たちに知らせ、/集会の中であなたを賛美します」と言い、 また、/「わたしは神に信頼します」と言い、更にまた、/「ここに、わたしと、/神がわたしに与えてくださった子らがいます」と言われます。 ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、 確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。 それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。 事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。

そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。 そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。 シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。 これは万民のために整えてくださった救いで、 異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」 父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」 また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、 夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、 そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。 親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。 幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。

改めて、クリスマスおめでとうございます。クリスマスのお祝いは25日で終わったわけではなく、「主の命名日」でもある元日も含めて、1月6日の公現日(エピファニー)まで続きます。キリスト教の暦は、祝祭の前だけではなく、祝祭後の余韻をとても大切にします。クリスマスの後にこそ、わたしたちは、イエス様の誕生ということをかみしめて祝いたいのです。

今日の日課の中では、イエス様が生まれて40日後の「お宮参り」のときの、シメオンとアンナという二人の老人がイエス様と出会ったときのことが記されています。この人たちは「神の民に救いが訪れるのをずっと待ち望んでいた」人たちです。そしてこの二人が、聖霊の導きにより、「この赤ちゃんこそが、ずっと待っていた救い主だ」と知らされ、神殿の境内にやってくる。そしてシメオン老人は、赤ちゃんイエス様を腕に抱き「ヌンクディミティス」を歌うのです。

「今こそ私は主の救いをみました」・・・これはわたしたちが毎週礼拝の最後に歌う賛歌です。しかしこのとき、シメオンは「救いを見た」と歌いますが、彼とイスラエルの置かれた状況は何も変わっていません。そして彼が腕の中に抱いているのは、まだ無力な、ただの赤ん坊にすぎません。しかし、それでもシメオンは喜んで歌います。「これで安心して、わたしはこの世を去ることができます。」シメオンは待ち望んでいた希望を見ないままに、世を去ることになります。しかし、彼は神の約束とここで出会ったのです。まだ先は見えない、これから何が起こるかわからない。しかし、神が約束してくださった救いを、わたしはこの胸に抱いた。

「希望とは目に見えない事実を確信する」ことが希望だと聖書には記されています。まだわたしたちの目にははっきりとは希望は見えていない、しかしこの世界は確かにイエス様が来てくださった世界、それほどまでに神様が心にかけて下さっている世界である。わたしたちの世界はまだ平和ではありません。わたしたち自身、無力に思える現実の中を生きています。しかし、この世界はすでに、御子をいただいている世界である、そこに私たちの希望があります。クリスマスの時に、この世界の中で、私たちの中で、神の愛の歩みが始まった。「たとえ明日、世界が終るとしてもわたしは今日、リンゴの木を植える。」この伝・マルティン・ルターの言葉のように、クリスマスの希望を新たに、また新しい年へと歩み出したいのです。

闇の中に光が輝く

2018年12月23日(日) 降誕主日礼拝説教要旨 イザヤ52:7-10、ヘブライ1:1-9、ルカ1:1-14
いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。 その声に、あなたの見張りは声をあげ/皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりに見る/主がシオンに帰られるのを。 歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。 主は聖なる御腕の力を/国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人が/わたしたちの神の救いを仰ぐ。

神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、 この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。 御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。 御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちの名より優れた名を受け継がれたからです。 いったい神は、かつて天使のだれに、/「あなたはわたしの子、/わたしは今日、あなたを産んだ」と言われ、更にまた、/「わたしは彼の父となり、/彼はわたしの子となる」と言われたでしょうか。 更にまた、神はその長子をこの世界に送るとき、/「神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ」と言われました。 また、天使たちに関しては、/「神は、その天使たちを風とし、/御自分に仕える者たちを燃える炎とする」と言われ、 一方、御子に向かっては、こう言われました。「神よ、あなたの玉座は永遠に続き、/また、公正の笏が御国の笏である。 あなたは義を愛し、不法を憎んだ。それゆえ、神よ、あなたの神は、喜びの油を、/あなたの仲間に注ぐよりも多く、あなたに注いだ。」

わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。 そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。 お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。 ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。 二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。 しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。 さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、 祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。 香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。 すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。 ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。 天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。 その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。 彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、

クリスマス、おめでとうございます。厳密にいうとまだ待降節第4主日であって、クリスマスまではまだ少し間があります。しかし本来、クリスマスはキリストの誕生日ではなく(聖書にはイエス誕生の日付は書かれていません)、「キリストの誕生を祝う日」です。こう言った人がいます。わたしたち自身の中にイエス様に生まれていただくなら、いつだってクリスマスなんです、と。

今日の福音書の個所は、伝統的に、12月25日、クリスマス当日の朝に、クリスマスイブの明けた、朝の光の中で読まれてきた聖書の個所であります。14節「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちは、その栄光を見た。」この「言」というのが、人として生まれてこられたイエス様のことをあらわしていると言われています。

この「言」にあたる語は、原典のギリシア語では「ロゴス」といいます。これは単純には言い表せない言葉で、ただ「言葉」という意味だけでなく、「知恵」、特に「神の知恵」「神の叡智(えいち)」的なもの、神的存在をあらわすことばです。最初の日本語訳聖書と言われるギュツラフ訳では、1章1節はこう記されています「ハジマリニ カシコイモノゴザル」。昔は「カシコイ」という言葉には「言葉で言い表せないくらい尊いもの、ありがたいもの」という意味もありました。その「カシコイモノ」が、肉体に宿ってこの世にやってきたというのです。神のロゴスが人間となって、肉体を持ったいのちとなって、わたしたちの間にやってきた。

この「言」を単純に私たちが普段用いる「言葉」と理解することも可能です。言葉は思いを伝えます。神の言葉であるイエス様も、神様からの思いを伝えます。「神さまは、イエス様をわたしたちの間に、しかも貧しい飼い葉おけにお生まれになったように、この世の隅々まで大切に思って下さっている」これがイエス様の存在を通してわたしたちに語られる、神様からの「言」です。

 「人間に対する―まさに弱い者に対する―唯一の生産的な関係は、愛、すなわちその人と交わりを持とうとする意志である。神ご自身は、人間を軽蔑されず、人間のために人間となられたのである」(D.ボンヘッファー「抵抗と信従−ボンヘッファー獄中書簡集」p11)。

 

マリアの決心

2018年12月16日(日) 待降節第三主日礼拝説教要旨 サムエル記下7:8-16、ローマ16:25-27、ルカ1:26-38
わたしの僕ダビデに告げよ。万軍の主はこう言われる。わたしは牧場の羊の群れの後ろからあなたを取って、わたしの民イスラエルの指導者にした。 あなたがどこに行こうとも、わたしは共にいて、あなたの行く手から敵をことごとく断ち、地上の大いなる者に並ぶ名声を与えよう。 わたしの民イスラエルには一つの所を定め、彼らをそこに植え付ける。民はそこに住み着いて、もはや、おののくことはなく、昔のように不正を行う者に圧迫されることもない。 わたしの民イスラエルの上に士師を立てたころからの敵をわたしがすべて退けて、あなたに安らぎを与える。主はあなたに告げる。主があなたのために家を興す。 あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。 この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。 わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が過ちを犯すときは、人間の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。 わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。あなたの前から退けたサウルから慈しみを取り去ったが、そのようなことはしない。 あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」

神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。 その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。 この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。 神にできないことは何一つない。」 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。

ルーテルや他のプロテスタント教会では、イエスの母マリアを「聖母」として崇拝する、聖母信仰はありません。マリアはあくまで人間の女性であり、それ以上でもそれ以下でもない。しかし宗教改革者マルティン・ルターは、マリアを「主イエスの母」として尊敬するのはやぶさかではない、と言いました。しかしそれは決して、マリアが神に選ばれるほど特別きよらかな女性であるから、そのきよらかさを尊敬する、ということではありません。

ルターは、天使の知らせを受け入れたマリアの信仰を尊敬すべきだ、というようなことを言いました。しかしそれにしても、マリアも今日の福音書の日課で記されたいわゆる「受胎告知」の場面においては、初めからすべてを信じて受け入れたわけではありません。マリアはここで天使の知らせを聞いて「戸惑い」、「どうしてそのようなことがありえましょうか」と天使に言います。

それは天使の知らせが荒唐無稽であったことに加えて、マリアにとって、天使のお告げを受け入れることで自分の身に起こることに対する不安もあったと想像できます。当時の常識では、夫や婚約者がいながら他の男の子どもを宿したマリアは、石打の刑で死刑にされても仕方がないところです。実際にはヨセフがマリアを受け入れ自分の子として受け入れてくれたことによって、石打にはされずに済むのですが、マリアが天使の知らせを受け入れることは、それらの困難を引き受けなければならないことでもありました。しかしそこでマリアは天使の知らせを信じて、自分の身に起こることを引き受けるのです。

この時、マリアは「お言葉通り、この身に成りますように」という言葉で自分の人生を引き受けます。この言葉を「なすがままに」と訳することもできますが、しかしそれは決してマリアが投げやりになった、ということではありません。「Let It be to me according to your words」…「あなたの言葉が、わたしに対して成就しますように」。天使は「聖霊の力」がそのマリアと共にあることを告げました。「できないことは何一つない」神さまが、不安や戸惑いや、またこれから多くのトラブルの中を抱えて生きるマリアを、恵みの器として用いられる。戸惑いや不安を抱えながら、しかし、神の助けがあることに信頼して、この身に起こることを引き受けていったマリア。そのマリアの信頼に学び、わたしたちもわたしたちに与えられたミッションを、勇気をもって引き受けていきたいと思うのです。

曲がり道、でこぼこ道でも

2018年12月9日(日) 待降節第二主日礼拝説教要旨 マラキ書3:1-3、フィリピ1:3-11、ルカ3:1-6
見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は/突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者/見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。 だが、彼の来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れるとき、誰が耐えうるか。彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ。 彼は精錬する者、銀を清める者として座し/レビの子らを清め/金や銀のように彼らの汚れを除く。彼らが主に献げ物を/正しくささげる者となるためである。

わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、 あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。 それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。 あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。 わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。 わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。 わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、 本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、 イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。

皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、 アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。 そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。 これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。 谷はすべて埋められ、/山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、/でこぼこの道は平らになり、 人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」

 イエス様のご降誕のお祝い・クリスマスを待つ、「待降節」(アドベント)の第二主日を迎えています。今日の日課は、洗礼者ヨハネという人物が登場し、救い主の到来を告げる場面です。まだ、赤ちゃんイエス様は登場されません。しかし、はっきりとは見えないけれど、神の救いは確かに近づいている。そのようにほのかに期待し、準備をしながら、クリスマスを待つのです。

しかし、ときに「待つ」ことが、「動く」ことよりも力の要るように感じられるときがあります。わたしたちはじっと「待つ」ことがあまり得意ではありません。立ち止まってしまうことで、今の自分を見つめなければならなくなることが怖いのかもしれません。ですから、何かを次から次へと見つけて、立ち止まらずに済むようにする…誰にもそんなときがあるように思います。

アドベントは、楽しい季節でもあると同時に、「わたしたちはイエス様をお迎えする準備ができているか」…そのことを立ち止まって自己点検する季節でもあります。ヨハネは、救いを迎えるために必要なこととして「悔い改めの洗礼」をのべつたえました。それは私たちにとって自分の中の「欠け」であったり、でこぼこしたところと向き合うことも意味します。しかし、そうやって私たちが自分の欠けと向かい合うとき、そこにクリスマスが訪れる。ヨハネに神の言葉が降った場所は「荒れ野」でした。荒れ野は、さえぎるものがないところ、寂しいところ、危険が支配するところです。しかし、そこに神の言葉が降るのです。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」。

この福音書を書いたルカは、イエス様の出来事を記すときに具体的な年代と場所とを示します。これは、イエス様のお誕生が具体的な私たち人間のいのちの真っ只中に、しかも現実の真ん中に、神の恵みが突入してきた、ということです。2000年前、恵みがわたしたちのところに到来した、しかもそれは荒れ野のような時代、場所のただなかで、神の恵みが現れた。

アドベントに自分を見つめるとき、わたしたちは真っすぐではない自分に気づかされるかもしれません。高ぶっているところがあれば打ち砕かれ、自分の現実の姿を見つめることになります。しかし、「山と丘は低くされ、曲がった道がまっすぐに」されたところ、その道を通ってきてくださる方がおられる、その方こそイエス様なのだと聖書は語ります。欠け多きわたしたちを愛し、私たちの中で生きることを決意してくださった神が、私たちのところに来てくださったのです。その恵みを知り、受け入れ、その方と一緒に新しく歩みだそうと決意すること。これが私たちに必要な、クリスマスの準備です。

アドベント―到来

2018年12月2日(日) 待降節第一主日礼拝説教要旨 エレミヤ書33:14-16、Uテサロニケ3:6-13、ルカ19:28-40
見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。 その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。 その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。

兄弟たち、わたしたちは、わたしたちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な生活をして、わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい。 あなたがた自身、わたしたちにどのように倣えばよいか、よく知っています。わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。 また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。 援助を受ける権利がわたしたちになかったからではなく、あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すためでした。 実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。 ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。 そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。 そして、兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい。

イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。 そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、 言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。 もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」 使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。 ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。 二人は、「主がお入り用なのです」と言った。 そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。 イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。 イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。 「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」 すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。 イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」

教会の暦では、クリスマス前の4週間を待降節(アドベント)と呼び、教会のカレンダーはこの日から新しい一年が始まります。アドベントはクリスマスを迎える準備を楽しみに待ちつつ、イエス様をわたしたちのただなかにお迎えする準備をするときです。

 2000年前に生まれた方をいま、わたしたちがお迎えするとはどういうことでしょうか。今日の聖書は、イエス様が、十字架の死を遂げられる1週間前に、当時のユダヤの首都であり、昔から「神の都」だとされるエルサレムに、イエス様が入って行かれる時の出来事です。長い間、救われる日を待ち続けていたユダヤの神の都に、本当の王が来る。特にこのときイエス様が「ろばに乗って入城される」という姿は、旧約聖書で預言されていた救い主がやってくるときの姿そのものでした。だから弟子たちも「イエスこそ約束の救い主だ!」という気持ちを込めて叫ぶのです。

しかしイエス様がこのとき向かっておられたのは、王座ではなく、十字架です。印象的な言葉がいくつかあります。イエスは坂道を下って行かれるということ。そしてそのイエスを大喜びで迎えた人たちは、「天には平和、いと高きところには栄光」と叫びますが、これはイエス様がお生まれになったとき、野原で野宿する羊飼いたちに天使が歌った言葉と似ています(ルカ2章14)。しかし、人々がイエスを迎えたときの言葉は「天には平和、いと高きところに栄光」。イエス様が生まれたときの天使の言葉は「天には栄光、地には平和」なのです。

地は、神様がおられる「天」の反対にあるところであり、そのままでは神の恵みが届かないとされていたところです。しかしイエス様の誕生のとき、天使は、この方のお生まれは「地上に、神の恵みが届かないとされる地上に、神の平和が来る」ためなのだ、というのです。神の恵みが届かない、とされていたところを訪れるために、イエス様はこの世界に来てくださった。そしてその方は、この世で最も低められたところ、十字架に向かって歩まれるのです。

「弟子たちを黙らせてください」という人々に、イエスさまは「言っておくが、この人たちが黙れば石が叫び出す」と言われました。これは、イエスさまによる神さまの救いの出来事は、決して止まらない、ということです。私たちは、この世界は神さまの恵みを受け取るのにふさわしい存在ではないかもしれない。しかし、にもかかわらず(いや、だからこそ)この世界へとイエス様はやってきてくださった。その知らせを受け取ることから、新しい歩みを始めたいのです。

恐れず、しかし油断せず

2018年11月25日(日) 聖霊降臨後最終主日礼拝説教要旨 ダニエル書7:9-10、ヘブライ人への手紙13:20-21、マルコ13:24-31
なお見ていると、/王座が据えられ/「日の老いたる者」がそこに座した。その衣は雪のように白く/その白髪は清らかな羊の毛のようであった。その王座は燃える炎/その車輪は燃える火 その前から火の川が流れ出ていた。幾千人が御前に仕え/幾万人が御前に立った。裁き主は席に着き/巻物が繰り広げられた。

永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、 御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。

「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、 星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。 そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」 「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。 はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

教会の暦は本日をもって一巡し、次週から新しい一年の始まり、イエス様のお生まれを待ち望むクリスマス前の四週間、「待降節」に入ります。教会暦のしめくくりであるこの日に、伝統的に教会では「終末」についての聖書の個所が読まれることになっています。

今日のイエス様の言葉が含まれるマルコ福音書13章は、伝統的に「小黙示録」と呼ばれてきました。「黙示録」というと何か恐ろしいもののように思われており、実際にこの13章も私たちにとって不安を感じるような出来事についても語られているのですが、実際24節で言われる「このような苦難」とは、この福音書が書かれた当時の人々が直面していた危機でした。偽預言者が人々を惑わす、戦争、民や国の敵対、地震や飢きん…そして、聖なる場所に立ってはならないものが立ち、破壊する。本当に絶望的、としか言いようがない状況です。その中で人々はまさに「太陽、月、星が揺れ動くような」、ひっくり返るはずがないものがひっくり返され、その中でどう生きてよいかわからなくなる。それは今の時代にも重なるところがあるかもしれません。

しかし、聖書は、いたずらに不安をあおるために終末について語っているわけではありません。イエス様はその中で、希望を示されているのです。「いちじくの枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子(イエス様のこと)、が戸口に近づいていると悟りなさい」。植物の枝が柔らかくなり、葉が伸び始めるのは春先、まだ寒い時分のできごとです。まだ寒くて春の兆しも見えない時に、しかし冬芽は着々と膨らみ、夏の収穫に備え始める。私たちの目からは混乱してそれどころではないように思えても、それでもいちじくの木が冬のさなかにやがて来る収穫の季節の兆しを見せるように、すべてが死んだように見えても、それでも「人の子が戸口に近づく」…そのさなかで進んでいる、神のいのちがあるということ。そのことをわたしたちは、すべてが終わったと思われたあの十字架から復活されたイエス様の中に、見ることができます。

すべてが揺れ動き、どうしようもないように思えるさなかであっても、神の言葉は滅びず、わたしたちの間で生きて働いている。そのことに信頼し、「終末」を必要以上に恐れるのではなく、その終末に至るまでのわたしたちの「いま」を、大切に生きていきたいのです。

イエス様のまなざし

2018年11月18日(日) 聖霊降臨後第26主日礼拝説教要旨 列王記上17:8-16、ヘブライ人への手紙9:24-28、マルコ12:41-44
また主の言葉がエリヤに臨んだ。 「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」 彼は立ってサレプタに行った。町の入り口まで来ると、一人のやもめが薪を拾っていた。エリヤはやもめに声をかけ、「器に少々水を持って来て、わたしに飲ませてください」と言った。 彼女が取りに行こうとすると、エリヤは声をかけ、「パンも一切れ、手に持って来てください」と言った。 彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」 エリヤは言った。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。 なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで/壺の粉は尽きることなく/瓶の油はなくならない。」 やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。 主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。

このことによって聖霊は、第一の幕屋がなお存続しているかぎり、聖所への道はまだ開かれていないことを示しておられます。 この幕屋とは、今という時の比喩です。すなわち、供え物といけにえが献げられても、礼拝をする者の良心を完全にすることができないのです。 これらは、ただ食べ物や飲み物や種々の洗い清めに関するもので、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません。 けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、 雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。 なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、 まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。 遺言の場合には、遺言者が死んだという証明が必要です。

イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

ひとりのやもめ(寡婦)が神殿にささげた、二レプトン(一クァドランス)の献金をめぐっての物語です。聖書世界において、献金やいけにえは神さまとの「和解」のしるしでした。今でこそお金をささげるものですが、けれども本来奉献とは、神さまからいただいた実りをささげ、そして、それらのささげものと共に、神さまにこれから先の自分自身をささげる。そのように、神さまと自分との関係を新しくするためのものでした。

当時の神殿に設置してあった献金箱は、楽器のホルンのような形をしており、お金を入れた音が響くような造りになっていたそうです。「大勢の金持ちがたくさん入れていた」とありますから、大勢の人が大きな音を立てながらそこにシェケルと言われる神殿用の貨幣を入れていたのでしょう。おそらく彼らは当時のユダヤで力のあった人たちです。それに比べると、彼女がレプトン銅貨二枚をささげたときには、献金箱の音はごく小さな音であっただろうと思います。しかし主はその音を耳にして、「彼女は誰よりもたくさん入れた」と宣言されるのです。

イエス様は貧しい寡婦があのように献金したのだから、あなたたちも同じように精いっぱい生活費ぎりぎりまでささげよ、ということを言われているのではないと思います。私たちが受け取りたいのは、イエス様がどうなさったか、ということです。イエス様は献金箱の「向かい側」に座っておられます。これはイエス様が私たちの眼差しとは異なるところから、私たちのことを見てくださっているということです。そしてそのイエス様は、人々の献金の中から、もっともひそやかに、音もなくささげられたであろう彼女に目を止められ、受け入れられたのです。

「生活費全部を」、という言葉は、「いのちそのもの」を意味する言葉です。そこに彼女のどのような祈りがあったかは、記されていない。けれどもそのレプトン銅貨の中には、彼女の神さまに対する思いがある。その想いを、主は最も大きなささげものであると受けてくださったのです。

イエス様は、彼女の日々の生活の営みを、尊いものとして認め、受け入れてくださいました。そしてイエス様は私たちのささげものや、日々の生活の営みにも、同じように目を注いでくださいます。私たちの手の働きは小さいと思うかもしれない。あるいは自分ではない誰かの働きを「小さい」とみなしてしまうことがあるかもしれません。しかし、その小さな手の働きを、喜んで受けてくださる方がおられます。その方に信頼して、自分のいのちを生きていきたいのです。

その涙はぬぐわれる

2018年11月4日(日) 全聖徒主日礼拝説教要旨 イザヤ26:1-13、ヨハネ黙示録21:22-27、マタイ5:1-6
その日には、ユダの地でこの歌がうたわれる。我らには、堅固な都がある。救いのために、城壁と堡塁が築かれた。 城門を開け/神に従い、信仰を守る民が入れるように。 堅固な思いを、あなたは平和に守られる/あなたに信頼するゆえに、平和に。 どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩。 主は高い所に住まう者を引きおろし/築き上げられた都を打ち倒し/地に打ち倒して、塵に伏させる。 貧しい者の足がそれを踏みにじり/弱い者の足が踏みつけて行く。 神に従う者の行く道は平らです。あなたは神に従う者の道をまっすぐにされる。 主よ、あなたの裁きによって定められた道を歩み/わたしたちはあなたを待ち望みます。あなたの御名を呼び、たたえることは/わたしたちの魂の願いです。 わたしの魂は夜あなたを捜し/わたしの中で霊はあなたを捜し求めます。あなたの裁きが地に行われるとき/世界に住む人々は正しさを学ぶでしょう。 神に逆らう者は、憐れみを受けても/正しさを学ぶことがありません。公正の行われている国で不正を行い/主の威光を顧みようとしません。 主よ、あなたの高く上げられた御手を/彼らは仰ごうとしません。民に対するあなたの熱情を仰がせ/彼らに恥を受けさせてください。敵対する者に向けられるあなたの火が/彼らを焼き尽くしますように。 主よ、平和をわたしたちにお授けください。わたしたちのすべての業を/成し遂げてくださるのはあなたです。 わたしたちの神なる主よ/あなた以外の支配者が我らを支配しています。しかしわたしたちは/あなたの御名だけを唱えます。

わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。 この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。 諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る。 都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである。 人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。 しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる。

イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 そこで、イエスは口を開き、教えられた。 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。

マルティン・ルターの「95か条の提題」から501年目の宗教改革主日です。このできごとをきっかけに、私たちの教会のベースが作られた、とても大切な出来事ではありますが、しかしそれと同時に宗教改革はキリスト教会に分裂という痛みをも、もたらしました。昨年の500年記念行事のシンポジウムにおいて、ルーテル神学校の石居校長はこう言われました「私たちはキリスト教会に分裂をもたらしてしまった、だから私たちは、世界の和解のために働く責任がある」分裂をもたらした責任を受け止め、たとえ違いがあっても、それを乗り越えて共に働く道を探す…500年の仲たがいを超えてそう言えるようになった、特別な時代を私たちは生きています。

そしてこのようなエキュメニカルな対話ができるようになったきっかけが、1962-1964年に渡って行われたカトリック教会の「第二バチカン公会議」です。公会議とは、教皇が招集し、教皇が議長となって行うカトリックの最高議決機関です。紀元325年から、第二バチカン含め21回の公会議が行われましたが、第二バチカンはそれまでの20回の公会議と比べて異色だと言われます。第二バチカン以前の公会議は、いわば「内向き」であり、教義や伝統を保存するための公会議でした。それに対し、第二バチカンは「外向き」であり、内部変革および外部(他教会や他宗教、異文化)との対話を求めようとした公会議だったのです。それはこの第二バチカン公会議が、カトリックの宗教改革と言われるほどです。端的に言えば「自分たちの教義が正しく守られればそれでよい」という考え方から「この現代社会に生きるすべての人の救いのことを考えよう」という考え方へと転換した。そしてこれはルターが宗教改革において教会に望んだことでもあり、500年かけてカトリックと私たち(だけではありませんが)が長年痛みを与え合いつつも、互いに影響を与え合った結果でもあるでしょう。  そこに私たちは神さまの導きを見、そして信頼したいのです。

「外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか」(Tコリント5:12)ルターは新しい教派を作ろうとしたのではなく、ローマ教会の修道士として、自分の所属する教会が、あるべき信仰の姿に立ち返ることを求めて声を上げました。ですからわたしたちはこの宗教改革の記念日を、ただのお祝いの日で終わるのではなく、ましてや「自分たちは正しい側に属している」と誇って他者批判をするのでもなく、教会のまた自分自身の信仰や生き方を見なおし、リフォームする機会として受け止めたいのです。

欠けだらけの私でも

2018年10月21日(日) 聖霊降臨後第22主日礼拝説教要旨 アモス5:6-15、ヘブライ3:1-6、マルコ10:17-31
主を求めよ、そして生きよ。さもないと主は火のように/ヨセフの家に襲いかかり/火が燃え盛っても/ベテルのためにその火を消す者はない。 裁きを苦よもぎに変え/正しいことを地に投げ捨てる者よ。 すばるとオリオンを造り/闇を朝に変え/昼を暗い夜にし/海の水を呼び集めて地の面に注がれる方。その御名は主。 主が突如として砦に破滅をもたらされると/その堅固な守りは破滅する。 彼らは町の門で訴えを公平に扱う者を憎み/真実を語る者を嫌う。 お前たちは弱い者を踏みつけ/彼らから穀物の貢納を取り立てるゆえ/切り石の家を建てても/そこに住むことはできない。見事なぶどう畑を作っても/その酒を飲むことはできない。 お前たちの咎がどれほど多いか/その罪がどれほど重いか、わたしは知っている。お前たちは正しい者に敵対し、賄賂を取り/町の門で貧しい者の訴えを退けている。 それゆえ、知恵ある者はこの時代に沈黙する。まことに、これは悪い時代だ。 善を求めよ、悪を求めるな/お前たちが生きることができるために。そうすれば、お前たちが言うように/万軍の神なる主は/お前たちと共にいてくださるだろう。 悪を憎み、善を愛せよ/また、町の門で正義を貫け。あるいは、万軍の神なる主が/ヨセフの残りの者を/憐れんでくださることもあろう。

だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。 モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました。 家を建てる人が家そのものよりも尊ばれるように、イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされました。 どんな家でもだれかが造るわけです。万物を造られたのは神なのです。 さて、モーセは将来語られるはずのことを証しするために、仕える者として神の家全体の中で忠実でしたが、 キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。

イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。 イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」 ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。 イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、 今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

「ある人」と、イエス様との出会いが、今日の福音書の物語の中心です。彼は多くの財産を持っています。しかし同時に彼は謙虚にイエス様に対して膝をかがめて教えを乞うています。この「ある人」は真剣にイエス様に救いを求めていたのです。イエス様に対する「善い先生」という呼びかけ、それは「善い自分でありたい、神に認められる自分でありたい」という彼の理想の高さです。

イエス様との会話の中からわかるように、彼は小さい頃から聖書で言われている掟を全部守ってきた。しかし、どんなに善い行いをしても、自分が救われるという確信が持てずにいる。だからこそここで彼はイエス様に跪いて誠実に教えを乞うのです。

彼に対する答えはこうでした。「聖書でどう教えられているか、あなたは知っているはず、それを生きればよい。」イエス様が示されたのは、十戒の後半部分、人と人との関係についての掟です。この人は「神の前にきよくなりたい」と考えている。しかしその彼にイエス様は、神との関係ではなく人との関係についての掟を示されました。そしてさらに、「持っている物を売り払い、貧しい人々に施すこと」を薦められ、この人はその言葉に悲しむのです。

悲しみながら立ち去った彼を見送ったイエス様が語られた言葉に、弟子たちは驚きます。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」。当時、財産というのは神さまがその人を祝福しているからこそ与えられるのだ、と考えられていました。つしかしその自分が神さまの前に積み上げたもの、自分の持つ正しさ…それらを手放すようにとイエス様は言われます。「こうありたい」「こうあらねば」…しかし私たちのそのような思いは、結局つきつめていけば、自己満足にしか至らないのかもしれません。

イエスさまは言われました。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」そして、その神さまは、わたしたちを救うためにイエス様を送ってくださった。イエス様はここで、この人を「見つめ、いつくしんで」おられます。これは愛のまなざしです。人の弱さをご存知の上で、それでもその弱いわたしたちのためにすべてを投げ出されるために十字架へと進まれる愛、わたしたちのためにすべてを与えつくされる愛のまなざしです。その方の前で私たちは、もはや自分が正しくあることにこだわらなくてもよいのです。主の眼差しに包まれていることに信頼し、恵みをため込むのではなく、分かち合う歩みへと、押し出されていきたいのです。

ともに生きる

2018年10月14日(日) 聖霊降臨後第21主日礼拝説教要旨 創世記2:18-24、ヘブライ2:5-9、マルコ10:1-16
主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」 主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。 人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。 そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、 人は言った。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。

神は、わたしたちが語っている来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです。 ある個所で、次のようにはっきり証しされています。「あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか。 あなたは彼を天使たちよりも、/わずかの間、低い者とされたが、/栄光と栄誉の冠を授け、 すべてのものを、その足の下に従わせられました。」「すべてのものを彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。 ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。

イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。 ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。 彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、 二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」 家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。

ルーテル教会の結婚式においては、新郎新婦の誓約の言葉の後、今日のみことばの「神が結び合わせてくださったものを、人が離してはいけない」という部分を牧師が宣言します。そのように伝統的に、教会は結婚を神聖なものとみなしています。しかし、その「神聖」という縛りが、例えばDV被害に遭われた方などを傷つけてきた歴史もあることに気を付けなければなりません。

そもそも、現代の我々が考える離婚と、ここで言われる離縁とは少し性格が違います。当時の常識では、それは男性が女性に一方的に申し立てるものでした。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」(申命記24:1)この場合、離縁状は決して断罪のためのものではなく、女性が独身となったことを証明するもの、当時の男性中心社会では立場の弱かった女性を守るためのものでした。立場の強い者の都合で一方的に軽んじられることから弱者を守る掟だったのです。

しかしそれがイエス様の時代になると「離縁状を書けば離縁してもよい」というようにこの掟が受け取られました。聖書の掟が都合のいいように、特に強い立場の人々に都合のいいように利用されていたのです。ここでイエス様は人間が造られたときのことを引き合いに出し、人と人が出会うことは、私たちの意思を超えて神さまが結び合わせてくださったものなのだ、と語られます。

イエス様は、離縁は本来、あなたたちの関係に神さまが望まれていることではないと語ります。しかし、神が定められてパートナーとされたのであっても、それでもなお弱さから、残念ながらその関係が壊れてしまうときがある。しかしそれでもせめて最後の最後まで、できるかぎり相手の存在を尊重する。特に、立場の弱い人々、社会的な弱者が不利益をこうむらないように、残念ながら関係が壊れてしまうことがあっても、小さくされている人のいのちができうるかぎり尊重され、守られるように…離縁状はそのための掟だったのです。それは結婚だけではなく、家族関係、親子関係、友人関係、または敵同士という関係に至るまで、あてはまることではないでしょうか。

たとえ私たちの弱さやかたくなさによって関係が壊れてしまうときであっても、神さまは、命が、特に小さくされがちな存在がどこまでも大切にされることを望んでおられます。どうしても人を傷つけずにいられない私たちではありますが、そんな私たちのことをどこまでも大切に思ってくださる方がおられる、そのことに信頼し、相手を大切にすることを求めていきたいと思うのです。

あなたに生きてほしいから

2018年10月7日(日) 聖霊降臨後第20主日礼拝説教要旨 民数記11:24〜30、ヤコブ4:13〜5:8、マルコ9:38〜50
モーセは出て行って、主の言葉を民に告げた。彼は民の長老の中から七十人を集め、幕屋の周りに立たせた。 主は雲のうちにあって降り、モーセに語られ、モーセに授けられている霊の一部を取って、七十人の長老にも授けられた。霊が彼らの上にとどまると、彼らは預言状態になったが、続くことはなかった。 宿営に残っていた人が二人あった。一人はエルダド、もう一人はメダドといい、長老の中に加えられていたが、まだ幕屋には出かけていなかった。霊が彼らの上にもとどまり、彼らは宿営で預言状態になった。 一人の若者がモーセのもとに走って行き、エルダドとメダドが宿営で預言状態になっていると告げた。 若いころからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは、「わが主モーセよ、やめさせてください」と言った。 モーセは彼に言った。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」 モーセはイスラエルの長老と共に宿営に引き揚げた。

よく聞きなさい。「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、 あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。 むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。 ところが、実際は、誇り高ぶっています。そのような誇りはすべて、悪いことです。 人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。 富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。 あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、 金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。 御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。 あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、 正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません。 兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。 あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。

ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。 人は皆、火で塩味を付けられる。 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

今日の福音書の日課には、マタイによる福音書に並行個所がありますが、そこにはこのように語られています。「つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である」小さいものをつまずかせる者は不幸である」(マタイ18:8)。「つまずく」とは、この場合は神さまへの信仰を失ってしまうことを言いますが、もっと一般的に「歩むべき道を歩むことができなくなること」と言い換えることもできると思います。人間である以上、つまずきは起こりうるのだ、と聖書は言います。しかしそのうえで聖書は、人をつまずかせてしまうことは災いだ、というのです。

マルチン・ルターは「小教理問答」でこのように言っています。「問 あなたは盗んではならない。この意味は」「われわれは、神を畏れ、愛すべきです。それでわれわれは、隣人の金や品物を奪ったり、また不正な品物や取引でもうけたりしないで、むしろ、彼の財産や生活を助けて、改善し、保護するのです。」相手をつまずかせて得る利益は、神さまの御心にかなわないのだと言うのです。しかし私たちは、自分のつまずきには敏感で、人のつまずきには鈍感です。

そんな私たちに、イエス様のたいへん厳しい言葉が語られています。「わたしを信じるこれらの小さな一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。」小さいもの、とは、先週の「子供」にも通じる言葉です。あなたがどんなに小さく扱っている人でも、その人は神さまにとって大切な人、とイエス様は言われているのです。

「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい」。……さらに厳しい言葉でが続きます。しかしこれは、わたしがつまずかせている誰かのためだけではなく、わたしのための言葉でもあると思います。誰かをつまずかせることがないあなたでいてほしい。これは何より「そんなことをして、あなたに滅びてほしくない」というイエス様の私たちに対する愛から出た言葉です。それはやはり、わたしが傷つけた誰かのことはもちろん、こんなどうしようもない自分のことも、イエス様はこの上なく大切にしてくださっているということの表れであると思うのです。

イエス様の厳しい言葉は私たちに、「火」に晒された時のような鋭い痛みを与えます。しかしその火は、わたしたちの中にわたしたちを引き締め、腐敗を防ぐ「塩」を形作ります。イエス様は言われます。「あなたがたの『内に』塩を持ちなさい。」わたしたちがそれぞれに、イエス様の言葉によって、自分の「内側に」塩を持ち、日々を歩む。そうして大切に、神様と隣人との関係を形づくっていく。これが私たちの、イエス様についていく歩みです。

あなたもこの真ん中へ

2018年9月30日(日)聖霊降臨後第19主日礼拝要旨 エレミア11:18〜20, ヤコブ4:1〜10, マルコ9:30-37
主が知らせてくださったので/わたしは知った。彼らが何をしているのか見せてくださった。 わたしは、飼いならされた小羊が/屠り場に引かれて行くように、何も知らなかった。彼らはわたしに対して悪だくみをしていた。「木をその実の盛りに滅ぼし/生ける者の地から絶とう。彼の名が再び口にされることはない。」 万軍の主よ/人のはらわたと心を究め/正義をもって裁かれる主よ。わたしに見させてください/あなたが彼らに復讐されるのを。わたしは訴えをあなたに打ち明け/お任せします。

何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。 あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、 願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。 神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです。 それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、 もっと豊かな恵みをくださる。」それで、こう書かれています。「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる。」 だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。 神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。 悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。 主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。

一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
弟子たちが道すがら、「誰が一番偉いか」と議論しあっているところを、イエス様にたしなめられる、という物語です。イエス様はこの時、十字架にかかるための決意を固めて、道を歩んでおられるところです。そのイエス様の姿の後ろで、弟子たちは「誰が偉いか」と議論をしていた。その対比が滑稽ですらありますが、この弟子たちの姿は私たちにも覚えがあることかもしれません。

「途中で何を議論していたのか」イエス様から問われたとき、弟子たちは黙っています。弟子たちは議論の無益さがわかっている。しかしそれでも彼らは議論をせずにいられない。

わたしたちはしばしば、何がどれくらいできるかで相手の、自分の価値を決めようとします。その弟子たちの真ん中に、イエス様はひとりの子どもを立たせ、抱き上げて言われます。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」

この時代、子どもは半人前の象徴です。この時代の「こども」は、成熟したユダヤ人男性の条件である「律法をよく理解していること」を満たしていないため、肉体的にも精神的にも未熟なものの代表格とみられていました。しかし、その子どもをイエス様は、真ん中に、御自分のいちばん近くに招かれます。当時の社会の中で小さくされていた人、隅に追いやられている人を、イエス様は真ん中へと招かれます。そして、抱き上げ、高められるのです。

わたしたちが気に留めずにいるところにイエス様は目を留めて、そこにいる人をいのちの真ん中へと招かれます。イエス様の後に従う、イエス様の弟子であるということは、わたしたちとって何か輝かしい、誇らしい自分であることではない。この世の中で小さくされている人を、いのちの真ん中に招いていく。小さくされている人が高められるように心を配っていく。

それは社会的に小さくされている人だけではなく、もしかするとわたしたちがつまらないと思っている人、あの人には価値がないと心のどこかでみなしている人のことでもあると思います。わたしたちはやはり心のどこかで、自分の物差しに合わない人をつまらない、とみなしてしまう弱さがあります。しかしそのわたしたちのために、すべてを投げ出された方がおられる。イエス様は、弟子たちの会話をしり目に、エルサレムへと向かわれる。このようなどうしようもない会話を後ろに聞きながら、しかしイエス様は歩みを止められることなく、エルサレムに、神様の救いのご計画としての十字架へと歩んで行かれるのです。愚かな者であるにもかかわらず、そのわたしのために、いのちをすべて使いつくしてくださった方がおられる。その招きに応えていきたいのです。

十字架に歩むイエス

2018年9月23日(日)聖霊降臨後第18主日礼拝要旨 
イザヤ50:4〜11、ヤコブ2:1〜18、マルコ8:27〜38
主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え/疲れた人を励ますように/言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし/弟子として聞き従うようにしてくださる。 主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。 打とうとする者には背中をまかせ/ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。 主なる神が助けてくださるから/わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている/わたしが辱められることはない、と。 わたしの正しさを認める方は近くいます。誰がわたしと共に争ってくれるのか/われわれは共に立とう。誰がわたしを訴えるのか/わたしに向かって来るがよい。 見よ、主なる神が助けてくださる。誰がわたしを罪に定めえよう。見よ、彼らはすべて衣のように朽ち/しみに食い尽くされるであろう。 お前たちのうちにいるであろうか/主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩くときも、光のないときも/主の御名に信頼し、その神を支えとする者が。 見よ、お前たちはそれぞれ、火をともし/松明を掲げている。行け、自分の火の光に頼って/自分で燃やす松明によって。わたしの手がこのことをお前たちに定めた。お前たちは苦悩のうちに横たわるであろう。

わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。 あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。 その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、 あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。 わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。 だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。 また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか。 もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。 しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。 律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。 「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです。 自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。 人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。 わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。 もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、 あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。 しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。

イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」
イエス様の一番弟子である、シモン・ペトロの信仰告白から、今日の福音書の日課は始まっています。イエスさまがペトロに「あなたはわたしを何者だと思うか」といわれ、ペトロは「あなたはメシア、救い主です」と告白する。「あなたにとってわたしは誰か」、この問いに応答するのがわたしたちの信仰告白です。

教会としては、私たちは礼拝の中で「使徒信条」によって信仰を告白します。この信仰告白によって、私たちは全世界に向かって自分の信仰を告白しています。礼拝でみことばをいただき、救いの福音を受けたものとして、全世界に向かってわたしたちはこの方を信じます、と告白する。マルティン・ルターはこの「使徒信条」をこう要約しました。「わたしをお造りになった父である神をわたしは信じる。わたしをあがなってくださった子である神をわたしは信じる。わたしを聖化(きよめ、新しく)してくださる聖霊をわたしは信じる」(大教理問答 第二部 使徒信条)。わたしにとって神さまはこんな方です。それを告白するのが信仰告白です。

そしてそれはただ言葉で告白するだけではなく、ここの世の中で地の塩、世の光として生きることもまた、私たちの信仰告白です。それを今日のイエスさまの言葉で言うならば「自分の十字架を背負って、イエスに従う」ということでしょう。しかしこれは本気で考えると重い言葉です。このご命令は、イエスさまの「受難予告」とセットになっています。イエスがあの十字架の上でわたしたちのためにすべてを与えつくしてくださったように、わたしたちもこの世の中で生きていく。そう生きることがどんなに難しいか、わたしたちは自分でよく知っています。そのことを考えるとき、わたしたちは自分で自分を恥じて、神さまのことなど何も言えなくなってしまいます。

このマルコ福音書の特徴は、弟子の無理解が強調されていることです。弟子たちの格好悪さ、みっともない姿、イエスのことを理解できない不信仰。しかし初代の弟子たちはそれを隠すことなく、大胆に後世に語り伝えました。そして、福音書には、弟子たちの無理解の中を歩み続けられるイエス様の姿が記されています。イエスさまは弟子たちの無理解の中を進まれます。弟子たちの無理解、敵対するものたちの暴力、それらをすり抜けるようにして、十字架へと進まれます。わたしたちの無理解や不信仰をすり抜けるようにして、神の救いのご計画が実現する。わたしたちがどんなに弱くても、勇気がなくても、しかしわたしたちに先立って歩まれるイエス様の姿が、わたしたちがこの方に立ち帰るより先に、そのわたしたちのためにすべてを与えつくしてくださった方の背中が、わたしたちを生かすための十字架を担った背中が、わたしたちの前にある。そのことに信頼して私たちも、自分の十字架を引き受ける覚悟を持ちたいのです。つまずきながらでも、その背中についていくわたしたちでありたいと思います。

神の恵みが開くとき

2018年9月16日(日)敬長礼拝・聖霊降臨後第17主日礼拝要旨
 イザヤ35:4〜10、ヤコブ1:19〜27、マルコ7:31〜37
心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」 そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。 そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。 熱した砂地は湖となり/乾いた地は水の湧くところとなる。山犬がうずくまるところは/葦やパピルスの茂るところとなる。 そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ/汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ/愚か者がそこに迷い入ることはない。 そこに、獅子はおらず/獣が上って来て襲いかかることもない。解き放たれた人々がそこを進み 主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて/喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え/嘆きと悲しみは逃げ去る。

わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。 人の怒りは神の義を実現しないからです。 だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。 御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。 御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。 鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。 しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。 自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。 みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。

それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。 に触れられた。 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。 イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」
今日の福音書の日課では、イエス様が耳が聞こえず、口の利けない人と出会い、癒された。その物語が語られました。耳が聞こえない、というのは外からは見えづらいハンディキャップであると言われます。そしておそらく外から見ると、あまり不自由を感じる場面も他のハンディキャップに比べると、見えにくいものかもしれません。しかしその分、聴覚障碍は、孤独を深く感じるハンディキャップでもあるといわれます。生活面では「見える」分、さほど外からは不自由にしているようには見えなかったかもしれませんが、この人の場合も、たとえば当時、ユダヤの成人男性の義務として大切であったシナゴーグ(会堂)での礼拝などでは、おそらくかなり、周囲の人の手に頼るところが多かったのではないかと思います。

この人が周囲の人々によって、イエス様の所に連れて来られた。そして、イエス様はこの聞こえない人を、ひとりだけ群衆の外へと連れ出し、そして耳を開かれました。

「この方のなさったことはすべて、素晴らしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」と、イエス様の奇蹟を見た人々は口々に言いました。そして今日のイザヤ書35章にはこう記されています。「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。……荒れ野に水が湧き出で、荒れ地に川が流れる。熱した砂地は湖となり、乾いた地は水の湧くところとなる。」…これは、神の救いが実現するときにはこのようなことがしるしとして起こるよ、という旧約聖書の預言の言葉でした。そしてここに記されているとおりに、イエス様はその生涯の中で、見えない人の目を開かれ、そして今日のできごとのように聞こえない人の耳を開かれました。神さまが約束して下さっていたことが、約束通り起こった。それは「癒し」という目に見える出来事以上に、神さまはちゃんと聖書の約束どおり、その民を心にかけてくださっていた、ということのしるしです。

その方は、群衆に埋没していたこの人を連れ出し、向き合い、その人がその人として生きることができるように、回復されました。そこに神さまからの思いがあります。イエス様は開け、と言われました。一義的にはこれはもちろん、この人の耳が開かれたということですが、もう一つ、神の恵みがこの人に向かって開かれた、ということです。イエスさまのエッファタ、開け、という言葉で、天が開くのです。小さくされているすべての人を、ひとりの人として回復してくださる神の恵みが、イエスによって開く。そのことをわたしたちは、この出来事の中から聞くことができると思います。あなたはあなたとして生きていっていい。人を解放し、取り戻す恵みの福音が、いまこの礼拝の中でも語られています。その愛の中を歩みたいのです。

ゆだねて、旅立つ

2018年8月12日(日)聖霊降臨後第12主日礼拝要旨
 アモス7:10〜15、エフェソ1:3〜14、マルコ6:6b〜13
ベテルの祭司アマツヤは、イスラエルの王ヤロブアムに人を遣わして言った。「イスラエルの家の真ん中で、アモスがあなたに背きました。この国は彼のすべての言葉に耐えられません。 アモスはこう言っています。『ヤロブアムは剣で殺される。イスラエルは、必ず捕らえられて/その土地から連れ去られる。』」 アマツヤはアモスに言った。「先見者よ、行け。ユダの国へ逃れ、そこで糧を得よ。そこで預言するがよい。 だが、ベテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王国の神殿だから。」 アモスは答えてアマツヤに言った。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。 主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた。

わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。 天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。 イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。 神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。 わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。 神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、 秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。 こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。 キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。 それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。 あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。 この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。

それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。 そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、 旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、 ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。 また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。 しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。
一部を除いてほとんどのキリスト教会は、一週間の始まりである日曜日に礼拝を守ります。今日の福音書の中でイエス様が十二人の弟子を派遣された。これはこの礼拝を受けている私達にもまた、起こることです。この礼拝をとおしてわたしたちはまた、新しい一週間の生活へと、イエス様によって派遣されるのです。

その弟子たちの任務を「福音宣教」と言います。福音とは「良い知らせ」のことです。神さまからの良い知らせ、それは「神の救いがあなたがたに近づいた」というメッセージです。それを必要な所へ届けることが、宣教です。そのためにイエス様は弟子たちに「汚れた霊に対する権能」を授けられたと記されています。それによって弟子たちは癒しや様々な奇跡を行ったと言います。

それと同じ力がわたしたちに与えられていると言われても、信じられないと思うかもしれません。しかし「汚れた霊に対する権能」とは、汚れた霊…つまり人を縛るさまざまな力から、その人を自由にする力です。人間はいろいろなものに縛られて、がんじがらめになってしまうことがある。そこに神さまの恵みを届けて、その人が自由に生きられる手伝いをする。言葉や行い、ひとつひとつの手の働きを通して、神さまの恵みを伝えるお手伝いをすることが、福音宣教です。

しかしそれは簡単な道のりではありません。イエス様は弟子たちに「身を守る杖を一本、それ以外は最小限の持ち物にしなさい」と言われました。わたしたちは時折、高い壁にぶつかって、自分の無力さを思い知らされることがあります。何も持っていないと苦しむときがあります。しかし、「必要なものは必ず与えられる」、そして時には自分の無力さすら、神さまに用いられるのです。

それでもうまくいかないようなときがあったら、「足の裏の埃を払い落として、次の村へ行け」とイエス様は言われました。「足の裏の埃を払い落とす」というのは当時の決別の動作ですが、これは決して「相手を見捨てる」ということではなく、「できることをやったならば、結果は気にしなくてもよい」ということであると思います。それは決して「後のことはどうでもよい」ということでもなく、「後は神様に任せて、先に進んでも良い」ということだと思うのです。わたしたちもまたこの場所から、一週間の生活へと派遣されていきます。一歩一歩に神さまが働いて下さることを信じて、また一週間を歩みたいのです。

汝の敵を愛せよ

2018年8月5日(日)平和祈願日礼拝要旨 
ミカ4:1〜5、エフェソ2:13〜18、マタイ5:38〜48
終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。もろもろの民は大河のようにそこに向かい 多くの国々が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。 主は多くの民の争いを裁き/はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。 人はそれぞれ自分のぶどうの木の下/いちじくの木の下に座り/脅かすものは何もないと/万軍の主の口が語られた。 どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。我々は、とこしえに/我らの神、主の御名によって歩む。

しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。 キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。 それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。

「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。 だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
今日最初に読まれたミカ書の「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」これは聖書が語る、この世にいつか神の平和が訪れるときの光景です。戦争の道具が必要なくなり、農業の道具へと造り替えられる。いのちを殺すための道具が、いのち(収穫)を生み出す道具へと造り替えられる。それは今日のマタイによる福音書が語るように、すべての人が「敵を愛する」ことができたときに、実現することなのかもしれません。

しかし、「復讐してはならない」「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という聖書の教えを伝えることが、酷な場合もあります。相手を憎まずにいられないほど、深い傷を負った方々がいる。ひどい目に遭わされ、赦すことができずに苦しんでいる方々に対して「敵を愛しなさい」となどと無責任に言い放つことはできません。

しかしそれでも、復讐の感情を手放すことは、とても難しいけれども、何よりも自分自身のために必要なことだと思うのです。マーティン・ルーサー・キング牧師は、「憎しみは憎むその人の人格を破壊してしまう、愛することはその破滅からその人を守る唯一の力だ」と言います。実は敵を愛することは、憎しみを捨て去ることは、自分にとって「敵」である人の為だけではなく、むしろ私たち自身が憎しみによって破壊されてしまわないための、実は何よりもわたしたち自身を守る方法なのかもしれません。

決してそれは貧しい人や差別されている人が泣き寝入りすることは意味しません。キング牧師の抵抗運動は「差別や社会と闘うけれども、憎まない」ということではなかったか、と思います。彼は同じ説教の中で、自分たちを差別する人々に対してこう語りました。「どうぞ、やりたいようにやりなさい。それでも私たちはあなたがたを愛するだろう…(中略)…私たちは自分達自身のために自由を勝ち取るだけではなく、きっとあなたがたをも勝ち取る。そうすれば、私たちの勝利は二重の勝利となろう」(「汝の敵を愛せよ」新教出版社、1965年、p79)

イエス様は言われます。「天の父が完全であるように、あなたたちも完全なものでありなさい」…完全さに程遠い私たちは、イエス様が言われることをすべて実行することなどできません。イエス様もまた、人からの悪意の果てに、十字架にかかって死なれます。しかし、そのような私たちに対してイエス様が言われる「天の父」である神さまは、どこまでも愛であり続けて下さった。罪の極みである十字架からの復活によって、私たちをどこまでも愛しぬいて下さることを示してくださいました。何よりもまず、その神さまの私たち弱い人間に対する愛を思い起こしたいと思います。そこから私たちも、平和を造り出す歩みへと押し出されていきたいのです。

この世の嵐を越えて

2018年7月22日(日)聖霊降臨後第九主日礼拝要旨
 ヨブ記38:1、Uコリント7:1〜16、マルコ4:35〜41
主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。

愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。 わたしたちに心を開いてください。わたしたちはだれにも不義を行わず、だれをも破滅させず、だれからもだまし取ったりしませんでした。 あなたがたを、責めるつもりで、こう言っているのではありません。前にも言ったように、あなたがたはわたしたちの心の中にいて、わたしたちと生死を共にしているのです。 わたしはあなたがたに厚い信頼を寄せており、あなたがたについて大いに誇っています。わたしは慰めに満たされており、どんな苦難のうちにあっても喜びに満ちあふれています。 マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです。 しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました。 テトスが来てくれたことによってだけではなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、そうしてくださったのです。つまり、あなたがたがわたしを慕い、わたしのために嘆き悲しみ、わたしに対して熱心であることを彼が伝えてくれたので、わたしはいっそう喜んだのです。 あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、わたしは後悔しません。確かに、あの手紙が一時にもせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔したとしても、 今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました。 神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。 神の御心に適ったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょう。例の事件に関しては、あなたがたは自分がすべての点で潔白であることを証明しました。 ですから、あなたがたに手紙を送ったのは、不義を行った者のためでも、その被害者のためでもなく、わたしたちに対するあなたがたの熱心を、神の御前であなたがたに明らかにするためでした。 こういうわけでわたしたちは慰められたのです。この慰めに加えて、テトスの喜ぶさまを見て、わたしたちはいっそう喜びました。彼の心があなたがた一同のお陰で元気づけられたからです。 わたしはあなたがたのことをテトスに少し誇りましたが、そのことで恥をかかずに済みました。それどころか、わたしたちはあなたがたにすべて真実を語ったように、テトスの前で誇ったことも真実となったのです。 テトスは、あなたがた一同が従順で、どんなに恐れおののいて歓迎してくれたかを思い起こして、ますますあなたがたに心を寄せています。 わたしは、すべての点であなたがたを信頼できることを喜んでいます。

その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。
今日の福音書では、イエス様と弟子たちの乗った船が、現地の湖であるガリラヤ湖の上で、思いがけない嵐にあったことが記されています。ガリラヤ地方にあるこの湖は、地形の関係で思いがけない突風が吹いて来ることが多かったのだそうです。イエス様の弟子たちは、プロの漁師でした。しかしその彼等にも対処できないほどの嵐が起こった。わたしたちは、自然の一つも言うことを聞かせることなどできない。たとえどんなに熟練した人であってもです。

嵐というのは、人間の意思や力では制御できない大きな力の象徴とも言えます。自然の驚異というのもそうでしょう。そして、ガリラヤ湖を行く船は、私たちそのものと言ってもいいかもしれません。自分の力ではどうにもならない状況に陥った時にわたしたちは慌てます。ガリラヤ湖を行く船は、わたしたちだと言えるでしょう。頼れるものが何もない水面を、夜、船で渡っているところに、嵐による高波が襲う。弟子たちの不安は理解することができるでしょう。しかしその中で、イエス様は大胆にも、船の後ろの方で眠っておられたというのです。

「先生、わたしたちがおぼれても構わないのですか」思わずこう言ってしまった弟子たちのこの言葉はよく理解ができますし、そしてそれは時折、私たちが神様に向かって叫ぶ叫びでもあるでしょう。ここでイエス様の弟子たちは、「自分たちがこんなに慌てているのに」という不満を述べただけで、イエスが実際に波を鎮めて下さるなどとは思っていなかったのかもしれません。しかしイエス様はイエス様の想像以上のことを行われます。

聖書の中に記されたイエス様の働きの中には、このように自然に対する奇跡があります。それはイエス様が、自然をも凌駕することのできる力をお持ちの方だった、ということを私たちに伝えるためです。そしてもう一つ、そのような方がわたしたち人間のところに来て下さったんだ、ということを伝えるためです。

聖書は私たちに、イエスという方は神さまが送った救い主で、神の子だった、と語ります。そしてそのイエス様は、肉体を持って生きた人として生きられました。イエスさまは、神そのものの姿で私たちの前に現れるのではなく、限界のある私たち人間と同じ姿で、私たちの中に宿ってくださったのです。ときどき私たちの人生には、自分の手に負えないことが起こります。しかし、そのわたしたちの只中に、イエスという方が宿ってくださっている。大きな大きな神の力が、わたしたちの間を歩まれたイエス様の中に宿っている。私たちは荒れ狂う嵐の中でただよう船のような状態になることがあります。しかし、その嵐をも支配する力を持った方が、私たちの只中におられます。自分に限界を感じるときにこそ、その方に希望を持ち、信頼したいのです。

いのちの種

2018年7月15日(日)聖霊降臨後第八主日礼拝要旨 
エゼキエル17:22〜24、Uコリント6:1〜18、マルコ4:26〜34
主なる神はこう言われる。わたしは高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。 イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる。 そのとき、野のすべての木々は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、また生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせることを知るようになる。」主であるわたしがこれを語り、実行する。

わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。 なぜなら、/「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。 わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、 あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、 鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、 純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、 真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、 栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、 人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、 悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。 コリントの人たち、わたしたちはあなたがたに率直に語り、心を広く開きました。 わたしたちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたは自分で心を狭くしています。 子供たちに語るようにわたしは言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください。 あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。 キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。 神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる。 だから、あの者どもの中から出て行き、/遠ざかるように』と主は仰せになる。『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、 父となり、/あなたがたはわたしの息子、娘となる。』/全能の主はこう仰せられる。」

また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。
イエスさまは、しばしば、日常のできごとに神さまのことをたとえて語られたことが、福音書には記されています。目に見えない神の国のことを、身近な、手で触れることができるものにたとえて語られる。そのようにして、イエス様は、神の御力というのは決して特別神聖な場所にいなければ見ることができないというのではなく、身近な、私たちの手の触れることができるところで私たちに働きかけて下さるものなんだ、と教えてくださったのです。

イエス様がよく人々に語られた「神の国」とは、その神さまの御力が行きわたった世界のことです。そしてそれは死んでから行く国、天国のことだけを指すのではありません。わたしたちが生きるこの現実を、神さまが気にかけ、働きかけて下さる。そのように神さまが私たちのことを取り仕切ってくださる世界が、聖書の言う神の国です。そういう世界があなたたちのところにやってくるんだよ、とイエス様は語られました。

しかし、そのことを実感できる、神さまが確かに働いてくださっていると信じ続けることは簡単なことではありません。神の国の成就を、妨げるように見える現実がある。たとえば自然災害においてわたしたちが感じる焦りや無力感、あるいは不誠実がまかりとおる社会の現実、あるいは自分自身の弱さ…そのようなものが、神の国が私たちの間にやってくることを妨げているように見える、そのようなときがあるのではないかと思うのです。

しかしその中で、わたしたちを神さまから遠ざけようとするすべてのものを越えて、私たちの目の前にある現実を越えて、わたしたちの只中に蒔かれた神の国の種は確かに実を結ぶ。そのことをイエス様は「からし種」にたとえて語られました。「からし種」は、当時の人たちが知る中で最も小さい種であることから、しばしば大変小さいもののたとえに使われたようです。蒔くときにはあまりにも小さくて心もとなく見える種、しかし、その種が芽を出し成長すると、2〜3メートルほどの草木となる。種が芽生え、草木となる。一見これは当たり前のことです。しかしこの小さな小さな種の中にそれほどのいのちが宿っている、それを改めて考えてみると、そこではとても大きなことが起こっているのです。そして、神さまの御力はそのようなものである、とイエス様は語られるのです。

この小さな種の中に、大きな神のいのちが宿っていて、空の鳥に涼しい木陰を提供する。同じように、誰も気づかないけれども、わたしたちの目に救いや希望が見えない、そのようなときも神さまの恵みはわたしたちの只中に宿り、いのちがないように見えて生きており、そして大きく成長する。わたしたちの小さな、無力に見えるそれぞれの働きの中にあっても、神さまの力は大きく、豊かである。そのことに信頼して、また歩みを続けてまいりたいのです。

喜びは新しい革袋に

2018年6月17日(日)聖霊降臨後第四主日礼拝要旨
ホセア2:16〜22、Uコリント3:1〜6、マルコ2:18〜22
それゆえ、わたしは彼女をいざなって/荒れ野に導き、その心に語りかけよう。 そのところで、わたしはぶどう園を与え/アコル(苦悩)の谷を希望の門として与える。そこで、彼女はわたしにこたえる。おとめであったとき/エジプトの地から上ってきた日のように。 その日が来ればと/主は言われる。あなたはわたしを、「わが夫」と呼び/もはや、「わが主人(バアル)」とは呼ばない。 わたしは、どのバアルの名をも/彼女の口から取り除く。もはやその名が唱えられることはない。 その日には、わたしは彼らのために/野の獣、空の鳥、土を這うものと契約を結ぶ。弓も剣も戦いもこの地から絶ち/彼らを安らかに憩わせる。 わたしは、あなたととこしえの契りを結ぶ。わたしは、あなたと契りを結び/正義と公平を与え、慈しみ憐れむ。 わたしはあなたとまことの契りを結ぶ。あなたは主を知るようになる。

わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか。 わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。 あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。 わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。 もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。

ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」 イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。 しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。 また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」
今日の聖書の箇所は、先週の物語の続き、すなわちイエス様が徴税人であったレビを弟子として招き、また、徴税人や罪人と呼ばれる人たちと食事の席に着かれた、そのできごとに引き続いての問答です。イエスのところにやってきた人々が「なぜあなたがたは断食をしないのか」と問う。

当時の人たちは神の救いを求め、ここで言われているファリサイ派などの宗派においては、週に二度断食をする習慣がありました。それは聖書の律法が読まれる日であり、その律法を守ることの表れとして、苦行としての断食を行ったのです。

しかし、イエス様と弟子たちは、当時のそのような習慣をあまり積極的に行っていなかったようです。福音書の中から見えて来るイエス様像はどちらかというとあまり「宗教的」ではありません。だからこそ、イエス様にそのように問うた人たちは、イエスは律法を大事にしていないのではないか、と感じたのでしょう。確かにわたしたちが想像する「敬虔な宗教者」というイメージは、福音書のイエスにはありません。そしてそれはイエスが、「御自分を熱心で敬虔な者とすること」にであまり興味がなかったからでしょう。主イェスは、御自分を清らかに保つことよりも、徴税人や罪人と呼ばれた人たちと、にぎやかに食事をすることを好まれたのです。

   神さまが旧約において、出エジプトの民に律法を与えたのはなぜでしょうか。それは、たとえば十戒などを見てもわかるように、決して彼らが自分を高めて神に近づくためではなく、彼らが神さまを大切にし、また隣人を大切にして生きるためです。神さまが望んでおられるのは、決して私たちが自分を高めて苦しむことではなく、神の救いを隣人といっしょに喜ぶことだったのです。それこそがイエス様がここで御自分を「花婿」に例えて話されたことにもつながります。

当時の社会はそのことを忘れていました。そして私たちもしばしば、自分のこうあるべき、こうあらねばならない、というのが強すぎて、周りが見えなくなったり、恵みを喜ぶことができなくなったりします。イエス様は「誰も織りたての布で古い服に継ぎを当てることはしない」「新しいぶどう酒は新しい革袋に」と、決して「宗教的」ではない、日常の出来事を用いて教えられました。

織りたての布は、濡れると収縮するので、一度水に晒さなければそのまま服などにすることはできません。また、新しいぶどう酒は盛んに発酵しているので、古く固くなった革袋では、耐えきれずに破裂してしまいます。そのように、イエスのもたらした新しい喜びを、わたしたちも古い自分ではなく、新しい自分としていただきたいのです。それはとても難しいことです。今日の日課位においても「花婿が奪い去られる」−これはイエスの十字架を指すと言われていますが‐結局のところは当時の社会はイエスという、豊かな命をもった新しいぶどう酒を受け入れることができませんでした。それは私たちの姿でもあります。しかし、今日読まれたホセア書は(これもまた神様と私たちとの関係を婚礼に例えた預言書です)「一度自分を裏切ったものを再び迎え入れてくださる方」それを神の愛として語ります。十字架の上で死なれたが、しかしそこから立ち上がり、私たちに死をも超える生き生きとした愛を示してくださった方。その方に迎えられる花嫁として、どう生きるべきかを求めて生きたいのです。

ただの婚礼ではない。ホセア書という預言書は神と人間の関係を結婚関係にたとえている、しかもそれは幸せな結婚関係ではない、他の男を慕って離れて行った妻をもう一度迎え入れる夫。ただの婚礼ではない。一度は自分を裏切ったものを再び迎えてくださる方、その方の花嫁としての婚礼だ。その方に迎えられる花嫁としてわたしたちはどう生きるべきだろうか?

あなたもこの食卓へ

2018年6月10日(日)聖霊降臨後第三主日礼拝要旨
 イザヤ44:21〜22、Uコリント1:18〜23、マルコ2:13〜17
思い起こせ、ヤコブよ/イスラエルよ、あなたはわたしの僕。わたしはあなたを形づくり、わたしの僕とした。イスラエルよ、わたしを忘れてはならない。 わたしはあなたの背きを雲のように/罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。

わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。 神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。 わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。 神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました。 神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、わたしがまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです。 わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはなく、むしろ、あなたがたの喜びのために協力する者です。あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っているからです。

イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。 そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
この「徴税人レビを招く」というエピソードは、マタイによる福音書においては十二使徒のひとりマタイの招きとして記されています。いずれにせよ、イエス様の出来事の中でこの「徴税人を招く」ということが特別な、そしてイエス様の福音を語る上で欠かすことができないできごとであった、ということでしょう。

徴税人とは、ローマから委託されて税金(主に通行税)徴収を請け負う職業であり、その職責から、当時のユダヤ社会の中では偏見の目で見られている人々でした。

そしてイエス様は、その徴税人や罪びとと呼ばれる人たちと積極的に交流し、彼らを弟子にしました。彼らはイエス様の招きによって、神さまについていく新しい生き方に入りました。しかし、イエスに敵対する人々はそれを好ましく思わなかった。その結果起こったのが、今日のイエス様とファリサイ派との問答です。「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」。イエス様のおっしゃることは明快です。わたしは、社会の中で罪人とされ、神から遠いとされている人たち、このような人を招くために来た。力強い招きと、慰めの言葉です。

しかし…もし自分がその場にいたら、わたしはイエス様とファリサイ派、どちらの側についたでしょうか。聖書を読むわたしたちは、しばしばファリサイ派を悪役、敵役とみなします。しかし当時としてはファリサイ派はいわば与党であり、はたから見て、「神のために生きることを追求し、それを人にも教える」彼らは非の打ちどころのない宗教的なエリートでした。対して徴税人は嫌われ者です。おそらく決して品行方正とは言えない人たちの集まりだっただろうと、想像できます。

ファリサイ派は「あんたたちの先生は、あんなやつらと一緒に食事をするなんて」と弟子たちに言います。しかしもしかすると、そこにいる群衆の中にも、同じような思いでイエス一行の食卓を眺めていた人が多くいたかもしれません。そしてその中に自分もいたかもしれないのです。

「わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」。イエス様が招いておられる誰かのことを、自分は厳しい眼差しで見ていたかもしれない。そのことに気づかされるのは苦しいことです。しかしその痛みに気づくとき、イエス様の言葉が新たな力をもって、私たちに迫ってきます。「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である。わたしは正しい人ではなく、罪びとを招くために来た」。わたしこそが病人であり、正されるべき罪びとである。しかしそこに「わたしはあなたを招くために来た」と言ってくださる方がおられるのです。その方が、徴税人や罪びとの大勢同席する食卓から、わたしたちを招いてくださるのです。その招きに応えて立ち上がり、新しい生き方へと歩み出したいのです。

癒しと救い

2018年6月3日(日)聖霊降臨後第二主日礼拝要旨 ミカ7:14-20,Tコリント9:24-27,マルコ2:1-12
あなたの杖をもって/御自分の民を牧してください/あなたの嗣業である羊の群れを。彼らが豊かな牧場の森に/ただひとり守られて住み/遠い昔のように、バシャンとギレアドで/草をはむことができるように。 お前がエジプトの地を出たときのように/彼らに驚くべき業をわたしは示す。 諸国の民は、どんな力を持っていても/それを見て、恥じる。彼らは口に手を当てて黙し/耳は聞く力を失う。 彼らは蛇のように/地を這うもののように塵をなめ/身を震わせながら砦を出て/我らの神、主の御前におののき/あなたを畏れ敬うであろう。 あなたのような神がほかにあろうか/咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に/いつまでも怒りを保たれることはない/神は慈しみを喜ばれるゆえに。 主は再び我らを憐れみ/我らの咎を抑え/すべての罪を海の深みに投げ込まれる。 どうか、ヤコブにまことを/アブラハムに慈しみを示してください/その昔、我らの父祖にお誓いになったように。

あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。 競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。 だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。 むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。

数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、 四人の男が中風の人を運んで来た。 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。
緑の季節…「教会の半年」「信仰の成長の季節」ともいわれる季節です。新しい季節へと押し出される私たちは、伸び行く若葉のように、主の聖霊によって導かれます。その姿は見えないけれども、しかし私たちは確かにその導きの中にある。しかし、見えない恵みを信じ続けるというのは、私たちにとっては時にたいへん難しいことです。

 今日の福音書において、イエス様はひとりの中風の人を癒されました。イエス様の癒しによって、この人は体の麻痺から解放されました。それは喜ばしいことです。しかし、ここでイエス様が癒しを行われた経緯が気になります。イエス様は、この屋根からつり降ろされた人に対して、癒しより前にこのように宣言されます。「子よ、あなたの罪は赦される」。当時、病気や障害はその人の罪の結果であるという迷信が広く信じられていた時代でした。イエス様と言えども、そう考えておられたということなのでしょうか。自分の病気やハンディキャップが罪の結果だと考える…それはとても苦しいことです。ただでさえ、罪に苦しめられるのはつらい。赦されている実感を持つのは難しい。ファリサイ派の「神お一人の他に、いったい誰が罪を赦すことができるだろうか」という言葉は正論です。「赦された」と言われても、自分などに神の恵みが届くはずはない。そんな思いが自分の周りを殻のように覆ってしまうときがあります。

……しかしそこで行われた奇蹟によって、目に見えない世界の赦しが、見える形で開かれたのです。イエス様の今日の癒しの出来事は、ファリサイ派との問答の後に起こりました。「神お一人の他に、いったい誰が罪を赦すことができるだろうか」……罪が赦されたと言葉で言われたって信じられないのか、ならば目に見えるしるしを見せよう、と。

この病気の人の人生とイエス様との間にあったすべての壁となるものを越えて、イエス様の奇蹟は彼に届きます。私たちの罪は、しばしばわたしたちを抑え込もうとします。自分の人生を生き生きと生きることから、私たちを引き離そうとします。しかし、「罪を海の深みに投げ込む」(ミカ書7:19)という圧倒的な力を持って、神の恵みが私たちに迫ってくるのです。それがイエス様の奇蹟によってわたしたちに示されたことです。たとえ目の前に分厚い壁があろうと、それを越えてわたしたちに介入してくる神の圧倒的な御力がある。イエス様の「奇蹟」はその「しるし」なのです。

私たちはそのことに信頼してよいのです。もちろん自分のこともそうですし、この中風の人を「自分達にはどうにもならないけど、イエスさまなら何とかしてくれる」…そう信じて連れて来た四人の友人たちのように、私たちも自分の心にかかっている誰かのことについても、神の恵みが必ずその人にも届く…そう信じて、祈りゆだねていきたいのです。

主の愛に押し出されて

2018年5月27日(日)三位一体主日礼拝要旨 イザヤ6:1〜8、ローマ8:14〜17、ヨハネ3:1〜12
ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。 上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。 彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」 この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。 わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」 するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。 彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」 そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」

神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。 もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。

さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。 はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。 わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。
「三位一体主日」と言われる日曜日です。私たちを造って下さった父なる神、私たちを罪から救い出してくださった御子なるキリスト、そして私たちを支えて下さる聖霊なる神。キリスト教会はこの三者はひとりの神であり、そしてこの三つがそれぞれ生きて働く主であるとそう告白します。といってもおそらく分かりにくいと思いますが、この主日にわたしたちが受け取るべきことは、知識として三位一体を理解することではないと思います。聖書の物語は2000年以上の「過去」の物語を語りますが、それは「いま」のわたしたちが、その神さまの働きが今の私たちにもある、そのことを信じて力づけられるためなのです。

しかし、そのことを信じ続けることは容易ではありません。見えない神の働きを感じられるときも確かにあるのですが、こんなわたしに神さまが恵みをくださるんだろうか、こんなわたしに神さまは働いてくださるんだろうか、そう思えることも多いのです。

今日のヨハネ福音書の中に登場した、ニコデモという人もそうであったと思います。彼は夜にイエスのところに来ます。彼の所属する議会は、このときすでにイエスを信じる者を除名すると決めていたようです。ですから彼はこっそり夜にイエス様に教えを請いに来るのです。彼は勇気を出すことができない。イエスを信じると公言したいけれども、自分の立場を失うのが怖くてそれができない。どんなに変わりたくてもその勇気が出ない時があります。いろいろなものが邪魔をして、変われない自分がもどかしくなるときがあります。「年を取った者が、どうして生まれることができるでしょうか」…自分には無理だ、新しく生まれる事なんてできない。こんな自分が、どうして新しく生まれることなどできるでしょうか。…ニコデモの葛藤が見えます。

 しかし、そのニコデモに、イエス様はこう言われます。「『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない」、風は「聖霊」の象徴です。そして「新たに」とは「上から」という意味があります。あなたは自分が新しくなれないと考え葛藤している。しかしその神の聖霊の風は自由なのだから、そんなあなたをも新しくすることができるのだ、そのことに信頼しなさいというのです。

 しかしここではニコデモはこのときにはイエス様にたしなめられたまま去って行きます。そして彼はこの後もう2回福音書に登場します。二度目は彼の議員仲間がイエス様を有罪にしようとするとき、そして三度目はイエス様が十字架にかかられた後、遺体を十字架からとりおろす者としてです。もしかすると十字架の下で、ニコデモは間に合わなかった自分を悔やんだかもしれません。

しかし、そのニコデモの絶望を越えて、彼に働きかける神の恵みがありました。彼が自分の限界を感じ、絶望した、その先に「復活」という、上からの究極の恵みが確かにあったのです。

わたしたちは弱いし、かたくなな存在である。私たちはそのことに絶望することがあるかもしれません。しかし、聖書が語るのは、自分を捕らえ、新しく造り替え、支えてくださる神の恵みがあるということです。私たちはその「父と子と聖霊」の名によって礼拝し、祝福を受けてここから送り出されます。

聖霊の風の中で

2018年5月20日(日)聖霊降臨祭<ペンテコステ>礼拝要旨
エゼキエル37:1-14,使徒2:1-12,ヨハネ15:26〜16:4
主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。 主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。 そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」 そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。 これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。 わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」 わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。 わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。 主はわたしに言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」 わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。 主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。 それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。 わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。 また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」と主は言われる。

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。

わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。 あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。 人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。 彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。 しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」 聖霊の働き 「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。
クリスマス・イースターと並ぶ教会の三大祝祭日のひとつ、聖霊降臨祭(ペンテコステ)です。使徒言行録2章に記されているとおり、イエス様を天へと送った弟子たちに神の聖霊が降り、その聖霊に促されるように弟子たちが、異なる国の言葉で神さまのことを語り出した。この不思議な出来事をきっかけとして、キリストの福音が世界中に開かれた。そのことを記念する日曜日です。

とはいえクリスマス、イースターと違い、目に見えない「聖霊の働き」を私たちが理解することはたやすいことではありません。非現実的だから信じられないというだけではなく、やはりわたしたちにとって、一時は信じることができたとしても、目に見えないものごとを変わらずに信じ続けることは決して容易なことではない。本当にわたしにそのような恵みが働いているのだろうか。そう考えてしまうときがあるのです。

ここで弟子たちに実際のところ何が起こったか、そのことをはっきりとすべての人が理解できるように説明することは不可能だと思います。しかし、その中でも確かなことがあります。イエスの十字架の夜に、イエスを見捨てて逃げ去ったはずの弟子たちが、そしてイエスの復活後もヨハネ福音書等によれば「ユダヤ人を恐れて戸に鍵をかけて閉じこもっていた」(ヨハネ20章など)はずの弟子たちが、なぜかこのペンテコステの日を境に、力強く、自分たちが見捨てて逃げたイエスこそが救い主だ、と人々の前で力強く証し始めた、ということです。

今日のエゼキエル書の日課も、「霊」の働きについて語ります。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みは失せ、我々は滅びる』と。」とあるとおり、預言者エゼキエルの見た甚だしく枯れた骨は、当時の神の民イスラエルが置かれていた状況でした。神の民でありながら神に背き、それゆえに神から見捨てられたのだと絶望していた旧約聖書の神の民。彼らはすでに自分の内側には神にふさわしいものを何も持っていないという状況でした。しかし主はそこにこう言われるのです。「それゆえ、預言して彼らに語りなさい」…「それゆえ」と主は言われます。「だからこそ、わたしはあなたたちを再び立たせよう」と言われるのです。「それゆえ、わたしはお前たちの墓を開く。我が民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く」どんなに甚だしく枯れていても、その枯れた骨を再び生かすことのできる力が神からくる、それがペンテコステの希望です。

その聖霊は働きは「風」にたとえられます。「風は思うがままに吹く」。わたしたちは、私たちの思いを越えて吹き付けて来る神の恵みに信頼することができます。わたしたちがどうしようもなく枯れているところに、わたしたちの内側からではなく外から、新しく造り替えてくださる神の息吹があるのです。

これ以降の弟子たちの働きは、「使徒言行録」に記されています。使徒言行録は弟子たちの働きの記録であると同時に、弟子たちと共に働いた神の聖霊の記録です。そしてその聖霊は、その後2000年に渡って、神の教会をとおして働き続けている。わたしたちの教会の働き、そして信徒としてのわたしたちのひとりひとりの歩みの中に、神の聖霊が働いて御心を成してくださる。そこにわたしたちは信頼していて歩み出したいのです。

この地上を生きる

2018年5月13日(日) 昇天主日礼拝礼拝要旨 使徒1:1〜11、ルカ24:44〜53
テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」 使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。

イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、 あなたがたはこれらのことの証人となる。 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
復活節、そして待降節から約半年続いた教会暦、「主の半年」が間もなく終わり、教会の信仰の成長の季節である「教会の半年」を迎えます。ちょうど今日の聖書の日課でも、主イエスの福音の終わりと弟子たちの歩みの始まりを繋ぐものとして「昇天」の出来事が読まれました。

復活の後、40日間を弟子たちと過ごされたイエス様が、彼らを離れて天へと昇られる。いわば弟子たちに自立を促すかのように、イエス様がこの地上を離れて天へと昇って行かれるのです。

頼りにしていた方が自分から離れてしまう、それは大きな寂しさと不安を伴うものです。特に、弟子たちは、使徒言行録の言葉からも分かるようにイエス様がこれからずっと自分達と共に居て、理想の国を建ててくれる。そのように考えていました。しかしイエスはそこで、その願いを遮るかのように天に上って行かれます。

イエス様は私たちと同じところを歩んでくださいました。しかしイエスはやはりわたしたちとは「異なる」方である、そのことを私たちはこの昇天の出来事から認識します。それは、自分にとって都合のいいイエス様像から、わたしたち自身が離れるということでもあります。わたしたちはもちろんすぐ近くにいて下さる神としてイエス様を認識します。しかし旧約にはこのような神さまの言葉もあります。「わたしはただ近くにいる神なのか、と主は言われる。わたしは遠くからの神ではないのか。」(エレミヤ書23:23)私たちは神さまを、近くにいて守ってくれる存在だと認識すると同時に、やはりわたしたちから「遠い」方であることを、この主日に思い起こしたいのです。

イエス様を遠くからの方であると認めることは、私たち自身のためでもあります。私たちは主の復活という人間の限界を越えたこと、しかも十字架という私たちの罪の極みの中から起こった神の出来事についてこれまで聞いてまいりました。絶望や悲しみ、罪、人の醜い現実…しかしその中から主イエスは立ち上がり、そこに確かに神の力が働いていることを、私たちに示してくださった。私たちはやはり、この地上から離れて生きることはできません。私たちは肉体的にも信仰的にも、限界を持った存在です。しかし、聖書のイエス様のできごとから、私たちは知ることが出来ます。神さまが私たちにどれほど大きなことをしてくださったか。そしてその方が、いまこの地上を生きる私たちにも、その力を確かに働かせてくださることを。聖書を信じるということは、その地上を訪れる恵みを信じること、つまりこの限界を抱えたこの世界の只中に、その上からの力が確かにある、そのことを信じることです。

イエス様を天に見送った弟子たちは、これから今度は地上に目を向けて、イエス様から自立し今度は自分たちの足で福音宣教へと歩み出すことになります。そしてわたしたちも、復活節を終えて、これからまた新しい季節へと出発します。たとえわたしたちに限界があっても、しかしこの地上は復活の主によって祝福されている。その方に希望を持ち、新しい季節へと旅立ちたいのです。

イエスを友として生きる

2018年5月6日(日)復活後第四主日礼拝要旨 ヨハネによる福音書15:11〜17
これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
教会は今、イースター<復活祭>の季節を過ごしています。十字架につけられた神の子イエス・キリストがその死から立ち上がり、弟子たちと再び出会ってくださった…そのことを祝う、キリスト教の春のお祭りです。

今日の福音書の日課の中で、イエス様の一番弟子のペトロと他の弟子たちは湖で漁をしています。ここでの漁はペトロたちの宣教の働きを暗示している、とも言われています。ガリラヤ湖は世界で、魚は世界中の人たち、ということです。しかし、「その夜は何も取れなかった」……ティベリアス湖、つまりガリラヤ湖での漁は、夜に行われていました。真っ暗な湖の中で一晩中なにも取れず、もうすぐ夜が明けてしまう…ペトロたちは疲れ果てて帰って来ます。わたしたちもまた徒労の中で、重い体を引きずって帰ってくることがあります。イースターの復活の喜びを、またわたしたちに働きかけてくださる神の恵みを経験したとしても、わたしたちはずっとその喜びの中に居られるわけではない。つまずき、疲れを覚えるときが、また必ず来るのです。しかし、そんな疲れ果てた弟子たちに、声をかけて下さった方がおられたのだ、と聖書は語ります。

最初弟子たちはイエスだとは分かりませんでしたが、その岸から「魚が取れなかったのなら、もう一度今度は違う方向に網を下ろしてごらん」…不思議なことを言う人の言うとおりにすると、数えきれないほどの魚がかかる。そしてその奇跡を起こしてくださる方で、弟子たちに思い当たるのはひとりしかいませんでした。そして弟子たちは喜んで、イエス様のもとに戻るのです。

弟子たちが岸辺に行くとイエス様が炭火を起こして、弟子たちのために食事の準備をしてくださっているところでした。疲れた弟子たちのために、イエス様が食事の準備をして、待っていてくださったのです。

イエスの十字架と復活の前、弟子たちはイエスのことを理解していませんでした。しかしこのとき弟子たちはイエスが「主であることを知っていた」と聖書は言います。「主」、これは聖書の中で神さまを現す言葉ですが、文字通り「主人」という意味もあります。この方は、わたしたちの主人である、わたしたちのいのちに責任を持ってくださる方である。その方は、十字架という絶望の中から、立ち上がってくださった。その方がいま、ここでわたしたちのために食事を準備して下さっている…これは今ここで、この礼拝の中で私たちに起こっている事でもあります。私たちの日々の働きで、また疲れを覚えることがあったとしても、そのわたしたちを迎えてもてなし、再びここから送り出してくださる方がおられる。その恵みに私たちも、信頼したいのです。

主はいま生きておられる

2018年4月8日(日)復活後第一主日礼拝要旨 マルコによる福音書16:9〜18
〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。 マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。 しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。 その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。 この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。 その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。 信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。
教会の暦は、復活節に入りました。クリスマスと同じように、イースターはその日だけで終わるのではなく、50日間続きます。そのようにして、イースターの出来事をくりかえし心に刻むのです。この復活節には、いつもは旧約が読まれる第一の朗読に「使徒言行録」が読まれます。イエスの復活と出会った弟子たちが、それからどのように生きたか。それが何よりも復活について、雄弁に物語ってくれているからでしょう。

今日のマルコでも信じる者には「悪霊を追い出し、新しい言葉を語る…(中略)…病人に手を置けば治る」と記されているように、使徒言行録には弟子たちの行なった多くの奇蹟が記されていますし、今日読まれた三章でもイエスの一番弟子ペトロがエルサレム神殿の近くで奇跡を行ったことが記されています。しかしこれは、ペトロが凄かった、弟子たちの信仰が強かった、そのことを言いたいのではありませんし、あなたがたも同じようにできるはずだ、そうでなければ信仰が足りないなどと言いたいのでもありません。

福音書の日課であるマルコ16章には、イエスが復活し、女性たち、二人の弟子、十一人へと次々に現れた時に弟子たちが「信じなかった」とくりかえし記されています。しかし、その信じなかった彼らが、生きておられるイエスの働きかけによって、変えられた。それがマルコの伝えるイエス様の復活の物語です。その方がいまも生きておられる。それがマルコが伝えるイエスの復活です。

ペトロは癒しを行った後、このように演説します。「あなたがたは、命の導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。」ここでペトロは公衆の面前で人々を糾弾しているかのようです。しかしそれは彼らを罰したいからではないし、彼らを責めたいからでもありません。ペトロは、自分が弱かったからこそ、このように言うのです。「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました」。これは第一義的にはこの足を癒された人のことを言っているのでしょう。しかしこれはわペトロ自身のことを指しているのかもしれません。この弱かったわたしを、愚かだったわたしを、イエスの名が強くしました、と。聖書はわたしたちにただやみくもに「信じなさい」とは言いません。「自分たちも最初は信じられなかった、でも信じられないかもしれないが、それは真実だった。その知らせがいま、あなたにも届けられている。」そのことを伝えているのです。

聖書は奇跡を弟子たちの自慢話として語っているのではありません。「悪霊を追い出す」とは、その人がその人らしくあることが出来るように回復する働きを指します。たとえわたしたちの心が悲しみでふさがれ、こんなわたしに復活なんか起こりっこない、そんな状況であったとしても、そのわたしたちと出会い、わたしたちを回復してくださるキリストが、いまこのときも生きて、私たちに働きかけて下さっている。弟子たちが出会ったこの福音に、私たちも希望を掛けたいのです。

イースター〜恵みがとどろいた朝〜

2018年4月1日(日)復活祭<イースター>礼拝要旨 マルコによる福音書16:1〜8
安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
イースター、おめでとうございます。しかし、今日の福音書の日課は、喜びとは程遠いように思われる「婦人たちは墓を出て逃げ去った。…恐ろしかったからである」という言葉で〆られています。有力なある一説によれば、本来マルコ福音書はここで終わっていたとさえ言われています。しかし、やはりこの朝に起こったことは「恐ろしい」と言うべき出来事だったのです。この日の朝、復活の知らせに出会った女性たちにとっては、そしてその知らせを聞いた弟子たちにとってはそれは思いがけないところから響いてきた「とどろき」であったことでしょう。

復活が起こったか、どのように起こったかを証明することはできません。しかし、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ福音書の記述を重ね合わせると、どうやらイエスの墓が空だったことは確かなようです。そしてもうひとつ確かなことは、一度はイエスを見捨てて逃げた弟子たちがその後「なぜか」再び立ち上がり、あの十字架で死んだイエスこそが救い主であると宣伝えはじめたことです。死に絶望していた者たちを動かす何ごとかが、確かに起こったのです。

女性たちはこのとき、イエス様の復活を期待して墓に行ったわけではありません。彼女たちは、不完全だったイエス様の埋葬を完全なものにしようとして墓に行ったのです。当時の墓は岸壁に掘られた横穴に遺体を納め、大きな石でふさぐ方式でした。その大きな石は、生と死とをふさぐ境界線でした。生と死とを、イエスと女性たち、弟子たちとを隔てていたのです。そのとき、「死」の側にいたのは、実は残された者たちの方だったかもしれません。おそらくそれぞれがイエスの死に絶望し、混乱した状態の中でこの三日目の朝を迎えていたのだと想像ができます。

しかしその石が、誰も取り除くことが出来ないと思われていた石が、墓の内側から取り除かれていた、と聖書は語るのです。そこで女性たちを待っていた天使は告げます。「あなたたちは死んだ方、十字架につけられたイエスを捜している。しかし、あの方はすでに復活なさって、生きておられる。」 その天使のことばは女性たちに続き、おそらくそのときまだ「死」の中にいたであろう、弟子たちに向けられます。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい」。天使は十二弟子の中で、ことさらに「ペトロ」の名前を挙げました。おそらく十二弟子の中で最も深い絶望と後悔の中にいたであろうペトロに、しかし天使は「そのペトロに伝えなさい、主はよみがえられた、と。その主は再びあなたと出会うためにガリラヤへと行かれる」と告げるのです。

ガリラヤは、ペトロが始めてイエス様と出会った場所です。ペトロが御自分を否むことを予め知っておられたイエス様は、だからこそ、ペトロと再び出会うことを「かねてから」決めておられました。わたしたちが自分の弱さを自覚する前から、与えられているゆるし。わたしたちの弱さや絶望を越えた圧倒的な愛。それが今朝、わたしたちを包んでいます。

光に照らされる

2018年3月18日(日)四旬節第五主日礼拝要旨 ヨハネによる福音書12:36b〜50
「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」 イエスを信じない者たち
イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。 このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。 預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」 彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。 「神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」 イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。 とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。 彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。 イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。 わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。 わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。 わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。 なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。 父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」
イエス様の十字架を記念する、受難週(聖週間、今年は3月25〜31)が近づいてきました。しかし、それは同時に、イースター…つまり、「神の子の死」という絶望に一度は包まれる世界が、光に照らされる時が近づいてきている、春が近づくということでもあります。

今日のエレミヤ書31章の31節からのみことばは、神の民が神の救いにあずかるそのときに起こる「新しい契約」(つまり新約)について記されています。神に愛され、選ばれた民でありながら、神との関係を忘れ、神との関係を失い、国を失ったとされる聖書の民が、しかし、救われ、心に新しい掟を神によって刻まれる日が来る。かつて、神の民エジプトの奴隷状態から導き出されたように、罪の奴隷である状態からわたしたちが解き放たれる。一度は人の罪によって断たれた神との関係が、神の恵みによって新しく結ばれる。

 そして、それがイエスなのだ、と新約聖書、特に福音書は伝えたいのです。イエスは父なる神から来た者であり、イエスの中に神が現れている。そのイエスを神が送ってくださったことを受け入れなさい、と。そこにこの四旬節、この言葉を入れなければならないかもしれません。「わたしたちが殺したイエス」は神から来た、と。

 私たちはこの四旬節に毎年「罪」の問題を考えます。聖書で言う罪とは、神との関係が壊れている状態をいいます。それは観念的なものではありません。私達は観念的な、抽象的な神を相手にしているのではなく、わたしたちは自分の生きる現実の中で、現実や隣人との向かい合い方において、神との関係を問われている。私たちは、この世界の中で壊してきたものがある。大切にできなかったところがある。それを認めるのは勇気がいります。生活において、隣人との関係において、神が与えてくださったものを壊している自分を認めるのは怖い。

しかし、そこにイエス様はこう語られるのです。だから、わたしは来たんだよ、と。イエスの光によって、わたしたちは自らの弱さを暴かれるかもしれません。しかしそんな私たちを、イエス様が光の方へと迎えてくださるのです。「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」この言葉に信頼し、光を見上げる所から始めたいのです。

たとえあなたが壊しても

2018年3月4日(日)四旬節第三主日礼拝要旨 ヨハネによる福音書2:13〜22
ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。 そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、 鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」 弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。 ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。 イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。
四旬節第三主日、今日の聖書の箇所は、いわゆる「宮きよめ」と言われる物語です。イエスが、エルサレム神殿の中でいけにえの動物を売る商人や両替商を相手に乱暴狼藉を働いたという、すべての福音書に記されているできごとです。それほどインパクトがあったということであり、また、このできごとがイエスの逮捕・裁判・処刑の一つのきっかけとなったのは間違いありません。

わたしたちにとってもやや理解が難しい出来事です。そしておそらく実際にこの場にいた人、イエスに乱暴された人たちにとってもこのできごとは理解不能であっただろうと思います。なぜなら彼らの商売は当時の律法にのっとったものであったからです。律法にはこうあります。ささげものには「傷のない動物」をささげなければならない、と。だから「傷もの」がささげられることを防ぐために、神殿内部で「きれいな」動物、「けがれていない」神殿用の硬貨を販売する人たちが商売をしていたのでした。神殿参拝に必要な商売であったのです。

おそらくそこにいた人たちにとっては、イエスが行われたことこそが間違っているというように映ったことでしょう。もし私たちがそこにいたとしても。イエスは私たちのために神が送ってくださった救い主である。その救い主が来られたのならば、この神殿で行われていることを正しいと認めてくださるはずだ。しかしイエスは、その神殿をひっくり返されるのです。

これは私たちがイエスと出会うときに起こることでもあると思います。イエスと出会う、それは決してわたしたちにとって心地よいことばかりではありません。イエス様のみことばと出会うことによって、私たちが「正しい」と思っていること、あるいは「自分は悪くない」と思っていることが、ひっくり返されることがある。旧約の献げ物というのは、自分と神との関係を正しくするために行なわれるものでした。しかし、その掟が次第に形式的なものとなり、その「傷がない」ものをささげることができない、すなわち貧しかったりして神殿の傷がない動物を買うお金がない人たちなどは、完全ななささげものができず、主から受け入れられないとされていく。その頃の神殿は、旧約の律法において神様が望まれた本来の姿ではなくなってしまっていたと言えます。

イエスと出会うことは、そのような自分がひっくり返されるということでもあります。そして私たちはしばしば、それを認めるのではなく、自分を守るために神さまの御心の方を排除しようとする。私たちは自分が壊れる事よりも、自分以外のものを壊すことを選ぶのです。その私の弱さがイエス様を日々、十字架につけつづけている。それに気づかされるのは苦しいことです。

しかし、この言葉が響きます。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直して見せる。」わたしたちはイエスを十字架につけつづけている。しかし主イエスはその私たちのどうしようもない罪の中から、「復活」という形で立ち上がってくださったのです。私たちは神の御心を壊すことしかできないのかもしれない。しかし主は「わたしが建て直す」と力強く宣言されます。主のその回復の働きに信頼したい。勇気をもって、新しい命への歩みを始めたいのです。

いのち、どう使う?

2018年2月25日(日)四旬節第二主日礼拝要旨 創世記28:10〜17/マルコ10:35〜45
ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。 とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。 すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。 見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。 あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。 見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」 ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」 そして、恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」


ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、 二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」 彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。 しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」 ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
聖書の中には、完璧な人間、というのはほとんどと言っていいくらい出てきません。ジョン・レノンは「イエスは正しかった。だけど弟子たちが馬鹿な凡人だった。」という過激な発言を残していますが、わたしは(自分もその弟子の一人として)この言葉に共感します。私たちはもしかすると聖書の中に「完璧な」生き方のモデルを見つけたいと思うかもしれませんが、しかし、その私たちに向かって聖書はこういうのです。「善を行う者はいない。ひとりもいない」(詩編14篇3節)

最初に読まれた創世記の日課は、ヤコブという一人の青年の物語です。彼は、荒れ野を一人旅する途中、夢の中で神と出会います。石を枕に野宿する青年ヤコブに神が現れ、祝福を約束する…いい話ですが、しかしこのとき、このヤコブは実の兄を卑怯な手段で出し抜き、兄が受け取るはずだった「神の祝福」を奪って逃亡しているところでした。本当であれば、その祝福は取り消され、ヤコブは罰を受けるべきでしょう。しかし、そのヤコブに現れた神は「私はあなたをどこに行っても見捨てないし、あなたを守る」と約束するのです。神の祝福とはそのようなものだ、とここで聖書は語るのです。その人がどんな人間であっても、神がいったん祝福したら、その祝福は離れない。

これは甘いでしょうか。しかし、ヤコブは眠りから覚めてこう言います。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」…ヤコブにとっては「父や兄をだまして逃げて来た場所」、しかしその場所で、神が自分と出会ってくださる。愚かな人間をも見捨てず守る愛、その愛に触れることによってヤコブは変えられるのです。

 今日の福音書の日課の中で、イエス様に叱られた弟子のヤコブとヨハネは、とても愚かに見えます。イエス様に対して、ヤコブとヨハネは愚かな願いをします。イエス様がメシアの座につかれるとき、その両側に座らせていただきたい。あなたがおつきになる権力の座に、わたしたちもつきたいと。そのためにイエスが行かれる道にどこまでもついて行きます、と。

ヤコブとヨハネにとってはそれは本心だったかもしれませんが、結果だけ言えば、彼らはイエス様の受けられた杯を飲むことはできませんでした。マルコ福音書は、イエス様の逮捕の際、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(マルコ14:50)とはっきり書いています。ヤコブもヨハネも、彼らを非難した弟子たちも、誰もイエスについて行くことが出来なかった。

しかし、その先があった、と聖書は語ります。私たちはいま受難節と言う季節を過ごしていますが、その先には「イースター」「復活祭」という行事が待っています。そこで語られるのは、十字架の死から復活され、イエスを見殺しにした弟子たちと、再び出会ってくださるイエスの姿です。イエスから逃げた弟子たちは、そのイエスの愛を伝える者へと変えられる。イエスのために、またイエスの恵みを必要とする人たちのために、自分のいのちを使う者へと変えられるのです。その主が、今日、私たちとも出会ってくださっています。その恵みを受け取るところから、私たちも新しい命を始めたいのです。

荒れ野へ行く神

2018年2月18日(日)四旬節第一主日礼拝要旨 マルコによる福音書1:12〜13
それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
イエス様の十字架を記念する、四旬節(受難節)に入りました。毎年この四旬節の第一主日には、伝統的に、この「荒れ野の誘惑」のできごとが語られることになっています。それは四旬節が40日と定められたこと自体、イエス様の荒れ野での四十日間になぞらえられているからですし、昔のキリスト者にとっては復活祭までの鍛錬のスタートだったからでもあります。

「荒れ野」というと特に日本に住む私たちにはあまり馴染みがないかもしれません。しかし、聖書に記されているのは、そのとき生きていた人たちの現実でもあります。そしてわたしたちが直面している、わたしたちが生きているいのちそのものでもあるのです。

パレスチナという乾燥地帯に住む人々にとって、荒れ野というのは自分たちの隣にありながら、同時にできるかぎり近づきたくない恐ろしい場所でもありました。そして荒れ野は、旧約の神の民イスラエルがモーセによってエジプトの奴隷状態から解放された後、四十年間放浪したところでもありました。神の民イスラエルは、荒れ野の放浪の中でしばしば彼らは自らを救い出してくださった方を忘れ、主に背いた、と聖書は語ります。「信仰が弱い」と責めることはできません。荒れ野というすべてにおいて欠乏した場所、いのちを脅かすものが住んでいる場所。自分を脅かす者から身を隠すところもないところ。取り繕った信仰などすべてはぎとられる所。そこを旅する中で、救いを信じ続けることは決して簡単ではなかったのです。

その荒れ野へイエスを送り出したのは、神の"霊"であったと福音書は語ります。特にマルコ福音書では、「送り出す」というより「投げ捨てる」というような乱暴な言葉を使っています。神が、イエスを荒れ野へ投げ捨てる。「イエス様は神の子だったのだから、それくらい平気であっただろう」、そう考えるかもしれません。しかし初代教会でも、「イエスは神の子なのだから、たとえ十字架の上であっても神が苦しむはずがない」という議論がありましたが、しかし、教義を決定する時点で、その立場の意見は退けられました。

そしてこの同じマルコ福音書において、イエス様は「主よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言って十字架の上で無残な死を遂げられます。神の霊によって荒れ野の中に投げ出され、見せかけではない苦しみを苦しみ、見せかけではない死を死なれるのです。そしてそれを今日の第二の日課であるペトロの手紙では、キリストはその死によって「捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」と語っています。

イエス様は荒れ野へと行かれます。「野獣と共におられたが、天使たちが仕えていた」。野獣が共にいる、しかしそこで天使が仕えている。これこそイエスが来られたわたしたちのこの世界です。イエス様が荒れ野へ行かれた。そしてその後、わたしたちのただなかに来て宣教された。それは何よりも私たちのためにそのいのちを使ってくださるためでありました。わたしのために命を捨てるため。そのためにこの方は、荒れ野へ行かれたのです。

わたしたちも背中を押されるように、自分の意思ではない場所へと送り出されることがあります。そこに行くのはとても怖いし、勇気がいる。しかし聖書において、荒れ野というのは神と出会う場所でもあるのです。そのただなかにあって、わたしたちと出会ってくださる神さまがおられるということ。そのことに信頼しつつ、この四旬節の歩みを始めたいのです。

恵みが輝くとき

2018年2月11日(日)変容主日礼拝要旨 マルコによる福音書9:2〜9
六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。
顕現節の最後であり、四旬節(受難節)に入る暦の節目、「変容主日」という主日です。今日の福音書の日課が語るとおり、高い山の上で、弟子たちの目の前で、イエス様の姿が真っ白に輝く姿へと変容した。そのことを記念する主日です。

おそらく、この光景を目の当たりにしたペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人は、このときまではイエス様のことをあくまで人間だと思っていたに違いありません。だからこそ彼らはここで非常に恐れ、何をどう言っていいかわからなくなっています。そこに現れている光景は、聖書の民にとってはあこがれの光景でもありました。モーセは旧約の伝説的なリーダー、エリヤもまた旧約聖書の伝説的な預言者。つまりこの山の上において、聖書に示された神の顕現が実現している。

ペトロはここで何とかしてそこに、イエス様たちに近づこうとしているかのようです。「先生、わたしたちがここにいるのは素晴らしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。あなたとモーセ、エリヤのために」。旧約聖書においては仮小屋(天幕)というのは礼拝所であり、神がそこに降りて来てとどまるところでした。

ペトロは目の前の輝く光景に当てられています。しかし実は彼は、自分がそこにふさわしくないことも知っているのです。この直前の8章の終わりに彼は、イエス様にこっぴどく叱られています。だからもしかすると彼は汚名返上したかったのかもしれません。この目の前の輝く光景になんとかして自分も関わって、自分がそこにいる理由が欲しかったのかもしれません。

私たちにとって、神の輝きが現れる場所はこの礼拝堂です。普段は隠されている輝きが、この場所において(もちろん他の生活の場面で示されることもありますが)はっきりと明かされる。そして神さまの輝きを仰ぎ、神の恵みを受け取る。私たちはこの場所でイエス様を仰ぐ。イエス様が見せてくださった、神さまの輝きを仰ぎます。しかし私たちはそこだけにとどまるわけにはいかないことも知っています。私たちが山から下りる先には、この礼拝堂から出て行く先においては私たちからは神様の輝きが見えなくなることもある。ペトロたちも山の下には山に登ることを許されなかった仲間が待っている。そしてそこには多くの悩みや苦しみがあるのです。

しかしだからこそ、この変容の出来事が私たちに示された意味があります。「ここに仮小屋を作りましょう」…そう申し出たペトロに対して、輝く雲が現れイエス、エリヤ、モーセの姿を隠してしまいます。そしてその雲が去ったときにそこには「ただ、イエスだけが一緒におられ」ました。そして、天からの声はこう告げるのです。「これに聞け」…そう示されたその姿は、もう輝いてはおられません。その方はもう輝いてはいない。それどころかこのあとイエス様を待っているのは苦しみ、そして無残な十字架です。しかし、そのイエスの中に神の本質が宿っている。私たちのただなかをを徹底的に歩まれるその方の中にこそ、神の輝きが宿っているのです。

この変容主日はイエス様が輝く姿に変わった、ことだけを記念する日ではありません。そうではなく、神の元で輝きを持っておられた方が、その輝きをわたしたちと同じ姿に代えてわたしたちのもとに宿ってくださったこと…神がいないように見えるところにこそ、実は神の輝きが宿っている。そのことを思い起こす記念日としてこの日を守り、今週から始まる四旬節を迎えたいのです。

イエスはいのちを取り戻す

2018年1月28日(日)顕現節第四主日礼拝要旨 マルコによる福音書1:22〜28
人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。 そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、 汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。 人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」 イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。
イエス様の宣教の働きの中で、今の私たちには少し理解しがたいのがこの「悪霊を追い出す」ということかもしれません。しかし特にマタイ・マルコ・ルカの共観福音書と呼ばれる福音書の中に記されているイエス様の働きの中で、実はかなり大きなウエイトを占めているのがこの「悪霊を追い出す」ことです。イエス様のできごとを目撃した人たちにとって、本当に驚くべき出来事だった、ということです。

わたしたちは悪霊祓いというと、映画や漫画の出来事の中であるかのように考えます。しかし聖書で言う悪霊とはそれよりももっと身近なものでした。当時は様々な病気であったり不具合であったり、人に良くないものをもたらすもの、人間の手に負えないものは「悪霊の仕業」であるのだとされていました。その人を神さまから遠ざけるもの、人間らしく生きることから遠ざけるものを「悪霊」と言ったのです。それは決して病気とかハンディキャップそのものが悪魔の仕業だというのではありません。しかし病やその他の原因によって、わたしたちは自分をコントロールできなくなることがある。自分で自分のことが分からなくなって苦しくなることがある。その中で神さまを信じること、また自分自身を取り戻すことは決して簡単なことではありません。

今日、悪霊に取りつかれていたこの人は「かまわないでくれ。お前のことは分かっている、神の聖者だ」と言います。聖なるあんたと俺との間にはなんの関係もないと、彼を支配している悪霊がそれを言わせている。しかし、イエスはその彼に、「かまわないでくれ」という彼と向かい合って、彼にそれを言わせている悪霊を追い出されたのです。

聖書は、イエスのその力を「権威」と呼びます。イエスの中に悪霊を追い出す権威がある。イエスはこの会堂での出来事からはじまって、その権威によって悪霊を追い出したり、病を癒したり、自然の猛威を鎮めたりと多くの奇蹟を行われます。それは決してご自分の力を示すためではなく、その力によってわたしたちに神さまの私たちへの御心を伝えるためです。

神の権威をもったイエスは、このように悪霊によって自分が自分で無くなっている状態から、その人が人間らしさを取り戻すために癒しを行われました。わたしたちの周りには、わたしたちを神さまを信じて生きることから、また人として生きることから引き離そうとする力があるかもしれない。その中でわたしたちは混乱して、自分が自分で無くなってしまうことがある。

しかし、そんなわたしたちを神さまのものとして取り戻すために、来て下さった方がおられる。その方が持っている権威は、わたしたちを脅かそうとするものよりも強い。だからわたしたちは、自分が混乱してるときも、不安に捕らわれるときにも、それを超えてわたしたちのところに来て下さる方がおられる、そのことに信頼してよいのです。この癒しは会堂で、イエス様がみことばを語られたときに起こりました。イエスの御言葉には、わたしたちを人間らしいいのちへと引き戻す力があると聖書は語るのです。

わたしたちがどんなに混乱していても、しかし、イエス様は、わたしを混乱させるそれらのものよりも強いし、そして何よりそれに翻弄される弱い私を愛していてくださるのです。その方が共にいて、私たちを引き上げてくださる。そのことに信頼して、歩みたいのです。

恵みの突入

2018年1月14日(日)主の洗礼日礼拝要旨 マルコによる福音書1:14〜21
ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 二人はすぐに網を捨てて従った。 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。 一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。
クリスマスが終わり、「顕現節」という季節に入ります。イエス様がお生まれになった。わたしたちの中に、神の恵みであるイエス様が来て下さった。そしてそのイエスという方は、生まれてそれでおしまいではなく、成長し、神さまのことを教えるものとなられ、また救いのために多くの奇蹟を行いながら人々の間を歩まれます。そのことを記念するのがこの「顕現節」です。

「イエスはたくさんの業を行われましたが、それは神がご一緒だったからです」と、今日二番目に読まれた使徒言行録の日課は語っています。そして、マルコ福音書も、洗礼を受けたイエス様に天から不思議な声が「あなたはわたしの愛する子」と語りかけた、と記しています。このイエスという人はかなり特別な存在のようです。私たちのような凡人、ただの人間とはまったく違う、遠い存在である。私たちのような者とは何の関係もない人。偉大な人を見るときにわたしたちはしばしば、そのように考えてしまうかもしれません。

 しかし聖書が伝えたいのはそういったことではない。聖書がイエスの偉大さや特別な出来事を記すことによって私たちに伝えたいのは、この人によって神の恵みが地上にやって来た、ということです。「イエスは偉大な業を数多く行われましたが、それは神がご一緒だったからです」…それは、イエスとご一緒におられた神が、人々のために、しかも世の中の地上を生きる人々のために行動されたということなのです。

 「あなたはわたしの愛する子」と語りかけられたとき、「天が裂けて、聖霊が地上に向かって降ってきた」とあります。天は神様がおられるところ、地上はわたしたちが生きるところです。今でもわたしたちはいまだ自分の力で空を飛ぶことはできない。空の鳥だって休む所が必要で、ずっと空に居続けることはできない。わたしたちは結局は、地上から離れて生きることはできない。そしてわたしたちが生きているところが、わたしたちの直面する現実が地だとするならば、神様がおられる天はわたしたちからは大変に遠い。わたしたちの人生において、天の恵みが地上の私達には閉ざされているように思えるときがあるのです。しかしここで、その「天が裂け」たのです。

 天が裂けて、神の霊が降ってきた。ヨハネから洗礼を受けようとして列に並んでいた人々と、同じところに立つイエスのところに神の恵みが降ってきた。イエスがおられるのは川の中です。たくさんの人々が並んでいました。その人たちの思いや重荷が、川の中にあふれていました。しかしそこにイエスがやって来て、その川の中に入ってくださった。

 神さまの恵みは私たちから遠いところで輝いているのではない。この地を生かすために、この地上に降りて来て下さったのです。わたしたちを生かすために。この洗礼によって、この地上におけるイエス様の宣教の歩みが始まりました。その歩みはわたしたちの罪や弱さを背負って、十字架に向かって歩まれる歩みでした。いまでもキリスト教の入信式として行われている洗礼は、その方と共に歩む者となるということのしるしです。イエス様が、わたしたちと共に歩んでくださる。イエス様によって神さまの恵みが私達と共に歩んでくださる。だからこそわたしたちも、イエス様と共に、イエス様がしてくださったように人を生かす歩みを歩みたいのです。

博士たちの旅

2018年1月7日(日)顕現主日礼拝要旨 マタイによる福音書2:1〜12
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
「顕現主日」(エピファニー)という日曜日を迎えました。わたしたちの教会においては、この日がクリスマスの最後を飾るひとつの御祝いの日であり、「東の国の博士たちがイエスのところにたどりつき、イエスを礼拝した日」として記念されています。この日をもってクリスマスが終わりますので、たとえばフランスなどではこの日を暦の節目のお祭りとして大切に祝います。西方教会が12月24日をイエスの誕生祭と定めるまでは、この日がクリスマスとして祝われていた時期もありますし、今でもギリシャ・ロシア正教)ではこの日をクリスマス(神現祭)として祝っています。

エピファニーとは「顕現」…何かが現れる、出現するという意味の言葉です。イエスさまの輝きが現れた。特に今日の福音書によれば、「東の方から来た占星術の学者たち」という異邦人たちに星の導きが示されて、彼らはイエス様のもとへと導かれた。神の恵みが、当時の聖書の民であるユダヤ人だけでなくすべての人に開かれた記念日としても、この日は祝われます。

エピファニーは、そのようにして、イエス様に宿った神の輝きが人々の前に現れたことを示します。そしてその真ん中にいるのは、権力をもった王様ではなく、まだ母と共にいなければそのいのちをつなぐことすらできない、無力な赤ちゃんです。しかし、ヘロデ王の立派な宮殿ではなく(おそらく普通のあるいは貧しい)「家」の上に止まった星を見て博士たちは「喜びにあふれた」。

その家の中におられるのは、そして今もわたしたちがこうして礼拝しているのは、権力によって人のいのちを圧迫する王ではなく、人のいのちを生かすために、そのいのちを全ての人のためにささげてくださった、そのために地上にやってきてくださった幼子です。

わたしたちはヘロデではなくその幼子にひれ伏します。わたしたちは、自分の中にいるヘロデを注意深く見つめて、そして決別しなければなりません。自分の今の地位を守るために力をもっていのちを殺そうとするヘロデ。自分を守るために他者を力によって排除しようとする。そんな弱さがわたしたちの中にも確かにあるのです。

イエス様と出会った博士たちは、ヘロデのところへ帰らず、「別の道を通って」自分たちの国へ帰ります。彼らが帰るのは、これまでと同じ場所です。しかし通る道が違うのです。わたしたちがこの礼拝を経験して帰る場所も、これまで自分たちが生きていた場と同じ場所です。しかし、「別の道を通る」のです。博士たちはヘロデのところに帰りませんでした。ヘロデと決別したのです。わたしたちはこの一年、イエス様に従えた時ももちろんありましたが、ヘロデに従ってしまったときも数多くあったと思います。しかしわたしたちはこの幼子と出会いました。幼子がわたしたちのところに来て下さいました。だからわたしたちは、つまずきながらでも、失敗しながらでも、ヘロデの道ではなくイエスの道を、いのちを殺すのではなくいのちを生かす道を、いのちを傷つけるのではなく、生かす道を、選び取っていく一年にしたいのです。「ひれ伏して拝み」これは礼拝です。礼拝のたびにわたしたちはイエス様と出会います。わたしたちは一週間の中においてもヘロデの道を通ります。しかしこうして礼拝でイエス様と出会い、また新しい自分となって、イエスの道を通って自分の場所へと帰って行く。

ヘロデはわたしたちの中にいる。自分のヘロデと決別しなければならない。違う道を選ぶ。そこには意思が必要になる。感情に任せるとわたしたちはヘロデを選びたくなるのだ。

説教(2017年)

善き力に囲まれて

2017年12月31日(日)降臨後主日礼拝要旨 ヨハネによる福音書2:1〜11
三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
改めて、クリスマスおめでとうございます。まだクリスマスの祝いは続いています。クリスマスは、25日で終わったのではなく、始まった。そしてイエス様の出来事も2000年前に誕生してそれで完了したわけではなく、そこからこの世において神の救いが始まったのです。

聖書はそのことをしばしば結婚関係に例えます。今日の聖書においても「花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあなたを喜びとされる」と語られます。しかし、その「喜び」が、失われようとしています。聖書の時代の結婚式は、村を上げてのお祭りだったそうです。そして、ぶどう酒はその喜びに欠かせないものでした。ですから、ここで起こっている「婚礼の最中にぶどう酒がなくなる」というのは大問題です。「ぶどう酒がなくなりそうです」というマリアの言葉は「喜びがなくなりそうです」と言い換えることができると思います。そしてその答えに対してイエスが水をぶどう酒に変える奇跡を行われた。それが今日の福音書の出来事です。

 しかし、そこに至るまでのイエス様の対応は不可思議です。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」これは明らかに拒絶です。マリアの態度も不可解です。イエス様の態度に対して腹を立てるのでもなく、「まだ時ではない」と言われても、しかしそれでもマリアはイエスに全幅の信頼を置く。それはもしかするとマリアが母として「自らの中に神の命を迎える」という経験をしたからかもしれません。自分がおなかを痛めて産んだ子でありながら、自分の子どもではない、その不思議な感覚をマリアは覚えていたのかもしれません。自分の中に宿ったいのちが、自分の力で得たものではなく、神さまの偉大な恵みによるものであること、小さく限界を抱えた人間である自分の中に宿ったものは、言葉にできないくらい大きな神のいのちであったということを、マリアは忘れていなかったからこそ、ここでイエス様の拒絶を受けながらも「それでも」という希望を持つことができたのではないでしょうか。

清めのための水がめ。家に入るときに手を洗い清め、穢れを体の中に入れることを避けるための。イエスが来られた当時のユダヤ社会。神に救ってもらわなければならない、そのためにこれこれこれをして正しいと神様から認めてもらって、神様と和解しなければならない。そのようにして当時の人々は神に救われる自分になろうと努めていた。しかし、その水がめは6つしかなかったと記されている。聖書において完全数は7です。つまり完全な救いにはこの水がめは足りないのです。どんなに洗い清めても、どんなにきよく正しくあろうと努めても、しかしわたしたちは自分で自分を完全に救うことは、ほぼ不可能と言ってよい位難しい。しかしその場所で、その味気ない水が喜びのぶどう酒に代わる。

自分の中に宿ったいのちが、自分の力で得たものではなく、自分の思いを越えたところから与えられた、神さまの偉大な恵みによるものであること、小さく限界を抱えた人間である自分の中に、あのクリスマスのとき宿ったものは、言葉にできないくらい大きな神のいのちであったということを、マリアは忘れていなかった。自分の中にあるものは、自分自身から来たものではなく、天から来たものであることをマリアは知っていたからこそ、ここでイエス様の拒絶を受けながらも「それでも」という希望を持つことができたのではないでしょうか。イエス様がここで言われる「わたしの時」というのは、この場合「十字架」を指します。わたしたちのどうしようもない弱さや無力さをすべてあの十字架の上で引き受けて、代わりに赦しと恵みで満たしてくださるために、神さまはイエス様をわたしたちの只中に与えてくださった。イエスの決定的な救いはまだ先であるけれども、しかしその十字架に向かうイエスによって、この世界はほのぼのとした救いの片りんを見ることが出来る。この世界はすでに神が歩みを始めてくださった世界なんだ、ヨハネ福音書においてイエスの奇蹟は「しるし」であるとヨハネは伝える。救いが来たしるし。神の歩みが始まったしるし。一度は失われたはずの神の救いの喜びが回復される、というしるしである。 は伝える。救いが来たしるし。神の歩みが始まったしるし。一度は失われたはずの神の救いの喜びが回復される、というしるしである。

わたしたちは、自分自身に力がないと思うときでも、私たちを愛して御子を与えられたその神さまの恵みに希望を置くことができます。マリアから言いつけられた召使たちはもしかすると「何でこんなことをしなければいけないんだろう」と、自分の仕事に疑問を持ったかもしれません。自分がしていることがもしかすると意味のない、無駄なことに思えたかもしれません。ですが、そのただ水を汲むという小さな働きをイエス様はぶどう酒という大きな喜びに変えてくださいました。無力そのいのちによって神とともにある喜びを回復してくださったイエス様に、わたしたちはどんなときでも希望を持ち続けていいのです。今あるわたしたちではどうにもならない絶望や悲しみ、しかしそこにイエス様はきっと大きな恵みをもって働きかけてくださる。そのことに希望を持ちながら、祈りつつ新しい年をはじめたいのです。希望を持って働いてよいのである。

善き力にわれ囲まれ。ディートリッヒボンヘッファーが、ナチスの抵抗運動のかどで捕らえられ、強制収容所に収容されているとき、その生涯最後の年末に婚約者のマリーアに送った書簡です。

 善き力に真実に、静かに囲まれ、すばらしく守られ、慰められて、わたしは現在の日々をあなたがたと共に生きようと思う。そして、あなたがたと共に新しい年へと歩んでいこう。古い年はなおもわれわれの心を苦しめようとしており、悪しき日々の重荷は、なおもわれわれを圧迫する。ああ、主よ、われわれの飛び上がるほど驚いた魂に、救いをお与えください。あなたはそのために我々を造りたもうたのですから。

 そしてあなたが、重い杯を、苦い苦しみで今にも溢れんばかりに満たされた杯をわれわれに渡されるなら、われわれはそれをふるえもせず、あなたの良い、愛に満ちた手から受けよう。

 だが、あなたがもう一度われわれに喜びを、この世界について、その太陽の輝きについての喜びを下さるおつもりなら、われわれは過去のことを覚えよう。そしてその時、われわれの生はすべてあなたのものだ。

 今日はこのロウソクを温かく、明るく灯らせておいてください。それはあなたがわれわれの暗闇の中に持ってきてくださったものなのです。もしできることなら、われわれがもう一度会えるようにお導き下さい。われわれは知っています。あなたの光は夜輝くのです。

静けさが今、われわれのまわりに深く広がるとき、われわれにあの豊かな音を聞かせてください。目には見えなくてもわれわれのまわりに広がる世界の豊かな音を、すべてのあなたの子らの高貴な褒め歌を。

善き力にすばらしく守られて、何が来ようともわれわれは心安らかにそれをまとう。神は夜も朝もわれわれのかたわらにあり、そしてどの新しい日も必ず共にいましたもう。」

光のおとずれ

2017年12月24日(日)降誕主日礼拝要旨 ヨハネによる福音書1:1〜14
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
クリスマスおめでとうございます。今日の礼拝前の歌として歌われた、教会讃美歌28番「ああベツレヘムよ」という讃美歌は比較的新しい、1800年代後半の讃美歌で、ブルックスというイギリス国教会(聖公会)の司祭の作詞です。「ベツレヘム、お前が深く眠っているうちに天から神の賜物がやってくる。お前が知らないうちに、天から神の賜物が訪れる」わたしたちが知らないうちに、わたしたちのこの世界に神の御子が訪れた、神の救いが訪れた。そのことを今日の聖書は「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネによる福音書1:14)と伝えます。

今日のヨハネ福音書は「言」というキーワードが繰り返し出てきます。この「言」と訳された「ロゴス」というギリシア語は、目に見えない神の知恵とか神的な存在のことを示す語でもあります。「言」は天地創造のときから神と共にある永遠の存在であったが、その永遠の存在が肉体となって、すなわち人間の姿でわたしたちの間に宿られた。それこそがイエスであるとヨハネは伝えます。

全能の神が、人としてわたしたちの間に宿られた。それが聖書が伝えることです。とても信じられないようなことを言われていると思います。私たちは自分が全能であれば、おそらく自分が大きくなることを求めるでしょう。しかし、神さまはその全能の力により、この世で最も小さな、もっとも限界に縛られた存在である赤ちゃんに宿られた。

わたしたちは限界を持つ存在であり、そこから逃れることができない。しかしそこに永遠なる方が宿ってくださった、と聖書は語ります。それはわたしたち限界のある人間存在を、神様がどこまでも愛しいと思ってくださっているからです。「クリスマスは、いかにあなたも本当の人間になることができるかを示しています。キリストは天から降りてこられました。あなたがなすべき最初の歩みは、あなたが人間であることや土から創られたことへと降りていく勇気を持つことです。」(アンゼルム・グリューン)

わたしたちは限界を持っている。しかし、その限界を超えた永遠なる方が、その永遠のゆえに不完全なわたしたちのただなかに宿ってくださった。だからわたしたちは自らの限界性を持ちつつ、この世の中を歩むことが許されています。そして神の救いに向けた歩みが、このわたしたちの世界の中で始まったことを祝うのが、このクリスマスです。わたしたちはすでに、神が来て下さった世界の中を歩んでいます。だからこそわたしたちは、たとえ今の自分を自分で肯定できなくとも、それでも希望を持っていてよいのです。クリスマスの恵みを心に、新たな歩みを始めましょう。

夜明け前

2017年12月17日(日)待降節第三主日礼拝要旨 ヨハネによる福音書1:19〜28
さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、 彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した 彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。 そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」 ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」 遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。 彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、 ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。 その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」 これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。
待降節第三主日を迎えています。まだ聖書には赤ちゃんイエス様の影も形も見えません。しかし、その中でほのぼのとした夜明けが見えてきた。そのような意味合いを持つ日曜日です。

伝統的にキリスト教会は、この待降節(アドベント)に三つのことを記念してきました。ひとつは、2000年以上昔、キリストがユダヤのベツレヘムに誕生したこと。二つ目は、今この私たちのただなかにキリストが生まれてくださること。そして三つめは将来、神様がわたしたちに決定的な救いを示すため、再び現れてくださるということ。この三つをキリスト教会はこのクリスマス前のアドベントという季節に記念しています。

そしてその将来、救い主が来られるということに信頼しながら、自分の役割に徹した「洗礼者ヨハネ」という人の物語が、今日の聖書の中では語られました。このヨハネは、イエスの親戚であり、神の子イエスに洗礼を授け、一説ではイエスの師匠筋でもあったと言われています。実は、もっと注目されていい人であるはずです。

しかし彼は今日の聖書の中で「自分は声である」というのです。彼はまわりの人から「あなたは誰ですか、どんな偉大な方ですか」と問われますが、「違う、わたしは何者でもない」と言います。わたしたちは自分が何者であるかを探します。何か大きなもの、何か偉大なもの、誰かに尊敬してもらえるもの。しかしヨハネは「自分は何者でもない」というのです。

自分はただの声である。神さまからのメッセージを、神さまからの救いの知らせを伝えるただの声であって、自分が偉大な何者か、なわけではない。

最近マウンティング、という言葉がインターネットなどで聞かれるようになりました。レスリングなどでの「マウントを取る」相手を抑え込むとかですね、その「マウント」です。おそらくほとんどの人が意識的にせよ、無意識的にせよそれを行っている。できるだけ自分を大きく見せよう、場合によっては相手をマウンティングしようとする。けれどもそんなふうにするときに実はわたしたちは自分が小さい人間であることをわかっているのだと思います。

ヨハネの中にもそのような葛藤がなかったわけではないと思います。しかし彼は自分のことを「声」だと言います。声はすぐ消えていく。けれども語られた内容は残る。彼が伝えたものは確かにこの2000年後まで残っています。ヨハネは言います。「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」。私はこれがクリスマスの大切な恵みであると思います。わたしたちはどんなに取り繕っても小さいものである。結局自分の小ささから、逃れることはできない。しかし、そのわたしたちの中に、わたしたちの知らない方がおられる。自分でもわからないけれども、自分では自分が小さいものとしか思えないかもしれないけれども、しかし聖書はそこにこそ神の恵みが宿るのだ、と語ります。わたしたちは弱いけれども、しかしその弱い人となってくださった方がいる。それは決して2000年前のただ過去の話ではなく、いまのわたしたちにも、そして将来のわたしたちにも起こることであります。来週洗礼を受ける姉妹がいます。今日はちょっと体調を崩して休んでいるそうです。どうぞ、その子のために祈っていただければと思います。洗礼を受けたとき、わたしなどはその意味を分かっていなかった 。

わたしたちの中で神の出来事が始まる。神のご計画が始まるのであります。その子の中で神さまの確かなご計画が始まるように。

わたしたちが神になるのではなく、人になった神様がわたしたちの中に宿ってくださることによって。「神になった人によってではなく、人になった神によって世は救われる」(A.M.ハンター)

パイプ。ヨハネ。声に徹した人。自分が評価されることを求めず、自分に与えられた役割を果たす人。確かにそうなれたらいい。難しいけど。しかし、その欠点だらけのわたしたちを、神様がご計画のために用いてくださる。

荒れ野を訪れる慰め

2017年12月10日(日)待降節第二主日礼拝要旨 マルコによる福音書1:1〜8
神の子イエス・キリストの福音の初め。 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
街はすでに完全にクリスマスムードです。教会でも準備が少しずつ進められています。しかし、まだ教会で読まれる聖書の日課では、赤ちゃんイエス様はおろか、母マリアもその夫ヨセフも羊飼いも博士たちも登場しません。毎年、この季節には読まれる箇所が決まっている。第一主日は王としてエルサレムに入られるイエス様。主役がいまだ不在、しかしそこにはクリスマスの気配は漂っている。わたしたちの現実はまだ現実として目の前に横たわっているけど、でもそこにクリスマスがやって来る。その気配を感じ取るのがこの「アドベント」という季節です。

 聖書にイエス誕生の日付は書かれていません。しかし、実際の誕生日がどうであれ、この時期にクリスマスが祝われることには大きな意味があります。2000年も前に生まれたはずのイエスの誕生祭を、まるで今年お生まれになったかのように祝うのは、それは私たちの世界の、またいのちの最も暗く寂しいところを照らすためにイエス様が生まれてくださったと知るためです。

 あまり幼稚園のクリスマス物語ではおそらく聞くことがないだろう、洗礼者ヨハネという人が出てきます。聖書によればこの人は、イエス様をお迎えする前の露払いの役目、今日の聖書で言うところの「イエス様が来られる前に道を整える」役割を持っていたとされています。そしてその役割とは救いを求めて来る人々を「荒れ野」で「悔い改め」させることであった、と。

 聖書世界である中東地方において、荒れ野というのは人が住む町のすぐ傍らにあるものであり、しかも大きな危険があるところです。そして自分を守るものが何もないところです。私たちは心が荒れ野にいる、あるいは自分自身が荒れ野である、というのを時折経験するかもしれません。自分が空っぽである。自分は何も持っていない。そして私たちはそんなとき、しばしば自分が空っぽであることを認めたくないのです。だから私たちは何とかして、空っぽではない人間になろうとします。荒れ野を荒れ野でなくそうとします。しかし、無理やりにそこに花を咲かそうとすることで、私たちはかえって疲れてしまうことがあるかもしれません。

「わたしたちは自分の現実以外のところで、つまり敬虔な礼拝、意見が同じ人たちの交わりにおいて神と出会おうとします。しかし、神はむしろ、わたしたちの荒れ野を通ってわたしたちのところへ来られようとします。」(アンゼルム・グリューン「クリスマスの黙想」キリスト新聞社)

 聖書は言います。「荒れ野に道を通せ。主なる神がそこを通ってやってこられるから。」ヨハネも悔い改めの洗礼を授けた後、こう言いました。「わたしよりも大きな方が、わたしの後に来られる」。私たちの荒れ野は、やはり荒れ野のままかもしれない。しかしそこをめがけて神の恵みがやって来た。そのことがクリスマスに私たちが祝おうとしていることなのです。人が生きるその現実の中に、神様が自ら小さな幼子としてやって来て下さった。この暗くなっていく世界に与えられたその恵みを受け入れるところから、はじめてゆきたいのです。

恵みの光が来る

2017年12月3日(日)待降節第一主日礼拝要旨 マルコによる福音書11:1〜11
一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。 もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」 二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。 すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。 二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。 二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。 多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。 我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。
教会の暦は、「待降節」(アドベント)と言われる季節に入りました。クリスマスの準備、イエス様のお生まれを準備をする季節です。この待降節が教会の暦では一年の始まりにあたります。

まだ赤ちゃんイエス様は、この時期に読まれる聖書には出て来られません。教会ではこの時期、ネイティビティと言われる降誕場面のジオラマを飾りますが、教会によっては赤ちゃんイエス様のお人形だけは、クリスマスまでは飾らないというところもあるそうです。それはイエス様のために「場所を空けて待つ」ということを意識するためかもしれません。

今日の聖書は、毎年待降節の始まりに必ず読まれるイエス様の「エルサレム入城」です。この場面のイエス様は、当時の都エルサレムへと歩みを進めておられるところです。エルサレムは当時神の都とされていました。そこに「神の子イエス」つまり本来のこの都の主人である方が訪れる。エルサレムはこのとき神の子、本当の主人をお迎えする準備ができていたでしょうか。いえ、神の都とみなされ、そうあることを期待されたエルサレムは、しかしこのときイエス様を受け入れることが出来なかった。この一週間後、イエス様はこの都から排除され、都の郊外で十字架にかけられます。この都はわたしたち自身の姿のように、私には思えてなりません。

私たちはクリスマスを迎えるためにたくさんの準備をします。この時期は私たちにとって忙しくも、楽しいことも多い季節でしょう。しかしそれと同時に、私たちは別の準備、わたしたちの中にイエス様をお迎えする準備も進めていきたいと思うのです。私たちの今年の、今の心の状態はどうでしょうか。悲しみや心配事で心がふさがっていないでしょうか。あるいは心を点検する中で、神様のみことばをできれば退けたい自分を発見したりはしないでしょうか。人を傷つけてきたむなしい自分を発見しなかったでしょうか。わたしたちはイエス様をいま喜んで、私たちの心の主人としてお迎えする用意ができていないかもしれません。わたしたちはイエス様をお迎えするのに、決してふさわしいものではないのです。

しかし、私たちはここで、イエス様をお迎えすることについて考えたいのです。イエス様は、私たちが完全な状態にならなければ、来て下さらないのでしょうか。そうであるならば、わたしたちのこの世界は2000年前、イエス様をお迎えすることが出来なかったでしょう。そしてエルサレム郊外で十字架にかけられた主イエスを、神様が復活させてくださることもなかったでしょう。

不完全な私たちの中に、神の恵みが到来した。それが「イエス・キリスト」において、この世に実現した出来事です。この神様をお迎えするのにふさわしくない世界のただなかに、神様はイエス様をこの世の寒く、寂しいところに送ってくださった。「十二月二十四日。聖心女子大学チャペルでのクリスマス・ミサ。至高なる存在が人を助けるため、至福を出て来て下さった祝日。それなら、われらも安逸と己を出て、前へ。最も不幸な兄弟たちのもとへ」(犬養道子)。イエス様の到来を受け入れ、イエス様に自分を新しくして頂く準備を、始めてまいりたいと思います。

それでもあなたを愛してる

2017年10月22日(日)聖霊降臨後第20主日礼拝要旨 マタイによる福音書21:33〜44
「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。 さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。 だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。 また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。 そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。 農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』 そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。 さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」 彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」 イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』 だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。 この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」
ぶどう園を農夫に預けて旅立った主人と、そのぶどう園を好き勝手にする農夫たち、というたとえ話が語られています。聖書には、よくぶどうやぶどう園が登場します。中東地方において、ぶどうは、葡萄酒の原料であるなど大きな喜びをもたらす重要な植物でしたから、旧約聖書の時代から、この世界、特に神の民イスラエルはしばしば神のぶどう園にたとえられてきました。

イエス様はこう語られます。「主人は収穫を楽しみに、何度も何度も使いの者を遣わしたが、その使いの者は農夫たちに受け入れられず、排除された。だからとうとう主人は『わたしの跡取りを送れば、大事にしてくれるだろうし、いう事を聞いてくれるだろう』と言った。しかし、農夫たちは『こいつを殺せば、ぶどう園は自分たちのものになる』と、その跡取りを殺してしまった。」

ここでイエス様によって農夫に例えられているのは、直接的には当時のイスラエルの宗教指導者たちのことです。しかしこれは今の私たちにも語られている言葉と受け止められます。私たちはこの世界を、神様から預かっている。私たち一人が、神様からゆだねられた世界に対する責任を持っている。しかしいったい私は、それをどのように扱ってきたでしょうか。

私たちは、自分たちにゆだねられたぶどう園に対して謙虚にならなければいけなかったのだと思います。にもかかわらず、いつの間にか私たちは、私たちを造ってくださった方、神さまが与えてくださったものに対する尊敬の念を忘れてしまうのです。

「家を建てる者が捨てた石、これが隅の親石となった」(42節)これは旧約聖書の詩編からの引用ですが、今日の箇所ではこの「石」にたとえられているのがぶどう園の主人の息子、すなわちイエス様です。家を建てるものが、必要ないと思って、その石を捨てた。しかしその石こそが実はキリストだったのだ、と聖書は言うのです。私たちがこれまで大切にしてこなかったところに、実はキリストが居られたのかもしれない。私たちはそうやって日々、主を十字架にかけ続けている。

「あなたたちはどう思うか」とイエス様は問われます。普通に考えれば、「その悪人どもはひどい目にあって殺される」のが当然です。私たちも、神さまからそのような扱いを受けたとしても、仕方ないのかもしれません。

しかし、神さまはそうなさらなかった、神様がなさったことは私たちの狭い思いを超えていた、と聖書は語ります。「家を建てる者が捨てた石、これが隅の親石となった」。私たちは確かにこの世界からイエス様を排除しました。しかし神様は復活という形で、その罪の極みからの救いの道を開いてくださった。神様はこのどうしようもない私たちを、徹底的に愛しぬく道を選んでくださったのです。この愛によって、私たちは罪の極みからもう一度生まれることができる。イエス様の十字架と復活によって示された私たちへの神様からの愛に希望をもち、イエス様を見上げて、またここから、神さまからゆだねられたぶどう園の働きへと、歩み出すことがゆるされているのです。

神さまのぶどう園

2017年10月15日(日)聖霊降臨後第19主日礼拝要旨 マタイによる福音書20:1〜16
「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
再来週の10月31日が、いよいよ宗教改革500年目の記念日です。キリスト教界全体が揺れ動き、おそらく当時の西方教会全体が「神の恵みとは何か、教会とはどうあるべきか」ということを考え始めた記念日として、今を生きるわたしたちもこの日を記念したいと思います。

本日の讃美歌は、ほとんどがマルチンルターに由来するものです。彼の功績のひとつはやはり自国語による讃美歌を造ったことでしょう。短い、わかりやすいフレーズで、自分たちの言葉で繰り返し神さまのことを歌う。もちろん当時の教会がラテン語で聖歌を歌っていたことも、意味があってのことでした。しかし、それによって、置き去りにされていた人々がいた。そう考えると、宗教改革というのは、置き去りにされていた民衆に神の言葉を取り戻す改革であった、ということができるでしょう。

今日の聖書のみ言葉はおそらく、「不公平ではないか、納得できない」という方が多い個所ではないかと思います。きちんと朝から働いていた人たちが一デナリオン分の給与をもらうのは当たり前である。けれども後から来た者も同じだけの給与をもらうのは不公平ではないか。それがわたしたちの常識です。しかし、ぶどう園の主人は、午後五時頃に招き、一時間しか働かなかった人にも朝早くからぶどう園に行くことができた人と同じ一デナリオンを支払います。

賃金に差がつけばこんなに不公平を感じることはなかったかもしれない。しかし、よく考えてみると、いちばんに雇ってもらえるという事は、健康を維持できる生活ができているという事です。だれにも雇ってもらえない人は、それだけ賃金を得ることができません。そうするとおそらく健康を維持することはできません。その悪循環が続き、そこから抜け出すことは難しいのです。

しかし、主はそこでこう言われます。「この最後に置き去りにされた者も、あなたと同じように取り扱いたい」。1デナリオンとは、労働者の一日分の賃金でした。つまり労働者とその家族が一日そのいのちをつなぐことのできる金額、つまり、命そのものの価値です。それは確かに労働の対価としての賃金、という世の中のものさしからは外れます。しかし神様は、私たちが図るものさしとは別のものさしで私を見てくださる。わたしたちのいのちそのものの価値を見てくださるのです。

それでもなお、私たちの心はかたくなであるかもしれません。すでに神様のものさしの中にいるにもかかわらず、私たちはどこまでも小さく、認め合うことに遅く、いちばん後ろにならざるを得ない者です。しかし、列の一番最後からねたみのまなざしを向ける私に対し、「友よ」(13節)と呼んでくださる方がおられます。イエス様は言われました、「わたしはこの最後の者にも同じように支払ってあげたい」と。このことばは私たちにも向けられているのです。いちばん最後のものである私もまた、招かれています。この恵みに招き入れられたことを喜び、この神のものさしの中で、お互いのいのちを喜び合いたいのです。

ゆるせないわたしのために

2017年10月8日(日)聖霊降臨後第18主日礼拝要旨 マタイによる福音書18:21〜35
そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。 そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。 決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。 ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。 しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。 仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。 そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。 わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』 そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
主人に莫大な借金を返すことができず、帳消しにしてもらった僕が、その主人の館を一歩出るや否や、他の仲間の首を絞めて「借金を返せ!」と締め上げる。見るからに滑稽なたとえ話です。もちろん、ここでイエス様はここで実際の金銭の貸し借りについて言われているわけではなく「罪という神様への負い目」を「借金」という負債にたとえておられるのです。

今日のたとえ話は、一番弟子のペトロがイエス様に尋ねた「先生、何回まで赦したらいいんですか。七回までですか」という問いに対する答えです。七回赦すのでも、かなりの寛容さと忍耐が必要なことを考えると、これは最大限の譲歩です。しかし、イエス様はそこに七の七十倍まで、と言われます。もうこれは無限に赦せ、と言われているのと同じです。

確かに、ここで主人に例えられている神さまに対する私たちの負債はあまりにも大きい。1万タラントンの世界(16万年分の給料)は、あまりにも壮大すぎて、私達にはかえってピンときません。そして目の前の相手に対する貸しである100デナリオンは、私たちにはあまりに大きい。それを主は「赦せ」と言われる。それによって痛みを負った私たちはどうでもよいのでしょうか。

しかし、このたとえ話で、主人に対してこの僕のやり方を告げ口したのは、この様子を見て「非常に心を痛め」た仲間たちでした。もちろん首を絞められている仲間への同情もあるでしょうが、首を絞めている彼のことについても仲間は「心を痛め」たのではないでしょうか。憎しみや怒りに囚われている彼に、心が痛む。怒りにとらわれてしまって周りや主人である神さまのことが見えなくなっている彼のことが、見ていてとても悲しい。

今日の旧約聖書ではヨセフの物語が語られました。彼は実の兄弟に憎まれ、遠いエジプトに売られ、故郷では死んだことにされる。そこで彼はエジプトの大臣にまで上り詰め、最終的には家族と世界を救うことになります。これが物語ではなく実際にわが身に起こるとすると、これは本当に耐えられない。しかしヨセフはこう言って兄たちを赦します。「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変えてくださったのです」。彼らがしたことは取り返しのつかないことであり、許されることではない。しかし、そこから新しいことをおこしてくださる方がおられる。神の子イエス様の十字架という罪の極みのできごと、しかしその十字架を神さまは、救いのしるしへと変えてくださいました。神さまの前に1万タラントンと言う大きな借金をし、しかもその大きさを認識することすらできず、100デナリオンを責めずにいられない私。しかしこんな救いようがない私にも働いて、新しいことを起こしてくださる方がおられるのです。その方に気づくところから、私たちの本当の新しいいのちの歩みが始まるのではないでしょうか。

ゆるすこと、ゆるされること

2017年10月1日(日)聖霊降臨後第17主日礼拝要旨 マタイによる福音書18:15〜20
「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
いよいよ、マルチン・ルターの宗教改革の始まりから、500年目の10月を迎えます。このときに立ち会える幸運を祝うとともに、教会の信仰、わたしたち自身の信仰を自己点検し、見直していく500年目でありたいと思います。

ルターの書いた信仰の手引書である「大教理問答書」の中に、今日の福音のイエス様の言葉に通じるようなものがあります。「十戒」の第八戒「隣人に関して偽証してはならない」についての解説です。この項目でルターはこう言います。この掟は「隣人に対してわざとうその証言をして相手を陥れる」ことだけを禁じているのではなく「他人に罪があり、そして、自分がそれをよく知っている場合でも、けっしてその人の悪口を言わない」ことを言っているのだと彼は言います。

イエス様は今日の日課の中で、誰かが「あなたに対して罪をおかした」場合について、わたしたちに語っておられます。まず、二人だけのところで忠告する。それで解決しなければ、中立的な第三者がいるところで。それでも解決しなければ、共同体のみんなで解決を。ここで示されているのは、初めから問題を大げさにするのではなく、相手の名誉をどこまでも尊重し、相手が恥をかかないようにする、ということです。忠告をするときは、自分が相手を攻撃して溜飲を晴らしたいからではなく、そうではなく、相手がそれによって少しでも良い状態になることを望んで忠告すべきだと言うのです。そうでなければ言ってはならない、というのです。

しかしわたしたちはしばしば、相手の名誉を守るために二人きりの所で忠告するどころか、本人が知らない所でその人の悪口を、枝葉までつけて言いふらしてしまうことがあります。今日のロマ書にある「善をもって悪に勝ちなさい」どころか、自分がいっとき留飲を下げて満足するために、積極的に人を傷つけることを行ってしまうのが、わたしたちではないかと思うのです。

そう考えるとき、今日のイエス様のご命令はわたしたちに厳しく迫る言葉です。しかし私たちは、そんな私たちに対して、イエス様が行ってくださったことを、思い起こしたいのです。イエス様は、「神を愛し、隣人を愛しなさい」と宣べ伝えられた結果、その言葉を受け入れられずに排斥され、十字架の上に死なれました。イエス様を十字架に着けたのは、私達人間の弱さです。しかし神さまはその後わたしたちに対して、どうなさったか。神さまはその私たちに対し、十字架からの復活、という形で、わたしたちの悪に対して、愛を返してくださったのです。

悪に対して善を返すどころか、何もしていない兄弟に対しても悪を働く私たちです。しかしまずイエス様ご自身が、そのわたしたちの悪に対して愛をもって報いてくださった。そのどこまでも大きな愛と赦しの中で、わたしたちは今ここに集められているのです。その教会に集められた者として、私たち自身が赦しを発信していく者でありたいのです。

小さな者を守る神

2017年9月24日(日)聖霊降臨後第16主日礼拝要旨 マタイによる福音書18:1〜14
そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。 そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、 言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」 「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。 世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。 もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。 <底本に節が欠けている個所の異本による訳文> 人の子は、失われたものを救うために来た。† あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」
今日の福音書の物語は、よく知られた「100匹の羊の群れから迷い出た、一匹の羊」のたとえです。こどもさんびかの55番にあるように、「なさけのふかい羊飼い」は、たった一匹であっても、群れから離れた一匹を探しに行く。とても優しい、温かいたとえです。しかし、よく考えなくても、それはとても非効率的です。その一匹のために、他の99匹は放っておくというのか、と。

このたとえ話は、イエス様が「あなた方の中のもっとも小さい者」について話された、たとえ話の中の一つです。そしてこの「羊のたとえ話」の前にあるイエス様の言葉はわたしたちにとっては厳しいものが並びます。「これらの小さなものの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、深い海に沈められる方がましである」。「小さな者」とはだれか。今日の福音書の始まりに登場する、子どもでしょうか。子どもは可愛くて純粋だから、「小さな者を大切にする」というのは子どもを大切にする、ということでしょうか。いいえ、子どもは可愛いだけではないことを、私たちは良く知っています。そもそも今日の聖書の箇所において、弟子たちはこの子供を可愛がっていたどころか、おそらく、イエス様がその子供をそこに立たせるまでは、その子供の存在に気づいてもいなかったどころか、邪魔にしていた可能性もあります。

  「小さくされた者」とは、「私たちが小さくしているもの」と言えるでしょう。おそらくそれは私たちが親切にしたくない相手です。あの人はつまらない人間だと、私たちが判断している相手です。そしてわたしたちは、そのようなときに、相手を大切にしない理由を捜します。あの人があんなふうだったから、それは「しかたない」ことだったのだと考えます。しかし、その私たちに対して主はこう言われるのです。「このもっとも小さい者の一人をつまずかせないように気をつけなさい」その言葉にわたしたちは砕かれます。自分こそが、群れの中でいちばんつまらない者ではないか。わたしは兄弟を探さない。危険を冒してまで、探すことはしたくない、そんな私たちです。しかしそんな私たちに向かって、イエスはこういうのです。あの人も、大切な私の羊なのだよ、と。

この言葉の前に私たちは痛みを覚えるかもしれません。実は私こそ愚かなのだ。私こそ、神に受け入れられる資格がない者なのだ…。しかし、私たちが自分を99匹の中の一匹ではなく、最も愚かでもっとも罪深い一匹であるとみなすときに、このたとえ話は私たちにまったく違う姿を見せてくれます。私も、探されている。そして私が見つかっても、神さまは喜んでくださるのです。私が自分の心の貧しさを知り、神に立ち帰り、仲間の痛みに心を向けることを学ぶなら、そんなわたしのことを、戻ってきた私のことを、神さまはこの上なく喜んでくださいます。そう、私こそ、探されている一匹である。それを知ることから、私たちの新しい歩みは始まるのです。

あなたは幸いだ!

2017年9月17日(日)敬長礼拝要旨 マタイによる福音書16:13〜20
イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。
今日の福音書の日課の中で、「あなたは幸いだ!」とイエス様からほめられているペトロは、イエス様の一番弟子だった人です。イエス様に最初に招かれ、ずっと一緒に旅をし、イエス様の奇跡を目撃した。今日の福音書のペトロの信仰告白も、ペトロがいくつかのイエス様の奇跡を目撃した後のことであったと言われています。奇跡を見たから信じる、それでいいのでしょうか?

しかしそれは過去に旧約の民イスラエルが経験したことでもあります。今日の出エジプト記の日課はこう言います。「わたしはあなたをエジプトでの奴隷状態から導き出す。そしてあなたはわたしたちの民となる。」イスラエルが神さまを正しく信じていたから、神さまは彼らをエジプトから導き出した、ではない。神がイスラエルを解放する、だからイスラエルは神の民となる。この順番が大切です。そのような経験によって、「あなたはわたしの神様です」と告白するに至っていく。それはわたしたちの信仰においても同じことです。

ペトロは何を誉められたのか。イエス様の「あなたはわたしを何というか」に対して、周りはこう言っている、ああ言っている、ではなく「わたしにとって、あなたはメシア(救い主)です」。ただそれだけです。しかし、わたしたちはそのシンプルなことを忘れます。荒れ野の民が40年の厳しい放浪生活の中で神を忘れたように。ペトロもそうでありました。

ここでは珍しくペトロがイエス様に褒められ、「あなたの上にわたしの教会を建てる」…あなたがわたしの教会の基礎となる、とまで言われています。しかしその彼がこれからどうなるか。イエスが逮捕され、十字架にかけられようとしたあの夜、自分も逮捕されるかもしれないという恐れの中で、彼はキリストのことを三度も「あんな人のことは知らない」と言ってしまうのです。

しかし、その三日後に何が起こったかも、わたしたちは聖書から知ることが出来ます。「天の国の鍵を授ける」とまで言われながら、しかしイエス様を三度否んだペトロ。しかし、キリストはその十字架から立ち上がって、そのペトロと再び出会ってくださいました。そして、その後ペトロは実際に、イエス様が言われた通り教会の礎となりました。

イエス様は、この堂々と信仰を告白したペトロではなく、一度はイエス様を否んで絶望したペトロの上にこそ、教会を建てられたのです。それこそが弱い私たちにとっての希望でもあります。ペトロのこのときの理解は不十分だったかもしれない、しかし彼は十字架と復活のイエス様と出会うことにより、まことに主を信じる者へと変えられていく。このペトロの歩みから、わたしたちは神を神として告白するということ、神に信頼するということ、そしてわたしたちが何を伝えていくか、ということを学ぶことが出来ると思うのです。

その平和、ホンモノですか?

2016年7月23日(日)聖霊降臨後第七主日礼拝要旨 マタイによる福音書10:34〜42
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。 わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。 こうして、自分の家族の者が敵となる。 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」 「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。 預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。 はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」イエス様の言葉としては、かなりショッキングな言葉が語られています。キリスト教のイメージとして、平和や愛を上げる方もいらっしゃるでしょう。しかしここでイエス様は、わたしは平和ではなく、剣を投げ込むために来た、というのです。

これは、親や兄弟を棄ててでもキリスト教を信じなさい、ということでしょうか。実際に2000年前、新約聖書が書かれた時代、キリスト者であることで家族との縁を切られたり、殺されることは当たり前のことだったといいます。新約聖書の時代、いま以上に血縁のつながりが強い時代でしたから、そこから断たれることは自分が孤立することでも、家族に深刻な分裂をもたらすことでもありました。ですからその中で、自分は家族と違うものを信じることは本当に命がけだったのです。

それに比べて現代は、何かを信じているからと言って、表立って迫害されることはありません。そしてわたしたちは、平穏で争いがない状態を好みます。そしてできるだけ、特に身近な人たちとの争いを避けて、平和に過ごしたいと思っています。周囲の人と同じ価値観の中で波風が立たないように生きる、それは確かに私たちが生きる手段として必要なことかもしれません。しかし、それは本当に本物の、平和でしょうか? 私たちは「平和」というと戦争や争いがないことをイメージします。しかし、聖書が言う「平和」とは神様と人間、人間と人間とが、深いところで「和解」している状態を指します。そしてわたしたちが本当に相手と和解するためには、あえて相手との関係の間に剣が投げ込まれなければならないということもあると思うのです。

二番目に読まれた「エレミヤ書」26章は、旧約聖書の預言者エレミヤが、当時の社会と対決したときのことを記しています。ここでエレミヤは「できれば自分だって平和を語りたいんだ、でも、神さまはそれではいけないんだと言っている」というようなことを言います。なぜなら当時の社会が、間違った方向に、神さまが望むのとは違った方向に行っていたから。神さまは、あなたたちにそっちの方に行ってほしくないよ、と言っている。神さまから投げ込まれる剣は、決してわたしたちをやっつけたいとか、傷つけたいからではない。そうではなく、あなたに間違った方向に行ってほしくないよ、なぜならあなたが大切だから、という神様の私たちに対する愛から出たものです。

イエス様は確かに「平和の主」として来られました。しかしそれは見せかけの平和のためではありません。当時の社会は神さまが望まれる状態から、ほど遠い状態にあった。イエス様はそこで「神さまとの本来の関係に帰れ、本当の愛に立ち帰れ」というメッセージを語り続け、ついには十字架の上へと上がられます。イエス様は言われます、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない」。…「肉親よりも主を愛する」、それは決してその関係は必要ないから捨ててしまえ、ということではありません。むしろ、ただ見せかけだけの関係を棄てて、真ん中に神さまを置いた、新しい関係を造っていきなさい、ということだと思います。聖書は時に私達の弱さを剣のように貫きます。しかし、そのように私たちを砕くみことばは、同時に私達を新しく造り上げるのです。その神の恵みに、耳を傾けていきたいのです。

神はあなたを見捨てない

2017年7月16日(日)聖霊降臨後第六主日礼拝要旨 マタイによる福音書10:16〜33
また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。 引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。 実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。 兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。 一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。 弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。 弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。」 「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。 体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。 二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。 あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。 だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」 「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」
「迫害を予告する」という表題をつけられた個所が、福音書の日課として読まれました。「あなたがたは、地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれる」「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう」。とても恐ろしい言葉が語られています。こんなふうにならなければクリスチャンとは言えないのか、と抵抗を覚える方もおられるかもしれません。

 しかしこれはおそらく、この福音書が記された時代的な背景が影響しています。キリスト者への迫害が大きかった時代に、このマタイ福音書は記されました。いわば、当時、実際にこのような状況に遭って苦しんでいた、マイノリティに向かって語られた言葉なのです。だからこれは「クリスチャンはこうあらねばならない」というよりは、「あなたたちは今苦しんでいる、迫害されている。しかしその中で神は共にいてくださるから、踏みとどまりなさい」という励ましを語った場所であると、解釈する方がふさわしいでしょう。

しかしやはりこの個所は、わたしたちにキリスト者として生きる心構えを示しています。「キリスト者」を「自分にとって大切なことを信じ、また伝えて生きる者」と言い換えてもいいかもしれません。現代の生きるわたしたちは、キリストのために、また何か自分の信念や、大切なことのために苦しむ、ということにあまり慣れていないと思います。人間の自然な感情だと思うのですが、やはりわたしたちは迫害などされたくない。正しいことは大切だと思うけど、しかしそのことのために苦しむことはできれば避けたいし、そうなったらどうしよう、と心配します。

しかし聖書は今日、とても面白いことを教えています。「(あなたがたは)わたしのために(逮捕され)、総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証をすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる」…あなたは捕らえられるかもしれない、権力者の前に引き出されるかもしれない。しかしそれは、あなたがそこにいる人たちに弁明する、つまり神さまのことを伝える機会となる、と。

 わたしたちは、そういったできごとを、ネガティブにしかとらえることしかできないかもしれません。しかし実は、そのようなきっかけで福音が告げ知らされることがある、と。わたしたちの目にはマイナスに見えることを通して、神さまは私たちに役目を果たさせてくださるのだ、というのです。「たとえ明日、世界が終わるとしても、わたしは今日、リンゴの木を植える」。わたしたちが主に結ばれている以上、わたしたちの命は決して無駄になることはない、というのです。

なぜならわたしたちが生きるときも死ぬときも、わたしたちのいのちは確かに神さまに覚えられているからです。「一アサリオンで売られている二羽の雀、その雀が地に落ちるときが来たとしても、そのことも神さまの御手の内にある」。その小さな雀のことを神さまは確かに目を留めて、心にかけてくださっている。自分ではわからない自分のことまで、神さまは御存じでいて下さる。

 その神さまが、わたしたちを用いてくださいます。しかも、わたしたちからは思いもかけないような方法で、わたしたちからは予想もしないようなときに。だから、私たちはいつそのときが来てもいいように、心の準備をしつつ、安心していていいのです。大切なのはそのときに、たどたどしくでもいいから自分らしく、自分の信じているものを、伝えられる自分であることです。そのとき、必ず神さまは、そのあなたの中に働いて、役目を果たさせてくださいます。

さいわいなひと

2017年7月9日(日)召天者記念礼拝要旨 マタイによる福音書5:1〜12
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 そこで、イエスは口を開き、教えられた。 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
夏の召天者記念礼拝です。今回は、この3月に98歳で召天され、この教会で葬儀が行われた、ひとりの姉妹が召天者の列に加えられました。人間が「死」というものに向かっていくとき、そこにはあまり「幸い」と呼べるようなものはないように思えます。健康の衰えであったり、突然の悲しみや絶望。「明るい未来」や「将来の希望」ということをそこに積極的に見出せることは、あまりないでしょう。そこにあるのはやはり喪失、何かを失ってしまうということです。

今回、列に加えられた姉妹は98歳というご高齢でした。10年近く病院に入院されており、それでも最後までしっかりしておられたのですが、いろんなことがわかるからこそご入院が辛いだろうなあ、と思うことがお見舞いに伺っていても、多々ありました。「早く退院して教会に行きたい」と言われることを悲しく感じることもありました。しかし最後は、キリスト教の病院に転院され、そこで召天された。「ここはキリスト教の病院ですよ」と申し上げたときに「はい、ここに来てすぐ、十字架に気づきました」と言われたことを覚えています。クリスチャンではないご家族も、教会での葬儀を選んでくださり、この教会から彼女を送り出すことができた。主は彼女を見放してはいなかった、ということを本当に強く感じた出来事でした。

これはもちろん彼女だけの物語です。彼女は、たまたま最後がこうだっただけで、みんながそのような終わりを迎えられるとは限らない。そのことも確かです。しかし私はこう思えてなりません。彼女の最後を通して、神さまはどんな状況の中でも私たちを心に留めてくださっている、見放されることはない、ということを私たちに示された。たとえどうして?と思えるような終わりであっても、神さまから見放されるということは決してない。

今日の福音書の日課、いわゆる山上の説教の始まりの部分であるマタイ5:1-12、「真の幸い」「天上八福」などと言われる個所が、伝統的にこの召天者記念のとき読まれてきたのは、やはりこのとき、殉教や迫害を受けて召天した人々、つまりこの世で決して幸福な人ばかりではなく、苦しみの中を生き抜いた人を覚えてきたからなのでしょう。

このとき、イエス様の近くに腰を下ろしていたのは「いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれたもの、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人」でした。病のゆえに、またさまざまな苦しみのゆえに、当時の社会の中では「あの人たちは神から見捨てられたのだ」とみなされていた人たちでした。しかしその人たちのためにイエス様は腰を下ろして、山の上から言葉を語られる。聖書において、山というのは神が語られる場所です。そこから、神の子であるイエス様が「あなたたちは幸いである」と語られる。この「幸い」というのを、本田哲郎というカトリックの司祭は「神からの力がある」と語りました。神からの力、神からの祝福が、心の貧しい、悲しんでいる、心や現実が満たされず飢え渇いている…そのような現実を背負ってそこにいるひとりひとりに確かに注がれている、ということです。神はあなたを見捨ててはいない、むしろあなたたちにこそ神さまは目を留めておられる。召天者記念は、供養ではなく思い起こすときです。私たちは知っています。ここにお写真が並んでいる信仰の先輩方の中に、苦しみがなかった方など一人もいないことを。しかしそれでもなお、 主は確かにその一人一人と共に歩まれたことを。その主が、今も共におられることを知る。そこにわたしたちの、天上での平安の源があるのです。その一人一人と共に歩まれたことを。その主が、今も共におられることを知る。そこにわたしたちの、天上での平安の源があるのです。その一人一人と共に歩まれたことを。その主が、今も共におられることを知る。そこにわたしたちの、天上での平安の源があるのです。

あなたも招かれている

2017年7月2日(日)聖霊降臨後第四主日礼拝要旨 マタイによる福音書9:9〜13
イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
かつて徴税人であったとされる福音書記者マタイ、彼の招きについて語られている箇所です。ここで、マタイ(実際にこの福音書がマタイによるものかどうかは諸説がありますが)が、自分の身に起こった招きのできごととして強調しているのは、「自分が徴税人であったこと」そしてそのマタイに「イエスが目を留め、招いてくださった」そしてマタイが、座っていた場所から「立ち上がって、イエスについて行った」ということです。

そしてイエス様は、マタイの家に入って行って、彼らの仲間と宴会を楽しまれます。しかし、当時の徴税人は、異邦人である支配者ローマの手先として、神の民であるユダヤ人から税金を搾取する、神の民でありながらそこから堕落した者とみなされていました。ですからイエス様が彼らと食事をするのに、当時の宗教的エリートであったファリサイ派の人々が目をつけ、弟子たちに向かってイエス様の態度を非難するのです。わたしたちが実際にその場にいたら、どのような反応をするだろうかと思います。もしかするとそこに私たちがいたとしたら、私達も同じように、「正しい」自分たちとは異質な人々に対する偏見を持って、その光景を眺めたのでないかと思うのです。

「あんな奴らと一緒に食事をするなんて」…この言葉をファリサイ派は、イエス様にではなく、弟子たちに向かって言いました。イエス様に近しい弟子たちは、漁師や徴税人といった、ファリサイ派から見れば「格下」の存在でした。だから彼らはイエス様に直接ではなく、弟子たちに向かって言ったのかもしれません。それは日々の生活の中で、自分よりも小さいとみなすもの、自分から見てつまらないと思われるものをないがしろにする、私たちの姿なのではないでしょうか。

 イエス様は言われます。「医者が必要なのは、健康な人ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。あなたが軽蔑しているこの徴税人のようなものをこそ招き、神の国に招き入れるために私は来たのだ、と。ここでいう正しい、とは「自分が正しい『と思っている』人」という方が適切でしょう。そして実は「正しい人」こそ深刻な病巣を抱えているのかもしれません。ホセア書の言葉が突き刺さります。「わたしが求めるのは愛であって、いけにえではない」。神さまが「正しい」とされるのは、形式的な宗教行為などではなく、神との関係、隣人との関係に愛があるかどうかなのです。

 私たちはこのような言葉の前にしり込みをします。そしてもっと優しい、罪の赦しを求めるかもしれません。しかし、「罪びとの義認」と、「罪の義認」とは違います。「罪を犯してもいいよ、人を傷つけても赦されるよ」…それでは本当の意味で、私たちが自分の罪から解放されることはない。イエス様の福音は、わたしたちの自分の中にある病を見せつけます。しかし、そのときにこそ気づくことがある。イエス様は、御自分を陥れようとするファリサイ派と、徹底的に向かい合われました。それはもちろん徴税人や弱い立場の人々の側にイエス様が立たれている、ということでもありますが、私たちはその中にさらに、ファリサイ派の人々もまた招かれている、いや、ファリサイ派の人々こそ神が招こうとしておられる「罪びと」だということを聞くことができると思うのです。

「愚かさを抱えたあなたのことも、神は愛しているよ。だから、あなたがとどまっているその場所から立ち上がって、この愛の関係の中へおいで」。この招きの言葉は、わたしたちにも語られています。その招きに応えて、自分がいまとどまっている場所から、立ち上がりたいのです。

恵みの完成

2017年6月11日(日)三位一体主日礼拝要旨 マタイによる福音書28:16〜20
さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
聖霊降臨祭(ペンテコステ)を祝い、室園教会としては宣教70年という節目を祝い、新たな思いで「三位一体主日」という主日を迎えています。「父なる神」と「子なるキリスト」と「聖霊なる神」、これがそれぞれ三つの位格(人格)、を持つ、しかしこの三者は同じ源にあるただおひとりの神だ。極力簡単に説明するとこのようになるでしょうか。三位一体だけはいまいちよくわからない、という方もおられると思います。

しかし、教理を知識として知ることが信仰の目標なのではありません。そうではなく、神が示された道を生きることが信仰の目標だと言えるでしょう。ですから、三位一体について理解することよりも、私たちはむしろ三位一体を生きるとはどういうことかを学びたいのです。

三位一体主日は「派遣」の時でもあります。今日のマタイ福音書の日課は、イエス様の大宣教命令と言われるところですが、イエス様はその地上でのご生涯の完成にあたって、弟子たちを派遣されました。待降節から始まった教会の暦はこの三位一体主日でちょうど大きな区切りを迎えます。これまでの待降節〜復活節は、教会の暦では「キリストの半年」と言われますが、この三位一体主日から先は「教会の半年」「信仰の成長の季節」と位置付けられています。

待降節から始まる半年、わたしたちはイエス様の地上での歩みをたどりました。そして聖霊降臨まで至るイエス様の地上でのご生涯をとおして、神さまの救いの御業が完成されたことを祝いました。神の救いは完成された。その大きな恵みを確認し、そのことに信頼して、私たちはここから、新しい季節へと派遣されるのです。それは「キリストの弟子」としての派遣です。普段意識することは少ないかもしれないのですが、わたしたちは主によって救われたものであると同時に、「弟子」でもあります。わたしたちはイエスの教えを受けた「弟子」として、教えを生きる場所へと派遣されていくのです。しかしここは少し避けて通りたくなるところでもあります。そこを生きるのに自分は決して、信仰の面においても、イエス様が私たちに示してくださった「愛」の面においても十分ではないからです。

しかし、今日のマタイの日課はこう語ります。イエス様に派遣された弟子たちの中には「疑う者もいた」。それはイエス様への疑いかもしれませんし、もしかするとそんな風に信じ切れない自分への不信かもしれません。しかし、そこに「近寄って来て」くださる方がおられる。それはイエス様のご生涯そのものです。私たちは弱い。疑いや迷いを抱えており、不誠実で、勇気もない。しかし、そのような私たちのために、イエス様は来てくださいました。そして私たちのただなかを歩み、救いの御業をなしとげてくださいました。そしてその方は「見えない父なる神と、そして見えないけど我らと共にいる聖霊」と一体である、と言われる。完全な恵みが、不完全な私たちを包み、押し出すのです。

疑いを抱えたわたしたちに主は近づき、その疑いごと派遣されるのです。「世の終わりまで共にいる」つまり何があってもあなたから離れないという究極の約束と共に。私たちはこの完全な恵みに包まれている。そのことに信頼して、新しい季節へと派遣されていきましょう。

愛の中を生きる

2017年5月21日(日)復活後第五主日礼拝要旨 ヨハネによる福音書14:15〜23
「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」 イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。 イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。
今日の福音書も、先週に引き続き、イエス様の「告別説教」と言われる箇所です。

「わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」とイエス様は言われます。とても不思議な断定です。イエス様が言われる掟とは、直前の13章において、また15章で繰り返し語られる「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という掟です。イエス様は、613もあると言われる聖書の律法を、ただ「お互いに愛し合う」というこのひとつに集約されました。そしてそれは何より、わたしたちがこの世を生きる上で必要な掟だからです。「掟」というと、煩雑なものにも感じられるかもしれません。しかし、わたしたちはその掟を守る人間と守らない人間、つまり人を愛する人生と、人を愛さない人生、わたしたちはどちらを生きたいでしょうか。どちらの自分になりたいでしょうか。

もちろんそれは簡単な道ではありません。「わたしを愛しているなら、わたしの掟を守る」ということは、掟を守れない自分は、イエス様を愛していないということです。人を大切にできない時、そのときわたしはイエス様を大切にできていないのだ、と言われる。しかし確かにそうかもしれません。わたしたちが人を愛せないとき、わたしたちは神さまのことを忘れています。自分のことで余裕がなくなり、自分のことで腹を立て、自分の事しか見えなくなり、神さまと隣人とのことを心の中から追い出してしまうのです。

イエスのこのご命令に触れる時、わたしたちは愛せない自分を自分の中に発見します。しかし、それを教えてくださるのも、また神の恵みであり、愛なのではないでしょうか。イエス様はこれから弟子たちを残して十字架に向かわれます。そして復活、昇天を経て、弟子たちはこれからイエス様が見えない状態で、自分たちで道を選んでいかなければなりません。しかしそこにイエス様の「わたしはあなたがたをみなしごにしておかない」という約束があります。これは、「あなたをほっとかない」ということです。イエス様は、ただ弟子たちを放り出すだけではなくて、「弁護者」を送ってくださると約束して下さった。これが、イエス様が去られたのちに来られる「聖霊」という存在です。この「弁護者」とはパラクレートス、傍らに立つもの、という意味です。そしてそばに立って、様々なことを教えて、導いてくれる存在。

  それはときに、わたしたちに厳しいことを教えてくれる霊でもあります。その弁護者はわたしたちに、愛せない自分を見せつける。しかし、その愛せない自分に気づかないままに、どんどん周りが見えなくなっていくこと、それはどんなに不幸なことだろうかと思います。しかし、そのわたしのために、イエス様は「見えないけれども、あなたの傍らに立って、あなたを導く弁護者を送るよ、見えないけれどもあなたを導くよ」と約束してくださる。

  「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」とイエス様は言われます。それは、イエス様がわたしたちをほっとかれるのではない、ときに厳しい言葉を語ってくださることも含めて、わたしたちを常に導いてくださる、ということです。自分の子どもが間違った方向に進んでいくのを、こどもを愛する親なら決して見過ごしにはしないでしょう。「愛しなさい」というご命令に触れることで、わたしたちは神さまのことを、また隣人のことを思い出します。それこそが神さまが愛して、傍らに立ち、語り掛けてくださっているしるしなのではないでしょうか。

いのちの道はどこにある

2017年5月14日(日)復活後第四主日礼拝要旨 ヨハネによる福音書14:15〜23
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」 フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、 イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。 わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
イースターからすでに、一か月近く過ぎました。そうするとわたしたちはイースターの喜びを忘れていきます。私たちにとって初めの喜びをずっと持ち続けることは、容易なことではありません

しかも今、わたしたちの目の前にイエス様はおられない。聖書によればイエス様は、復活後40日目、2000年前のペンテコステの前に、天に帰られたからです。

もちろんイエス様は今日の聖書個所の中で「父である神様のところにはあなたのための場所がある、なければわたしが先に行って準備しておく」と言われました。イエス様はただ帰って行かれたのではなくて、その先でわたしたちのために場所を準備して下さり、待っておられる。しかしわたしたちからは実際にそれを見ることができません。

今日の福音書はイエス様が十字架にかかられる前、これから逮捕されるという夜に、弟子たちに語られた「告別説教」と言われる箇所です。その中で、「弟子の一人であるフィリポが、「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言った、そのことに私たちは共感できるのではないでしょうか。主が私たちに姿を見せてくだされば、わたしたちは、もうこれ以上問うこともなく、満たされるでしょう。しかし「その道を私は知りません」。しかし、その私たちに、『あなたたちは「道」を知っている』とイエス様は言われるのです。

おそらくここでフィリポは「どのルートをたどれば」という意味で尋ねました。私たちの中には安心するルートを、ここを行けば間違いないというルートを求める心があります。しかしイエス様が「道」と言われるとき、「ここの角を曲がれば…」と言った具体的な、私達が安心できるルートはイエス様の言葉には示されません。イエス様はただ、「わたしが道である」と言われます。

さらに「わたしを見た者は、父を見たのだ」とイエス様は言われます。イエスを見た人は神を見たことになる。「イエス様のお姿の中に、神さまが現れている」…これはヨハネによる福音書の大切な主張の一つです。イエスを見れば、神が分かる。イエス様は弟子たちに「今から、あなたたちは父を知る(理解する)」と言われました。「今から」…つまりイエス様がこの告別説教の後に進まれる十字架の道において。そこで私たちは、私たちをそれほどまでに愛しぬいてくださる神さまの姿を、イエス様を通して見るのです。直接ではないかもしれませんが、イエス様が地上を歩まれた姿を通して、わたしたちはイエス様に現れた神の愛を見ています。イエスを「道」と認めるということは、そのイエス様の愛に信頼してついていくことです。だからわたしたちは満たされるのです。

「道」には「方法」という意味もあります。イエス様が「わたしは道である」と言われるとき、私たちはイエス様について行くことが求められます。それは文字通りイエス様の上を歩く、ということではなく、人生において、生き方において、イエス様についていくのだということです。

それはイエス様がわたしたちにしてくださったことに倣う道でもあります。それはイエス様がわたしたちにしてくださったように、神と隣人のためにわたしの命を使う道です。そしてそれはやはり簡単ではありません。曲がり道だったり、坂道だったりします。途中で道を見失ってしまったり、逸れてしまったりします。思うようにいかず、傷つくことも、傷つけることもあります。しかし、私たちは、そのたびに、イエス様のところに立ち帰っていいのです。たとえ途中がどんなに不安でも、その先は必ず愛の場所にたどりつく、そのことに信頼して、歩み続けたいのです。

遅れて来た復活

2017年4月30日(日)復活後第二主日礼拝要旨 ヨハネによる福音書20:24〜29
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
イースターから三週目のこの礼拝まで、わたしたちはイエス様の復活顕現の物語を聞きます。その中でも、現代のわたしたちにとって親しみやすいのがこのトマスの物語ではないでしょうか。

先週、わたしたちはこのトマスの物語の直前、弟子たちにイエス様が現れたことを聞きました。しかしこのトマスは、何らかの事情でこの場面に立ち会うことができなかった。そこで「イエス様の釘の跡やわき腹の傷を見、そしてそれに触れて見なければ自分は絶対信じないぞ」と駄々をこねていたところ、そこにイエス様が再び現れてトマスに釘跡とわき腹の傷を示された。

彼は後々のクリスチャンたちから「疑いのトマス」という不名誉なあだ名で呼ばれることになってしまうのですが、しかし、その「疑いのトマス」というあだ名は、この現代の理性の時代を生きる私達からすれば不愉快に聞こえるものではないと思います。疑い深いということは逆に物事を深く考える、ということでもあります。そして自分が納得するまでは信じないというトマスは、ある意味ではとても物事に対して誠実であるともいえるのです。

また、簡単に信じることは時に危険でもあります。聖書をまったく疑わず、それ以外のものを一切認めないという信仰はやはりときに危険ですし、その意味では私たちはやはり聖書を批判的(否定的、ではなく)に読む必要もあるのです。もちろん素直な信仰も大切です。しかし、疑いから始まってたどりつくものもあると思うのです。信仰を生きる中で、不意に生まれて来る疑問を「自分が不信仰だからいけないんだ」と無理にその疑問をなかったことにするのは危険。それよりも「本当に守ってくれるのだろうか」という問いを真摯に問い続けることから、もちろんそれだけを一日中考えろと言うことではないけど、神さまって本当にいるのかな、守ってくれるのかなということを考え続けるところから生まれてくる信仰はあると思うのです。

トマスの姿にわたしはとても安心する。そして、聖書は「疑ってはならない」という意味でこの物語を記したわけではないと思います。もしそうであるなら、こんなトマスのエピソードなどカットして、疑わない、強い信仰の持ち主だった人たちのエピソードのみを載せればよいのですから。「見ないのに信じる人々は幸いだ」…これは逆に、見えないもの、見たことがないものを信じることがどんなに難しいことかを表しています。一見、見ずに信じる人の信仰を誉めているようにも聞こえるこの言葉、しかし裏を返せばこれは今のわたしたちへの、信じることができずに悩むわたしたちへの慰めの言葉でもあるのです。

それが記されている。疑うトマスにもイエス様は姿を現してくださった。お前が疑うからわたしは復活を示してあげないよ、ではなく、その疑うトマスにも表れて、「触っていいよ、

「見ないのに信じる人々は幸いだ」…これは逆に、見えないもの、見たことがないものを信じることがどんなに難しいことかを表します。ましてや、トマスは自分一人だけ、主イエスの復活に居合わせることができなかったのです。

このトマスはもともとかなり熱心な弟子であり、十字架前のイエスがエルサレム方面に赴かれる際には「俺たちもイエス様と行って、一緒に死のうじゃないか」(ヨハネ11章16節)と勇ましく他の弟子たちを鼓舞するようなところもある人でした。復活の主が最初に他の弟子たちに現れたときになぜトマスがそこに居なかったのか、その理由は記されていません。もしかするとトマスはその熱心さの分、主の十字架の衝撃、またその十字架の前から逃げ去った自分自身への後悔から、仲間に合流できずにいたのかもしれません。

するとその間に、自分以外の弟子たちに、復活の主が現れた。他の弟子たちは「俺たちは主を見たぞ」と喜び、盛り上がっている。「イエス様の手の釘跡とわき腹の傷を見、そこに触れてみなければ、わたしは決して信じない」…この言葉からは、トマスの懐疑と共に、信じる輪の中に入ることのできない哀しみ、周囲の喜びから自分だけが弾き出されたトマスの強い孤独も感じられます。

しかし、そこに再び現れた復活の主イエスは、他の弟子たちも共にいる中を、トマスただひとりに向かって語りかけられます。「手を伸ばして、あなたが言っていたとおり、私の釘跡、わき腹の傷に触れてみなさい」という主の言葉には、このときだけではなく、トマスが復活の主に出会う前、他の弟子たちから取り残されたように感じていたとき、しかしその彼の言葉が確かに主イエスに届いていたことを示します。トマス自身が誰からも見捨てられ、暗闇の中にいるように感じていたときですら、主は確かにトマスを心に留めてくださっていたのです。

遅れてきたトマスの復活体験は、そのできごとを聞く私たちを慰めてくれます。トマスのことを覚えておられた主は、あなたのことも確かに覚えていてくださる。そのことを、直接主を見ることができない世代に伝えるために、このできごとは福音書に書き残されました。復活が頭では分かっても、心が信じられないときがあります。また今もなお、恐れや不安が支配する場所があります。しかし、主は「すべてが終わった」と誰もが思ったあの十字架の死から、起き上がってくださいました。「戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち」…私たちの理性や常識、恐れや孤独、固く閉ざされた扉、それをものともせずに超えて来て、私たちと出会おうとしてくださる方が、確かに生きておられるのです。その方こそ「わたしの」主、どこまでも私たちを追い求め、心に留めてくださるお方です。

天と地がゆれうごいても

2017年4月16日(日)イースター<復活祭>礼拝要旨 マタイによる福音書28:1〜10
さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
イースター、おめでとうございます。何も特別なことがないイースター…しかしこの、特別ではない、いつもどおりの祝いがどれほど嬉しいか、私たちは経験したのではないでしょうか。

マタイ福音書によれば、イエス様の復活の第一声は「おはよう」でした。「カイレー」(喜べ)というギリシャ語ですが、聖書世界では日常的な挨拶として用いられていたと言います。あの十字架から復活されたにしては、拍子抜けする一言です。しかしこの「おはよう」と言う言葉がどんなにそう声をかけられた女性たちにとって嬉しかったことか。彼女たちは決してこのとき、イエスが復活していると思って墓に来たわけではありません。彼女たちは愛するイエス様の、せめてご遺体の様子だけでも見ようと墓に行ったのです。しかし、そこにあの復活が知らされ、そして彼女たちの前に現れたイエス様は「おはよう」という言葉をかけられました。「おはよう」「もう大丈夫だよ、あの夜は終わったよ」…この「おはよう」という挨拶は、わたしたちにも向けられています

今日の使徒言行録は少し不安な言葉も示されています。「前もって選ばれた証人」に復活の知らせが告げられた、と。選ばれた者という言葉に私たちは「選ばれない者もいるのか」と思うかもしれません。ここに集えない方々のことは?彼らは復活の恵みにあずかることができないのか?

これはイエス様の十二人の弟子たちのひとり、ペトロの演説です。ペトロは十二弟子のリーダーでした。彼は、自分はイエス様に特別に選ばれたと威張りたいのでしょうか。そうではありません。ペトロは一番弟子でありながら、イエス様の十字架の時、従いぬくことができなかった。しかし、その彼も含めた弟子たちに、イエス様は今日のこの女性たちにこう伝言されました。「兄弟たちに、ガリラヤで会おうと伝えといてくれ」…ペトロは自分のことを「選ばれた」と言いましたが、それはペトロの「自分たちは大事な先生を見捨ててしまった、にもかかわらずイエス様は復活して、俺たちのことを気にかけてくださった」…そしてあなたにも、その恵みがある。そのことを知ってほしい。ペトロはそう言いたかったのではないかと思うのです。

「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず、わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと主は言われる」(「イザヤ54:10」)私たちがひっくり返されるような経験をしても、しかし私はその中であなたから離れない、そう主は言われます。それは十字架と言う究極の死から立ち上がって、女性たちや弟子たちと出会ってくださったイエス様の中に確かに示されていることです。今、この春の雰囲気に乗り遅れていると感じておられる方々がおられる。しかしその方にも必ず復活が来る。そう信じて、祈り、伝えていきたいのです。

救いを見た人

2017年3月26日(日)四旬節第四主日礼拝要旨 ヨハネによる福音書9:13〜24
人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。 イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。 そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」 ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。 そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。 それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、 尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」 両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。 しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」 両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。 両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」
「あの人が罪びとであるかどうか、わたしにはわかりません。しかし確かなことは、見えなかったわたしが、今は見えるということです」。この個所は、「Amazing Grace」(教団讃美歌第二編で「我をも救いし」)讃美歌のワンフレーズになっています。作詞者のジョン・ニュートンは、神を知らずに過ごしていた過去の自分のことを指し「目が見えなかったが、今は見える」と言いました。

正直なところ、無理解、物が分かっていないことのたとえとして「盲目」ということばを使うことには、個人的には少し抵抗があります。それは目が見えない=何もわからない、とレッテルを貼ることに他ならないと考えるからです。事実、イエス様の時代は目が見えないことは無理解と結び付けられ、生まれつき目が見えないのはその人が罪深いからだとみなされていましたが、イエス様はそのような考え方に対し、「この人が目が見えないのは、この人や両親が罪を犯したからではない。そうではなく、神の業がこの人に現れるためである」と真っ向から反対されました(ヨハネ福音書9:3)。今日の福音書は、そのような言葉と共に、見えない目が開かれたこの盲人であった人が、周囲の人々に対して証をしていく場面です。目が見えないことにより、当時の社会の中で一人前の人間として扱われていなかったこの人が、ましてや神から見捨てられたとみなされていたこの人が、イエス様の御業を広めるという大切な神さまの働きを担う。ここで起こっていることは、彼の目が開かれたこと以上に、彼の存在が神様によって用いられるというとても大きな出来事です。

しかし、それを認められなかった人々がおりました。当時すでに、ユダヤ人たちの間では、イエスが神から来た人であると認めるかどうか、大きな議論になっていました。そしてその中の、どうしてもイエスを罪に定めたい人の前で、この見えなかった人の主張は退けられます。それはひとつには、彼がかつて目が見えなかったからです。目が見えないということは「全く罪の中に生まれた」(ヨハネ9:34)ことなのだから、という理由で彼らはこの盲人であった人の意見を受け入れないのです。このあと、イエス様が彼らに「実はあなたたちこそ本当に大切なものが見えていないんだ」と言われるところがあります。むしろ自分たちの正しさを守るために、イエスを罪びとと決め、この盲人であった人を見下す彼らこそが神の恵みに目を閉ざしている。それは私たちの中にもみられることではないかと思います。

神様や隣人に対して目を閉ざしていた自分に気づかされることは苦しいことです。しかし、そのときにこそ、わたしたちはその自分のすべてをあの十字架の上で背負ってくださった方のことを見上げたいのです。この目をあけられた人はいいます。「目の見えなかったわたしが、今は見える」ということ。どん底にいた自分にあの方が目を留めてくださり、引き上げてくださったということ。そして、その方を遣わしてくださった神様が、わたしを愛して下さっているということを、わたしは信じる。何もわかっていなかった私だけれども、その自分のために、あの十字架の上で死に、そして復活してくださった方がおられる。「あの人が罪びとであるかどうか、わたしにはわかりません。しかし確かなことは、見えなかったわたしが、今は見えるということです」。奴隷船の船長であったジョン・ニュートンは、「こんなどうしようもない自分をも神は救って下さった」というところに神の愛を見出し、その恵みを歌いました。私たちも同じ恵みにあずかっています。その恵みに希望をいただいて、歩みたいのです。

痛みが分かる救い主

2017年3月19日(日)四旬節第三主日礼拝要旨 ヨハネによる福音書4:5〜30
それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか 知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。 わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」 ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。 女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。 「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」 人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。
今日の福音書は、当時「サマリア地方」と呼ばれる場所での、ひとりの女性とイエス様との出会いについて記されています。イエス様がサマリア地方で、旅に疲れて井戸端に座り込んでおられた。私たちの救い主であるはずのイエス様が、疲れて座っておられる。それはとても不思議な姿です。そもそもイエス様がサマリアに来られたのも、ユダヤの人々に追われてサマリアに逃げ込んだのだ、とも解釈されています。ユダヤ人はサマリア地方を通らないので、イエス様がここにおられるのも不思議なのです。そのようにしてたどり着いた場所で、イエス様はひとりの女性と出会うのです。

   しかし、その彼女はイエス様にこう言います。「なぜユダヤ人のあなたが、サマリア人のわたしに水を飲ませてほしいと頼むのですか」これは別にイエス様に意地悪を言っているのではありません。ユダヤ人はもともと同一民族でありながら違う信仰形式を持つサマリア人を、異分子として軽蔑していました。ましてや彼女は女性です。当時の伝統の中で、男性から女性に話しかけることはあまりふさわしくないとされていた。だからこの彼女のニュアンスは「あなたたちは私たちと交際しないじゃないの、なのにあなたはサマリア人の、しかも女である私なんかに水を飲ませてくれとお頼みになるんですか。」というくらいのニュアンスです。つまり彼女は、イエス様を退けているわけではなく、自分の方が相手から退けられる存在だと思っているのです。

彼女の事情もありました。彼女はここで暑い昼日中に水を汲みに来ています。それは彼女が人目を避けていたからです。その事情はこの後にしるされています。彼女は何らかの事情で、ひとりの夫と連れ添うことができずに五回結婚し、しかし今は正式な結婚をしたわけではない男性と一緒に生活している。彼女のような女性がどのような偏見にさらされるか、私たちは想像できます。「もうここに汲みに来なくてもいいように、その水をください」…この言葉にも、もう誰にも会いたくないという彼女の抱える深い苦しみが現れています。

イエス様は「生きた水がほしければ、あなたの夫を呼んできなさい」と不思議なことを言われます。しかし彼女はそうすることができない。しかしイエス様はその彼女に、彼女の事情を暴くかのようにこう言われるのです。「五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたはありのままを言ったわけだ」これはイエス様が、彼女が隠していることを責めておられるわけではありません。彼女はうそを言っていない。しかし、すべてを明らかにも言いたくない。そこに彼女の心の痛みがあります。イエス様は彼女が言うより先に、すべてをわかっておられる。それはその痛みも含めてのことです。彼女の口にできない痛みも含めて、イエス様は彼女のすべてを受け入れられるのだということです。

 彼女はイエス様を預言者(神からのメッセージを預かって人々に告げる人)だと言います。さらに最後には彼女はイエスをメシア、つまり神から来た救い主かもしれないと人々に言います。その方は喉も渇くし、疲れて座り込まれます。ついには十字架の上で想像を絶する苦しみを受けて、死に渡されます。しかしだからこそその方は、わたしたちの痛みを知り、私たちを潤すことがお出来になる。すべての痛みを受け入れることがお出来になる。男性と女性、ユダヤ人とサマリア人、彼女が受けた偏見、彼女の中の壁。そのようなものをすべて飛び越えて、イエス様は彼女の存在を、そしてわたしたちの存在を受け入れてくださるのです。。それはとりもなおさず、神さまが彼女の存在を受け入れておられるということです。それこそがイエス様が与えてくださる生きた水、わたしたちを生かし、潤してくれる泉です。

ついておいで、と招く声

2017年1月29日(日)顕現節第四主日礼拝要旨 マタイによる福音書4:18〜22
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 二人はすぐに網を捨てて従った。 そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。 この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
今日の福音書の日課で、イエス様が、その宣教を始められるにあたって、四人の漁師たちを弟子として選ばれました。イエス様は、ご自分一人で宣教を始められたのではありません。まずその宣教の始まりに、これから始まるイエス様の旅の仲間を選ばれたのです。そしてわたしたちクリスチャンもまた、この教会に集められたのは、自分が神の恵みにあずかるとともに、わたしたちもまた「人間をとる漁師になる」…つまり、イエス様の宣教の働きに参与するため、イエス様の宣教の旅の仲間になるためでもあります。

今日の福音書において、イエス様は「ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になっ」て、彼らに声をかけられた。当時の弟子とり、というのは基本的には弟子の方から先生を選び、申し出るものでした。もちろん先生の方にはその弟子を見定め、断ることもできました。しかしここでは逆のことが起こっている。

一見、適当にも見える選び方です。イエス様はこの後もご自分から声をかけ、仲間を増やしていかれますが、そのイエス様の弟子たちは実にバラエティに富んでいました。漁師、徴税人…そして、その後、イエス様を裏切ることになる人まで。この最初に選ばれた四人も、完璧な人間ではありませんでした。聖書の中にはこの四人の、あまりほめられたものではないエピソードも、数多く出てきます。その最たるものは、イエス様が十字架につけられるとき、それを見捨てて逃げてしまったことではないかと思います。

イエス様が最初に弟子を吟味するべきだった、イエス様の言葉をよく理解し信頼し、最後までイエス様について行くことができる弟子を見極めるべきであった。そう言われたこともあります。しかし、もしイエス様が最初に選ばれたのが彼らでなかったならば、イエス様の弟子がいわゆる信仰熱心な「優等生」ばかりであったならば、キリスト教は、今とはまったく性格の違うものになってしまっていたのではないかと思います。

ペトロとアンデレはここで「すぐに網を捨てて従った」と記されています。そしてここではペトロの側の理由も記されていない。すぐについていけるペトロは凄い、自分ならすぐにはついて行けない、としり込みをしてしまうかもしれません。しかし、この「すぐに従った」は「すぐについていっていいんだよ」とも聞こえます。準備も学びもなく、合格点もなく。ただ、イエスさまがこんな自分に声をかけてくださったんだから、そのままの自分でイエス様について行っていいんだ、そのように聞こえます。私たちも、そのイエス様の御声に招かれています。イエス様に従うということは、自分がイエス様にふさわしい人間になろうとすることから始まるのではなく、イエス様が「ついておいで」とおっしゃった、その招きに応えることから始まるのです。

天のとびらが開くとき

2017年1月15日(日)主の洗礼日礼拝要旨 マタイによる福音書3:13〜17
そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
降誕節(クリスマス)が終わって、顕現節が始まりました。顕現、とは「はっきり目に見える形で現れる」特にここでは「目に見える形で神さまが私たちの前に現れる」という意味です。今日の使徒言行録の日課の中で、イエス様は多くの特別な働きをなさった、「それは神がご一緒だったからです」とありました。イエス様がなさったことを記念して、そしてそれが神様の業だったんだ、ということを確認する。それがこれから始まる顕現節にわたしたちが学ぶことです。

クリスマスに私たちは、イエス様が特別なお生まれであったことを知りました。イエス様は特別な存在であることを知りました。今日の福音書の中でも、洗礼者ヨハネは最初、イエス様が洗礼を受けに来た時に「そんなことは畏れ多い」とそれを断ろうとしたほどでした。しかし聖書が伝えたいのは、イエス様が偉い、特別な存在だ、ただそれだけなのでしょうか。

イエス様は、ただの人間であるヨハネから洗礼を受けます。そのことをイエス様は「正しいことだ」と言われます。「イエスが洗礼を受ける」というのは、一見順番は逆に見えますが、「神さまから見て正しいこと」でした。イエス様はここで、他の人々と共にヨハネのところに並ばれました。ヨハネから洗礼を受けて、自分の罪や弱さから解き放たれたいと、そう願う人たちと一緒にイエス様は並んでおられます。このときヨハネのところに洗礼を受けに来ていたのは、自分の罪とか弱さに苦しんでいる人たちです。そこにイエスさまが並んで、その人たちと同じく洗礼を受ける。これが神様から見た正しいことでした。

そしてそのイエス様の洗礼のときに、イエス様に向かって「天が開いて」神の霊が降ってきた、とあります。イエスさまの洗礼によって、地上に向かって神の恵みが開いた。わたしたちはどうやっても、地上を生きています。わたしたちは今なお、弱さを抱えたまま、それぞれの現実の中を生きています。しかし、そのわたしたちに向かって天の方が開いた、というのです。それがイエス様が私たちと同じように洗礼を受けられた意味なのです。顕現とは「神の力」が現れた、というだけではなく「神の愛」が現れたことを記念する季節なのです。

この顕現節、わたしたちはイエス様の働きが、神さまの働きだったことを記念します。それは単にイエス様の偉さやすごさを記念するだけではない。イエス様のその輝きが神様の「わたしたちのための」働きだったことを記念するのです。イエス様はわたしたちの間で素晴らしいことをなさいました。それは、地上に生きるわたしたちに、天の扉が開かれるため、それくらい私たちのことを神様が愛して下さっているということを示すためだった、そのことを今日私たちも喜びたいのです。

新しい道を行く

2017年1月8日(日)顕現主日説教要旨 マタイによる福音書2:1〜12
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。 則として改行しない。
今日は顕現主日(公現主日)という日曜日です。この日は西方教会においては、東方の博士の到着、そして彼らがイエスを礼拝したことを記念する日となっており、この礼拝をもってわたしたちはクリスマスの一連のお祝いを終えることになります。しかしそれですべてがおしまいになるわけではなく、私たちはクリスマスの喜びをもって、新しい季節へと出ていくのです。

キリストが生まれ、それが知らされ、羊飼いや東の国の学者たちがその恵みの知らせを受けてイエス様のもとにたどり着き、イエス様を礼拝した。そこには本当の主と出会い、受け入れた人々の喜びがあります。しかしわたしは何度この個所を読んでも、イエス誕生の知らせを「不安に思った」ヘロデに注意が向きます。それは、ヘロデという人が実は自分の小ささや無力さにおびえている王さまであったからです。ヘロデは実は歴史的にはかなり有益な事業を行った王でした。何よりも当時の人々のよりどころであった神殿を再建しました。しかし彼の中には絶えず不安があった。自分はユダヤの正当な血筋ではない、自分はこの国の王としてふさわしくない存在だ、と。立派な王になろうと努めるヘロデと、自分の立場を脅かすものを暴力で排除するヘロデ、これは決して異なるものではなく、彼自身の心の中にあった重荷から来たものであると考えられます。

東の国の博士たちがまず初めにヘロデのところに行った、というのも象徴的です。それはもしかすると、人間が目に見える力や強さを求めることの象徴かもしれません。ヘロデがそうだったように、人を退けて自分が大きくなる世界。自分にとって邪魔なもの、脅かすものを排除して、自分を守ろうとする私たち。博士たちも最初はそこに行きました。

しかし、彼らに星の導きがありました。上からの、神からの光が彼らを照らし、ヘロデのところから、小さな一軒の家へと導きだしました。それは小さな存在を優しく照らす光です。東の国というのは、旧約聖書においては神から遠い国、追放された人々が住む土地でした(アベルを殺したカインが追放されたのはエデンの「東」でした)。しかし、そこに住む人々に星による導きが示され、そこからやってきた人々が、救い主を礼拝する恵みにあずかるのです。

  「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。」(イザヤ60章)暗闇であるわたしたちの中に、神の恵みがやってきた。だからこそ私たちは自分の閉ざされた宝の箱を開けて、イエス様に自分自身をささげます。博士たちはヘロデの道に戻らず、「別の道を通って」国に帰って行きました。私たちも、もう自分の中のヘロデに戻らなくてもいいのです。2017年、新しい生き方を選び取っていくものでありたいと思います。


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